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2015年6月30日 (火)

『縁の切り方』というネガティブな言い方よりは「幸せの感じ方」のほうがいいんじゃね?

「ウェブはバカと暇人のもの」などで「ネット上等」の人たちに悪罵を繰り返している中川淳一郎氏に、過去、こんなにも壮絶な恋人との別れがあったとは知らなかった。

 まあ、その辺にも現在の中川氏を形成する何かがあったのかも知れない。

 その辺は本稿のポイントではないので、皆さん気になる人は本書を読んでください。本稿では触れません。

Photo 『縁の切り方』(中川淳一郎著/小学館eBooks/2014年12月19日)

 基本的な論点は以下の通り。

『インターネットがあるお陰で多種多様な人々と交流できる、という定説は誤りだ。結局、自らフォローする相手を選べ、検索で自分の心地良いものばかり探すことが可能なネットは、同じような考えを持つ人との接点を結局は作るもの。所詮「多種多様な人々の交流で新しい価値観が生まれる」なんてものはあり得ない』

『原理として、インターネットは誰にでも話しかけることは可能だ。だが、実際に話しかけたり、その後もやり取りを続けるのは、同じような趣味嗜好を持ち、同じような仕事をしている人に結局は帰結する』

『ネットの初期の頃は、コミュニケーションをいかにして取るかということを考えていたが、ツイッターなども出てきてから、あくまでもブログは自己表現の場であり、アフィリエイト等の収入を得る場所であると考えるようになる。そして不快な人間はブロックできるツイッターや、知り合い限定が基本のフェイスブックにコミュニケーションの場所は移していく流れになった』

『私は普段からネットの意見はロクなものはない、と悟りきっているし、「行動する保守」の方々からは常に叩かれ続けている。あとは何者かは分からないが、定期的に2ちゃんねるに私の悪口を書く者もいる。それも驚くほど詳しい。実際の知り合いだろう。そこで彼らと分かり合おうとも思わないし、所詮人間は分かり合える存在でもないことを認め、ネットの意見についてはいかにスルーするか、という程度の気持ちで付き合い、時々好意的な人がいたらその人とは仲良くする、という程度の期待値でいいのである』

『ネット上であれば、ブログのコメント欄は廃止。ツイッターでネチネチと異論を寄せてくるユーザーはブロック。これでいいのだ。一般の生活であれば、君子危うきに近寄らずを徹底する』

 まあ、これまで中川氏がいろいろな書籍で書いてきた通りのことであり、特別目新しいものではない。

 これまで私も書いてきたように、インターネットの発達のおかげで誰でも情報発信ができるようになり、誰でも自己表現がネット上でできるようになった。これ自体は素晴らしいことである。これまで一部のマスコミ関係者やら、ミニコミ製作者しかできなかった情報発信が「誰でも」「気楽に」できるようになったんだから。ただし、こうして「誰でも、気楽に」情報発信ができるということは、その情報発信自体が玉石混淆になるということであり、ロクに文章の書き方の道理とか、マスに自分の考え方を公表する際の基本的なルールを知らない者までが、それこそ、これが「自己表現だ」という勝手な自分ルールだけで自分の考え方をネット上で公表している訳であるが、じゃあ、その時、その自分の考え方を公表している自分をネット上でさらけ出しているかといえば、全然そうじゃないんだなあ。

 いろいろな人のブログを読んでいる私だが、たいていブログを読むとその「プロフィール」欄を見る。そこで、プロフィールで自分の本名とか、自分の人物を特定できる項目が入っている人はほとんどいない。他人を批判するような記事を書いている場合でもである。でも、これって言論の世界で言ってしまうとルール違反なんだよなあ。別に「自分の言いたいことを言う(書く)」ってことには、何の枠組みもいらない。誰かを褒めたり讃えたりすることにも、別に勝手に書けばよろしい。しかし、人を批判したり、非難したりというようなことを書くときには、それなりのルールがある筈なんだ。つまり、批判に対する反批判が出来るように、書いた人物を特定できるようにする、というルールだ。当たり前でしょう。批判には反批判が出るのは当然であり、その時に批判者が誰であるかを明確にしておくのがマスコミのルールだ。でなかったら、それこそ闇夜に突然後ろから襲い掛かって袈裟がけにして切るようなものだ。

 基本的に、ネットであってもこうした意見表明に関してはマスコミと同じルールが適用されなければいけないのではないか。でないと、結局は「言いっぱなし」という一番いけない結論になってしまう。そこには民主主義はない。

 2011.3.11の話。

『少なくとも東京では避難所生活を強いられることもなければ、仮設住宅に入るということもなかった。あったとしてもすぐに元の生活に戻れた。ぬくぬくと暖かい部屋の中でツイッターを見ては【拡散希望】とヒューマニズムに溢れたことをお手軽に書いて、復興に協力していると考えている者も多数いた。そんな時に氾濫したのが「つながり」「一人じゃないんだよ」そして「絆」という言葉だ』

『2011年の流行語ともいえる「絆」だが、果たして日本全国が共感した言葉になり得たのか。被災地の人々にとっては、自分の生活を少しでも改善させることと、前述のたけし氏の言葉通り、家族の死という悲しみをいかに乗り越えるかを考える余裕しかない』

 まあ、「絆」なんて浮ついた言葉は、震災とは何の関係もない清水寺の坊主が勝手にほざいて書いた言葉だからどうでもよいが、それをあたかも自分に関係あるような気分になって、安全地帯からネットでほざいたような奴は、現在、安保法制反対を唱えて週末デモをやっている人たちと同じような、なんか低いレベルでもって政治や制度、法制などを考えている人たちと同じようで、なんか気持ち悪い。

 まあ、違憲法の集団安全保障法に関しては別に書くとして、結局「絆」とかなんとか言っても、被災地現場の人たちにとっては、自分の家族や親戚がどうなったのかが大事であって、被災者同士の助け合いというのが大事だとはわかってはいても、それは二番目の問題なんだよな。

『フェイスブックで「いいね!」がたくさんつくのが幸せなのか?
多くの友人と毎週末BBQやハロウィンのパーティーをやっている状態が幸せなのか? 
反日勢力を倒すべく、毎週末街頭に繰り出して「日韓国交断絶!」とシュプレヒコールをあげるのが幸せなのか?』

 と中川氏が書くように、多分のそんな形でしか幸せを感じられない人たちは、やっぱり「幸せ」じゃないんだろうなあ。

「闇夜に人を斬る」なんてのは、幸せな人がやることじゃない。

『縁の切り方』(中川淳一郎著/小学館eBooks/2014年12月19日)紙版は小学館新書

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