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2015年4月 4日 (土)

港区・二本榎通り⑤松光寺の「タタリ仏」

 二本榎通りを更に西へ向かって歩いて、高輪消防署二本榎出張所のそばまで来ると、右側に松光寺というお寺の前に行きつきます。

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 実は、二本榎通りが旧東海道(鎌倉往還)だったというのは、このお寺の境内掲示を見て知ったんだが、それ以上にショッキングな掲示がある。

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 お寺は元々、関ヶ原の戦いの頃に頂本寺という名前で創建されたのだが、江戸時代になって、元禄元年、松平日向守信之の正妻・松光院にちなんで「松光寺」と名前を変えたそうだ。

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 で、その松光院殿の墓や……六地蔵なんかがあるのだが。

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 このやさしそうなお地蔵さまの名前が「タタリ仏」というのだそうだ。

Dsc_00352

 境内掲示にはこんな江戸の古地図なんかもあって、昔の三田、高輪の高台と海の関係がよくわかる。やっぱり、今の品川駅なんかは江戸時代は海だったんだな。

Dsc_00312

 で、肝心の境内掲示なんだが

『松光寺は元々頂本寺といわれ、永享六年(西暦一五六三年)有名な桶狭間の戦の翌年、芝西久保巴町(今の虎の門)の地に開基されました。未だ江戸幕府の入部前で当時日比谷あたりは江戸湾でしたから浜辺の小祠堂だっったかもしれません。その後慶安年間四代将軍家綱の時代に現在地高輪に移転してきました。松光寺前の通りは、江戸幕府入部前の旧東海道(鎌倉往還)で由緒のある通りです。
 その後上山(かみのやま、蔵王の麓)松平家の江戸の菩提寺となり、四代忠国公正室松光院の墓の建立を契機に今の松光寺に寺名を更めました。その後薩摩藩の帰依も受け、一時は寺侍三十人を抱える程繁栄したと伝えられ、明治初年の我国初の鉄道建設に当っては英国人技師の宿舎になり、我国の鉄道建設史にその名を残しています。然し幕末の大名家の没落、廃仏毀釈などの時勢のため徐々に寺運衰微の止むなきに至ってしまいましたが、近時寺門興隆のため力を尽くして努力をしております。
 敷地内には名前の由来となった巨大な(高さ四・八メートル)松光院の墓、貞享院の墓、触れるとたたるとされるタタリ仏、六地蔵などの貴重な歴史的遺産が保存されています』

 とあって、松光寺の由来はわかるのだが、「タタリ仏」については「触るとたたる」というだけで、なぜそうなってしまったのかが分からない。

Dsc_00292

 う~ん、「仏」と「祟り」の関係ってどうなんだろう。何か、慈悲深い仏様に触るとなんで祟るのかが分からない。

NIKON D7000 AF-S NIKKOR 18-105mm @1 Tkanawa, Minato (c)tsunoken

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