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2015年4月

2015年4月30日 (木)

『冬の子どもたち』を読む。可愛いね

『旅するフォトグラファー』のMIKA POSAさんの最初の写真集がこれだ。

 ということで、思わずポチしちゃったのだが……。

Photo 『冬の子どもたち』(MIKA POSA著/ブルース・インターアクションズ/2002年12月刊)

『旅するフォトグラファー』に収録されている写真のいくつかは、この本にも収録されている写真なんだということがわかる。

 まあ、MIKA POSAさんの原点とでもいうべき写真集なんだなあ。

Dscf65832(c)MIKA POSA

 その殆どは、公園などで遊ぶ子どもたちの写真。『冬の~』という通り、皆厚着だ。

Dscf65842(c)MIKA POSA

 皆、無邪気に遊んでいる。

Dscf65852(c)MIKA POSA

 がしかし、写真に撮られていることは意識しているので、多少は気取っているところもないではない。

Dscf65862(c)MIKA POSA

 しかし、「子どもが可愛い」というのは大人の見方で、大人の眼から見て子どもが可愛く見えるというのは、子どもの自己保護本能なのだという。

 まあ、確かにこんな子どもたちを見て、攻撃的になることはないもんなあ。

 中にはそんな人もいるようだが、それこそ「信ジラレナイ!」

『冬の子どもたち』(MIKA POSA著/ブルース・インターアクションズ/2002年12月刊)多分、既に本屋さんでは手に入らないと思うが、アマゾンのマーケットプレイッスで購入可。

2015年4月29日 (水)

『お腹を凹ませたい? だったら腹筋運動なんてやめちまえ!』

『お腹を凹ませたい? だったら腹筋運動なんてやめちまえ!』というテーマ設定は、暴論のように見えて、実は全然暴論ではないのであります。

 だって、「お腹を凹ませたい」ということと、「腹筋を六つに分けて人に見せたい」というのは、実は全然別の欲求だってことぐらいは私たちだって知っているのだ。

Photo 『お腹を凹ませたい? だったら腹筋運動なんてやめちまえ!』(森拓郎著/インプレスコミュニケーションズ/2013年4月13日刊)

「お腹を凹ませる」というのは単純に「痩せたい」という欲求に基づくものだし、「腹筋運動をやる」ってのは「筋力を増やして、それを人に見せびらかしたい」ってことでしょう。それを混同しちゃっている人が多いってことを森拓郎氏は言いたいだけのことなのだ。

 なので、単純に「お腹を凹ませたい」という人には、それは「腹筋を鍛える」んじゃなくて、別の方法があるんだってことを言いたいのが本書の主旨。

 で、単純に「お腹を凹ませたい」人向けには、下記のような「痩せる呼吸法」というものがある、ということを図示しています。

Photo_2

痩せる呼吸法①イスなどに浅く腰掛け、お尻から頭までの後ろのラインが直線になるように、背すじを伸ばします。

Photo_3

痩せる呼吸法②腕を身体の前で組み、手の平で肋骨に触れます。鼻から息を吸ってみて、肋骨が拡がるのを感じます。

Photo_4

痩せる呼吸法③口からゆっくり息を吐いていき、同時に肋骨が閉じるのを感じます。

Photo_5

痩せる呼吸法④もう一度鼻から息をします。胸に空気を吸い込むためにお腹を引き上げて、さらに肋骨が拡がるのを感じます。

Photo_6

痩せる呼吸法⑤胸の位置を高くして、お腹を引き上げたまま肋骨を閉じるように強く長く吐きます。
④と⑤を5回ほど繰り返します。

Photo_7

痩せる呼吸法⑥肋骨の開閉を感じたら、手をお臍の下にあてて、さっきと同じ呼吸を行い、息を吸う前にもお腹を引き上げて凹ませます。

Photo_8

痩せる呼吸法⑦吐くときにさらにお腹に圧をかけるとうに凹ませます。できる人は、息を吐く時に尿を止めるように骨盤の下から圧をかけると、お臍のしたがさらに凹みます。
⑤と⑦を5~10回繰り返します。

 ってなことで、あとは痩せるためには単純な話「消費カロリー>摂取カロリー」ということを心がけて、運動(有酸素運動)を沢山すること、ということですね。

 で、いい感じで痩せてきたら、腹筋でも背筋でもいいから鍛えて、外から見えるような「筋骨隆々」な体を作ればいい。

 んで、それを誰に見せるの? カミさんなんか、貴方のブヨブヨした体つきを見慣れちゃっていて、今更筋骨隆々になったからって惚れ直すなんてこともないだろうし(というか、その前にもう寝ちゃっているしね)、それで新しい彼女が出来たとしても、その彼女に尽くすだけの「精力」はもうないでしょ。毎朝、「朝勃ち」する訳でもないのにさ……。

 男って、本当にバカですね。いつまで経っても自分がモテると思っているんだから。

『お腹を凹ませたい? だったら腹筋運動なんてやめちまえ!』(森拓郎著/インプレスコミュニケーションズ/2013年4月13日刊)

2015年4月28日 (火)

『あと20年でなくなる50の仕事』って言っても、まあそれは当然ではあるな

 さて、温泉旅行からも帰ってきたことだし、本来のブログに戻ろう。

 とは言っても、本来私のブログが当初目指したところは「本>映画>写真」だったんだが、最近は「写真≧本>映画」という順列になってしまっている。これは以前、サラリーマンをしていた時は、通勤と打ち合わせ、取材などで電車に乗っている時間が多かったので、その時間で本を読める。それにプラス夜の時間などで一日一冊というペースで本を読めたのですが、今は有り余る時間のおかげで、却って本を読む時間が減っているなあ、という感じ? まあ、それこそ「小人閑居にして不善を成す」の例え話のまんまなのだが……、いやいや、また今日から張り切って「本ブログ」を始めよう、始めよう。

 ということで……。

『あと20年でなくなる50の仕事』っていうのは、現在の産業社会の中でのIT化、AI化では当然のことなんだけれども、絶対に無くならない永遠の仕事っていうのがあるんだよなあ。

 つまりそんな産業社会から外れたところで生きている生活である。要は、農業や牧畜業などの人の「生」に関わる仕事。ただし、コチラも法人化などの「産業化」へ向けての変化はおおいにある。

 グーテンベルクの印刷革命や産業革命以降に発生した様々な産業・職業は、それゆえにいずれは廃ることになる産業・職業なんだけれども、それ以前からある農業や牧畜業というのは、人が人でいる限りは絶対に廃らない仕事なんだ。ただし、その「産業」のあり方、「仕事」のあり方は時代によって変わっていくものではあるけれども。

2050 『あと20年でなくなる50の仕事』(水野操著/青春新書INTELLIGENCE/2015年4月15日刊)

『一般的に、ある分野の職業が発達し、その仕事に携わる人が増えてくると、その職業の中身が細分化されてくる。それは、社会的な意味でもそうだし、一つの企業内でもそうだ。たとえば、創立されて間もないベンチャー企業にあなたがマーケティング担当者として就職したとしよう。おそらく、その企業では社長以下、営業担当者をはじめとした各部門の担当が一人か二人いる程度だろう。その会社が順調に業績を伸ばせばあなたはマネージャーにおさまり、それ以外の担当者はたとえばPR担当、リードジェネレーション担当、イベント担当などの職種に細分化されていく。
 これは会社内にとどまらない。コンピューター関係のエンジニアについて考えてみよう。コンピューターが生まれた当初、コンピューター関連の職業は非常に限られていた。せいぜいハードウェアの設計者と、その上で動かすプログラムを作成する技術者くらいだ。コンピューターの能力も限られていたし、基本的に大型汎用コンピューターが単独で動いていた。やれることが限られていたので、それに関係する職業の分野も限られていた、というのが正確なところだろう』

『19~20世紀の工業化時代、急速に増えたのが工場をはじめとする第二次産業に従事する人たちだった。20世紀型の工業従事者のほとんどは、工場における労働者であると考えてよい。戦後の高度成長期、農業従事者が急速に減少し、代わりに都市部で製造業につく人が増えた。彼らのほとんどが工場労働者となったのだ』

『ただ、工場の労働者が使用する道具は明らかにハイテク化している。かつで工場労働者の多くは手動の道具を使いこなす職人だったが、今や高性能な機会に入力する「オペレーター」になりつつあるのだ』

 まあ、それがオフィスワーカーにも至って、ITならぬAIを使いこなすか、使われるのかという違いが生まれてきている、って言うだけのこと。

『グーテンベルクが印刷機を発明するというエポックメイキングな出来事はあったが、それが事務仕事のやり方を大きく変えたということはなかった。ところが、今はコンピューターがそれらの知的仕事をこなしてしまう可能性が出てきた。AIより上のもの、AIより下のものと区分され、下のものはAIに置き換えれてしまう人が出てくることが予想される』

 つまり「IT時代」までは「人の仕事のサポート」をするコンピュータだったのが、今や「AI時代」、さらに「クラウドコンピューティング」の時代になってしまって、これまで「人の勘」でやっていた仕事が、「コンピュータのデータ」で証明されてしまう時代になってしまって、これからは、基本「人がいらない」時代になってしまうということなんですね。

 本書はそれを「機械とバトルロワイヤル」「ロボットはアシスタント」「新ホワイトカラー」「職人的世界」という四段階で説明する。

「機械とバトルロワイヤル」の段階では『このドメインに入る職種は、工場であれば現場の作業者、事務職などでは非マネージャー職で、組織の上位などの指示で定型的な仕事をこなす人たちが入る』ということになるのだが、基本的にはこの「定型的な仕事」という部分が完璧にコンピュータに取られてしまう仕事なのであります。まさしく「AI以前」の段階で「ITだけ」の部分ですね。もうこれはどうしようもない。だって、要は「人件費」だけの問題なんだから、それは経営者としては費用の低い方法を考えて、低い方を選ぶとなれば、それは「機械が働けばいい」ということになるんでしょうね。

 実に、今や民間航空機のパイロット(機長)なんて、飛行機を操縦するのは離着陸の時だけで、基本大空を飛行している最中は、機がちゃんと自分が入力した通りに飛行しているのかどうかを監視する役割しかないもんね。

 二番目の「ロボットはアシスタント」という段階になっても、そうそうラクはできないのであります。つまり「ロボット=AI」を如何に自分のアシスタントとして使いこなすかということが重要。翻訳者、エンジニア、歯科技工士、コールセンター・オペレーター、金型技術者、成形技術者、法律家。う~ん法律家までもそうなっちゃうんだ。

 三番目の「新ホワイトカラー」なんだけれども、この辺からちょっと微妙になってくるんだなあ。高級レストランや旅館などの接客業、高付加価値品の営業担当者、建築士、警察・消防、教育者、記者・編集者、医師・薬剤師・医療関係者、農林水産業、地方公務員、マーケティング担当者、人事・人材コーディネーター、理容師・美容師、科学者・研究者、経営者、アントレプレナー、伝統工芸、ミュージシャン、スポーツ関連なんてのが入っているんだが、そうかなあ、記者や編集者でも使えない奴はいっぱいいるし、地方公務員なんて最早いなくてもいいような存在ではないかなあ。まあ、伝統工芸とかミュージシャン、スポーツ関連なんていうクリエイター関連、アーチスト関連は問題はないでしょうけれどもね。

 まあ、『結局「作業しかしない人」の仕事はなくなる』というのも事実だし、『仕事をつくる人だけが生き残る』というのも事実だろう。それは会社の従業員であっても、仕事をつくる人になることは十分あることだし、仕事をつくる人にならなければ作業しかしない人にもなり得るということなんだ。

 要は、会社の従業員であるかどうか、起業をする人になるかどうかは関係なく、「仕事をつくる人」にならない限りは、21世紀を生き延びることはできないってことなんだな。

『あと20年でなくなる50の仕事』(水野操著/青春新書INTELLIGENCE/2015年4月15日刊)なんかなあ、こういう本こそ電子化しなけりゃいけないのに、青春出版社って遅れているんだ。まさしく「あと20年でなくなる50の出版社」のひとつになっちゃうんじゃないの?

2015年4月27日 (月)

越後松之山温泉行・考

 ということで、学生時代の悪友旅のご報告おば。

 この4人、左からノンポリのY川氏、元Kマル派活動家にして温泉マニアのH坂氏、元某レコード会社の労働組合委員長のN村氏、そして元アホバカ左翼のtsunokeという、なんだか全然イメージの繋がりもない4人なのだが、何故か学生時代からウマが合い、未だに付き合っているという状態。

Dsc_00022

 で、いつものH坂氏のコーディネイトでもって行った温泉は、越後松之山温泉。

 あの「バリバリ伝説」「イニシャルD」の作者、しげの秀一氏の故郷であります。

 しかし、しげのさんて凄い山の中で育ったんだなあ。ほくほく線の松代駅、飯山線の津南駅からちょうど真ん中に位置する松之山温泉なのだが、両駅からも峠ひとつをこなさなければいけない「秘湯」なのだ。

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 温泉街ったって、たいしたことはなくて旅館が数軒あるだけだし、温泉街名物だって、この不動の滝くらいのもの。

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 もともと、約700年前に鷹が温泉で傷を癒していたところを発見された、という伝説がある温泉街で、松之山温泉の源泉は「鷹の湯」と呼ばれているそうな。

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 泉質はかなりしょっぱい温泉で、約1000万年前の化石海水が、地圧によって湧出してくる「ジオプレッシャー型温泉」であるという。そうか、1000万年前は、この山深い松之山も海の底だったんだ。

 群馬県の草津温泉、兵庫県の有馬温泉とともに「日本三大薬湯」と呼ばれているそうだ。

 泊まった旅館は、「日本秘湯を守る会」会員、国登録有形文化財の木造三階建ての「凌雲閣」という旅館。

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 高松宮殿下がスキーを楽しむために泊まった旅館だそうだ。

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 で、我々が泊まった部屋がその高松宮殿下宿泊の部屋なのでした。

 皇族が宿泊した部屋と同じ部屋に泊まった経験は初めて。K談社名古屋支社時代に社員旅行で行った和倉の加賀屋では、天皇ご宿泊の部屋は外から見るだけで、入れなかったし、泊まることもできなかったなあ。

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 この天井の造りを見てくださいな。

 なんでも、宮大工が作ったそうだ。

 う~ん、贅沢!

NIKON Df + Ai AF Zoom Nikkor 24-85mm/F2.8-40D IF @Matsunoyama Spa Niigata (c)tsunoken

2015年4月26日 (日)

小石川後楽園・考

 ということで、今日も悪友旅の真っ最中で、今晩東京に帰ってきますので、昨日に引き続き、軽めの話題で……。

 いつも駒込六義園のことばかり書いているので、たまには気分を変えて、先日期日前投票で文京シビックセンターへ行ってきたので、そこに隣接する小石川後楽園のことを書きます。

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 小石川後楽園はご存知の通り、水戸徳川家の上屋敷と庭園跡であります。

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 敷地面積は7万平米と六義園とは大して変わらないのだし、同じ築山泉水回遊式の日本庭園という同じ形式の庭園なんだが、なんとなく六義園よりスケールが大きく感じるのは何故だろう。やっぱり大名と御三家の違いかな。

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 六義園と同じく「渡月橋」があるのがご愛嬌。皆、京都の渡月橋が好きだったんだろうか。

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 渡月橋が架かっているのが「大堰川」。京都では渡月橋を挟んで上流が大堰川で下流が桂川。

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 で、その大堰川の源流がこの神田上水からの取水口なわけであります。後楽園は神田上水、六義園は千川上水を取り入れている訳ですね。

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 で、多分そのスケール感の違いになっているのが、この西湖の堤や……

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 円月橋などの存在に関わるものなのだろう。

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 つまり、水戸徳川家の徳川光圀(水戸黄門様ですね)が明から呼んだ儒学者・朱舜水の存在なのだ。

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 朱舜水は儒学者として水戸学の発祥に大きな存在となったのでが、同時にこの後楽園の建設にも大いに関係していたらしい。

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 多分、純粋日本式庭園だった六義園と、中国の考え方を取り入れた後楽園の違い、というものがそこにはあるんだろう。

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 神田上水跡なんてのが後楽園内にはある。

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 まあ、いずれにせよ、「散歩好きにはたまらない」文京区なのでありました。

Dsc_00722

NIKON Df + AF Nikkor 24-50mm/F3.3-4.5 @Korakuen Bunkyo (c)tsunoken

2015年4月25日 (土)

『旅するフォトグラファー』の切っ掛けは、山一証券だったんだ

 Facebookにも書いたように、今日明日と新潟県へ学生時代の悪友と温泉旅行に行っています。なので、ブログは軽めに……。

 MIKA POSAさんがフォトグラファーになったきっかけは、勤めていた会社がつぶれちゃったから、なのだそうだ。

Photo_2 『旅するフォトグラファー』(MIKA POSA(ミカ ポサ)著/同友館/2009年5月29日刊)

『私は、写真やアートとは全く関係のない一般企業で働いていました。
 そこで、毎日を淡々と過ごしていたのですが、ある朝、いつものように満員電車に揺られて出社してみると、勤務先が破綻していました。
 たしかに、しばらく前から社内に不穏な空気た漂っていましたが、まさか従業員一万人規模の大手金融機関が、一夜にしてあっけなく破綻するなんて思ってもみませんでした』

 って、MIKA POSAさんが勤務していた金融機関って、山一證券だったのか。

『「写真の仕事ができるチャレンジしてみて、見込みがなかったら一般企業の再就職先を探そう」
 こう思ったのは、ちょうどその頃パリ旅行で撮ったスナップ写真を、写真学校に通っていた友達やギャラリーに勤めていた知り合いにほめられていたからでした。
「写真に関わっている人がほめてくれるなら、クリエイティヴなことが向いているのかもしれないし、ダメならダメで一般企業に戻ればいいだけのことだから」
 お世辞かもしれない友人の言葉を真に受け、かなり気楽な気持ちでその後の人生を決めてしまうとは、なんとも浅はかな考えと思われるかもしれませんね。でも優柔不断でなかなか新しいことに踏み出せなかった私にとって、この予期せぬ破綻と友人の言葉は、新しいことにチャレンジするまたとないキッカケになりました。もっとも、いつも慎重で、石橋を叩いて壊してしまうような私が、風に乗るようにフワリと進路を決められたのは、「突然の破綻」という状況に翻弄され、自分で思っていた以上に常軌を逸していたからかもしれません』

 って書くわけだけれども、モノクロフィルムで撮影して、フィルム現像、プリントともに自分でやっていたというのだから、かなり本格的な写真マニアではあったのだろう。それが会社の破綻という予期せぬ出来事にぶつかって、一辺に弾けちゃったんだなあ。

 で、多分その初期の頃に撮った写真が多分この「第1章 すべてのピンチは、チャンスになる」の扉で使われている写真。

Photo

『冬のこどもたち』の表紙に使われている写真なんだが、「第2章 仕事を軌道にのせる 楽しさと難しさ」の扉は、多分、『パリのちいさなバレリーナ』かもしれない。

Photo_2

 とまあ、各扉にはフランスの子どもたちの姿が活写されていて、それだけでも楽しい写真集のようだ。

 子どもの写真の好きな方にはオススメの一冊ではあります。

『旅するフォトグラファー』(MIKA POSA(ミカ ポサ)著/同友館/2009年5月29日刊)

MIKA POSAさんの写真集をいくつか紹介。

 

2015年4月24日 (金)

『大人のひきこもり』ってそういうことだったんだ

 しかし、「大人のひきこもり」ってそんなに大問題だとは思っていなかったなあ。

 高校生や大学生の段階で引きこもるっていうのはあるだろうし、事実、私の周辺にもあった話だ。しかし、大人になってしまってからは引きこもってはいられない筈で、何らかの形で社会性をもって生きていかなければならない。そんな立場になっていても、更に引きこもっているというのは、本人の問題だろうと考えていたのだが、そうでもないらしい。

 あるいは、社会の方が優しすぎるのか?

Photo 『大人のひきこもり 本当は「外に出る理由」を探している人たち』(池上正樹著/講談社現代新書/2014年12月1日刊)

 取り敢えず私にはよく分からない、この「ひきこもり」について、読書ノートから。

『地域の民生委員が把握している「ひきこもり」該当者のうち、半数近くの約四五%は四〇歳以上の中高年だった──そんな衝撃的な実態を浮き彫りにするデータが二〇一三年九月二四日、山形県の公表した「困難を有する若者に関するアンケート調査報告書」によって明らかになった』

『内閣府が二〇一〇年に行った実態調査による「ひきこもり」七〇万人、潜在群一五五万人に上るというデータを番組で見て、〈こんなにいるのか!〉〈政令指定都市の人口より多いのか!〉と驚く人も多く、まだ現実が十分に理解されていないこともわかった』

『ただし、この内閣府のデータには不備があった。先に紹介した山形県や島根県、東京都町田市の調査とは異なり、三九歳までの調査結果しかない。実際にはひきこもりの多くを占めている四〇歳以上の実数については、水面下に埋もれたままなのだ』

『自己責任論が声高に叫ばれる昨今、他者に迷惑をかけてはいけないという規範性の中で、気のやさしい人たちがいつのまにか社会の隅に追いやられている。それゆえに、〈世間こそが鬼です〉というツイートには胸が痛くなる。〈家にいるのは結果でしかない。ある程度は他者の手が必要。根性論を捨てれば多くの人を「救済」できる〉というツイートも見られた。このような価値観が、これからの社会には求められているのである』

『一方で、一旦社会を離脱するとなかなかリスタートラインに立てない壁が、今の日本には厳然と立ちはだかっている』

『ひきこもりになるのはおよそ七割が男性のため、筆者のもとに届くメールも男性からのものが多い。世間の一般的な認識としても、ひきこもるのは男性、というイメージが強いのではないだろうか。しかし時々、私のもとにはひきこもる女性たちからのメールが寄せられている。データ的な根拠はないとはいえ、女性の中でもとりわけ主婦の割合がかなり多く感じられる』

『〈私もうつ病で、ひきこもっています。主婦です。長男が、やはりひきこもりです。高校に行けず、3月に中退予定です。中卒で、病気で、この先どうなってしまうのだろうという不安でいっぱいです〉
 そう明かすHさんは一五年ほど前、職場でのパワハラが原因でうつを発病し、ずっとひきこもっているという』

『そんなHさんは、いまの若い世代に対して、進学校から一流大学、一流企業へと進めるくらい勉強ができれば、人生は安泰だと感じられた自分たち四〇歳代の価値観を押し付けてはいけないと考えている。たとえその〝コース〟から外れようとも、いまの時代、就職できるだけでも立派なものだと評価する』

『世の中の状況は、まだバブルの余韻が残っていた一九九〇年代を境に、ガラリと変わってしまった。いや、実は本質は何も変わったわけではなく、解決を先延ばしにされて地域の中に埋もれてきた〝この国の課題〟が露見してきただけなのかもしれない』

『女性がひきこもり状態に追い込まれていく背景には、職場内でのセクハラやストーカーなどの行為が放置される雇用環境の劣化も一因にある』

『さまざまな事情で一旦レールから外れた人たちの多くは、その後、仕事に就くことができずに、本人の意思に反して、ひきこもらざるを得ないような日々を送っている』

『この国で「ひきこもり」の高年齢化・潜在化が進む背景は、想像以上に根が深い。このままでは、老後の蓄えがなく頼りの年金さえ受け取ることができず、いずれ「老後破産」せざるをえない人が激増しかねない。だからこそ「大人のひきこもり」はいまの日本に潜む大問題と捉えることができるわけだ』

 う~ん、しかし「30代、40代、50代でひきこもっている」ということは多分親がかりの立場なわけだから、その親の年齢から考えれば、年金収入くらいしか収入の道はないのだろう。ということは、その親が亡くなってしまうと、とたんに生活ができなくなってしまうわけで、それはそれ深刻な問題になる。

 その人たちが生活保護を求めて動けばまだ何らかの改善に至る方法も残されているんだろうけれども、そんな知恵や、そんな行動が起こせるのであれば、逆に言ってしまえば「ひきこもる」こともないわけで、結局『東京都足立区。111歳とされる男性が白骨化した遺体で見つかった家庭では、雨戸を閉め切った二階建て住宅に四人の中高年が生活。男性が生存しているように装い、九〇〇万円以上の遺族共済年金を受給していたとして、八一歳の長女と五三歳の孫が詐欺容疑で逮捕されるという事件が起きた』ということになってしまうんだろう。

『こうした「消えた高齢者」問題とひきこもりが共通しているのは、誰に相談すればいいのかわからず、黙っていれば誰も助けてくれない中で個々が地域から孤立していく「無縁化」の実態である』

 まあ、「無縁化」しても自分で生きていけるだけの知恵や行動ができればいいのだろうけれども、それができないからこそ「引きこもって」しまうんだろう。

 解決策は私には分からない。しかし、重大な問題だということだけが理解できる。

 はてさて、どうしたもんだろう。

『大人のひきこもり 本当は「外に出る理由」を探している人たち』(池上正樹著/講談社現代新書/2014年12月1日刊)

2015年4月23日 (木)

ライカ通信スペシャル

 デジタル時代になって最早死にゆくだけなのかと思っていたら、いやいや見事な復活ですね。

 ライカ、その復活の理由は、まさしく「ブランド」の強みというものなのだろう。

Photo 『ライカ通信スペシャル』(CAMERA magazine/エイムック/2015年2月28日刊)

「ライカ」というのは、今はカメラの名称ではない。「ライカというブランド」のことなのだ。従って、「ライカを持つ」というのは「写真を撮る」ということは意味しない。まさしく「ライカを持つ」ということが大事なのであって、「写真を撮る」ということは第二義的な意味しかない。勿論「写真も撮れる」のであるから、ライカで写真を撮ることに何ら問題はないのだが、それ以上に「ライカを持つ」ことの方が重要事項なのであります。

「ライカ1台あれば家が一軒建てられる」というのはバルナック型ライカの時代の話なので、M型ライカが出てからはそんな話はなくなっている。とは言うものの、今やダジタル・ライカは買うのに100万円ほどもする高価な品物だ。なのに、そこはデジタル商品の宿命とも言うべき「すぐに来る陳腐化」の恐怖に常にさらされている。

 一方、アナログ・カメラは最早新製品が出ようもないので、陳腐化とは一切関係ない存在になっている。なので、そんなアナログ・カメラの頂点に立っているのがライカM3であるという事実も揺らぎない。なので、今回の『ライカ通信スペシャル』の表紙もライカM3なのであります。中でもエラいM3はシャッター速度が10、25、50、100、250という国際系列でフィルム巻き上げが2ストロークという前期型。シリアルNo.739 857だから1955年製(というところまで追えるっていうのもライカのエラいところ)のM3。つまり、私が持っているライカM3なのであります。エヘン。

 で、ついでに言っちゃうと、アナログ・ライカの値下がり状況も、実はあまり下がっていなくて、最早生産されないアナログ・ライカの価値は(M3に関して言えば)下がっていないのです。

 で、2006年にM8から始まったデジタル・ライカも、その後M8.2となり、2009年にM9、2011年にM9-Pが出て、2012年にはついに「M+ナンバー」方式の表記はやめて、ライカMとなってしまい、M-P、M MONOCHROM、M-Eと出て、逆に2014年にはデジタル・ライカからの発展型としての完全機械式で露出計すらついていないアナログ・ライカM-Aなんて変種も出てきて、更にM型60周年記念モデルLEICA M Edition 60なんていうモニター非搭載のデジタル・ライカ、お値段200万円超なんていう、トンでもないカメラまでデジタルで出てきてしまった。

 デジタル・ライカからの発展型としてのLEICA M-Aって、M3からの発展型として現在も生産を続けている絞り優先AE撮影機M7の立場はどうなっちゃうんだろう、という心配すらも生まれてくる。まあ、別に私が心配しても始まらないが。露出計を持たない完全機械式ということはライカメーターMCが復活するんだろうか。となると、それを今持っているM3にも使える訳で(サイズが変わっていないからね)、それは楽しみでもあったりするなあ。

 いずれにせよ、最早ライカは「写真機」ではなく「ブランド」なのだから、「写真機としての実用性」以上に、「ブランドとしての価値感」が重要になってくる。なので、M=93万9600円、M-P=107万7840円、M MONOCHROM=97万2000円、M-E=70万2000円、M-A=62万6400円でM Edition 60=232万2000円という価格付けにもそれなりの理由があるのだろう。要は値段が高ければ高いほど良いという価値感なのであります。今にもっともっと高くなって数千万円もするようになれば、それこそ「ライカ1台あれば家が一軒建てられる」という戦前の価値感が復活するのじゃないだろうか。

 そうなった暁には「ライカの復活」は完成である。

 ただし、中国人はどんな富裕層であろうが、そんなバカな買い物はしないだろう。

 そんなバカな買い物をするのは、日本人だけだろうからね。

 いまやライカの最大のカモは、多分、日本及び日本人なのであります。

 ところで、『ライカ通信スペシャル』の刊行を期に、枻出版社では以前の「ライカ通信」の復刻を電子出版で開始。

 詳しくは http://ebook.sideriver.com/magazine/camera をクリック。

『ライカ通信スペシャル』(CAMERA magazine/エイムック/2015年2月28日刊)Kindle版も出ているんだ!

2015年4月22日 (水)

『ザ・トライブ』最高の映画はサイレントだ!

 昨日のブログは、再びなんか変な動きを示していた。1時台76PV、2時台36PV、3時台87PV、4時台120PVって、おかしいでしょ。たまにそんな変な動きをするんだけれども、別に書いたネタの関係でもないような気がするし、まあ、よく分からないですね。

 取り敢えず、PVが増えたのは良いこととして……。今日も始めますか。で、今日は「映画評(映画について勝手なことを書きまくる)」ブログであります。

 ということで、ここからが本来の「ブログ」。

 私たち「健常者」にとってはまったく台詞のない映画。しかし、手話のわかる人にとっては「過剰な台詞」の映画なんだろう。

2 『The Tribe(ザ・トライブ)』(監督:Myroslav Slabopytskiy(ミロスラヴ・スラボシュピッキー)/プロデューサー兼撮影監督:Valentin Vasynovych(ヴァレンチヌ・ヴァシャノヴィッチ))

 映画の舞台はウクライナにある聾唖者専門の全寮制寄宿学校。主人公セルゲイ(Grigoriy Fesenko/グレゴリー・フェセンコ、と言っても彼がセルゲイという名前であることは観客は知らない。当然、「僕はセルゲイ」という自己紹介は手話だからだ)は、入学早々学校を支配するワル集団から暴力の洗礼を受ける。が、そこでそこそこ良い闘いをした結果、そんなワル集団への仲間入りをすることになる。「ザ・トライブ(族)」の誕生だ。

 深夜スーパーで買い物をした人を襲って、酒などを入手したり、深夜のトラック・ターミナルで運転手相手に売春を重ねる彼らは、まさしく「トライブ」そのもので、結束も固い。

 ところが、そんな深夜の売春の最中に、売春を仕切っていた仲間の一人が、バックしてきたトラックに気付かず(彼らは耳が聞こえない)轢かれてしまう辺りから、話の展開が変わってくる。

 売春の仕切りをするようになったセルゲイは、売春をしている二人の女の子の一人、アナ(Yana Novikova/ヤナ・ノヴィコヴァ といっても、こちらもアナという名前であることはわからない)を好きになり、アナとセックスをしたがる。が、アナとしては何か目的があって売春をしている以上、セルゲイとも金を貢がなければセックスはしないのだ。で、セルゲイは寝台列車に人形売りのアルバイトをするフリをしながら、部屋に乗客がいないブースを探して、いざ、乗客のいないブースに忍び込むと乗客の財布を盗むというバイトをしたりして、アナに金を貢ぐのだ。

 ところで、おんぼろのシトロエン・バンを提供してセルゲイたちの売春を手伝うのが、最初は寮の舎監だとばっかり思っていたら、実は職業家庭の教師であることがわかるシーンがあるのだが、まあ、なんともはや廃れきった学校ではあるのだなあ。で、その授業で木槌の作り方を教わったセルゲイは、その自分で作った木槌でその教師を襲い、金を奪い取る。

 で、当然その金もアナに貢いでセックスをすることになるのだ。取り敢えず、何らかの形で(といっても、そのすべては犯罪なのだが)金を手に入れると、アナとのセックスという繰り返しが、しかし、何ともセルゲイの情けなさというか、やり場のなさというものが感じとれる。

 ある日、アナともう一人の売春仲間の女の子は、イタリア大使館に行く。つまり、ここにきて始めてアナたちの売春の目的が分かる。つまり、彼女たちはイタリア行のビザをとりに来たのであった。この物語の時代設定は、多分21世紀に入ってからのものだろうが、まだまだウクライナには渡航の自由はなく、イタリアに行くにもビザが必要だったということが分かる。

 で、実はこのイタリア大使館のシーンだけ、少しだけバックにウクライナ語らしき、人の話し声が聞こえる。とは言っても、それはバックにごく浅く流れているだけだし、聞こえたところでウクライナ語なんて分からないのだから、殆ど無駄だけどね。

 ほとんどが暴力と犯罪が支配する全寮制寄宿聾唖学校という設定は、なんとなく本当にそんな学校があるんだろうか? という感じがする。聾唖学校っていうと、もうちょっとみんなで助け合うようなイメージを持ってしまうのだが、実はそんなことはなくて、普通の学校と同じで、学校によっては悪と暴力が支配する学校があってもおかしくはない、ということなんだろうか。

 で、全編手話。音楽も難聴の人の為なのだろうか、まったくつかっておらず、という映画を観てストーリーが分かるのだろうか? というのが最初の疑問だった。手話もまったく知らないし、ダイアローグ=オーラル・コミュニケーションのまったくない映画である。

 ところが実によくわかるんだなあ。

 実は監督のスラボシュピッキーは、この映画をサイレント映画へのオマージュとして作ったというのだ。

『サイレント映画へのオマージュを表現することは昔からの夢だった。一言も発せられることなく、みんなから理解される映画を作ることが。主人公が静寂を保つ映画ということではない。
 というのは結局のところ、サイレント映画の中でさえ、役者たちは決して物静かにしていたわけではなく、活発にコミュニケーションを取っていた。所作や非常に表現力にとんだボディランゲージで、一言も発することなく、感情や心情を伝えることを実現していた。これがまさしく、私が常に耳が聞こえないもしくは不自由な人たちの日常を、吹替なし、字幕なしで、本物の聾唖者たちと関わって映画を作りたかった理由だ』

 そう、つまり日本におけるサイレント映画=無声映画は「弁士」という解説者がスクリーンの脇に待機して、シーンの説明や一部の台詞などを観客に伝えていた。しかし、欧米ではサイレント映画はまさしくサイレント。弁士のような人はいなかった。せいぜい、いても楽団がいて、シーンに合わせた音楽を奏でていただけだった。

 それでも観客は、シーンを理解し、ストーリーを理解した。

 現代の日本でも、優秀な監督は脚本からできるだけ台詞を減らそうと努力する。観客が画面を見ていなくても理解できるように、できるだけ台詞で状況説明をしようとするテレビの脚本作りとはまったく異なった方向で映画の脚本は作られている。だって、我々の日常生活でそんな状況説明なんて普通しないだろう。会話だって、必要最低限にしか語られないのが我々の日常生活だ。それでも相手の言わんとすることはすべて伝わるし、なんの支障もない。

 小津安二郎の映画の台詞の何と簡素なことよ。それに比べると現代映画の台詞は多すぎて、饒舌で、必要以上に語りすぎる。

 考えてみれば、映画と言う表現形式は、モノクロ、サイレント映画で既に完成していたのかもしれない。それがカラーとなり、音が着くことによって、まさしく表現としては劣化してきたのかも知れない。それをサイレント映画に戻すのではなく、トーキー映画でサイレント映画へのオマージュを捧げるというというアイデアに着目した時、スラボシュピッキーは「聾唖者映画」に行きついたのかも知れない。

 しかし、アナがもぐりの堕胎医にかかるシーンやラストの暴力シーンとか、結構リアリティあがって、思わず体が痛くなるというのも凄いし……。

 全編、ワンシーン・ワンカットで撮影されている手持ち映像は、さすがにドキュメンタリストの撮影監督だけあって、実にこの映画の「不安な気分」を物語っている。

「ザ・トライブ」は渋谷ユーロスペース、新宿シネマカリテ他で公開中。

映画「ザ・トライブ」のオフィシャルサイトはコチラ

2015年4月21日 (火)

『東京カメラスタイル』という変なスタイルの写真集

 代官山蔦屋で買ってきた本なのだが、こんな変な写真集なんて代官山蔦屋あたりじゃないと手に入らないだろな。

 なにしろ、カメラとそれを持つ手だけの写真集なんて見たことない。

Photo 『東京カメラスタイル』(ジョン・サイパル(John Sypal)著/Thames & Hudson/2015年2月17日刊)

 著者ジョン・サイパル氏はネブラスカ生まれの英語教師で2004年以来日本に住んでいるそうだ。撮影は毎週末に東京の街をいろいろ歩きながら撮っているらしい。ということは、我々アマチュア・フォトグラファーと同じようなビヘイビュア。

 持っているカメラはライカMP、ライカM2、コンタックスT2、コニカ・ビッグ・ミニ、マミヤ7、ペンタックス67II、フジフィルムGA645、フジフィルム・チェキ、フジフィルム・インスタックス210、ポラロイドSX-70、ポラロイド690、この『東京カメラスタイル』はデジタル・リコーGRDIIIを使って撮っているそうだ。

 で、その中で記憶に残っている写真をいくつか……

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 コニカ・インスタント・プレスっていうカメラは知らないなあ。多分、新聞社用に小西六が作ったカメラなんだろうなあ。

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 出ました、自家製中判カメラ全天周レンズ付き。う~ん、こんなの作っちゃう人がいるんだ。

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 いやまあ、コニカ・ヘキサーという趣味はいいんだけれども、こうやってプリクラ写真をベタベタ貼っちゃうのはどうなんでしょうか。

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 おおっ! 出ましたニコンF4 + AF Nikkor 80-200mm。えっ? 何が「出ました」なんだって? まあ、つまり私のアナログ・カメラ時代のメイン機材だったってだけのことで……。ただし、私の場合はF4EじゃなくてF4Sでしたけれどもね。

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 いやあ渋いなあ。ペンタックス・スポットマチック+28mm/F3.5。じゃなくってストロボじゃなくてフラッシュ・ガンってところ。しかし、いまどきフラッシュ・バルブなんて手に入るのかしら。

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 中古カメラ屋さんから買ってきたばかりのニコマートFT+Nikkor 50mm/F1.4。撮影場所が恵比寿なので、カメラ屋さんは多分……。

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 ニコンFM2 + Nikkor 50mm/F1.8はいいんだけれども、レンズ・キャップが可愛すぎてもう。

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 出ましたね(笑)、キャノンEOS-1n/28-300mm。もうどこからでもかかってこいって感じのズームレンズです。歪曲も相当なもんでしょう(更に笑)。

 最後にイントロダクションから

『フィルムを基本にした写真機材がマジョリティなイメージであるかのようにこの本では語られているけれども、そのような機材が東京では数が多いというのは必ずしも事実ではない。アマチュア・フォトグラファーにとって豊かなカルチャーを持つこの都市では、公共の場所でデジタル機材で撮影するのに何のトラブルにも会うことはなかった』

 うーん、東京って凄い写真を撮るのに向いている街なんだ。

 で、サイパル氏は「日本カメラ」誌にも「東京カメラコレクション」という連載を持っているんだが、こちらはカメラと同時にカメラを持っている人も写っている。

『東京カメラスタイル』(ジョン・サイパル(John Sypal)著/Thames & Hudson/2015年2月17日刊)

2015年4月20日 (月)

青鞜社発祥の地

 本郷通りを東大の方から北上して、本駒込一丁目の交差点を右折すると、光源寺というお寺の隣が駒込学園という私立の中・高校があります。

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 その学校の前を過ぎて、団子坂の方へ向かって行くと、そこが旧・駒込林町。現在は千駄木五丁目。

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 千駄木五丁目を更に団子坂方面へ向かって行くと、マンションの前に何やら碑文のようなものが……。

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 ありました『「青鞜社」発祥の地』の解説板です。

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『元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。
 偖てこゝに「青鞜」は初声を上げた。  現代の日本の女性の頭脳と手によつて始めて出来た「青鞜」は初声を上げた。
 女性のなすことは今は只嘲りの笑を招くばかりである。  私はよく知つてゐる、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを』

 に始まって

『私共は日出づる国の東の水晶の山の上に目映ゆる黄金の大圓宮殿を営まうとするものだ。
 女性よ、汝の肖像を描くに常に金色の円天井を撰ぶことを忘れてはならぬ。
 よし、私は半途にして斃るとも、よし、私は破船の水夫として海底に沈むとも、なほ麻痺せる双手を挙げて「女性よ、進め、進め。」と最後の息は叫ぶであらう。  今私の眼から涙が溢れる。涙が溢れる』

 で終わる、平塚らいてうの「青鞜」創刊号に寄せた檄文は有名だが、「青鞜」も1911年(明治44年)から、1916年(大正5年)までの5年間だけの発刊で終わった。創刊号の表紙は長沼智恵子(後の「智恵子抄」の高村智恵子)、当然、創刊号の編集長は平塚らいてう。

 この時代に「女性(解放)問題」を取り上げるのは、それだけで「危険思想」扱いされてしまったのだろう。とは言うものの、この「青鞜」って、日本女子大人脈だったんだな。今では「良妻賢母」みたいな人が多いような日本女子大なんだけれども、当時は結構過激な人たちが多かった大学だったんだ。

 最終号の編集長は伊藤野枝だった。伊藤野枝は上野学園卒なんでポン女人脈じゃないけどね。でも、アナーキズムの思想に触れていた伊藤は大杉栄にホレ混んじゃって、夫の辻潤の許から出奔しちゃったんだから、平塚らいてうよりも過激だったのかも知れない。

 現代の「ウーマン・リブ(古っ!)」や「フェミニズム」の自由さと言うか。自由すぎてちょっと行きすぎなんじゃね、という時代と比較するまでもないけどね。

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 で、「青鞜社発祥の地」お隣にある「団子坂上広場」には……。

 こんな昔の井戸があります。

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 漕げばちゃんと水が出ます。まあ、飲めるかどうかは分からないけれどもね。

 青鞜社の昔の所在地は「駒込林町9番地」、現在の住所は「文京区千駄木5-3」です。

NIKON Df + Ai Nikkor 50mm/F1.4 @Sendagi Bunkyo (c)tsunoken

2015年4月19日 (日)

代官山ログロードは動線を変え得るか?

 東急東横線が代官山駅の先から地下化して新しい渋谷駅に行くことになって、空いた地上分に最初の商業施設がオープンしたというので、早速行ってきました。

 代官山駅の正面ですが、勿論、新しい商業施設はその反対側になるわけです。

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 新商業施設「ログロード代官山」は、以前、東横線が地上を走っていた時の、代官山駅を出るとすぐのところにある「渋谷第一踏切」のところが入り口。

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 ショップは5棟あって、手前からクラフトビールが飲めるキリンビールの新業態「スプリング・バレー・ブルワリー東京」。このお店の中にブルワリー(ビール醸造所)があって、できたてのビールが飲めるそうです。

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 その奥は、「ザ・マート・アット・フレッド・シーガル」というアメリカ西海岸のセレクトショップが3棟を構成。入り口に近い方から「カムデン・ブルー☆ドーナツ」「フレッド・シーガル・ウーマン」「フレッド・シーガル・マン」という順番。一番奥が「タルティン・ベーカリー&カフェ」という順番。

 実際は鉄筋コンクリートなんだけれども、木をかなり使って柔らかい雰囲気を出しています。ただ、オープンデッキなので、雨の日が心配。アメリカの西海岸なら殆ど雨は降らないけれども、日本は梅雨がありますからね。

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 で、代官山駅の脇から「旧渋谷第一踏切」の方を見ると、こんな感じで地下に潜っていく東横線とログロード代官山の入り口が見えます。

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 ログロード代官山の一番渋谷寄りの屋上に立つと、その先の地上の線路跡が見えます。なるほどこうやって、先の高架部分につながっていたんだな。

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 山手線の反対側の高架部分はまだ完全に取り壊されていなくて、こんな感じで残っています。

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 渋谷駅のそばまでくると、ビルの建築が始まっていて、いよいよだなという気分にもなってきます。

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 で、問題は代官山駅のそばにもどるんですが、これまで渋谷第一踏切によって分断されていた代官山駅北西の猿楽町は商業地域、南東の恵比寿西は住宅地という分かれ方をしていたのですが、それが踏切がなくなることによって、人の流れなんかが変わってきて、南東側にも商業施設なんかができるようになるのだろうか、どうだろうか、ということです。

 ログロード代官山は、東急電鉄が手がける割には小さな商業施設ですが、それをきっかけに恵比寿西地区がどう変わっていくか、楽しみではあります。

NIKON Df + Ai Nikkor 24mm/F2.8 @Daikanyama Shibuya (c)tsunoken

2015年4月18日 (土)

『「裏国境」突破 東南アジア一周大作戦』「裏国境」って何だ?

「12万円で世界を歩く」とか「5万4千円でアジア大横断」や「格安エアラインで世界一周」をしてきたり「世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア横断2万キロ」をしてきて我々を楽しませてくれてきた下川裕治氏も、もうすでに還暦なんだなあ。還暦過ぎてまでバックパッカー・スタイルの旅は辛かろうとは思うのだが、まだまだ新刊を出すようなのだ。

Photo 『「裏国境」突破 東南アジア一周大作戦』(下川裕治著/新潮文庫/2015年4月1日刊)

「裏国境」って何だ? 国境に裏とか表とかあるのか?

『裏ともいえるマイナーな国境を通過していく旅――。アジアの地図を広げながら、いくつかの越境ポイントをボールペンで辿ってみたのは、一昨年(2013)年の夏のことだった。きっかけは、このチョンチョムとオスマックの国境ではなかった。タイの西側、ミャンマーとの国境だった。アジアの国々はいま、大半の国の国境が外国人に開放されていた。ビザなどの手続きが煩雑な国境もあったが、閉ざされているわけではなかった。しかし中東を除いたアジアを見ると、ミャンマーだけが陸路の国境を通過することができなかった。厳密にいうと、タイと接するいくつかの国境は開いているのだが、一日で同じ国境に戻ってこなくてはならないところが多かった。たとえば、タイ側のメーソートとミャンマーのミャワディの間の国境である。その間を流れるモエイ川に架かる橋を渡り、パスポートを預ければ、ビザをとらなくてもミャワディの街に入ることはできた。しかし行っていいのは、国境から3キロほど先までだった。そしてミャワディに泊まることはできず、国境が閉まる時間までに、タイにもどらなくてはならなかった。
 タイ最北端のメーザイからミャンマーのタチレクに入る国境は、少しルールが違った。ビザをもっていれば、その先のチャイントンまで行くことはできた。チャイントンに宿泊することも可能だった。しかし、やはりチクレクに戻り、メーザーからタイに帰ってこなければいけなかった。
 タイとミャンマーの国境は、開いているのだが、ミャンマーア側を少し見て、再びタイに戻ってくることが原則だったのだ』

 とは言うものの、ヤンゴンやマンダレーといったメジャーな都市に飛行機で入れば、ある程度は自由にミャンマー国内を動けるそうなのだ。

 つまりそういうこと。要は、地元の人たちみたいに勝手に国境をヒョイと越えて隣の国に行くようなことは、外国人ではできないということなんだなあ。

『東南アジアの国境は、さまざまな経緯のなかで引かれた。そのには植民地時代が暗い影を落としていた。支配欲と営利に裏打ちされた権力の産物であることが多い。周辺に住む人々の思いは無視された。その結果、国境に向こう側に親戚が暮らすといったことがあたり前になっていった。こういう場では、東南アジアの融通がききすぎる気質がいかんなく発揮された。
「一応、国交はないけど、親戚の家に遊びにいくぐらいいいんじゃない?」
 かくして、地元の人々は、踏み切りの遮断機のように下されたバーをひょいとあげ、越境してしまうのである。
 しかしその後ろについて、僕が越境しようとすると、国境警備の兵士が立ちはだかるのである。だから、地元の人の、
「あの国境? 簡単に越えられるよ」
 という言葉には、眉に唾をつけて聞かなくてはならなかった。国境には地元の人々向けと国際的なものの二種類がある』

 つまり、そんな地元の人たちが陸路で越境するような、マイナーな裏街道を渡って越境することを「裏国境」というのだそうだ。

 下川氏が歩いた東南アジアはタイ、カンボジア、ベトナム、ラオス、そして少しだけタイに戻って、更にミャンマーに入り、そしてタイのバンコクへと至る、逆「の」の字ルート。基本的に陸路なのでマレーシアとかインドネシアは入らないし、物価の高いシンガポールは初めから問題外だ。

 しかし、陸路で越境するというのは我々日本人ではあまり想像することができないことである。海外の飛行場にあるイミグレーションで入国目的と滞在日数を申告して、パスポートにビザのスタンプをもらうというのが我々大半の日本人の越境体験である。ところが、ヨーロッパや東南アジアのような陸続きのところでは、陸路で越境するのが当たり前。ヨーロッパなんかはEUで統合してしまっているから、国境の検問所やイミグレーションすらもない。まだ、東南アジアの方が昔の陸路国境越えのイメージに近いんだろうか。

 国境の検問所を過ぎ、イミグレーションで賄賂を差し出したりしながらビザのスタンプをもらうという体験は、なんか一度やって見たい気にもさせる。

 で、何度かそんなことをやっているうちに、できるだけメジャーな国道を避け、できるだけマイナーな道を通って国境越えをしてみたい。あんまり沢山の外国人が通らないような、地元の人たちが隣の国に住む親戚に会いに行くような時だけ通るような国境線を、通れるか通れないかの賭けをするような気分で越えてみたい。

 と、こういう経験を積んでくると、「国境オタク」「裏国境オタク」の完成である。

『わかってもらえるだろうか。陸路の国境を越えていくということは、たしかな情報がないなかですすんでいくことだった。そのときの政情にも左右された。今回は、多くの人が通過する国境を避け、最近になって通ることが可能になったらしい「裏国境」、つまりマイナーな国境の突破をめざした。常に不安のなかの旅だったのだ』

 ふむ、結局こうやってバックパッカー・スタイルの旅を何度も繰り返していくと、普通の旅では面白くなくて、だんだん、難しい方法で旅をすることに挑戦したくなっていくんだろう。で、そんな「変な旅」の記録の方が読者としては面白いから、トラブル続きの旅の方が読み物としては興味深いから、「旅」のライターは読者に「面白さ」を提供しようとして、自らそんな困難な旅に挑戦していくわけだ。

 で、ますます「旅」ライターは「変な旅オタク」と化していくんだな。

 しかし、還暦過ぎてこういう旅はツラいでしょうね。

『「裏国境」突破 東南アジア一周大作戦』(下川裕治著/新潮文庫/2015年4月1日刊)

2015年4月17日 (金)

銀座・日本橋、裏通り事情

 ちょっとした理由があって銀座と日本橋の裏通りを散策したわけなのですが。

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 もう、今は銀座の表通りってブランドショップとか「爆買い・大声」の中国人の街になってしまって、なんか我々昔からの日本人にはあまり縁遠い街になってしまった感がある。

 が、裏通りには今でも昔からの老舗のお店があったりしてホッとする感じがある。

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 とは言うものの、こうやって段々ビルが古くなって来ると、建て替えの必要も出てきて、その結果、古い店はなくなっていくんだろうな。

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 この一戸建てのバー「ボルドー」なんて、最早銀座の化石的な店なんだけれども、まだ営業を続けているようだ。

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 それに比べると、日本橋界隈は三井不動産が総合開発している関係もあって、表通りと裏通りも一緒に綺麗になっている感じがある。

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 まあ、その辺が総合的なデベロッパーが関与しているかどうなのか、という違いなんだろうなあ、

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 まあ、そんな日本橋界隈でもこんな「持ち主不明物件」(決してそうではないと思いますがね)的な蔦に覆われた建物なんかがあったりする。この辺は「街の歴史」ですねえ。

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 で、どうでもいいんだけれども、天下の銀座の大通りをこんなナンバーもついていない、カートが走っていいのか?

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NIKON Df + Ai NIKKOR 24mm/F2.8 @Ginza & Nihonbashi Chuo (c)tsunoken

2015年4月16日 (木)

難波田城(公園・資料館)

 4月13日に書いた水子貝塚からほんの2kmほど言った先にあるのが難波田城(公園・資料館/なんばたじょう)なのでした。場所は「富士見市南畑」なので「難波田」らしいっんすけどね。

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 中には堀や……

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 昔の木橋なんかも復元されていたり……

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 土塁も復元されています。

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「鎌倉時代に村田党金子氏の金子家範の子、高範が当地に与えられ地名を苗字として館を構えたのが始まりと言われている」(Wikipedia)と書かれている通り、多分、野武士の金子家が何かの功を挙げ、その褒美として館の建設を許されたんだろう。で、その地の名前ととって「南畑=難波田」としたと……。

「本来の城=砦」であるならば、こんな新河岸川と荒川に挟まれた低地ではなく、それこそ水子貝塚があったあたりの、高台の上の見通しの良いところに城を築いたはずである。基本的に、鎌倉、安土・桃山時代の城は山城であるし、東京の城も、江戸城を除けば赤塚も、平塚城(上中里・平塚神社)も台地の一番はずれの見通しのよいところにできていた。

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 ということは、ここ難波田城は戦の為の城ではなくて、ごく普通の居城として建てられたのだということだろう。

 とは言うものの、ちゃんと同心円状に作られた堀や土塁なんかもあって、いかにも城らしく作ってあるのがおかしい。でも、そんなに大きくはない。

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 で、最大の謎がこの「難波田氏館跡」というのが、この難波田城公園の端っこにあるのだ。ということは、後ろの蒲団を干している家あたりが実は難波田氏の居城の跡なんだろうか。何せ、そちらが曲輪一なんだものなあ。

 だとすると、こちらのお宅。やたらと人が訪ねてきそうで鬱陶しいだろうなあ、大変そう。

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 で、結局、この難波田城公園で難波田城址よりも存在感を持っているのが、こちらの難波田城跡の隣にある「古民家ゾーン」ってのも、なんかおかしい。いかにも埼玉県(かなあ)。

難波田城公園の公式サイトはコチラ

NIKON D7000 18-105mm @Nanbata Castle Park, Fujimi City (c)tsunoken

2015年4月15日 (水)

ニコンDf作例写真

 なんか久々にいい天気になったので、早速ニコンDfを持ってテスト撮影をしてきた。

 レンズはAiニッコール50mm/F1.4。ISO設定は100で、撮影モードはA、つまり絞り優先モード。つまり遠景を撮るときはできるだけ絞りを絞って、近景を撮るときはできるだけ絞りを開けて、っていう基本なんだけれどもね。

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 これはF16まで絞って撮影。こうすると遠くまではっきり写ります。

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 中景は絞りは適当、というかこれはF5.6。

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 近景は絞りを開けて撮るとピントがあった部分以外をボカして整理できます。この絞りはF1.4。

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 これを絞っちゃうと後ろの方までピントが合ってしまうので、ゴチャゴチャうるさい写真になってしまいます。この絞りはF16、まあ絞り過ぎですね。

 というだけの単なる作例写真でした。

NIKON Df + Ai NIKKOR 50mm/F1.4 @Rikugien Garden Bunkyo (c)tsunoken

『無人暗殺機ドローンの誕生』って、えっ? ドローンって暗殺機だったの? と思ってから思わず納得

 ちょっと、久々のちゃんとした書評(というか、本のことを書くっていうか)だなあ。何せ、菊判400ページ以上だもんなあ。思わずAmazonでポチっちゃったときにはそこまでの本だとは思わずやっちゃったわけですが、うん、結構読むのは大変だった。

 ただし、書かれていることはすごく単純だった。何せアメリカ人だからね(逆人種差別)。

Photo 『無人暗殺機 ドローンの誕生』(リチャード・ウィッテル著/赤根洋子訳/文藝春秋社/2015年3月20日刊)

「ドローン」て言っちゃうと、アマゾンが商品デリバリーに導入しようとしている「GPS付き/自動操縦/ロボット・ヘリ」を想像しちゃうんだが、

『一年ほど前、Amazon.comが小型無人機による商品の配送サービスを計画中であることを発表して話題になった。早ければ二〇一五年にサービスを開始するという話だったから、ひょっとしたら、今年中にアメリカの上空をアマゾンのドローンが飛び交うことになるのかもしれない』

 ということですよね。

『アメリカでは国境警備に無人機が投入されているというし、日本でも、活火山上空の観測や福島第一原発の事故現場のビデオ撮影や放射線測定に使われるなど、無人機の活用は進んでいる』

 し、

『元々軍事用に開発された技術が民間転用されて普及した例はGPSやインターネットなど数々あるが、無人機も、最近になって急速に民間利用が進んだ軍事技術の一つである』

 ということだけでしかない。今までいくつもあった事例の一つに過ぎない。

『この「無人機革命」の先駆けとなったのが、アメリカの無人機プレデターである。そして、この無人機プレデターがいかにして誕生し、いかにして無人攻撃機となり、さらに無人暗殺機へと変貌していったかを克明に追ったのが本書『無人暗殺機ドローンの誕生』である』

 というけれども、原題を見れば

"PREDATOR : THE SECRET ORIGIN OF THE DRONE REBOLUTION"「プレデター 無人機革命の秘められた起源」というだけのこと。つまり「無人暗殺機=ドローン」じゃないのだ。まあ、売るための邦題付けですね。要は、アメリカではアマゾン・ドローンの先行例として、CIAやアメリカ空軍の無人機プレデターがあって、その後続例としてドローンがあるんだ、という認識があるのだが、それがない日本で如何にして「ドローン」というものを認識させるかというところで「無人暗殺機」という多少はショッキングなタイトルをつけたって言う訳で、この辺はまさしく文藝春秋出版部のセンスの良さ(悪さ、ダメさ?)というところなのだろう。

 上の引用にもある通り、GPSやインターネットなどの技術自体が元々は軍事技術だったものが、その後、普遍化して一般社会でも使えるようになったというのは事実なんだから、ドローン(無人飛行機)という技術だって元々は軍事技術だっていうのはよくわかる。というか、アメリカでは一般社会の開発費ではおぎなえないものが、軍事技術の場合は「費用対効果」というものが測れないものだから、いくらでも研究開発費に使えるというところから、まず費用が大きくかかる技術開発は軍事技術開発から始めるってのが普通の新技術開発のやり方だ。

 で、「ドローン=無人飛行機」の開発は、基本的には(当然)ラジコン模型飛行機なんだよね。まず、ラジコン模型飛行機の開発者・技術者が、もっと大きいラジコン飛行機を作ろうってことで集められて、いろいろな試行錯誤をし始める。通常のラジコン模型飛行機は操縦者の可視範囲での操縦を前提にしている。それをもうちょっと遠くの方でも操縦できるようにすると、軍事訓練にも使える訳で、まずはそうしたところから開発が始まった。

 で、最初に作ったのが「無人標的機」だった。つまり、攻撃機の標的になる(つまりは撃墜される)飛行機として、最初の無人飛行機は作られたわけなのだ。そりゃそうだよな。攻撃機は敵戦闘機を撃ち落さなければならないが、だからといって味方の有人戦闘機を標的にするわけにはいかない。通常は、味方の有人戦闘機が牽引する標的を攻撃すればそれで攻撃訓練になる、ってのが第二次世界大戦あたりの訓練らしいが、それでは敵機撃墜の気持ちよさは味わえないってことで、多分、無人標的機に行きついたんだろう。

 で、無人標的機のあとは、どんどんエスカレートして「無人偵察機」になるわけであります。つまり、有人偵察機(U-2なんかの)だと人命優先なので、あまり低いところまでは飛べない(低いところまで行っちゃうと撃墜される)。偵察衛星ってのもあるけれども、それは更に上空(というか宇宙)まで上がる訳で、天気が良ければ偵察はできるけれども、雲の下までは見通すことはできない。で、無人偵察機なら下の方まで降りられるし、その結果、敵に見つけられて高射砲で落とされても飛行士が死ぬわけでもないので、軍としては恩給とか慰謝料なんかを考える必要はない。

 で、次は当然、偵察機として使えるならば、攻撃機としても使えるんじゃない? ってことになるわけですね。

 これは(戦闘用)飛行機の歴史とも重なる訳で、最初の戦争用飛行機は偵察機だったんです。つまり第一次世界大戦の前期ころはそうだった。でその後、地上部隊の掩護のために航空機部隊は空を飛んだ。その辺は、その後の戦争でも同じで、基本的には空軍というのは、地上部隊(海兵隊&陸軍)の掩護部隊なわけです。

 まあ、それはいいとして「無人偵察機」として使えるのならば、ケースによっては「無人攻撃機」としても使えるのでは? というのが、まあ、普通の考え方ですね。

 てことで、プレデターは無人偵察機から無人攻撃機になってアルカイダの要人を殺害したということなんだけれども。実際、その死骸を確認した人はいるんだろうか?

 結局、オサマ・ビン・ラディンを殺したのは地上部隊だった。結局、最終的な決着を付けるのは地上部隊なんだよなあ。

 そういう意味では「プレデター=ドローン」も完全ではなく、基本的には地上部隊の援護をするっていう意味での、特殊軍なんだろうなあ。

 で、まあ結局、行きつくところは、こういうところでしょう。

『モノの運搬だけでなく乗客を乗せられるほどの信頼性を無人機が獲得し、民間無人機がいつか空を賑わす時代がやってくるのだろうか。もしかしたら、そんなこともあるかもしれない』

 まあ、それでも「運行管理者」としての機長は置くだろうが、彼は操縦しない訳ですね。そんなの宇宙船じゃ当たり前、と言ってしまえばその通り。

 そんな時代もすぐそばに来そうですね。さあ、(操縦士としての)機長がいない飛行機に乗りますか? 乗りませんか?

 私は平気で乗ります。どうせ落っこっちゃえば死ぬだけだからね。

『無人暗殺機 ドローンの誕生』(リチャード・ウィッテル著/赤根洋子訳/文藝春秋社/2015年3月20日刊)

2015年4月14日 (火)

ニコンDf買っちゃいました!

「君子必慎其独也,小人閑居為不善」(エライ人は一人でも慎み深くしているが、バカな奴は暇にさせるとロクなことをしない)。

 ちょっと小銭が入ってきたので(と言っても、払いすぎていたものが返って来ただけだけどね、あぁ、税金じゃないよ)、ついついスマホをIS03からiPhone6Plus 64GBに替えたりしていたんですが、今度はついに買ってしまいました。ニコンDf。

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 相変わらずカメラを売ったり、買ったりをやっているわけなのですが、このニコンFM2やFE2みたいなクラシカルなフォルムの35mmフルサイズ機。前から気にはなっていたのです……。

 別にAPS-Cサイズの撮像素子に何か不満があったわけでもないし、プロだってマイクロフォーサーズで仕事をしている時代に、何が35mmフルサイズだ! って、今までは無理やり考えていたわけです。有効画素数だってDfは16.2メガピクセルだから、今使っているニコンD7000と殆ど同じ有効画素数なのだ。ついでに言ってしまうと、ニコンのフラッグシップ機、D4Sの有効画素数はやはり16.2メガピクセル。なので有効画素数で比較しても意味はない。

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 とは言うものの、やっぱり気になっていたニコンDf。ポイントは撮像素子。D7000はAPS-Cなので、レンズの画角は35mmフルサイズに比べると約1.5倍。つまり18mmレンズだとおよそ35mmフルサイズの約28mm。24mmが35mm。30mmが50mm。という具合に頭の中で変換しながらズームレンズの画角を決めていかなければならない。

 まあ、一眼レフなのでファインダーを覗きながら画角を決めるわけなので、その辺は問題ない筈なのだが……正直、やっぱり煩わしくなったのであります。

 28mmなら28mm、35mmなら35mm、50mmなら50mmという具合に、アナログ時代のレンズ感覚で撮りたいなということは前々から考えていたことではあります。

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 といってD4Sはビックカメラでも615,000円(税別)ということになって、ちょっと手が出ない。その位の金額になってしまえば、中古のデジタル・ライカが買えちゃうもんなあ。おまけにD4Sはデカい! まさしくプロ仕様のカメラ(つまりデカさでクライアントの信頼を得る、ということで)なので、私のようなアマチュア裸足(素人も逃げ出すほどのド下手なカメラマンのこと)が持つには大きすぎるし、大袈裟すぎる。

 というところで2013年11月28日にニコンDfが発表された時には随分気になっていた訳です。だって、あのFM2/FE2ライクなスタイルといい、アナログ・ダイアルによる操作とか、まあ、マニア心を揺さぶるのが上手いニコン戦略なのであります。プロはそんなところには気を持っていかれなくて、要は操作性だけですからね。

 私と同じようにD4S(当時はD3Sだったかな)では高いし大きすぎると考えていたアマチュアに向けてD4SやD3Sと同じ撮像素子を使った、アナログ・ライクなカメラを、もうちょっと安い値段で販売する、って戦略で見事に成功したのであります。当初は機械式シャッターをつかったニコンDMというのも考えられていたそうで、できたらニコンDMこそ私が欲しかったカメラかも知れない。

 で、今、やっとバッテリーの充電が終わって、カメラを動かしてみたのだが、マニュアル・フォーカス・レンズは勿論、昔(今も持っていますが)メインで使っていたニコンF4用の広角ズーム「AF NIKKOR 24-50mm/F3.3-4.5)がちゃんとこの現代のカメラでも動いた。うーん、これはますますニコンDfに惚れ込んじゃうなあ。

 あんなアマチュア騙しのカメラなんか買いやがって、って思う人は勝手に思っていればいいのであります。

 まあ、いずれにせよこれからもカメラ道楽を続けていくことだけは確かだな。

 ビックカメラ価格249,170円(税別)は高いものにつくか、安いものにつくか。乞うご期待であります。

 こんなことやっているから、金が貯まんないんだなあ。確かに。

 

2015年4月13日 (月)

根津神社・つつじの旬はまだ先のようで

 4月11日から始まった根津神社の「つつじ祭り」。昨日、覗いてきました。

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 あれっ? いつものつつじ祭りだともっと沢山の人出で大賑わいなんだけれどもなあ。

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 つつじ山を見てみれば、まあ、それもしょうがないか。まだまだ、つつじ満開って言う感じじゃなくて、ほんの一部、早咲きの花だけが咲いているっていう感じ。

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 ということで……

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 大混雑しても満開のつつじを見たいという人は、あと二週間位待った方がいいのかな。混雑が嫌な人は、今週末までに行って見てください。

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 屋台もまだまだ準備中って感じですかね。

NIKON D7000+AF-S NIKKOR 18-105mm/F3.5-5.6 G ED @Nezu Shirine, Bunkyo (c)tsunoken

富士見市・水子貝塚公園は歴史の資料館だ

 一昨日のララポート富士見に行く途中で発見(大袈裟!)したのが、この「水子貝塚公園」なのでした。

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 高輪や大森あたりの海岸線の高台に貝塚が作られるのはよくわかるが、こんな内陸の富士見市あたりに貝塚があった、というのがちょっと不思議な感じがして、見に行ってきたわけです。

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 現在、公園として整備されているのは、縄文時代に円形集落があったところで、かなり広い。竪穴式住居も三田台公園のようなコンクリートじゃなくて茅葺で昔通り作られています。

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 中にもちゃんと縄文人がいます。

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 で、こんな茅葺住宅が五つあるのが、水子貝塚公園。すごいな。

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 この白いところが貝塚が発見された場所。下の写真が中でも一番大きい貝塚跡なんだけれども、どうも竪穴式住居が寿命を終えて壊された後に、そこをゴミ捨て場(つまり貝塚)として使っていたようで、集落内に貝塚がいくつも点在している。

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 ただ、まあ、貝塚公園自体は「貝塚」というよりも、近隣住民たちの憩いの「公園」として整備されているようで……。

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 なんか、お遊びで来た人たちの物置になっていたりしている。

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 まあ、現代風竪穴式住居で遊んでいる人もいるしね。

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 で、公園に隣接されている「水子貝塚展示館」に行ってみると。

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 縄文時代の地形の解説がある。つまり、現在の利根川流域は殆ど栃木県に近いところまで、荒川、入間川流域はほとんど群馬県あたりまで海域だったということがわかる。

 う~ん、なのでこんな内陸であっても貝塚があるんだ。と、納得。

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 展示館には竪穴式住居跡の展示とか。

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 貝塚によくある貝塚剥ぎ取り見本とかがある。

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 で、これが縄文時代の集落と海の関係がわかる展示。

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 公園内にあるもうひとつの「富士見市立貝塚資料館」に行ってみた。

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 こちらには富士見市の遺跡地図があって、すごいな富士見市、こんなに遺跡が沢山あるんだ。

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 というか、東京と違って地域開発が遅れていた富士見市のほうに、多くの遺跡が損傷されずに残っていた、ということなんだろうな。

 なにせ、東京(江戸)は開発に次ぐ開発で、それ以前の遺跡なんかはほとんど残されていないからなあ。

 東京でせいぜいある遺跡は、江戸時代までのものなんだものなあ。ウチのマンションなんかもそうだった。

NIKON D7000+AF-S NIKKOR 18-105mm/F3.6-5.6 G ED @Fujimi (c)tsunoken

2015年4月12日 (日)

『限界集落』は明るく楽しく

「限界集落は明るく楽しく」なんて書いちゃうと、「限界集落の現実も知らないくせに、勝手なことを言うな」とか「他人のことだと思って」なんて怒られてしまい、「それでも明るくて楽しくていいじゃん」なんて言うと、更に炎上しそうになるかもしれない。

 しかし、限界集落だってお年寄りだけの生活だって、結局、毎日の生活があるのだ。そんな毎日の生活を深刻な顔をして過ごしていてもツラいだけだし、明日のことを考えたりしていたら、かえって暗くなってしまう。

 なので、ここでは堂々と「限界集落は結構明るい、楽しい」と言ってしまいます。

Photo 『限界集落―Marginal Village』(梶井昭陰著/有限会社フォイル/2008年2月8日刊)

 本書で写真取材され、紹介されている「限界集落」は以下の通り。

1 新潟県・佐渡ヶ島(1)
2 山梨県・芦川
3 新潟県・鹿瀬
4 熊本県・球磨村
5 長野県・栄村
6 北海道・初山別村
7 山形県・西川村
8 新潟県・佐渡ヶ島(2)
9 徳島県・一宇
10 東京都・檜原村
11 和歌山県・高野町
12 石川県・門前町
13 京都府・五泉町

 著者の写真家、梶井昭陰氏は高野山大学密教学部を卒業した現職の僧侶である。佐渡ヶ島の海府というところで僧侶をやりながら、同時に、ベトナム、カンボジア、タイ、パプアニューギニア、イギリス、中国など、世界各地を訪ねて写真取材を行っているという。

『海府は佐渡の北部沿岸の地域を指していう。約40キロにわたる海岸線上には集落が張りつくように点在する。建物が集まっている様は、まるで身を寄せあって冬の寒さをしのいでいるようだ。
 鷲崎はそんな海府の一集落だ。佐渡最北端の段丘状の地形に260人(高齢者は39%)が暮らし、稲作や寒ブリ漁などで生計を立てている』

 という佐渡ヶ島の鷲崎は最初に登場し、そして真ん中あたりで再び登場する。

「限界集落とは、過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって冠婚葬祭など社会的共同生活が困難になっている集落を指す」(Wikipediaより)

 という「限界集落」の概念からすると鷲崎はまだまだ限界集落というところまではいっていないようではあるが、梶井氏の眼からすると、やがて限界集落化する何年か先が見えているのだろう。確かに、本書で取り上げられている12の町や村は既に限界集落化しているか、近々限界集落化しそうな町や村ではあるが、しかし、限界集落化は何もこんな地方の過疎地だけの問題ではないのだ。

 例えば、東京圏の地域でも核家族が数多く入居してきた地域などで、子どもたちが独立し、その子供たちが結婚しそれぞれで核家族化した後に、親世代だけが取り残されている地域が結構あるのである。都市部のベッドタウンなんかに行ってみると、老人ばっかりが見られる団地なんかが結構あったりする。

 何を言おう、私が今住んでいるマンションだってそんな限界集落化する危険があったのである。今は建て替えが済んで新しい住人が入ってきているが、その建替え前の旧マンションでは、私より若い住人はただ一世帯だけで、その人が入ってくる前は私(現在63歳)が何と一番若い住人だったのである。当然、子どもたちの声なんてマンションの中からは聞こえてこない。幸い、昨年に建替えなって、旧マンションの倍の世帯数になった新マンションに新たに入居してきた人たちは大半が三十代や四十代。となると小さな子どもたちの姿が急に増えて、それは楽しい気分になる。

 じゃあ、それまでの旧マンションでは皆暗い顔をして生活していたのかと言えば、全然そんなことはなく、ごく普通に明るく楽しく生活していたのである。 

 東京都檜原村のエピソード。

『小泉英子さん(83歳)は檜原村の藤倉という集落に住んでいる方である。集落は村中心部からさらに深山に入った場所にあり、ここに住む113人のうち、半数の方が65歳以上のお年寄りだ。集落の中心には、昭和61年に廃校になった藤倉小学校があり、その隣には大きな天狗のお面がかけられた春日神社がある。
「春日神社では毎年4月にお祭りをしていましてね。9月の初旬には獅子舞もあるんですよ」』

『「最近は集落に若者がいなくてね。獅子舞を舞うのも大変なんです」
 英子さんはかぶっていたてぬぐいを取り、神社の方を眺めながらいった』

『お寺をあとにし、再び藤倉集落へ戻ると春日神社の前にはすでに八百屋のおじさんがきていた。八百屋さんの乗ってきたトラックには、パンや牛乳、卵、野菜、果物などさまざまな食料品が積まれ、英子さんともうひとりのおばあさんがどれを買おうか悩んでいる。もうひとりのおばあさんは小さなトラクターに食料を積み込み、自動車が入れないほどの細い道を通って、山上にある自宅まで1時間ほどかけて運ぶのだという』

 という2ページ前に見開きでそんな八百屋さんのトラックと買い物をする二人のおばあさんの姿と、「もうひとりのおばあさん」の小さなトラクターが写っている。たまにテレビのルポなんかで目にする山村の光景だ。

 梶井氏はあとがきに書く。

『集落で生まれ育った人たちのなかには田舎にずっと暮らしていたいと思う人たちも多い。また、都会から農村へやってきたいと思う人たちもいる。その人たちが安心して暮らしていけない状況というのは、日本の貧しさなのではないかと思う。
 今後10年以内に423の集落が消滅する可能性があるという』

 とは言うものの、それを止めようもないというのが現実で、限界集落再生の試みなども全国各地で行われているようだが、なかなかうまくいっている事例も少ないようだ。

 だったら、せめて今そこで生きている人たちは、暗くならずに、明るく、楽しく生活していくしかないのである。

『限界集落―Marginal Village』(梶井昭陰著/有限会社フォイル/2008年2月8日刊)

2015年4月11日 (土)

4/10グランドオープン「ららぽーと富士見」に行ってきたぞ

 三井不動産が運営する「ららぽーと富士見」が4月10日にグランドオープンしたというので、早速行ってきました。

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 畑の真ん中にあります。後ろには富士見市役所があるらしいんっすけどね。

「ららぽーと」というのは1981年に三井不動産が船橋市に「ららぽーと TOKYO-BAY(旧称:ららぽーと船橋ショッピングセンター)」をオープンしたのが一番最初で、ここららぽーと富士見は9番目。

 延床面積185,000㎡というから、イオンモール幕張新都心の402,000㎡に比べれば狭そうですが、イオンモールの方は、ショッピングモールだけではなくて、いろいろなショップやその他のフィットネスやジムなんかの施設も含んでの延床面積なので、ショッピングモールだけの床面積では負けてはいないでしょう。

 店舗数は293店舗、イオンモール幕張新都心が350店舗なので、まあ遜色はないでしょう。

 駐車場は3階店舗の上の屋上がメインなんだけれども、1階の平置き駐車場にはEV用の充電システムなんかも全部で7台分あってすごい。

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 で、店内に入るとキーテナントというか食料品店は、さすがに川越市に本社があるヤオコーが入っています。この辺はイオンやイトーヨーカドーみたいな流通会社がデベロッパーであるショッピングモールとは違うところですね。

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 ひとつ他とは違うところが、なんと本屋さん(LIBRO)が1階に入ってます! 普通、こうしたショッピングモールでは本屋さんはだいたい一番上の階に持っていかれるんだけれども、すごいなららぽーと。でLIBROのお隣がHMVなんだからこれまたすごい!

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 しっかりおいてあります「埼玉の本」。

 う~ん、埼玉の人は本が好きなのかなあ。だったら嬉しいなあ。

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 こうしたショッピングモールの作りって、こんな吹き抜けの部分を持つコリドー(回廊)が真ん中にあって、その両側に店舗が並んでいるという形なんだけれども、ここららぽーと富士見のすごいところは、こうした両側に店舗を持つコリドーが東西二つあるということ。勿論、それぞれの両側が店舗なので、かなりの数の店舗が入るのだなあ。

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 2階に上がるとキッズテラスというのが北の端にあって、ありました「小学館キャラパーク」。勿論、いま一番旬なのが「妖怪ウォッチ」ですねえ。

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 その前には駄菓子屋さんがあります。

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 3階に上がってみると、yモバイル、ドコモショップ、auショップ、ソフトバンクというケータイショップが同じ場所に並んでいます。競争を煽ろうというのか?

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 3階のキーテナントは例のTOHO CINEMASというお馴染みのシーン。

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 その前には、さすがに埼玉県、「彩の国レストラン」です。うん、いいなあ、こういう地元志向は。

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 デジタル家電ショップの「ノジマ」もあります。

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 3階から見たコリドー街。さっき、1階から見たのとは別の側のコリドーです。まあ、グランドオープン初日とあって、沢山のお客さんが来ていました。

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 多分、今日明日はこれ以上に混むでしょう。

ららぽーと富士見の公式サイトはコチラ

NIKON D7000+AF-S NIKKOR 10-24mm/F3.5-4.5 G ED @LaLaport Fujimi (c)tsunoken

2015年4月10日 (金)

いやあ、そんな打撃戦なんて期待はしてないですよ……でもね

 前日までの雨がウソのように晴れ上がった昨日。東都大学野球2015年春シーズンが始まった……、って言うと「嘘でしょう。もう4月7日に駒澤大対拓殖大戦をやったでしょう」という声が聞こえてくるのですが、そんなことは分かってます。とは言うものの、私にとって東都大学野球というのは中央大戦のことなんです。

 ということなので、昨日やっと中央大対専修大戦が行われたので、これが私にとっての東都大学野球2015年春の開幕戦なのでした。

 神宮外苑では警視庁騎馬隊やピーポくんが来て「新入学児童横断訓練」なんてのをやっていた。

 で、なんでどうでもいいようなネタを頭にふったのかと言えば……。

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 試合は専修大・大野亨……

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 中央大・山手の投げ合いで始まった。

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 とは言うものの、双方とも決定力に事欠いて、なかなか点が取れない。なんて言うと息詰まった投手戦みたいだけど、全然そうじゃなくて、散発的には打つんだけれども、得点に至らずってやつで、なんか見ていてもちょっとダレてくる。

 まあヒット数が中央大4、専修大5ってんだから、それから見ても推して知るべし。

 んで、中大ファンとしてはこのまま引き分けに持ち込みたいと望んだ延長12回裏、4番濱田がヒットで出塁。

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 5番渡辺がデッドボールで、ランナー1・2塁。

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 そこで中大は先発の山手を下げて、鍬原にスイッチ。

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 ところがその鍬原も6番新垣にフォアボールを与えてしまい、満塁に。

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 で、7番岩下の打席でワイルドピッチ! キャッチャー後逸する間に……

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 濱田がホームインしてサヨナラ・ゲームになりましたとさ。

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 う~ん、なんかなあ。中央大が一人でゲームをやって、勝手に自滅していった試合でした。専修大の選手たちだって、「アレッ? いつの間にか勝たせてもらっちゃった」ってな感じで未消化でしょう。

 野球は二つのチームが切磋琢磨するから面白いんであって、こんな「変な形のワンサイドゲーム」って実にツマラン。

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 まあ、秋山監督ではどうにもならんか!

NIKON D7000+SIGMA DG 150-500mm/F5-6.3 APO HSM @Jingu Studium (c)tsunoken

2015年4月 9日 (木)

『NEWSポストセブン』がリアル紙雑誌になった……って言っても多分1回限りのMOOKですけどね

 結局、昨日も雨で中大vs専修大戦は中止。こんなことなら一昨日予定通りやっときゃよかったんだよなあ。

 ということで、今日も代わりのネタを。

『NEWSポストセブン』とは『週刊ポスト』『女性セブン』『SAPIO』『マネーポスト』などの小学館の雑誌のネタを基にしたニュースサイト。

 対する講談社が『現代ビジネス』という、『月刊現代』をベースにした評論系のマガジンサイトを運営しているのに対して、小学館は元々『月刊現代』みたいな評論系のメディアは持っていなかったので、やはり情報系のニュース・サイトになるんだなあ。

 この辺が両社の「情報」「ニュース」に関する考え方の違いが出ていて面白い。

News 『NEWSポストセブンマガジン』(NEWSポストセブン/小学館/2015年4月1日)

 で、紙版『NEWSポストセブン』の構成は

第1特集「ネットで好かれる人 嫌われる人」

第2特集「いいね! に依存する人々――「承認欲求」という魔物」

 ときて3番目が

「NEWSポストセブンウォッチング」

 という、如何にも「NEWSポストセブン」らしい、話題記事を集めた誌上サーフィンなる代物。

 ときて、その次に控えしは、いろいろな人に「どんな情報をどこで見てどう使っているのか?」を聞いた

「みんなのネットニュース事情」

 で

「データに見るネットなう」

「時代を読み解くネットの論点」

 と続きます。

 まあ、紙版ならではの構成なんですけれども、ちょっと手垢に汚れた構成だなあ。まあ、紙版だとすると、こうするしか他はなかったのかなあ。あ、まあ読んでみて面白かったですよ、それは。ただ、何となくもうちょっと違った構成方法もあったんじゃないかな、と考える一方、紙版としてはこうした構成しかないのかな、とも……。

 取り敢えず読んでみましょう。

 最初の「ネットで好かれる人 嫌われる人」には、まず「好かれる人の特徴」というのが出ていて

①ツッコミどころがある
②意外にいい人だった
③実力があるくせに一般人と同じような感覚を持っている
④圧倒的実力者。もう何も言えない
⑤ネット民に対して寛容
⑥魔法でもやっているのか? と思うほど不思議な気配がある

 ということで、取り敢えずTOP30を見ると

1位 速水もこみち
2位 江頭2:50
3位 TOKIO
4位 福山雅治
5位 山田孝之
6位 さかなクン
7位 照英
8位 室伏広治
9位 新垣結衣
10位 松岡修造
11位 ローラ/12位 川越達也/13位 佳子さま/14位 川崎宗則/15位 キアヌ・リーブス/16位 長瀬智也/17位 森高千里/18位 吉田沙保里/19位 荒木飛呂彦/20位 西川貴教/21位 マツコ・デラックス/22位 内田篤人/23位 タモリ/24位 多田野数人/25位 國母和宏/26位 新垣隆/27位 市川海老蔵/28位 出川哲朗/29位 プーチン大統領/30位 小林幸子

 という並びだ。

 うーん、なるほどという人もいるし、「?」な人もいるが、まあなんとなく分からないでもない。

 で、一方「嫌われる人」ってどんな人なんだと思って読むと

①自慢気に見える(辻希美、紗栄子)
②たいして実力がないのに調子に乗っている風(IMALU、May J)
③どことなく生意気に見える(SEKAI NO OWARIのFukase、西野亮廣、安藤美姫)
④偽善的に見える(渡邉美樹、スキマスイッチを含む東日本大震災時に「僕達には歌うことしかできない」的なことを言った人々
⑤ネット民に無駄に反応し「煽り耐性」がない(安藤美姫、ロンドンブーツ1号2号田村淳、爆笑問題太田光、松本人志)
⑥スキャンダルを起こした(矢口真里、デーブ大久保、江角マキコ)
⑦エラソーに見える(和田アキ子、みのもんた、宮根誠司、古館一郎)

 ということなんだなあ。

 まあ、ふむふむなんていう人もいるが、だからと言って私がその人たちを直接知っている訳でもない(安藤美姫なんてね)。なので、私のその「嫌われる人」に対する評価は出せない。それは当たり前でしょう。基本的に人に対する評価っていうものは、その人に直接会って下すものなのである。直接、そのご当人に会ってもいないで、何でその人が「こういう人だろう」なんていうことが言えるのだろうか。

 まあ、この辺がネット社会の怖いところで、ネットで誰かを嫌う人たちってのは、元々テレビの受像機のこちら側で、画面を見ながら勝手な評価をしていたのが、偶々、ネットでテレビ画面を見ながら隣の人に勝手なことを言っていたのと同じ気分で、全世界に自分の勝手な評価を発信してしまっていたのだった。

 ってことは、ネットで嫌いな人を叩く連中は、毎年夏になると出てくる「バカッター」と同じくらいネットリテラシーのない人、と言うことになるのかなあ。自分のつぶやきが世界中に拡散しているということにたいして、全く無自覚なバカッターと同じ、ということで、発言には気をつけましょうね。

 自分の「小さな発言」が、とてつもなく「大きな世論の流れ」になってしまう可能性があるのが、このネット社会なのだから、そんな世界の中では、「自分の発言が世界に及ぼす可能性」について無自覚な人は、ネット社会で発言する権利はない、と考えるべきだろう。

『NEWSポストセブンマガジン』(NEWSポストセブン/小学館/2015年4月1日)

2015年4月 8日 (水)

えっ、“カンガルー”って「知らない」ってことじゃなかったの?

 本当はこのネタ、明日のブログで書くつもりだったんだけれども、昨日の東都大学野球2015年春シーズン・インが駒澤大対拓殖大の一試合だけになってしまい、中央大対専修大が今日に順延となってしまったので、取材できなくなってしまい、急遽差し替えってことで……。

 まあ、もともと小ネタなんですけれどもね……。

 なので

 カンガルーという動物に関して調べていたら、なんとWikipediaにとんでもない記事を発見してしまった!

 とタイトルだけは、ハデにやっちゃいます。

 ネタは本当に小さいです。スイマセン。

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 Wikipediaに曰く

『「カンガルー」は、もともとカンガルー(跳ぶもの)を指した現地語 gangurru が変化したものであると考えられる。西洋人がカンガルーを指して「あの動物は何と言うのか」と聞いたところ、現地人は(外国語では何を言いたいのか)「わからない」という意味で「カンガルー」と答え、これがこの動物の通称となったという逸話が、テレビの情報番組で紹介されたり、中学の英語の教科書にも載ったことがあるが、これは俗説である。なお、オーストラリア周辺には多くの部族が住むため、すべての部族がカンガルーのことをこう呼ぶわけではない。
 カンガルーという語がはじめて記録されるのは、ジェームズ・クックの最初の航海について記述したジョセフ・バンクス(王立協会会長を務めた貴族)の文章で、このときは「Kangaru」と綴られた。元々はグーグ・イミディル語で灰色のカンガルーの意味であったが、すぐにカンガルー全体を示す英語として使われるようになった』

 とのこと。

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 えっ? そうだったの?

 オーストラリア探検に行ったジェームズ・クックが、飛び跳ねる動物を指して、「あれは何て言う動物だ?」と現地人に聞いたところ、「カンガルー(わからない)」という返事が返ってきたので、カンガルーはカンガルーという名前の動物と言うことになった。という話しを、多分上野の鈴本演芸場の落語のマクラかなんかで聞いて、「お、こりゃ使える」と早速家に帰って、それをネタにした脚本を書いて、最後に「カンガルーが『わからない』という意味だったことに、後から気がついたジェームズ・クックは『クック』と苦笑いしました」というオチをつけて、私が脚本・演出・主演でクラスで上演したのが、小学校6年生のとき。

 結構、受けたんですけれどもね……。

Dscf65292写真はすべて上野公園のカンガルー

 う~ん、あの時のネタは「俗説」だったのか。

 ならば、私の小6の際の名誉はどうなるんだ、って言っても、もう皆忘れているか。

 って言う程度の小ネタですがね。何か印象的なWikidediaの記事だったもんで……。

Fujifilm X10 @Ueno Zoo (c)tsunoken

2015年4月 7日 (火)

『ズームレンズは捨てなさい!』って言われてもなあ

『ズームレンズは捨てなさい!』って言われてもなあ、今のオートフォーカス・カメラでせめてマニュアルで動かせるのはズーム機能位だもんなあ。とは言っても私自身の写真の撮り方は、広角、標準ズームではほとんど広角端、望遠ズームでは望遠端で撮ることが多いもんなあ。それなら初めから単焦点レンズで撮ってもいいんだ、ってこと?

 それに単焦点レンズって基本的にフィルム・カメラ時代のレンズってことになると、値段もこなれてきていて、う~ん、マズいな、これじゃあレンズ集めが趣味になってしまいそう。

Photo 『ズームレンズは捨てなさい!~3万円単焦点レンズで世界を変える~』(赤城耕一著/玄光社MOOK/2015年4月13日刊)

 紹介している3万円レンズは、フルサイズが「Nikonだと Ai AF Nikkor 24mm F/2.8D, Ai AF Nikkor 35mm f/2D, LENS Series E 28mm F2.8, GN Auto Nikkor C 45mm F2.8, Ai AF Nikkor 50mm f/1.8D, Ai AF Nikkor 55mm f/2.8D, Nippon Kogaku Nikkor-s AUTO 50mm F1.4, Nikkor-P AUTO 105mm F2.5, Ai AF Nikkor 85mm f/1.8D, Nikkor AUTO 180mm F2.8, Canonでは EF35mm F2, EF40mm F2.8 STM, EF50mm F1.8(I), EF85mm F1.8 USM, EF135mm F2.8 ソフトフォーカス, PENTAXが smc PENTAX-FA35mmF2AL, smc PENTAX F50mmF1.4, smc PENTAX F85mmF2.8 SOFT, SONY 85mm F2.8 SAM, TAMRON SP AF 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 272E, SIGNAは 20mmF1.8 EX DG ASPHERICAL RF, 24mm F1.8 EX DG ASPHERICAL MACRO, 50mmF1.4 EX DG HSM, Leitz Elmar 5cm F3.5, Leica Summitar 5cm F2, Nippon Kogaku Nikkor H C 5cm F2, Canon CANON LENS 50mm F1.4, Canon SERENAR 35mm F3.2, Voigtlander COLOR-SKOPAR 35mm F2.5 C TYPE」の29本、APS -Cが「Nikon AF-S DX NIKKOR 35mm F/1.8G, Canon EF-S60mm f2.8 マクロ USM, Canon EF-S24mm F2.8 STM, Canon EF-M22mm F2 STM, FUJIFILM XF18mm F2 R, FUJIFILM XF27mm F2.8, SONY DT35mm F1.8 SAM, SONY DT50mm F1.8SAM, Tokina AT-X PRO DX M 35mm F2.8AF MACROm SIGMA 30mm F1.4 EX DC HSM」の10本、マイクロフォーサーズはさすがにオリンパスが存在感を示す「そのOLYMPUSが M.ZUIKO DIGITAL 17mm F2.8, M.ZUIKO DIGITAL 25mm F1.8, M.ZUIKO DIGITAL 45mm F1.8, Bodycap Lens BCL-1580/Fisheye BCL-0980, ZUIKO DIGITAL 25mm F2.8, ZUIKO DIGITAL 35mm F3.5 Macro, Panasonicが LUMIX G 14mm F2.5 ASPH., LUMIX G 20mm/F1.7 II ASPH, SIGMAが 19mm F2.8 DN, 30mm F2.8 DN, 60mm F2.8DN, Tokina Reflex 300mm F6.3 MF MACRO」の12本。う~ん、グジャグジャ「日本語の英語」の羅列で面倒くさいけれども、まあ、それぞれのレンズは結構高い評価をされているレンズなんですよ。

 その他、コラムが「5万円台で?! フルサイズを堪能する」「3万円とどう違う?? 高級レンズで世界を変える」とあって、「世界を変えたいアナタのための 中古レンズの買い方と基礎知識」 「CAMRA fan加盟店リスト」「欲しいレンズは、カメラファンで探しなさいっ! 中古カメラ・レンズ検索サイトCAMRA fan (http://camerafan.jp/)」という、本書で中古レンズに興味を持った方へのガイド記事が載っている。

 さすがにフルサイズのレンズが存在感を示しているなあ。そりゃそうだ、たかだかここ十数年の歴史しかないデジタル・カメラの歴史に比較して、既に100年を過ぎた時代を経たフィルム・カメラだ、というかここで紹介しているフルサイズ用のレンズはほとんどがフィルム・カメラ時代のものなのだ。ニコン・レンズが圧倒的な存在感を示しているが、中にはLeitz Elmar 5cm F3.5やLeica Summitar 5cm F2なんていうライカ・レンズまで含まれている。

 ライツ・エルマー5cm F3.5とかライカ・ズミタール5cm F2など、さすがにライカ・レンズになってしまうとこうした戦前や戦後すぐのころのレンズになってしまうが、そうなると発色がどうなるんだろうか、と気になるところ。まあ、でもそこはデジタル一眼のオート・カラーバランスで何とかなってしまうのかな。

 赤城氏はあとがきに『日々気持ちは変わる。昨日は広角の目、今日は標準、明日は望遠の目で街を歩いてみようと考える。ランチのメニューを日々変えるように。いやズームリングを回せばサンドイッチもざるそばも出てくるから問題はないと思った瞬間に写真はだらしなくなる。これではファミレスである。やはりトンカツやソバはそれぞれの専門店で食してこそ。強い意思を持ち、ひとつの視覚で世界に切り込むことが尊い撮影行為である』と書くが、う~ん、まあ写真の専門家としてはそうかもしれないが、取り敢えずブログに載せる写真を失敗しないようにして撮れればいいというのであれば、一眼レフ・カメラにセットで付いてくるズーム・キット・レンズでもいいのである。と、いうか基本的にズームレンズを敵視するって言うのは、旧世代の写真家の基本スタンスだからしょうがないのかな。まあ、彼らが写真家生活を始めた頃のズームレンズって、暗いし、収差はひどいしってな感じで、プロが使うレンズじゃないって感じだったけれども、今や、単焦点レンズと変わらない表現をするズームレンズなんてのがいくらでもある。まあ、多少暗さはあるけれどもね。

 とは言うものの、そんなセット・レンズでは物足りなくなって来たときに、欲しくなるのは超広角ズームや超望遠ズームなのであります。あとはボケ効果を狙って、大口径の標準か短めの望遠レンズくらいかな、必要なのは。

 それがレンズ・オタクにならないための要注意事項だ。

 プロ写真家であればそんなレンズ・オタクもいいけど、アマチュア、あるいはハイ・アマチュア・レベルのカメラマンだったら、ズーム・レンズでもOKであります。望遠系のズームで絞りをあけてとれば結構いいボケ味も出てくるし、もともと、暗めのズーム・レンズなので絞り込んだ時のシャープさはお得意のジャンルなのだ。

 はじめにで書いたように『「単焦点レンズを使えば世界を変えることができる」と妄想できるアナタのため』に書いた本なのですから、そんなレンズ・オタクになりたい人にとっては有効な本なのではありますがね。

 

『ズームレンズは捨てなさい!~3万円単焦点レンズで世界を変える~』(赤城耕一著/玄光社MOOK/2015年4月13日刊)

2015年4月 6日 (月)

港区・二本榎通り⑦光福寺の「ゆうれい地蔵」

 更に更に、高輪一丁目を品川に向かって行くと浄土宗開運山光福寺というなんか有り難い名前のお寺に行きつきます。

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 境内にはいろいろなところから集められたお地蔵さまが沢山置いてあります。

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 奥に入っていくと更に沢山のお地蔵さまの山がある。

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 無縁仏の前にも沢山のお地蔵さまが。

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 なんでも各地で放置されていたお地蔵さまを集めて供養したものだそうです。

 で、なんと「開運稲荷大明神」なんて祠も寺社内にあるのです。う~ん、江戸時代までの神仏習合の歴史が生きてるのかな。

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 で、その開運稲荷大明神の隣にある祠がなんか怪しい。

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 で、覗くと何とも寂しげなお地蔵さまがいる。

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 実はこれ「ゆうれい地蔵」として、この地では有名なお地蔵さまらしい。

『江戸の昔のことです。二本榎にある飴屋に毎晩赤ん坊を連れた若い女性が飴を買いにきます。雨でも傘をさしていないので不思議に思った飴屋の主人が、ある日母子の後をつけてみたところ、寺の中に入っていきました。数日後、今度は住職とともに後をつけていくと、地蔵の前にたどりつきました。住職がこの地蔵を毎日供養すると、不思議なことに母子は現れなくなったということです。
 この地蔵は品川沖からあがり、死んだ母親に代わって子どもを育てたという言い伝えがあり、「子安地蔵」として境内に祀られています。昔からよくある飴買い幽霊の伝承話と結びつきゆうれい地蔵と呼ばれるようになったのは、地蔵がまるで岩から浮き出てきたような、ちょっと不気味な姿にみえるからでしょうか』(「港区ゆかりの人物データベース」http://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/trivia-detail.cgi?id=9 より)

 街に掲示されている地図にも「ゆうれい地蔵」として載っている。

 う~む、古い街にはいろいろ知らないことが一杯あって面白い。なんか、この古町めぐりってこれからも続けそうだなあ。

 ということで一週間にわたってお付き合いいただいた「二本榎通り」の旅も今日でおしまい。明日からは再び本を読んだり、映画を観たり、写真を撮ったりのブログに戻ります。

 お付き合いいただき、有難うございました。

NIKON D7000 AF-S NIKKOR 18-105mm @1 Takanawa, Minato (c)tsunoken

 

2015年4月 5日 (日)

港区・二本榎通り⑥承教寺「件」の狛犬

 高輪消防署二本榎駐在所を過ぎて、高野山東京別院の前を通り過ぎると、左側に承教寺という日蓮宗のお寺があるのだが、その門前に置かれている狛犬が面白いのです。

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 なんか変な顔をした狛犬だなあ。

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 左側も同じく顔は変なオヤジ顔だし、足には蹄がある。

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 これ実は「件(くだん)」という想像上の生き物なんだが、要は文字とおり半人半牛の姿をした怪物のことなんですね。

 幕末頃に広まった伝承では、牛から生まれ、人間の言葉を話すとされており、生まれて数日で死んでしまう。その間に作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし、それは間違いなく起こる、とされていたという。

 それはさておき、なんで「件の狛犬」がこのお寺にあるのかがよく分からない。

 なんか、分からないことだらけの高輪のお寺群ではある。

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 同じく、門前には件の狛犬の隣に「二本榎之碑」もある。

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 長々とお付き合いを頂いた「港区・二本榎通り」なんだが、あと一回で終わる予定です。

NIKON D7000 AF-S NIKKOR 18-105mm @1 Tkanawa, Minato (c)tsunoken

2015年4月 4日 (土)

港区・二本榎通り⑤松光寺の「タタリ仏」

 二本榎通りを更に西へ向かって歩いて、高輪消防署二本榎出張所のそばまで来ると、右側に松光寺というお寺の前に行きつきます。

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 実は、二本榎通りが旧東海道(鎌倉往還)だったというのは、このお寺の境内掲示を見て知ったんだが、それ以上にショッキングな掲示がある。

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 お寺は元々、関ヶ原の戦いの頃に頂本寺という名前で創建されたのだが、江戸時代になって、元禄元年、松平日向守信之の正妻・松光院にちなんで「松光寺」と名前を変えたそうだ。

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 で、その松光院殿の墓や……六地蔵なんかがあるのだが。

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 このやさしそうなお地蔵さまの名前が「タタリ仏」というのだそうだ。

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 境内掲示にはこんな江戸の古地図なんかもあって、昔の三田、高輪の高台と海の関係がよくわかる。やっぱり、今の品川駅なんかは江戸時代は海だったんだな。

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 で、肝心の境内掲示なんだが

『松光寺は元々頂本寺といわれ、永享六年(西暦一五六三年)有名な桶狭間の戦の翌年、芝西久保巴町(今の虎の門)の地に開基されました。未だ江戸幕府の入部前で当時日比谷あたりは江戸湾でしたから浜辺の小祠堂だっったかもしれません。その後慶安年間四代将軍家綱の時代に現在地高輪に移転してきました。松光寺前の通りは、江戸幕府入部前の旧東海道(鎌倉往還)で由緒のある通りです。
 その後上山(かみのやま、蔵王の麓)松平家の江戸の菩提寺となり、四代忠国公正室松光院の墓の建立を契機に今の松光寺に寺名を更めました。その後薩摩藩の帰依も受け、一時は寺侍三十人を抱える程繁栄したと伝えられ、明治初年の我国初の鉄道建設に当っては英国人技師の宿舎になり、我国の鉄道建設史にその名を残しています。然し幕末の大名家の没落、廃仏毀釈などの時勢のため徐々に寺運衰微の止むなきに至ってしまいましたが、近時寺門興隆のため力を尽くして努力をしております。
 敷地内には名前の由来となった巨大な(高さ四・八メートル)松光院の墓、貞享院の墓、触れるとたたるとされるタタリ仏、六地蔵などの貴重な歴史的遺産が保存されています』

 とあって、松光寺の由来はわかるのだが、「タタリ仏」については「触るとたたる」というだけで、なぜそうなってしまったのかが分からない。

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 う~ん、「仏」と「祟り」の関係ってどうなんだろう。何か、慈悲深い仏様に触るとなんで祟るのかが分からない。

NIKON D7000 AF-S NIKKOR 18-105mm @1 Tkanawa, Minato (c)tsunoken

2015年4月 3日 (金)

港区・二本榎通り④大石良雄自刃ノ跡

 二本榎通りを伊皿子交差点を過ぎて、本当の二本榎通りになってちょっと行くと、右側に都営住宅としてはかなり立派な建物が見えてきます。

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 アパートの名前は「都営高輪一丁目アパート」といって、都営住宅のシンボルみたいな建物のようです。

 で、その建物の前に何と「大石良雄等自刃ノ跡」という石碑。

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 何だろうと思って、アパートの庭を入っていくと。

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「東京都指定旧跡 大石良雄外十六人忠烈の跡」

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 碑文を読むと。

『この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら一七人が預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷の一部です。赤穂事件とは、元禄一四年(1701)三月一四日におこった殿中刃傷事件とその翌年一二月一四日夜から一五日にかけての吉良邸討ち入り及びその一連の事件のことをいいます。
 当時の藩主五代綱利は、老中稲葉肥後守からの御預けの命を受けると、大目付仙石伯耆守の屋敷に総勢八七五人の藩士と駕籠を送り引き渡しを受けます。このような大部隊を送ったのは、大藩の威武を示すとともに、上杉家の襲撃を警戒したためといわれています。細川家は、大藩の威厳と識見をもって優遇し、御預四家の中で即日引見したのは細川家だけでした。
 元禄一六年(1703)二月四日午後二時、上使の御目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から切腹の申渡しを受け、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存知奉り候」と礼を述べました。切腹の場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を背負った位置でした』

 つまり、このすぐ下の高輪の泉岳寺に集結した赤穂浪士一隊は、それぞれの藩邸に分けられて囚われの身となり、ここ細川藩邸に分けられた志士たちの最後の場所が、ここだったんですね。何となく泉岳寺が最期の場所だと思っていたんだけれども、それはお寺のこと、殺生禁止の場所で切腹なんてことはありえない。ということで、泉岳寺(に眠る浅野内匠頭)の傍の細川邸に、一番浅野内匠頭に近かった大石内蔵助他が囚われ、切腹したという訳なのでした。

 碑文には『自刃せる義士左の如し』として17人の名前と享年が書かれています。結構、若い人もいたんだなあ。内蔵助だって享年45歳だもんなあ。

大石内蔵助 良雄 四五
吉田忠左衛門 兼亮 六三
原惣右衛門 元辰 五六
片岡源五衛門 高房 三七
間瀬久太夫 正明 六三
小野寺十内 秀和 六一
間喜兵衛 光延 六九
磯貝十郎左衛門 正久 二五
堀部彌兵衛 金丸 七七
近松助六 行重 二四
富森助左衛門 正因 三四
潮田又之丞 高教 三五
早水藤右衛門 満堯 四〇
赤垣原蔵 重賢 三五
奥田馬子太夫 重盛 五七
矢田五郎右衛門 助武 二九
大石瀬左衛門 信清 二七

 合掌

NIKON D7000 AF-S NIKKOR 18-105mm @1 Takanawa, Minato (c)tsunoken

2015年4月 2日 (木)

港区・二本榎通り③三田台公園の竪穴式住居

「港区三田」の地名の由来となったのが「御田八幡神社」。その名を冠した港区立御田小学校の前にあるのが「港区立三田台公園」です。

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 この公園、上野国沼田藩下屋敷~華頂宮邸の敷地の一部だった、ということで、昔は昨日書いた亀塚公園と同じ敷地だったんですね。

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 ところが、こちらの公園はあまり人がいない……

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 奥の方を見ると、何やら怪しい建造物が。

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 更に行くと、おっ、ありました。貝塚の標本。そうか、ここは縄文時代の集落の跡、だから貝塚があるんだなあ。

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 この高台の下、現在の品川電車区(東京総合車両センター)がある場所は昔(縄文時代)は既に海だったんですね。

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 その海で、貝や魚を獲って、崖を上がってこの三田台にある集落で縄文時代の人たちは生活をしていた訳なんだ。

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 竪穴式住居の跡なんかもあって、由来のよくわからない「亀塚公園」とは一線を画している。つまり、由来のよくわからない亀塚公園は、なので児童公園として子供たちの遊び場として整備し、ここ三田台公園は教育庭園として残している訳なんです。

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 で、これが先に書いた「何やら怪しい建造物」の正体。つまり、竪穴式住居の復元されたもの、ただし、鉄筋コンクリート製。

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 中にはこれまた怪しい(?)、縄文時代の人の竪穴式住居の中での生活が見て取れます。

NIKON D7000 AF-S NIKKOR 18-105mm @Mitadai Park, Minato (c)tsunoken

2015年4月 1日 (水)

港区・二本榎通り②亀塚公園

 二本榎通りの港区立三田中学をすぎて道が平坦になると、道の左側、済海寺の隣に「港区立亀塚公園」がある。

 元々、江戸時代には上野国沼田藩士土岐伊勢守の下屋敷で、明治からは皇族華頂宮邸だったところが、戦後になって児童公園として整備されたもの。

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 一見、普通の公園風で、寛ぐ港区民や子供たちが遊びまわっているんだけれども……

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 公園の案内図を見ると、ありました「亀塚」。なんだろうと行ってみると……

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 明らかに人為的に作られたこんもりとした盛り土跡。これが亀塚なんですね。

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 この亀塚、長らく古墳であると指摘されていたのだが、昭和45~46年に港区教育委員会と慶應義塾大学の合同調査で、古墳時代以降に作られたもので、古墳らしい遺構も出てこなかったことから、古墳であることは否定されたという。

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 山の頂上には、上野国沼田城主土岐頼煕(ときよりおき)によって寛延三年(1750年)に作られた亀山碑というものが作られている。その頃にはまだ古墳だったんだろうなって思いがあったようだ。
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 更に「亀塚霊神祠跡」なんてのもあって、昔はここに小さな神社があったのだろうということがうかがわれる。

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 まあ、この亀塚、何らかの神的な存在ではあったんだろうなあ。

 それでも、地元の人たちは、「亀塚は古墳だった」と信じている人が多いようだ。

 まあ、多分それは永遠に裏切られることになるんだろうなあ。

NIKON D7000 AF-S NIKKOR 18-105mm @Kameduka Park, Minato (c)tsunoken

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