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2014年11月 5日 (水)

『通過者の視線』というより、森山大道ファンのあるべき姿について

『それは、今回撮った沖縄やかつて写した北海道の写真についても同じことで、それぞれの地域や地勢がもつ歴史や風土や現状がいかに異なっていようと、またそのときのぼく自身の思い入れがいかなるものであろうと、写真という名の一点において、写すぼくの視点に大きな違いはない。それはぼくが、自分の写真をすべて線上の流れのこととして捉えているからだ。言いかえれば、ぼくが五十年という時を掛けて覚えた唯一のカメラワークとは一貫して〝通過者の視線〟に他ならない』

 なるほどなあ、確かにあまり被写体との関係性を見せない、というか元々あまりないストリート・スナップという森山大道氏の写真はまさに「通過者の視線」なのかもしれないなあ。

Photo『通過者の視線』(森山大道著/月曜社/2014年10月10日刊)

 森山大道氏の写真(ストリート・スナップ)って、それが東京の新宿であれ、渋谷であれ、池袋であれ、また大阪であれ、はたまたサン・パウロであれ、パリであれ、結局写っているのは、同じような人の群れであったり、壁のポスターであったり、何かを恐れているような人びとたちの写真だ。つまり、すべての「ストリート・スナップは等価である」ということ。

 まさにそれは「通過者の視線」なのかもしれない。が、そこれ写されている人たちの誰一人として「幸せそう」な人がいないというのは何故なのだろうか。むしろ、何かを恐れているような人たちばっかりが写っているような気がするのは私だけなのだろうか。

 あるいは、人影が写っていない町の風景などの写真であっても、そこに写されているのは、やはり壊れかけた看板だったり、裏町のバーの裏さみしい看板だったり、茫洋とした荒野の姿だったり、いずれにせよ、そこに写されているのは「さみしさ」なのである。

『写真とは、所詮感情を持つ人間の所産であり、一枚のショットのなかに否応なく写されてしまう個の思考、個の生理、個の性癖、個の記憶、個の美学、個の情緒などといったさまざまな属性を、いったい写真かはどこまで削ぎおとすことができるのか、あるいはそれじたい可能なことなのかと、ぼくはとまどいつつくりかえし考える』

 といいつつも、同時に

『カメラはもともとコピー機に過ぎないし、少なくとも。路上をテリトリーとするカメラマンにかぎっていえば、目前に生起するあらゆる事象と、そこに流れる時間とを一瞥しつつ、瞬時写し止める人種に過ぎない。いわば、目のアルチザンである』

 と書く。

『未来はとめどなく現在(いま)に流れてきて、現在(いま)は瞬時にして過去へと流れ過ぎてゆく。いまという時間との交差なくして過去も未来もありえなしし、逆に、過去と未来の照合なくしていまもありえない。過去とは、単に過ぎ去りし懐かしい日々ではないし、未来もまた、開かれた夢の領域でもない』

 と、それをまとめるのであれば、まさしく「写真」とは「未来→現在→過去」という具合に流れていく「時間」を捉えたものなのではないか。

 であるからこそ、宮本常一という民俗学者が撮影した、膨大な日本の様々な土地の写真を前にして

『フィールドワークとカメラワークとフットワーク。目に映る全部が自分の民俗学の世界だとはっきり思っていた人ですね。この人ほど一種物狂いというか撮り狂った人は、プロカメラマンでもいないんじゃないかなおそらく。ぼくなんか歩いて撮っているほうですがそれでもやっぱりかなわんと思うから……』

 という結論に達するのである。

 民俗学者の写真とプロカメラマンのストリート・スナップとはどう違うのか?

 実はたいして違わないのである。宮本常一が撮影してきた数多くの写真と、森山大道氏が撮影してきたこれまた数多くの写真を見比べてみると、それはあまり変わりはない。大きな相違点は、基本的に人が写っている場合は、宮本常一の場合は被写体は基本的にカメラの方を向いて撮られているのに対して、森山大道氏の場合は、カメラに正対している被写体はほとんどないといっていいだろう、という違いがある。

 これは当然、「民俗学の資料として撮らせてください」といって撮った宮本常一と、街に繰り出していって、勝手に街を歩いている人たちを瞬時に「盗撮」するストリート・スナップの違いなんだからしかたがない。ところが写されている事象や人たちの行いは基本的には変わりはないのである。つまり、ストリート・スナッパーと民俗学者はどちらがどうということではなく、写真を撮るという行為においては、さほど変わりはないということなのかも知れない。

 じゃあ、森山大道氏が民俗学者になれるかといえば、そういうことではない。結局、写真家は写真家でしかなく、民俗学者のようには、後に自分が撮ってきた写真を分析したり、写真を撮りながら聞いてきた話を体系的にまとめることはしないのだろう。

 で、結局、写真家は写真家のまま、相変わらず貧乏暮らしに甘んじなければならないし、同時に、民俗学者もまた貧乏な人が多い。

 それはそれで仕方のないことなのかもしれないな。

 だって、民俗学者もストリート・スナッパーも、基本的にコストのかからない職業なんだもんなあ。ストリート・スナッパーにはモデル料もスタジオ料も必要ないし、民俗学者も研究対象は市井の人たちばかりなのだ。

 で、沢山写真を撮ってきても、結局その写真群が役に立って、その後、遺族なんかに印税が入ってくるのは、民俗学者やカメラマンが死んで後のことだ。

 まあ、最近の森山大道氏の、撮影以上に旺盛な出版活動というのは、もしかするとそうした死期を感じている森山氏自身の自らの家族に対する、これまでの贖罪なのかもしれない。

 だとしたら、森山大道ファンとしては、これから出てくる森山大道写真展ではそのプリントを買い、森山大道写真本はすべて買わなければいけないのではないか。

 う~む、森山大道ファンをやっていくのも大変だァ。

『通過者の視線』(森山大道著/月曜社/2014年10月10日刊)

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