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« 『仰天! 北朝鮮』は単なるネタのためのネタでした | トップページ | 荏原中延商店街―『路地裏の資本主義』実践編 »

2014年10月28日 (火)

『路地裏の資本主義』で、ちょっと残念なこと

 ポイントは「畢竟、資本主義って何なのだろう」というところである。

Photo『路地裏の資本主義』(平川克美著/角川SSC新書/2014年9月25日刊)

『実際に、株式会社の起源を調べていくと、十七世紀後半に、ロンドンの金融街エクスチェンジアレイのあたりに跋扈していた株の仲買人による、遠隔地貿易のための遠洋航海の資金集めのやり方の中に、今日の株式会社の萌芽的形態を見出すことができます』

『仲買人たちは、航海前の出資に一口乗れば、遠隔地の希少生産物や金銀財宝を載せて帰還したあかつきには、賭け金が膨れ上がってくると煽って、資産家や投機的な投資家を勧誘したと思います』

『当初の目論みが当たって、大金を集めた仲買人たちを見て真似する人たちが出てきました。そして一六六九年から九五年までに九十三社もの株取引が行われたそうです。投機熱が一気に高まっていったのでしょう。しかし、わずか数年後には、そのうちの二十社しか残らなかったということです。なかには詐欺同然に、お金だけ集めてとんずらしてしまったものもあったのでしょう』

『(南海泡沫事件の:引用者注)以後、百年にわたって株式会社は姿を消すのですが、産業化革命が始まって、再び株式会社のシステムが注目されるようになりました。産業機械が発明され、工場が建てられるようになって、大きな設備資金が必要になったからです』

 つまり、株式会社とか株式投資というものは、基本的にフィクションであるということだ。

 と、同時に

『株式会社が地球上に生まれたと同じ頃、人間はもうひとつの壮大なフクションをつくり出しました。想像の共同体として、のちにベネディクト・アンダーソンによって研究された国民国家です。国民国家以前には、封建領主や、国王たちが支配する地域同士が、それぞれ地域の権益を拡大するために、あるいは宗教戦争というかたちで、長く不毛な戦いを続けていたのです。
 一六四八年に終結したヨーロッパ三十年戦争の講和において、それぞれの地域を、国民を単位とした国家として国境の内側に定位し、それぞれの国家は独自の政治体制、経済体制、宗教によって統治されるが、お互いに他国の内政には干渉しないということを定めたのです』

 ということで、国民国家という、やはり壮大な「フィクション」が誕生したのだ。

 で、現在それがどうなっているのかと言えば

『近代社会は、国民国家というフィクションと、株式会社というフィクションの上に発展してきました。留意しなければいけないのは、この二つのフィクションの上でつくられてきたさまざまな制度は、すべて経済が右肩上がりに成長し、文明が都市化へ向かって進展するという背景のもとに考案されてきているということです』

『今日のグローバリズム隆盛の大本の原因を探っていくと、西欧先進国家において国家自体を成立させてきた、右肩上がりの環境が終わろうとしているというところに突き当たります。株式会社にとっては経済成長というバックグラウンドが必須の条件であり、経済成長の終わったところでは、資本と経営の分離という株式会社システムそのものが成立しなくなってしまうわけです』

 つまり、グローバル資本主義というかグローバリズムが、国民国家同士を分けている関税・非関税障壁を打ち破り、ついでに国境というものも打ち破り、最後は国家の持つ徴税権というものすら打ち破ってしまうだろう。そこで、その国民国家の住民たちは、最早国家が自らを庇護してくれることを期待できなくなってしまい、自らの命は自ら守らなければならなくなるという、まさしく「真のインターナショナリズム」の時代がやってくるというのである。

 それは生きやすい世界なのか、生きにくい世界なのか。

 当然、「経済における勝ち組」には生きやすい世界なのだし、「負け組」にとってはまことに生きにくい世界だといわざるを得ない。

 そこで、平川氏はそんな資本主義の世界に生きているけれども、資本主義の恩恵に与かれない「路地裏の小商い」に目をつけるのである。彼らは、営業的には資本主義的な営業をおこなってはいる。しかし、かれらのビジネスに投資しようなんてことを考える投資家・銀行などはいない。つまり、かれらのビジネスには「成長」がないからなのだ。キャピタル・ゲインはないからなのだ。でも、そんな成長しない「定常的なビジネス」にこそ、成長神話のなくなってしまったこの先進国におけるビジネスの基本があるのではないかと考える。

 それは近世までのビジネス感覚。日本でいえば、江戸時代までの商いの感覚である。地方の次男坊・三男坊が江戸の大店に丁稚奉公し、読書算盤を無給で習い、やがて手代となり、番頭となり、暖簾分けしてもらい、自分の店の顧客を大事にし、新たな客を獲得するよりも、それまでの客をいかに放さないでおくかというところで、商売がまわっていけばいい、という考え方だ。それこそ、現代でも町場の、あるいは路地裏の商店なんかの考え方でもある。

 ただ、その結果はどうなったのかといえば、残念ながら後継ぎはいないし、立地の良い商店はデベロッパーに買われて大規模再開発のための土地となってしまうのだ。

 で、結局、平川氏のいう「定常的な経済」は大資本の前になすすべもなく消えてしまう運命にある。

 で

『経済が停滞してから生まれてきた若い人たちの中から、リアリティのない成長戦略よりは、生き延びるための共生へと向かう人たちが現れてきています。
 シャアハウスという共有空間で暮らす若者が増えているのも、その一例でしょう。NPOを働き場所として選ぶ、あるいは地方で生きるという選択も若い人たちの間で志向され始めています。おそらくは、やむなく始めた生き延びる戦略の中に、定常経済への萌芽的な形態が生まれるように思います』

 ということになるのだが、結局、それは東京という先進的な都市では生まれないだろう。むしろ、地方都市の再生とともに、そのような生き方が出てくるのではないだろうか、という思いがある。

 東京という「大きくなりすぎてしまった都市」よりは、今や過疎に悩む地方都市の方に、今後の生き方が試されているのではないだろうか。

 基本的には平川氏のいうところのモノはすべて納得なのだが、一つだけ違和感を感じるところがある。

『株式会社というものは、利潤を追求さるために考案されたシステムである、およそそれ以外のことには無関心な組織です。もちろん、株式会社のメンバーは人間なので、人間の関心を反映させるような活動をすることはあります。しかし。株式会社の持ち主である(と想定されている)株主にとっては、株式会社に投資して金が増えて戻ってくることだけが関心事なのであって、株式会社がどんな風に運営されているのか、社会的貢献はしているのか、ステークホルダーたちの生活は守られているのか、社会的責任を果たしているのかということに関しては、二の次の問題であるか、あるいはせいぜいそういった活動が、利潤に直結するのかどうかに関心があるだけです』

 という見方は、株主活動に対する皮相な見方でしかない。

 つまり、キャピタル・ゲインだけを考えるデイトレーダーなんかは、自分が投資した会社が何をやっているのかなんかは何も気にしないで、ただただ、株価の上下にしか興味はないだろうが、多くの株主はそうでなく、自分が投資した会社がどんなことを行っているのか、どんな社会的貢献を行っているのか、どんな社員教育をおこなっており社員に対してどんな風に会社の利益還元をおこなっているのかに、結構気を配っていたりするのである。

「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一氏の5代目の渋沢健氏が言う「その会社の応援団になったつもりで、長期投資を」というのが、その考え方だ。

 勿論、その会社が成果を上げて儲かってくれれば上々なわけだけれども、別にそうじゃなくてもその会社の株を持ち続けている株主=その会社のファン、という存在も実は大きいのだということにも、すこしは気を配っていただけると、ちょっとは株主というものに対する偏見はなくなるのではないだろうか。

『路地裏の資本主義』(平川克美著/角川SSC新書/2014年9月25日刊)角川なので当然、電子版も出ている。

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