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2014年9月26日 (金)

『現実脱出論』から見えてきたもの

『0円ハウス』のシリーズで知っていた坂口恭平氏の本とは大分様相のことなった本なのである。

 形而上学的なようでいて、しかし、現実論めいていて、しかし、現実を語っているのか、脳内イメージを語っているだけなのか、なんだかよくわからない。

 取り敢えず、読書ノートを作ってみよう。

Photo_2『現実脱出論』(坂口恭平著/講談社現代新書/2014年10月1日刊)

『一つは、僕たちは常に物事を一定に見ているのではないということ。同じに見えていると思っていても、それは体の調子によって実は微妙に変化している』

『この世界は単純ではなく、人間は目に見えているものだけを感じているものでもない。このように空間への疑問が、「目の前の現実が思考を促す一つの装置である」ことに気づかせてくれたのである』

『人間は何かを「見た」気になっているし、空間を「感じた」つもりになっている。しかし、実際は二次元の図像しか網膜には映っていない。両目の図像がずれていることによって奥行という「錯覚」を生み出し、それを空間として受け取っているだけなのだ』

『僕たちは、簡単に知覚しうるものだけで構成された「現実」という名の立体空間を、無意識下で作り上げた。さらに集団を形成することで、「社会」と呼ばれる、言葉をもとに人間を管理し、抑制する空間をも生み出した』

『僕の師匠である路上生活者の鈴木さん(隅田川沿岸在住)は、所持金がゼロで仕事もない。現実から見れば落伍者確定の状態である。
 それでも、彼は役所に泣きつくようなことはしない。アルミ缶を拾って生計を立てている。そればかりか、周囲の路上生活者たちが喜ぶようにと、カラオケセットを拾ってきて自動車用バッテリーで動かしたり、拾ってきたものを無償で振る舞ったりしていた。
 マンションに住んでいる主婦に対しても同じ姿勢で、「自分はアルミ缶拾いで生きている。だから、ゴミとして捨てるのであれば私にください」と自信を持って契約までしている』

『人間は、現実という世界だけでは自由であると感じることができない。現実が仮想空間であることなんてもともと分かっている。だから、現実を脱出すること(=思考)は、誰もが当然のようにやってきたことなのだ』

『思考とは「考える」という行為ではなく、もともとそれぞれの人が持っている「現実と対置された空間」のことなのではないか。
 僕はそんな仮説を立ててみた。
 思考とは、人間がその営巣本能によって内側に形成した「巣」なのだ、と』

『建築家を志しながら一向に建てる気配を見せない僕は、たしかに現実の家ではなく、一貫して「思考という巣」に興味を抱いてきたのだと捉えると腑に落ちる。
 隅田川沿岸で暮らす鈴木さんをはじめとした、路上生活者たちの家を調べている過程でもそのことを強く感じていた。たとえ家を失ったとしても、鈴木さんにはしっかりとした「巣」、つまり思考が備わっていた。だからこそ、生き延びることができているのである。
 一方、僕たちは現実における家を手に入れるために必至になりすぎてしまい、「思考という巣」を疎かにしてしまっているのではないか』

 という具合に読書ノートを作ってみるとみえてくるものがある。

 つまり、「現実」にとらわれてしまうと、見えなくなってしまうものがある。

「現実」が生きにくいと感じたら、そこから逃げ出せばいい。

 逃げる先は「思考という巣」である。

『今、日本には年間三万人ほど自殺者がいるという。自殺の原因の第一位は鬱病などの「健康問題」、第二位が「経済・生活問題」である(警察庁調査平成二十五年)。
 鬱病や躁鬱病そのもので死ぬことはない。つまり、ほとんどの人が鬱期に発生す希死念慮という脳の誤作動で自殺をしてしまっている』

『人間は、機械と違って感情を持っている。その感情によって苦しんだり、嬉しくなったりする。ふつうはそう思い込んでいるのだが、僕は躁鬱の仕業で、いや、そのおかげで、もしかしたら人間の感情なんて実は存在しないのかもしれないと思うようになった。だからこそ、ギリギリのところまで行っても、どうにか死なずに済んでいる。
 誰にだって、死にたいと思ってしまう時はある。そんな時は、この現実脱出の術を使ってみるのはどうだろうか』

 生き辛い「現実」なんて捨ててしまえばいい。

「現実」に合わせて生きようなんて考えないほうがいい。

「現実」に自分を合わせようなんて考えない方がいい。

「現実」なんて捨ててて、「思考の巣」に生きてみようじゃないか。

「現実」なんて無視しても全然大丈夫、むしろ、絶対自由に生きることが出来るんだ。

 ということなのね。

 なんだ、そんなことは昔からやっている、という私。

 まあ、それでも自殺なんて考えなくて済むから、いいじゃないか。

『現実脱出論』って、そういう坂口氏の躁鬱病からくる発想だったのね。

 だって、徹底的な「無責任論者」である私にとっては、そんな「自殺願望」や「希死念慮」なんてものとは縁のない生活をこの63年間送って来たもんなあ。

 何で皆そんなに自分で責任を負ってしまおうとするのだろうか。あるいは社会的にそんな責任を負わせてしまおうとするのだろうか。

 そんなの一発で解決してしまうのにな。

 だって、そんなにあなたに責任を負わせるような社会(あるいは会社)からドロップアウトしてしまえば、その次の日からは何の責任もない生活が出来るのだ。その後の責任はどうなるのだって? そんなことは知るか!

 という無責任な態度で皆が思考すれば、社会はもっともっといい方向にいくはずなんだけれdもなあ。

『現実脱出論』(坂口恭平著/講談社現代新書/2014年10月1日刊)

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