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2014年8月13日 (水)

明治女学校之跡

 またまた、とげぬき地蔵通りを進んで行って……

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 都電荒川線庚申塚駅を越えてすぐに左へ折れると……

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 東京大学豊島国際学生宿舎と……

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 老人施設「菊かおる園」の間に挟まれた坂道をそのまま行くと……

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 西巣鴨幼稚園がある。

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 その幼稚園の一角にあるのが「明治女学校之跡」の碑である。

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 明治女学校とは何だろう。

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 明治女学校とはプロテスタントの牧師・木村熊二と鐙子夫妻が明治18年(1885年)に、九段下牛ケ渕(現・千代田区飯田橋)に開校した女学校で、神の下で平等な男女が健全な家庭を営むための心構えを生徒に躾けた、という。近代日本における女子教育の先駆けと見なされている学校のひとつである。

 もっとも、校内では宗教的儀式は行わず、布教を教育の目的にはしなかったという。まあ、如何にもプロテスタントの学校らしい教育方針。学校運営を話し合う評議会には生徒も参加し、寄宿舎も自治制だったというから、当時としては相当に開明的な教育を行っていた模様である。

 学校は1892年に麹町区下六番町(現・千代田区六番町)に移転したが、教会や宣教師の経済的援助を受けなかったので、経営は楽ではなかったという。1896年2月深夜の失火で、校舎・寄宿舎・教員住宅の大半を失った。

 1897年、東京府北豊島郡巣鴨(現・豊島区西巣鴨二丁目)に校舎を新築。その後が、現在の「明治女学校之跡」なわけである。

 相変わらず学校経営は楽ではなく、結局、明治42年(1909年)に閉校した。

 木村熊二は明治26年(1893年)に長野県小諸市に小諸義塾を開校し、内村鑑三が講演会を開いたり、島崎藤村が英語・国語の教鞭をとったことで知られているが、その島崎藤村に洗礼を施したのが木村熊二その人だったのである。

 群馬県の桐生市や長野県の小諸市あたりには、無協会派のキリスト教信者が多いと聞き、島崎藤村の(宗教的な)跡を継ぐという人が多いそうだ。多分、その草分けが木村熊二だったんだろう。

RICHO GRDⅢ @Nishi-sugamo, Toshima (c)tsunoken

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