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2014年8月 7日 (木)

『幻のB級! 大都映画がゆく』のタイトルの意味は?

 先日の「大都映画巣鴨撮影所」をいろいろ調べているときに発見(大袈裟)した本であります。

 腰巻に「小沢昭一氏、推薦!『昔、私ども少年の血をも、たぎらせてくれた大都映画を、この著者ならではの追跡。ウレシイ。』」

 大衆芸能に詳しく、そして大衆芸能を愛してやまない小沢昭一氏らしい言葉ではあります。そうか、小沢昭一氏の子供時代は大都映画の全盛期だったんだなあ。

B『幻のB級! 大都映画がゆく』(本庄慧一郎著/集英社新書/2009年1月21日刊)

 大都映画の簡単な歴史はその時にも書いたが、大都映画の前身、河合映画のスタートから昭和17年に日活、新興キネマとの三社合併で消滅するまでの15年間で、総製作数1,325本という数だけ見ても、当時の大メジャーであることがわかる。年平均88作。基本的に毎週、週替わりで二本立て興行をおこなっていた訳で、つまり多い年は100本を超える製作本数だったのである。

 まさしくプログラムピクチュアの鑑だったわけで、そんな状況の中では二本や三本の作品を並行して製作する監督や、役者がいたわけで、当然一作一作のシナリオの検討やら、ロケハン、リハーサルなんてものもいい加減にやらざるを得ない。なので、「大都映画は低俗」「大都映画は下流」というそしりを受けたとしても、別にあたらないくらい当然なのであった。

 しかしながら、庶民(あるいは労働者、社会人でもいいですが)たちにとっては「映画は娯楽」でしかない訳で、別に映画を観て社会について考えて見たり、自分の生き方を省みたりなんかはしないで、1時間なり1時間半の「映画の時間」だけは、世間のことなんかは忘れて、面白可笑しく時間が過ごせればそれで結構な訳であった。

 大都映画は元々初代河合徳三郎が作った映画配給会社「河合商会」を大本とする。このころの映画配給会社というのは、自前で劇場を持って上映する現在の配給会社と興行会社との機能を兼ね備えた存在だったようだ。河合徳三郎も映画の配給会社を始めた事情も、大正12年に浅草の「浅草キネマ倶楽部」とい劇場を何らかの理由で手に入れたからということらしい。元々「土建屋の親方」だった河合は、この時、映画の持つ大衆性、娯楽性に目を付けたのかも知れない。

 同じころ、河合は荒川区町屋にあった国際活映(国活)の町屋スタジオの改修工事を請け負い、いっそのことと、町屋スタジオを買い取り映画製作事業を開始する。

『昭和二(1927)年、いよいよ映画製作会社「河合映画社」が発足、翌三年三月にはもう町屋スタジオの規模が不満で、国活が持っていた巣鴨撮影所をも買収する』

 というのが、先日書いた「大都映画巣鴨撮影所」のいきさつなのであるが、巣鴨はまだしも、あの「文化果つる」荒川区に映画の撮影所があったというのも、これまた驚きではある。いまや足立区北千住に大学が三つもある時代であるなら、わからないでもないが、昭和の初期に荒川区にねえ、という驚き。まあ、当時は荒川区なんてのも東京の外れにあって、周囲を気にすることなく映画の撮影ができた時代だったんだろう。

 尾張徳川家の下級武士の子どもとして生まれた河合徳三郎は、十四、五歳のころ青雲の志を持って上京し、土木現場からスタートし三十歳のころ、一家を成して河合組組頭となって独立している。その後、右翼の大物、頭山満を顧問に迎えて国粋主義団体「大日本国粋会」を創設したり、しかし、その大日本国粋会を自ら離脱し、大日本国粋会と対立する「大和民労会」を組織するなどしたようだ。

『周囲はこの大和民労会を「しょせんそのスジの者の集団」と見なしていたが、当の河合徳三郎は労資協調を唱導して労働社会大学を創設したり、いわゆる無産階級の人々のための慈善病院を建設した。さらに、民権新聞社の社主としての活動をしながら、貧しい人たちのために毎日三百人分の炊き出しなども実施している』

『「河合商会」を発足させた翌年の昭和三(1928)年には、東京府会議員第八期の定期選挙に立候補して当選、四年間の任期を務め、次の第九期にも再選され、任期いっぱいの昭和十一年六月までその任務を果たしている。そのかたわらで、昭和二年十二月には、映画配給会社としてスタートさせていった河合商会を映画製作会社「河合映画社」とし、さらに昭和八年に「大都映画株式会社」へと発展拡充させていった。
 土木建築業で院外団のリーダーでもあり、なおかつ東京府会議員を二期八年も務めた河合徳三郎率いる大都映画の躍進はとまらない。
 日本が戦争という暗黒の時代に傾斜してゆく昭和十年代の逆境のさなかも、自己資金のみの健全経営で積極的な映画製作を展開。直営館、系列館を全国にぐんぐん拡大し、「大都映画だけを観る」という熱烈な固定ファンをしっかり獲得していった』

 明治を過ぎ、大正デモクラシーを経た昭和初期、迫りくる軍靴の響きと同時に、『映画事業というものに対して、多くの人々が「新しい時代の新しい文化産業」といった熱い評価と期待を抱いていた時代である』。『「栄光の三流映画」小会社小プロ小史』という書籍によれば、当時の独立プロダクションは37社を数え、それ以外に松竹、日活、東宝、新興キネマ、大都映画の五大メジャーが控えており、それに加えてその五大メジャーとの提携会社として東京発声、南旺、宝塚、大宝、興亜の五社を足して十大メジャー日本映画体制で日本映画が作られていたそうだ。つまり、相当の数の日本映画が作られていたわけで、現在の日本映画の盛況ぶり以上の活況といってよいだろう。

 映画というものは、出現当初は大道芸の一種であると認識されていた。しかし、出現から100年の歳月を経て、映画は娯楽だけでなく、広報、教育、宣伝の為の有効な武器として使えるというよにうな認識が一般的になった。まあ、当初はオタクたちのためのツールでしかなかったパソコンが、いまやコミュニケーション・ツールとして、更には政治・経済の為の必要不可欠なツールとして認識されて、それが国家統制の危機にさらされているようなものだろう。

 当然、映画はその当時の国家統制の対象となり、戦時企業統合令によって、大都映画は日活、新興キネマの三社で合併となり「大日本映画製作株式会社」となって消滅する。

『経営破綻で潰れたのではない。あくまでも軍主導の政府の命令によって「潰された」のである』

 まさに、戦前・戦中日本の悲劇を見るようだ。

 で、タイトルで気になった点を一つ。

『大都映画がゆく』は『行く』なのか『逝く』なのか……、多分、両方なのだろうな。

『幻のB級! 大都映画がゆく』(本庄慧一郎著/集英社新書/2009年1月21日刊)残念! Kindle版は出ていません。

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