『アクト・オブ・キリング』は胸糞が悪くなる映画だが、その胸糞が悪くなるのが大事なんだよな
"The Act of Killing"「殺人演技」である。
デヴィ夫人が試写会で「とにかくこれは(その虐殺を証明する)大変貴重な映画で、(映画を通して)初めて真実が世界に伝わるのではないかなと思います」と言っていた映画が、4月12日からシアター・イメージフォーラムで公開されている。
公開初日と日曜日は満員札どめだったそうで、昨日私は観に行った。
『アクト・オブ・キリング』(製作総指揮:エロール・モリス/ヴェルナー・ヘルツォーク/監督:ジョシュア・オッペンハイマー)
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アカデミー賞ドキュメンタリー部門賞は逃したが、それ以外の多くの映画祭で賞を取っている作品である。
内容は、スカルノ体制がスハルトのクーデターで覆された1965年の9月30日事件を捉えた作品で、最初ジョシュア・オッペンハイマーは人権団体の依頼で虐殺の被害者を取材していたが、現在もスハルトの基本方針を守るインドネシア政府から被害者への接触を禁止されたオッペンハイマーは逆に、対象を加害者に変更し、彼らが嬉々として過去の行為を再現したのをきっかけに、「では、あなた方自身で、カメラの前で「殺人を演じてみませんか」(The Act of Killing)と持ちかけたところ、彼らはそれを受け入れるどころか、まるでスター俳優気取りでそれを演技し、映画を作るろうとしている様を、まるで映画のメイキング・ドキュメンタリーのようにして作ってしまった、まさに「ドキュメンタリー・フィルム」なのである。
主役というか主人公はアンワル・コンゴという、昔は映画館の前でダフ屋をやっていたチンピラ。それにコンゴより少し若いヘルマン・コトという西田敏行みたいな奴が絡む。
スカルノ体制当時、インドネシア共産党は合法政党であったから、インドネシア国軍としても国軍が前面に出て共産党員に対する弾圧を加えることが出来ない。なので、イスラム勢力やコンゴのようなならず者を使って、彼らをにわか仕立ての義勇軍として殺害させたわけである。
で、1973年、スハルト体制が確立した時に、これら一連の虐殺の中で共産主義者を殺した人間に対しては法的制裁が課せられないことが検事総長によって正式に決定されたわけである。
しかし、私たちにはコンゴやコトが、本当に1965年からインドネシア共産党員や華僑の人たちに拷問や、殺害をしていた本物の人間なのかは分からない。もしかしたら彼らは役者なのかもしれないという疑いをもって見ている訳である。
だって、そんな昔に虐殺を行っていた人間が、その昔の行為を自ら認めて、それを嬉々として演じているということ自体が、私たちには信じられないのだ。普通、人を殺した人間は、仮にその結果を政府から認められたとしても、「人を殺した」という事実に関して、良心を苛まれる筈である。ナチの高官だって、自分が直接人を危めていないということでもって、断罪を免れようとしたり、自分は職務に忠実だったという言い訳で、ユダヤ人殺害の咎から逃れようとする。
ところが、こいつらは人を殺害したり拷問に賭けたりしたことに対する後ろめたさが全くないのだ。
しかし、「こいつは共産党員かもしれない」という情報を彼らに与えていた新聞発行人のイブラヒム・シンクや、コンゴと一緒になって共産党員への拷問や殺害を行っていたアディ・ズルカドリが出てくると、だんだんコンゴのやっていたことに対するリアリティが増してくる。
もしかしたら、これは役者が演じているのではなく、本当にこいつらが共産党員に対して拷問を行っていたり、殺害を行っていたのかも知れない、と。
しかし、問題はコンゴが拷問を受けたり、殺されてしまう共産党員を演じた部分なのだ。多分、彼はその時代のことをよく知らないコトに対して、自分たちはこうして拷問をおこなったり殺したりしたんだということを教えるために、自ら拷問と受けたり殺されたりした共産党員を演じたのだろう。
しかし、その後、コンゴが「こうして拷問を受けた役柄を演じると、拷問を受けたり殺されたりした人の気持ちがわかる」という。それに対してオッペンハイマーが「いや、これは映画だ。本当に拷問を受けたり、殺された人の気持ちは分からない」を反駁すると、不思議な顔をする。そして、自分たちが本当に拷問をしたり殺害をした場所に最後に行くと、反吐を吐いたりするのである。
ここにきて、やっと日本人の観客は「もしかしたら、彼らは本当に共産党員を拷問したり、殺したりしてきた人なのかもしれない」と確信する。
そうなると、本当にこの映画に対して「胸糞の悪さ」を感じるのである。
出演しているコンゴやコト、シンクやズルカドリたちの行ってきたことに対する「胸糞の悪さ」である。そして、その映画を作ることに対する姿勢に対する「胸糞の悪さ」である。
こいつら自分たちがやって来たことに対する反省も悔悟の気持ちもまったくないのだ。それが人を殺した人間がやることか?
結局、この映画の出演者たちは、自分たちがヒーローだと思っているのだが、しかし、それを見るものたちからは、「お前ら胸糞悪い連中だ」という風に見られていることには気づかないだろう。
まあ、そんな感性を持っていたら初めから虐殺には加わらなかったろうけれども、それでも「人を殺した」という事実に対してこれほど「前向き」な連中も少ないだろう。
「ブッシュはイラクに大量殺りく兵器がある」といって攻撃した、アメリカは先住民を大量殺戮した、キリスト教徒はイスラムを大量殺戮した、と言っているけれども、それは言い訳に過ぎない。
まあ、そんな言い訳をするだけには彼らも進歩したのかも知れないが、その進歩なんていくらの進歩でもない。問題は、100~150万と言われている1965年からのインドネシア共産党員及び華僑に対する大量殺戮なのであり、それがまったく問題とされていないということなのだ。
勿論、デヴィ夫人が言うように、それを認めたのか、無視したの分からないが、そんなスハルト派を支持したアメリカや日本などの姿勢も問題にしなければならないだろう。
まったく、政治家は自分の都合だけしか考えていない、という典型である。
あと、錆びた金属製の大きな魚のオブジェの前でラインダンスを躍っている少女たちの映像が繰り返し出てくるのだが、これだけは意味が分からなかった。
なんでかなあ?
しかし、2時間の立ち見はツラかった。ヘトヘト……。
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