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2014年2月 7日 (金)

新老人の思想

『新老人の思想』は「新『老人の思想』」なのか、「『新老人』の思想」なのか?

Photo『新老人の思想』(五木寛之著/幻冬舎新書/2013年12月10日刊)

『すなわち、「老人階級」の出現だ。
 高齢者層とか、老人層とかいった「層」ではなく、あきらかにこれは「階級」である。
 第一、第二、第三、といった区分分けが味気なく感じられるのなら、「階級」でいい。
「若年階級」「勤労階級」「老人階級」の三つの階級である。
 階級というものは、対立するものだ。三つの階級は当然のことながら対立する』

 で始まって、

『長命、長寿ということを、必要以上に美化するのはまちがいだと思う。マスコミには、とかく元気な長寿者を誇大にクローズアップする風潮がある。それによって老いに対する幻想がはびこり、おのれの現実との落差から絶望におちいる人も多い。生命を尊重するということは、人間を自然の一部と覚悟することだ。そこに目に見えない感動も、アイデンティティーも存在するのではないか』

 で終わる本書は、まさしく「老い」と「死に向かいあう」ことを説いた本なのである。

『平凡パンチ』誌で『青年は荒野をめざす』で五木寛之氏の作品と出合った私も、氏の近年の親鸞への傾倒を知っているし、それなりの「死」への覚悟もそれとなく理解できる。しかし、一冊全編「老い」と「死」について書かれた本を読んでみると、ちょっとショックではあるが、それも仕方のないことなのかも知れない。五木氏もすでに81歳であり、ある意味で「死を目前に抱えている」訳なのであるな。

 五木氏によれば「気高きアングリー・オールドメン」には5つのタイプがあるそうだ。それが「タイプA 肩書き志向型」「タイプB モノ志向型」「タイプC 若年志向型」「タイプD 先端技術志向型」「タイプE 放浪志向型」の5つだそうだ。しかし、これはちょっと単純化しすぎたきらいがある。実際には、これらをないまぜにして、あるいはもっと細分化して、もっと多くのタイプがあるだろう。

『かつて団塊の世代がこの国の成長を支えた時代があった。そして十年後、二十年後には巨大な老人群が出現する。それは誰がなんといおうと、動かしがたい現実である。それらの巨大な老人層は、当然、年金で生活を支えることになるだろう。年金では足りないので、貯金を取りくずしながら老化と認知症の世界へ移行していく。晩年に待っているのは介護によって生かされる生活である。胃ろう、透析、睡眠療法、人工呼吸、その他の延命治療の進歩発達とともに、「逝けない人びと」がこの列島にあふれ返ることになるだろう』

『現在、五万人をはるかにこえる百歳以上の長寿者の八十パーセントが寝たきりで、要介護の状態にあるという。私たちには錯覚があるのだ。元気で長生き、は理想であって現実ではない。マスコミは特別に元気なお年寄りをピックアップして紹介する。その背後に、海の底のような深い世界が広がっていることを直視しようとはしない』

『世界中がかたずをのんで日本を見守っている。経済大国再登場への期待などではない。
 恐るべき急激な高齢化に、国としてどう対応するか、そこをみつめているのだ』

 では、わが国はそんな世界の期待に応えて、理想の老人国家になれるというのだろうか。

『世界中の先端医療機器の六割以上は、日本が購入しているという。そして予防医学も高度治療も、日進月歩して人びとは長寿への道をつっ走っていく。ガンも八割は治る、という大きな記事が出ていた。エイズも発症せずに生涯を送ることが可能になってきたという。
 人びとはメタボを恐れ、体調をコントロールし、健康な日々をめざす。タバコをすう人も、少なくなってくるだろう。酔っぱらいの数もへってきた。早期発見、早期治療のかけ声のもと、この国はさらに世界のトップを走る長寿国となっていくのだ』

 それはただ単に「命を長らえる」だけで、健康で長寿というものではないだろう。寝たきり老人をいくら増やしても意味はない。かといって、結局は超後期高齢者となれば、それは寝たきり老人を増やすだけでしかないのである。この矛盾はどうしたって消せないものなのである。

『高齢者の医療と介護には、おどろくほどの社会的支出が必要だ。ある意味で、それは大きな産業でもある。子供や若者を育てることよりも、はるかに多くの公的支出がそこに向けられることになる。
「老人を処分せよ!」
 という、新しいファシズム運動がおこる危険性はゼロとはいえない。敬老という習慣は、老人が古来稀ナリといいわれた時代のものだ。
 高度医療の発達は、おどろくべき高齢者社会をつくりあげつつある。命の大切さ、ということがヒューマニズムの基本なら、いまそれが揺らいでいるということだろう。全世界がそれをかたずをのんで見つめているのである』

 結局、人間というものはそうした矛盾を抱えて生きていかなければならない存在なんだろうな。

 で、そんな「長寿化→寝たきり老人の増加」という矛盾した社会となっても、人間というものは最後は死ぬのである。そこで、今度は「どうやって死んでいくのか」という問題が大きくなる。

「孤独死」「単独死」「平穏死」「独居死」などといういろいろな死に方に対する呼び方がある。しかし、死にはそんな「死に方の違い」などというものはない。結局、死ぬ瞬間というものは、すべて同じ意味しかない。単に「精神的な存在から、単なる物体になる」というだけなのだ。

『花の下で如月の望月に死にたいと願った西行も、予定通りに「逝った」人だ。キザともいえるが、見事ともいえる』

 ここでいう「花」とは桜のことである。確かに昔から桜の花と死は結び付けられて考えられていたようだ。

『死をケガレとして忌む歴史は今も続いている。生が勝利で死は敗北という感覚も、まだ克服できてはいない。老いに対する恐れと不安感も根づよい。
  <中略>
 しかし、生まれて成長し、生の営みを終えて世を去ることは、自然の理である。現在の医学は、老いと死に対する基本的な姿勢が定まっていないのではないか。
 もし、現代に宗教というものが意味をもつとすれば、この点にまともに向かいあうしかないだろう。老いと死を、どのように落ち着いて受容するかは、それこそ宗教の出番ではないのか。死者をとむらうよりも、死を迎える生者に、安らぎと納得をあたえることぐらいしか。現代の宗教には求められてはいないのだ。
 死を悪として見る文化。そして老いを屈辱として恥じる文化からの脱出こそが、私たちにいまつきつけられている直近の課題なのである』

 なるほど、これが五木氏の近年の親鸞への傾倒の理由なのだろうな。

『「非僧非俗」とは「半僧半俗」ではない。「僧・俗」を共に否定し、僧でもなく、常民でもない第三の非常民を目指した親鸞の志と、とらえるべきだろう』

 なるほどなあ。

 で、ところで冒頭の疑問〈『新老人の思想』は「新『老人の思想』」なのか、「『新老人』の思想」なのか?〉への答えなのだが、つまりは「『新老人』による新『老人の思想』なのであった。

 なあんだ。

『新老人の思想』(五木寛之著/幻冬舎新書/2013年12月10日刊)う~ん、幻冬舎って電子書籍に後ろ向きなのね。

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