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2014年1月14日 (火)

映画版『永遠の0』山崎貴は所詮センチメンタリズムでしか映画を作れないのか

 残念ながら映画版『永遠の0』については多少辛口の評価を与えずにはおかない。

 なぜならば、原作小説にあるいくつかの重要なシーンを映画では描かなかったために、結局、映画版『永遠の0』が単なるセンチメンタリズムだけの映画になってしまっているからだ。

201401101859182『永遠の0』(原作:百田尚樹/監督・VFX:山崎貴/脚本:山崎貴・林民夫/音楽:佐藤直紀/制作プロダクション:ROBOT/2013年12月21日公開)

 勿論、原作小説は文庫版でも608ページにもなる分量の大きなもので、それを2時間内外の映画にするためにはかなりな部分を切らなければならないのは当然理解している。どこを残して、どこを切り取るのか、どこのシーンをどこのシーンに移し替えるのか、それらを決定するのはプロデューサーと監督の仕事である。したがって、どんな原作であれ、それを元に映画を製作する時には基本的のこの二人の意思が一番重要になる。

 私が原作小説を読んだ感想は、2010年8月16日のブログ「『永遠の0』って、要はゼロ戦ってはじめっから特攻機だったのだ』で書いたけれども、そんな文章を書く一番の切っ掛けになったのが原作版(講談社文庫版)313ページからの、現在は岡山の老人ホームで暮らす谷川正夫の証言。

『グラマンF6Fなどは7.7ミリ機銃だと百発くらい撃ち込んでもけろっとしている。クーパン基地にいる時に、一度撃墜したF6Fの残骸を見たことがあった。その時、鋼板の厚さに呆れたものだった。特に搭乗員の背中に設けられたぶ厚い防弾板は、7.7ミリ機銃では突き通せないほどのものだった。
 米軍は搭乗員の命を本当に大事にするものだなあと感心した。
 また米軍は空襲にやってくるときには、必ず道中に潜水艦を配備していた。途中、帰還がかなわず不時着水した搭乗員を救出するためだ。
 その話を宮部とした時、彼は言った。
「墜とされてもまた戦場に復帰できるということは、失敗を教訓に出来るということだ」
「俺たちは一度の失敗で終わりか」
「それもあるが、彼らはそうした経験を積み、熟練搭乗員に育っていく」
「こっちは逆に熟練搭乗員が減っていくというわけか」』

 あるいは243ページの、現在都内の病院に入院中で最早末期がんで余命いくばくもない井崎源次郎の証言。

『今、あの時、宮部さんの言っていたことの正しさがわかります。現代でも零戦が語られる時、多くの人があの驚異的な航続力を褒め称えます。しかしその航続力にのゆえにどれほど無謀な作戦がとられたことでしょう。戦後、航空自衛隊の戦闘機の教官からこんな話を聞いたことがあります。戦闘機の搭乗員の体力と集中力の限界は一時間半くらいだと。それでいうと、私たちは三時間以上かけてラバウルに到着した時は、既に体力と集中力のほとんどを失っていたということになります。もちろんその教官が話したのはジェット戦闘機についてですが、プロペラ機でもたいして条件は変わらないでしょう』

 など。その他にもゼロ戦の他国からは驚異的な性能だと思われていたことの裏側が実はあるのだ、という証言が原作にはいくつも出てくるのだ。

 ところがこうしたゼロ戦に関するネガティブな表現の一切が、映画版では出てこない。

 それは映画版を製作する際に邪魔な要素だったのだろうか。

 しかし、私はそうは思わない。

 むしろ逆に、それらの要素をキチンと映画版でも入れ込むことで、ゼロ戦で戦うということの本来の意味が浮き彫りになって、物語が単なる「特攻をした軍人を悼む」というだけのセンチメンタリズムに陥ることなく描けるはずだったのである。

 職業軍人であった宮部久蔵が、そうでありながら何故特攻を志願することを忌避したのか。さらに、特攻を志願した際に大石賢一郎少尉に何故妻と娘の運命を託したのか。何故、出撃の寸前に途中で攻撃を諦めなかければならなくなる新型の五一型機から、特攻を果たせそうな旧型の二一型機に乗り換えたのか。

 こうしたことが、上記の部分を映像化の際に取り入れることで、ある程度の客観性を帯び、もうちょっとクールな話になった筈なのである。ところが、こうした部分を捨象してしまっために、映画は単なるセンチメンタリズムになってしまった。

 Redというデジタルカメラを使用した映像はVFXとの馴染みは良いはずだし、当然素晴らしいCGとVFXである。というか殆ど全編に亘って使用されているVFXは、まあ、日本ならではの箱庭的VFXであり、工夫の産物とでも言うべきものではある。これがジム・キャメロンなら実物大の空母「赤城」を作ってしまうところだが、そうはいかない日本の映画事情の中で、白組もいい仕事をしている。

 岡田准一を始めとする俳優陣もそれなりの存在感で芝居をしており、なかなか見せてはくれている。

 だとしたら、やはりここは『ジュブナイル』や『ALWAYS 三丁目の夕日』みたいなノスタルジーとセンチメンタリズムだけの映画にはしないで、ゼロ戦を使った戦いが日中戦争では作戦的にうまく行ったのが、それがうまく行ってしまったために何ら反省することもなく、太平洋戦争でも同じように突き進んでしまって、その為の悲劇が数多く見られたことを、キチンと描くべきではなかったのだろうか。

 つまり、ゼロ戦は初めから特攻機になるべくしてなった戦闘機だったということである。

 特攻隊の話を単なる悲劇ではなく、その作戦の無意味さをも描くことができたのではないだろうか。事実、神風特攻隊の大半は敵艦に辿りつくことも出来ずに、整備不良や元々の製造不良でもって途中から引き返さなければならなかったり、戦場まで辿りついても敵艦に撃ち落されてしまったという、ほとんど敵に損害を与えることのできなかった無意味な作戦だったという事実。しかし、同時にそんな作戦しか考えられなくなってしまったという、当時の軍当局の劣化ぶり、なども描けたのである。

 結局それらの部分を描けていない映画版『永遠の0』は「大人の映画」になることは出来ずに、「女子供向けのお涙頂戴のセンチメンタリズムに溢れた映画」にしかなれなかったのである。

 まあ、その結果、程度の低い日本人の映画ファンというか岡田准一ファンには受けて、おかげで劇場は連日満員になってはいるんだけれどもね。

映画『永遠の0』公式サイトはコチラ

 映画を見たら、是非、原作も読んでみよう。映画で分からなかったことが、沢山出てくる。

 

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