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2013年12月30日 (月)

『消えた横浜娼婦たち』は横浜関内の生き字引である

 横浜の「悪所」が現在どうなっているのか、という写真を撮るようになった原因がこの本である……、ってウソウソ。たまたま伊勢佐木町の有隣堂に入って地域の文化史みたいなコーナーにあったこの本を見つけたのである。

Dscf12292『消えた横浜娼婦たち―港のマリーの時代を巡って―』(檀原照和著/データハウス/2009年6月3日刊)

 横浜が港町になったのは安政5年(1858年)に日米修好通商条約によって、神奈川、長崎、新潟、兵庫、江戸、大坂に港を開くことが決められたためである。こうして嘉永7年(1854年)に日本が開国し下田、箱舘が開港したのに次いで6港が開港することとなった。開港地には外国人の居留が認められたが、江戸、大坂は居留が認められずに商談のための逗留だけだった。

 この神奈川というのは神奈川宿のことで、近くに神奈川湊があった。しかし、幕府としてはそんな交通の要衝(東海道の宿場町であった)で外人がウロウロされてはたまらんということで、神奈川の町はずれの横浜村に出島を作って港を作り外人を住まわせたという。これが現在の横浜関内のはじまりで、根岸線関内駅から港側がその地域である。

 本書はそんな外国人相手の娼婦の話であるから、その第一号である安政6年2月から記述が始まる。

『横浜において外国人相手の遊女が最初に確認されたのは、安政六(一八五九)年二月である。イギリスの捕鯨船ゼンクス号に乗っていた三人の日本人女性がそれだ。一人は二十三、四歳、あとの二人は三十歳くらいだという。彼女らは中国華僑に斡旋された下総(千葉)の女たちだった。
 江戸時代の日本人は外国語が出来なかったため、中国華僑に通訳や仲介役を頼んでいた。どうやら遊女の世話もその延長線上にあったらしい。
 寒風吹きすさぶ二月の海上にいたためか、女たちはガウン代わりに羅紗綿(今でいう毛布、しかし油染みのある薄汚れたもの)をまとっていた。そこから外国人相手の遊女は「らしゃめん(綿羊娘、洋妾などと書く)」と呼ばれるようになった。この三人が最初の「港のマリーたち」である』

 勿論、神奈川奉行によって遊郭なども作られたが、やはり横浜を代表するのはそんな遊郭などで働く遊女よりは、「チャブ屋」とか「チョンの間」と呼ばれたいわゆる「あいまい宿」で働く娼婦たちであろう。この遊女と娼婦の違いといえば、前者が基本的には自分の意志で働いているわけではなく、借金のかたなどで売られてきた女たちであったのに比較して、後者は自分の意思で春をひさいでいた、ということなのである。当然、公認と非公認の違いはあったし、比較的若い遊女に対して、娼婦はどうしたって高齢になってしまう。最初に来た三人にしても二十三、四~三十歳というのは当時にしては完全に「年増」の年齢である。

 戦前から外国船、外国人の存在が多く異国情緒に満ち溢れていた横浜であるが、しかし、本を読んでいて、我々にとってリアリティに溢れるのはやはり戦後の米軍(進駐軍)が多くなってからの話である。今の世代ではもっと違うのかも知れないが。

『本牧に移転したステーキハウスの「ジャックス」もよく知られた店だった。「ジャック」こと小倉昭二さんの料理は米軍キャンプ仕込みである。この店の客も米兵や外国人船員中心で、日本人には手の届かない三百グラムのニューヨークカット・ステーキに人気が集まった。
 日本人が滅多に寄り付かなかったこの店に赤いスポーツカーで乗りつける常連客がいた。石原慎太郎だった。ときには弟の裕次郎と一緒に分厚い肉を頬張っていたという』

 さすがにリア充逗子のお坊ちゃん兄弟ではあるな。

 これは都市伝説のひとつとしてあまりにも有名な話なのだが、「石原裕次郎梅毒説」というのがある。石原裕次郎に子どもがいなかった理由がそれだっていうのだけれども、やはりその原因はこの「横浜遊び」「港のマリーさん」との遊びだったんだろうか、という気分にさせる。まあ、官許の赤線なら性病検査なんかも頻繁にやっていたそうだが、基本的に「もぐり」の青線だとそんなこともやっていなかったからね。

 それにしても、神奈川宿神奈川湊というのは現在の京浜急行神奈川本町駅近辺にあったらしいのだけれども、現在に至るまでそこが横浜の盛り場だったという話は聞かない。どうにも基本的に横浜の盛り場というと、伊勢佐木町、日ノ出町、野毛、真金町、黄金町、寿町、本牧という、関内周辺の町が思い浮かべられるのである。

 やはりそれだけ、国際港としての横浜港の存在の大きさであり、また、戦後進駐軍が租界や基地を作っていたということが大きいのであろう。本書に『国道十六号線沿いの奇妙なプライド』という言葉が出ているが、まさにこの国道16号線こそは周辺に米軍基地がさまざまに広がっていて、東京周辺の異国情緒を作りだす原点にもなっているのである。

 現在、国道16号線の周辺に残っている米軍関連施設は横須賀海軍基地に始まって、浦郷弾薬庫、池子住宅地区、横浜ノースドック、本牧埠頭、上瀬谷通信基地(支援施設)、厚木基地、キャンプ座間、相模総合補給廠と続いて、最後は横田空軍基地まで、これでもかなりの数は日本に返還されてきて残ったものだけなのだが、それでも随分あるものだ。なお、本牧埠頭は現在は米軍施設ではないが、まだ多くの軍需物資が本牧埠頭でコンテナ荷揚げされているということなので加えた。

 で、結局この国道16号線沿線にやはり「悪所」が並んでいたわけであり、その「悪所」の初っ端が横浜関内であるのだから、やはり関内周辺にいろいろな盛り場があるというのも分からないではない。今やこの国道16号線周辺というのも、昔とは全く変わってしまった。横田基地周辺も今や全然「アメリカみたい」じゃなくなっちゃってるもんね。

『横浜銀行の支店長だった植木幸太郎氏は伊勢佐木町二丁目にあったキャバレー「モカンボ」の社長でもあり、同時に本牧で「ニュー・オリエンタル・ホテル」というチャブ屋も経営していた。そういう時代だった。植木氏の店で昭和二九年の営業時間外に繰り広げられた「モカンボ・セッション」は伝説で、近年研究本やCDがリリースされている』

 そうか、モカンボっていうのはそういう店だったのか。しかし、銀行の支店長がキャバレーやチャブ屋を経営していたというのは、なんとも凄い時代であったわけである。だって、キャバレーはまだしもチャブ屋っていったら御法度の裏街道を行く稼業なわけである。そんな違法営業(まあ、表向きは違法ではないにしても)を、現役の銀行支店長が裏で経営していた時代だったんだよなあ。

 まさに、それ自体が「時代」だと言うべきなのだろう。

 本当に『夜霧よ今夜もありがとう』という時代なのである。

『消えた横浜娼婦たち―港のマリーの時代を巡って―』(檀原照和著/データハウス/2009年6月3日刊)Kindle版は第3章「白塗りメリーの物語」を改訂して更に書き加えたものである。

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