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2013年12月25日 (水)

『はじめてのマルクス』で見えてきた、「日本型民主主義ファシズム」

 我々の学生時代はマルクスは必読書だった。

 とは言うものの、『資本論』まで読むのは普通はあまりなくて、『共産党宣言』からスタートして『ドイツ・イデオロギー』『経済学・哲学手稿』あたりで挫折するってのが普通でしたがね。

 私の場合『資本論 第一巻』あたりで大学へ入学してしまい、取った「経済原論」の講義は『資本論』だったわけだが、なんか知っていることばかり教える授業が面白くなくて、結局、三年になった取ったゼミは「トーマス・ロバート・マルサスの『人口論』」という、なんかまったく一貫性のない経済学部の学生生活ではあった。

Dscf12072『はじめてのマルクス』(鎌倉孝夫・佐藤優著/金曜日/2013年11月20日刊)

 ところが今の学生はマルクスを読まないばかりでなく、マルクスという名前すらも知らないという状況のようだ。

 特に「ソ連や東欧の社会主義体制が崩壊した後、それはマルクス経済学が間違っていた証拠だという風に解釈されて、マルクス経済学を学ぶことには意味がない」という風に見られてしまったことは、マルクスにとっては不幸なことである。しかし、マルクスの『資本論』は、別に共産主義や社会主義の経済学なのではなくて、19世紀から始まって現在まで続いている「資本主義社会」について、それを徹底的に解明した書なのである。

 つまり、資本主義の本質について書かれた本が『資本論』であり、だったら、それこそ現在の経済社会を解明するのに一番適した本が『資本論』なんじゃないか、というのが「保守主義者=佐藤優」氏の考え方なのである。

 本書は鈴木宗男氏の事件に絡んで執行猶予付き有罪判決を受けた元外交官、佐藤優氏が師と仰ぐ、埼玉大学名誉教授・鎌倉孝夫氏との対談、というより殆ど佐藤氏が喋って、鎌倉氏はそれに相槌を打つというような形で進んだ、対談を収めたもの。

 従って、内容については引用しても、対話をそのまま載せないと理解できないものなので、取り敢えず、佐藤氏によるまえがき「いまこそ高まる『資本論』の重要性」と、鎌倉氏によるあとがき「資本の支配を終わらせるために」からいくつか引用する。

 まずは「まえがき」から

『私はマルクス主義者ではない。思想ということならば、キリスト教(プロテスタンティズム)が私の物事を考える基本になっている。政治的には、私は保守陣営に属するという自己意識を持っている。しかし、私は、マルクスが『資本論』で展開した資本主義分析は基本的に正しいと学生時代から一貫して考えている。それは、マルクスが資本主義の根本的な矛盾が、労働力の商品化になることを解明したからだ。その具体的な内容と論理については、この対談でわかりやすく説明しているので、是非読んでほしい。労働力の商品化ということの意味がわかると、世の中がまったく異なって見えてくる。そして、経済現象に関して、ほんとうに重要な事柄と、そうでない幻影との区別ができるようになる』

『企業に勤務する社会人で、自己責任や成果至上主義で疲れ切っている人が加速度的に増えている。リストラの不安にさらされている人もたくさんいる。国家公務員、地方公務員でも、自らの仕事にやりがいを見いだせないという悩みを抱えている人は多い。将来が不安になり一年生のときから就職活動で走り回り、腰を落ち着けて勉強をすることができず、何のために苦労して受験勉強をして大学に入ったのかわからなくなったと嘆く学生もめずらしくない』

『社会主義体制が崩壊して、資本主義諸国にとって、革命の現実的な脅威はなくなった。その結果、資本の活動に歯止めがかからなくなった。これを「資本の暴走」と批判しても、あまり意味がない。なぜならば、資本とは、本質において暴走するものだからである』

『〈株式資本(一定の価格をもった土地とともに)は、擬制資本として商品形態をもつ。それは売買されうる対象になる。しかし資本主義の原理的関係の中では、この売買は一般的には現実化されていない。このことは、資本自体の商品化は、擬制資本によってはじめて行われるということ、そして擬制資本は決して現実資本から独立して自立的に存立しうるものではない、ということを意味している。すなわち、擬制資本としてしか成立しえないということは、現実的関係の中では現実化しえない、ということである』

さて、「あとがき」では

『むしろ今では、グローバル資本主義というような資本主義のほとんど無限界の発展というとらえ方に対し、私は資本の発展――市場関係への分解を通した――は限界があること、市場関係に分解されない共同体領域が現に実在していることを強調している。しかし資本主義は市場関係を超えられない、この関係の中に「閉じられている」、ということは明らかである』

『①「株式には株式のイデオロギーがある」、「カネを払って商品を買うということ自体がイデオロギーだ」という点。とくに前者に関してこれは何をいおうとしているのかわからないという感想があった。資本主義の中で生活していると、カネを払ってモノを買うということは空気や水の存在のように当たり前だと思うのではないか。しかしこの関係=交換関係は人間社会にとって普遍的関係ではなく、これこそ特殊な関係(歴史的形態関係)なのだ。だからこの関係を当たり前(普遍的)と思うことはイデオロギーなのだ。形態的関係を普遍的=実体的関係ととらえてしまう観念なのだ。いまこの観念は、株式をもつだけで利得(配当)がえられるのは当然だ、というところにまで高まっている。そういうとらえ方自体イデオロギーだ、ということである。マルクスがこれを「物神性」の最高形態だといっているが、これを「物神性」ととらえず当然視することは明らかに資本家的イデオロギーそのものなのである』

『②この点との関係で、とくに強調したいのは「労働力の商品化」の無理という点である。まず「労働力を売るというのは普遍的なことなのか」ということ、である。労働力を商品として他人(資本家)に売る――それは自分の労働力を自分では使わない(使えない)で他人に使われる、他人の指示に従って労働しなければならない。つまり他人に支配されるということである。それをおかしいことと思わず、当たり前と思ってしまっているのではないか、それを反省し、批判的な目でとらえてほしい。
 そして労働力をなぜ商品として売らなければならないのか。それは労働者が自分の労働力を使うのに必要な生産手段(土地、原材料、機械設備等)を持っていない、奪われているからである。<中略>これを資本の本源的蓄積という。この特殊的歴史条件は、資本が労働・生産過程という社会存立・発展根拠、本来の価値形成・増殖根拠を包摂・支配する条件として、今日においてもくり返されている』

『そして今日の日雇い労働に示される労働自体の徹底した部品化、そしてその下での大量失業、生活破壊という現実は、明確に資本主義体制そのものを現実に総括=変革することが、現実の課題となっていることを示すもの、といえる』

 これらを総括するとどうなるのだろう。

 まず、現在の日本の現状はどうなんだろう、というところから考える。

 まあ、本書では日本は帝国主義状態になっているという。しかし、他国に対する帝国主義的支配関係(植民地とか、植民地的状態とか)はないわけで、それからすると帝国主義とはちょっと違うんじゃないかとも思う。まあ、アナロジー的には帝国主義状態とは言えないこともないとは言え、まあそれは違うんじゃないか。

 とすると、ブント流国家独占資本主義状態なのかといえば、それこそグローバル資本主義の中に放り込まれている日本経済であるから、もはや資本は国家を超えて成長してしまっている状態だ。最早、昔の「国民国家」思想は使えなくなってしまっているのが現状である。

 この後、どうやって日本資本主義(あるいは米国資本主義)が発展していくのか、あるいは衰退していくのか、あるいは崩壊に向かうのか、壊滅に向かうのか、どうなるのだろう。

 ただ、一つだけ言えることは、不破哲三氏が言うような『恐慌は資本主義の死に至る病』だなんてことはないということだけ。たしかに、本書でもいうように恐慌は資本主義社会の基本的に持っている病理なんだけれども、それは「資本主義的解決方法」でなんとかなるのである。たとえば、労働者の賃金引き下げとかね……。

 当然、今のような状況で日本に革命(平和革命であれ、暴力革命であれ)が起きる可能性は、殆どゼロだろう。そのためには主体的に動ける人々が数百万~数千万は必要だが、今の日本にそんな人間はいない。

 むしろ、恐慌が引き起こす資本主義に対する反省としての国家社会主義(要はファシズム)ではないだろうか。

 「あとがき」で鎌倉氏が書くように『私としては、国家の強権的なファシズムというよりは、すでに現れている新しい公共性とか社会的包摂とかに示される‟民主主義の衣をまとったファシズム”の危険性を強調したい』というように、私たちの社会は次第にファシズムへの道を歩いているような気がしてならない。

 特に、ネットを中心とする「総覗き見社会」とか「総批判社会」とか「総晒し上げ社会」とか、要は「炎上社会」というものが、どこか日本型ファシズムの第二類型であるような気がしてならない。

 勿論、第一類型社会は戦前の日本社会だった訳なのだけれども、やはりそこにあったのは密告社会ではあったのだ。

 そんな第一類型からきたところの第二類型が、これからの日本国家社会主義(民主主義的ファシズム)の原型になるのではないか。

 つまり、日本資本主義の終焉は最早自明のものであり、目前に迫っている。で、その後に繋がるのは資本主義の野放図な規制緩和を批判した、でも結局は国家社会主義(民主主義的ファシズム)なんだよなあ。多分。

 結局、自民党じゃだめなんだという勢力が、もう一度盛り返して、その結果それらの勢力が力を持ってきて、それが一種の「大政翼賛会」的なものになって「日本型民主主義ファシズム」が形成されるんだろう。

 それもあと数年のうちに。東京オリンピックがその切っ掛けになったりして。

『はじめてのマルクス』(鎌倉孝夫・佐藤優著/金曜日/2013年11月20日刊)

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