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2013年11月

2013年11月30日 (土)

万世橋駅、なう…再び鉄オタの聖地になるか

 旧万世橋駅が‟mAAch ecute KANDA MANSEIBASHI”として新たにオープンしたのは9月14日のことである。

Dscf08662神田川方面の万世橋からの眺め

 えっ? 万世橋駅って何? という人のために解説をすると…。

 当時、私鉄の甲武鉄道は1889年(明治22年)に立川~新宿間を開通させ、都心への延伸を進めていた。甲武鉄道は1908年(明治33年)に国有化され中央本線となっていたが、それまで御茶ノ水~昌平橋へと延伸していた中央本線の起終点駅として1912年(明治45年)に万世橋駅を開業したのである。

 当時は、万世橋付近は東京で一番繁栄した街だったそうで、万世橋駅開業のおかげで益々繁栄の度を増し、飲食店、寄席、映画館などが次々と開業したそうである。

Dscf08792神田川と反対側にはショップなどが入っている

 しかし、万世橋駅開業後に東京駅が完成。1919年(大正8年)には万世橋~東京間が開通し、万世橋駅は中央線の起終点としての役割は終わった。

Dscf08722万世橋駅下のコリドー

 神田駅が開業し、上野~神田間が高架化し、秋葉原駅が旅客営業を開始。こうして神田駅、秋葉原駅の開業と共に次第に万世橋駅の乗降客は減少し、1943年(昭和18年)に万世橋駅は廃止となった。

Dscf08812万世橋駅のジオラマが展示されている

 万世橋駅の駅舎は東京駅と同じ辰野金吾の設計による赤煉瓦造りの立派な駅舎で、一等・二等待合室、食堂、バー、会議室などを備えており、東京駅完成までは最も立派な駅舎であったそうだ。

 駅前には東京市電が走り、(当時としては)大きなビルが建ち、活況であった様子がうかがえる。
Dscf09052ホームに上がっていく階段は昔のまま

 1936年(昭和11年)に東京駅から鉄道博物館が移転され、戦後は交通博物館となって、2007年(平成19年)に大宮市に鉄道博物館が移転するまでは鉄道オタクの聖地であったのである。

Dscf08962

 階段を上がると、そこはプラットホーム上にオープンカフェがあって、お茶を呑みながら中央線を行く電車(ちょっと遠景には総武線も)見られるようになっている。

 なんか、ここも鉄オタの聖地になりそうな予感がするなあ。

Fujifilm X10 @Manseibashi St. (c)tsunoken

2013年11月29日 (金)

『COURRIER JAPON 2014年1月号』の特集が上っ滑りなわけ

『COURRIER JAPON 2014年1月号』のカバーストーリーは『日本もいいけれど 「海外で働く」ってこんなに楽しい』というタイトルなんだが…… 

R11972502『COURRIER JAPON 2014年1月号』(講談社/2013年11月25日刊)

 特集記事は

Part Ⅰ 世界で働く日本人たちの「本音」
●現地座談会1 西海岸で「人生観」も変わった! 日本と米国、こんなにも違う‟働き方”
●NEW YORK 「世界の首都」ニューヨークで‟挑戦者”として生きるということ
●こんな職場なら働いてみたい! 「上司がいない会社」を訪ねてみた from New York Magazine (USA)
●BNAGKOK 日本人が急増するバンコクだったら「行けば何とかなる」って本当?
●現地座談会2 日本とどっちが良かった? アジア‟現地就職組”ホンネ座談会
●SINGAPORE 「アジアの中心」シンガポールには、成功のチャンスが転がっている
●世界を目指す学生たちは「インターン」のために海を渡る from The New York Times (USA)
●LONDON 「世界を動かす」仕事がしたいなら ロンドンは最高の舞台になる
●日本人には高すぎる「ビザの壁」 フランスで働くのは難しいけれど…

PART Ⅱ 世界で戦うために必要な「武器」
●TRADING COMPANY 「知識」「語学力」よりも 商社で働く人が大切にしていること
●GOOGLE グーグルの人事担当幹部に聞いた、採用を左右する「4つの要素」
●データ主義から生まれたグーグルの「幸福な職場」 from Slate (USA)
●UNITED NATIONS ‟安定”よりも大切なことがある――「国連で働く」ために必要なこと
●海外で‟人を動かす”ときに必要なリーダーシップの「5つの柱」 from Psychology Today (USA)
●世界への近道? それとも… ‟外資系”勤めの「ここが大変なんです」
●チャンスを求めて「4年で転職」が世界のスタンダードになる from Fast Company (USA)

 というもの。

 まあ、このテの特集は「COURRIER JAPON」お得意の特集で、年に何回かやっているんだけれども、なんか毎回「上っ滑り」なんだよなあ。何でだろう?

 この特集で唯一面白かったのは(と言っても「比較すれば」ってことなんだけれども)『●世界への近道?それでも…‟外資系”勤めの「ここが大変なんです」』っていう、外資系企業の日本法人や日本支社に勤めている人たちの話。つまり、それらは「日本で」「日本人に」「日本風に」取材した記事なわけである。だから、これは普通の日本の雑誌の普通の記事だってこと。何でだろう?

 それ以外の「現地座談会」やら各地の取材記事は「for CORRIER」のクレジットがついていても、なんか「浅い」記事なのだ。何でだろう?

 と考えるまでもなく、実は単純にこれは記事をまとめている編集部の場所の問題なのではないか、と考える。

 やはり、東京の文京区音羽なんて幸せな場所にいて、世界中のいろいろな場所で働いている日本人の苦労やら喜びやらを、編集者自らの体験として記事にするのは、やはり無理があるのだ。勿論、記事はライターが書いてくるのであるから、そこまでは問題ないのだが、それから先、編集者の手に渡った原稿にリアリティを持たせるには、やはり編集者自身がそれらの国々にいなければならないだろう。

 つまり、編集のヘッド・クォーターは日本・東京に置いておいてもいいけど、編集のサブ・クォーターは世界各地にないと、やっぱりビビッドな、あるいは生きた情報や話は入ってこないのだ。

 どうせなら編集部そのものをニューヨークかワシントン、ロンドン、パリあたりにおいてはどうだろうか。それがダメならシンガポールとかね。

 今や東京の情報受信力ってかなり落ちている筈だから、もうそんな東京を捨てて、編集部をそんな場所においてしまうっていうテもあるかもしれない。だって、そんなところで編集した記事が、ネットのおかげでちゃんとリアルタイムで東京で校閲、入稿できてしまい、そのまま発行できるんだからね。

 もう、日本の、あるいは東京の雑誌だからと言って、日本、あるいは東京で作る必要はない時代になっているのだ。

 そうやって編集部自体が世界に飛び出してしまえば、『「海外で働く」ってこんなに楽しい』なんてのも特集記事にはならずに、『そんな当たり前のこと』という具合になるのではないかな。

 そういうこと。『海外で働くこと』が楽しいって言う前に『海外で雑誌を創ること』がこんなに楽しい、っていう編集者がどれだけいるっていうことが、そういう特集を組む雑誌にとっては大事なんだではないだろうか。

 もはや講談社も、営業拠点だけじゃなくて、編集拠点も海外(ニューヨーク、ワシントン、ロンドン、パリ、シンガポール)に置くことを考えたらどうだろうか。

 もしかすると、それがワールド・ワイド・マガジンの拠点になるかも知れないのだ。

 で、実は『COURRIER JAPON 2014年1月号』で面白かったのは、カバーストーリーじゃなくて、『ご近所さんの料理を安く食べられる「料理シェア」が人気』という、ギリシャの事情(つまり、「経済危機で失業率30%のその国での食事事情を如何にスマートにやり過ごすか」というテーマ)だったり、『応援しながら配当もゲット!? アスリートの「株式公開」でスポーツの見かたが変わる(プロスポーツ選手を株式会社のようにみなし、選手の「株」を売買する)』という記事だったり、『閉鎖を決めた学科も…米国で止まらない 大学生の「文系離れ」』という記事なのであります。

 一番気になるのは、最後の『大学生の「文系離れ」』なのだが、日本では今逆に学生の理系離れが問題になっている。

 既存の大学でも、理系志望者は減ってきていて、文系、特に法学系や商学系に行きたがっている学生が増えているらしい。新設大学でも、設備投資が必要な工学系や理学系の学部は殆ど見られなくて、ほとんどが芸術系やら社会科学系の学部ばっかりだ。

 そんなところで、アメリカでは「文系離れ」が進んでいるという。当然、今アメリカを領導しているのはIT起業であるのは事実だし、これからも多分IT企業が世界を導く産業(?)になっていくのであろう。

 そんな訳で、アメリカでは法・商・文という人文社会科学系から若者が離れているという話なんだが、本当なんだろうか。そのままの状況を我が国にも導入してしまうと、日本ももうすぐ「文系離れ」が現れるということになるのだけれども、どうなんだろうか。

 なんか、日本ではこのまま「理系離れ」のまま、行ってしまうような気がして仕方がないんだけれども。

 だって、今の大学生(昔の大学生もそうだったけど)の基本って「ラクしたい」でしょ。

『COURRIER JAPON 2014年1月号』(講談社/2013年11月25日刊)

2013年11月28日 (木)

『15歳から、社長になれる。』という「そそのかし本」の正しさ

「こんな僕でも社長になれた」家入一真氏の起業そそのかし本である。

Dscf07602『15歳から、社長になれる。 ぼくらの時代の起業入門』(家入一真著/イースト・プレス よりみちパン!セ/2013年11月11日刊)

 とは言うものの、やはりネット時代になって起業というもののハードルが凄く下がったと言えなくもないだろう。

 取り敢えず、本書にも登場する「もっち」が以前自らのブログで書いていた「自分が一番興味があることしか、結局は情熱を注ぐことはできない」という通り、そんな自分が一番興味があることがあるのであればそれで起業してみれば、っていうことである。起業して失敗したっていいし、起業してうまく行かなければそこでいくらでも軌道修正はできるし、それでも駄目なら一度辞めちゃえばいいのだ、ということ。

『じつのところ、起業にお金なんて必要ない。たしかに、ついこの間まで株式会社をつくるためには最低1千万円が必要だったけれど、会社の設立や組織・運営について定めた「会社法」という法律が2006年に施行され、それ以降は1円からでも株式会社が設立できろようになった。
 とはいっても、「登記」という、会社の設立を役所に届け出る手続き代として、最初に20万円くらいかかる。でもまあ、ここは一念発起してお年玉を貯めるか、親を説得して出世払いにしてもらえば、なんとかならなくはない金額だと思う。いずれにしても、「起業に莫大なお金が必要!」なんていうのはただの先入観に過ぎない。
 それから次にみんなが必要だと思い込んでいるのが、たくさんの「経験」や「知識」。
 でも、さっきも言ったように、どんなに有名な社長も、当初は多少の知識や興味はあったにしても、すくなくとも社長としての経験という点では限りなくゼロに等しかったはずだ。ということは誰もがみんな事業をやりながら、失敗したり考えたりして知識や経験を積み重ねていったということ。何回ゲームオーバーになってもめげず、折れずに経験値を増やしていくと、あるとき突然扉が開かれるゲームみたいにね。
 こう考えると、起業に大切なのはお金でも、豊富な知識や経験でもないし、ましてや漠然とした不安感でもない。まずは自分がやりたいことに「何が、どのくらい必要なのか」を、できる限り具体的にひとつひとつ考えていくということだ。
  <中略>
 そしてもうひとつだけ、社長にとって絶対に欠かせない、どうしてもしなければいけない大切なことがある。それは「物語を語る」ってことだ。
 社長である自分が、「どうしてその事業をしたいのか」、「それが成功すると、誰がどう喜んでくれるのか」、壮大なものである必要は全然ないけれど、そういう物語、つまり会社が向かおうとする「行く先」をとにかく語ること。口下手でもいい、うまくしゃべる必要は全然ないし、ムリに熱く語らなくたっていい。
 大切なのは、それを聞いた人たちが「それいいね!」とか「その物語に参加したい」、「それが成功するために、会社と一緒に頑張りたい」と思ってくれること。そしていろいろなスキルを持ったメンバーが協力してくれるようになれば、社長自身にスキルとかノウハウ(知識・経験にもとづく具体的な技術や手順)とかがなくてもなんとかなる。
 社長は、なんでもできるスーパーマンである必要なんてない』

 というのが本書のキモである。

 つまり、大事なのは自分に有り余るほどの「自分がやりたいこと」があるかどうか。

 往々にして、創業社長ではないサラリーマン社長になったりすると、こうした「自分がやりたいこと」がなくなってしまい、目的は「会社が儲かること」という風になってそれ以外は見えなくなってしまったりして、結局は何か不祥事を起こしたりして、社長を辞めなければならなくなったりする。

 結局、「自分がやりたいこと」が明確にあるのなら、年齢や経験や知識や学歴や職歴なんかは関係ない、今すぐにでも会社を始めたらどうだろうかという、実は至極まっとうな提案なのだ。

 で、第二章ではそんな「子どもの時代に起業してみた」というか、それこそ家入氏が起業を助けた若者たちへのインタビューである。

 登場するのは15歳で起業した福岡県に住む吉田拓巳君(以下、タクミ君)。中学2年生のときから学校掲示板の運営を始めて、中学3年生のときに中高生だけが使えるSNS「Leevice(リーヴェス)」を立ち上げた、沖縄県うるま市の新垣晴太郎君。中学2年生のときにつくったiPhoneアプリ「健康計算機」が180万ダウンロードと大ヒットして、一躍ネット世界で有名人になった、灘高の生徒、Tehu君。家入氏が立ち上げた会社「ハイパーインターネッツ」のインターン生だった、22歳で起業して現在23歳の鶴岡雄太君(つるちゃん)。東日本大震災のときに、世界中から寄せられたメッセージを集めたサイト「prayforjapan.jp」を立ち上げたことで有名になった大学生、鶴田浩之君。

 以上の5人に共通しているのは、幼いころからパソコンに親しんでいたこと、そのパソコンで何かを調べたり外からの情報を受けるだけでなく、自ら情報発信をする楽しさを覚えたこと、更にはその情報発信の中からもっとやりたいことを見つけたこと。そしてもう一つ重要なのは、そんな彼らを取り巻く両親に理解があったこと。多分、実はこの最後の「両親」というのが大事なのだろう。

 普通の両親だと、ここは「そんな馬鹿なことを言ってないで、勉強しなさい」とか、「パソコンばっかりやってないで、少しは勉強したらどうなの」「大学くらい言ってないと人生後悔するぞ」なんて言葉を投げかけそうだが、彼らの両親は決してそんな親ではなかった。と言っても、彼らを積極的に後押しをしたわけではなかっただろうが、でも、彼らを決して否定していない。

 自分のやっていることを否定しない親の元で、やりたいことをやっていた彼らの前に現れたのが家入氏だったというのが、これまた彼らにとってのラッキーな出来事だったのだろう。そしてその出会いもTwitterなどのSNSであるというのも、いかにも今の時代ならではである。

 家入氏は自らアントレプレナーであると同時に、インキュベーターとして、更にベンチャーキャピタリストとしての活動も行っている。その対象は主に自らが起業した年齢に近い若い人たちへの支援に向けられている。今や起業家とインキュベーターを結ぶものはSNSなのであるな。

『なんだって「ビジネス」として成立する時代だし、自分のなかに自分なりの「思い」があって、それをかたちにすることができれば、たくさんの人と出会うことができる』

 そんな時代なのである。

『そもそもこの時代、どんなに有名な大企業でもいきなりペシャンと倒産しかねないし、「安定」の代名詞みたいな公務員の立場だって、どうなっていくかわからない』

 そんな時代なのである。

 だったら

『君には今、何かやりたいこと・興味があること・好きなことはある? もし、そういうものがひとつでもあるなら、その思いに沿って今すぐ動き始めてみればいい。何かを始めるときに、早すぎることなんてない』

 私も、熟年起業でもしてみますか。

2013年11月27日 (水)

「tsunokenのブログ」はどんな具合で読まれているのか……4年目の真実

 2009年の今日11月27日に「ブログを始めました」と言ってブログを始め、同日に「イングロリアス・バスターズ」についての映画評を書いてまる4年経ったわけだ。

 で、現在のブログの立ち位置をTopHatenarで調べてみた(調べたのは数日前)。

20131118_111606

 全体で687,548人中44,463位、Niftyのココログでは10,697人中1,601位というのが私のブログの現状だ。ブックマークは全体で48,228位、ココログで1,102位とアクセス数と似たようなもの。ここ30日間のPVは22,244、1日平均では741人の人が読んでいる。4ヵ月間のPVは107,555、1日平均では919人。最近30日間より4ヵ月の方が数字がいいのは、9月22日3,538、23日5,958というのがあるから。理由は下の方に書いてあります。

 で、他の人(有名ブロガー)の状況はどうなっているのか…………。
 
20131118_111232_2

 Chikirinさんのブログは全体で57位、「はてな」では4位という状況。う~ん、すっ凄い、凄すぎる! ブックマークも全体で49位、はてなダイアリーで「1位」という栄冠だ!


20131118_111916

 私が最近一番読んでいるイケダハヤト氏のihayato.書店は全体で59,825位、イケダハヤト氏はWord Pressで自分でサーバーと契約しているので「その他」というジャンルになってそこでは23,179位(現在はライブドア・ブログに移行)。ふーん、私のブログより下? まあ、ブログを始めたのが多分私と同じころだからなあ。でも、ブックマークが凄い。全体で124位、その他で82位だ。

20131118_120039

 Niftyのココログでは切り込み隊長やまもといちろう氏がトップで、全体では42位である。

 ふ~ん、皆すごいなあ。さすがにアルファ・ブロガーと呼ばれるだけある。

 しかし、意外に思ったのは私のようなヘッポコ・ブロガーで全体で44,463位でも、それでも上位6.91%に入っているということ。つまり、ブログを書いている人の93.09%の人、640,038人の人はなんか、書いても書いても誰も読んでくれない人ということなのだろうか。

 まあ、私も最初の頃は1日20~30位しかPVはなくて、それも自分でクリックした分も含めてなので、多分他人で読んでくれた人は10人もいなかったのではないだろうか。2011年から毎日のPVを取り始めたのだが、2011年が200~500/日、2012年が400~700/日、2013年が9月23日に5,658のPVを稼ぐ日などあって、平均700~900/日位のPVになっている。まあ、9月22・23日のPVは半沢直樹のおかげということで、ちょっと事情は違うが、まあ毎日毎日エントリーを書いていけば、4年でなんとか1日平均1,000PV位にはなるということだろう。まあ、まだまだアルファ・ブロガーにはほど遠いですけれどもね。

 まあ、皆さんあまり凹まずに、毎日毎日更新することですね。「書くことが楽しい」そんな気分になれば勝ちです。

 私が基本的に読んでいるブログは、田中長徳氏の「PEN PEN チョートクカメラ日記」、H氏の「シュクレはお留守番」、コグレマサト氏の「ネタフル」、大原ケイ氏の「Books and the City」、イケダハヤト氏の「ihayato.書店」、ちきりん氏の「Chikirinの日記」、立花岳志氏の「No Second Life」、運営者の名前は分からないが、カンボジアの今日を伝える「Six Samana」、染谷昌利氏の「Someya Masatoshi.jp」、山田ユウキ氏の「カフェオレ・ライター」、松井博氏の「まつひろのガレージライフ」、日野瑛太郎氏の「脱社畜ブログ」、内田樹氏の「内田樹の研究室」、tokyo editor氏の「編集者の日々の泡」、するぷ氏の「和洋風KAI」などで、これらのブログから気になる本を教えて頂いたり、インスピレーションを頂いたり、ネタ元にさせて頂いたりしている訳である。あっ、クリス・ギレボー氏の「THE ART OF NON-CONFORMITY」なんてのもあった。

 したがって、これらのブログを読んでいると、私が書くブログを予想ができるという訳である。

 そんな私のブログの裏側を公開したのは他でもない、読者の皆さんからもどんどんネタを頂けたらという下心に過ぎないのだ。

 ということで、これからもよろしくお願いします。

2013年11月26日 (火)

Fitbit weekly progress report from Nov.18 to Nov.24

 Fitbitから先週のレポートが来た。

 1週間の合計では89,636歩、62.75km歩いている。

 最も活動的だった日は11月19日(火)15,863歩、11.10km。

 最も非活動的だった日は11月21日(木)10,521歩、7.36km。

 先週は意識的に毎日1万歩を歩くことを心がけたので、最低でも1日1万歩を超えている。実は1週間の目標は7万歩歩けばいいのだけれども、毎日1万歩を目標にすると確実にトータル8万歩を超えるのである。

20131126_75002

『マンション再生』って、結構重要な問題を含んでいるのである

『マンション再生最大の課題は、マンションの「経年変化」と居住者の「高齢化」という二つの‟老い”への対応である』

 なるほどなあ。

S00107572『マンション再生 二つの‟老い”への挑戦』(増永理彦著/クリエイツかもがわ/2013年10月15日刊)

 もともと、なんでこうしたタイトルの本を選んだのかというと、私自身の体験からなのだ。

 現在、私がもともと住んでいた(所有していた)マンションが来年夏の引き渡しを目指して建替えの真っ最中であり、私自身はその建替え組合の副理事長を務めている。別に副理事長といっても何の権限もなく、偉くも何ともない。建替え作業そのものは同じ建替え組合の組合員であるデベロッパーが主導で進められているので、建替え組合の仕事といえば、以前の所有者(地権者)が新規マンションのどの部屋を取るかとかの調整や、新規マンションの管理規約の策定とか、予算の承認とかなどの雑事をこなすだけである。現在の建替え組合の焦眉の課題は「新規マンションでのコミュニティのありかた」なんてことである。

 しかし、現在マンションの再生を建替えで行っている例は全国でも52例しかない。あまり例がない中での建替えでは、先例がないためにいろいろ問題が出てきた際に、自分たちで解決策を練らなければならない。これはこれで結構大変なことではあるのだ。

  マンション再生には大きく分けて「リビルド」(建替え)と「リニューアル」(再生)の方法がある。当然それについてはメリットとデメリットがある。

 建替えには当然そのための費用がかかるわけで、それをどうやって捻出するかが大きな問題になる。等価交換方式と言っても実際には「本当の等価交換」にはならない。等価交換するためには、隣地を取り込んだり階数を増やして実際の建替え面積を定められた容積率の中で増やすとかしなければならないし、当然「増床負担金」なんてものも必要になってくる。もっとも、「増床負担金」は別に新規マンションでの獲得床面積を減らせば払う必要はないけれども。

 で、そこで問題になるのが最初に書いた「居住者の高齢化」という問題である。

 居住者が働き盛りの年齢であれば、増床負担金なんかも別に問題にはならないのだが、マンションの「経年劣化」とともに、居住者は高齢化するわけで、それがちょうどマンションの再生期になると、大きな問題になるのだ。我がマンションも居住者の大半は定年退職者であり、当初は「建替えなんてとんでもない」という雰囲気であった。

 約1千万円かけて行った「耐震診断」の結果、一部住居の窓が少なくなったり、三角形の補強材を入れてマンションの外観を損ねるという問題もあったが、大半は「耐震改修」を行う方向に管理組合でなったのであった。ところが、あるデベロッパーから「建替え」の提案があって、それがあまりにも良い条件だったので管理組合も大いに悩むことになった。

 そこで、我が管理組合では東京都住宅供給公社(JKK)のコンサルタントを受けることを決定。実は、これが一番功を奏して、建替えへと一気に流れが変わったのである。

 最初はJKKと一緒になって「建替え」で行くのか、「耐震改修」で行くのかの勉強会から始まった、我がマンションの再生問題であった。当然、最初はお金のかかる「建替え」には慎重な意見が多く、「耐震改修やむなし」という方向で進んでいったのだ。それの流れが少し変わったのが、隣地を取りこんで建替えを行えば少し条件が良くなるという発見があってからだ。少しずつ「建替え」派が増えてきたのだが、それが一挙に「建替え」に変わったのが2011年3月11日の東日本大震災であったことは言うまでもない。

 管理組合の建て替え決議は100%の賛成で建替え決定となり、デベロッパー3社のコンペとなり、そのうち1社を決定して、現在に至っている訳である。

 幸いしたのは、駒込六義園の正門前という立地の良さであった。

 結果、旧マンションの資産価値も結構高く、増床負担金もそれほど多くはなかったという結果となり、大半の権利者も満足できる結果となったのは、旧管理組合としても胸を撫で下ろすことになった。

 この間、比較的旧管理組合のイニシアチブが通ったのもJKKのコンサルタントのお蔭ではなかったかと考える。

 その辺、本書で語られている大阪の「千里桃山台第二団地」のような、『民間デベロッパー主導型建て替え事業の問題点』のような問題は出てはこなかったのである。

 千里桃山台第二団地では、建替え賛成派、反対派に分かれて管理組合はおおいにモメて、最後には裁判沙汰となり、『「賛成派住民のなかには、10名近くの死亡、うつ、精神不安あるいは体の変調など健康を害するもの」が多く出た。一方、反対派に対しては、「脅迫状、建物階段への排便、玄関からガスを入れる、などの脅迫や嫌がらせがなされたりした」。このような一連の居住者追い出し方法は、憲法の保障する居住権をはじめ財産権や生存権にも抵触すると思われる』という事態にまで至ったそうだ。

 勿論、我がマンションは1棟だけで戸数も24戸という小さなマンションで、千里桃山台第二団地のような17棟、380戸というような大マンションではなく、そのために以前より住民同士のコミュニケーションは良かったことも幸いしている。まあ、そんなコミュニケーションの良い小さなマンションではそんなモメごとになるということもそう多くはないだろうから、それ以外の大規模マンションには、結果として増永氏はマンション再生はリニューアルを薦める。

 当然そこには「地球環境の保全」というおおきなテーマがある。建替えをすれば、それまでの旧マンションの取り壊し、新マンションを建設するための資材の確保という、ふたつの自然環境破壊の問題が生ずる。

『①マンションの高層化・高容積化が進み、現容積率が法定容積率に比べ相対的に高く、建て替え事業後、保留床を生み出せないケースが多い。
②「高経年マンション」居住者には高齢者や低所得者が増え、こうした居住者は積極的に建て替えを希望しない傾向がある。
③1981年以降の「新耐震基準」が適用された比較的新しいマンションについては、順次耐震改修が不要な場合も多くなり、リフォームによる再生で対応しやすい。
④建築基準法上既存不適格のマンションには、建て替えそのものが困難なものもある』

 というのが、増永氏の基本的な考え方だ。

 まあ、確かにそれが一番現実的な解決方法であるが、しかしそれが根本的な解決方法であるのかどうかは、ちょっと気になるところではある。

 えっ? お前は最初は建替え賛成派だったのか、反対派だったのかって? 当然、賛成派です。だって、だってその方が建物の資産価値は絶対に上がるんだからね。

 そりゃ当然でしょ。

『マンション再生 二つの‟老い”への挑戦』(増永理彦著/クリエイツかもがわ/2013年10月15日刊)

2013年11月25日 (月)

紅葉の六義園 ライトアップは12月8日まで

 駒込六義園の紅葉が色づいて、11月22日からは期間限定のライトアップがされているという宣伝もあるということで、昼間から観光客でいっぱいである。

Dsc_00292

 ご存じの通り、六義園は五代将軍・徳川綱吉から元禄8年に加賀藩の下屋敷跡地を賜った、忠臣蔵の悪役で有名な柳沢吉保が7年かけて造営した庭園である。2万7千坪の平坦な土地に土を盛って山(藤代峠)を築き、千川上水を引いて池を掘り、起伏のある景観をもった回遊式築山泉水庭園である。

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「1702年(元禄15年)に庭園と下屋敷が一通り完成すると、以降綱吉のお成りが頻繁に行われるようになる。その回数は記録されているだけでも実に58回もあり、吉保の寵臣ぶりもさることながら、この庭園自体が当時にあっても天下一品のものと評価されていることが窺える」というのがWikipediaの紹介だが、もうちょっと別の面もあったようだ。

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 というのも吉保の側室・染子はかつて綱吉の愛妾であり、綱吉から吉保に下された拝領妻(妾?)であったという。で、吉保の子・吉里も綱吉の隠し子だという説があるのだそうである。

 つまり、綱吉は染子とニャンニャンしたくて、柳沢邸に日参したという話。吉保もそれを知っていて目をつぶっていたそうだ。さすがにゴマすりでもって出世した吉保ならではのエピソードではあるな。

Dsc_00382藤代峠からの眺めも六義園の魅力の一つだ。

 柳沢家は吉保の次の吉里の代になって大和郡山に転封となるが、六義園周辺の屋敷は柳沢家の下屋敷庭園として幕末まで使用された。

 明治になり、三菱家の創業者・岩崎弥太郎が六義園及び柳沢家下屋敷一帯を購入。その地の再開発に乗り出し、六義園の周辺は大和郷という高級住宅地となった。田園調布なんてのが開発されるよりずっと以前のことなのである。

 庭園部分は煉瓦塀で囲まれて六義園となり、1938年(昭和13年)には東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになった。東京大空襲の被害も受けることなく、1953年(昭和28年)には特別名勝に指定されたのはご存じの通り。

 で、またまた後々になって柳沢家の屋敷跡に我がマンションが建設され、その建替えにあたっては、柳沢家の遺跡調査を文京区から命じられることになって、ちょっと困ったなんてエピソードもあったりしたのだ。

 残念ながら柳沢家の財宝が出てきたなんてことはなかったけどね(ちょっと期待したんだけど)。

Dsc_00452_2同じ藤代峠からの眺めだが、なんかちょっと違うものが写っているなあ。何だろ?

 六義園 紅葉と大名庭園のライトアップは12月8日まで

「六義園 公園へ行こう 東京都公園協会」のサイトはコチラ

2013年11月24日 (日)

冬恒例、オリオン座ネタでございます(笑)

 ここ数日晴天が続いているものだから、今年はちょっと早めにオリオン座の星座写真に挑戦。

 まあ、レンズも新しくなったしね。

 でも、この程度でしかない。

 まあ、それでもそれぞれの星の認知はできるので……。

Dsc_00032

 オリオンの3つ星には上からミンタカ、アルニラム、アルニタクという名前がついていて、日本では表筒男命、中筒男命、底筒男命という住吉三神に例えられるという。

 住吉三神という場合はこれに息長足姫命が加えられることがあるそうだが、この息長足姫命というのは第14代天皇の仲哀天皇の皇后、神功皇后の別名。夫の急死後、住吉大神の神託で子供を妊娠したまま、九州から玄界灘を渡り、朝鮮半島に出兵し新羅を攻め、新羅は戦わずして降伏し朝貢を誓い、高句麗、百済も朝貢を約したという女傑であったそうだ。

 まあ、「日本書紀」の話であるので、実際にそんな話があったのかどうかは分からないが。

 オリオンの3つ星というのは、アラブゲリラが男3人で構成されるのが基本であるところから、テルアビブのリッダ空港を急襲した日本赤軍がオリオンの3つ星を名乗ったという話もある。

Dsc_00052

 オリオンの3つ星の右下に見える大きな星が青色超巨星リゲルである。リゲルは3連星だそうであり、つまりは同じ質量の3つの星が同じ軌道をグルグル回っているので一つの星に見えるという。

 和名は源氏星という。

Dsc_00072

 オリオンの3つ星の左上にあるやはり大きな星がベテルギウス。超新星爆発が予想されている星であり、もしそんなことがあれば地球にも大きな影響があるそうだ。

 和名は平家星というのは、やはり源氏星との対称なのだろうか。

 三脚を使ってミラーアップさせて撮ったんだけど、こんなもん。練習せなあかんなあ。

 もっとうまくなってから投稿しろよ……、って、スミマセン。

400pxorion_3008_huge(c)Wikipedia

 オリオン座です。ちゃんと撮ればこういうことになる。

NIKON D7000 SIGMA 150-500mm (c)tsunoken

2013年11月23日 (土)

『独身・無職者のリアル』スネップ(SNEP)って何だ?

「スネップ」って何だ?

『スネップ(SNEP)とは経済学者の玄田有史教授が提唱した言葉で、文字通りには、孤立した(Solitary)無業の(Non-Emplyed)人びと(Persons)を指します。より詳しくは「20~59歳の、結婚したことがなく、学生でもなく、家族以外の人付き合いがない、孤立状態にある無業者」と定義されています』

 なるほど、ニートが「Not in Education, Employment, or Training」と言って、日本では15~34歳の非労働人口の中から学生や専業主婦を除いて、求職活動を行っていない人を指すのに比べて、それよりもっと広い対象に向けた言葉なんだな。

 もっとも、ニートや引きこもりの人たちが、そのまま大人になってしまっている状態を指している訳で、ニートや引きこもりのなれの果てとでも言えるのではないか、と考えたのだが……。

R11972472~果てしない孤独~独身・無職者のリアル』(関本徹平・藤原宏美著/扶桑社新書/2013年10月1日)

 第二章に4つの実例が出ている。

 ケース1は『現在、都内で予備校講師や家庭教師をしている中井壮平さん(仮名・49歳)は、仕事量がシーズンによって大きく異なる。「週に家庭教師の授業が1コマだけ」という無業同前の時期もある潜在的スネップの一人だ。
「予備校の場合、少子化の影響もあるけど、それ以上に大きいのはネット配信の授業が増えたこと。だから、講師の数が要らないんですよ」
 予備校講師といえば「いつやるの? 今でしょ!」のセリフで2013年に一躍ブレイクした林修氏が有名だが、彼は以前から多くの受験生に支持されていた大手予備校の人気講師だった。だが、彼のような高い報酬をもらっているスター講師はほんの一部だ。実際にはこの5年、10年の間に学習塾を含め、多くの講師が淘汰されている。授業コマ数を減らされて収入の大幅ダウン、契約を打ち切られて転職した者も少なくない』という状況だそうだ。

 ケース2は『現在、北海道で市役所の嘱託職員として働く小林礼子さん(仮名・47歳)は、3年前に22年間勤めていた首都圏の私立大学職員の仕事を退職。その後、北海道の実家に戻ってから無業と契約社員などを繰り返す不安定な状況が続いている。
「大学職員を辞めることになったのは、私の病気が理由です。以前から双極性障害を患っていて、退職する少し前には拒食症で入院していたんです」
 このときはまだ休職の状態だったが、医師からは一人暮らしで周囲に支えてくれる人がいないことを不安視され、「もう働くのは無理だ」との宣告を受けた。
「しかも、追い打ちをかけるように職場からも『退職してほしい』と言われました。どのみち仕事を続けることは無理でしたし、辞めざるを得ない状況でした」
  <中略>
 小林さんの父親は75歳、母親は74歳。高齢の両親は仕方なく同居に応じたにすぎず、病気についても理解できていなかった。それどころか同居開始から1年後、障害給付金の受給期間が切れようとする娘に、「働きなさい」と冷たく言い放ったという』。

 ケース3は『神奈川県在住の遠山淳司さん(仮名・49歳)。2008年に職を失って以来、5年近く定職に就けずにいる。
「42歳のとき、約1年間の求職活動を経て電気部品の工場で働き始めました。でも、大口の取引先からの受注が突然なくなって会社の経営が傾いてしまったんです。それで財政的に社員を雇えないって、僕を含む50人ほどの社員がリストラされました」
 44歳で無職となり、長期間の職探しを覚悟していた。だが、すぐに面接してくれる企業が見つかり、最終の5次面接まで残ることができた。
「でも、ここでリーマンショックが起きてしまい、求人自体が白紙になったんです。このとき、『正社員じゃないけど……』そのお詫びとして提示されたのが3か月の試用期間限定の採用でした。こっちは他に仕事もなかったですし、断る理由はありませんでした」
 このとき会社側は、「ノルマを達成できたら正社員として雇う」という約束。ところが、その条件とは、「期間内に飛び込み営業で300万円を売り上げる」という大変厳しいものだった。扱う商品の単価は1個500円や1000円。雇う気がないのは明らかだった』

 ケース4は『北海道在住の吉田啓太さん(仮名・37歳)は、典型的なスネップだ。
 35歳のときに、流通系企業の子会社を退職。以来、求職活動をしておらず、無業の状態が続く。同居する両親以外の人間と接する機会は皆無で、せいぜい近所の人と挨拶を交わす程度。学生時代の友人とは会うことはもちろん、電話やメールのやりとりもない。
  <中略>
 就職も、志望したのは地方公務員。役所勤めなら、人付き合いが苦手でも務まると思ったからだ。大学在学中は、アルバイトも一切せずに試験勉強に励んでいた。
  <中略>
 しかし、努力の成果が実ることはなく、気がつけば6年連続で不採用という結果に。結局、年齢制限などの問題もあり、ついに公務員になることを断念。このとき、すでに28歳になっていた』

 とは言うものの、ケース3の遠山さんの場合はブラック企業顔負けの超ハードな職場だけど、年収約800万円という企業に10年間勤めていたおかげで、現在でも約2000万円の貯金があり、スポーツサークルにも参加していて、他のスネップほどには悲壮感はないが。

 結局、こうしたスネップが多く生み出されている原因は、現代日本のコミュニケーションのありかたの変化にありそうだ。

(1)高度経済成長期の始まる前の農村を中心とする社会=地縁・血縁社会
(2)高度成長期に形成された「学校・企業・家族の三位一体」の社会=社縁と家族の社会
(3)「学校・企業・家族の三位一体」が崩れ始めた社会=無縁社会

 という変化である。

『社縁を結べなければ、家族というつながりを形成することも難しくなります。今まで育ててくれた家族との関係も悪化しかねません。実家にいられなくなれば、ネットカフェ難民や路上生活を余儀なくされるかもしれません。住居を失えば、求職活動の条件は余計に悪くなります。
 社縁から排除されていることが血縁からの排除に結びつき、血縁からの排除が社縁からの排除につながるといったように、排除はたがいに関連しています。社縁に恵まれなかった人びとが、家族を形成できずに孤立するという、無業と孤立の連鎖がおきるのです』

 結局、スネップという孤立無業者の問題は「個人の問題」ではなく、そうした社会の中での人と人の関係性の変化によって起こされるものだということ。つまり「社会の問題」なのである。

 そこが「引きこもり」や「ニート」とちょっと違う。

~果てしない孤独~独身・無職者のリアル』(関本徹平・藤原宏美著/扶桑社新書/2013年10月1日)

2013年11月22日 (金)

クリス・ギレボー氏のメルマガ"THE ART OF NON-CONFORMITY"

 クリス・ギレボー氏のメルマガTHE ART OF NON-CONFORMITYが来た。

 タイトルは「Almost Free Trip to Australia (殆どタダのオーストラリア旅)」、トラベル・ハッキングのケーススタディであります。

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『大学の淘汰が始まった!』って言われたって、そんなの当たり前でしょって言う前に

『大学の淘汰が始まった』って言ったって、日本の大学は国公立含めて783校もあって、高卒者の50%以上が大学に進学し、それこそ偏差値30もあれば大学に入れちゃうという、基本的に大学全入時代に入っているわけで、そんな状態であればそれこそファミレスに入るくらいに簡単に大学に入れるのであれば、じゃあファミレスと同じに競争淘汰は当たり前なのである。

 という前に、もうちょっと慎重に本を読み進めてみよう。

Dscf0517_edited1『大学の淘汰が始まった!』(平山一城著/宝島新書/2013年10月24日刊)

 私立大学では早慶・上智・MARCH・日東駒専・大東亜帝国なんて序列ができているが、まあその程度の大学はまだいいようだ。

 国立大学協会加盟86校、公立大学協会加盟84校、私立大学連盟加盟125校、私立大学協会加盟398校、合わせて693校はまだ多少は大丈夫。問題はそれらに加盟していない新設校など90校なのかもしれない。

『大学が783校にも増えて、天国か地獄かという競争になっています。大学は、生き残りのための改革に覚悟を決めて取り組まなければならないのに、資金が不足すれば学費を上げ、国からの補助金が少ないと嘆く。無責任体質をなんとかしなければ、立ちゆかなくなる大学が続出します。『財』の独立がなければ、『学』の独立もありません』

 というのは元山種証券社長から早稲田大学に転じ、財務担当の副総長・常務理事を務め、その後、現在も改革著しい東洋大学の常務理事に迎えられた關昭太郎氏の言葉である。問題はアメリカの大学のように卒業生からの多額の寄付金に支えられ、それを金融商品で運用し、学費収入は3割程度であるというような状況に日本の大学もしなければならないということであろう。

 文部科学省の学校基本調査というのがあるそうだ。

『現在の18歳人口は約120万人、このうち61万2千人が4年制大学に入学した。内訳は181校の国公立大に13万1千人、599校ある私立大に48万1千人である(いずれも2011年度)。
 その私立大への入学者をみると、599校のうち定員の多い47校に18万7千人が入学し、残りの552校に入学するのは、わずかに29万3千人ということになる』

『これが「全入時代」とか、ユニバーサル化と呼ばれる現実である。受験生からみれば、高望みしなければどこかの大学には入れる。しかし、それが社会にとって、いや本人にとってもよいことなのかどうか』

 と言ったって、結果はそうなんだから仕方がない。それが巡り巡って、3年生か4年生になると、「就職できない大学生」になってしまうのである。

 2012年11月に当時の田中真紀子文部科学相が唐突に3大学の新設を不認可した背景には、こんな現状があったわけである。

 一方、MARCHクラスの大学でも

『多摩移転でレベルの低下がささやかれる中央大では、理工学部や商学部で増えたものの、看板の法学部では2年連続の減少となった。全体でも2700人以上減らしている。中大は多摩丘陵の広大なキャンパスに、ほとんどの施設が移転しており、今後も厳しさを覚悟せざるを得ないだろう』

 などと書かれてしまっている。中大の理工学部は昔から礫川公園脇の後楽園キャンパスにあって「あれは中大じゃない」なんて他学部生から言われたりしていたんだが、今になっては他学部生からは羨まれる立場になってしまった。法学部も、以前神田駿河台にあったころは卒業して弁護士になったOBが簡単に立ち寄ることができたので、それが中大法学部生にとっての魅力だったのだが、多摩まではOBも来ず、今になって市ヶ谷などに法科大学院なんかを設置しているが、そんなことでは大したことではない。やはり、都心回帰というのが中大の基本的な戦略にならないと、将来は危ういだろう。

 都心に回帰して、立教大学商学部のように1年間の海外留学を義務付けるというような改革を中大には求めたい。そうでなければ我が母校の将来が心配だ。いつまでも「可愛い! 應援團長 本城亜利架さん」に頼ってばかりじゃあいけないのだ、って、あれっ? なんか脱線したなあ。

『日本は、世界一のスピードで高齢・少子化が進む。しかし高齢化は長寿社会を達成できたからこそ、問題にもなる。同じように、かつて公害に苦しめられた日本は、それを克服して公害対策・省エネルギー分野で世界の途上国の手本になっている。いま日本が抱えている問題の多くは先進国共通の分野であり、その先の「新しいモデル」を考えることが必要になっている。そのとき、米国も欧州も見つけていない答えを見いだす可能性のある数少ない国が日本、と私は考える。
 大学は、日本の人材育成の中核として機能しなければならない。内向き、自信喪失、自虐的…、最近の日本人は悲観的な見方、自己評価に甘んじている。しかしいかなる改革も自尊や自律の気位がなければ、うまく行かないだろう。学生たちを語る場合も、無気力や学力低下ばかりをあげつらってみても彼らを追い詰めるばかりで、はかばかしい結果は生まれまい。英国BBC放送の調査は「世界に最も良い影響を与えている国」として日本を取り上げたことがある。日本という国の歴史に自信を持ち、時代変化に負けず、もう一度自分たちの「坂の上の雲」をつかみ取る気概が必要なのだ。
 大学では、いったん解体された「教養教育」が復活しつつある。リベラル・アーツと呼ばれることもあるが、その具体的な形ははっきりしていない。目先を変えて、学生を呼び込むためだけに目新しい言葉が使われていないか。次から次へと耳目をくすぐる学部・学科をつくっては失望を招いた。社会が求めているのは、かつて戦前の旧制高校が掲げたようなエリート臭の強い教養ではない。日本人としてのアイデンティティーを堅持しながら、グローバルな視点で世界を見渡し、問題を解決できる強靭さである。
 それが、独りよがりではない「グローバル時代の教養」といえる』

 という言やよし。

 しかし、実際にそれを実現するのは、更に難しい。

 ことに、今の「内向き、自信喪失、自虐的…」な学生相手ではね。

『大学の淘汰が始まった!』(平山一城著/宝島新書/2013年10月24日刊)

2013年11月21日 (木)

東京駅グランルーフって……どうよ

 東京駅八重洲口9月20日、グランルーフっていうのがオープンした。「グランルーフ=でっかい屋根」っていうわけで、以前大丸百貨店があった場所に大きな屋根を作ってペデストリアンデッキを置き、南にリクルートやBMW Japanなどが入っているオフィスビル・グラントウキョウサウスタワー、北に大丸をキーテナントとした商業ビル兼オフスビル・グラントウキョウノースタワーを配置したものなのだ。

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 つまり、「単なる巨大なペデストリアンデッキ」というだけがグランルーフなのである。なんであるのか、よくわかんね。何なんでしょうね?

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 東京駅は元々三菱村と呼ばれた丸の内口側が、JRから東京駅旧駅舎の空中権を買って巨大な商業+オフスビル群を作って大々的に変化を遂げた。対する三井グループは日本橋界隈の総合開発を行っている。

 JR東日本としては空中権を売って、そのお金で東京駅舎を新築したわけなのである。さすがにお金の稼ぎ方・使い方をよく知っている革マル派なのである(ありゃ?)。

R11972352正面左側が東京建物本社、本当に東京駅前にあるのだ

 それに比べると、東京駅八重洲口側は東京建物(安田財閥)がその育ちの良さもあって大々的な総合開発、つまりいわば「ごり押し」をしなかったものだから、それぞれのビルが勝手に作られて、あまり統一的な街づくりができていなかった。

 それを総合開発していったのがJRだったという訳(まあ、革マルはごり押しが得意だからねえ、って、ありゃ?)。元々、八重洲口側のビルの耐震補強問題が1996年の阪神淡路大震災の後にに出て、多分それがきっかけで、だったら総合的に再開発しちゃえということになったのだろう。

 で、真ん中のグランルーフは空中権商売に味を占めたJRが、そんな空中権をグラントウキョウサウスタワー、グラントウキョウノースタワー(はJRの持ち物だから当然だが)やトラストタワー、サピアタワーなどに譲って、その分真ん中は3階までの低い構造になっているんだろうな。まあ、その方が「ここが駅です」ってな主張もしやすいからな。

R11972442_2

 ま、JRとしては左右の貸しビルと地下にあるグランルーフ・フロントの飲食店街がメインなんだろうな。八重洲地下街と一緒になっていて、広大な八重洲地下街なので、どこまでが八重洲地下街なのか、グランルーフ・フロントなのかは分からなくなってしまう。

RICHO GRDⅢ @Yaesu Entrance, Tokyo Station (c)tsunoken



2013年11月20日 (水)

来年の山古志牛の角突きのスケジュールが発表された

 来年(平成26年/2014年)の山古志牛の角突きのスケジュールが今日発表された。

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5月4日(祝)、5日(祝)
6月8日(日)全国闘牛サミット記念大会
   29日(日)
7月20日(日)
8月3日(日)、15日(金)
9月14日(日)、21日(日)
10月12日(日)
    19日(日)震災10周年・復興感謝大会
11月3日(日)

 という12回の本場所。

 当然、小千谷の牛の角突きも近々発表されるだろうから、私の闘牛観戦スケジュールも近々作成されるということになる。

 まあ、春に一度、秋に一度づつ小千谷・山古志開催日が連なる日があるので、多分それが一番の闘牛観戦日だろうな。あとは6月8日の全国闘牛サミット記念大会と、10月19日の震災10周年・復興感謝大会かな。

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NIKON D7000 AF-S NIKKOR 55-300mm @Yamakoshi, Nagaoka (c)tsunoken

 

『「chikirinの日記」の育て方』に同意すること、しないこと

 伊賀泰代さん……じゃなかった、ちきりんさんのKindle Direct Publishing本であります。

 いわく、「9年間のブログ運営の舞台裏」とのこと。つまり、ブログ運営のテクニックじゃなくて、自分のブログをこうやって運営してきたってことなんだけど。

 でも、それなりに読むべきところはあるんだな。

20131117_184944(ちきりん著/ちきりんブックス/2013年11月16日刊)

 ちきりんさんは2005年にブログを始めており、2010年にアルファブロガーに認定されている。

『2005年に描き始め、最初の3年はほとんど変化がなく、2008年にブレーク、その後は順調にPVを伸ばしていますが、ここ1,2年は伸びが鈍化しています。

2008年のブレークのきっかけは‟はてなブックマーク”によって注目されたこと、2009年は、そこから連鎖して有名ブログやヤフーに取り上げられ、ツイッターで頻繁に‟キュレーション”されたことが理由です。

2010年以降の伸びは、書籍の出版により、ネットの外から読者を呼びこんだ結果でしょう。最近の伸びは、ファン層の重複が少ない異分野の方との対談効果が大きいように感じます』

 か、なるほどなあ。

『ブログが注目された2008年半ばのタイミングで、既に3年分のブログが書き貯められていたことも幸運でした。換言すれば、「ブログを書き始めてすぐのタイミングで注目されなくてよかった」ということです。

2008年半ば以降に私のブログを見つけてくれた人は、読み切れないほど大量の過去エントリに驚き、熱中し、それらを読むうちに、すっかり大ファンになってくれました』

『Chikirinの日記」が成功した最大の理由は、コンテンツ消費の舞台が既存メディアからネットメディアに移行したタイミングと、ブログの運営ポリシーがベストフィットしたことです』

 などなど、すべてはごもっともではある。

 ブログが普及し始めたのが2002年頃で2006年には2,539万人のユーザーがいるまでに大衆化したということは、まさしくちきりんさんがブログを2005年に始めたというのはブルーオーシャンなのである。私のように2009年頃からブログを始めるというのは、どう考えてもレッドオーシャンだよなあ。

 しかしながら、『ブログから収入を得るということに関してさらに立場を明確にすれば、私はプロのブロガーではありません』というのは、アマゾンのアフィリエイトやグーグルのアドセンスなどの広告収入で年間500万円弱を得ている人が言うことではないだろう。「プロ・ブロガー」を名乗るイケダハヤト氏の年収もそんなものである。勿論、ちきりんさんが「意識としてプロではない」と言うのは自由であるけれども、存在論的には最早「プロ・ブロガー」なのである。

 ところでその「プロ・ブロガー」「ihayato書店」の運営者イケダハヤト氏がブログを始めたのは多分2009年に半導体企業に就職してからのことだろう。そんな私と同じ時期にブログを始めて、既にブログで数百万円を稼ぎ出しているというのは尊敬に値するが、彼もそんなレッドオーシャン・スタート組なのであるとはちょっと驚き。

 切り込み隊長「やまもといちろう」氏は多分彼の会社イレギュラーアンドパートナーズの宣伝のためだろうから、ブログでのマネタイズは考慮はしていないだろうが、それでも2004年にアルファブロガーに認定されてる。つまり、彼はブルーオーシャン組、しかし、多分ブログでお金を稼いでいる状態ではないだろう。彼には別の目的があるからね。

 私もなりたやアルファブロガーではあるが、もう今からでは無理だろうし、アマゾンのアフィリエイトもごくわずかしか入ってこないし、グーグルのアドセンスはグーグル様から断られてしまった。まあ、別にブログからの収入に頼らなくても別に生活には困らないからよいが、しかし小遣い稼ぎくらいはしたいものだ。

 なあんてことを書いているとだんだん気分が落ち込んでくるのでもうおしまい。

『自分の考えたことを文章化すること、自分の思考を言語化し、構造化すること、そういう作業自体が楽しいのです。その記録を、読者の方にも同時に楽しんでいただけるのであれば、それだけで望外の喜びです』

 という部分は私も同じ。

 というか、結局ブログを書いている人たちは、自分の宣伝のために書いている芸能人なんかは別だけど、皆文章を書くのがまず大好きだということ。同時にそれを読んでくれる人がいるということが嬉しいということ。

 それがまた次の日も書こうという動機づけになっているわけなのである。

 そんな感じで毎日毎日更新していると、なんかそれが仕事みたいにはなってくるのだが、しかしそれもまた楽しいという循環になってきて、あまり義務感というのは感じない。

 ま、それでいいんだよね。

(ちきりん著/ちきりんブックス/2013年11月16日刊)KDPによる出版なのでKindleかタブレットじゃないと読めません。

2013年11月19日 (火)

Fitbit weekly progress report from Nov.11 to Nov.17

 1週間の合計歩数81,889歩、57.32km。

 最も活動的だった日は11月14日、16,721歩、11.70km。上石神井から野方まで歩いた日。つまり、今日はあまり動けないなと感じたので意識的に歩いた日。

 最も非活動的だった日は11月12日、5,848歩、4.09km。妙高市のお寺まで法事で出かけた日。殆どクルマでの移動なので、こんなもんだろう。

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『僕がメディアで伝えたいこと』は至極真っ当な発言なんだけれども、でも言っていることはごく普通のことなんだけれどもね

 元NHKのアナウンサー堀潤氏の目から見たNHKジャーナリズムの裏側である。

 まあ、大方は予想通りではあるんだけどね。

Dscf0516_edited1『僕がメディアで伝えたいこと』(堀潤著/講談社現代新書/2013年9月20日刊)

 入社試験での面接の際

『僕は幹部を前に、NHKへの思いを熱く訴えた。
「NHKをもっと市民とつながれるような『正直な公共放送』に変えていきたいんです」
 すると幹部の一人からこんな質問が飛んで来た。
「君はこんなに大きな官僚組織を変えられるとでも思っているのか。いったいどうやって変えるつもりなんだ」
 NHKの幹部が自らを「大きな官僚組織」と評したことに、「ちゃんと自覚しているんだ」と一縷の希望を見出し、こう答えた。
「一生懸命説明すれば、何かが変わっていくと信じています。きちんと話をすればわかってもらえると思うんです」
 今にして思えば何と青臭い考えだったのだろう。空論にすぎなかったかもしれない。案の定、僕の答えにその幹部は大笑いしながら言った。
「随分、性善説な若者だな、君は」
 続けて、こう励ましてくれた。
「君がそう信じるなら、思う存分やってみたらいい」
  <中略>
 性善説と言われてもいい。もし入局できたら思う存分やってやる。
  <中略>
 しかし、この「大きな官僚組織」の壁は、僕が想像していた以上に厚かった』

 と、まあそんなところだろう。で、

『NHKは早いスピードで新しいことに取り組む必要があるとずっと感じてきました。公共放送は徹底的に開かれるべきだし、各職員は視聴者と本音をぶつけ合いながら情報を共有すべきだという考えで頑張ってきました。しかし、僕がすることはすべてコンプライアンス違反だと見なされるような状況では精神的にもちません。僕は今日辞めますが、これからもNHKのために働いていくつもりでいます。公共放送が日本でうまく機能するよう、外から貢献していきたいと思います。いったん組織を離れますが、日本のメディアを、NHKをよくしたいという気持ちは今も変わりません。ご支援いただけたら幸いです』

 という言葉を残して2013年4月1日、堀潤氏はNHKを退職する。

 東京電力福島第一原子力発電所の事故というのが、すべての日本の大手メディアへの視聴者・読者による不信感のきっかけになった訳であるが、しかし、それは既にそれ以前から持たれていた不信感を再認識させられただけなのである。

『既得権ばかりがはびこる古い日本社会を変えていくために、僕らマイノリティ世代はつながり合いながら戦っていこう! メディア不信を払しょくするために情報公開を徹底させて、いつかNHKを侵食しよう! 僕らが討論の末、到達した結論だった』

 という言やよし、しかし、それはメディア内部にいては決して成し遂げられない幻でしかないというのも事実だ。ましてや大手メディア中の大手メディア、NHKの中にいては決して成し遂げられないのである。何故なら、それが出来るくらいなら、そんなメディア不信なんてものは起こりえないし、既にメディア自身が変化を遂げているはずだからである。

 結局、大手メディアというのは、自ら変化を起こさないからこそ大手メディアたるのであって、自ら変化を起こしてしまっては、決して大手メディアにはなれなかっただろう。自ら変化を起こさず、しっかり利権に喰らいついて自ら既得権益の塊になったからこそ、「大手」になれたのである。

 勿論、「既得権益の塊」などというとまさしくメディアの姿では「あり得ない」と考えるのが普通であるが、しかしメディアも企業である以上は成長し大きくなりたい。会社が大きくなればそれだけ経営は安定するし、潰れる心配もなくなってきて、積極的に取材などもできやすくなる。

 しかし、それがいわばメディアの抱える自己矛盾である。つまり、そうやって大きくなったメディア企業は、同時に会社を守らなければならないという意識が働き、それが冒険主義を避けるようになったり、自らの情報公開に消極的になったりという自己防衛に走らなければならなくなったりするのである。

 まあ、それが結局はマスコミ「企業」の生きざまなんだよなあ。残念ながら、そうやってマスコミは、コミュニケーションの立場では劣化していくんだよなあ。会社としては立派になりながらも、メディアとしては劣化していくってのも、経営者としてはどんな気持ちで見ているんだろうか。自らはメディア企業の経営者として君臨しながらも、一方自分の企業がメディアとしての役割を落としていくのである。

 それはそれで忸怩たるものはあるのだろうけれども、結局は自らの経営者としての立場からしかモノを見ることが許可されないのであるから、それはそれで大変な仕事ではある。

 で、結局はメディア企業は次々にそんな「企業」の範疇から飛び出してしまう人間を生み出すのである。

 まあ、それがメディア企業の宿命なんだけれどもね。

『僕がメディアで伝えたいこと』(堀潤著/講談社現代新書/2013年9月20日刊)Kindle版もあり

2013年11月18日 (月)

「エロ本は情弱オヤジのミカタ」か、なるほど

『創』12月号のカバーストーリーは勿論『黒子のバスケ』問題であり「『黒子のバスケ』脅迫犯から本誌編集部に届いた手紙 500カ所以上に脅迫状などを送ったという犯人の狙いは」というものであるのだが、それはそれで興味はあったのだが、私が興味を持って読んだのはそれではない。

S08507182『創 2013年12月号』(編集兼発行人:篠田博之/有限会社 創出版)

 私が興味を持ったのは「"冬の時代"エロ出版社に吹き荒れるリストラの嵐 ネットの影響で今や市場が崩壊の危機に」アダルト系フリーライターの安田理央氏の記事である。

『IOC(国際オリンピック委員会)視察団が日本を訪れた際、コンビニの成人誌コーナーを見て、顔をしかめたという報道があり、オリンピックの開催に合わせてコンビニからエロ本を締め出そうという動きが予測されるからだ』

『オリンピックの東京開催が決定した翌日には、エロ本出版社では「これでもう終わりだ」という諦めの声が飛び交った』

 というの書き出しなのだが、問題はオリンピックなんかなのではない。すでにエロ本業界自体が瀕死の状態になっているというのである。

『90年代にはコンビニで販売されれば、最低で10万部。中には40万部、50万部という発行部数を記録する雑誌もあったが、現在はコンビニ誌でも、10万部を超えるエロ本はほとんどなく、よくて6~7万部。しかも返本率が5割以上でも珍しくないのが現状だ。売上は90年代の半分以上である』

 ということだそうだ。

 しかし、そんなことは別にエロ本だけではなくて、一般誌の世界だって似たようなものである。今や一般誌であっても昔の『文藝春秋』みたいに100万部を超えて発行されるような雑誌はあり得ないし、たかだか40万部、50万部ですらかなり難しいハードルになってしまっている。そこで一般誌の場合はなんとか部数の低下を避けるために、あるいは部数が少なくなっても対応できるように、ネットの世界との融合を図っている。雑誌からネットへ、あるいはネットから雑誌へ読者を導入したり、雑誌からネットへアクセスして何か賞品が当たったり、何か別の情報をゲットできたりとか、そこにはいろいろの工夫がある訳である。

 ところがエロ本の世界ではそんなテは使えないというのである。

『さらにエロ本業界を悩ませるのが読者の高年齢化だ。現在のエロ本を支えている読者は40代から50代である。雑誌業界全体も読者の高齢化が進んでいるわけだが、エロ本と言えば血気盛んな若者が読むものという印象が強い分、意外に思う人も多いのではないだろうか。
 しかし、現在の若者の「ズリネタ」はインターネットが主流。自分好みの「ネタ」が無尽蔵に溢れ、しかも無料で見放題をいうインターネットにエロ本は太刀打ちできない』

 たしかに、ネットの世界に行ってしまえばカリビアンコムみたいな「無修正アダルト 無料エロ動画サンプル」のサイトはいくらでもある。勿論、出てくるのは「サンプル動画」だから、寸止めみたいなのだが動画もあるわけで、もっと見たいと思ったらそこから先は有料ということになるのだが、それはそれで選択の幅の中での問題だから、自分で購入するか寸止め映像で満足するかは見た人次第である。

 ところが

『それでも、まだエロ本がかろうじて生き延びているのは、エロ本が「インターネットが出来ない人の救済策」となっているからだ。機械に弱いから、あるいは貧困のためにインターネットでポルノを見ることが出来ない人たち。乱暴に言ってしまえば、今のエロ本を支えているのはそういう層だけなのだ。
「アンケートなどを見ると、インターネットをやっている読者は極端に少ないですね。だからネットの記事などを書くと、『わけがわからない』とお叱りを受けることが多いんですよ」(編集プロダクション社員)』

 なのだそうだ。

 つまりそうした「情弱オヤジ」な人たちにとっては、いまだエロ本は重要なメディアであるのだが、そんな「情弱オヤジ」な人たちは、いまや社会の前面から退きつつあるわけで、そんな事情からエロ本自体が世の中から消える時代がもうすでに目前になっているという訳なのである。

 まあ、確かに現代は「情弱オヤジ」は差別される側に回っているのは事実だしな。現代みたいな情報社会においては「情弱」というのは、それだけで生きている意味はない存在だし、「情弱」というだけで社会から排除されても文句は言えない立場ではある。

 新しいメディアを領導するのは「エロ」であるということはよく言われることではあるのだけれども、そんな意味では雑誌の時代の終わりを一歩先んじて実現しているのがエロ本という訳か。

『そうした状況を迎える日は、おそらく東京オリンピックの開催より早く訪れるだろう。
「五輪開催など、エロ本には関係ない」
 全くその通りだと言うしかない』

 というのであれば、それは同時にエロ本だけではなくて、雑誌そのものの存在の終わりも、東京オリンピックあたりが限界だということを意味するのではないだろうか。

『創 2013年12月号』(編集兼発行人:篠田博之/有限会社 創出版)

2013年11月17日 (日)

まだまだ「ラクロス」なんですよ

 10月7日のブログ『関東学生ラスロスリーグ・レギュラーシーズン終了」を書いたのだが、当然その後のポスト・シーズンがあって、入れ替え戦やら、準決勝(ラクロス界では「ファイナルフォー」というそうだが)やらあって、昨日は関東学生選手権の決勝戦男女が行われた。

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 男子決勝戦は早稲田大学対明治大学という、関東1部リーグAグループ1位と2位の対戦となった。スピードの早稲田対守りの明治であったはずであったが、多分、この間のスカウティングの問題なのだろうか、早稲田が力の差を見せてしまった、

 結果は12対6という圧倒的な差をつけて早稲田が勝利。この後の日本選手権への駒を進めることになった。

 続いて行われた女子ラクロスなのであるが、これが思っていたより男子ラクロスとは違ったスポーツで、それはそれでいいのであるが、なんかまったく違うスポーツを見ている感じだった。そういえば、女子ラクロスをマトモに見たのは初めてかな。

 女子決勝は慶應大学対立教大学である。

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 フェイス・オフ(女子では「ドロー」というらしいが)の後のスティック使いでは、結局身長の高い選手の方が有利なわけで、それはほとんど慶應の側に有利に働いているようだ。結局、ドロー後のボールはほとんど慶應3番の選手が取っていた。

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 で、女子ラクロスの場合はボディ・コンタクトどころか、例えばボールを持っていない選手のクロス(ラケットのことをラクロス界ではこういう)を叩いちゃいけないとか、相手の選手が倒れると即「プッシング」とか、攻撃しているチームの邪魔を(場所によっては)しちゃいけないとか、よくわからない3秒ルールとか、なんかすごくいろいろなルールがあってすぐゲームがストップしちゃう。

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 結局、女子ラクロスの場合はボール・ポゼッションをしている方が圧倒的に有利だということが、試合をみながら分かってきた。クロスも男子とはポケットの作り方が違うようで、クロスをクルクル回している選手はいない。多分、女子ラクロスのクロスはあまりポケットが深くないクロスなんだろう。

 この辺が、なんでもありの男子ラクロスとの違いであり、日ごろ男子ラクロスを見慣れている私にとっては、しょっちゅう時間が止まるのも「何で?」となったりするのだが、それはそういうスポーツなんだろうなということで納得。

 要は、男子ラクロスと女子ラクロスはおなじ「ラクロス」という名前がついていても、まったく別のスポーツだと思えばいいことなんだ。まあ、よりインディアン(別にアメリカ先住民と言っていいけどね)のやってたのに近いのが男子ラクロス、それを女子流にソフィスティケイテッドしたのが女子ラクロスかってな訳で。

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 で、結局関東学生女子ラクロスの決勝は13対3で慶應義塾大学の優勝となった。

 まあ、それは当然、高校生時代からラクロスを経験していた選手たちばっかりの慶應義塾大学と、幾人かはそんな選手もいるが、殆どは大学に入ってからラクロスを経験した他大学の違いなんだろうから仕方がない。

 しかし、男子も女子も決勝戦でこんなに差がつくもんかねえ。まあ、事前のスカウティングの差なのかねえ。

 でもどこかに、常勝チームにも勝てる「穴ぼこ」がある筈だ。

 その辺を、ちゃんと見つけようね、立教生も。

Nikon D7000 Sigma 150-500mm @Komazawa Olympic Prak (c)tsunoken

2013年11月16日 (土)

『日本人には二種類いる』なんてものじゃない。もっと無数にいるのだ

 腰巻に曰く「あなたは新型? それとも旧型?」。

 勿論、私は旧型、著者の岩村氏も旧型。で、だからなんなのさ。

Dscf0515_edited1『日本人には二種類いる 1960年の断層』(岩村暢子著/新潮新書/2013年10月20日刊)

 どうもこの「世代別マーケティング」という手法は広告代理店が良く使う方法で、エリアマーケティングが1960年のテレビの普及とともに使えなくなったために、手に入れた方法なのではないだろうか。

 で、一番最初にターゲットにされたのが「団塊の世代」というやつ。勿論、日本人口の最大のボリュームゾーンであり、子どものころはまだ日本全体が貧しかったのだが、その後高度成長を遂げ、「何でもお金で手に入る」時代を経験し、未だにその蓄えた財産はもっとも多くが団塊の世代に集中している。彼らから如何にして金を引き出すかが、今の日本経済の最大課題ではある。ということで。

 で、その団塊の世代の次なるターゲットになったのが、この本で触れられている「1960年代生まれ」ということなのではないだろうか。つまり、それまでは団塊の世代くらいしか年代別マーケティング的な呼び方はなかったものが、この1960年生まれから先は、1965~1969年生まれのバブル世代、1971~1983年生まれの就職氷河期世代(その中に、1971~1974年生まれの団塊ジュニアを含む)、1987~2004年生まれのゆとり世代などなどの、いろいろな世代別の呼び方と、その世代へ向けたマーケィングが行われている。もう一つ別の切り口から見れば1992年以降のデジタルネイティブなんて呼び方もある。

 こうした世代別に人口を分けるという考え方が、まさしくマーケティングのための手法でしかない(あるいはである)ことの証左は岩村氏が「おわりに」で書いたこの言葉でもって示される。

『『人口統計』(総務省統計局、2012年10月発表)によれば、「’60年型」は既に日本人全体の約6割(59%)を占め、「旧型」は4割(41%)と少数派になっている。これからますます「’60年型」の感覚と価値観がものごとを動かす時代になっていくことは、間違いない』

 しかし、問題は企業がこうしたマーケティング手法で商品を消費者に訴えていくことは、企業の勝手であるが、それを一般の人が受け入れる必要は全くないということを書かないことなのだ。まあ、岩村氏自身がもともとアサツーDKの人で、そこでのマーケティング手法を用いて書いた本なのだから、それはそれでしょうがないんだけれども、だからこの本を読んだ一般の人は、この本の取り扱いには注意して、真に受けないようにしましょう、ということなのである。

 たとえば35項目目「現実より仮想 いつまでも子供でいたい」は要は「オタク」の問題を取り上げているのだが、しかし本当にオタクは1960年以降の生まれにしかいないのだろうか。

 何を言うのだ、伝説のオタキング・岡田斗司夫氏は1958年生まれというのはどうしたもんか。その他、同じ1958年生まれの人を上げると、大塚英志、中村うさぎ、グレート義太夫なんて人たちもいたりして、もう別にオタクは1960年以降の特権でも何でもないのだ。

 日本のテレビ放送は1953年に始まったが、家庭にテレビが普及し始めたのは1959年の今上天皇ご成婚であるとされる。それから言えば『本当にテレビっ子と言えるのは’60年以降に生まれた子供たちである』というのは間違っていないが、『’70年代には情報伝達の視覚化も進む。<中略>’80年代には古くからの活字メディアにも、「視覚化」「映像化」へのニーズが高まっていく。<中略>生まれたときからのテレビっ子たちが20代となり、事件や社会問題も読んで理解するより見て知りたいと思うようになってきたのだろう。<中略>言葉で説明するよりも、「見て、これなんだけど」と見せて伝え、共有して楽しみ、更には写真を撮ったり撮られたり、また交換することもコミュニケーションの一つとなっていく』として、60年世代が映像世代の先端を行っているように書くのは、完璧に間違えている。

 そこで出てくるのが、デジタルネイティブである。

 1995年にWindows 95が登場して、世の中の人すべてがパーソナル・コンピュータを操るようになるのは、実はかれら60年世代が30代になってから。つまり、それまでは映像とはいえアナログ・コミュニケーションだったのが、1995年のある日から突然すべてのコミュニケーションをデジタルで行えという指令が会社上層部から飛んだわけなのである。

 その時、60年世代はどうしたのか。ある者は、実に素早くデジタル・コミュニケーションに親しみ、自らのメインのコミュニケーション手段としていくが、その一方でそんな社会のデジタル化についていけずに脱落していったのも、この60年世代なのである。

 その上の団塊の世代は幸いあまりデジタル化の影響を受けずに、社会の表舞台からフェイドアウトできた。一方、デジタル化に対応した団塊の世代は必要以上にデジタル化にのめり込み、IT企業を起こしたりした人たちを生み出す。

 しかし、団塊の世代は人によってデジタル化に乗らなくても生きていけたし、デジタル化に乗っても生きていけた。それが60年世代は、30代になってから突然デジタル化しなければ今後生きていけなくなるということに直面したのである。

 デジタルネイティブとはどういう人たちなのだろうか。

 つまり、彼らは人としてマルチタスクが可能であり、彼らの知識はクラウドにある、そんな生き方ができる人たちなのである。

 デジタルネイティブの人たちは、人と会っている時にも、ラップトップ(ただしMac Book Air)やスマホ、タブレットを離さない。というか常にそれをいじくりながら、我々と話をしたり、講演を行ったりしている。じゃあ、そんなデジタルネイティブが我々との話を無視したり、講演を途中でやめてしまったりするのかというと、そんなことはない。つまり、かれらは我々と話をしている最中、講演で自ら発言をしている最中にも、ラップトップ(ただしMac Book Air)をいじりながら、私たちが言っていることの意味を、グーグルなんかで調べながら聞いているのである。で、彼らはそんな人の話を聞きながらいじくっていたラップトップ(ただしMac Book Air)から、我々の話への回答を見つけ発言するのである。つまりそれが「人としてマルチタスク」「知識はクラウドにある」という理由なのだ。

 そんな発想が60年世代に出来るかな。

 まあ、無理でしょう。

 ということで、デジタルネイテブから見れば「60年世代は立派な旧型」なのである。

 つまり、こうした世代別マーケティングなんて、私たちにとって何の意味があるの? ということなのである。

『日本人には二種類いる 1960年の断層』(岩村暢子著/新潮新書/2013年10月20日刊)

2013年11月15日 (金)

Inter BEEこぼれ話

 昨日はデジタル・シネカメラの小型化についての感想を書いたが、やはりそのきっかけはREDであった訳だ。

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 パナビジョン社のパナフレックスなんていう大型のシネ(フィルム)カメラを見慣れてきた経験からすると、この小ささは驚異的であった。まあ、でもズームレンズをつけちゃうとそこそこの大きさにはなってしまうがね。

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 それは昨日書いたBlackmagicでも同じで、CANONのEFシネマレンズのズームをつけると、こんな感じになる。とはいえ小さいけどね。

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 CANONのEOS-Cデジタル・シネカメラに単体レンズをつけるとこんな感じ。やっぱり小さいね。まるでスチール一眼レフみたいだ。それはBlackmagicでもREDでも同じなわけで、やっぱりカメラの基本はレンズであり、レンズの基本はガラスのかたまりであり、それはデジタルでもアナログでも同じなのだ、ということを再認識させられた訳である。

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 フィルム・カメラの時代でも比較的小型だったARRIFLEXもデジタルになると更に小型化して、こんなに小さくなってしまった。って実は嘘で、これはARRIFLEXのALEXA Mというカメラで本当はカメラの受光部分と本体を切り離してしまったものなのである。まあ、それもデジタルならではのことではあるけれどもね。

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 アジア最大の円形レールっていうのがすごい。なんかオタク精神全開って感じである。

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 オタク精神って言えばJVCブースである。

 音響関係の部分では大半がミキシング・テーブルなんかの展示なのだが、JVCブースではWOOD CONEのスピーカーが展示されていた。10月19日のオーディオ・ホームシアター展のレポートでも書いたのだが、こうした木製コーンのスピーカーというのがあって、凄い柔らかい音がしてなんか耳に優しいのである。このJVCのスピーカーのデモではアコースティック・ジャズが流れていて、さすがにいい音を出していたなあ。しかし、ここはInter BEEという放送関係の製作プロフェッショナル向けの展示会な訳で、そこにはなんか相応しくないような展示ではある。

 まあ、それはそれでもいいけどね。

Inter BEE 2013は幕張メッセで今日まで。

公式サイトはコチラ

Nikon D7000 AF-S Nikkor 18-105mm @Makuhari Messe (c)tsunoken

2013年11月14日 (木)

Inter BEE 2013 ニューカマーの存在感

 2013年秋の展示会イベントの棹尾を飾るのはInter BEE(国際放送機器展) 2013である。

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 なあーんて書くと、今年は東京モーターショーがあるでしょ、なんて突っ込みが入りそうであるが、モーターショーも行くとは思うけれども、しかしプロフェッショナル相手の展示会ではないので、これは措いておく。

 なので、Inter BEEが私にとっては今年最後の展示会イベントなのである。

 
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 で、Inter BEEと言えば何といってもSONYブースが一番の目玉だし、存在感が大きいのである。というのも、当然世界のテレビ界で一番プロフェッショナル・ユースが多いのがSONY製品だからである。

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 ところが、今年はそのSONYブースの隣でSONY以上に大きなスペースを取っていて存在感を示していたのがBlackmagicである。

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 Blackmagicって何? という人は上の写真を見てください。こんなに小さな4Kシネカメラを作っているメーカーなのだ。

 REDやCANON EOSなど今やシネカメラはどんどん小さくなって、シネマ・クルーも少ない人数で組むことが可能になってきているのだが、その勢いを進めているのが、こうした小さなシネカメラを作っているメーカーなのである。

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 さらに、GoProなんていうアクション・カメラも結構な存在感で出展していて、もはや映像の世界でもプロ・ユースとアマチュア・ユースの垣根を乗り越えた製品がどんどん出てきている。

 もはや、テレビや映画を作るのはプロだけという「技術の時代」は終わってしまい、もっぱら映像センスの問題になってきているのである。ネットでの「送り手」と「受け手」の時代は既にかなり前に終わってしまっているわけであるが、YOU TUBEなどでテレビ映像の世界もすべての人が「映像の送り手」になれる時代になっているのである。

 多分、これからテレビは4Kや8Kの時代になってくる。となれば、そうした4K、8K映像はそのまま映画の大スクリーンでも上映できるわけで、映画もテレビと同じくプロフェッショナルとアマチュアの違いがなくなってくるだろう。

 映画学校なんかも、いままでのようなプロフェッショナル養成のための学校ではなくなって、一般ユーザーでも入学してセンスを磨くような時代になってくるはずだ。映画スタッフも今までのような技術屋集団ではなくなって、いかにして映像センスを磨くかが重要な要素になってくるだろう。

 しかし、そんな時代になってもシナリオを書く技術・センスは必要だし、演出センス、演技センスも今以上に重要になってくるだろう。

 今までのように、芝居なんて素人でもできる、撮影は素人にはできない、なんて威張っていた撮影現場の技術屋さんたちは、どんどん淘汰されて、作り手に優しい映画製作現場になってくるのだ。

 う~む、面白い時代になってきた。

Inter BEE 2013は幕張メッセで11月15日まで開催中。

公式サイトはコチラ

 Inter BEEこぼれ話は、明日書くつもり。

Nikon D7000 AF-S Nikkor 18-105mm @Makuhari Messe (c)tsunoken

2013年11月13日 (水)

妙高高原は雪景色

 昨日は義母の三回忌の法要で新潟妙高市まで行った。

 一昨日の寒波で突然の「冬」になってしまった日本列島である。昨年は納骨で12月半ばに行ったのだが、さすがにそれはちょっと怖いので早めにやってしまおうということで、法事は11月中にやってしまうということになって(って、自分で決めたんだけど)、今年はちょっと早めに行ってしまおうということで、昨日行ったのだが、なんか突然の寒波なのであった。

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 上里サービスエリアから見た榛名山。もう既に山肌には雪がありますね。

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 上里からちょっと行った黒姫・野尻湖パーキングエリアからの黒姫山の眺め。うーん、なかなかの眺めですね。なんか、普通なら山道&雪道でワクワクする眺めですよ。だって40km/hくらいでドリフトができるんですよ。舗装路じゃ考えられない……。まあ、法事なんて仕事を抱えていなければね。

S01206082FUJIFILM X10 @Shinanomachi (ctsunotomo

 上信越道をもっと進むと、どんどんこんな雪景色になっていく。

S01506112FUIFILM X10 @Myokoukougen (c)tsunotomo

 妙高高原なんて最早完璧な冬景色。

 いいね! なんて言ってはいけない。今、私は妻の母親の法事に行くんだ。別に、雪道走りを楽しみに行くんではないのだ。30km/hでドリフトを楽しみに行くんじゃないんだ。

 そういえば、まだタイヤはスタッドレスには履き替えていないし、チェーンは持ってきているが、チェーン付きの車の走りはあまり面白くない。やっぱりスタッドレスだよなと考えれば、それはまた別の機会に待つというのが大人の処し方ではある。

 それはそうだな、ということでそのまま上信越道を直進して新井スマートICを出たわけです。というか、要は妙高市と言っても妙高高原町と合併する前の新井市、信越線の北新井の駅の傍にある妻の実家のお寺は、行ってみれば高田平野のど真ん中にある訳で、さすがに冬になると雪は数メートル積る地域だが、今はまだまったく積っていない。

「○○(なんとか)山に三回雪が降ると里にも雪が降るんですよ」という住職の言葉を聞きながら、なんかそういう言い伝えというか、昔からの言い方が今でも生きているんだな、この町はと、住職のお母さんの昔語りにも、妙に納得したのである。まあ、それだけ田舎町だということ。その良さもあるんだろう。

 しかし、この町も2015年の北陸新幹線の開業でどうなってしまうんだろう。

 現在の信越線、新井、北新井の次の駅の脇野田駅に北陸新幹線の駅ができてしまうのである。当然、今はなあ~んにもない、脇野田駅の周辺の土地も値上がりするだろうし(もうしている?)、そこを狙って進出する企業は出てくるはずである。昔はそれこそなあ~んにもなかった岐阜羽島の駅周辺も、今はまあそこそこの街になているしな。まあ、妙高市の市役所がある(現在の)新井の町は変わりようもないだろうけれども、しかし、どこか変えていかないと、町はどんどん衰退していくばかりだろう。

 妙高・赤倉温泉の傍にあるのに、別に温泉が出る訳ではないし、大きな地場産業がある訳でもないし、澤ノ井酒造だけではね。

 さて、旧新井市(現妙高市)はどうやって生きのびるのだろう。

 妙高高原の温泉・スキー資源だけではやっていけないのです。

 

 

2013年11月12日 (火)

Fitbit weekly progress report from Nov.4 to Nov.10

 Fitbitから11月4日から11月10日までのスタッツが来た。

 最も活動的だった日は11月7日(木)。杉並区立郷土博物館に行った日だ。12,031歩、8.42km。

 最も非活動的な日は11月4日(月)。小千谷闘牛を見に行った日。最初は雨のため、あまり歩き回らなかった。移動もクルマなので歩数は出ない。4,111歩、2.88km。ちなみに、その前日11月3日は山古志闘牛を見に行った訳であるけれども、7,329歩、5.13kmとあまり歩数は出ていない。

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堀江貴文『ゼロ』は「どろなわ式」の成功方式なのである

「チャンスの神様は前髪しかない」という例えの通り、自分がチャンスだと思ったときにはすぐに行動を起こさないと負けるよ、という話なのだ。

 単純な話。

Dscf0514_edited1『ゼロ――なにもない自分に小さなイチを足していく』(堀江貴文著/ダイヤモンド社/2013年10月31日刊)

 例えば、中学2年生の時に塾講師から相談を受けた。

『「うちのスクールに入っている日立のパソコン、今度全部NECの新しいパソコンに入れ換えるんだけど、教材システムを移植する必要があるらしんだよ。それって、お前できる?」
「できます!」
 即答だった。それなりに大掛かりな、本来なら業者に委託するほどのシステム移植だ。やったこともなく、できるかどうかはわからないけれど、大きなチャンスだと直感的に察知した。ここで断るなんてありえない。
 そこからおよそ1カ月、試行錯誤を繰り返しつつも無我夢中でプログラミングしていった。ご飯のときも、お風呂に入っているときも、ずっとシステムのことばかり考えていた』

 大学生の頃。

『コンピュータ系ネットベンチャーで働きはじめて間もなく、僕は「アップルリンク」というアップル社の開発者向けパソコン通信サービスの運営を任されるようになった。それで94年の暮れごろ、定例ミーティングのためアップル・ジャパンを訪れると、担当者からこう切り出された。
「うちの会社のホームページをつくってくれないか?」
 ホームページをつくる? なんの話をしているのか、よくわからない。
 もちろん、インターネットやホームページの存在は知っていた。でも、パソコン通信からインターネットへの移行期だった当時、僕はインターネットが持つほんとうの可能性を理解しきれていなかった。
「わかりました、ちょっとつくってみますよ」
 会社に戻った僕は、大急ぎでホームページについて調べまくった。先輩にレクチャーを受け、書店でインターネット関連の書籍を買い漁り、むさぼるように読んでいった』

 つまり、人から相談を受けて何かピン! ときた時に、取り敢えずそれをやってみる。自分にそれができるかどうか、ではなくて自分はそれをやるんだと決めて、取り敢えずどんな方法でできるかをいろいろ調べて、訳が分からなくてもいいから、やってみる。

「どろなわ」という言葉がある。つまり「泥棒を見てから縄をなっていては間に合わないから、常に何かあった時に備えて準備しておけ」ということなんだけれども、そんな考えでは一生泥棒を捕まえることはできないだろう。つまり、どんな「泥棒=チャンスの神様」が、いつくるかなんてことは誰にも分からないのであるから、そんな時のために事前に準備なんかはしておけない。問題は、「泥棒=チャンスの神様」を見たときに、如何にそれにたいして果敢にチャレンジするか、如何に早くそれへの対応策を作るかということではないのだろうか。

 中2の時の塾講師は、堀江少年がかなりパソコンを使えるということは知っていた。1980年のころはまだ世の中に「パソコン」というものが出始めた時期である。つまりその頃のパソコン・フリークは自分でプログラミングができないとパソコンを動かすことができなかった。じゃあ、堀江少年も多少はプログラミングができるだろう。もしダメだったら業者に頼めばいいだろうと、気楽に堀江少年を試す意味でも聞いてきたわけだ。そこで、堀江少年が自分自身で自信がなかったら断っていたわけで、そうなればオン・ザ・ウェッジもライブドアもなかったわけだ。ところが、堀江少年は自信はなかったが、やってみようということで仕事を受けてしまったわけだ。

 大学生の頃の話も同じである。結構パソコン通信に詳しい堀江を見てアップル社の人間は当然そんなことは先刻ご承知だと考えて、堀江にホームページ制作の企画を示したわけだ。しかし、この段階で堀江はホームページの作り方なんて知らない。ホームページビルダーなんて便利なソフトウエアなんかなかった時期である。しかし、HTMLなんて別に全然難しいプログラムではない(私でも使える)、書店に行ってインターネットの世界を理解した堀江にとっては、ホームページなんて作るのはお茶の子さいさいだったのである。で、アップル社の提案を引き受ける。

 つまり、事前に準備をしておいて、何かの提案を受けるということは実は世の中では殆どない、というか二度目の提案であればそういうこともあるが、最初の提案ではまずそんなことはあにのである。で、初めてその提案を受けたときにあなたならどうするだろうか。

 それは自分には経験のないことだからといって断ってしまうだろうか。いやいや、やったことはないけれども、面白そうだからやってみるかと考えて、あとは「どろなわ式」で勉強すればいいや、と考えるだろうか。

「チャンスの神様は前髪しかない」というのは、そういうことなのである。

 取り敢えず、自分にとってそれがチャンスであると感じたら、それはやってみる価値があるということ。結果として、自分がそれをやったおかげで一段ステージがあがった存在になることも可能なのである。

 多分、堀江貴文にとっては、そんなインターネットの世界も、近鉄バッファローズの買収も、ニッポン放送・フジテレビの買収も、同じでなにかチャンスがあれば、取り敢えずそれに喰らいついてしまおうという姿勢だっただけなのであろう。それらの会社を買収して何をやろうとは買収段階では何も考えていなかったのであると、私なんかは思う。フジテレビの買収の際に「ネットと放送の融合」なんて目標を掲げていたけれども、それだって人に聞かれたから言っているだけで、じゃあ「ネットと放送の融合」の内実は何かと聞かれても答えられなかっただろう。今なら別だけどね。

 でも、そういう訳のわからないことを言う「若者」、既成の大人たちには理解できないことを言う「若者」は排除される。これは規制勢力の排除の論理というものがある以上は仕方がない。

 排除の論理の前では参入の論理は極めて小さな力しか持てないのである。何故か。参入の論理を言う側は、新しい価値観を古い価値観しか持てない人たちを説得する必要があるからだ。つまりそれって基本的に「多勢に無勢」でしょ。何年か待って、既成勢力がいなくなれば別ですけれどもね。

 要するに、人生はどろなわ式で行かなければ、自分が成長することはできないし、「出来る自分」に出会うことはならないのだ。

 問題は、それをやろうとするお茶目な心なのである。別に勇気はいらない。

『ゼロ――なにもない自分に小さなイチを足していく』(堀江貴文著/ダイヤモンド社/2013年10月31日刊)当然、Kindle版も出ている。

2013年11月11日 (月)

関東カレッジフットボール閉幕・タッチダウンしなきゃ勝てないでしょ

 関東学生アメリカンフットボール連盟レギュラーシーズン第7節最終戦が11/9、11/10の両日、アミノバイタルフィールドと横浜スタジアムで行われた。私が見たのは、11/9のアミノ、神奈川大学対上智大学、東京大学対一橋大学、日本体育大学対立教大学、11/10のハマスタ、中央大学対慶應義塾大学のそれぞれの戦いである。

 前にも何回も書いたが、来年から関東学生リーグが1部上位リーグ8チームと1部下位リーグ8チームに分かれるということで、今年の関東学生リーグは大変なことになるぞ、と思っていたのだったが、結果、フタを開けるとまあそれほどの混乱もなくて、いるべきチームがいるべきところにいるなという結果に終わった。

 まあ、日本大学と法政大学の二強時代は続いているので、それはやむなしとして、今年の注目は何と言っても立教大学だろう。

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Dsc_88202Nikon D7000 AF-S Nikkor 70-300mm @Amino Vital Field (c)tsunotomo

 注目の的は、なんといっても#30ランニングバック(RB)の茂住雄太である。立教新座高校でアメリカンフットボールを経験していた彼は経営学部所属なので実は昨年1年間は海外留学をしていたので、現在も3年生。来年の活躍も充分期待できそうなのである。

 彼のいいところは、敵に当たり負けしていないところ。当然、オフェンスライン陣が切り開げてくれたところを進むのがRBなのだが、それでも敵のラインやラインバッカー(LB)が当たってくる。それでも当たり負けしないで前に進むところが茂住のいいところで、まさしく今年の関東学生リーグ1部のリーディングラッシャーらしい姿なのだ。

 そんな立教大学は今年は1部Aブロック2位で今シーズンを終了した。

 その他、11/9のゲームは上智大学が神奈川大学に42対13で敗れて、一橋大学が東京大学に17対14で敗れてそろぞれ2部との入れ替え戦出場が決まった。まあ、東大にしてみれば、取り敢えず入れ替え戦出場が決まらなくて良かったね、というところなのだろう。

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 で、11/10のハマスタ、中央大学対慶應大学である。

 この試合も、基本的には3・4位決定戦という、モチベーション的には極めて低いいわば消化試合みたいなものであって、こうしたモチベーションの低い試合は慶應大学が弱い、というのが戦前の予想だったのだが、あにはからんや、慶應大学が先に先制タッチダウン(TD)をとってしまうから気合が入ってしまい、#18クォーターバック(QB)高木のパスが通るは通るは、完全に慶應大学ペースになってしまう。

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 結局、中央大学の唯一のTDはデフェンス・コーナーバックの#22木村泰久の慶應のパス・インタセプト・タッチダウン(これって凄い逆転TD)のみ。なんか、去年の東京大学対京都大学戦を見ているみたい。

 基本的にはTDはオフェンスが取らなきゃだめでしょ。ところがそのオフェンス陣もいいところまでは攻めるのだが、決定力がないために得点には至らない。

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 で、結局は慶應大学17対7(ま、ロースコアではあるな。慶應2TD、1FG/中央1TD)が勝利し、1部Bブロックは3位慶應、4位中央ということになったわけである。

 その後の、1部Aブロック1位法政大学と(ここまでは)2位早稲田大学の試合は39対0、1部Bブロック1位日本大学対明治大学は59対14ということで予想通りの結果に終わった。

 で、結局1部Aブロックからは法政、立教、早稲田、日体、1部Bブロックからは日大、明治、慶應、中央の8大学で、来年の1部上位リーグが形成され、1部下位リーグはAブロックから神大、東大、Bブロックからは横浜国大、専修となって、上智、一橋、国士舘、関東学院は入れ替え戦の結果次第ということになった。

 11月24日の「あずまボウル」は日大と法政という、まあ、戦前から予想されていた試合であって、両大学の関係者しか興味のない試合になってしまった。その後の東日本決定戦(12/1)なんてねえ、誰が見るの? ああ、日大と法政の関係者か。まあ、確かに両校の応援団って半端じゃないもんな。 日大のクラウドノイズとか……。

 こうした関東も上位8チームだけでリーグ戦を行えば関西リーグに勝てるという考え方が、当たるのかどうかはやってみないと分からないところではあるが、まあやってみる価値はあるだろう。

 でも、それで甲子園ボウルで関西リーグ優勝校に勝てるとは思えないけどね。

 なんか、関西と関東では底力が違うような気がするんだがなあ。

NIKON D7000 SIGMA 150-500mm @Yokohama Stadium (c)tsunoken

2013年11月10日 (日)

甲州街道高井戸宿本陣の看板発見!

 2011年12月6日のブログ『甲州街道、高井戸宿へ行ってみたのだが』で『甲州街道と環八の交差点のすぐ西が国道20号線と、甲州街道の分かれ道があるのだ。このあたりが上高井戸宿で「武蔵屋」という本陣があったそうなのだが、その碑もないし、まったく当時を思い起こさせるものはない』と書いたら、11月7日にコメントがつき『今、杉並郷土博物館で、高井戸宿武蔵屋の看板が特別展示されていますよ』とのこと。で、早速行ってきました、杉並区立郷土博物館。

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 京王井の頭線西永福駅から歩くこと約15分。大宮八幡宮を過ぎて、和田堀公園を過ぎた善福寺川のそばに目指す杉並区立郷土博物館はあった。

 武家屋敷や庄屋様の家のような長屋門をくぐると本館がある。

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 で、現在開催中なのが『特別展 甲州道中へのいざない 行き交う人・モノ』である。

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Dscf05342甲州街道高井戸宿の解説とジオラマ。

 やはりこうして見ると、東海道の一の宿場、品川宿、日光街道奥羽街道水戸街道の一の宿場、千住宿、甲州街道青梅街道の宿、内藤新宿などのジオラマと比べるとやはり"農村の宿場町"という印象が深い。でも、内藤新宿が出来るまでは高井戸宿は甲州街道の一の宿場だったのである。

 ただし、その宿場町は品川、千住、板橋、内藤新宿などのような岡場所兼用の宿場専門の町ではなく、半農半宿といったような、農家と兼業の宿場町だったようだ。まあ、確かに参勤交代で甲州街道を使うのは信州の三藩だけだったというように、街道としてはあまり栄えていなく、むしろ西からの江戸への侵入を防ぐ目的の方が重要だったようだ。

 岡場所としての宿場の役割も、品川、千住、板橋、内藤新宿などのように都市の中にないと、やはりそこに足を向ける人も少なかったんだろうな。

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 ということで、これが上高井戸宿の本陣、「武蔵屋」の看板である。

 武蔵屋は代々並木伊兵衛を名乗っていたそうで、多分、その子孫の並木さんが保管していたんだろうか、取り敢えず初公開資料だそうである。結構、立派な看板でビックリする。

 結構、貴重な歴史資料なのだなあ。

杉並区立郷土博物館特別展『甲州道中へのいざない』は12月8日まで

杉並区郷土博物館のサイトはコチラ

2013年11月 9日 (土)

ライカギャラリー東京で『ロバート・キャパ展』開催中

 ロバート・キャパ(アンドレ・フリードマン)1913年10月22日生まれ。つまり今年が生誕100周年を記念して、銀座にあるライカギャラリー東京で2013年10月23日から『ロバート・キャパ展』が開催されている。

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 ライカにとっては写真は文化なので別に問題はないのであろうが、戦争写真家ロバート・キャパがプロフェッショナルなフォトグラファーになったきっかけの「演説するレオン・トロツキー」こそバルナック型ライカで撮られたことが記録に残っているが、第二次世界大戦従軍カメラマン時代のキャパはライカのライバル、コンタックスを使っていたようである。

「ロバート・キャパ」の名前を世界的にしたスペイン内戦時代の「崩れ落ちる兵士」のころは、ゲルダ・タローと組んで、キャパはライカ、ゲルダはローライフレックスで撮影をしていたらしい。沢木耕太郎氏の『キャパの十字架』によれば、まさしくその「崩れ落ちる兵士」こそはローライフレックスで撮った写真をトリミングしたのではないか、という疑問があるそうである。

 第二次世界大戦の際のキャパが写っている写真を見ると、咥え煙草にコンタックスⅡかローライフレックスを首から下げており、ライカを持っている写真はない。

 当時、エルンスト・ライツ社とカール・ツァイス財団は、レンズ分野ではカール・ツァイス財団が圧倒的な強さを見せていたが、こと小型カメラ分野では熾烈なライバル争いをしていた訳であるから、そんなコンタックス・ユーザーであったロバート・キャパ展をライカ社が開催するなんてことは、当時では考えられなかった筈である。

『ちょっとピンボケ』で有名な、第二次世界大戦Dデイのオマハビーチでの写真も多分コンタックスで撮ったものだろうし、1954年に「カメラ毎日」の招待で訪日した際にも、当初はコンタックスを持ってきて来日し、その後、ニコンからSを提供されてそれで日本国内を撮影。その後、ライフの依頼で日本から第一次インドシナ戦争の取材に赴いた際にはそのニコンから提供されたニコンSとニッコールレンズを持って行って、キャパ最後の写真もそのカメラで撮影している。

 そんなキャパも既に亡くなって60年近く経っている。ということは、60年も過ぎればその人の存在は「文化」になってしまうということなのか。文化になってしまえば、どのメーカーのカメラを使っていたのかなんてことは問題にはならなくなってしまうのだ。

 と、同時に写真をそんな文化にまで昇華させた、キャパ自身が設立に奔走したマグナムというエージェントの存在も忘れられない。つまり、撮影者の著作権を確立するためにはこうしたエージェントというものがなければならない、ということが実際の行動として示されたものであると同時に、死後60年が過ぎた現在でも、昔通りの写真が見られるということである。エージェントというものはそのためにある。

 カメラ・メーカーがそんな文化の保護者であり続けて欲しいと願いつつも、現実の世界では今やカメラも耐久消費財の立場がなくなってしまい、単なる消費財となってしまっているのが現実だ。そんな「消費財としてのカメラ」を大量に作っているカメラ・メーカー以外のメーカー、つまりスマートフォンなどのメーカーが文化の保護者となり得るのか否か、は今のところ予想はできない。

 できれば、スマホのメーカーも単なる文化の消費者ではなく、カメラ・メーカーのような文化の保護者になって欲しいと願うのは私だけではないだろう。

『ロバート・キャパ展』は2014年1月12日まで開催中。

ライカギャラリー東京のサイトはコチラ

 ただし、上に上げたような「戦争写真」はない。1943年から1945年までの兵士たちが写っているのは4点のみだ。

 しかしこのフィルム・スキャン、汚いね。って、私がスキャンしたんだけれども。スキャナーの埃か、スキャンフォルダーの汚れか。

LEICA M6 ELMARIT 28mm/F2.8 @Ginza, Chuo (c)tsnunoken

Dscf0569_edited1(c)Robert Capa

2013年11月 8日 (金)

映画『スティーブ・ジョブズ』は上滑りのアメリカ人向けお子ちゃま映画だ

 伝記『スティーブ・ジョブズ』を原作にしているのかと思ってクレジットを見ていたが、いつまでたっても、"Based on the Biography STEVE JOBS by Walter Issacson"が出てこない。

 つまり、どうも脚本のマット・ホワイトリーのオリジナルのようだ。まあ、それはこの時期のスティーブ・ジョブズものなのでという、私の勝手な思い込みなのでどうでもよい。ところがこの映画、なんか上滑りで面白くないのだなあ。

201311051202262『スティーブ・ジョブズ』(製作・監督:ジョシュア・マイケル・スターン)

 映画の公式サイトはコチラ

 つまりスティーブ・ジョブズの話なら必ず出てくる「現実歪曲フィールド」の話が出てこない。

 現実歪曲フィールドとは「ジョブズの魅力、カリスマ性、虚勢、誇張、マーケティング、宥和政策、持続性をもって、ジョブズ自身と他人に、ほとんどどんな考え方でも吹き込む能力であるという。現実歪曲フィールドにより、実現困難性についての規模感や距離感を歪ませ、今手元にある作業が容易に実行可能な気になると言われている。現実歪曲フィールドは非現実的と非難されてきたが、ジョブズに近い人々によると、不可能と見えたことが実現できたことで、実は最初から実現可能だったという感覚が作りだされた具体例が幾つもあるという」(Wikipediaより)と書いてしまうとよくわからないが、「他人の脳みそを盗むのはジョブズにとって普通のやり方さ。まず人のアイデアを鼻であしらっておいて、その1週間後には、素晴らしいアイデアを思いついたなんていいながら戻ってくる。そのアイデアというのは、もちろん1週間前に誰かがジョブズに話したアイデアなんだ」という、つまりそれが「現実歪曲フィールド」なんだというスティーブ・ジョブズをよく知るジェフ・ラスキンの言葉の方がよくわかる。

 スティーブ・ジョブズはイノベーターではないし、アイデアマンでもない、しかし、ユーザーエクスペリエンスを追求する姿勢だけは誰にも負けないものを持っていた。アップルコンピュータを作り上げたアイデアはスティーブ・ウォズニアックにまったく負っている。ジョブズは単なるエレクトロニクス・オタクのウォズニアックと異なり、それをユーザーが使い易くするためにどうすればいいのかを追求した。その結果「パーソナル・コンピュータ」というものが世の中に登場したのである。

 その辺をキチンと描かなければ、アップルコンピュータはまるでスティーブ・ジョブズのアイデアでできた会社のようになってしまう。ウォズニアックがアップルを去るときに言うアップルに来た理由。ヒューレット・パッカードのエンジニアだったウォズニアックがアップルに来た理由は、ここが「面白いことができそうな場所」だったからだという。つまり、それができなくなったから、アップルを去るということ。つまりそれがジョブズの「現実歪曲フィールド」だったのである。

 マイクロソフトがWindowsにGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)を搭載した時に、それはMac OSのパクリだと言って、ジョブズは怒り心頭に達し、ビル・ゲイツを電話で罵倒する。しかし、Mac OSのマウスとGUIだって実はゼロックスのパロアルト研究所で見せられたマウスとGUIのパクリだったのである。これもまた「現実歪曲フィールド」。

 スティーブ・ジョブズがアップルを追われて、次に手がけたのはNeXTコンピュータであり、ピクサー・スタジオのルーカスフィルムからの買収である。NeXTもピクサーも使っているのはパーソナル・コンピュータではなくワークステーションだ。現在ではパソコンが高性能化してしまい、いまやワークステーションはパソコンにとって代わられている。ところが、このMacパソコンのOS、Mac OS Xのベースになっているのは、実はワークステーションのOSとして有名なUNIXだということはご存じだろうか。つまり、UNIXベースでパソコン用に作り直されたOSがMac OS Xなのである。

 つまりこれも現実歪曲フィールド。なぜ、映画はそれを描かないのだろう。

 こうしたさまざまの現実歪曲フィールドを描かずにスティーブ・ジョブズを描こうとしたのが、この映画『スティーブ・ジョブズ』なのである。

 これを描かずに、スティーブ・ジョブズを描こうとすれば、それは単なる若手起業家の成功と、失敗と、再生の話というだけの薄っぺらなものになってしまう。それでいいのか? だったら別にそれはスティーブ・ジョブズとアップルじゃなくても、どこの企業の起業話でもいいということになってしまう。

「アップルのスティーブ・ジョブズ」を描こうというのなら、やはり「現実歪曲フィールド」は避けて通れないものなのだ。しかし、それは描かずにスティーブ・ジョブズを描いたつもりになっている、マット・ホワイトリーとジョシュア・マイケル・スターンのような凡庸なクリエイターにとっては、多分永久にこの「現実歪曲フィールド」は理解できないのだろうな。あるいは、了解していて、しかし、アメリカのおバカな観客にはそれは理解できないだろうということで、オミットしたのか。

 結局、映画は単なるアメリカン・サクセス・ストーリーでしかなく、映画のラストはアップルが時価発行株式総額で世界一になったという成功譚でもって終わる。

 しかし、ジョブズ亡きアップルにとって重要なのは、後継者のティム・クックCEOになってからの低迷である。

 勿論、そこまで描いてしまっては、それがジョブズの映画ではなくてアップルの映画になってしまう。しかし、単に時価発行株式総額で世界一になったということよりも、ジョブズの死去と共に、アップルの使命も終わったということを描かなければ、単なる上滑りの伝記映画にしかならないのである。

 ジョブズ役のアシュトン・カッチャーは顔や仕草はよく似ていたが、ただそれだけ。やっぱり精神まで似させないとね。

 それとも、そんな子供だましの伝記映画じゃないとアメリカ人は理解できないってのか?

 それもまた深刻な問題だ。

当然、コチラの方が公式伝記として優れている。当然Kindle版が出ている。iBooks App版もあると思うけどね。

『バトル・オブ・シリコンバレー』若き日のスティーブ・ジョブズとビル・ゲイツを描いていて、パロアルト研究所からのパクリの話もちゃんとやっている。顔は似ていないが、もしかすると、こちらの方が面白い?

2013年11月 7日 (木)

半沢直樹‐ディレクターズカット版発売で「倍返しだっ!」

 あの超ヒットTVドラマシリーズとなった『半沢直樹』のディレクターズカット版DVD BOXとBlu-ray BOXが12月26日に発売になる。

 現在、Amazonで予約受付中。両方とも25%OFFでDVD BOX \12,950、Blu-ray BOX \22,680。

 テレビ放送ではカットされていた、半沢直樹が出向を言い渡された後のシーンが収録されているそうだ。

 お正月は、再び「倍返しだっ!」

石神井公園・三宝寺池でバードウォッチング(笑)

 普段はワイドレンズを使ってもっぱら町場でのスナップ写真がメインで、時々望遠でスポーツ写真(と言ってもアメリカンフットボールとラクロス、野球、牛の角突きだけ)をものするのがほとんどの私だが、せっかく150mm-500mmという超望遠ズームを手に入れたので、たまにはネイチャー・フォト(笑)でも、と考えて取り敢えず手近な石神井公園三宝寺池へ行ってきた。

 にわかバードウォッチャーの登場です(笑)。

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 石神井公園にはバード・サンクチュアリがあって、森の鳥を保護するための柵や、カワセミを保護するための池なんかがあって、結構鳥たちは大事に扱われている。

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 とは言うものの、カワセミなんかはあまり姿を見せない。別に朝じゃないと姿を見せないというようなわけではなく、要はカワセミさんの気分でこの池に魚を取りに来る訳なので、いつ来るかはまったく分からない。

 カワセミ・ウォッチャーとして待ち構えている人に話を聞くと、今日はまだ3時間しか待っていないよ、ということで前日に撮影した画像を見せてくれた。確かに、待ってれば来るんだな。でも3時間ねぇ。取り敢えず初心者としてはそこまでの心の準備は出来ていない。

 よーし、今度はカワセミさんと根競べをしてみようかな。

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 一方、カモなんかは今が飛来シーズンということもあって、いくらでも撮らせてくれる。

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 こんなサービス・カットもお手のものである。

 と言っても、実は三宝寺池はカモにとってはお気に入りの場所と見えて、ここに住み着いてしまって、夏になってもシベリアに帰らないカモもいる。つまり一年中カモが見られたりしているのである。つまり、ここ三宝寺池では一番普通に見られる水鳥がカモなのである。確かに、ここなら他の動物や人間からいじめられないものなあ。

 しかし本当に、お前らカモだなあ。

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 水にプカプカ浮いて魚を探している水鳥に比べると、森の鳥は声はすれども姿は見えず、ほんにお前は屁のようだ、という具合に森の葉陰に隠れて写真に撮れない。

 唯一撮れたのが、このヒヨドリ。

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 で、本日の収穫がこのカワウ。これはちょっと珍しい……、えっ? 別に珍しくはないって? まあ、初心者のにわかバードウォッチャー(笑)の言うことですから、大目に見てくださいな。

 う~ん、タマにはネイチャー・フォト(笑)もいいなあ。

一番上はRICHO GRDⅢ、その他はNIKON D7000 SIGMA 150-500mm @Shakujii Koen (c)tsunoken

2013年11月 6日 (水)

クリス・ギレボー氏のメルマガ THE ART OF NON-CONFORMITY

『常識をはみだす生き方』や『1万円起業』でお馴染みのクリス・ギレボー氏からのメルマガが届いた。

 といっても、ギレボー氏がブログ"THE ART OF NON-CONFORMITY"をUPすると、それと一緒に登録した読者にメルマガの形で届くようなシステムになっているだけで、ブログを読みに行っても読めるのでご心配なく。

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 私は、彼の『常識をはみだす生き方』についてブログで書いたので、その際に彼にそのブログを送ったら、彼から自分のブログの購読を進められて、それからこんなメルマガが来るようになった。

 皆さんもTHE ART OF NON-CONFORMITYのサイトに行って、登録すればメルマガが月に1回か2回来るようになる。

 特に難しい英語で書かれている訳ではないので、ご一読をおススメする。取り敢えず英語で一読、さらにとっても奇怪な機械翻訳で翻訳すれば分からない英語の意味は分かる。ただし、文意は全然わからない。というか文章になっていない、デタラメ。

 そしてもう一度英語で読めばバッチリ意味が通じる。

山古志闘牛拾い歩き

 さて、山古志、小千谷闘牛に行ってきた訳であるけれども、なんかワイルドな闘牛場でやってる小千谷闘牛の方が多少はメジャーであるということなんだろうけれど、私は山古志闘牛のほうがどことなく好きである。

 で、その「好き」の理由を考えてみる。

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 その代表は、この人。山古志・牛の角突きブログの管理人"あっちゃん"である。何しろ、勢子をやりながら実況・解説をしている名調子は最早有名であるし、そのブログも山古志、小千谷の闘牛取り組み速報に始まって、冬の山古志の様子やら、夏祭りの様子などなど、四季折々の山古志の様子を伝えてくれるブログは闘牛ファンでなくても読者がいるんではないか。

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その"あっちゃん"は小千谷闘牛にも参加して勢子を務める。特にその声はよく通り「ヨシター」の掛け声も人一番響いて聞こえてくる。

 どうも、この人は久慈で行われる闘牛にも勢子で参加していて、どこまで闘牛フリークなんだろうという気にさせる。結婚式も闘牛場でやったそうな。普段は長岡市の職員だそうである。

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 こんな子供が勢子になって登場したりする。多くは牛持ちの子どもたちだが、やがて大きくなってからこの子たちは勢子になったり、牛持ちになったりするんだろうな。

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 この人が岩手県柿乃花牧場のおやじさん。毎回、山古志、小千谷の闘牛に遠くはるばる岩手から牛を連れてきて参戦している。

 勿論、越後の闘牛の牛は南部牛、つまり岩手県がその供給地だということなんだけれども、それ以上にやはりこのおやじさんも山古志が好きなんだろうなあ。

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 これが山古志闘牛場の鉄筋コンクリート製の二階席の裏に貼ってある板である。9年前の中越地震で傷つき、4年前(2009年)に再建なった山古志闘牛場にできた二階席にはこうして、当時の思い出を残そうという考え方でこうした「山古志がんばれ」という板が貼ってある。

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 そんな訳で、天災についてはセンシブルな山古志である。東日本大震災の際にも、被災者の受け入れに積極的に活動していた山古志。今回は伊豆大島の風雨災害への募金で協力をしていた姿が記憶に残る。

Nikon D7000 AF-S Nikkor 55-300mm @Yamakoshi, Nagaoka (c)tsunoken

2013年11月 5日 (火)

Fitbit weekly pregress report from Oct.28 to Nov.3

 Fitbitから先週のレポートが来た。

 最も活動的だったのは11月1日、12,710歩、8.90km。石神井公園でバードウォッチング(笑)を行った日だ。これは近々ブログをUPします(もう既に書いている)。

 最も非活動的だった日は10月29日、3,029歩、2.12km。この日はWindows 8がブッ飛んでしまい、一日中その修復に追われていた日だ。

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小千谷闘牛はよしたくんと牛太郎で決まり!

 11月3日に引き続き11月4日は小千谷市小栗山にある小千谷闘牛場である。勿論、こちらも今年最後の牛の角突きである。長岡市山古志、小千谷市東山と現在の行政単位は分かれているけれども、昔は越後二十村郷といって一緒の文化の中で生活を育んでいた地域なのである。なので、長岡市山古志、小千谷市東山と分かれていても、実際には一緒になって牛の角突きを盛り上げようとしているのである。

 来年は全国闘牛サミットが山古志で開かれるそうで、そんな意味でも意気盛んな今年最後の場所である。

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 小千谷闘牛で面白いのは、いろいろな牛持ちがいるということである。

 例えば、この白牛は小千谷闘牛場の前にある小千谷市立東山小学校が持ち主の、牛太郎二代目である。

 広い日本である。子供たちの教育用に牛を飼育している小学校はあるかもしれないが、闘牛用の牛を飼っている小学校は、多分この小千谷市立東山小学校だけではないだろうか。

 勿論、綱を引くのは5・6年生の男の子たちの仕事。全校生徒20数名しかいない学校だけれども、牛の世話は彼らがやっている訳で、小動物を飼うだけの教育ではなく、こんなのに大きな動物を飼うというのは、情操教育上でも大きな成果があるのではないだろうか。

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 二代目牛太郎は初代よりは好戦的であるようで、どちらかというとおとなしかった初代に比べると、自分から敵に向かっていく気概はおおいあるようだ。

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 その他、NHKの荒木美和さんとそのお父さん、駒澤大学の荒木勝啓教授の持ち牛、雷電も勢子の「ヨシター」の掛け声とともに戦っていたし、その他、東京大学の菅豊教授の持ち牛なんてのもいる。

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 勿論、山古志牛の角突きにも錣山なんていう牛が、当然、大相撲錣山親方の持ち牛としているけれども、まあ、牛持ちの多様さでは小千谷の方が上かな。

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 というような具合で、今年の牛の角突きも進んで行って、やがて山里には雪が降り、積り、閉ざされていくのである。

 これから半年。ゆっくり休め、牛たちよ……なんて言っても、牛は知らん顔してるだろうけれどもね。

Dsc_01052ということで、最後は小千谷のイメージキャラクター「よしたくん」でした。

Nkion D7000 55-300mm @Odiya (c)tsunoken

2013年11月 4日 (月)

山古志闘牛最終日

 楽天ゴールエンイーグルス、日本シリーズ優勝おめでとう。

 と、いうか、そんなこととは関係なく……、行ってきました山古志闘牛場。

2013_11_03_0741_edited1_2今年の最後の場所である。

2013_11_03_0816_edited1_2今日が最終戦ということで、お客さんもいつもより増して沢山きている。やはり普段の場所とは違うんだな。

2013_11_03_0762_edited1_3本日の取り組み発表。この子たちも将来は幾人は勢子になるんだろうか。

2013_11_03_0849_edited1_2、で、この取り組みが東日本大震災の際に山古志から岩手に送った「天の風 浜街道」である、というかどっちがどっちか分からないので言うと、右側の赤牛(黒に比べればちょっと赤い)が浜街道。

 山古志と岩手はもともと牛の供給関係で、関係は近かったんだけれども、そういうこともあってか、あるいは2004年に起きた中部地震の際に岩手などから支援をもらった関係からなのか、そんな関係から、この「天の風 浜街道」も、東日本大震災の際に、山古志から岩手に贈られた牛なのである。元々、山古志と岩手には深い関係があったのである。

 つまりこの牛は、山古志から、以前のお返しとして、さらに東日本大震災の被害から岩手の人たちを励ますために贈られた牛なのだった。

 このお礼として「支援ありがとう号」というのも、岩手の柿の花牧場から出場している。

 まあ、牛たちがそんな自分自身の事情を知っているかどうかは関係ないけれどもね。

 2013_11_03_0933_edited1_2今年の最終場所、結びの一番が「角蔵号vs.五十六号」戦。

 てな感じで、今年の山古志牛の角突きは終わった。

 ここ、山古志村はこれから冬になると3~4メートル位の雪に覆われてしまうのである。来年は5月まで雪に閉ざされてしまう冬がこれからやってくる。ゴールデンウィークには牛の角突きも再開する。

 そんなことを考えると何かいろいろと想いが舞ってしまう11月なのである。

2013年11月 3日 (日)

『ねじれた絆』は『そして父になる』以上に印象的だ

 是枝裕和監督の映画『そして父になる』が参考にした、沖縄で実際にあった「赤ちゃん取り違え事件」のルポである。

Dscf0513_edited1『ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年』(奥野修二著/文春文庫/2002年10月10日刊)

 事件が起きたのは昭和46年(1971年)、27年間にわたるアメリカの統治に終止符を打って、日本に復帰する前年の沖縄であった。そして発覚したのは昭和52年(1977年)。

 大型クレーンのオペレーターを務める伊佐重夫と智子の間に生まれた長女・美津子。自動車の整備技師を務める城間照光と夏子の間に生まれたこれも長女の初子(後に真知子に改名)。この二人が事件の当事者だ。

 きっかけは美津子が通う幼稚園で交通事故対策として行った血液検査。B型の重夫とO型の智子の間に生まれたはずの美津子の血液型はA型だった。問い合わせを受けた産院は昭和46年のカルテを調べた結果、8月16日に生まれた伊佐美津子より2日後に生まれた、城間初子の血液型が再検査の結果B型であることが発覚。初子の親、城間照光はO型、夏子はA型である。

ルポルタージュは平成6年(1994年)までの17年間が本編、「文庫版特別書きおろし 新章 若夏(うりずん)」が美津子と真知子が30歳になるまでの25年にわたる長期的な取材によるものだ。

 美津子には三人の妹がおり、後に照光が夏子の姉、敏子との間に産んだ盛光という腹違いの弟がいる。真知子には孝一という弟がいる。というように、城間家の方はかなり複雑な模様があり、母夏子もどちらかというと「子どもを産みっぱなし」のような母親である。後に、照光に対抗するように男を引っ張り込む。美津子の妹たちも夏子よりは伯母の敏子の方になついているようだ。一方、伊佐智子はかなりの教育ママで、子育てには一生懸命取り組む態度であり、一家団欒という雰囲気は伊佐家のほうがしっかりしている。

 その結果、美津子はいつまでも智子と離れたがらず、智子の実子、真知子とは智子を挟んで母を奪いあうようになる。

 現在の美津子と真知子はまるで姉妹のように親しくしているが、それまでの葛藤はかなりなもののようで、結局、美津子は城間家とは疎遠になってしまっている。

 悲しいことに『ただ奇妙なことに、遊園地やビーチへ両家で何度となく出かけた記憶が、現在の美津子にも初子にもぽっかりと抜け落ちている。楽しいはずの日々が、取り換えるための手段だったということがわかったときに、無意識のうちに消滅してしまったのだろうか。この期間だけが空白なのである』というように、やはり子どもを取り換えるということは、当の子どもにとってはあり得ないことであり、あってはならないことなのである。

 更に、本来はこうした赤ちゃん取り違え事件の後は、基本的には両家は縁を切って、離れ離れになるということが普通なのであるが、この城間家と伊佐家の場合は、縁を切るどころか、城間家の家の前にある、城間家が持っている貸店舗の上に更にプレハブ住宅を建てて伊佐家が住んでしまうのだ。

 この一種の゛同居"状態がものごとをより複雑にし、美津子は次第に城間家から疎遠となり、伊佐家にばかり入り浸るようになる。

 照光ははじめ「時間が解決するよ」と言っていたのだが、結局『時間で解決できないものもあるんだねえ……。だが、あの子もいずれ結婚する。結婚すれば子供も生まれる。母親になったときにどう思うか。そのときが勝負だなあ』と言うことになり、美津子はまだ結婚していない。

 結局、城間照光は育ての子、初子も、実子、美津子も伊佐家に取られてしまったまま、現在を迎えている。

『親子というのは、本来「血」と「情」は不可分なものである。それがいきなり断ち切られたことは、親の苦難もさることながら、二人の子供たちにははかり知れない衝撃を与えたはずだ。しかし、その後の二人の生き方は多少違ったものになった。育ての親への断ち切りがたい絆は美津子の人生を大きく狂わせていった。彼女は「血」と「情」のあいだで彷徨いながら、ついに智子との「情」を選んでしまったのである。「血」を捨てなければならなかった彼女の心中はどれほど辛いものであったか。だが、彼女は務めて明るく生きようとした。その逞しさには感動すら覚える。彼女の心の中では常に、親とは何か、子とは何かを考えなければならない状況にあった。そのことはいまも彼女を支配している。忘れようとしても忘れることができないものである』

 というのが奥野修司氏の結論的な言葉だ。

 まあ、やはり映画のようにはハッピーエンディングはないのだなあ。『そして父になる』の野々宮家と斎木家の関係が今後どうなっていくのかは、観た人による解釈に委ねるという終わり方だった。

 当然、それは映画なのだから当然なのであるが、映画以上に印象的な終わり方をしている『ねじれた絆』の方が、やはり迫力を持って私たちに迫るのである。

『ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年』(奥野修二著/文春文庫/2002年10月10日刊)Kindle版も出ている

こちらは映画のノベライズ版『そして父になる』(是枝裕和・佐野晶著/宝島文庫/2013年9月5日刊)

 ところで、今日明日と、山古志牛の角突き(11月3日)、小千谷牛の角突き(11月4日)に行ってくる。両方とも今年の最終場所。その様子は11月4日と5日のブログで書きます。

 乞うご期待……かな?

2013年11月 2日 (土)

『江戸しぐさ』は庶民の生きる知恵である

「江戸しぐさ」とは何か?

 武士が支配する江戸時代の江戸の町ではあったが、そこには武家社会を下支えするために全国から(専ら北関東や東北だが)農民がやってきて、江戸の町民となり、それらの町民たちの生活の知恵というものがあった。そうした生活の知恵を主に商人のものとして見たのが「江戸しぐさ」。

 ただし、「江戸しぐさ」が現実の江戸時代に存在していたとする文献的証拠はまったく存在していないそうだ。多分、現代でも使えそうな生活の知恵を、江戸時代からあったとして親しんでもらおうと、小林和雄という人が江戸講というものを復活させ、その流れをくむ越川氏たちが普及させようと発言をしている、というのが真相のようだ。

Dscf0498_edited1暮らしうるおす 江戸しぐさ』(越川禮子著/朝日新聞出版/2007年7月30日刊)

 まあ、それでも私たちの生活にそれが生かせれば、別に「江戸しぐさ」があったかどうかなんてことはどうでもいいのである。

 一つ面白そうな話を引用。

『「そんなこと朝飯前だよ」。簡単にできることを、よくこんな言い方をしたものですが、江戸人の「朝飯前」は、意味合いがちょっと違いました。文字どおり朝ご飯を食べる前にする「働き」のことなのです。
 向こう三軒両隣に声をかけ、母子家庭、父子家庭、あるいは老人の一人暮らしの中で困ったことが起きていないか様子を見て、その手だてをするのが日課でした。もちろんこれは浮世の義理で無報酬です。
 朝ご飯を食べたら、身過ぎ世過ぎ(生活)のためにお金を稼ぎます。昼食が済んだ午後からは、人のため、町のために、「傍を楽にする」働き、今でいうボランティアに精を出したそうです。職種にもよりますが、「江戸っ子は三~四時間しか働かない」というのは、どうもそのあたりから来ているようです。
 夕方は、夏などはみんなで一斉に打ち水をして、明日も元気で働くために備えました。「あそび」に引っかけてこれを「明日備」といい、リフレッシュ、レクリエーションの時間だったのです』

 つまり、これは江戸庶民の知恵ともいうもので、昔の電気なんかがなかった時代の生活習慣だったのであろう。

 つまり朝日が昇るとともに起きて、夜はさっさと寝てしまうという。

 朝日が昇るとともに起きてしまえば、朝食までの時間がタップリあるわけで、その時間に浮世の義理を果たしてしまおうという考え方であり。午後はもう仕事をしないでボランティアに精を出し、夜は夕食を食べたらすぐに寝てしまう。なので、翌朝も朝日と共に起きてしまう、という。こうすれば余計な油代なんかがかからずに出費が少なくなるし、生活もラクになる。夜っぴて酒なんかを飲んでいる私みたいな奴は余計者なのであったのであろう。

 更に、江戸時代は結構、母子家庭や父子家庭なんかが多かったようである。武士たちと違って、結構女の発言力が強かった江戸時代には離婚も多かったようで、むしろ現代なんかよりよっぽど自由に人々は生きていたようである。

『「草主人従」という思想がありました。「草主」とは自然への敬服の念を持ち、「人従」とは人がその偉大さに従うということです。日本人は昔から「おてんとうさま」を拝む習慣がありましたし、自然を征服するという考えはなかったようです』

 という部分も、元々多神教であった日本の考え方であったし、同時に西洋でもギリシャの多神教時代は同じような考え方であったようだ。つまり、どんなに対策を施しても、毎年来る台風には勝てない人間というものがある。

 むしろ「自然を征服する」という考え方は一神教の考え方であり、主に西洋キリスト教の考え方なのである。その最終段階が「自分でも太陽を持ちたい」という原子力の開発なのであった。で、それは人がコントロールできないものを作ってしまったのが、今の福島第一原子力発電所なのである。実際、半減期10万年ってどういう考え方をしているんだ。

 って、どうも話がズレてしまったようで。元の「江戸しぐさ」に戻そう。

『江戸商人の心得として、やる気、根気に続くのが「呑気」なのだそうです。矛盾しているようですが、人生も商売も、いいことばかりが続くはずはありません。だめでもともと、ものごとを長い目で見て、「陽」にとらえるのが呑気しぐさ。今で言うスローライフのような自然体の生き方で、無理は禁物でした』

『江戸の花相撲では、町衆たちは黒星力士を宴に招いて酒盛りをしたという話を聞きました。今も昔も、厳しい勝負の世界で負けたときの口惜しさは、察するに余りあります。勝者には賛辞はもとより、賞金やら賞品が山のごとく集まる一方で、敗者はブーイングや座布団が飛んできても、じっと耐えなければなりません。
 しかし、江戸しぐさでは、失敗や負け戦こそ、さらなく向上へのステップと考えました。ですから負けた力士を慰め士気を鼓舞し、やる気を出させたようです』

 などは「いい話やなあ」ということで、特に負け力士に肩入れする江戸庶民の姿勢は、まさしく江戸庶民の判官贔屓に見えて、これまた日本人のいい姿にも見えてくる。

「江戸しぐさ」なるものが本当にあったのかどうかは別にして、現代に生きる我々もたまにはこんな本を読んで、自分の生き方、処し方、日々の過ごし方を見直す機会にすればいいのではないか。

 武家の「お家大事」に勝る庶民の知恵。サラリーマンの「会社大事」に勝る、社会人の知恵である。

 勿論、こうした考え方は懐古趣味というか、ある種の保守主義であることは間違いない。しかし、一方で保守主義ほど落ち着けるものはないというのも事実である。

 つまり「変化しなくてもよい」という保守主義。常に変化を求める現代社会における、一種の逃げ込み場所でもあるんだなあ。誰にでもある保守主義的な逃げ込み場所、みたいな。

 こうした「江戸しぐさ」が身に着けば、「食品偽装」なんてものもなくなるかもしれないけどね。

暮らしうるおす 江戸しぐさ』(越川禮子著/朝日新聞出版/2007年7月30日刊)

2013年11月 1日 (金)

ギャラリー・バウハウスで『宮嶋康彦 Siberia 1982』を視る

 神田明神の裏手にある写真ギャラリー、Gallery bauhausへ『宮嶋康彦 Siberia 1982』を観に行く。

 私と同年生まれの宮嶋はネイチャー・フォトを中心に活躍しているひとで、同じ宮嶋でも宮嶋茂樹という多分に生臭い写真家とはちょっと違う。

Dsc_00172

Dsc_00382(c)Yasuhiko Miyajima

 その宮嶋康彦が1982年冬にハバロフスクを訪れて撮った写真が展示即売されている。

 1982年のソビエト連邦と言えば、ブレジネフ体制最後の年であり、まだまだスターリニズム・ソビエトが(瀕死の状態ながらも)生きのびていた頃である。そんな時のハバロフスクはまさに軍事都市として存在していたわけで、町のそこここには軍人や警察官の姿が見えていたことだろう。

 街のいたる所にあるレーニンの肖像や像が、まさしくここは旧ソ連体制の街であることを物語っている。

 冬のハバロフスクは氷点下30度以下にもなるという極寒の地である。そんな気候は政治の上部構造が如何に変わろうとも関係なく厳しさを求める。チェホフが『シベリア紀』で書いたような厳しい気候が、ハバロフスクに暮らす人々の前に立ちふさがる。人々の暮らしも、当然ながら政治的上部構造とは関係なく暮らしている。暮らし向きは決して豊かではない。写真からもそんな気候と同じような厳しい暮らし向きが伝わってくる。

 アムール川だろうか、舟が写っている写真#35のキャプションが面白い。

『酸味のあるパンにも慣れたころ、ニキビ顔の警察官にフィルムを没収された』

 当時31歳だった宮嶋にとっては、そんなニキビ面の若僧の警察官に対してよほど口惜しさが溢れていたのであろう。

『KGB(ソ連国家保安委員会)による尾行、毎夜ホテルの部屋にかかってくる誘惑の電話、撮影フィルムの没収…憧れのシベリアは厳しい旅行であった』(写真展案内ハガキより)

 そんな厳しい旅行であっても

『それでも私は積極的に人々に声をかけた。かれらは、私が示す和露、露和辞典を熱心にのぞきこんだ。日本人の源流をたどる私に社会主義を樹立したレーニンの孫たちは、どこか、懐かしい表情をたたえてカメラの前に立ってくれた。今、新生ロシアを支えている人々である』(前と同じく)

『宮嶋康彦 写真展 Siberia 1982』は11月16日まで開催中。

Gallery bouhausのサイトはコチラ

Dsc_00252

 写真展の後、神保町まで出て三省堂で買い物をし、ちょっとラドリオで一休みしようかと立ち寄ろうかとしたら、ちょうどラドリオから出てきたばっかりの学生時代からの友人Y川さんとバッタリ。

 Y川さん、東十条、草月のどら焼き、大変おいしゅうございました。

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