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2013年10月31日 (木)

二つの「こども取り違え映画」比較論。注意! 全部ネタバレ

『そして父になる』と『もうひとりの息子(Le fils de l'Autre)』という、二つの「こども取り違え映画」が現在東京で公開中なので、それを一気見してきたというわけだ。

2(c)2013「そして父になる」製作委員会(フジテレビジョン、アミューズ、ギャガ)
2_2(c)Rapsodie Production/Cite Films/France 3 Cinema/Madeleine Films/Solo Films

『そして父になる』というのは『ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年』(奥野修司著/文春文庫/2002年10月10日刊/これについてはいずれ書きます)を参考図書として監督兼脚本の是枝裕和が作ったオリジナル作品。カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞。

 一流建設会社のエリートサラリーマン野々宮良多(福山雅治)、車はレクサス、と野々宮みどり(尾野真千子)の夫婦の一粒種、慶多(二宮慶多)6歳。そして前橋のつぶれそうな電器店主、(多分)元ヤンキーの斎木雅夫(リリー・フランキー)、車は軽自動車、と斎木ゆかり(真木よう子)の長男、琉晴(竜升炫)、弟と妹がいる。多分、この電器店も親父からの受け継ぎだろう。

 この二人が、みどりが慶多を産んだ、実家にちかい前橋の病院で、夫の連れ子との関係に悩む看護師のうっぷん晴らしのために、子どもを取り換えてしまったというのが事件の発端だったようだ。

『もうひとりの息子』は、ノアム・フィフトシという人が持ってきたスクリプトを、脚本家のナタリー・ソージョンと監督のロレーヌ・レヴィが書き直して出来上がった完全なオリジナル作品。東京国際映画祭グランプリと最優秀監督賞を受賞。

 テルアビブに住む、イスラエル軍大佐のアロン(パスカル・エリベ)と、妻オリット(エマニュエル・ドゥヴォス)の子ヨセフ(ジュール・シトリュック)18歳には妹がいる。ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区に暮らすエンジニアであったが現在は自動車修理工のサイード(ハリファ・ナトゥール)と、妻ライラ(アリーン・ウマリ)の子ヤシン(マハディ・ザハビ)には兄ビラル(マフムード・シャラビ)と妹、そして亡くなってしまった弟フィラズがいる。フィラズの死因は映画では語られてはいないが、多分、イスラエル軍の空爆なかんかで死んだんだろう。しかし、兄ビラルはパレスチナゲリラに参加している訳でもなく、特に仕事もなく過ごしているようだ。というか、ヨルダン川西岸にはそんなに仕事もないんだろう。

 ライラがハイファに住む叔母を訪ねていった際に、突然産気づいて駆け込んだ病院は、湾岸戦争でイラクによってスカッドミサイルの攻撃対象にされており、危険を感じた病院が赤ちゃんを保育器に入れて避難した際に、取り違えてしまった、というのが事件の発端。

 なんか、この二つの映画って、構造、というか対立軸がよく似ているのである。

 かたやエリートサラリーマンと(多分)元ヤンキーのしがない電器店の親父という関係があり、もう一方は、イスラエルの軍幹部とパレスチナ自治区で仕事も奪われてしまったしがない親父、という対立軸。で、どっちの関係がよりシビアであるかと言えば、やはりイスラエルvs.パレスチナだろうな。一流企業のエリートサラリーマンだって、別に地方のしがない電器店主の命までは狙わない。しかし、イスラエルvs.パレスチナは現在(そして多分今後もずっと)「戦争」を戦っている最中なのである。もっとも、一方は軍大佐である。そんな立場の人間は人に命令する立場なので、自分ではパレスチナ人を殺すことなんかはないかもしれない。更にもう一方は、もはや足も悪いしゲリラ闘争や自爆テロなんてのも出来ないだろう。いまや自爆テロは、女の子の時代なのである。

 ということは、あんなに仲良くしていた、ヨセフの妹に対し、ヤシンの妹が自爆テロを仕掛けるなんてことがあるのかも知れない。

 野々宮みどりは専業主婦、一方、斎木ゆかりは、個人営業の店なので結構夫の仕事は手伝っているだろう。オリットは医者であり、ライラは専業主婦。この対立軸はあまり変化はない。ということは、両作品でも共通しているテーマは「女同士の紐帯は強い」ということなのか。実はそこにこの二つの映画の共通点がありそうである。

 問題は、『そして父になる』はまだ6歳の子供であり、一方『もうひとりの息子』は18歳の、つまり兵役につくくらいの大人だっていうこと。『そして~』の子どもたちは、これから成長するにつれてアイデンティティ・クライシスが起きないかなという恐れがある。一方『もうひとり~』の方は既にアイデンティティはほぼ確立しているだろうから、クライシスの問題はない。多分、ビラルもイスラエルに攻撃するようなゲリラにはならないだろう。というか弟のフィラズがイスラエル軍に殺されても、復讐しなかったような奴だからね。

 で結局、『そして~』の子供たちは(取り敢えずは)父親以上に大人になってしまったようで、東京の家と前橋の家の往復を楽しむようになってしまったようだ。別に父親を「パパ」と呼ばなくてもいい、「おじさん」でいいんだ、という認識の下で次第に双方の家に親しんで行けばいいのだというオプティミズムがそこにはある。

『もうひとり~』の方も、結局はオプティミズムである。「イスラエルvs.パレスチナ」「ユダヤvs.アラブ」ということに拘ってきた双方の親たちも(表面的には)和やかに語り合うようになってきたし、ヨセフとヤシンは父親は違うが兄弟のように仲良くなってくるし、兄の反イスラエル派ビラルも、イスラエルの繁栄(それはパレスチナを虐待していることの代償なんだけれども)を見て、イスラエルと仲良くした方がいいのかも、なんてことを考えてきているようだ。

 では、それですべての問題は解決するのか、と言えばそうはいかないだろう。

 慶多と琉晴に関して言えば、当然それぞれの家の経済事情というものが関わってくるだろう。まだお互い6歳なので、むしろこれからの双方の親の子育ての考え方が、子どもの成長には関係してくる。その時に、エリートサラリーマンの息子だった慶多が、しがない電器店の親父の息子になってしまったために、自分が望む教育環境を与えられなかったとしたら、そこで、昔の父親が懐かしくなってしまうのではないかという思い。それとも、そんな環境がいいと感じてしまうのだろうか。琉晴も、野々宮家の教育方針にどこまでついていけるんだろうか。

 ヨセフとヤシンだって、「アブラハムの息子たち」というオチで、つまりユダヤ教もイスラム教も旧約聖書から始まった宗教なんだから、いずれは一緒になれるでしょうという、これまた超楽観主義で終わるんだけれども、個人的にそんな気持ちになったとしても、社会がそれを許さないだろう。社会的存在としての人間個人は、社会規範から切り離されて生きていくことはできない。

 つまり、双方の映画の結果としてのオプティミズムは、観客を幸せな気分で送りたいという映画製作者の思いは分かるんだけれども、世の中はそんなに楽観主義だけでは生きては行けないという事実が示しているように、「なかなかそうはいかないんだよ」というのが現実である。

 むしろ、悲劇的な結論もあるということを考えながらこの二つの映画を見る、ってことが大事なんだろうな。

『そして父になる』の公式サイトはコチラ

『もうひとりの息子』の公式サイトはコチラ

 

 

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