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« 『モバイルハウス三万円で家をつくる』坂口恭平は現代の鴨長明になれるのか? | トップページ | 『鬱ごはん』って言いうほど変なモノを食っているわけではない。気分の問題なのね »

2013年9月18日 (水)

『幻年時代』は少年時代だけではなく、今でも続いている時代なのかも知れない

 昨日のブログで「坂口恭平は現代の鴨長明か」と少し持ち上げておいたが、その理由が本書である。

 モバイルハウス「方丈庵」に引き込み、『方丈記』というエッセイでデビューした鴨長明は、その後歌論書『無名抄』、説話『発心集』、歌集『鴨長明集』を発表。という人生は、まさに坂口恭平と同じ、というか坂口恭平が鴨長明と同じというか、まあそんな訳で坂口恭平の初めてのフィクションが『幻年時代』という訳なのだ。

2013_09_10_31722 『幻年時代』(坂口恭平著/幻冬舎/2013年7月20日刊)

 ただし、その後の「〇円建築家」に直接繋がるような内容はない。数少ない記述としては……。

『会社員としての親父の姿は、僕に、会社に行ってはいけないという短い伝言として、親父の適当な振る舞いからは予想もできないほど強く僕に突き刺さっている。僕はその姿を見ながら、言語化することはできていないが、確信を持った。僕は親父のような会社員にはならない。僕は自分の力でなにか独自の行動を起こして生きのびていく。荒ぶる餓鬼たちを追い払い力強く突進する銀色の光る獣のような出で立ちの人間を、僕は振動のような感覚としてからだに記憶した。のちに僕は小学六年生のとき、引っ越した先の熊本市立日吉小学校の卒業文集に「将来は建築家になり『坂口恭平追い越し建築事務所』をつくる」と断言する。どこからきたのかもよくわからないお金をもらうために、その波長が何を意味するのかわからない労働などしてはいけないと、親父は僕に自分自身の人生を見せることで伝えたのだ』

 という部分。

 まさに電電公社という長大企業に勤務していた坂口恭平の父親という存在が、その「どこからきたのかもよくわからないお金をもらうために、その波長が何を意味するのかわからない労働」というものを意味し、その後の坂口恭平の生き方、「早稲田大学理工学部建築学科」を卒業しながら、建築会社に勤務する建築家ではなく、フリーで「〇円ハウス」を模索するアーチストという訳のわからない仕事を業とする生活に入るきっかけなのであった。

 むしろ少年時代の思い出として一番強烈に残っているのは;

『「僕らの家から流れ出たこのドブ川は、もしかしたら海に繋がっているのではないか?」
 ある日、僕はこの仮説を確かめるべく、ただちに行動に移すことを提案した』

 という子どもながらの疑問と仮説を実証するための行動をとる部分。

『三人(恭平とタカちゃんとコバヤン:引用者注)はその後も頻繁に砂漠へと出かけ、一番曲線の激しい、真横に生えている大きな松を三階建ての探偵事務所とした。松の下の砂地に段ボールを敷いて一階の受付とし、松の幹の上に敷いてそこを二階の会議室にした。さらにはからだを丸めると座ることのできる二階の頭上にある太い枝を三階の隠し部屋と呼んだ』

 という、いかにもツリーハウスのような見え方だが、子どもが空き地に作る秘密基地である隠し部屋のようなものであるところが、いかにも冒険心のある男の子らしい遊びなのである。

 ただし、この種類の遊びは今の都会の子どもたちではまずやらない(やれない)のであろうが、昔の(私たちの子ども時代)子どもたちや、あるいは坂口恭平の育った(時代の)福岡県糟屋郡新宮町あたりでは、当たり前の男の子の遊びだったのだし、だったのだろう。Googleマップで見ると玄界灘に面した松林がある新宮町では、今でもそんな遊びをする男の子があるのだろうか。だとすると、ここから第二第三の坂口恭平が出てくる可能性はあるのではないかなんてことを考えさせてしまう。

 そんなことを考えていると、そういえば堀江貴文氏の福岡県八女市、孫正義氏も佐賀県鳥栖市という、両方とも北九州の田舎である。そうかやっぱり日本は西の方から革命家、起業家が出てくるんだな。やはり会津は反革命分子にしかなれないのかなあ。

 なんてことを考えながら本書を読み進める。

『僕の幼年時代。それは幻の時代である。なぜ生きているのか? その意味はもう考えなくてもいい。あの幻の時間のおかげで今の自分が存在している。
 親友とともに軽さを感じながら。目の前の現実を化石と感じながら。起きて見る夢として毎日を生きながら。そのような行為として、記憶の軌跡として、ただ幻の実像を書いてみたい』

 という「はじめに」のような生き方は、まさに今そのままの生き方でもある。

 今、我々が生きているという現実さえもが、しかしもしかしたら幻かもしれないのだ。我々がなんのために生まれてきて、いま生きていて、これからも生きていき、やがては死んでしまうという現実ですら、実は、「お前は生まれていない。生きてもいない。これからも生きてはいかない。ということは死ぬこともないのだ」と言われても仕方のない現実の中で、我々は生きていかざるを得ないのだ。

 それが現実。

 そんなわけで、実は「幻年時代」とは、別に少年時代だけではなく、いま我々が生きているこの時代ですら「幻年時代」だとも言えるのではないのではなかろうか。

 今、そんなに我々自身が自らが生きている実感、存在している実感もない世の中である。もしかしたら、今生きている筈の我々自身が「幻」かもしれないと考えたら……。

 それも面白い。

『幻年時代』(坂口恭平著/幻冬舎/2013年7月20日刊)

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