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2013年9月 5日 (木)

『美しいヌードを撮る!』じゃなくても撮る理由はいくらでもある

「ヌード」は写真における永遠のテーマだ。という以前に芸術にとっても永遠のテーマである。

 ところが、そんな「ヌード」を「淫らな目的や理由で撮ってはならない」という論がある。

2013_09_02_2265_edited2 『美しいヌードを撮る!』(ハナブサ・リュウ著/平凡社新書/2013年8月13日刊)

 たとえば、本書の著者ハナブサ・リュウ氏も書く;

『ただ、「ヌードフォト」と呼ばれるもののなかには「ヌード」ではなく「ネイキッド」もふくまれています。その区別すらも、ましてや「ポルノ」との区別すらも、きちんとされていないのが実情です。女性の「はだか」への興味だけで撮って見せる写真と、撮影者が「からだ」と対峙し、それを表現しようとしている「ヌード」は、本来、はっきり区別されるべきものだと思います』

 と。

 しかし、そのような「ヌード」と「ネイキッド」と「ポルノ」の間には、そんなちゃんとした線引きがあるのだろうか。あるいは必要なのだろうか。

 人間にとって「性欲」は「食欲」と同じように、人間が生き物である以上先天的に持っている欲望である。権力欲や金銭欲なんかとは違って、人間にとってそれらの「欲」はなくてはならないものなのである。

 だったらその欲望に忠実に従って「ヌード」を撮影することに何か問題があるのだろうか。ハナブサ氏自身で書いているではないか。

『私の異性への憧れは、思い起こせば思春期の性の目覚めからはじまりました。同級生の女子たちの白いブラウスのわずかな胸のふくらみ、長く美しい髪、なめらかな白い肌、スカートから覗く脚などに、異性への憧れをつのらせていました。
「ヌードフォト」が撮りたい気持ちのなかに、こういった思春期から脈々と続いているさまざまな憧れや想いがいっぱいふくまれているのです』

 と。

 ヌードフォトの撮影過程自体が、実は性行為そのものなのである。

 まず、「ひととのコミュニケーション」をとり、撮影場所を選びポートレイトを撮影する。そして『撮影者は光を探りながら撮る意識を高めるわけです。撮られる側も、自分を表現しようと意識を高めているのですから、そんなお互いの高まりがシンクロしたとき、はじめていい写真が撮れるのだと私は確信しています』という言い方は、まさに女性とコミュニケーションをとり、何気ない話から入って、お互いを意識しながら高めあい、愛撫をしあい、最後には性器の挿入に持っていく、まさに性行為そのものなのである。

 だとしたら、そんな自らの性に対する姿勢に忠実になって、女性に撮影を申込み、女性とキチンと対峙し、性行為に持ち込むことこそ、良い性行為なのだし、ヌードフォトの撮影なのである。

『「ヌードフォト」の撮影では、撮影者が相手(モデル)としっかり対峙することがもっとも大切だと思いますが、それは、自分の内面と向き合える貴重な機会でもあります。わかりやすくいうと、作者がたんなるエッチな気持ちで「ヌードフォト」を撮ると、たんなるエッチな写真にしかならないということです。写真はカガミにように自分の内面を映し出すものなのです』というとおりなのであるが、しかし、だからこそ『ヌードの歴史を振り返ってみても、常に「アート」と「ポルノ」のせめぎ合いのなかで、葛藤が繰り広げられてきました。スキャンダルを巻き起こした作品が、立派に残っていることもあれば、一時的で消え去ることもあります。そこには、決して法則があるわけではなく、曖昧なものなのです。逆にそういうものだからこそ「アート」は、面白いのです。「ヌードフォト」にも同じことがいえると思います』というとおり、まさしく「アート」と「ポルノ」を分ける境目なんかはあり得ない。

「アート」と「ポルノ」を分ける境目なんかがあり得ないからこそ、しかし、「アート」はこれまで育ってきたのである。

「おわりに」でハナブサ氏が書くように、フランスの画家、マネが書いたヌード『草の上の昼食』が公開当時(19世紀半ば)大スキャンダルを起こしたことは有名な話である。当時、女性のヌードは宗教にからんだ「女神」か、裸が当然の浴室や寝室にいるという形で描かれるのが当然だった。ところが「正装した男性二人と屋外でのピクニックにこうじる裸の女性」というシチュエーションが当時ではスキャンダルになったのである。本来、女性が裸でいてはいけない場所に裸でいる、ということがスキャンダルの元となったわけである。

 しかし、今やそんなことを指摘する人はいない。「アート」と「ポルノ」の境目とか、「アート」や「ポルノ」の定義なんてものは、時代によって変わるものだという典型例である。

 だとしたら、なにが「良いヌードフォト」であるのか、なにが「悪いヌードフォト」であるのか。なにが「アートとしてのヌードフォト」であるのか、なにが「エッチなだけのヌードフォト」であるのか。なにが、なにが、なにが……。

 つまり、人間は何を描いてもいい。何をヌードフォトとして撮ってもいいのである。

 撮る理由なんてものも、なくてもいいし、あってもいい。

 エッチな理由でとってもいいし、性行為の前戯として撮ってもいいのである。

 写真なんて、所詮そんなものでしょう。

『美しいヌードを撮る!』(ハナブサ・リュウ著/平凡社新書/2013年8月13日刊)

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