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2013年4月

2013年4月30日 (火)

カレッジフットボール2013年春シーズン開幕!

 カレッジフットボールの春シーズンがいよいよオープン、って実は既に先週から東京大WARRIORSの試合は始まっていたのだが、先週の学習院大GENERALS戦は、寒い気候にもかかわらず、もっと寒い試合内容で負けてしまった。

 ので、無理やりにでも昨日の防衛大CADETSとの定期戦を開幕戦だと思い込みたいのである。

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 エース・クォーターバック(QB)#16山田一樹を故障で欠く東京大は、しかし#15古屋亨、#12大槻新という2年生QBが頑張ってボールを前に進める。

 が、どうも今日の東京大は反則が多く、攻撃のたびに5ヤード、10ヤードと罰退を繰り返す展開。結局、第1クオーターはタッチダウン(TD)ならず、1フィールドゴール(FG)のみという結果に。その後、第2Qに入って防衛大にファーストTDを取られ逆転を許す展開になった時には、前週の学習院大戦を思い起こさせてちょっと嫌な予感さえしてしまった。

 ただし、杞憂はそこまで。その後すぐにランニングバック#32藤田のTDで再逆転した東京大は、QB#15古屋の自ら走り込んでの初TDやFGなどで追加点を上げて、結局2TD、2FGの20対7で勝利した。

 まあ、これで達磨の片目が開いたということで、この試合を春シーズンの最初の試合ということにしておこう。

 さて、今年の関東学生アメリカンフットボールの秋リーグ戦は大変なことになっている。これまで1部リーグは8校づつのAグループとBグループの並列リーグ戦でやっていたのだが、来年からは1部上位リーグ8校と下位リーグ8校に分かれる。それをどうやって分けるかというと、今年の秋のリーグ戦A・B両グループの上位4校が来年の上位リーグ、下位4校が下位リーグになるのである。

 つまり昨年一部リーグ5位で終わった東京大は、一橋大、神奈川大、上智大という格下だけでなく、上位に位置する立教大か日体大を破らなければ、来年上位リーグには残れないという剣ヶ峰に立たされているのである。

 エースQB山田の復帰が待たれるだけでなく、その他の選手のグレードアップも出来なければ、来年は下位リーグという恐れ十分なのである。

 その為には、パスの精度アップ、反則をしないなどの基本的なことを再度見直す必要がありそうだ。

 結構、課題は多い。

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NIKON D7000 AF-S NIKKOR 55-300mm, RICHO GRDⅢ @Tokyo Univ. (c)tsunoken

2013年4月29日 (月)

『考える生き方』というタイトル以上に考えさせること

 しかし、ダイヤモンド社も実に挑戦的なブックデザインをするもんだなあ。カバーや表紙から突然まえがきが始まって、そのまま表2へと続いちゃうんだもんなあ。まあ、紙を節約したって言えばその通りなんだけれども。

2013_04_28_2073_edited1『考える生き方 空しさを希望に変えるために』(finalvent著/ダイヤモンド社/2013年2月21日刊)

 finalvent氏は「極東ブログ」という、何やら右翼チックなタイトルのブログで有名で、所謂「アルファブロガ-」の称号をいただいた人である。

 とは言うものの、ブロガーである。つまり、それ以外の分野ではそんなに大したこと、大それたことを言う人ではないのだな、ということがよくわかる本なのである。つまり、自分のこれまで生きてきたことを語り、そしてこれからのことを語るという……。

 まずは大学(大学院)を出て社会人になってからのこと。

『とりあえず仕事を数年やってみて、20代後半くらいに、自分のやりたいことが見えてきたら、無理のない範囲でその方向に自分を向けていくか、そのままいくと無理になりそうなのが見えてきたら、職場を荒立てないように転職を計画していくといいだろう』

 というのが、まず最初の人生設計。

 一昨日の尾崎弘之東京工科大学教授みたいに、自分でもできなかったくせに『なぜ「石の上にも三年」なのか?』なんて、とんでもない設問はしないのだ。この辺が自分のペースだけでモノを書いていればいいブロガーと、人に教えなきゃいけないという方法論でモノを書く大学教授っていう違いが見て取れるというものであるが、とにかくfinalventさんはマイペース。

 しかしまあ、こういう「人生振り返って」的な本になるとやはりあんまりテーマはまとまっていなくて、取り敢えず目次を拾うとこうなる。

第1章 社会に出て考えたこと
第2章 家族をもって考えたこと
第3章 沖縄で考えたこと
第4章 病気になって考えたこと
第5章 勉強して考えたこと
第6章 年を取って考えたこと

 という具合に、年を経て、その時々に考えたことを、今思い返してまた考えた、という具合に編年的に順番に考えたことなのである。

 最初にこのブログで書いたのは、この最初の「社会に出て考えたこと」からの抜粋なのだが、そんなことばっかりやっていても、私のブログ自体がまとまりのないものになってしまうので、ここでは、取り敢えず「沖縄で考えたこと」を中心に取り上げる。

 一番面白いのは、沖縄で引っ越した一軒家の庭にあったバナナの木の問題。当然、我々が果物店やスーパーで見る「ガスでいぶして完熟させたバナナ」じゃなくて、木にぶら下がったままで完熟したバナナである。そりゃもう当然旨いに決まっているわけだ。ところが問題発生。

『食べきれない。取れ過ぎ。親戚一同に配った。たまたま訪問してくる人にも配った。はい、バナナ。はいはいバナナ。
 そうやって食べ物を配って食べるというのは、南方の基本的な機能ではないかとしみじみ思った』

 と書くが、別にそれは「南方の基本的な機能」じゃなくて、戦後の「貨幣経済だけが支配した時代」以前では当たり前の生活だったのだ。

 例えば、畑で採れたもの、魚釣りで取ってきたもの、知り合いからおすそ分けで頂いたもの等々、自分の家で処分できないようなものは隣近所に配ってみんなで頂くというのは、戦後も私が子どもだった昭和30年代あたりまでは当たり前の風景だった。

 言ってみれば「物々交換経済」というのは、明治以前は当然だが、それ以降も昭和の第二次大戦後にも10数年までは生きていた経済に対する考え方だったのだ。たまたま、そんな以前の社会に対する考え方が沖縄にはまだ生きていたということなのだろう。

 その他、沖縄編が面白いけれども、でも、それも大体は私たちも知っていることなんだよなあ。例えば;

『生活の中心から見た沖縄文化の本質はなんだったか。
 米軍文化だった』
『米軍がもちこんだ缶入り保存食料が、現代沖縄の食事の基本になっている』

 結局一番大事なことは、『石川収容所から戦後の沖縄が始まった』ということ。

『沖縄の人々の戦後の最初の生活が、そこにあったのだと、心に染みた。
 民間人にとって戦争というものは、生き残れば、収容所に送られることだ。
 そして収容所には生活がある。食べて、歌う、普通の生活が、収容所にはある』

 ということ。

 つまり、国際法上では「捕虜」となるのは「将校・兵士」だけであって、一般人は捕虜になることはない、というのが当たり前である。ところが、沖縄では一般人も兵士と一緒に捕虜になったのである。

 これはおかしいでしょ。これが本土であったら、多分日本政府は徹底抗戦したはずである。つまり、沖縄の人たちは、ここでも「棄民」されていたのだな、ということがわかる。多分、それは日米両政府が(暗に)認めていたのであろう。

 だからこそ;

『沖縄住民がレファレンダム(住民投票:引用者注)を実施したということは、国際的に見れば、沖縄の住民は、日本国から分離独立する可能性を示したということになる。すでに国際的には、沖縄というのは、レファレンダムで住民自治を宣言しうる地域と見られている』

 のである。

 尖閣諸島をめぐる日中の駆け引きはちょっとみっともない。

 だったら、沖縄が日本から独立して、日中のバランス・オブ・パワーの間で、沖縄領とした上で、日中共同利用の方法を探るというのが、実は尖閣問題の一番の解決方法化もしれない。

 なるほどなあ。

 やはり沖縄で何年も過ごしただけのことはある。

 実は、これが本土にいる日本人で、沖縄に思いをはせる人間の結構最大公約数の気持ちなのかも知れない。

『考える生き方 空しさを希望に変えるために』(finalvent著/ダイヤモンド社/2013年2月21日刊)Kindle版は2月25日刊・Kindle版の方が350円安い

2013年4月28日 (日)

『教科書に載っていないUSA語録』もかなり日本でも通用するようになってきているぞ。これはヤバい!

『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』の町山氏の新刊である。ニューヨークの場所すら知らないアメリカ人であるから、当然そんな人たちのやる政治なんてものはもうメチャクチャっていうお話。

 マチヤマくん、ますます快調であります。

20130424_2137『教科書に載ってない USA語録』(町山智浩著/文藝春秋/2012年10月5日刊)

 本書で槍玉っていうか、ほとんどバカにされているのは大統領候補だったミット・ロムニーとサラ・ペイリン。以前は子ブッシュだったが、それも終わって次の獲物というわけですね。

『政府が運営する保険は保険会社の自由競争を邪魔する、社会主義的なシステムだという。また、貧しい者の医療費を政府が払うということは、豊かな者が払った税金を回すことになり、これも社会主義的で許せない』

 さらに

『福祉や企業救済、公共事業などに積極的なリベラルを激しく批判し、経済への不介入と財政緊縮を求める保守派』

 ところが、その問題の根幹は

『現在の莫大な赤字は、ブッシュ政権が富裕層に減税し、市場を(新自由主義で:カッコ内引用者)暴走させた末に金融システムが崩壊した』

 ことによるものなのだが、そんなことはお構いなしに共和党の保守派は再びアメリカ社会を「何の規制もない自由な状態」にもっていこうとし、そのためには手段を選ばず、それこそ政敵を銃で抹殺することも厭わないという、野蛮な社会アメリカを再現しようとする。まあ、その野蛮な状態が、イギリスに税金を払うのが嫌で、銃で独立を勝ち取ったアメリカならではあるのだが、しかし、もうそんな時代からは200年以上経っているんですがねえ。

 いまやそんなことをしていては経済的にも破綻することが見えているのだが、それがわからないアメリカの保守派なのである。

 特に、子ブッシュ、サラ・ペイリン、ミット・ロムニーという3人はなんかもう、救いようのないバカ(大学時代の成績も悪かった)としか言いようがないのだけれども、そんな代表者しか選べない共和党ってのもスゴイね。

 でも、一方『「アメリカ人は今、スウェーデンに憧れている」。5500人のアメリカ人を対象にしたある調査によると、92%が「アメリカよりもスウェーデンの富の分配のほうがいい」と答えた。アメリカン・ドリームはスウェーデン・ドリームに負けたのだ』というこれども、そんなスウェーデンは『所得税を45%、消費税も25%』も払っている、一種の社会主義国なのである。

 自国の政治・経済体制に対しては資本主義っていうか、ほとんど新自由主義を提唱しながら、理想とする国家体制としては社会主義に憧れるっていうアンビバレントな気持ちっていうのは、分からないではないけれども、でもそれが「国民の半分がニューヨークの場所を知らない」アメリカ人の話だとすると、なんか単なる「世界の超田舎者=アメリカ人」という構図しか見えてこないのである。

 そう「単なる無知」。

『今の子供たちはジェネレーションTMIと呼ぶそうな。Too Much Information(情報過多)の略で、生まれたときからインターネットの囲まれて育ち、オモチャはニンテンドーDS、思春期までに携帯やパソコンを買ってもらう。朝から晩までメールやSNSやブログやツイッター漬け。それじゃあ不健康だからと大自然に連れ出すと、ITメディア禁断症状を起こす。怒涛のような情報の整理に忙しくて本を読む暇もないから、深い知識はない。だからツイッターでつぶやくにしても、「起きたなう」「寝るなう」の繰り返し』

 という連中が作り出していく劣化した政治と経済。

 あれ? でもそれって今の日本も同じじゃないか? 尖閣諸島や竹島問題で脊髄反射して、短絡的に新大久保で「韓国人を殺せ」なんていうデモをやっているわが同胞を見ると、あんまりアメリカ人ばかりをバカにしてはいけませんという気分にもなるなあ。

 というか、今や日本人もアメリカ人並みに「バカ」になっているということなのか。

 そういやあ本書にも書いてあったなあ。

『経済誌「エコノミスト」は、とある国を「ゾンビ」と呼んだ。その国の管理職に女性が占める割合はたった8%(中国は20%)で、若者の57%が終身雇用を求め、起業を目指す者は14%にすぎない。とっくに死んでいる20世紀の経済モデルから脱却できない国』のことが。

『教科書に載ってない USA語録』(町山智浩著/文藝春秋/2012年10月5日刊)Kindle版は2013年4月20日刊・紙版より201円安い

2013年4月27日 (土)

『君は本当に出世したくないのか?』という設問は正しくない。前提は「君が今の会社にとどまるならば」と入れなければ

 まあ、出世はしたくないかと言われればしたいけれども、でもそのためにアクセクするよりは自分の好きな本を作っている方がよっぽど充実しているよな、という出版社独特の雰囲気の中で37年半生活してきた私は、このような「出世」に重きを置く本の書評はできないはずなんだけど……。

20130424_1723『君は本当に出世したくないのか?』(尾崎弘之著/クリークアンドリバー社/2013年4月11日刊)

 でも、しちゃうのだ。

 だって、東大法学部を卒業後、途中ニューヨーク大学MBA、早稲田大学大学院博士課程を間に入れて、野村證券→モルガンスタンレー→ゴ―ルドマンサックス→ソフトバンク・インベストメント→バイオビジョン・キャピタル→ディアベックと職を転々とし、2005年にやっと現在の東京工科大学教授の職に就いた尾崎氏に『なぜ、「石の上にも三年」なのか?』なんて語られてもねえ、なんかリアリティめっちゃ少なくね?

 で、尾崎氏による出世の五か条というのがあるそうだ。

(1)組織における自分の位置を正確に測定する
(2)結果と成果とを適切に区別する
(3)変化と成功を意識する
(4)仕事の目的と人生の目標をリンクさせる
(5)誤解と錯覚によって、自分の行動を制約しない

『出世とは組織内で自由を得るためのものである』という当たり前のことを尾崎氏は言うのであるが、そのための五か条が上記のものだ。

 さらに『実力とイメージを兼ね備えているグループを「一軍」、実務能力はあるがイメージが悪いグループを「二軍」、実務能力はないがイメージが優れているグループを「詐欺師」、実務能力、イメージとも欠如しているグループを「負け犬」と名付けてみた』とし、それをMBAお得意のマトリックスに落とし込む。

 これらの二つの指標からみると、私はまず五か条の(1)で完全に落第し、マトリックスではやはり完全に「二軍」であった。ただし、五か条の(2)~(5)はかなり自覚的に実行してきたし、実務能力(映画のプロデューサーとしての能力)はあった方だろうと、自惚れもさせていただいても問題はないはずだ。

(2)の 『組織の中では第三者(=決定権者)が判断することによって、はじめてその人の仕事ぶりに評価が下る。つまり、結果は各メンバーが出すが、それを成果として認めるかどうかは上司次第になるのだ』という考え方はよく理解しているし、そのような「成果」を私は上げてきた。(3)の点でも『出世を望むならば、常に変化を心がけていなければならない』というとおり、私の属する会社では扱っていなかった分野ばかりを歩いてきた気がする。(4)については、少なくとも40代までは『つねに目標を設定し、前進を心がけて』いたのだが、まあ、最近は「1日1冊本を読む」こと位かな。で、(5)なのだが「外国人への苦手意識」なんてものはないし、「視点変更技術」はあるはずである。

 じゃあ、なんで私が出世できなかったのかといえば、やはり(1)の「組織における自分の位置」を間違ってしまったからなのだろう。

 結局、私は私の好きな映画作りでは一生懸命仕事をして、それなりの成果も出したわけなのであるが、なんだ私の会社は映画会社じゃなくて出版社なのであって、そんな出版社では映画で稼いでも全然評価をしてくれなかった、という単純な話であった。しかし、この鈍感な男はそれにも気づかずに一生懸命映画を作っていたっていうわけなのであった。

 まあ、自分の好きなことをやって、それを会社も認めてくれていたわけなので、それだけでも十分会社には感謝するし、会社にも経済的な恩返しはできたわけなので、別にその会社で出世できなかったからと言っても、別に何の不満もないのであるが……。

 ひとつだけ言えることは、出世するとそのレベルにおいて見えてくる世界が違ってくるということ。また、物事の決定できる範囲も広がってくるし、社員なりの自由の獲得度も変わってくるということなのだ。勿論、収入もね。

 そんな意味では、サラリーマンを続ける以上はやはり出世を目指すべきだろうし、そのためには多少の自己犠牲も必要になってくる。それがいやならば「会社員でいるときは平社員でいい」と居直るか、あるいは会社員であることを辞めるか、という選択肢がある。

 会社員であるということと、そうじゃなくてフリーで仕事をするということの間には、基本的には差はない。一方は「会社」という組織に守られていて、多少は安穏と生活はできるが、しかし会社に搾取されているという現実は決して変えられないし、まあ「社畜」としていつしか飼いならされているのだろうな。一方、フリーで仕事をするということは、そんな「搾取」よりは多少は好い条件で「自分がやった仕事の成果物」を自分が獲得することができるし、人から仕事以外の部分で何かを言われることはない代わりに、生活は基本的に不安定である。

 で、結局安定を求めるのであれば、社畜であることを認めなければならないし、同じ社畜ならばより上の立場になって人を支配するようになるために「出世」をした方がいい、という一種の処世術がここにはある。

 ただし、これは本当に処世術にしかすぎない。人生のフィロソフィーをかけた問いかけではない、単なる処世術。

 会社員を続けるならば出世した方がいいよ、というね。

そりゃあそうだ。

 ただし、会社員を続けるかどうか。どちらがいいかは全く分からない。

 それこそ、「自分で決めなさい」なのである。

『君は本当に出世したくないのか?』(尾崎弘之著/クリークアンドリバー社/2013年4月11日刊)電子版のみ

2013年4月26日 (金)

『止まらない世界』は分かるが、もっとテーマを絞ってね

 久々の「本」ブログであります。といってもKindle読書ですがね。

 著者の田村耕太郎氏は2010年7月の参議院議員選挙で落選した政治家である。「選挙に落ちたらタダの人」というわが国で、「落選中の政治家」というタームはあるのか、という問題は別にして、取り敢えず読んでみよう。

20130422_2358『止まらない世界 君はじっとしていられるか?』(田村耕太郎著/ゴマブックス/2013年4月1日刊)

 基本的にいろいろなところで発表したコラムを集めたものなので、本として統一したテーマはない。

 目次から内容紹介をば;

●狙いは中国! TPPに引き込め!
●”教養のススメ”
●ハーバードに日本人殺到!? 内向き終わる?
●2012年暮れから北アフリカ危機は高まっていた
●中国は安倍政権を挑発してくるだろう
●中国の深い悩み
●発達障害が人類を引っ張ってきた!?
●カンボジアで起業すべき10の理由
●恋愛大国フランスの新大統領が示す人口政策の成果
●韓国財界人が日本に提唱する「大統領制のススメ!」
●TOEICはガラパゴス化した経産利権
●南米ブームは中国の搾取の構造? ご利益は?
●日本農業よメイドバイジャパンで世界で勝負せよ!
●「食料自給率」より「稼ぐ農業」!
●人類はチンパンジーの一種に過ぎない!?
●原発再稼働議論を契機にグランドデザインが描ける主体を造ろう

 というもの。

 なんか、まったく「本書で何を言いたいのか」が分からない構成になっている。

 なので、取り敢えず一番具体的な提案のある「●カンボジアで起業すべき10の理由」をちょっと紹介。

1.誰も目をつけていない
 ビジネスは逆張りが基本。そういう意味でカンボジアは穴場だ。

2.成長率は8%を上回る
 インフラは未整備ながら、発展の余地は大きい。

3.米ドルが流通している
 高成長の新興国なのにドルで事業ができるのはカンボジアの大きな魅力だ。

4.英語が通じる
 英語が通じるのは、起業環境として理想的だ。

5.通信インフラが整っている
 ある人はカンボジアの現状を「携帯電話のある三丁目の夕日の時代」とたとえた。

6.若者が多い!
 ベンチャーにとって、1400万人は小さい市場ではないかもしれない。

7.親日的
 親日的な環境は日本の起業家にとって重要だ。

8.就労ビザ取得が容易
 カンボジアの就労ビザは申請から数日で取れる。コストも非常に安い。労働証明書と労働記録の費用は年間100米ドル、健康診断料15米ドルと東南アジアでは断トツの安さだ。

9.外貨規制がない
 カンボジアはすべてのビジネスを外貨に乗っ取られるリスク覚悟で経済を開放し成長を狙っている。それだけの覚悟を政府が見せている。そういう点でも今後の高成長が期待できる。

10.証券市場ができた
 上場の基準や手続きは非常に簡素で、世界の投資を集めるべく努力する姿勢を見せている。

 シンガポール、インドネシア、ベトナム、ミャンマーに比べると、立ち遅れていた分、カンボジアは一生懸命に前を走る東南アジア各国に追いつこうとしているのだろう。そんな姿勢が読んで取れる。

 カンボジアではイノベーションは必要がない。日本で成功したモデルを持っていけば、そのままでカンボジアでは成功するようだ。というよりも、「何もない」状態のカンボジアであるのだから、日本の成功モデルをそのまま持って行っても、人件費も材料費も安いこの地域では「今のところ」現地での成功モデルになってしまうのだ。

 当然それは「今のところ」なので、早ければ早いほど良いという、競争なのである。

 というか、政治家として様々な問題に取り組む姿勢は分からないではないが、かと言って、本書きとしてテーマ性のなさはどうにかならないものか。

 なんか、書評が書きにくくて仕方がない。

 って、書き手に降参した?

『止まらない世界 君はじっとしていられるか?』(田村耕太郎著/ゴマブックス/2013年4月1日刊)電子書籍版(Kindle含む)のみ

2013年4月25日 (木)

スマートフォンアプリEXPOって知ってた?

 4月23・24日の二日間開催されていた「スマートフォンアプリEXPO2013/スマートフォンアクセサリーEXPO2013」を覗きにベルサール秋葉原まで行ってきた。

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 って、そんな展示会があるを知ってた? 私は主催者の日経新聞からのメールで知ったのだけれども、確かに、スマートフォンやタブレットのアプリなんて小さな開発会社や個人が多くて、そんな展示会なんかを自力でやる余裕なんかはないわけで、いままでそんなEXPOなんてのがあるのは知らなかった。

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 で、実際にもそんなアプリを紹介されたって、それは自分でスマートフォンやタブレットに入れて使ってみないと「これってどうよ」は分からない。

 ということなので、スマートフォンアプリの共同発表会というよりは、むしろアプリ開発社(者)たちの交流の場というような感じであった。まあ、こうした交流の場というのは今まではなかったわけで、こうして開発者同士の交流の場ができれば、それをきっかけに開発者同士のコラボレーションで今までにないアプリなんかもできるようになるのかもしれない。

 いずれはCEATECなんかに合流していくスマートフォンアプリEXPOなんだろうけれども、取り敢えず始めてみました的な手作り感が悪くはなかった。

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 宝塚大学は西新宿に東京キャンパスを持っていて、メディア関連の授業はこちらで行っており、スマートフォンアプリなんかも学生発の開発も行っているようだ。

 で、こちらはスマートフォンアクセサリーEXPOの方。

 ほとんどがスマホのケースなんかの展示が多かったのだが、ソフトバンクBBは最近契約したFitbitのプレゼンをしていたし。

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 マンフロットというカメラの三脚や雲台のメーカーはやはりスマホをカメラとして使った際の三脚や撮影システムの提案をしていたのはサスガ。

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 が、まあトータルで見ると小さな展示会でEXPOっていうほどの規模はなかった。

 スマートフォンアプリなんてのはそんな世界なのかもしれない。

Fujifilm X10 @Akihabara (c)tsunoken

2013年4月24日 (水)

可愛い! 應援團長 再び

 前節の青山学院大戦で勝ち点1を上げた中央大学。こりゃあ「行かねばの娘」という訳で行ってきました神宮球場。中央大対駒澤大戦。

 エース島袋の先発で始まった試合は、しかし、2回裏、駒澤大・古賀、西村の連続ホームランで完全に流れは駒澤大に。

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 島袋も制球に若干難ありで、毎回に近くヒットを打たれる。一方、駒澤大の今永投手のコントロールのよい投球に中央大はなんと7回までパーフェクトに抑えられる状態に。

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 9回表になってやっと羽山のスリーベースヒットが出て、そのあと影山のタイムリーで1点を返したが、反撃もそこまで。結局4対1で駒澤大が先勝することになった。

 そんな状態になると現金なもので、野球なんてどうでもよくなって中央大対駒澤大の応戦合戦の方が気になる。なにしろ、中央大の應援團長は昨年に引き続き女の子なのである。

 神奈川県レイモンド学園高校というクリスチャンスクール出身の経済学部国際経済学科4年、本城亜利架さんが今年の應援團長だ。

 昨年の5月2日のブログで「可愛らしい応援団員。来年は、応援団長か?」と書いた本城さんがやはり、というか昨年の3年生の應援團リーダー部には彼女しかいなかったので、当然、今年は應援團長だ、で羽織袴姿である。これも萌えるなあ。

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 昨年の應援團長、府木真衣さんが凛とした美人だったのに比べると、今年の本城さんはどちらかというと「可愛い」系。

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 うーん、チアガールの質といい、應援團の量といい、中央大学の方が完全に圧倒しているのだが、野球は應援團がやる訳ではないからなあ。

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 なんか野球はどうでもよいから「應援團萌え」してしまいそうな一日ではあった。

 って、何を見ているのだ。この男は。

Nikon D7000 AF-S Nikkor 50-300mm @Jingu Stadium (c)tsunokan

2013年4月23日 (火)

稲取漁港・散歩カメラ by LEICA M3 ③ スナップ拾い歩き編

 稲取温泉シリーズ最後はスナップ拾い歩き編です。

 で、この大仏様。稲取漁港そばの「正定寺」というところにあるのだが、港の方を向いていない。普通だったら港の方を向いていて、漁の安全を祈るところなんだろうけれども、そうじゃなくて港には背を向けている。要は檀家のことは考えるけど、海のことは考えないという、結構身勝手な大仏様なのであった。

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 朝市会場に貼りだされた観光スポットを紹介した手作りポスター。一番右下が永井裕子という歌手の『望郷岬』という曲のポスター。バックには「雛のつるし飾り」があって、稲取の愛恋岬を歌ったものと思われるが、歌詞にはそんな部分はない。何故だろう? ところで、愛恋岬には毎年6月に行われる「どんつく祭り」というお祭りで、それを担いで女性を追い掛け回す「男根」が飾ってある。

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 ご存じ浄蓮の滝であります。なかなかの水量。階段が滝壺のすぐそばまで下りていて楽にみられる。

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 東名高速、中井パーキングエリアでMGTD発見。かなり綺麗な仕上がりでオーナーの一生懸命さが滲み出ている。実は高速道路を走るような実力はないんだけれどもね。

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 で、これが今回の稲取温泉紀行の参加者。どれが誰かは言わないが、メルマガ「ヒマヒマかわら版」の筆者Y川氏、元ワーナーパイオニア労働組合委員長のN村氏、元□○のH坂氏であります。写っていないのが、カメラマンをやっている元ノンポリラジカル(アホの代名詞)の「tsunokenのブログ」の筆者でありました。

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Leica M3 Summilux 50mm 400TRX @Izu (c)tsunoken

2013年4月22日 (月)

稲取漁港・散歩カメラ by LEICA M3 ② 朝市編

 2日目の朝は早い。まあ、前日そんなに深酒はしなかったからなあ。

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 町中の小さな旅館「はまべ荘」を出て、朝市へ。

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 朝市は、旅館からすぐそばの東伊豆市役所隣の、市役所駐車場で行われていた。まあ、この辺は町中の旅館に泊まったメリットである。

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 それほど大きな朝市ではないのだが、やはり目玉の金目鯛から、アジやイカなどの海の幸から、この時期なので筍(特大のものが250円!)や野菜、山菜などが山盛りである。

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 ここのお店は宿の主人が教えてくれた魚屋さん。金目鯛の干物が「売り」なのであるが、我々が行ったころにはすでに売り切れ。やはり人気の金目鯛は売れ行きが早いようだ。ということなので、金目鯛が取れたときに干物にして送ってくれるという約束で、それで注文したり。

Img048asaichi3

 朝市は午前8時から。早くも7時ころから車の行列ができて盛会である。週末だけの開催なので、基本的には観光用の朝市なんだろうが、さすがに客は伊豆ナンバーの車が多く、観光というよりは地元密着型の朝市のようである。

 我々もいろいろな「戦利品」をGETして帰りの車の人に……。

Leica M3 Summilux 50mm 400TRX @Inatori (c)tsunoken

2013年4月21日 (日)

稲取漁港・散歩カメラ by LEICA M3 ① 港町編

 4月13日、14日は学生時代の悪友と4人で伊豆は稲取温泉まで行ってきた。今日と明日、明後日はその時にライカM3で撮ったスナップをUP。

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 稲取といえば金目鯛と雛のつるし飾りで有名な場所である。

 残念ながら「雛のつるし飾りまつり」は3月31日までで終了してしまったので見られなかったが、町を歩いているとそこここに「雛のつるし飾り」が飾られているので、どんなものかはわかる仕組みになっている。

 桃(長寿)、猿っ子(魔除け)、三角(薬袋香袋)を基本として50種の細工がああり、これを5列の赤糸に各11個の細工をつるし計55個にそろえ、これを対で製作することによって110の細工がつるされたものが基本形とされるそうだ。一般に直径30cmのさげわに170cmの長さでつるされ、飾りの数は3、5、7、9などの奇数でくみ上げられる。古端切れなどを使って製作する地元女性の和裁細工として受け継がれたというのがその概要。

 長女の初節句に無病息災、良縁を祈願して、母や祖母が作ったもので、段飾りが買えないので、着物の端切れなどで作ったという説もある。娘が成人した年に「どんど焼き」に焚き上げてしまうために、古いものはあまり残っていないそうである。

 それ以外は特に大きな特徴のある港町ではないごく普通の港町なのだが、我々が宿泊した町中には小さな旅館しかないのに、町はずれにはかなり大きなシゾートホテルがいくつも並んでいる。特に観光施設なんかもないので、もしかするとこの町を拠点にして下田市や伊東市なんかまで足を延ばすのかもしれない。

 我々が宿泊した旅館は金目鯛づくし料理で有名なところらしく、夕飯も金目鯛の刺身に始まって、煮付けや、海老の作りなどたいへん贅沢な料理の数々には感激をしながら、夜を過ごしたのであった。

Leica M3 Summilux 50mm 400TRX @Inatori (c)tsunoken

2013年4月20日 (土)

『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』はこれまでの言っていることとは180度ちがうけどね

『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』シリーズで有名な橘玲氏が、何故か今度は「日本の銀行の普通預金が最強の金融商品」と言っている。

 その間にどんな変化があったのだろう。

20130418_2216日本の国家破産に備える 資産防衛マニュアル』(橘玲著/ダイヤモンド社/2013年3月15日刊/4月1日電子版刊)Kindle版の方\975も安い。

 まあ、一番は「アベノミクス」なのだろう。

 アベノミクス自体は単なるかつての「高度経済成長よもう一度」というだけの、単なる「ナツメロ」路線に過ぎないわけで、その先に何があるのかはまったく考慮していない政策なのである。

 で、アベノミクスと呼ばれている大規模なリフレ政策の効果によってか、市場は異常反応して、既に日経平均株価は1万3000円を超える状況になっているし、大幅な円安になって、なんか気分だけは日本経済が復活したような気持ちになっているが、当然、商品の価格は穏やかに上昇をはじめていてインフレが始まったようになっている。

 しかし、政策は結果ではない以上、アベノミクスの結果もどうなるのかわからない。で、橘氏は日本経済の未来には、次の3つしかないという。

①楽観シナリオ アベノミクスが成功して高度経済成長がふたたび始まる
②悲観シナリオ 金融緩和は効果がなく、円高によるデフレ不況がこれからも続く
③破滅シナリオ 国債価格の暴落(金利の急騰)と高インフレで財政は破綻し、大規模な金融危機が起きて日本経済は大混乱に陥る

 で、第3の「破滅シナリオ」にも3つのステージがあるという。

第1ステージ 国債価格が下落して金利が上昇する
第2ステージ 円安とインフレが進行し、国家債務の膨張が止まらなくなる
第3ステージ(国家破産) 日本政府が国債のデフォルトを宣言し、IMFの管理下に入る

 という、3つのシナリオ、3つのステージである。

 私なんかの予想では①の楽観シナリオはまず絶対ない、で②の悲観シナリオから③の破滅シナリオに行くんだろうな、という予測をしているのだが、次のステージに関しては、多分第2ステージまではいくとして、第3ステージまでは行くのか行かないのかは分からないというところである。つまり、国の歳入・歳出の現状からすると、国債の発行部数はこれからも異常なまでに引きあがるだろうが、だからといって韓国のようにIMF管理の下に入るところまでは行かないのではないかという観測である。多分、それは国としての体面もある。

 更に、日本国債の買主はそのほとんどが日本の金融機関であり、言ってみれば日本の子にの中でお金が回っているだけのである。つまり、日本の国力はまだまだ落ちているわけではなく、そのほとんどが銀行預金などに「貯め込まれている」だけなので、それを少しずつ使っている状態では国家の破綻は起きないという判断。

 で、橘氏によれば、『①「楽観シナリオ」と②「悲観シナリオ」および③「破滅シナリオ」の第1ステージまでは普通預金こそが最強の資産運用だということです』ということなのだ。つまり、成長シナリオやデフレシナリオでは当然、利息は低くても、取り敢えずは普通預金が一番の方法だというのはよくわかるし、破滅シナリオになっても、金利が上昇する側面では、まだ普通預金が資産運用(資産保護)のためには一番良い方法だというのはよくわかる。

 で、破滅シナリオの第2ステージになってしまったら、もはや普通預金で資産を守るわけにはいかなくなるのでどうするかということになるのだが、その時に橘氏が薦めるのが、「国債ベアファンド」と「為替コストの安い米ドルを保有する」「外貨預金」だという。

 で、最後の最後、第3ステージになってしまえば、最早日本を捨てて外国に行ってしまうということなんだろうな。それもいいじゃないか。

 とはいうものの、そこまで行かずに第2ステージの段階でも、『一般に「インフレには株式と不動産が強い」とされますが、財政破綻が引き起こすインフレではこの法則は通用しません。インフレで株価や地価が上昇するのは、賃金の上昇と経済成長がともなうからです。インフレ・高金利にもかかわらず失業や不況が続くスタグフレーションでは、株価も地下も下落することになります』というけれども、しかし、やはり株価は日本中同じ状況で進むのだけれども、地価は場所によって異なる変化を見せる。

 一般的な地価はマイナスになっても、例えば東京都心の地価はどうか。例えば日本全体に地価が下がっても、外国の富裕層や投資家が買うような東京の地価は下がりようもないのだ。とにかく「買い」が多い地区では取り敢えず地価のことを憂う必要はないということ。

 ということで、多少無理してでも、都心の(取り敢えずは山手線の内側の)土地・不動産を持っているのが、一番のリスクヘッジなのではないだろうか。

 とまあ、猿の浅知恵で考えたことではあります。

 それがどう出るかはわかりませんけれどもね。私はそう考えているというだけの話。

日本の国家破産に備える 資産防衛マニュアル』(橘玲著/ダイヤモンド社/2013年3月15日刊/4月1日電子版刊)Kindle版の方\975も安い。

前にはこんなことを言っていたんだがなあ。

2013年4月19日 (金)

伝える内容よりも伝え方が大事なのだ、という『伝え方が9割』

 ブログ、Twitter、FacebookなどのSNSをはじめ、今の時代ほど個人の情報発信力が必要な時代はない……なんて言っても、でもそれはSNSをやっている人の問題であって、皆がみんな情報発信するわけでもないからなあ。

20130417_1259『伝え方が9割』(佐々木圭一著/ダイヤモンド社/2013年2月28日刊)

 まず「ノー」を「イエス」に変える3つのステップがある。

ステップ1 自分の頭の中をそのままコトバにしない
ステップ2 相手の頭の中を想像する
ステップ3 相手のメリットと一致するお願いをつくる

 次に「イエス」に変える「7つの切り口」がある。

(1)「相手の好きなこと」
(2)「嫌いなこと回避}
(3)「選択の自由」
(4)「認められたい欲」
(5)「あなた限定」
(6)「チームワーク」
(7)「感謝」

 そして「強いコトバ」をつくる5つの技術としては。

(1)サプライズ法
  「!」をつけたり、「そうだ 京都、行こう。」というサプライズワードを入れる。

(2)ギャップ法
  「嫌いになりたいのに、あなたが好き」という具合に、伝えたいコトバの反対のワードを前半に入れる。

(3)赤裸裸法
  「くちびるが震えてくる。あなたが好き」といった具合に、自分のカラダの反応を赤裸裸に表したコトバを、伝えたいコトバの前に入れる。

(4)リピート法
  「今日は暑い、暑い。」のように伝えたいコトバを繰り返す。

(5)クライマックス法
  「これだけは覚えておいてほしいのですが~」といったように、いきなり「伝えたい話」せずに「クライマックスワード」から始める、

 といういろいろの技術を持って、「強い長文」をつくる技術がある。長文といっても論文ではないので、まさしくこのブログ(2000字くらい)を書く技術なのだ。

(1)先を読みたくなる「出だし」をつくる
(2)読後感をよくする「フィニッシュ」をつくる
(3)飛ばされない「タイトル」をつくる

 で、できた文章のサンプルが以下の通り。

『<タイトル>ボランティア!

<本文>そうだ、ボランティアしたい。と思った方へ。
当協会はボランティアの手で支えられています。非営利団体である当協会はヒトの活動が、そのまま組織の活動です。ご協力がダイレクトに動物愛護につながります。ボランティアには、誰でもなることができます。直接動物の世話をするというカタチのボランティアだけではなく、事務の仕事も大切な動物愛護運動です。具体的には、当協会のボランティア活動には以下の内容があります。……

<中略>

……まずは、ご登録いただき、ご要望のボランティアができる活動が整い次第、ご連絡させていただいております。なお、せっかくのご登録がご希望にお応えできない場合がありますので、ご了承ください。

<末尾>「そうだ、ボランティアしたい」の気持ちを、ご応募へ。』

 この原文は以下のとおり。

『<本文>ボランティアしたい方へ。当協会はボランティアの手で支えられています。非営利団体である当協会はヒトの活動が、そのまま組織の活動です。ご協力がダイレクトに動物愛護につながります。ボランティアには、誰でもなることができます。直接動物の世話をするというカタチのボランティアだけではなく、事務の仕事も大切な動物愛護運動です。具体的には、当協会のボランティア活動には以下の内容があります。……

<中略>

……まずは、ご登録いただき、ご要望のボランティアができる活動が整い次第、ご連絡させていただいております。なお、せっかくのご登録がご希望にお応えできない場合がありますので、ご了承ください。

<末尾>ご応募お待ちしております』 

 なるほどね。

 って、これでブログ終わりかよ。

『伝え方が9割』(佐々木圭一著/ダイヤモンド社/2013年2月28日刊)Kindle版の方が350円安い。

2013年4月18日 (木)

『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』って、本当に「死ぬのが怖い」んだろうか

 前野隆司氏はシステムデザイン・マネージメントの研究者で、ロボットに人間と同等の機能を持たせるようプログラミングする、いわゆる人工知能の研究者なんだけれども、なんでそんな人が「死ぬのが怖い」ことを研究したのだろう。

 この本、会社時代の元上司から薦められて読んだんだけれども、その人は元上司で当然私より年長なので、順番で行けば私より先に死ぬはずだ、なので「死ぬのが怖い」のだろうか、私なんかはこの本のタイトル自身の意味が分からない。

「死に至る過程」にはいろいろ苦しんだり、痛かったりしたりして、それこそ「死ぬほど嫌」だが、「死」そのものは「完璧な無」であるのであるから、別に怖くはない。

「死」そのものを「怖い」と感じる感性ってどんなもんだろうか。

2177421『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』(前野隆司著/講談社/2013年3月1日)

 前野氏の妻は『自分が死ぬことよりも、自分が死んだあとで子供たちが困り果てているのを想像する方が怖い』と言う。私なんかもそんな感じである。

『この話の教訓は、「人間には、どうやら自分の死が怖い人と、怖くない人がいるらしい」ということだ。なんと、妻は、死んだあとは何もなくなってしまうという、このなんというか絶対的で世界のすべてを支配するかのような巨大で抗しようもない哲学的大問題を、別に問題と感じていないらしい』

 というけれど、大半の人はそんなもんだろう。あるいは「死後の世界がある」と宗教的に考える人たちは、その死後の世界がどんなものかの情報がない以上、「死ぬのが怖い」と考えるのか。「死ぬのが怖い」とはどういうことなのか。

『過去のことを考える力を身に付け、次に未来のついても考える力を身に付けた人類は、そのおまけとして、自分の死について考える力を、期せずして身に付けてしまった』『人間は、過去と未来について考える力を持った。これに付随して、皮肉にも、進化的に特に有効ではないにもかかわらず、よりによって、死について考える力を期せずして持ってしまった』『死について考える力とともに、ものごとを恐れる情動の力も身に付けた。だから、死ぬのが怖くなってしまった』

 という前野氏の説には納得。

 しかし、「死」の問題を克服する7つのルートなんてことを考えると、そんなもんどうでもいいんじゃないという気分にもなる。

 前野氏の言う7つのルートとは;

ルート1 心は幻想だと理解する道(脳科学の道)
ルート2 すぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道(時間的俯瞰思考の道)
ルート3 自分の小ささを客観視する道(客観的スケール思考の道)
ルート4 主観時間は幻想だと理解する道(主観的スケール思考の道)
ルート5 自己とは定義の結果だと理解する道(自他非分離の道)
ルート6 幸福学からのアプローチ(幸福学の道)
ルート7 リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ(思想の道)

 である。

 まあ、いろいろな方法があるもんだとも考えられるが、しかし、それだけ「死ぬのが怖い」人が多いということなんだろうか。

 私自身は別に仏教徒ではないが、私の家の菩提寺が禅宗だということもあって、禅について考えることは多い。

 で、神のいない仏教は実は宗教ではなくて一種の哲学・思想なのである。で、仏教哲学とはなにか。

『それは、徹底的に論理的に考え抜いた結果として至った、「世界は空だ」という考え方だ。仏教用語でいうと、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静』

『仏教は哲学だ。その中心は、生きていることは無であり幻想だと体で理解することだ。その境地が悟りだ。悟りは難解で到達困難な境地ではない。リラクゼーションの極限だと言ってもいいし、念仏に集中することによってかいま見ることのできる感じと言ってもいい。それは至福の境地とも同じものだ。達人の境地とも』

 というところまでは理解できる。『近代西洋型の論理では悟りを理解できないが、矛盾超越型、二項対立超越型の仏教哲学の論理を用いれば、悟りの境地は説明できる』というところまではね。

 しかし、本書の結論として;

『所詮、死後の世界など幻想だ。死も幻想だ。過去と未来も幻想であり、人間には現在しかない。そして、現在の意識のクオリアも、幻想だ。最初から、僕たちは生きてなどいない。人間とは、徹底的に、二重、三重に、幻想なのだ』

 と言ってしまうと、ますますそれが理解できない人が増えてしまうような気がする。

 勿論、言っていることは当たり前なんだけれども、それはあまりにも仏教的な死生観である。日本人以外はこんな死生観は理解できないのではないだろうか。

 あるいは日本人であっても、仏教的な死生観に興味のない人には理解できない方法論なのではある。

 う~む、難しい命題ではあるのだなあ、妙に納得。

『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』(前野隆司著/講談社/2013年3月1日)Kindle版もあり。315円安い。

2013年4月17日 (水)

日光街道古河宿を往く・その街づくりの不思議

 ふと思いつくことがあって、JR宇都宮線(東北線)に乗って古河まで行ってきた。

 古河は日光街道の宿場町で江戸・日本橋から数えて9番目の宿場。将軍家による日光社参では、古河城が将軍の宿城とされており、岩槻城・宇都宮城と並び日光街道における主要な宿場の一つであったという。

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 古河駅からの道と、旧日光街道(国道4号線)、現在の県道261号「野木・古河線」との交差点脇には「高札場跡」の碑が立っている。

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 碑の横にある古河市教育委員会の解説文には『日光街道の宿場町としての古河宿の中心は、もと二丁目とよんだこの辺であった。文化四年(1807)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、斜め向かいに本陣と、問屋のうちの一軒があり、またその向かい側には脇本陣が二軒並んで描かれている。
 高札場は、親を大切にとか、商いは正直にとか、キリシタンは禁止だとかいった幕府の法令や犯人の罪状などを掲げたところである。
 本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦のとき大将の陣どるところに由来して、大名・旗本をはじめ幕府関係の高級役人・公卿・僧侶などの宿泊・休憩所で、古河の本陣は百十七・五坪(約四百平方メートル)もあった。どこの宿でも最高の格式を誇っていたが、経営は大変であったといい、古河の脇本陣はのちに他家に移っている。
 問屋は、人足二十五人、馬二十五疋を常備し、不足の場合は近村の応援を得たり人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の運搬一切をとりしきった宿場役人のことで、他にも三~四軒あって、交代で事にあたっていた。
 街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目、(曲の手二丁目)、横町(野木町)と続き、道幅は五間四尺(約十メートル)ほど、延長十七町五十五間(約千八百五十メートル)余あり、旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女(遊女の一種)がことのほか多い町だったという』とある。

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 つまりここに書かれている「曲の手(かねのて)二丁目」というところで、この宿場は県道261号線を離れて、鍵の手の形に左折し右折するのである。上の地図の黒線の通りである。

 一番上の写真が旧日光街道で、下の写真がその日光街道から右折し左折する、クランクした道である。現在は「よこまち柳通り」と名付けられた脇道なのであるが、しっかりここも古河宿の一部分であったことは確かである。

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 なんか、そんな古い町を思わせる建物がいくつもある。

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 気になるのは、何故、街道であるにも関わらずそんな鍵型のクランクができているのか、ということなのだ。普通の宿場町の道は基本的には一本道なのだ。

 古河は宿場町であると同時に古河城の城下町でもある。大きな藩ではなかったが、譜代大名が代々治めた、ある意味では重要な古河藩ではあった。

 金沢なんかもそうであるが、城下町によくあるクランク状の道は、敵の侵入を防ぐための工夫なのだそうである。

 つまり宿場町かもしれないが、同時に城下町でもあった古河ならではの道の作り方であったということなのだろうか。

Fujifilm X10 @Koga (c)tsunoken

2013年4月16日 (火)

Fitbit weekly stats from Apr.8 to Apr.14

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 4月13・14日は友人と温泉旅行に行って、ほとんど車に乗っていたのであまり歩数は多くない。

 膝の調子はまあまあだが、完全ではない感じ。

『日本が「世界一貧しい」国である件について』は、あまりにも当たり前で、何にも言えない

 前著『ノマドと社畜』から2ヵ月半ではさすがに新しい視点というものはなくて、ちょっと残念ではあるが、それも当たり前か。

 というか『日本が世界一「貧しい国」』であるなんて、とっくに自覚してるもんな。

061451『日本が世界一「貧しい国」である件について』(谷本真由美著/祥伝社/2013年3月27日刊)

 本書の構成は以下の目次の通り;

1章 ニッポンはなぜ貧しくなったのか
2章 ニッポン人の働き方はこんなにおかしい
3章 グローバル人材ってなんだ?
4章 文明未開の国――本当に「貧困」な日本社会
5章 ドメ思考では取り残される! 世界と日本のこれまでとこれから
6章 2020年を生き抜くために

 ということなんだけれども、そんなことは既に日本人なら知っていることなんじゃないかな。

 問題は「日本は今や世界の最貧国になっているにもかかわらず、いまだに日本を世界の優等国だと思っている日本人が多い」っていうことなのではないのだろうか。

 つまり、多くの日本人は日本が今でも第二次世界大戦に敗れてそれこそ「世界の最貧国」になったところから「奇跡の大復活」を実現して、世界第二位のGDPを誇る「先進国」になったという幻想から逃れていないことが問題なのだ。まさしく「日本は社会主義国ではないか」と言われるほどの「護送軍団方式」でもって、第二次世界大戦後の崩壊から立ち直って世界第二位のGDPを誇る国になったわけであるが、その方式でもっていまだに世界に対応できると考えているところが問題なのであって、心ある人は皆そんな過去の成功例は最早通用しないことは分かっているのである。

 つまり、これからの日本及び日本人は、これまでの成功方式とは違うやり方でなければ成功しないということを。

 要は、本書はそんな先のことを考えている日本人にではなく、先のことを「考えようとしない日本人」に向けて書いているのだろう。

 しかし、そんな連中は結局、先のことを考えない、というか今の自分のことも考えない、とにかく何にも考えない連中なのだから、そんな人間のことを考えても始まらない。そんな連中は結局「下層ノマド」になっていくんだろうな。

『「仕事は生活の手段にすぎない」「仕事は自分と家族のため」と考える外国の人からすると、「社畜」と呼ばれ、毎日毎日無償残業が当たり前、身も心も会社に捧げてしまい、日々上司やお客さんの酷い仕打ちに耐えている日本のサラリーマンは全く理解できない存在となります』と谷本氏は書くけれども、実はそんな本当の「社畜」サラリーマンというものはそんなに多くはなくて、大半のサラリーマンは家庭を第一に考えて仕事は「生活のため」のものだと考えているのである。

 例えば、人事異動に伴う「単身赴任」という問題がある。これを会社のために自分の生活を犠牲にすると考えるのか、あるいは会社がどうあれ自分の家族の生活を第一に考えるのか、という二つの立場から見ると全く別のフェーズが見えてくる。

 そう、「単身赴任」という事柄だけでも、見方によってはまったく違う面が見えてくるのである。それを単純化してしまう見方をするのは、いかにもアングロサクソン的なものの見え方をしてしまう谷本氏の、まさしくアングロサクソン的なものごとを「単純にしか捉えられない」バカ思考でしかない。

 まさしくアングロサクソン民族はものごとを一面的な方向でしかとらえることのできないバカな民族なんだけれども、それは民族の生成上のことでしようがない面があるのだ。つまり、アングロサクソン民族は宗教的な訓練というか、大きな宗教としてはキリスト教しか相手にしてこなかったという問題がある。その辺は、日本神道と仏教のはざまでいろいろな価値観があるというなかで育ってきた日本民族というものの価値観の作られ方の違いがあるというものなのである。

 谷本氏が日本の将来に対していろいろ心配するのは(実は何の心配もしていないんだろうけれども)勝手だが、そのために何かをしているわけではなく、「私は心配しているんですよ」と書籍で言っているだけでは、物事は何も変わらない、っていうか言うだけ邪魔って感じですね。

 悪いけど、前著と比べて圧倒的にレベル・ダウンしている本書にたいしてあまり言うことはない。

 せいぜい言えるのは、谷本氏に対して「もうちょっと前向きの提案をしたら」ということだけである。

 って言うか、そんな谷本氏の吐く毒がエンターテインメントなのか。ってことに読み終わってから気がついた私はバカなのか、そうなのか。

 じゃあ、これからは谷本氏が毒を吐きまくっているというTwitterを読んでみようかしら。

『日本が世界一「貧しい国」である件について』(谷本真由美著/祥伝社/2013年3月27日刊)Kindle版もあり800円位安い

2013年4月15日 (月)

『ノマド化する時代』と国民国家と国内企業の終焉

 こうして「国民国家」は終焉を迎えるのだな。

 その時の私たちの生き方はどうなるのか?

2013_04_10_0119_『ノマド化する時代 グローバル化、ボーダレス化、フラット化の世界をいかにサバイブするか?』(大石哲之(@tyk07)著/ディスカバー・トゥエンティワン/2013年3月25日刊)

 前にも『企業が「帝国化」する』でも書いたけど 、要は企業が自らの企業を生き延びさせようと思えば、グローバル化せざるを得ないし、グローバル化してしまえば「国境」ってなんだ? こんな簡単に超えてしまえるものならば、どんどん超えてしまおうよ、となって結局「国境」はなくなってしまう(しまっている?)のである。

 更にそんな感じでグローバル化した企業自体が最早「会社の中心」が無くなってしまい、ある機能はどこそこの国、別の機能はどこそこの国、という具合に、「その会社がどこの国の会社か分からなくなってきている」というのだ。Amazonは世界企業だし、アメリカで興された企業であるということはみんな知っているが、しかし、そのAmazonが世界中80か国にサーバーを置いて、なおかつ運営しているのはアメリカのシリコンバレーだが、実は本社がケイマン諸島にあるということは、意外と知られていない。

 所詮、「近代国民国家構想」なんてものは19世紀につくられた「共同幻想」にすぎないわけで、我々が属している「国」というものも、結局は「国民国家構想」の最初に設定された「同民族」というこれまた幻想によって作られた枠組みでしかないのだ。

 例えば、わが日本において、日本民族ってなんなんだ。そんな日本民族の中に「エタ・非人」なんかがいたり、「アイヌ人」がいたりするのは何故だ? それは、結局民族の血の浄化を阻む問題として、結局は解決のつかない問題としてずっと残るだけなのだ。

 ところが、企業はそんな問題は簡単に乗り越えてしまう。そう、単なる経済問題としてだけが彼らの(そして私たちの)テーマなのだ。

 で、21世紀の組織や活動は、地域、特定の場所から離れて、中心がなくなり、世界中にネットワークされて、離散する。

 つまり;

①近代国家ではなく、グローバル企業・個人が主役になる新しい中世の到来
②中心がなくなり、世界中に離散する組織や個人の形態』

 という、世界の中心もなく、国家という枠組みもなく、取り敢えずは浮沈する企業というのが、もしかすると国家以上の存在になっていくのかもしれない。

 そんな時代にどうやって生きていけばいいのだろう。ということを考えている本が本書である。そこに書いてあることが実現するかどうかは保証しませんがね。

 基本的なことを言ってしまえば;

・最初のノマドが、二一世紀の新しい支配層〈ハイパーノマド〉。
・二つ目が、定住民として国の枠組みの中に住みながら、ネットやガジェットを使って世界の境界を超える〈バーチャルノマド〉。
・最後が、仕事を求め世界中に出稼ぎに行かねば食っていけない〈下層ノマド〉だ。』

 ということだ。

 問題は、皆さん〈ハイパーノマド〉か、それは無理としてもせめて〈バーチャルノマド〉位になりましょうよ。ということ、つまり「仕組みを考える人」か「仕組みを作る人」になろうというんだけれども、その場合のスキルって何なのよ、といえば基本的には「英語力」なんだよなあ。そりゃそうだ。何せ「一億人」という巨大市場を自らの国の中に作ってしまったわが日本の場合、「日本語しか話せない」人でも、基本的にはビジネスができてしまうという「とても良い時代」が長く続きすぎたのだった。

 それは実は日本とアメリカだけの特殊例であって、他の例えば韓国なんかは国内需要は5000万人位しかいないのだから、それはどこかの国に輸出しないと企業は成り立たない。

 その辺は、ドイツだって、フランスだって、北欧諸国だって同じことである。

 つまり、近い将来、国というものはなくなってもいいということになるだろう。

 まあ、取り敢えず「英語(グローバル・イングリッシュ)が共通語となる世界である。

 そして、次には「仕組みを考えるアビリティ&クアパシティ」と「仕組みを作るスキル」かな。

 日中の間で問題となっている、尖閣列島の問題だって、今は日本国・中華人民共和国という国があるから、その地域がどちらの国のものなのかでもめているのだけれども、それが「国」という概念が無くなってしまえば、そこはお互いの企業がそれぞれ出資額に応じて、応分の青果物を得るという契約を(平和裏に)行って、海底開発ができるんじゃないか? と思うんだよなあ。企業の本音だけで、「国としてのメンツ」が、そこにはないからね。

 まあ、取り敢えずは「企業自身がノマド化する」社会である以上、そこに対応できる状況に自分ももっていかなければならないだろうし、それは自分自身がノマドになる覚悟が必要だということなのだ。

 ただ、考えてみれば、基本的には第二次大戦後の日本が「高度経済成長」を目的に「雇用安定」という「幻想」を作り出したんであって、それがほぼ完成された21世紀には別の雇用形態とか、別の企業形態とかあってもおかしくないわけである。

 ということは、割りと単純で、要は「高度成長経済モデル」で今でも経営してる会社からは早いところ逃れるべきだろうし、「高度成長経済モデル」を捨ててノマド化した企業をこれからは目指していけばいいのであるかとは思うが、そんな企業は社員を当然「将棋の駒」としてしか考えていないようなのだから、当面は、そんな企業の社員となって人脈(社外の)を作った段階でその会社を辞める、っていう路線だろうな。

 んでもって、ノマド一丁上がりだな。

 へい、毎度。

『ノマド化する時代 グローバル化、ボーダレス化、フラット化の世界をいかにサバイブするか?』(大石哲之(@tyk07)著/ディスカバー・トゥエンティワン/2013年3月25日刊)(紙版とKindle版が何故か同じ価格設定というディスカバー・トゥエンティワンの考え方がよくわからん)

2013年4月14日 (日)

『式の前日』はちょっと不思議なコミックス

 久々のコミックスである。

 しかし、この作家、デビュー作にして、2013年「このマンガがすごい!」第2位って、すごい!

 で、ネタバレ、ネタバレ。

2013_04_10_0117『式の前日』(穂積著/フラワーコミックスα/2012年9月15日刊)

 収録作は6作。

「式の前日」
「あずさ2号で再会」
「モノクロ兄弟」
「夢見るかかし」
「10月の箱庭」
「それから」

 すべて読み切り。

 すべてラストにどんでん返しあり。

 すべて登場人物はふたり。ただし、最後の話は人間一人と猫一匹だけどね。

 二人が結婚するカップルだと思っていたら、実は姉と弟だったり、離別した父親だと思っていたら死別だったり、妹の結婚を知らせる手紙を送ったのがかかしだったり、突如飛び込んできた親戚の女の子が実はカラスの生まれ変わりの失踪した女の子だったり、急を告げる留守番電話だと思っていたら実は赤ちゃんの出産を伝える電話だったり……。だとすると、「モノクロ兄弟」の由紀子は実は兄弟の想念の世界の存在なんじゃないかとも思えてくるのだった。

 おもしろいのは「それから」という夏目漱石の小説と同じタイトルの作品の主人公の「吾輩が猫である」ことか。

 いずれにしても、ごくありふれた日常を描いたのかと思わせておいて、じつはかなり非日常的なシチュエーションを描いているという、逆転の面白さがある。

 なんども読み返したくなる作品群ではある。

『式の前日』(穂積著/フラワーコミックスα/2012年9月15日刊)

2013年4月13日 (土)

追悼・若松孝次『千年の愉楽』最終日最終回

『千年の愉楽』の公式サイトを見てたら、「えっ、今日までじゃないかよ」ってなもんで、あわてて観に行った。これじゃあ批評が「レヴュー(review)」じゃなくなっちゃう。

 まあいいか。プロじゃないしな。

20130412_1714gif『千年の愉楽』(監督:若松孝二/原作:中上健次/脚本:井出真理)

 主演・寺島しのぶの今回の役は「オリュウのオバ」と呼ばれる産婆さんである。母親よりも誰よりも先に生まれてきた子を抱く産婆という立場。それはいわば母親とも通じる子への立場かもしれない。

 舞台は三重県のはずれ、海しか他の世界と繋がっていない田舎の町にある「路地」である。「路地」とは何か。言わばそれは「異界」あるいは「被差別部落」とも言う。そんな町に生まれ、そんな町に育った男たちの話。それもすべてが「オリュウのオバ」が取り上げた男たち。最も高貴で穢れた男たち、中本の血をひく男たちの話である。

 元々は6編の短編小説。それを一本のストーリーにまとめ上げた井出真理の脚本家としての力もさることながら、そんな井出真理を脚本家として採用した若松孝二の慧眼もさすがである。

「オリュウのオバ」の亭主は礼如という僧侶である。人の生き死にの最初と最後を看取る夫婦という設定も物凄いが、ある種、産婆という仕事(?)もまるで巫女のようで、自らが取り上げた子はずっと産婆にとっても子である。が、そんな子とも媾合ってしまうのも巫女ならばというところなのか。母親であれば自らの子とは媾合わないだろう、しかし、産婆という存在は母親であると同時に女でもある。

 すごいなあ、この設定は。

 映画を見ていて、今回は「産婆」という役柄なんでセックスシーンはないのかなと思っていたら、ちゃんと最後の達男との裏山でのセックスシーンがあったなんて。

 被差別部落であるが故の、高貴にして穢れた男たち。で、この男たちは他所の世界を知らない男たちなのだ。つまり、「路地」の世界しか知らない男たち。それが、結局「オリュウのオバ」に取り上げられて、どこかの女と暮らすのだが、それでいていろいろな女に手を付けて、最後は「オリュウのオバ」と媾合あって暮らすのだ。

 被差別部落というものは差別する側がいて初めて成立する。では、差別する側というものはこの映画に登場するのか? というと、実はまったく登場しない。

 だから三好が泥棒に入っても、自分の女の亭主を殺しても、別に誰もそれを罰しない。世界の掟とか律というものが存在しない世界。それが『千年の愉楽』の世界なのだ。「オリュウのオバ」も罰しない。むしろ、正々堂々と生きることを選ばせるのだ。

 つまりこれはもしかして「神話」の世界なのか。

 多くの神々が登場してきて、多くのラブアフェアがあって、多くの殺し合いがあって、それでいて皆ごく普通に生きている、まさに神話の世界がここにある。

 原作者・中上健次は映画が撮られた三重県のもっと先、和歌山県の被差別部落出身であることを自ら申し出ている。中上健次と若松孝二は以前新宿の飲み屋で、中上健次が「オレはエタだ」と言って相手を脅かしていたところを見て、「オレは宮城のドン百姓だ」と言って喧嘩をしたそうだが、まさしくエタと縄文人の末裔ならではの邂逅であろう。同じく、朝廷から差別をされた人々の出会いなのである。

 最後のオリュウの言葉『路地のどこかで女が孕み、女の身を裂きながら、やがてこの世に子が生まれ来る。たとえ何が起ころうと、どんなことが待ちうけようと、命が湧いて溢れるように、子は、この世に生まれ来る』には、さすがに女性シナリオライターが作った台詞であると思わせる、重みを持った台詞である。

 なんか、ズッシリという重みを持った映画ではあるなあ。

公式サイトはコチラ

『千年の愉楽』 (中上健次著/河出文庫/1992年10月刊)

2013年4月12日 (金)

『女子校力』ってなんだ? って読んで納得

『かつては「世間知らず」こそが女子校出身者の「美徳」でもあった。温室育ちで世間知らずの純粋な女性はかわいらしい。男性はそういった女性を妻にして家庭にいてもらうことを支えに、彼女や妻や子どもを守るために懸命に働いた』

 なあ~んて時代はもうとっくに過ぎ去っているのに、いまだに『女子校力』って?

Dscf7404『女子校力』(杉浦由美子著/PHP新書/2013年4月1日刊)

 いまやあるのが当たり前だと思っていた「スクールカースト」なのだが、女子校にはそれがないという。共学校と女子校の違いは、つまり「世間」があるのかないのかという違いがあって、それがスクールカーストがあるのかないのかという違いになるのだという。

『女子校は同じ偏差値で同じ性、そして一つの校風に集まる生徒は同じような価値観、家庭環境であるので、「似たものどうし」が集まって、同級生は他人というよりも姉妹のような存在になる。ガリ勉の姉、オタクの次女、ギャルっぽい三女。さまざまなタイプの女の子が集まっても、あくまでも「姉妹」なのである。たまにはケンカもするが、家族なのでお互いに気を許し、腹を見せ合っている』

 なるほど、私立男子中高一貫校はオタクの巣窟と言われているが、それは女子校も同じなのか。確かに同質で異性の目を気にしなくてもいい環境で6年間も過ごすと、それはオタクでも生き良い世界なのかもしれない。この辺は、大学こそ私立だが、それ以外はすべて公立の共学校に通った私なんかには想像できない世界ではある。公立・共学校はとにかく闘争(「競争」ではない、いろいろな意味でのケンカである)の毎日だったし、異性という世間の目に晒される毎日だったもんなあ。

 ところが女子校のような環境にいると、他人の目を気にせず自由に行動できるが、逆に「空気を読めない子」になっていくということもあるようだ。

『女子校の目的は「自立した社会人」であるが、彼女たちは「自分の価値観で行動しなさい」「目的をもちなさい」と「自主自律」を教育された結果、「世間知らず」になり、空気が読めない人間に成長し、社会で生きづらくなる』

 同質社会であり、同調社会である日本においてはこの「空気を読めない」というのは、これまではかなり不利な要素であった。つまり、就活でよく言われる「コミュニケーション能力」とはまさにこの「空気を読む能力」であると考えられている。

 ところが、この「コミュニケーション能力」と「空気を読む能力」とは、本来何の関係もないものなのだ。本来の「コミュニケーション能力」とは「情報交換をスムーズに行う能力」のことであり、それを能力要素に分けてみれば『アクション』としての「主体性」「働きかけ力」「実行力」であり、『シンキング』としての「課題発見力」「計画力」「創造力」であり、『チームワーク』としての「発信力」「傾聴力」「柔軟性」「状況把握力」「規律性」「ストレスコントロール力」であるという。

 つまり「空気を読む能力」は、このチームワークの中のごく一部分の能力でしかない。

 もはや「みんなで渡れば怖くない」時代は過ぎてしまって、みんながみんな自分の生き残りをかけて戦う時代になってしまっている。企業は他の企業を蹴落としてでも生き残ろうとしているし、社員は社員で自らが他を蹴落としてでも生存競争で生き残らないとリストラにあう時代なのである。そんな時代においては、むしろ「空気を読まない」で自らのスキルアップに励んで、そんな自分のスキルをプレゼンテーションできないと生き残りができないのである。

 女性の社会進出という話題でしばしば取り上げられる「ワーク・ライフ・バランス」というテーマについても、結局それは「企業が優秀な社員へのご褒美として、『あなたは優秀だから生活と仕事のバランスをとれるように協力してあげるよ』と伝えるべきもの」だという。つまり能力があれば企業はその人の主張を認め、能力がない人にはそれなりの扱いしかしない。

『生き残りをかけた乱世の時代なのは、ほかの業種も同じである。右肩上がりに成長しているIT業界でも変化が激しいので、各企業は常に知恵を絞って切磋琢磨しないと淘汰されていく。
 だが、そのような競争が激しい時代は、女性にとってはチャンスが多いともいえよう。
 経済全体が右肩上がりの時代は、キャリアは学歴や性別で決まったが、いままでと同じことをやっていても利益が出なくなると、実力で評価せざるをえない。
 能力を高めていけば、いくらでもチャンスがある時代になるのだ』

『いま、ぼくは『自分力』が大切だと考えています。『自分力』というのは”他人なんてどうでもいいじゃん。自分は自分。やりたいことをやる”という力です。他人の目を気にしないで、自分の目標に向かっていける力が養える。世間がない女子校のメリットとしては『自分力』が養えることでしょう』

 なるほどなあ。だからいま再び『女子校力』なのか。

『女子校力』(杉浦由美子著/PHP新書/2013年4月1日刊)

2013年4月11日 (木)

土浦市に超弩級の古書店ができたっ!

 茨城県の土浦市に超広~い古書店ができた、という話なので早速行ってみた。

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 要は、土浦駅前のウララというビルのキーテナントとして入っていたイトーヨーカドーが2月27日に撤退してしまった。で、そこにテナント出店していた「れんが堂書店」という古本屋さんも閉店しなければならなくなってしまい、代替の店を探していたところ、駅前のパチンコ・パチスロ店の空き店舗があったという訳なのだった。

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 パティオという名前のパチンコ・パチスロ店だったのだろうか、あるいはK's PARKなのだろうか、ビルの名前がパティオなのかはわからないが、取り敢えず駅の前を北に1分ほど行くとそのビルはある。

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 で、ここが「つちうら古書倶楽部」の入口。気にしていないと思わず通り過ぎてしまう感じの建物である。だって、パチンコ・パチスロ店の跡で、上がインターネットカフェやらカラオケやらなんやら、どう見ても風俗関係のビルかなと思わせるビルなのである。外装もパチンコ・パチスロ店のままで、近くによらないとここが古本屋さんだというのはわからない。

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 でも、中に入ると超ビックリ。とにかくこんな感じで奥の奥まで古書店なのである。

 ただし、現在は「つちうら古書倶楽部 大古本まつり」という形で多くの古本屋さんがイベント出店をしている状態なので、それぞれの古本屋さんがそれぞれに場所を取っていて、例えば写真集を探したくても、それぞれの古書店の場所でそれぞれに探さなければならない状況なので、ちょっと面倒。

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 ということで、今日の戦利品はこの2冊。「野島康三とその周辺」と「ジョージ・イーストマン・ハウス・コレクション」。「野島」は1991年の渋谷区松濤美術館の、「イーストマン」は1995年の東京都写真美術館のそれぞれ同名の写真展のカタログである。

 もうちょっと、個人の写真家の写真集のようなものが手に入らないかなと考えたのだが、なかなかそうはいかないのが古書店めぐりなのは、神田の古書店めぐりでも重々承知していることなのだけれども、まあ、取り敢えずは多少なりとも戦利品があっただけで了とせねばならないだろう。

 今度、れんが堂書店だけになったら、もうちょっと探しやすくなるだろうから、また来ようかな。

 だって、神田の古書店だってこんなに大きいところはない。まあ、せいぜい40~50坪から、2フロアあるところだって100坪もないもんな。

 それが250坪ですぜ。

 これは期待しないわけにはいかないでしょう。特に、写真集に関しては……。

Fujifilm X10 @Tsuchiura (c)tsunoken

2013年4月10日 (水)

Fitbit weekly stats from Apr.1 to Apr.7

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 3月23日と27日の寒い日、ほぼ一日中歩かずに三脚でビデオ撮影をしていた。どうもそのあたりから膝がやたら痛くなって歩くのももどかしい状態になってしまった。

 まあ、膝関節のクッションの役目を果たす膝軟骨や半月板が長期間に少しずつすり減り変形することで起こる「変形性膝関節症」であることはよくわかる。加齢と肥満、運動不足が原因だということもよくわかる。夕食も減らしているつもりなのだが、やっぱり食べ過ぎ(飲みすぎ?)なのかなあ、あまり体重は減らない。

 ということで「コンドロイチン硫酸エステルナトリウム錠」を飲み始めて、このころからどうやら少しずつ歩き始めたというようなわけである。

 もうこうなったら、もうちょっと膝の痛みが無くなったら自転車復活か? 昨年12月には既にパーツは買ってあるしな。

 目標は今年の年末までにマイナス10kgだ……なんてことを書いてもみなさん忘れてください。あまり実現しなさそうな目標だなあ。

 トホホ……。

『マンションは10年で買い替えなさい』は、当たり前のことなんだけれども、意外とねえ、ということが書いてある

 なるほど、「いいマンションを買って、10年ごとに買い替えて、資産価値を高める」って話ね。ふむふむ。

Dscf7403『マンションは10年で買い替えなさい 人口減少時代の新・住宅すごろく』(沖有人著/朝日新書/2012年12月30日刊)

「新・住宅すごろく」とは何か? つまり、かつて言われた「①賃貸アパート→②賃貸マンション→③分譲マンション→④郊外庭付き一戸建て」という住み替えサイクルが、経済の低成長化と人口減少時代になって「昔のようにはうまくいかない」ようになってきたというのだ。そんな時代にも、しかし、分譲マンションを順次買い替えることで自己資産を増やすことができるという新しい住宅すごろくで勝ち組になれる方法がある、ということなのだ。

 まずは「分譲マンション8つの真実」と「自宅マンションを資産にする7つの法則」というものがあるそうだ。

「分譲マンション8つの真実」は;
真実1 いいマンションは資産となる
真実2 マンションは1に立地、2に立地
真実3 画一的な商品だから売りやすい
真実4 自分の力で変えられないことが多い
真実5 災害に強い
真実6 余った住宅は賃貸にまわる
真実7 建物は長寿命化し、朽ち果てていく
真実8 大規模修繕はひと騒動になる

「自宅マンションを資産にする7つの法則」は;
法則1 買ってはいけない時期がある
法則2 単価の高いエリアが底堅い
法則3 駅アクセスはいいに限る
法則4 大規模マンションは得をする
法則5 タワーはランドマーク性に価値がある
法則6 面積は小さいほど損をする
法則7 適正価格以下で購入する

 というもの。

 まあ、言われてみれば、その通りだよなあ、というところなのだが実際に物件を目の前にして、自分のフトコロと相談すると、結構この真実や法則を忘れてしまうものなのだなあ。

 しかし、沖氏は「都心の駅近のできれば大規模マンションを、金額的には多少無理してでも」買うべきだし、金額的に無理した分はローンの支払いをできるだけ繰り上げ返済して完済してしまえば、あとは自己資産になるわけであるから、売ることも、人に貸すことも、管理費と修繕積立金だけを払ってそのまま住み続けることができる、ということなのだ。

 更に都心の物件であれば地価も上がることはあっても、下がることはないわけで、マンションの(中古)価格もそれほど下がらないで済む、ということなのだ。

 これをフトコロと相談して郊外の値段の安いマンションを購入すると、地価は下がるばかりだし、マンションの(中古)価格もかなり下がってしまい、当初の価格を支払うために組んだローンも完済した瞬間、価値のないマンションになって住み替えすらもできなくなってしまう。

『分譲マンションは資産価値より使用価値の色彩が強くなり、利便性が重視されるに至る。通勤の利便性だけでなく、買い物の利便性やアクセスのよさである交通利便性(電車・タクシー・車など)が評価の対象となる。
 所業施設が集積する交通の要所はそもそも限定的なことに加え、駅に近い好立地でまとまった規模の敷地は稀少なものになる。いいマンション用地は少ないのだ。
 少ないからこそ、長期的に価値が落ちにくくなる。マンションは1に立地、2に立地ということになる。
 立地が最重要視されることは、購入する側にとって最大の肝になることはまぎれもない事実である。そう考えると、マンションの選び方は新築であるか中古であるかよりも立地が最も重要になる。
 エリアを決めて物件を探すなら、新築を待っていても希望の場所と条件で出てくる保証はどこにもない。エリア内の販売中物件を比較して選ぶ方が得策である場合も多い』

 ということなのだ。

 そしてそんな優良物件を持っていれば、最終的にそれは資産となって残るわけで、そうすれば売ったり、貸したりすれば、言わば「自分年金」となって、低金利、長寿命化の社会でも、安定した老後をすごすことができるということなのだ。

 これが新しい「住宅すごろく」である。

 沖氏は『「経験と勘と度胸」と言われる不動産業界に「ITと統計解析とマーケティング」を持ち込んで、不動産のリスクを計量化する』ことを提案する。

 とは言うものの、決して安い買い物ではない不動産である。最後は「経験と勘と度胸」に頼らなければならなくなってしまう。

 しかし、先の「8つの真実」と「7つの法則」をアタマに入れて、とにかく都心の好立地を探していけば、かなりの高率で「資産長者」になれるということなのだろう。

 今の時代、不動産を持っていても意味はない、家は賃貸で十分という考え方もあるが、やはり私は沖氏の言うように、不動産を持つことに意味があると考えたい。

『マンションは10年で買い替えなさい 人口減少時代の新・住宅すごろく』(沖有人著/朝日新書/2012年12月30日刊)

2013年4月 9日 (火)

『テレビが政治をダメにした』のではない、テレビに出たがる政治家が政治をダメにしたのである

『テレビが政治をダメにした』のではない、「テレビを自分のメイン・メディアであるというような劣化した政治家が政治をダメにした」のである。

Dscf7401『テレビが政治をダメにした』(鈴木寛著/双葉新書/2013年4月7日刊)

『視聴率至上主義――テレビメディアの問題としてこれまでも指摘されてきたことです。視聴率が取れれば、高い広告収入を得られる。視聴率を上げるためにはヤラセ、煽りも辞さない……テレビメディアの問題の多くは「視聴率をいかに上げるかがすべて」という、視聴率至上主義が生み出したものです』

 というけれども、そんなものはテレビが民間放送がベースで運営されている以上は当たり前のことである。新聞も出版社もみんな民間企業である。そうした民間企業が運営しているメディアである以上は、運営が売り上げ至上主義・視聴率至上主義になるのは当然であり、売れ行きをまず最初に考えて企画を作るのは当然であろう。

 それを嘆いても始まらない。それを如何に自らの主張を伝えるメディアとして関係を作り上げるのかということが重要なのだ。

 それを、自らの主張することがそのまま伝えてくれるなら「いいメディア」であって、そうでなければ「ダメなメディア」であるという言い方は、それこそメディアとの付き合い方を知らない田舎者的発想でしかないのだ。

 更に違和感のある物言いとしては『たとえば、私が重要なテーマに関して政策レベルでどのように対応しているかといったことを話しているのに、平気でカットしてしまいます。私はそのテーマを多くの視聴者に伝えたいがために、スタジオに行って議論をし、多くの話をしましたが、編集でカットされてしまいました。テレビではまったく意見をいっていないように放送されてしまうのです』という言い方がある。

 しかし、そんなことは当たり前であり、撮影した映像の著作権はテレビ側にあるのであって、鈴木氏の側にはないのだ。著作権を持つものがそれをどのように使おうが自由である。著作権を持たないものが何を言おうが、それは著作権を持つものに伝わるものではない。それが嫌ならテレビに出なければいいのである。

 テレビに出演しなくても立派な政治をおこなっている政治家はたくさんいる。テレビに出るということは、他のタレントといっしょくたにされてテレビ制作者の都合のよいように使われるということを了承したものと見做されるわけである。それを承知していながら、いざ自分の立場が思った通りにならない時だけ文句を言うというのは、あまりにもメディアリテラシーが低すぎるのではないか。

 アメリカのジャーナリスト、ウォルター・リップマンの言葉を引用して『ジャーナリズムは、ステレオタイプを是正するのが本来の役割なのに、商業メディアはそのステレオタイプをむしろ利用してしまう。新聞は発行部数を増やそうとする。テレビは視聴率を上げようとする。そうすると、事実とは違うスタレオタイプがどんどん商業メディアによってまき散らされて、民主主義が壊れる方向に向かってしまうのです』というが、商業メディアである新聞やテレビが発行部数を増やそうとしたり視聴率を上げようとすることのどこがいけないのか。

『また、彼らにとっては政治も一つの記号にすぎません。健康にいい納豆、あるいはしょうが紅茶の話題と、政治が一緒のレベルで語られるわけです。また、巨人軍の監督が誰になるかと日本国政府の総理が誰になるかが同値です。単なる消費、フランスの哲学者・ボードリヤールのいう記号消費をしているような状態なのです』『これでは視聴率至上主義のテレビが政治家を殺すといっても過言ではありません』

 というけれども、結局、そんなテレビに殺されるような政治家はその程度の政治家にすぎないわけで、そんな政治家なんて替えがいくらでもあるような政治家なんだから、どんどん殺されればいいのである。

 むしろ、小泉純一郎ではないがワンフレーズ・ポリティクスとか何とか言われようが、そんなテレビの特性を全面的に利用して政治を行えばいいのである。私自身は小泉テレビ政治は大嫌いだが、小泉ほどテレビの特性を利用した政治家はいないだろう。まさしく、午後のぶら下がり取材時のワンフレーズ・ポリティクスほどテレビの特性を利用した政治はない。

 結果、小泉は「B層」に食い込んで郵政選挙に見事勝利を収めたわけである。

 ところが、いまや選挙民ばかりでなく政治家までもが「B層」になってしまったわけだ。そんな「B層」政治家の代表のような鈴木寛氏である。

 そんな「B層」政治家がテレビに文句をつけるわけであるが、結局テレビに利用されて捨てられてしまう訳なのであるな。テレビの世界で言われているのは、「テレビに出る奴はバカ、テレビを見ている奴はもっとバカ、テレビを作っている奴だけがエラい」という考え方なのだ。

 だからこそテレビばっかり見ている「B層」はバカにされるわけなのである。そんな「B層」に見られることで満足しているような「B層タレント」こそがもしかしたら一番バカにされているのかもしれない。

 解決策は簡単。嫌ならテレビに出なきゃいいのである。

『テレビが政治をダメにした』(鈴木寛著/双葉新書/2013年4月7日刊)

2013年4月 8日 (月)

目黒空中庭園へ行ってきた

 3月30日にオープンした目黒空中庭園に行ってきた。

 首都高3号渋谷線と中央環状線の大橋ジャンクションの屋上にできた庭園であるから、当然らせん状になった道路の上にできているわけで、庭園自体も坂道になっている。

 目黒大橋郵便局が1階に入っているプリズムタワーというタワーマンションのエレベーターを上がって5階から庭園に入って、下の階が目黒区の施設が入っている同じくタワーマンション、クロスエアタワーの9階エレベーターに続く。つまり4階分の高さの差があって、なんとなく歩いているだけで結構運動になる。気が付かないうちに4階分上がっているんだものなあ。

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 まあ、できたばっかりなのでまだ緑は深くないが、こんな池というか田圃みたいなものもあって、なかなかに風情はある。

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 目黒区には緑が少ないのでジャンクション上にこんな施設を作ったというのが目黒区の説明だったようだが、結構目黒区には緑があるような気がしていたんだけれどもなあ。

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 上は庭園だが、下を見ればまさにジャンクション。

Fujifilm X10 @Ohashi, Meguro (c)tsunoken

2013年4月 7日 (日)

『DJANGO』の荒唐無稽さはタランティーノならでは

"Speling is D-J-A-N-G-O, D is silent"って、ああ『続・荒野の用心棒』のジャンゴ(モーリス・ロネ)のことなのね。オープニングタイトルもまんまじゃん。

 ただし、オリジナルの『ジャンゴ』はバウンティ・ハンターじゃないけどね。

20130405_1709『ジャンゴ 繋がれざる者』(クェンティン・タランティーノ脚本・監督)

 クェンティン・タランティーノはスタイルから入る形の作家である。

 で、この度は「マカロニ・ウェスタン」である。しかし、マカロニ・ウェスタンという呼び方は日本で淀川長治氏が名付けた言い方であって、欧米ではスパゲティ・ウェスタンと呼ばれていたそうだ。それをマカロニ・ウェスタンという言い方をするところがいかにもタランティーノらしい。

 1960年代から70年代にかけて、ハリウッド製のウェスタンがリアリズムにこだわったために、派手なアクションもないし、画面で屁理屈こいてばかりいるお話になってしまったのに対し、イタリア製のウェスタンが派手なアクションやバイオレンス、荒唐無稽な設定で娯楽に徹底して人々の支持を受けて大量に製作されたのであった。

 つまりこの「荒唐無稽な設定」というところで、タランティーノは「黒人のガンマン」で「バウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)」という、まさしく荒唐無稽な設定を主人公(ジャンゴ/ジェイミー・フォックス)に持ってくる訳だ。

 なにしろ南北戦争が始まる2年前の話である(オリジナルの『ジャンゴ』は南北戦争の後)。西部(というより南部)では黒人奴隷は当たり前の世界であり、黒人が出世するにはこの映画にも出てくるスティーブン(サミュエル・L・ジャクソン)のように奴隷頭となって、自らNiggerという呼び方を仲間の黒人に使い、同時に主人である白人の子供の教育係になって、結果として裏側から主人を支配するというような、ひねくれた出世方法しかなかったわけである。

 それを「白人を殺すバウンティ・ハンター」になるという。当時は当然、馬に乗ったり銃を持ったりしたのは(南部では)白人にしか許されていなかったから、銃を使った重大犯罪を起こすのは白人しかいなかったわけで、必然的に「バウンティ・ハンター」は白人だけを殺すのである。勿論、殺さなくってもいいのだが「WANTED DEAD or ALIVE」(お尋ね者 生死を問わず)となってしまっていれば、生きたまま捕まえる難しさを考えれば、皆、殺してしまうのだ。

 う~む、これはすごいな。当時の手配書ったって写真が使われているわけではなく、良くて「似顔絵」だけでしかないわけで、それだけで重罪犯だと思われて殺されてしまうわけだな。ただ、黒人が白人のお尋ね者を殺して保安官に申し出ても信じてもらえないだろうし、むしろ黒人のクセに銃を持つなんて、ということで逆に逮捕されてしまうだろうから、その意味では、最初の元歯科医のバウンティ・ハンター、キング・シュルツ(クリストフ・ヴァルツ)の求めた最初のミッション「ブリトル3兄弟を知っているか」を果たした後も、シュルツと一緒に行動したジャンゴの判断は正しかったわけだ。

 ただしもう、映画の登場人物すべてが死んでしまった(というかジャンゴがほとんど殺してしまった)後に、どこに行ったんだろう、というのが気になる。シュルツはもう死んでしまっていて、ジャンゴの庇護者はもういない。

 とすると、最早ジャンゴの行先は奴隷制のない「北部」ということになる。

 南北戦争の対立軸は;

・奴隷制を否定する北部 vs. 奴隷制を肯定する南部

 ということになるのだが、結局それは「工業化を果たした北部は黒人を工場労働者として使いたいのに対し、プランテーションで安い労働力として引き続き黒人を使いたい南部」という、経済戦争だったわけだ。農業国としてイギリスから独立して100年が経ち、工業経済化を進める北部と、原料供給地としての農業経済を継続したい南部という二つの立場が一つの国としてまとまることが難しくなって起きた戦争なのである。

 結局、それは双方とも「安い労働力として黒人を使いたい」というだけの問題であって、ヒューマニズムの観点からみた奴隷解放ではなかった、ということはその後も黒人に対する人種差別は、つい最近までアメリカの恥部として残されていたという事実が物語る。

 で、そんな北部に逃れたジャンゴは最初は工場労働者として働くんだが、多分、南北戦争が始まったら北軍の黒人部隊に参加するんだろうな。取り敢えず「奴隷制に反対する」という北軍のタテマエがあるから。

 で、北軍は勝利するわけだけれども、結局「奴隷制」は黒人への人種差別として生き残り、それにイラついたジャンゴは『パルプ・フィクション』のジュールス・ウィンフィールドとなって蘇るのだ。

 というのは私の勝手な想像だけどね。

 で、この映画でやたら出てくる"Nigger"という台詞(137回だそうだ)。本来なら「黒んぼ」という訳が当てられるはずだけれども、何故か「ニガー」と英語の発音のままスーパーインポーズされる。

 字幕翻訳者の松浦美奈さんは何を気にしているんだろう。ここはやっぱりタランティーノの意思を尊重するなら、差別用語である「黒んぼ」を堂々と使って欲しかった。

 ところで、南北戦争の中古銃火器が戊辰戦争で使われたということは知っていますか?

 

 

2013年4月 6日 (土)

Robert Frank写真展"THE LINES OF MY HAND"

 このように普段の日常のよしなしごとを撮影しながら、写真を売って生活できれば、そんな写真家生活もいいかもしれない。

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Dscf7441_edited1『THE AMARICANS』(Robert Frank/First edition published in 1958 by Robert Delpire/First Grove Press edition published in 1959/First Steidl edition published in 2008)(C)Robert Frank

 この写真展は1972年に日本人編集者元村和彦によって出版された『The Lines Of My Hand』から選りすぐって展示されている。

 ロバート・フランクと言えば、やはり1958年に出版された『THE AMERICANS』であろう。そこに写し出されたのはごく普通のアメリカ人たちの、ごく普通のシーンである。1956年から1958年にわたってグッゲンハイム財団の奨学金を受けてクルマでアメリカ48州を撮影した回ったわけだが、ニュージャージーのアパートだろうか、星条旗で半分隠れた窓越しに、多分パレードを見ている人たちを撮影した「Parade」と題された写真に始まって、テキサスの路上に止められたクルマに乗った女性と多分その息子の写真「U.S.90」まで83枚の写真のすべてが、普通の人たちの普通の姿が写されている。

 まさにジャック・ケルアックが最初の『THE AMERICANS』の序文で書いたように、それは「疾走」という言葉がふさわしいような、疾走感のある写真集ではあった。

 特に事件もなく、ごく当たり前の普通のシーンの連続は、現代なら「コンテンポラリー写真」という呼ばれ方をされたりするわけだが、当時は「写真は(まだ)特別なもの」という時代だったから周囲からは酷評され、フランクはスチール写真をやめ、ドキュメンタリー映画の方向へ進もうとしたりしていた。

 そんなフランクが再び写真家として復活するきっかけとなったのが、この『The Lines Of My Hand』だったのだ。

 で、じゃあその作風は変わったのかと言えば、いやいやまったく変わっていないのであった。相変わらず、ごく普通の人たちのごく普通の姿をカメラに収めているだけだ。

 いいなあ、こういう写真って。

 私にも撮れそう、って撮ったのが下の写真。

 やっぱり、私はロバート・フランクにはなれませんね。

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Dscf7472ufjFujifilm X10 @Ikebukuro, Toshima (c)tsunoken

ロバート・フランク写真展 PART 1 THE LINES OF MY HANDは4月27日まで

ロバート・フランク写真展 PART 2 QUIET DAYSは5月1日から6月1日まで

gallery bauhausにて

『THE AMERICANS』(ロバート・フランク著)

2013年4月 5日 (金)

『企業が「帝国化」する』とか言っても、何も怖くはないのだ

 企業が帝国化するというのはある種当然であり、それに対する法整備ができていない国家というものを軽々と超えていくのである。

234__136x『企業が「帝国化」する アップル、マクドナルド、エクソン~新しい統治者たちの素顔』(松井博著/アスキー新書/2013年2月12日刊)

 私などはドメスティック企業の最たるような「日本語の出版社」にいたせいで、社員当時はあまり意識していなかったが、その私のいた出版社でも今は中国と台湾に子会社を作って現地出版を盛んに行っているしなあ。

 そういえば、つい最近もパソコンの調子が悪くヒューレット・パッカードのコールセンターへ電話をしたら、電話口に出たのは宗さんという日本語を巧みに操る女性で、多分、大連あたりにあるコールセンターに勤務する女性なのだろう。

 つまり『世の中は「仕組み」を創る少数の人々、「仕組み」の中で使われる大半の低賃金労働者、そして「仕組み」の中で消費を強いられる消費者という3つの側面から成り立っている』ということ。私は『「仕組み」の中で消費を強いられる消費者』であり、私の電話に出た中国女性は『「仕組み」の中で使われる大半の低賃金労働者』であり、カリフォルニア州パロアルトにいる『「仕組み」を創る少数の人々』によって生かされているのだな、ということだ。

 企業の目的は収益の極大化である。その目的のためには何をしても許されるというのが企業のビヘイビュアである。時には犯罪すらも許される時がある。

 そんな「帝国」と呼ぶに値する企業には3つの条件を満たしている必要があるという。

1.「帝国」と呼ばれるのにふさわしい企業は、それまでのビジネスの慣習などを破壊し、その在り方を自分たちにとって都合のいい形に根底から変えてしまいます。

2.「抵抗」と呼ばれる企業はどこも、一度手を出すとやめられなくなる麻薬のように、顧客を魅了し、餌付けしてしまう製品やサービスを提供しています。

3.「帝国」の3番目の条件は特定の業界の「食物連鎖」の頂点に君臨し、業界全体に強い影響力を保有することです。

 という3条件。

 まさに、今のアップル、マクドナルド、エクソンモービルなんかはその通りである。

 とは言うものの、現在のアップルはまだその息は残っているけれども、今後のことを考えるとどうなんだろう。

 今のところスティーブ・ジョブズの残した財産で生き延びているが、今後なんらかのイノベーションがないと、昔のアップル、松井氏が就職したころのアップルのような『まるでヒッピーのコミューンや学園祭のような自由な空気が溢れていた』会社になっていくような気がする。

『アップルの帝国化は、iPodの世界的な大ヒット→大量生産の完全外部委託→ユーザーの囲い込み戦略とエコシステムの構築、といった順序で進んでいきました』と書くが、『iPodの世界的な大ヒット』と言っても、じゃあそれがスティーブ・ジョブズの発案によって出来上がった製品なのかといえばそうではない。MP3プレーヤーは既に存在していたが、アップルはそれをリファインし、もっと大きなことはiTsunesを立ち上げたことだろう。

 もともとアップルはそういう会社なのだ。

 今やWindowsでも使われているGUIにしたって、別にアップルが考えたことではなくて、ゼロックスのパロアルト研究所に行って、研究所が考えたGUIという考え方をジョブズがパクっただけなのだ。

 多分、ジョブズが持っている強烈な意志(時にそれは「現実歪曲空間」とも呼ばれた)というものは、ある種の自分が作ろうとしているものへの異常なまでの「こだわり」なのだろう。GUIにしても、Macintosh I、Macintosh IIにしても、勿論、iPodにしてもiPhoneにしても、別にそれが新たなイノベーションではないのだけれども、何かイノベーションを感じさせてしまうジョブズのカリスマ性や、まさに現実歪曲空間なんだと思う。

 ティム・クックは実務的な面ではとても優秀な人物だと思うけれども、ジョブズのようなカリスマ性はないし、ジョブズのような『異常なまでの「こだわり」』はないのかもしれない。ということは、ティム・クック体制の中でアップルが「帝国」から「普通のアメリカ企業」になる日もあるということ。

 そう、ローマ帝国が滅んだように、ロシア帝国が革命で滅んだように、イギリス帝国が自らの植民地独立国アメリカ合衆国の興隆により力を失ったように、「帝国は滅びる」のである。人も企業も国家も同じである。つまり生命のあるものなのだ。

 マクドナルドやエクソンモービルはその帝国を維持する人材育成や後継者作りをやっているようだし、それなりに企業が官僚化するというのは多少の延命策ではあるのだし、トヨタなんかは最後は創業者の家族に経営を任せるという方法論で乗り切ったりするけれども、まだ若い会社であるアップルにはそういう文化はない。

 マクドナルドだってエクソンモービルだってトヨタだって、いつかは滅びるんだろうけれども、その滅びの速さは新しい会社ほど早いのではないか。

 そういう意味では松井氏は好い時にアップルを辞めたと言えるのかもしれない。

 何しろ、ジョブズが帰って来る前の、いわば創業当時の雰囲気を残した『ヒッピーのコミューン』のようなアップルを体験し、その後のジョブズが帰ってきた『目的意識の高い』アップルを経験したのだから。

 そんなアップルもいつかは滅びる。

 企業もいつかは滅びる。

 人間が確実に死ぬのと同じように、企業もいつかは滅びるのだ。

 と言ってしまえば『企業が「帝国化」する』と言っても、何も怖いことはないのだ。

『企業が「帝国化」する アップル、マクドナルド、エクソン~新しい統治者たちの素顔』(松井博著/アスキー新書/2013年2月12日刊Kindle版もあり。ホンのちょっとだけ安い)

2013年4月 4日 (木)

映画『テルマエロマエ』の原作使用料のあまりの低さについて

 

 興行収入60億円という大ヒット映画の原作使用料があまりにも低いと話題になっているようだ

20130403_11452
 要は2月23日にTBSで放送されたバラエティ番組「ジョブチューン」において、ヤマザキさんが『テルマエロマエ』の映画化に際して受領した原作使用料が100万円でしかなかったと告白して、ネット上で大騒ぎになったことを受けた記事なのだが。ヤマザキさんも自身のブログで弁護士のコメントを紹介してことの成り行きを説明している。

 問題は『テルマエロマエ』の版元である㈱エンターブレインのヤマザキさんに対する説明責任である。

 ヤマザキさんは100万円という金額に不満があるのではなく、エンターブレインから「なぜ100万円なのか?」という疑問についての説明がなされていないということに不満を述べているのである。

 しかし、ヤマザキさんの本音はやはり「100万円という金額の安さ」にもあるに違いない。なにしろ手塚治虫文化賞受賞作で、その他数々のマンガ賞を取り、累計800万部の原作であり、更に映画の製作もフジテレビや東宝などで作った製作委員会である。弱小プロダクションや独立プロデューサーの製作企画ではない。少なくとも500万円くらいの原作使用料の提示があって当然だし、エンターブレインがちゃんとした交渉をすれば1000万円は取れる作品であるはず。

 それがヤマザキさんの手に渡ったのがたったの100万円というのはいかにも少ない金額である。エンターブレインがどれだけ中抜きしたのか、あるいは100万円プラスアルファ程度の金額で契約してしまったのか、エンターブレイン側はノーコメントを通しているのでよくわからない。

 エンターブレインは角川グループホールディング傘下の会社なのだから、映画会社がどんな考え方をして原作使用交渉に臨むか、どのくらいの金額が原作使用料としては妥当なのかは知っている筈である。

 エンターブレインがヤマザキさんとどんな契約を交わしているのかは分からないが、少なくともエンターブレイン窓口でフジテレビと契約している以上は「出版権」以外にも「二次使用権」についての契約もしているのだろう。だったら尚更エンターブレインにはヤマザキさんへの説明責任があるはずである。ところがそれを果たしていないということは、もしかするとエンターブレインは当事者能力を欠いた出版社なのかということになる。

 往々にして出版社と作家の立場というのは、このように出版社側に片務的になりかねない関係である。作家にたいして普段は「先生、先生」を持ち上げておきながら、権利の交渉の段になると一段下がった存在として見なしたりするのである。つまり、作家はクリエイティブなことだけを考えていればいい、ビジネスには首を突っ込むなということである。ところが、その出版社自身が、映画製作者に対しても作家に対してもビジネス感覚を欠いた対応をしているのであれば、稚児にも劣る有様というしかない。

 上記のヤマザキさんのブログにもあるように、『出版社は自らの立場や権限を死守しようとして、作家に十分な説明をしようとしない・・・。他方、作家は、著作権者であるにもかかわらず、出版社が対外的な交渉窓口を持っているため、自分の作品がどういう条件で売られているかを、知ることすらできない状況に苛立ちをつのらせている・・・』という四宮弁護士が言う通りの状況になっている。

 こんな状況の中で出版社側は著作権法を改正して、出版社側に「著作隣接権」を付与させようと動いている。この動きに対して一部の作家や漫画家から懸念が表明されているが、まさに上記のような稚児にも劣る出版社のあり方から考えれば、そのような懸念は正当であるとしか言えないのではないか。

 私がこのブログで何度も書いているように、別に「著作隣接権」を予め出版社に付与させなくても、財産権である著作権なのだから、そんなものは出版契約書に出版社側が獲得する権利として「著作隣接権」的な要素を入れ込んでおき、それをきちんと作家側に説明できれば問題はないのである。

 そう、キチンとした契約書を作って、キチンと作家に説明すれば良いだけの話。

 出版社は著作権をビジネスにしている会社である。ということは当然、編集者はクリエイティブ感覚も必要だが、一方、著作権についてもキチンと理解しており、作家に説明できなければならない。ところが、出版社の新人採用にも、社員教育にもこうした著作権知識についての配慮は、多分、一部大手出版社以外にはまったくされていない。

 問題はこうした出版社の姿勢である。

 とは言っても、全国で約4000社あると言われている出版社の経営者で、そんなことを理解している人間は殆どいないでしょうけれどもね。そんな出版社には退場してもらって、著作権意識の高い出版社だけが生き残ればいいのである。

 多分、そんな時代がいまの電子書籍ブームの先に来るような気がするのだが。

2013年4月 3日 (水)

『冒険に出よう』と言っても本当に冒険が始まるのはこれからなんだよな

 結局、オプチミストのポジティブシンキングな人(プラスして美人なら)がノマドワークでは成功するという、割と単純な図式なのであった。

1183_pc_cvr_image_150_225『冒険に出よう 未熟でも未完成でも”今の自分”で突き進む』(安藤美冬著/ディスカバー・トゥエンティワン/2012年11月30日刊)

 高校生の時に東京都主催の「洋上セミナー」に応募して中国を経験し、その後現在までに49ヵ国をバックパッカーになって旅し、慶應義塾大学在学中にはアムステルダム大学に留学し、慶應を卒業して集英社広告部に就職し、最初は鬱になって半年会社を休んだが、その後復帰して書籍宣伝部で社長賞を取り、31歳で独立して㈱スプリーを興して、現在ノマドワーキングをしながらフリーランスの生活を満喫している人が、この本の著者・安藤美冬さんなのだ。

 勿論、美人である。今のところ。

 で、何を言いたいのか。つまり、このような美しい若い女性が、会社から独立して、なおかつポジティブシンキングを実践していれば、オジサンはみんな協力したくなるのである。で、彼女の仕事もうまく回るわけである。

 結構、世の中は単純にできているし、美人は得だってこともあるし、若い女性は得だってこともあるし……、もうなんかね、女の人はどんどん自由になるって話。

 いいじゃないですか。で、この㈱スプリーの会社紹介を見ると。

1.一般書籍及び電子書籍の企画立案並びに執筆業
2.講演会、各種セミナーの開催及び企画運営
3.映像、音声、インターネット、携帯電話、イベント、セミナー等のコンテンツプロデュース業
4.室内、室外空間のブランディングプロッデュース業
5、商品・サービスの企画・制作・開発・販売
6.WEBサイトの企画・制作・運営・保守
7.eコマース事業の企画・制作・開発・販売
8.前各号に附帯関連する一切の業務

 というのが定款に書かれているようだ。

 つまり、それは出版社にいた経験がある人間なら誰でもできること、というかそうじゃなくても人脈さえあれば誰でもできることではある。

 でも結局はTBS『情熱大陸』でもって取り上げれられたことが一番大きいのではないだろうか。2011年当時はまだ「ノマド」という生き方はあまり喧伝されていなかったわけで、その当時からノマドを自称していた人たちは、割と優先的な立場で「ノマド」を自称できたわけだけれども、出版業界の周辺に屯す「フリーランス」と「ノマド」はあまり差はなくて、まあどうでもいいような状態であった。要は、会社に机があって仕事をしているけれども社員じゃない人が「フリー」であって、そうじゃない人が「ノマド」って、結局は、その程度の違いでしかないわけだ。

「ソーシャルメディア」「フリーランス」「セリフブランディング」「ノマド」が彼女のキーワードなのだそうだが、それら自体は別に特別なものではない。ごく普通の出版業界のの周辺にいるフリーランスの人たちとなんら変わることのないものだ。

 まあ、要はそれを言い出したタイミング、言い出した状況などが彼女にプラスに働いたんだろうな。

 で、安藤美冬はスタートアップには成功したわけだ。で『冒険に出よう』という訳なのだが、じゃあみんなが皆そんな冒険に出ていいのだろうか。

 冒険に出るには、そのタイミングもある。

 そう、そのタイミングを測ることが大事なのである。

 うまくすれば大成功、でもダメだったら下請けフリーランスという最悪の状況が待っているのである。

 まさしくジャック・アタリが言う『世界で数千万ほどの「超ノマド」として支配側にまわるか、生き延びるために移動を強いられる「下層ノマド」としていきるのか』というテーマなのである。

 まだ30歳代の安藤美冬さん。彼女がこれからどちらのノマドになるのかはわからないが、とりあえず頑張ってというしかないかな。

 まあ、それが本を読んだ結果の応援譚でしかない。

 

『冒険に出よう 未熟でも未完成でも”今の自分”で突き進む』(安藤美冬著/ディスカバー・トゥエンティワン/2012年11月30日刊・紙版、電子版とも)

2013年4月 2日 (火)

『政府はこうして国民を騙す』のではなく、政府はこうしてメディアを騙すことでもって国民を騙すのだ

 近頃、オフレコ破りなんかで元気のいい『東京新聞』論説副主幹である長谷川幸洋氏による、Webメディア『現代ビジネス』連載記事をもとにした本なのである。

2952051『政府はこうして国民を騙す』(長谷川幸洋著/講談社現代ビジネスブック/2013年1月18日刊)

 テーマはまず東京電力問題。東日本大震災で原発事故を起こし、実質的に破綻することが見えている状態にもかかわらず東京電力を破たん処理せずにゾンビ企業としたうえで、結局、破綻=国有化した官僚たちの蠢き。そして原発再稼働問題で蠢いていたやはり官僚たちの責任。元民主党の小沢一郎を巡る検察庁と法務省の問題。そして最後に、安倍首相と日銀白川総裁との間の「バトル問題」である。

 要は、そのすべての問題の根幹は「記者クラブシステム」と大手メディア(新聞とテレビ)によるメディアの自殺行為である。

『記者クラブシステムの下で役所や権力の情報を垂れ流し、ポチの身分に甘んじてきたメディアは自分の頭で問題を考え整理し、分析、評価、報道する力を衰えさせてきた』

 という問題なのである。

 例えば「オフレコ」という問題。警察などが誘拐事件を捜査中に捜査の進展状況をブリーフィングした際に、それを報道規制するオフレコ要請を出すことはある。しかし、これは誘拐事件の解決を図るためのやむを得ざる処置であり、マスコミがこの要請を受け入れることは問題とされていない。

 むしろ問題なのは、経産省や財務省などの官僚が記者クラブの会見や個別取材で要請する「オフレコ」なのである。この場合の「オフレコ」は実はオフレコでも何でもない。要は世論を官僚が思い通りに動かしたいからの「オフレコ」なのである。つまり「オフレコ」という名のリークであるにすぎない。マスコミが官僚の都合のいいように話を解釈してメディアに載せることを期待しているのである。

 ところがしばしば、官僚の都合のいいように話を解釈しないで報道するジャーナリストがいるのである。それが今回は長谷川幸洋氏だったわけである。

 3.11の事故を受けて東京電力は実質的に破綻状態になっているにもかかわらず、破綻処理を行わずにゾンビ企業にしてしまった。これについて民主党の枝野官房長官が「銀行の債権放棄がなくても国民の理解が得られると思うか」という記者の質問に対し「得られることはないだろう」と答え、これについて細野資源エネルギー庁長官が「これはオフレコですが」と前置きして「いまさらそんなことを言うなら、これまでの私たちの苦労はいったい、なんだったのか」と批判したわけである。

 つまり資源エネルギー庁は「銀行や株主が損をしないで済むように、さんざん苦労して今回のスキームを練り上げたのに、いまさら官房長官が銀行に『債権放棄しろ』などと言うなら、なんのためのスキームなのか」と言いたいわけである。つまり、本来であれば破綻状態になった会社であれば、まず役員と従業員、株主、金融機関が損をかぶって負担するのが「資本主義社会のルール」である。日本航空の場合はちゃんとこの通りのことを行って、私なんかは前原誠司氏が「JALは潰さない」という発言をしたのを真に受けて10万円を紙屑にしたりしたわけである。それについて前原には文句はあるが、資本主義の論理には文句はない。

 で、長谷川氏はこの「オフレコ話」を東京新聞に書いちゃったわけである。

 すると経産省の成田達治大臣官房広報室長が、まず長谷川氏の上司に電話で恫喝をかけてきて、その後に長谷川氏がまったく懲りていないのを見ると今度は東京新聞の経産省記者クラブ詰の記者に対して、事務次官との懇談に出席するのを禁止したのである。

 では実際に「オフレコ」というものは「書いてはいけない」ものなのか。

 例えば、上記の警察なんかの誘拐報道に関するものは、誘拐被害者の命に係わることであるし、確かに「書いてはいけない」ものなのだろうが、ほとんどの官僚の言う「オフレコ」は書かれることを前提に喋っているものなのだ。

 問題は「官僚の都合のいいように話を解釈してメディアに載せる」のであれば勝手に書いていい。しかし、官僚の都合の悪い書き方をするなら「オフレコ」という考え方なのである。

 ところが、多くのメディア関係者は「官僚の都合のいいように話を解釈してメディアに載せる」ことしかしないし、ジャーナリストとして自分の頭で考えて、もしおかしいと考えたならそのまま「おかしい」と書くことはしないのだ。

 つまり、多くの新聞記者・テレビ記者は官僚の言うことをただ単にそのまま口移しで伝えるだけの「大本営発表」記事しか書けない、情けない人間なのだ。記者だってサラリーマンだというのはよくわかる。しかし、おかしいことをおかしいと書かなければそれは記者ではない。単なる社畜サラリーマンでしかないのだ。だとしたら最早、記者というものを職業にするのはやめるべきなのだ。

 結局、『政府はこうして国民を騙す』のではなく、『政府はこうしてメディアをうまく使って、国民を騙す』のである。つまりメディアも国民を騙す政府と同じ立場で国民を騙している同罪なのである。

 そんな、メディアに私たちはいつまで騙されている訳にはいかないし、最早、メディアには最後通牒を叩き付ける状況にあるということだけは確認しておきたい。

『政府はこうして国民を騙す』(長谷川幸洋著/講談社現代ビジネスブック/2013年1月18日刊/Kindle版あり160円安い)

2013年4月 1日 (月)

西武新宿線に朗報

 3月27日にこんな記事を書いたばかりだが、その後、かなり変化があったようだ。

Dscf7242sakura西武線とは何の関係もない浅草の桜まつり風景

 つまり西武新宿線に大きな計画があることが判明したのだ。

 ひとつはやはり進んでいた東京メトロ東西線との相互乗り入れ計画である。

 当初は高田馬場駅で乗り入れをする構想だったようだが、それは変更になり、西武新宿線は4線ある沼袋駅を出ると真ん中の2線(通過線)が地下に入ってしまい、そのまま早稲田通り下を走り、東西線落合駅で乗り入れをするという計画になったようだ。

 これは新井薬師前駅地下化との関連で、要は現在急カーブの途中にある新井薬師前駅を通過する特急・急行・準急の各電車は、新井薬師前駅の手前でブレーキをかけて、新井薬師前駅を徐行して通過する。これが地下化によって落合方面へ直線的に行けるとなれば、ここで徐行をする必要もなくなってスピードアップできることになる。勿論、緩行線も地下化によって今よりは直線的になる。

 つまり、東西線に乗り入れする西武新宿線は準急・急行だけになり、緩行線は相変わらず新井薬師前地上駅(あるいは地下駅)-中井駅-下落合駅-高田馬場駅ー西武新宿駅と通っていくことになるそうだ。

 となると問題は特急小江戸号はどうなるかという問題。つまり西武新宿駅発着だと沼袋駅は緩行線を走らなければならなくなり、沼袋駅での各駅停車の追い越しはできなくなる。勿論、小田急のロマンスカーの北千住発・箱根湯本行きみたいに、西船橋発・本川越あるいは西武秩父行きというのもあるけれども、まあ、その先の鷺ノ宮駅で追い越せばいいので、西武新宿発でも問題ではないとは思うのだが。とはいうものの、これは沼袋駅先に切り替えができるはずであるから問題ないか。

 ともあれ、これでこれまで高田馬場駅で西武新宿線から東京メトロ東西線に乗り換えていた西武新宿線沿線住民にとっては、乗り換えが楽になるというまことにもって有難い状況になるわけだ。

 一方、西船橋に住む人たちが本川越や拝島に行くことはそんなにないだろうから、西船橋住民にとってはあまり利便性があるとは言えない。どちらかというと西武新宿線沿線住民にとってのみ、「都心に行くのが便利になる」という片務的利便性でもある。

 ということは当然西武新宿線の沿線住民が増えるということを意味する。となると、問題は今でも毎朝出ている西武新宿線の「遅れ」の問題がある。当然である。同じ複線上を特急・急行・準急・各駅停車と速さの異なる電車が走っているのである。急行や準急に乗っても、途中の駅に止まらないだけで、高田馬場駅に着く時間はあまり変わらない。そりゃあ、いくら急行や準急を走らせてもその前を堂々と各駅停車が走っていては、それを追い越すことができない急行や準急電車も結局は各駅停車とあまり運行時間は変わらないのも当然である。

 で、毎日西武新宿線の朝の運行は必ず数分遅れで高田馬場駅に到着することになる。

 しかし、これは相互乗り入れする東西線や、東西線と中野三鷹間を乗り入れているJR総武線にとっては迷惑でしかない。

 当然、東京メトロとJR東日本は西武鉄道に「ダイヤを厳正に守る」ことを要求することになる。それに対して西武鉄道側はどう応えるのであろうか。

 一番簡単なのは、西武新宿線と西武拝島線が一緒になる小平駅あたりから沼袋駅までを複々線にすることだろう。一時、環八通りと井荻駅の踏切問題で西武側が井荻駅を地下化し、急行線と緩行線の複々線化を計画していた時期があったが、いつの間にかその計画はなくなってしまったという経緯がある。

 さて、西武鉄道に再び新宿線の複々線化を計画するだけの体力があるのだろうか。

 気になるのはその点だ。

 ま、もっともそれが実現したころには、私は西武新宿線沿線住民ではなくなっている可能性が高いので、どうでもよいことなんだけれども……。

800pxseries_6000_of_seibu_railway東西線への乗り入れに使われることになるであろう西武6000系車両は、現在西武池袋線の有楽町線・副都心線への乗り入れに使われている(画像はWikipediaより)

 

 

 

 

 

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