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2013年2月15日 (金)

『演技と演出』はスタニスラフスキー・システムへの怨嗟ではないのか

 結局、人間という存在そのものが、「演劇的である」ということなのだ。

『演技と演出』(平田オリザ著/講談社現代新書/2004年8月21日刊・Kindle版は2012年12月17日刊)

 平田オリザ氏はスタニスラフスキー・システムという「演出論」に対する否定者であると言われている。確かに、『演出家の登場は、「リアリズム」という考え方の登場と、ほぼ時を同じくします』という通りであり、その「リアリズム」という考え方の登場と同じくしアレクセイエフ・セルゲイビッチ・スタニスラフスキーという演出家がロシア(そしてソ連)に登場し、それがいわば「社会主義リアリズム」の演出・演技論として「公認」されたことによって「固定化」されてしまい、形骸化されてしまったことを、平田氏は批判しているのではないだろうか。

 実はスタニスラフスキー・システムは、アメリカに渡ってリー・ストラスバーグやエリア・カザンの設立したアクターズ・スタジオでの「メソッド演技」と呼ばれる、実に優れた俳優養成法となって生きてきたのである。同じシステムがその生まれた祖国で形骸化され、その祖国と最も対極する場所において活用されたというのも皮肉な話であるが、平田氏はそのことをもってスタニルラフスキー・システムを批判しているのではない。

 俳優の訓練法としてはスタニスラフスキー・システムは優れている方法であるとは認めているのだが、むしろ、演出論としてのスタニスラフスキー・システムを否定しているのである。そのことは『実際の演出をする時には、「内面を作る」という複雑な作業よりも、プロレスの雑誌一つ置くだけで、簡単に解決できる問題もあるのです』という言い方でもわかる通り、演出というものは演技の外形を作るものであって、俳優の内面を作る作業ではないということなのだ。

『私は、演劇における「リアル」は、観客の脳の中で形成される一つのイメージ、幻想だと考えています。ですから、演技を、現実世界に近づけたからといって、それだけでリアルに見えるわけではありません。リアルに見える構成、演出がなくては、俳優がどれほど現実に近い演技をしても、観客はそれをリアルだとは感じません』

 ということなのである。

 しかし、演劇における「リアリズム」とは何なのだろう。

 映画と違って、もともと観客と同じ空間で演じられるお芝居が「嘘っぱち」であることは、演劇の前提なのではないだろうか。俳優は観客に見られることを前提に演技を行っているわけだし、観客は俳優が「嘘の生」を生きていることを前提に観劇しているのである。そんな演劇の世界で、別にリアリズムだけが観客を感動させる要素ではないはずだ。事実、ブレヒトはそんな観客の劇に対する感情移入をシャットダウンさせる芝居を多く書き、演出してきた。それでもそれを楽しむ観客がいるのである。

『スタニスラフスキー・システムが、俳優教育の方法としてはすぐれていても、現代演劇の演出法としてはそぐわない部分が出てきているのは、演劇の世界における役割、舞台と観客との関係自体が変わってきていることにも原因があると思います。
 作家の主題を明確に観客に伝えることを第一義とした近代演劇に対して、世界の混沌(カオス)を、混沌のまま描こうとする現代演劇では、観客の想像力に多くの部分が委ねられます。また、その想像の結果は多岐にわたり、観客が一様に、同じ感想を抱くとも限りません』

 と平田氏は書く。

 平田氏の演出論では

『私の方法論は、曖昧な世界(カオス)を曖昧なままで表現するものです。そして、その解釈、判断は観客に委ねられます』

 ということになる。

 しかし『スタニスラフスキー・システムが、スターリニズムの嵐の中、社会主義リアリズムという名称を与えられて、形骸化、教条化し、演劇的な輝きを失っていく中で、ブレヒトの新しい思想は、魅力的であり、なおかつ左翼陣営を満足させるものでした』と単純化されも困るのである。ブレヒトも劇作では自らの演出論的でない作品も書いているのである。演劇に興味の薄い左翼はまあ単純に満足しただろうが、そうでない左翼はいろいろ試行錯誤しながら、自らの演劇を作り上げてきているのも事実なのである。必ずしも「ブレヒト的でない芝居」も数多くあるのである。

 まあ、そんなことは平田氏も承知で、わざと単純化しているのだろう。

『演出家も自己を演じているし、俳優は自己を演出しているのです』

 という通り、結局人間はすべてが演出であり、すべてが演技である、ということなのだろう。つまり、人間という存在そのものが、「演劇的である」ということなのだ。

 という円環で終わってしまった。

 まだまだ修業が足りんな。

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コメント

>人間という存在そのものが、「演劇的である」と>いうことなのだ。
>という円環で終わってしまった。

正確なご指摘です。
この円環からの解放が要請されるのではないでしょうか。

18歳で学生運動に参加した僕は,ロックアウトで
大学から弾き出され,大学に休学届をだして東京演劇アンサンブルに入りました。ブレヒトを信奉する演出家・故広渡常敏(通称タリさん)が主宰する劇団でしたが,タリさんは常々,以下のことを強く主張していました。

「今日の君たちが昨日と同じであってはならない。明日の君たちが今日の君たちであってはならない。人間は刻々と変化していくものだ。
役作りなんかどうでもいい。感情移入を排せ! 演出家に気に入られる役作りをしようと思うな。
舞台では君たちの<生き方>をさらせ!
共演者と君たち自身の演技で君たちが変わり,観客の息と表情と視線で君たちも観客も変わっていく。その一瞬一瞬が演劇空間であり,その時間こそ<フィクション>でも<ノンフィクション>でもない<真実>が宿る」

そして,彼はよく呟いていました

「真理が自分を守るのに力が弱すぎる場合,攻撃に移らなければならない」
ガリレイの言葉です。

この劇団には今から思うと,すでに45年前から原発反対運動をしていたOという役者がいて,劇団発行のタブロイド版の新聞に今,問題になっている敦賀原発の実地見学による取材記事を掲載していました。

タリさんからも役者たちからも,当時18歳の僕の幼い自我意識は徹底的に打ち砕かれました。
劇団=役者=美人多い=チャンス,という不純極まりない動機で入った劇団でしたが,まあ,それなりに女優とのドロドロの愛憎の泥沼に嵌まり込みもしましたが,自我という円環が,崩れ始めていく
プロローグでもありました。はい。

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