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2013年2月14日 (木)

まさにアルマジロのようになっていたい映画『アルマジロ』

 戦争ドキュメンタリー映画でアルマジロというタイトルなので、タリバンに攻撃されたらアルマジロみたいに丸まって防御しようという映画なのかと思ったら、そうじゃなくてアフガニスタンの南の方にあるヘルマンド地方のFoward Operating Base ArmadilloというNATO軍の基地があって、フランス軍とデンマー軍が270人ほどいる場所があったのだ。

Photo線で囲われた部分がヘルマンド地方

『アルマジロ(ARMADILLO)』(ヤヌス・メッツ〈Yanus Mets〉監督
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 この映画は、国連のPeace Support Operatition(国際平和活動)という名目でアフガニスタンでタリバンと戦うInternational Security Assistance Force(国際治安支援部隊)のデンマーク兵士のドキュメンタリーである。

 主人公たちは、メス、ダニエル、キム、ラスムスと小隊長のラスムスの5人。主人公と言ってもドラマではないから、彼らが何かの活躍をするわけではない。ただ、淡々と彼らと彼らが属する小隊の戦いを撮影したフィルムであるにすぎない。

 そこのに描かれているのはまさしくミニマムな戦争である「戦闘」である。戦闘であるから、民間人(タリバンでない)のアフガニスタン人の家を壊したり、家具を壊したりすれば、その保障をする。その場でアフガニスタン・ドル札を渡す。

 ドキュメンタリーであるから、カメラワークは激しく揺れる、水平だって保てない。更に、兵士のヘルメットに取り付けられているカメラで撮影した映像もあるから、基本的な映画撮影の方法論からはまったく外れたカメラワークである。そんなカメラワークが荒々しい戦場を、まさにその通りの戦場として捉えている。まるでロバート・キャパがムービーを持って、オマハビーチで撮ったらこんな映像になるのかな、と想像させる。

 ドラマの「お上品な」カメラワークにはない荒々しさでもって描かれる戦場は、実に迫力に満ちている。まるで、自分がその戦場にいるようだ。まるで、RPGの戦闘ゲームのようである。更に、本物のタリバン兵の死体、撃たれ傷ついた仲間の姿、爆弾で瀕死の重傷を負った小隊長。すべてが実物であるという迫力が私たちを捉えて放さない。

 しかし、それは戦争ではない。あくまでもミニマムな戦争である戦闘であり、そこにあるのは戦場でしかない。そんな戦場では兵士たちが、自らの身を守りながら、一方、「敵」であるはずのタリバンを殺し続ける。

 戦争は政治である。しかし、戦闘は自らのギリギリの生き残りを賭けた戦いなのである。政治的な高邁さはそこには必要がない。むしろ、重要なのは仲間と何とか生き残って基地に帰ることであるにすぎない。そんな、兵士の仲間意識を使って政治家は戦争を行う。

 兵士にとっての戦争は、そんな仲間との意識の共有であったり、生き残って基地に帰った時の、高揚した幸せな気分なのだろう。で、それが忘れられなくなって、結局彼らは再び戦場に還ってくる。

 イラクを舞台にアメリカ軍爆弾処理班を描いた映画『ハートロッカー』の冒頭の台詞「戦争は麻薬である」ではないけれども、結局、一度「戦場という麻薬」に手を染めた兵士たちは、再び戦場に還ってくるのだ。

 上記の主人公たちの中で、戦場に戻る道を選ばなかったのはダニエルだけ。それ以外のラスムス小隊長とメスは再び戦場に戻ってきて、更にキムとラスムスは戦場に戻ることを希望しているそうだ。

 ベトナム戦争の戦争後遺症を描いた『ディア・ハンター』や『タクシー・ドライバー』で描かれている世界が、このドキュメンタリーでも描かれているのだ。

 政治家にとっての戦争は、戦争が終結した時点で終了する。あとは延々たる戦後処理が待っているだけである。そんな戦後処理でもって、政治家はまた自らの利権を得たりする。

 その裏で、戦争という麻薬に手を染めてしまった兵士たちは、再び戦争に手をつけたり、PTSDに病まれて自分の人生を放棄したりする。

 結局、兵士はいつも政治家の勝手な思惑のための捨て駒にすぎないということなのか。

 なにしろ、徴兵制のあるデンマークの若者が、何故、自分と何の関係もない、タリバンとアメリカの戦争に加担しなければならないのか。

 それに答えるのは、この映画の主題ではないけれども、見ながら、そんな疑問も抱かずに戦場に赴く若者たちを眺めている私たちは、とてもじゃないがいたたまれない気持ちになるのだった。

 驚異と脅威のドキュメンタリー『アルマジロ』は渋谷アップリンク、新宿K's cinema、銀座シネパトス 他、全国で順次上映。

 公式サイトはコチラ→ http://www.uplink.co.jp/armadillo/

 

 

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コメント

しかし、そのベトナム戦争当時のアメリカ政府のような開けっぴろげなデンマーク政府考え方って、どこか好感が持てます。
結局、どこかの国が戦争の実態を隠そうとしても、しかし、どこか別の国がこうやって公開してしまう、というところにまだこの地球にも希望が持てそうな気がします。

>戦争は政治である。

同意します。で,戦争=政治=公共事業でしょうね。

イラク戦争以降はピンポイント爆撃に象徴されるように,戦争はゲームのようなヴァーチャル空間に差し替えられ,血肉が飛散する戦場は捨象されてきました。勝利か敗北か,ゼロか1か,の抽象区間がそれにとって代わったわけです。

かつて,僕が中学生の頃は,アメリカのジャーナリズムはヴェトナム戦争の最前衛で戦争の真実を写真で報道してきました。若いアメリカ兵が笑いながらヴェトナム民族解放戦線の兵士の切断された首を片手でつかみブラブラさせて歩いている衝撃的な写真。イラク戦争を機に報道管制がひかれ,この種の写真は撮ることすらできなくなりました。前述の写真一枚でヴェトナム反戦運動が激化したとのアメリカ政府の反省によるものという記事を読んだことがあります。

資本主義と社会主義という政治体制には関係なく,この両体制が産業的生産様式である以上,戦争は常に景気回復の公共事業として招来されるのではないでしょうか。
「テロリスト撲滅」の正義の旗をふりかざしながら
国際平和維持活動の美名のもとに,デンマークの若者がヨーロッパ大陸からユーラシア大陸に送り込まれるという不条理。

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