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2013年1月 6日 (日)

『サイド・バイ・サイド』というけれども、映画は既にデジタルの方へ進んでいる

 映画というものがテクノロジーによって生み出された芸術形式である以上、その作品様式や製作方法、表現技術などがテクノロジーの進展からは免れないものなのである。旧守派はただ消え去るのみなのである。

 当然、この『マトリックス』キアヌ・リーブスが企画・製作したドキュメンタリー映画もデジタル製作されている。

『サイド・バイ・サイド――フィルムからデジタルシネマへ』(脚本・監督:クリス・ケニー/製作:キアヌ・リーブス、ジャスティン・スラザ/2012年作品)

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 数多くの監督、撮影監督、編集者、エンジニア、機材メーカーたちがインタビュイーとして登場するが、やはり一番説得力を持っているのがジョージ・ルーカスである。つまりデジタル技術によって「映画製作は民主化される」というのがルーカスの考え方である。何故か。ルーカスにとって制作現場での一番の悩みは、監督ですらカメラのルーペを覗くことを許されない、アメリカの映画制作現場の「しきたり」というか「撮影監督(Director of Photography:DP)」の尊大さなのだ。ギルドに守られたDPは、自ら画角を決め、照明を決め、映画のルックを決めているのだが、それは監督には立ち入ることのできない領域なのである。監督は、単に俳優に演技指導をするだけの立場である。気が小さいルーカスでは、それ以上の立場を取れず『スターウォーズ』第1作の時はそんなことで、神経衰弱を起こしたほどなのである。

 もし、映画製作のすべてに携わりたいなら、プロデューサーになるしかない、というのがアメリカの映画制作現場の実態なのだから。以後、ルーカスは監督兼プロデューサーの道を歩むことになるのである。

「デジタル技術が制作(製造)を民主化する」という言い方は『MAKERS』のクリス・アンダーソンと同じじゃないか。そう、デジタル技術のおかげで、カメラの中身は特権的な専門家だけの「秘密の箱」ではなくなった。それは映画の産業革命と言ってもいいのじゃないか。

 更に、デジタル技術によって低廉化された製作費は、「誰でも映画作家になれる」道を開いた。まさに、この作品で脚本家レナ・ダナムが言うように『デジタルビデオがなければ映画は作らなかった。私は脚本家としてスタートしたから、機械の知識もないし、撮影は無理だと思っていた』し、リチャード・リンクレイターの言うとおり『フィルムの時代には、映画製作なんて途方もないことに思えた。仲間たちとよく喫茶店で、もし誰かチャンスをくれたら、すごい映画を作ってみせるなどと夢を話したものだった」訳である。

 今や、日本のインディペンデントの劇映画はそのほとんどがデジタルシネマであるし、ポレポレ東中野あたりでやっているドキュメンタリーは100%デジタルである。2012年にはイーストマン・コダックが破産法の適用を申請し、フジフィルムは映画撮影用のフィルムの生産中止を決めてしまった。そう、もはや「デジタルシネマ」なんて言葉自体が死語になってもおかしくない状況である。「Eメール」なんて言葉を最早誰も使わなくなって、単に「メール」と言っているのと同じである。

 そんなデジタルシネマの現状に切り込んだリーブスもいいところに目をつけたというべきだろう。当然、撮影現場でデジタル化の状況をよく見ているリーブスが、もし製作者志向を持っているならば(というか『フェイク・クライム』や本作でプロデューサーをつとめ、2013年に公開される予定の米中合作のカンフー映画『Man of Tai Chi』では初監督を経験している)当然そこではデジタルシネマが行われている現場でもあるわけで、現状を考えると、デジタル技術抜きで映画を語ることはできないのだ。

 元々、映画は1909年にパリで両側に4っつずつのパーフォレーションを持った35mmフィルムの規格が出来て以来、モノクロからカラーへ、サイレントからトーキーへと技術が進展してきた。その進展の都度に消え去る演出家・技術者・俳優がいて、その新しい技術に対応する演出家・技術者・俳優が生まれてきたのだ。つまり、アナログからデジタルへの変化の途上にも同じく、消え去る人たち、そして新しく生まれる人たちがいるのだろう。

『映像の質が劣る手段が、フィルムを脅かしている現状を残念に思う。油彩画を捨ててクレヨンを使うようなものだ。僕は一番最後までフィルムを使う撮影監督になるよ』という撮影監督のウォーリー・フォスターや、『フィルムは独特の質感と粒状構造が魅力ね。個人的には、温かみがあるフィルムの味わいに、とても心を癒される。5年後10年後にもフィルムが残ってほしいわ』というリード・モラーノ、『フィルム撮影には100年の歴史があり、今も健在だ。ルーカスは20年前にフィルムは死んだと言ったが、今もフィルムを好む人がいる。映像が美しいからだ』というヴィルモス・ジグモンドたちには、今すぐ立ち去ってもらおう。と言わなくても、デジタルの軍門に下るか、自らデジタル化した撮影現場から去るであろうが。

 最後に、この作品では撮影監督をDirector of Photographyと呼ばずに、Cinematographerと呼んでいる。Director of Photography:DPという言い方が全米撮影監督協会(American Society of Cibematographers, 略称:ASC)が決めた特権的な呼称だからだろう。技術者としての特権性に委ねるのでなく、芸術家としての普遍性の方へとCinematographerという呼称を用いているのならば、それは大賛成だ。

 

 

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