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2012年12月24日 (月)

『記録は可能か。』展

 東京都写真美術館で動画中心の展示『記録は可能か。』を見る。

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 しかし、問題は『記録は可能か。』という問いかけではなく、むしろ「ドキュメンタリーにとって真実とは何か」ということではないのだろうか。

 16mmのフィルムに収められた映像はあくまでも映像に過ぎず、現実ではなく、現実に起こったことの光の断片であるに過ぎない。しかし、人はそれを事実の記録として読み込むことで、「事実の代わりのもの」であるという受け取り方をするのだ。

 世界史上初めての映画はリュミエール兄弟による『リュミエール工場の出口』というタイトルのドキュメンタリーであった。現在は「ドキュメンタリー」は映像の1ジャンルとして定着しており、「ニューズリール」などと同様の地位を獲得している。しかし、それは真実だろうか。いわゆる「フィクション」として語られる「劇映画」の世界であっても、しかしそれは俳優が演じている劇を捉えた「ドキュメンタリー」なのではないか。

 それを証明してみせたのが、日本の「アンダーグラウンド映画」の嚆矢とも言うべき金坂健二の『アメリカ・アメリカ・アメリカ』(1966)ではなかったのか。ドキュメンタリー・フィルムでありながらアヴァンギャルドであるその映像は、フィクションとノンフィクションの境界をいとも簡単に乗り越えてしまっている。おおえまさのりの『No Game』(1967)や宮井陸郎の『時代精神の現象学』(1967)や『シャドウ』(1969)、城之内元晴『日大大衆団交』(1969)なども、現実社会のいろいろな問題を捉えていても、映像はどちらかというと彼らの内面社会を捉えているのである。

 それが、まさに「ニューズリール」である小川紳介の『三里塚・第三次測量阻止闘争』(1970)であっても、同じく撮影者・製作者の内面を映し出す映像にほかならないのだ。

 特に「政治の季節」であった1960年代から70年頃にかけての映像はそんなアヴァンギャルドなドキュメンタリーに満ち溢れている。

 ああ、そんな時代があったなあと記憶の彼方になってしまいそうなこの時期に、そうした映像を再び乱すというのも悪くはない。

『記録は可能か。』は2013年1月27日まで開催。

 出品者は金坂健二、おおえまさのり、宮井陸郎、城之内元晴、小川紳介、中谷芙二子、ニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニなど。

2012_12_23_014_2Fujifilm X10 @Yebisu (c)tsunoken

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