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2012年12月10日 (月)

『デジタルネイティブの時代』にはとりあえず期待しないでおこう

 うーむ、たまには選書に失敗してこんな本を選んでしまうこともあるんだな、という気分に久々になったのである。『デジアルネイティブの時代』いういささかジャーナリスティックな題名に気が惹かれて読んでみたのだが、全然ジャーナリスティックじゃない本だった。

『デジタルネイティブの時代 なぜメールをせずに「つぶやく」のか』(木村忠正著/平凡社新書/2012年11月15日刊)

 木村氏によればデジタルネイティブ世代は4つに分けられるそうである。つまり第一世代は1982年以前生まれの「ポケベル世代」「ピッチ世代」という「移動体文字文化」第1世代である。第二世代は1083~87年生まれの「友達とのメールが主」というパケット通信代を気にしながら使っていた世代。第三世代は1988~90年生まれの、ケータイブログ、掲示板、つぶやきなどが始まった世代。第四世代は1991年生まれ以降の現在20数歳、ケータイブログ、モバイルSNS、ソーシャルゲームが利用可能になった、今時の若者世代である。

 で、そのデジタルネイティブ世代がどのように特性を構造化し、変容させてきたのかと言えば、その特性は次の四つである。

①空気を読む圧力
②対人関係を構成する「親密さ」と「テンションの共有」が相互に独立し、「テンションの共有」のみによる(「親密さ」を伴わない)「親しさ」への志向
③「コミュニティ」「ソーシャル」とは異なる「コネクション」という社会原理の拡大
④サイバースペースへの強い不信感、低い社会的信頼感と強い「不確実性回避傾向」

 で、そこまではいいのだが、そのあとの本書は文化人類学的手法を使ったアンケートや対面調査の結果がズラッと並んでいるのである。序章から終章に至る全5省のうち3省半が文化人類学的調査の結果表示である。実はこんな本の作り方は「新書的」ではない。学術論文ではそうした調査の方法の提示や結果の表示は必然である。むしろ、そした調査の内容・真偽が学会などで問われるわけである。しかし、新書では読者は(というか私は)そんな「調査経過」なんかは望んでいない。むしろ、そうした調査経過・結果を踏まえたうえで、著者の「ドッカーン」というか、ちょっと「なんでかなあ」という結論を提示するのが「新書」のあり方であるはず。

 で、結構この部分を読むのに疲れた。普通はこんなところは読み飛ばして、結論を読んでしまうのだが、しかし、書評を書かなければいけないということになってしまうと(って、別に誰に頼まれたわけではないけれどもね)そうはいかない。で、この読むのも面倒な調査データをいろいろ読んでみたのだが、結局、私にとっては文化人類学という本来「西洋先進社会の人間が、自らを安全な場所において、非西洋社会を分析するための学問」というところで文化人類学自体に対する偏見があるのだ。勿論、クロード・レヴィ=ストロースみたいな優れた学者も文化人類学は生み出しているのだが、それはほとんど数少ない例で、基本的には「西洋の進化した文化を持つ私たちが、南米やアジアの遅れた人々(それって「土人」というのとどうちがうの?)を研究する学問」という極めて差別的な方法論を持った学術領域である文化人類学的手法を、調査方法に持ってきた木村氏の方法論にも、なんか「自分は調査対象と違う」という「エリート主義」を感じてしまうのは私だけなんだろうか。つまり、木村氏の「私」はこの本の中のどこにあるのだろう。

 で、まあそれはいいとして、結論としての「デジタルネイティブ世代」についての総論としては、先に挙げた4っつの特性なのである。

 ったって、所詮は「空気を読む圧力」「テンションの共有」「サイバースペースへの不信感」でしょう。だったらそれは日本人全体が持っている、サイバースペースへの不信感でしかないのだ。

 つまり、ネットの便利さは分かっているのだが、一方でネット世界での自らの姿がさらされてしまうことに対する恐れ、ということが彼らにあることはわかっている。しかし、ネットにアクセスした瞬間に、私たちの「プライバシー」は世界にさらされてしまうというのは当然のことであり、私たちのいわゆる「PC世代」にとってはそれは自覚的なことなのである。

 この本で言うところの「デジタルテイティブ世代」がそんなことに対して自覚的ではないこと自体がちょっとびっくりなのであるが、その程度のメディアリテラシーしかない人間がネット・メディアに向き合っていることが、もっと驚かされる。そんな人間が「空気を読め」と言ったり「テンションを共有しろ」と言ったりしていることは、まさしく他人に対する「圧力」であり、それは「民主主義」じゃないだろう。他人は他人であり、「空気を読まない」「テンションを共有しない」ことは当たり前であり、そんな多様性が民主主義の基本なのである。そんな、基本すら認めようとしない我が国の人々の「非民主主義的なあり方」が、いまだ民主主義が根付いていない我が国のあり方そのものなのだな、ということが分かってきた。

 生まれた時からデジタルメディアが「存在する」中にいた人々にとっては、そんな空気みたいな存在のデジタルメディアであるから、当然それは「メディア」である以上、そんな「メディア」に自ら発信する場合は、そのメディアに自分をさらけ出す行為を行っているのだ、という自覚はないのだろうか。ちょっと、そんな自覚すらない状態で自らの姿をメディアにさらしているとうのはちょっと怖い。

 いまや衆議院選挙(東京では都知事選も)の真っ最中である。そんな中で、この日本の非民主主義的なあり方を見ると、また今度も「第三極」に投票して、またまた「騙された」なんて非難する有権者の姿が目に浮かぶようだ。そう、デジタルテイティブ世代だって既に上は30代。つまり有権者の中の大きな塊の世代に属しているのだ。そんな大きな塊がみんないわゆる「B層」に属するのだとしたら、この国の民主主義はどこに行ってしまうのだろう、という気分にすらなる。

 まあ、当分政治は停滞するだけだろうね。

 だとすると、12月4日の当ブログに書いたような世界はまだまだやってこないということなのだろうか。

 残念なことであるけれども、仕方ないか。事実を受け入れるだけでしかない。

 って、なんでこんな話になったのだろう?

 

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