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2012年12月

2012年12月31日 (月)

本年もご愛読、多謝、多謝

 ということで、今年も大晦日になってしまった。

 今年は私にとっては「定年を迎える」という実にエポックな年になったわけであるが、このブログに関してみると、別にいつもの年と全く変わらない、普通の年であったわけだ。普通に本を読んで、映画を見て、写真を撮ったり見たりという毎日で、それを綴ってきたわけです。

 いつも読み続けていただいている約500人の人たちには感謝、感謝であります。2009年11月27日から始めた拙ブログ。最初は自分でクリックしたものを含めて20アクセス位から始めて約2年後の年末は約300アクセス位、約3年後の今年はよくぞ500人のアクセスを数えるようになったものだ。

 いまやなんか500人の読者がいることが、私のこのブログを書くモチベーションにすらなっている。「今日も500人の読者が私のブログの更新を待っている」なんちゃってね。まあ、別に私のブログがなくても、別に困らないんだろうけれども。

 さて来年はどんなブログになって行くんだろうか。

 多分、旅についてのブログが多くはなっていくんだろう。今年の沖縄旅もそうだったが、今まで行ったことがないところも、これからはどんどん行く予定だ。今までと同様の、本を読んで、映画を見て、写真を見て撮って、というのは変わらないはずなので、ブログの種別が増えていくことになるだろう。

 読書は、やはりKindleによる読書が増えていくことだろう。あの、持ち運びの良さはとにかく便利である。問題は未だタイトル数が少ないことで。しかし、これは時間が解決してくれることになるだろう。多分、今後書籍の電子化はどんどん加速していくだろうし、ベストセラーになる条件も電子化しているかどうか、ということによっていくことになるだろう。

 となると、問題は電子化する余力が出版社にあるかどうか、ということになってくるだろう。電子化する力が自分のところにないと考える出版社は、著者自らが電子化することに拒否できないだろうし、あるいは紙の出版権はその出版社に渡しても、電子化はまた別の出版社に渡す著者も出てくるだろう。自ら電子化できない出版社はそんな著者の動きを抑えることはできない。となると、最初の紙の出版社は自分で新刊の宣伝を行いながら、電子では他社の出版物を宣伝することになってしまうということになってしまうので、嫌でも自ら電子化をするしかなくなってしまう。

 ということで、今後、書籍の電子化はどんなことがあっても、出版社が自らの権益を守るというためにも、嫌でも進んでいく方向性なのだ。

 これは楽しみである。日本もアメリカ並に書籍の電子化は進んでいくんだろうな。そうなると旅に出る時にも沢山の本を重い思いをして持っていく必要はなくなるし、Kindleだけを持っていけばいいというのは大変便利である。

 どれだけの本を電子で持って行って旅に出るか、というのは今後の電子化の結果を見ないと何とも言えないが、少なくとも「旅に持っていく本は電子書籍のみ」という流れは否定できない。

 旅の荷物が減るのは大変いいことだ。

 写真だって、ちょっと前までは撮影機材一式と大量のフィルム(それもカラーとモノクロを)持っていかなければならなかったのが、今はズームレンズを付けたデジタル一眼レフ一台と予備のコンパクト・デジタルカメラだけで済んでしまう。

 ただし、ブログを書くためのパソコンだけはまだ重たい。これがタブレットで済んでしまえばもっと楽なんだけれども、しかし、まだタブレットでは2000字を書くのはツラいので、しょうがない。

 まあ、パソコンとデジカメと電子書籍が「旅の持ち物三大要素」になっていくのだろうな。

 そんな旅を楽しんで行きたいと考えます。

 来年もどうぞよろしく、ご愛読のほどを……。

2012_12_29_020_2Nikon D7000 AF-S Nikkor 10-24mm @Shakujii Met. Park (c)tsunoken

2012年12月30日 (日)

『MAKERS』が予想する「第三次産業革命」

 いよいよ今年の掉尾を飾る書評というか、まあ、いつもの「本について勝手なことをほざく」ブログではありますが、『ロングテール』『フリー』という言葉を生み出したクリス・アンダーソンの『メイカーズ』であります。私はKindle版で読んだ。

 単純に言ってしまうと、3Dプリンタが起こす「第三次産業革命」が現在メイカー・ムーブメントとなって結実し、誰もが「小さなメイカー」になって起業の平準化が起きるということなのだが。

『MAKERS――21世紀の産業革命が始まる』(クリス・アンダーソン著/関美和訳/NHK出版/2012年10月23日刊)

 つまりそれは;

『1 デスクトップのデジタル工作機械を使って、モノをデザインし、試作すること(デジタルDIY)。
2 それらのデザインをオンラインのコミュニティで当たり前に共有し、仲間と協力すること。
3 デザインファイルが標準化されたこと。おかげでだれでも自分のデザインを製造業者に送り、欲しい数だけ作ってもらうことができる。また自宅でも、家庭用のツールで手軽に製造できる。これが、発案から起業への道のりを劇的に縮めた。まさに、ソフトウェア、情報、コンテンツの分野でウェブが果たしたのと同じことがここで起きている』

 ということ。つまり、それが3Dプリンタによって可能になるというのだ。

 さらにクリス・アンダーソンは電気自動車メーカー、テスラモータースの例をあげながら、次のように言う。

『自動車産業に限らず、オートメーションの占める割合が増えて労働力に依存する部分が減れば、人件費の低い国で生産する意味はあまりなくなる。原材料は――プラスチック、ボーキサイト(アルミニウム鉱石)、リチウムでさえも――グローバル市場で売買され、全員がほぼ同じ価格を支払う。残りのコストは、土地の値段、電気代、そして税金だ。それらはまだ西側諸国の方が高いが、人件費に比べれば、格差ははるかに小さい。ロボット工場の台頭によって、これまで数世紀ものあいだ続いてきた、安い労働力へと向かうグローバルな貿易の流れは、終わりを迎える可能性がある』

 と、つまりいまアップルが行おうとしている「製造拠点のアメリカ帰り」という動きを、既にこの時点で予想していたのである。

 3Dプリンタについてはこの数週間、いろいろなKindle本を読んできた。その結果分かったことは;

1 現在の3Dプリンタ技術ではまだプラスチックなどの、比較的「柔らかい」素材でしかモノを作れない。
2 現在の3Dプリッタ技術ではまだレゴブロックや模型飛行機などの、比較的「小さい」モノしか作れない。
3 とは言うものの、そんな3Dプリンタ技術でも、銃器などを作ることは「出来ないことではない」。
4 「小さいモノ」ができるということは、数年の内に「大きな飛行機」でも、「金属などの硬い素材」であっても、出来るようになるだろう。

 ということである。

 つまり、クリス・アンダーソンが言う、まさに「第三次産業革命」が、今まさに起きようとしているということなのだ。

『1950年前後の情報時代の幕開け、1970年代後半から1980年代はじめのパーソナル・コンピュータの開発、そして1990年代のインターネットとウェブの出現は確かに革命だった。しかし、それは製造業を民主化し、その能力を増幅することではじめて、「産業」革命となる。それが、いまやっと起きはじめている。第三次産業革命とは、デジタル・マニュファクチャリングとパーソナル・マニュファクチャリングが一体となったときにこそ起きるもので、それがメイカー・ムーブメントの産業化だといえる』

『当初、ウェブはテクノロジー企業と大手メディアによって支配されていた。彼らは既存事業を改善するためにウェブを使っていただけだった。しかし、まもなくソフトウェアとハードウェアが発達し、普通の人々にもウェブが身近になると(つまり、民主化されると)、みんなが自分のアイデアや専門知識やエネルギーをそこに注ぎ込むようになった。いまではウェブのかなりの部分は、アマチュアやセミプロ、そしてテクノロジー企業や大手メディアの従業員以外の人によって、成り立っている。
「無重力経済(ウェイトレス・エコノミー)」、つまり情報、サービス、知的財産といった形のないビジネス(「足の上に落ちても痛くないもの」から成る経済)は、なにかと話題になりやすい。しかし、現在、ビット経済の大部分を占めるのはこの形のない情報産業で、大きいといってもまだアメリカのGDPの五分の一にすぎない。そのほかのすべての産業、たとえば、サービスセクターのもっとも大きな部分を占める小売業は、ものを作り、運び、売る活動にほかならない。したがって、もの作りのプロセスを変えることはなんであれ、実態経済に大きな影響を与える。それが、本当の活動につながるのだ』

 アメリカを特徴付けるのは、バックヤードのマニュファクチャとも言うべきガレージの存在だろう。多くのスタートアップ企業がそんなバックヤードのガレージから生まれている。そんなアメリカらしい、メイカー・ムーブメントなんだろう。つまり、誰でも「何かを作り出せば」メイカーとして起業することが可能なのだという、一種のアメリカン・ドリームだ。

 そういえば、シリコンバレーのそばのサン・マテオというところで5月に「メイカー・フェア」というのが行われているそうだ。現状では奇妙奇天烈なモノばかりが出品されているそうだが、その辺がしかしアメリカらしいところで、そんな中から新規の製品が生まれてくる可能性もあるのだろう。

 来年の5月18日19日にも開催されるらしい

 楽しそうだ、行ってみようかな。

2012年12月29日 (土)

2012年 出版界10大ニュースにことよせて

2012_12_28_005_2

「出版界唯一の専門紙」と自称する『新文化』12月27日号のカバースーリーが毎年恒例の『出版界10大ニュース』である。まあ別にことさら「10大」である必要はないと思うし、別に「重大ニュース」で良いと思うがやっぱり10個にしたいのかな。で、そのそれぞれに私の「眇目コメント」を付けてお知らせします。

[1]「緊デジ」難航するも目標達成―出版社の関心度高まる

 経産省から10億円の補助金を得て、電子書籍の普及と東日本大震災の被災地支援を目的にした「コンテンツ緊急電子化事業」が開始され、事業主体の日本出版インフラセンター(JPO)から6万点の電子書籍を目標に、制作・管理・配信する運用スキームが発表され、2月から説明会が開始された。4月には産業革新機構から出版デジタル機構へ総額150億円の出資枠が用意され、5年後に100万点・1000億円の市場創出構想も発表された。しかし、8月下旬段階でのタイトル申請は2200点に留まり、JPOでは慌てて中小出版社の要望に応え、申請条件の緩和措置をとり、結局、最終的には申請提出出版社は500社前後に、タイトル申請は6万5000点になるようだ。

 しかし、私としてはこれはちょっと危険な兆候ではないかと考えるのだ。本来、出版業というものは社会のメインストリームではなく、むしろ「外れ」に存在するものであり、行って見れば「河原者の集まり」、そんな「傍流業界」に国や公共の金が流れ込むことは、あまり良いことではない。つまり、そうやって国や公共のものとの関連が強まるということは、結局、国や公共のところからの規制も受け容れなければならなくなるからだ。まさに、新聞や放送局と同じような立場に出版社がなってしまうことを懸念するのだ。

 別に、資本の余裕がある出版社が書籍の電子化をすればよいし、もともと中小出版社の書籍が電子化したって、そんなに売上には寄与しないのだ。だったら、それはそれで電子化しないままでもよいのである。

 まあ、取り敢えずは目標達成したJPOにはお祝い申し上げるが、まあ、そんなことして無理やり電子化したって、あまりいいことはないぞ。

[2]本格的電子書籍時代の幕開け―キンドルなど出揃い 加速

 11月のアマゾンKindle日本版の発売(7月の楽天koboも加えてもいいかな)をもって日本に本格的な電子書籍時代がやってきた、ということなんだろうけれども、問題は相変わらず電子書籍のタイトルの少なさであろう。講談社がかなり積極的に新刊の電子化を進めているが、まだまだ少ないし、むしろ旧版の「在庫切れ再版予定なし」という「ほぼ死」状態のタイトルをもっと積極的に電子化を進めるべきではないだろうか。例えば講談社文庫『小説 琉球処分』とか。電子化することによって、そうしたタイトルはまさに「ロングテール」の売れ行きを示すはずだ。

 しかし、やはり電子書籍は便利である。私も12月になってやっと届いたKindle Paperwhiteでもって、今年の12月後半の読書はほとんどKindleばかりになってしまった。さらにその読書のほとんどがKindle本という電子書籍でしか読めない本ばかり。紙の書籍も買ってはいるんだが、読まないまま積読状態。正月休み(って、いつも「休み」ですが)に読みますか。

[3]書店M&A 再編の動き急―トーハンが明屋、BFを買収

 M&Aという産業界では当然のビジネスがやっと書店業界にも及んだということなのでしょうか。何か、やっと普通の産業になったような……。これまでは大日本印刷による丸善、ジュンンク堂、文教堂、TCRの買収が目立っていたが、トーハンによるこうした書店の買収は、まさしく垂直統合の典型例であり、日販によるTSUTAYAとの業務提携への対抗策だろう。

 M&Aの直後は元々いた従業員やアルバイトの解雇は行わないようだが、いずれは経営合理化が必要になるので、当然、店舗や従業員のリストラが行われることになるだろう。

 まあ、その時に独立起業するもよし、別業界に移るもよし、そんなにリストラには怯えないで、常にそれに備えておくようにしましょう。所詮、企業なんてそんなもんです。

[4]出版者の権利付与問題―著作隣接権 法制化求める

 だから、こうして出版社があまりお上にすりよってはいけないんだってば。もっと、現場の民法レベルで対応できるはずなんだけれどもなあ。

 著作権というのは財産権で売買できるのだから、むしろ、大手の出版社は「著作権の買取」あるいは「貸借」ということを、真剣に考えるべきなのだ。別に「大手」じゃなくても同じことはできるけれども、問題は著者の出版社に対する信頼感かな。

 レコード会社の「著作隣接権=原盤権」は、レコード会社自身が出資をして、レコーディング・アーチストなんかを雇ってレコード原版音源を作ったというのがバックボーンにあって、その音源を勝手に使われちゃかなわんということでレコード会社が作った著作権思考法なのである。

 しかし、出版社の印刷原版はそれほど金はかからないし、原版を作るためにアーチストは必要ないでしょ。

 だから、出版社が著者から「著作権を買うか、期間を設定して貸借」すれば、出版社は「自ら持っている、一番強い著作権を担保」に電子化も海賊版退治も自由に出来る。勿論、著者にはちゃんとした対価を、その都度支払うという契約を結んでおけば良い。大手出版社は出版契約はちゃんとやっているだろうし、印税もちゃんと支払っているだろうから著者からの信頼もあるはずなのだし、それを一歩踏み込んで「著作権譲渡契約」あるいは「著作権貸借契約」を締結すればよいだけのこと。

[5]送・返品同日清算で対立―日書連、取次2社を公取に申告

 これについては、コメントありません。まあ、取次がその立場の強さを理由に書店に偏務的取引を行っていた、という事実を指摘されたってだけのこと。日書連(本屋さんの組合)が今まであまりにも弱気だったってことでしかない。

[6]トーハン社長交代騒動―混乱の中「藤井体制」誕生

 要は、上瀧博正取締役相談役と小林辰三郎取締役の旧体制派と山崎厚男会長と近藤敏貴社長の新体制派(?)のモメ事なのであります。結局、財務顧問の藤井武彦氏が社長になり、近藤社長が副社長になる新体制を発表し、「山崎・近藤体制」を引き継ぐことに。

 こんなことやってるから、トーハンは日販に抜かれてしまうのである。ダメな旧社会・旧会社のやり方の典型例である。そんなことしてると楽天に寝首をかれちゃうぞ、というのは次の項目。

[7]客注対応迅速化で実験―楽天が二次取次に参入

 楽天ブックスの在庫を活用し、京都の大垣書店と、広島・廣文館、鳥取・今井書店で作る「大田丸」という書店グループが、客注を楽天から直接宅配便でお客さんに届ける、というもの。そうすればお客さんは注文の翌日か2日位で本を手に入れられるという。楽天は、現在は外部の宅配便業者を使っているが、いずれは自社配下に運送会社を運営する予定もあるので、そうなるとアマゾンなみに「当日配送」も可能になる。

 これは楽天が二次取次に参入というだけではなくて、取扱量が増えれば一時取次にもなる布石であると考えた方が良いだろう。その次は大田丸を楽天配下に収めるという、深謀遠慮の可能性も考えた方が良い。

 ねえ、トーハンさん。そんなくだらないことでモメている場合じゃないでしょう。

[8]大洋社が改革へ中期計画―本社建替え、賃貸ビルへ

 結局、中小取次の運命なんだろうな。

 同日付けの別紙面で栗田出版販売も減収減益決算を告げていた。大洋社もトーハンや日販に取引書店をどんどん取られてしまい、結果、書籍取次業では食べていけなくなり、とはいうものの不動産を持っているので、賃貸ビルをメインとした不動産業で食っていくということ。数年後の大洋社は不動産会社になっていくんだろう。

[9]大震災復興基金―義援金2億6000万円弱

 特にコメントはありません。

 ちょっとだけ言っちゃうと、民放連なんかのテレビ・チャリティー番組を作って、スポンサーからは広告料をせしめて、視聴者からは募金を募って、あとはタレントにはチャリティー出演料だけ払って、結局は自社は何ら懐は傷めずにという義援金の集め方よりは、少しはマシな出版業界かな、というだけのこと。

[10]ミリオンセラー 年末にやっと―文藝春秋「聞く力」1点のみ

 ネット社会になって、モノが「ロングテール」化すれば、当然短期間で沢山売れる商品はなくなっていくわけで、ミリオンセラーが出なくなっていくのは当たり前の話。

 むしろ、皆が皆同じ本を読んでいるってのが気持ち悪い。

 以上、今年の10大ニュースであります。

 私的には2番目のKindle発売かな。これまでiPad、SONY READERと続いての電子書籍ではあるが、やはり後発になればなる程よくなるわけで……。

2012年12月28日 (金)

『セルフパブリッシング狂時代』に狂ってみますか?

 結局読んでしまうんだな、このKindle本。要は1時間足らずで読めてしまうという簡便さがいいんだろうな。

『セルフパブリッシング狂時代』(佐々木大輔/Kindle/2012年11月11日刊)

 ということで、この面白さは「ブログ」という、今私が書いているこの「そのもの」の面白さがKindel本にも同じことが言えるということなのだ。つまり、ブログが誰にでもどこでも物事を発信できる面白さを体現させるということと同じことが、「本」の出版でも出来てきた、ということなのだ。まあ、「本」とは言っても、実際の「本」ではないけれどもね。あくまでも「仮想の本」「実態を持たない本」なのであるけれどもね。でも、この「実態を持たない、仮想の本」が世の中の「本」というものの実態を変えてしまいそうなのだ。

 以下、気になる部分を抜き書きすると;

『ブログというサービスが、「出版(Publishing)」という言葉の可能性を紙だけでなくウェブにまで拡げたように、今後さらに電子書籍にまで拡がっていく広義の「出版(Publishing)」をサポートしていこう、という意味を込めたものです』

『それと同じことが、KDP(Kindle Direct Publishing)などを通じたセルフパブリッシング(個人出版)の分野でも可能になっていくのではないでしょうか』

『ブログが登場した当初、物書きとしては素人であるブロガーの書く記事が、検索サイトなどであまりにも上位に表示されまくるので、専業のライターのなかには「素人が書いた文章を読みたいと思う人なんているのか?」と言う人が多くいました。しかしその答えは、いまや明らかです。素人が書く記事のリアルタイム性や、対象への惚れ込み方には、専業のライターには真似できないブログならではのよさがあり、それを求める人が数多くいます。
 つまり、新聞や雑誌に求められる記事と、ウェブ上で求められる記事の内容は別だということです』

『・紙とは違った、電子書籍ならでは(スマートフォンやタブレットPCならでは)の作品に対するニーズが顕在化してくる
・そのニーズにあわせて素早く、かつ大量に作品をリリースし続ける個人出版作家が登場し、彼ら彼女らが、電子書籍市場を大きく育てていく』

『言い換えますと、まず日常的にテキストを吐き出すというスタイルがあり、その延長になんらかのパッケージやマネタイズの仕組みが時代時代にあわせて登場してくる、という捉え方です。ケータイ小説に投稿する女性も、やっていることはブロガーと同じだと思います』

『いまネットにあるコンテンツは、プロが宣伝のために作ったものと、アマチュアが趣味で作ったものしかない。プロが作った“ド本気”のコンテンツが載る場所を作りたかった』という「cakes」の加藤貞顕氏に対し;

『「アマチュアがド本気で作ったコンテンツが、プロがノルマとしてこなしている平均点を軽く超え得る」という事例をこれでもかというくらい見てきましたので、この現状認識にには違和感を感じました。誰でも個人出版できる時代に、プロであるとはどういうことなのか? そんな議論のきかっけにも出来そうな、興味深い意見だと思います』

『ブログが登場したとき、情報共有しないことが機会損失のリスクを生んだように、いまや、個人出版をしないことは次の大きな機会損失を生んでいくのではないでしょうか。だから、いますぐやってみるべくです。紙の代替ではなく、ウェブの延長として、気軽に個人出版してみることをオススメします』

 という具合。

 まさにブログを書くのと同じ簡便さでもって、Kindleで本を出してみませんか、という提案なのだ。まあ、いまやブログはHTMLなんか書けなくても書けるようになってしまっており、だからこその盛況なのであるけれども、まだ電子書籍はEPUBを書けないとできないという、若干の障壁はあるにはある。ただ、EPUB自体はそんなに難しいフォーマットでもないようだし、一張やってみますか、電子書籍。

 これは面白そうだな。

2012_12_26_006_2Fujifilm X10 @Ochanomizu (c)tsunoken

2012年12月27日 (木)

結局読んでしまった『3Dプリンタの社会的影響を考える』

 12月29日の当ブログで読まないだろうと書いた『3Dプリンタの社会的影響を考える』を何故読んだのか? それはあるブログで「3Dプリンタによる銃器の製造が法律で禁止されそう」 という記事を読んで、それについての記述がこの本に書かれている、ということを読んだからなのだ。

『3Dプリンタの社会的影響を考える――英国の政策レポートをもとに』(小林啓倫著/Kindle/2012年11月15日刊)

 それを見る前に「Wiki Weapon」を検索すると出てくるこのサイトを見て欲しい。つまり、CADソフトと3Dプリンタのおかげでできたプラスティック製のライフルで実弾が発射できるということであり、その実弾発射シーンである。多分これはM4カービンのデッドコピー機であるようだ。しかし、プラスティック製のため、6発撃ったところで銃は壊れてしまったそうであるが、素材の改良が出来れば十分実銃として使える銃器ができることが分かった(その後のYou Tubeではその様子が見て取れる)。あるいはCNC旋盤を使えば金属製の銃器の製造も不可能じゃないわけで、そうなればもうちょっと性能の良い銃器もできる筈なのだ。

 そのことをこの『3Dプリンタの社会的影響を考える』では以下のように述べている;

『「個人で何でも作れる」ことが3Dプリンタのメリットのひとつなわけだが、それは逆に、社会にとって最大のデメリットになり得る。言うまでもなく、武器などの危険な物品が製造されてしまうリスクである。
 テキサス大学法学部に通う学生であるコーディ・ウィルソンは、「ディフェンス・ディストリビューテッド(Defense Distributed、直訳すれば「分散型の防衛」)という奇妙なグループを設立し、さらに奇妙な名前のプロジェクト「ウィキ・ウェポン(Wiki Weapon)」をスタートさせた。その目的は「3Dプリンタで製造可能な銃の設計図をつくり、それをネット上で公開する」というもの。プロジェクトは2万ドルの資金調達にも成功していたが、それを報じる記事がガーディアン紙のウェブサイトに掲載されたことから論争を呼び、同グループが製造に使用していた3Dプリンタのメーカー(米ストラタシス社)が作業場に押し入り、機材を差し押さえるという結末を迎えることとなった。その後ウィルソンらは別のパトロンを見つけ、新たな機材と弾道検査まで可能な作業場を得てプロジェクトを続行していると報じられている』

 と。

 で、その続行されたプロジェクトの結果出来てきたのが、先のプラスティック製の銃器というわけなのだ。一度破綻した「3Dプリンタで銃器を製造する」プロジェクトであるけれども、すぐさま別のパトロンが現れて、取り敢えず一度は銃器の製造に成功するというのが、いかにも「銃社会」アメリカの姿ではある。

 銃規制派は「銃はアメリカ社会の自由と民主主義の破壊者だ」といい、全米ライフル協会などは「銃はアメリカ社会の自由と民主主義の守護者だ」という。銃規制派は「アメリカ人は銃を持たなくても安心して生きられる社会にするためには大きな政府で国民の安全を守るべきだ」といい、銃規制反対派は「アメリカ人は銃を持つことによって自らの安全を自ら守り、小さな政府を作るべきだ」という。

 どちらが正しいのかは別にして、イギリスの圧政から自らを解放し、自由と民主主義を作り上げたのは「銃の力」によるものだという歴史を持っているアメリカでは、なかなか銃規制というのは通りにくい論理なのだろう。オバマ大統領も今回の銃乱射事件を受けて、銃規制の強化を再び考えているようだが、まあ、またしても反対派の抵抗によって銃規制の強化は無理だろう。

 アメリカでは犯罪歴やドラッグ歴などの調査をして銃器販売の際には使っているようだが、そんなものはいくらでも抜け道がある。一方に「銃を売りたい」ひとがいて、もう一方に「銃を手に入れたい」ひとがいる限りは、そんな程度の規制では銃器販売に足枷をはめる事はできないはずである。

 問題は「銃そのもの」ではなく、「銃を持つ人」なんだけれども、「銃を持つ」ということは「力の源泉を手に入れる」ということである。自動車を持つ人が「スピードの源泉を手に入れる」というのと同じく、問題はその「力の源泉」「スピードの源泉」を如何に自らの理性のもとにコントロールするかということだろう。問題は「機械」ではないということなのだろうが、しかし「銃を持った人は自ら力を持った」と錯覚し、「自動車を持った人は自らスピードを持った」と錯覚する。そうすると、銃も自動車も、それを利用して人を殺傷することが起こってしまうわけなのである。

 コーディ・ウィルソンらがそんな事をする人たちではないことは分かっているが、でも「そんな事をする人たち」は必ず出てくるわけで、「3Dプリンタによる銃器の製造が法律で禁止」されるようになってしまうわけである。

 テクノロジーというものは当然そこには表裏があって、今回はその裏面が顕になってしまった訳であるが、こうした危険性は常にある。

 便利さを受けれるだけではなくて、その裏面にはこんな危険なこともあるのだ、ということを知らされた一件ではあった。

2012_12_26_005_2Fujifilm X10 @Akihabara (c)tsunoken

2012年12月26日 (水)

『北井一夫、いつか見た風景』

 北井一夫といえば、日大藝術学部の闘争を撮影した『バリケード』や成田闘争の『三里塚』というかなり尖った写真家なのかと思ったら、その後『フナバシストーリー』なんかのほんわかした写真を撮り、最近は『ライカで散歩(Walking with Leica)』なんていう、すっかり肩の力の抜けた写真を『日本カメラ』なんかに連載したり、いろいろ変遷をしてきた写真家である。

 そんな北井一夫の、ある種の回顧展を東京都写真美術館で開催中だ。

Kazuo_kitai2(c)Kazuo Kitai

2012_12_23_005

 展示作品は『抵抗』『神戸港湾労働者』『過激派・バリケード』『三里塚』『いつか見た風景』『村へ』『境川の人々』『フナバシストーリー』『おてんき』『1990年代北京』『ライカで散歩』『道』などから全205点。

 それらの写真を順を追って見てくると、しかしそのカメラスタイル自体には変化はなく、要は被写体によって変化するように見える映像の不思議な姿である。

 中国で生まれた北井は、言ってみれば日本に故郷はない。その故郷喪失感が『フナバシストーリー』を撮らせたと言っては言いすぎだろうか。農家の長男は家を継がなければならないので、故郷を離れるわけには行かない。しかし、二男・三男はそんな故郷を離れて、当時は新しいファミリータウンであった船橋ではないフナバシに赴き、新しい生活をそこに見つけ、新しい故郷をそこに作り上げようとする。そんな「小さな幸せ」を育む「新しい人々」の姿を、北井は見出したのだろう。

 同じような眼で『抵抗』『神戸港湾労働者』『過激派・バリケード』『三里塚』を見てくると、なんかこれまで持っていた北井に対するイメージが変化してくる。

 例えば、『過激派・バリケード』を見ると、本来非日常的なバリケード闘争が、バリケードそのものが学生たちにとっての「生活の場」となって、日常的な風景になってしまうと、それら殺伐とした風景が、実はほんのり暖かい風景に変じているのである。

『1990年代北京』は、まだ今のように豊かになっていない頃の中国・北京である。そこも、なにか懐かしさが感じられる場所になっている。

 60歳になって動くのが面倒になってきたので、ライカを持って散歩カメラというお気楽な撮影スタイルになったというのだが、しかし、それも基本的に北井の撮影スタイルが変わったわけではない、撮影対象が変わっただけなのである。

 つまり写真家にとってのスタイルの変化とは、実は撮影対象の変化ということに過ぎない、という永遠の真実だけが、そこにある。

『北井一夫、いつか見た風景』は2013年1月27日まで開催中。

2012_12_23_018_2Fujifilm X10 @Yebisu (c)tsunoken

2012年12月25日 (火)

Weekly progress report form Fitbit

Hi mxl01056, here are your weekly stats.
12/17/2012 to 12/23/2012
WEEK'S MOST ACTIVE DAY
Thu, Dec 20
WEEK'S LEAST ACTIVE DAY
Mon, Dec 17
TOTAL STEPS
53,852
DAILY AVERAGE
7,693 steps
BEST DAY
14,430 steps
TOTAL DISTANCE
38.67 km
DAILY AVERAGE
5.52 km
BEST DAY
10.36 km
TOTAL FLOORS CLIMBED
93
DAILY AVERAGE
13 floors
BEST DAY
17 floors
TOTAL CALS BURNED
16,937
DAILY AVERAGE
2,420 cals
BEST DAY
2,831 cals
WEIGHT CHANGE
0.4 kg
LIGHTEST
92.3 kg
HEAVIEST
93.8 kg
AVG SLEEP DURATION
6 hrs 45 min
AVG TIMES AWAKENED
10
AVG TIME TO FALL ASLEEP
0hrs 7min

Last week's step winners

1 mxl01056
53,852 steps
See current leaderboard

Last week's badges

See all of my badges

What's the buzz?

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White Christmas Eve in Niigata

 12月24日、東京は晴れ……ということは、新潟は雪っ! ということで新潟まで雪を見に行ってきた。他に用事はない。何もない。まさしく酔狂である。しかし、たまに発症する“旅に行きたい病”に今朝突然罹ってしまったのだから仕方がない。

 こういうことが出来るのがリタイヤ組のいいところ。現役ではこんな事は出来ない。まあ、もっとも出張で行きたくなくても行かなければならないこともありますがね。

2012_12_24_007_2東京は晴れ、と言っても写っているのは『キューポラのある街』ですが

 と言っても。新潟なんて近い近い。上野から新幹線に乗れば1時間ちょっとではや『雪国』の越後湯沢だし、終点の新潟でも2時間足らずである。

2012_12_24_012_2国境の『雪国』です。越後湯沢付近

2012_12_24_016_2_3長岡駅付近も真っ白

 途中、長岡までは完全に雪国という雰囲気。周囲は銀世界というよりまったく白一色である。

 で、新潟に着いてみると意外や意外、新潟市の中心部には雪が見えない。まあ、新潟平野の海沿いの町が新潟なんだから、雪がなくても当たり前か。

2012_12_24_084_2

2012_12_24_077_2_2東新潟駅付近
 

 しかし、市の郊外に行けば、まだちゃんと雪が残っている。さすがに新潟である。ということで、新潟で雪見酒というのは長岡あたりで降りれば可能だったのだが、新潟市の中心部では、それは無理。

 しかし、田中角栄氏が『列島改造論』を考えたくなるのもよくわかる、雪深い新潟5区(長岡、小千谷、魚沼、南魚沼、湯沢)であることは確かだ。こんなところで育つと、やはり三国山脈をブチ壊して雪を関東地方に降らせたくなるんだろうな。本来、土木作業というのは道路を作ったり、空港を作ったりなどというインフラを作ることにつながるはずのものであるのに、除雪作業というのは「何物をも生み出さない土木作業」なのだから。

Nikon D7000 AF-S Nikkor 10-24mm @Niigata (c)tsunoken

2012年12月24日 (月)

『記録は可能か。』展

 東京都写真美術館で動画中心の展示『記録は可能か。』を見る。

Quest_for_vision3

2012_12_23_005_2

 しかし、問題は『記録は可能か。』という問いかけではなく、むしろ「ドキュメンタリーにとって真実とは何か」ということではないのだろうか。

 16mmのフィルムに収められた映像はあくまでも映像に過ぎず、現実ではなく、現実に起こったことの光の断片であるに過ぎない。しかし、人はそれを事実の記録として読み込むことで、「事実の代わりのもの」であるという受け取り方をするのだ。

 世界史上初めての映画はリュミエール兄弟による『リュミエール工場の出口』というタイトルのドキュメンタリーであった。現在は「ドキュメンタリー」は映像の1ジャンルとして定着しており、「ニューズリール」などと同様の地位を獲得している。しかし、それは真実だろうか。いわゆる「フィクション」として語られる「劇映画」の世界であっても、しかしそれは俳優が演じている劇を捉えた「ドキュメンタリー」なのではないか。

 それを証明してみせたのが、日本の「アンダーグラウンド映画」の嚆矢とも言うべき金坂健二の『アメリカ・アメリカ・アメリカ』(1966)ではなかったのか。ドキュメンタリー・フィルムでありながらアヴァンギャルドであるその映像は、フィクションとノンフィクションの境界をいとも簡単に乗り越えてしまっている。おおえまさのりの『No Game』(1967)や宮井陸郎の『時代精神の現象学』(1967)や『シャドウ』(1969)、城之内元晴『日大大衆団交』(1969)なども、現実社会のいろいろな問題を捉えていても、映像はどちらかというと彼らの内面社会を捉えているのである。

 それが、まさに「ニューズリール」である小川紳介の『三里塚・第三次測量阻止闘争』(1970)であっても、同じく撮影者・製作者の内面を映し出す映像にほかならないのだ。

 特に「政治の季節」であった1960年代から70年頃にかけての映像はそんなアヴァンギャルドなドキュメンタリーに満ち溢れている。

 ああ、そんな時代があったなあと記憶の彼方になってしまいそうなこの時期に、そうした映像を再び乱すというのも悪くはない。

『記録は可能か。』は2013年1月27日まで開催。

 出品者は金坂健二、おおえまさのり、宮井陸郎、城之内元晴、小川紳介、中谷芙二子、ニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニなど。

2012_12_23_014_2Fujifilm X10 @Yebisu (c)tsunoken

2012年12月23日 (日)

『できるかな ゴーゴー!』って、できるかな?

『できるかな』というのは、もともとNHK教育テレビでやっていたのっぽさんとゴン太くんが出てくる番組であった。別に「中年おばさんがなんか場違いなことに挑む」というものではない筈なんだけれどもなあ。

『できるかな ゴーゴー!』(西原理恵子著/SPA COMICS/2012年11月20日刊)

 西原理恵子さん全開であります。まあ、前半は『できるかな』で『週刊SPA』連載、後半の『たぬきランド』は『漫画サンデー』の連載からの収録なんだけれども。

 しかし、この『たぬきランド』、サブタイトルの「サイバラのグダグダな日常」のとおり、まさしくグダグダな日常を綴ったエッセイ漫画なのであった。例えば107ページ『わたくしのこと』というタイトル。『とりあえずちょぼちょぼ新連載をふやす。→さあ お母ちゃん 仕事せにゃあ→「小説現代」「新潮45」「野生時代」→まんが家なのに まんが本で連載してない。→もうまんが家でない→でも仕事はくる→そもそも まんが家でなかった。→そりゃそうだよなあ→この絵じゃなあ→まんが家生活20年目で気づいちゃったよう。→で、何だろう 私の職種→けっこう雑なカットのついてる文字数の少ないライター。→その割には仕事がおそくてギャラが高い→おおへいな業界ゴロ→ああ まいっちんぐ』という見事な自己分析であります。そうなんだよな、あの「うまへた絵」というか「へたうま絵」というかわからないが、あんな絵で「まんが家」を名乗っているという時点で、もうすごいというか、なんかねえ。

『毎日かあさん』で連載している毎日新聞への愛情116ページ『おい あれですんだと思うなよ』では『連載している毎日新聞に行く。→実業之日本社やら日本文芸社とはくらべものにならないくらい意味なくでかい→部長やら編集長いろいろ出てくる→まっこんなとこでは何ですから一杯ちょっとやりましょうねっねっ→大毎日新聞横高速道路下 屋台にて飲む。→接待。もしや今日のは接待 思いつつ酔って帰る夏の夜。』。118ページ『毎日新聞 その2』では『またもや毎日新聞にゆく→たのもう んがー(自動ドアのあく音)→今回は「毎日かあさん」アニメ化なぞという雲をつかむよなグレイトな話→今回の話進むといいですねー→ま、こんなとこでは何ですから ちょっと一杯 部長やら編集長が出てきて→話がグレイトなのであつかいがテイネイで→社食へ→まま一杯 どーも→帰り道 接待 本日のは接待?→毎日新聞生活家庭部 至急返答しなさい』とか、『毎日新聞 その3』『本日は「毎日かあさん」サイン会である。400人にサイン終了。その後シブヤで接待。→先生しっかり 肩いてーよ→居酒屋へ→あっ おつかれさんです→先に始めてる→あっこれどうぞ→食い残し→あんた誰(生活家庭部(私ののってるページ)部長→できあがり→えー そんなこと言ったかなー きのーの俺にはつきあえねーなー→新聞記者あやまんない→読売 朝日さん お電話下さい』、134ページ『毎日新聞』『毎日新聞にゆく→あ コーヒーどうぞ これアメ玉ですけど どうぞ→いやあ前にまんがで毎日新聞の接待のひどさをかかれてるんで→つまらないもんですがどーぞ→私は今から実業之日本社で越前かにを食べに行くのだが→タグのついた越前かににひってきする インスタントコーヒーありがとうございます→カンロあめも おいしゅうございます いやいや接待は金額でなく気持ち。しかと受けました。毎日新聞接待。まるで駅前の献血ルーム』。とまあ、毎日新聞がおかれている状況がよくわかる話なんだけれども、まあ、それは作家の立場からすれば関係ないわけだ。

 などなど、爆笑はしないが、思わずクスッと笑ってしまうようなエッセイ漫画なのであった。

 しかし、一番笑ってしまうのが最終144ページ『出来るかな』なのであった。

『自分でたてた次の企画→キリマンジャロのぼれるかな→アイスランド、マイナス30度の地に氷でできたホテルがあると聞く。大丈夫室内はかいてきなマイナス10度の保たれております。さむいかな。→エスキモーが食す 世界のはっこう珍味→あざらしのハラの中に鳥をまるごとつっこんでくさらせてくいます。小泉武夫に挑戦→食べれるかな→きちんとした漫画をかいてもちこんでみる。ばりばりの少女まんがとか魔法まんがとか→耳のはえた絵とかかきゃいいんだろ ちょろいちょろい→王道まんが家 どんなふもとでころぶかな』

 なんて最高ですね。4こまめ『きちんとした漫画をかいてもちこんでみる』なんて是非実現して欲しいもんだ。

 まあ、無理でしょうけどね。

2012年12月22日 (土)

Kindleで写真集を買ってみた……が

 Kindleだけの写真集って、やっぱりそれだけのものなのでしょうかね。

「読んでみた」のは浜俊太朗という「週末写真家」の写真集で『Japanese nostalgic landscape』と『秋葉原スナップ 2012-Back to the '90S-』の2冊(?)。

 この浜俊太朗氏ってかなり古いカメラマニアなんだろうか、と思ってブログを見たら1980年生まれだそうだから、まだ32歳の若者(? 私から見たらね)である。ライブドアでプログラミングなんかをやっている、その若者がなんでという位古いレンズで撮影しているわけである。

「Japanese nostalgic landscape』では、カメラこそリコーGXR A12というデジカメであるが、そのカメラがライカMマウントが装着可能なので、レンズはライカ・ズマール5cm/F1.5、ジュピター-12 35mm/F2.8、ルサール20mm/F5.6というかなり「オールド」なレンズを使っているし、『秋葉原スナップ 2012』では、カメラ自体もライカD2というかなり古い本体に先のルサール20mmで撮影している。

 まあ、問題は機材じゃなくて写真そのものだから、まず写真を見てからのことにしよう。で、どうなのよ、その写真は。

 しかし、残念ながらやはり素人写真集はやはり素人写真集ではあるのである。

『Japanese nostalgic landscape』は日本のどこかの(銚子市も入っているし「足立区柳原」なんて地名も見える)地方都市で撮影した、その地の古い建物や街角の写真群である。人は写っていない。唯一写っているのが、これまた古くて多分今は使っていないし、多分、何かの記念に残してあるだけの交番に入っていく和服姿の男性の写真だけだ。なにか、すごくヤラセ臭い写真なんだけれども、ヤラセではないんだろうな、前後のシチュエーションからしてみて。

 一方、『秋葉原スナップ』は、当然ながら人はいっぱい写っているがある(写っていない写真もある)。浜氏に言わせると、彼が撮影した秋葉原は「1990年代を感じさせる秋葉原」ということなのであるが、1980年生まれの浜氏にとっての90年代を感じさせる秋葉原ってこんなもんかな、という感がある。まあ、Windows95が出て、世の中の流れがMacからWindowsに一挙に変わった頃の秋葉原ということなんだろうか。そんな中で週末写真家は『「日本は景観への配慮を軽視している」という意見を見かけることがある。「失われそうな風景を写真に残す」という撮り方は、秋葉原に限らず、現代の街並みを撮影する際にも意識したい事かもしれない』と言う。

 勿論、そういう週末写真家(つまり、それは浜氏だけではなく、日本中に沢山いる週末写真家のことを言っているんだけれども)の考え方は間違ってはいない。ただし、そんなのは週末写真家の自己満足だけであって、実は、周辺の街並みの改造者たちだって知っているのである。で、写真としてバーチャルに残すだけではなくて、実際の街並みを残そうという動きが全国でたくさん動いていることも知らなければならない。

 浜氏が秋葉原を撮影したならば、その周辺の外神田あたりまで足を伸ばしてもらいたかった。実は神田周辺にもそんな街並みや昔の建物を残そうという運動がいっぱいあって、実際に入学者が少なくなって廃校になってしまった小学校なんかを如何に残すかということで、美術や写真なんかの展覧会場になったり、若者の起業支援のための地域拠点になったりしているのである。

 つまり、変わってしまう街の風景にノスタルジックに浸るだけではなくて、そこから生まれてる新たな動きを感じて欲しいのだ。

 街は生きている。私たちが古い細胞をどんどん捨てて新しい細胞によって生きているのと同じで、街も日々新しい細胞によって生まれ変わっているのである。だから、東京は面白いのではないだろうか。「古き良きものを残す」ということはいいことかもしれないが、しかし、同時に新陳代謝しない街は滅びるだけなのだ。

 まあ、「古き良き街」に浸っているだけで良いのは、基本的に「週末写真家」ならではの特権だろう。「職業写真家」であればそうはいかないわけで、どちらかというと「新しい社会」に向けて仕事をしなければならないだろう。たとえ、それが「古い街」を破壊することであろうとも、である。結局、仕事はそんな形で、新しいものにしか価値を見出さないものなのだ。

 浜氏の写真集で特徴的なこの「古いものへの郷愁」というのは、多分、氏の普段やっている仕事、つまり新しいことへの挑戦しかない、というものに対するリ・バランスなんだろう。そんな、個人的な、覚ましく「超個人的な」写真集であっても出版できてしまう、というのがKindle出版の良いところだろう。

 まあ、自費出版とか個人出版というのは前からあったわけで、それがもっと安い費用でできるようになった、というのがKindle出版なのだろう。ほとんどの人は買わないだろうけれどもね。

 それも一興、かな。

2012年12月21日 (金)

Weekly progress report from Fitbit

Hi mxl01056, here are your weekly stats.
12/10/2012 to 12/16/2012
WEEK'S MOST ACTIVE DAY
Mon, Dec 10
WEEK'S LEAST ACTIVE DAY
Wed, Dec 12
TOTAL STEPS
69,654
DAILY AVERAGE
9,951 steps
BEST DAY
14,562 steps
TOTAL DISTANCE
50.01 km
DAILY AVERAGE
7.14 km
BEST DAY
10.46 km
TOTAL FLOORS CLIMBED
103
DAILY AVERAGE
15 floors
BEST DAY
22 floors
TOTAL CALS BURNED
17,665
DAILY AVERAGE
2,524 cals
BEST DAY
2,763 cals
WEIGHT CHANGE
0.2 kg
LIGHTEST
92.7 kg
HEAVIEST
93.8 kg
AVG SLEEP DURATION
6 hrs 55 min
AVG TIMES AWAKENED
8
AVG TIME TO FALL ASLEEP
0hrs 6min

Last week's step winners

1 mxl01056
69,654 steps
See current leaderboard

Last week's badges

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『50歳の常識 vs. .25歳の常識』というよりはハイパーインフレの方が心配だ、って論点が違っちゃったかな

『AERA』12月24日号のカバーストーリーが『50歳の常識 vs. 25歳の常識 真逆の価値観が共存する社会』という、いつもの「世代論」的な切り口の特集なのだが、ちょっと気になって読んでみた。

 そこで取り上げられている人々は、まず松本大・マネックス証券社長・48<「日本企業が王道の世代、成功体験で海外進出鈍い> vs. 村上太一・リブセンス社長・25歳<企業に就職は考えず、「自分にスキル」こそ安定。香山リカ・精神科医・52歳<「vs構造」で考える、豊かさ享受に申し訳なさ> vs. 桑原悠・新潟県津南町議・26歳<「親の背中」模範ではない、私たちは「見本がない世代」>。という対比であり、まず書き出しがアルファ・ブロガーイケダハヤト氏(26歳)の「働かない」で生活する実践の紹介である。

 イケダ氏は言う。

『大企業もあてにならない時代ですから、僕らの世代は『貧困がデフォルト(規定値)になる。そういう時代に必要なのはお金ではなく、お金がなくても生きていける力だと思います』
『極端に言えば、情報やつながりがあってお金を使わない人が豊かで、情報やつながりが乏しいためにお金を使うしかない人は貧しい、という価値観の転換が起こるかもしれません』

 と。

『多くのアラウンド50世代が、生まれた時にはまだ白黒テレビで、カラーテレビになった喜びを覚えていると語った。一方、アラウンド25世代は中高生時代からパソコンや携帯電話を使いこなす人も少なくない。「絶対的豊かさ」は圧倒的に25歳が上なのに、社会に出た時点での景気は正反対だ。
 大学新卒の場合、50歳が就職した85年はまさにバブル前夜。一方、25歳が就職した10年は世界中が経済不況に陥った景気低迷期だった。日経平均株価の終値が前年末比で13%上昇して1万3千円を超えた85年に対し、10年は3%下がり終値が1万228円。この圧倒的な差は、その後の価値観に大きな影響を与えている』

『日本の大多数が「中流」で、同じような人生を送る時代は過ぎた。世代間ギャップに加え、世代内ギャップもある。「幸せの定型」はもうどこにもないのだ』

 という記事のまとめには、まあ同感なのだが。

 ところが、先日の衆院選で勝った自民党の安倍晋三総裁はインフレターゲットを設け、物価目標を2%に設定し、それに向けて大幅な金融緩和を訴える。市場もそれにいち早く反応し、日経平均株価は1万円を超し、円相場もかなり下がってきた。

 しかし、そんな昔の経済成長期と現在では経済環境がまったく異なっている。一橋大学経済研究所の小塩隆士教授は『こういう政策が出ること自体、経済成長への幻想がある』と片づけている。まさに、負担を将来に先送りしただけの無責任な政策であるとしか言えないだろう。

 まさにその後の記事『2012総選挙』にもあるとおり;

『物価が上がると長期金利も上がる。住宅ローンや、企業向けの貸し付けの金利上昇につながり、利払い負担がふくらんでしまう。
 長期金利が高止まりすると、投資家は債権を買わなくなる。国債が売れなくなると、財政再建どころか、さらなる財政悪化が心配される。
「財政悪化の悪しき先行事例になるかもしれません。そもそもデフレは複合的な要因がからんでいます。カネだけでなく雇用改善、賃金上昇、設備投資・収益拡大の施策が必要です」』

 と言う第一生命経済研究所主席エコノミストの熊野秀生氏の指摘である。

 つまり、経済再建のないデフレ・円高対策ではむしろハイパーインフレの恐れこそあれ、経済再建などは有り得ないのだ。当然、市場もそんなことは分かっているから、今は多少のご祝儀気分で日経平均もあがっているが、多分、それが覚めた頃には途端に株安基調に戻ってくるだろう。

 さらに、今年の春闘では経団連は「一律の定期昇給」を見直すとの提言をしている。まあ、全員一律の定期昇給をしないという新自由主義的な発想はわからないでもないが、それをしもサラリーマンにとっては寝耳に水みたいな発言であるから、現役世代は心を悩ませてしまうだろう。

 こうした無責任な政策が、結果として25歳世代どころか、下手をすれば上の世代も襲ってくるだろう。インフレになってしまい、年金暮らしのお年寄りも実質的な受取額が下がってしまうということになるのだから、無責任極まりない。

 株安基調がいつごろに襲ってくるのか、半年後か1年後かはは予測はできないが、その時に備えておくことだけは必要だ。

 と、ちょっと論点がずれてきたところで、今日はおしまい。

2012年12月20日 (木)

NEXT A CLASS展 with PRODUCTION I.G in Mercedes-Benz Connection

 メルセデスベンツがそれまでの最小クラスであった190Eから移行したCクラスの下に、Aクラス(W168)を出した時はちょっとしたショックだった。えっ、なんでベンツがこんなカッコの悪い車を出すの? という思いと、その腰高なスタイルからドイツで転倒したなんて噂まで出て、それはメルセデスベンツの失態と言われたのである。

 1998年の初代Aクラスから数えて3代目のW176が2013年1月17日に発売開始されることになり、その前2代より全長が400mm長くなり、全高が160mm低くなって、よりスタイリッシュでスポーティーになった。そのプロモーション・ビデオを「何故か」プロダクションI.Gが作り、その記念に「NEXT A CLASS展 with PRODUCTION I.G」という展示会が六本木のメルセンデスベンツのショールーム「メルセデスベンツ・コネクション」の2階で昨日から開催されている。

プロモーション・ビデオはコチラ→ http://next-a-class.com/animation/

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 プロモ・ビデオを見ていただければ分かるとおり、一見して、こりゃまさに『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』のプロダクションI.Gだよなと分かる背景や動き、3DCGなどなど、なかなか興味深い映像である。

 アニメのクレジットは<プロデューサー:三ツ木隆一/監督:西久保瑞穂/キャラクターデザイン:貞本義行/作画:黄瀬和哉/音楽:川井憲次>といったI.Gのオール・スタッフであります。まあ、押井守が監督やんなくて良かった、というところかな。

 展示内容は、原画、絵コンテ(一部)、設定と勿論ムービーもあります。といっても、展示はその位で、まあアニメマニアとしては物足りないかもしれない。

 しかし、メルセデスベンツ・ジャパンという「お堅い会社」が、新車のプロモーションにアニメを採用する、ということの面白さの方に気をやってください。多分、自動車会社が新車のプロモでアニメを使ったのは初めてじゃないだろうか。もっとも、このアニメみたいな動きを実車の実写でやったら、そのことだけで批判の対象になってしまいそう。そうか、だからアニメなのか。

2012_12_19_007_2_31階のショップで買い物をするともらえる「流星麺」というカップ麺である。「流星麺」が何かは下の設定画かアニメを見てください。

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「NEXT A CLASS展 with PRODUCTION I.G」は12月31日まで。

公式サイトはコチラ→ http://next-a-class.com/

 ただし、メルセデスベンツ・コネクションには駐車場はありません。何故でしょうか? 車のショールームなのにねぇ。ヨクワカンナイ。

Fujifilm X10 @Roppongi (c)tsunoken

2012年12月19日 (水)

『キンドルで本を売る』をKindleで読んではみたのだが

 Kindle Paperwhiteが届いたので早速Kindle本を読んでみることにした。

 なので、このブログを読んでいる貴方がKindleやスマートフォン、タブレットを持っていれば買えますが、リアル書店では買えませんのであしからず。

『キンドルで本を売る――キンドルを通じた個人出版のアドバイス』(小林啓倫著/Kindle/2012年11月26日刊)

 この本では著者の小林啓倫氏が、個人でもアマゾンを通じてキンドル本を出版できる「キンドル・ダイレクト・パブリッシング(Kindle Direct Publishing:以下KDPと略す)」でもって、2012年11月15日に(ってまだつい最近だ)『3Dプリンタの社会的影響を考える』という電子書籍を出した際に気づいたことなどを書いて電子出版したものだ。

目次は;

はじめに

『3Dプリンタの社会的影響を考える』の舞台裏
 1.ネタを選ぶ
 2.書く
 3.アップロードする
 4.プレビューする
 5.公開を待つ
 6.結果はどうなった?

7つのアドバイス
 1.表紙にこだわってみる
 2.「商品の説明」を大事にする
 3.サンプルを意識してみる
 4.ソーシャルメディアを活用してみる
 5.値付けを工夫してみる
 6.テーマをしぼってみる
 7.ここに書かれていることをすべて無視してみる

おわりに

 という実に簡素な本である。当然、ページ数も少ない。だから、というわけではないが、値段も安い。ちなみに小林氏の前著『3Dプリンタの社会的影響を考える』はファイルサイズ259KBで300円。本書は245KBで150円である。

 この辺に電子出版のひとつの可能性がありそうだ。つまり「ショートコンテンツにして値段が安い」ということ。つまり、電子本はどちらかと言うと短いコンテンツに向いている、というか小説のようなものならよいのだが、読み方を前後しながら読んでいくノンフィクションなどのものの場合、あまり長いコンテンツだと読みにくいということが挙げられる。実は、今読み始めているのがクリス・アンダーソンの『MAKERS――21世紀の産業革命が始まる』。これは紙の本で320ページ、Kindle版でファイルサイズ962KBもあるのだが、ちょっと手こずりそうである、がクリス・アンダーソンの本は読みやすいので、読むことには問題はないのだが、書評を書く事については、いろいろブックマークをつけなければならず、またそれを探して読み返すのがちょっと面倒ではある。

 もうひとつの「安い」というのも電子書籍の重要なポイントだ。日本では電子書籍といっても紙の本に比べてあまり安い値段がついていないのだが、これはもっぱら出版社側の事情によるもので、多分、いずれはもっと安くなるものであると思うが、当面、そんなに安くはできない以上は、最初から「電子だけで出す本」は相当安い値付けができるというのが強みではある。

 で、『キンドルで本を売る』の書評なのだが、まあ、目次を読んで、まんまそのまんまの内容なのだ。しかし「ネタを選ぶ」なんてのは本を書く以上当たり前のことであるし、「書く」なんてものはねえ、それ以降の「アップロードする」「プレビューする」「公開を待つ」なんかが電子書籍ならではの動きなのであるが、さすがに「書く」からそのすぐ後が「アップロードする」なのは編集者の作業が入らないわけである。はたしてそれでいいのだろうか、というのが出版社出身者としては気になるところである。

 つまり、読んでも「それがどうなのよ」というツマラなさがあるのだ。

 やはり最初の第三者である編集者の目を通した方が、本の質は当然上がるだろうし、内容精査を経たほうが、読み手にとってもありがたい。この本を読んでみても、なんか中身が薄い印象がある。つまり、ブログの延長線上にあるような本なのである。

 そうした本を書いて、「表紙にこだわって」みたり、「商品の説明を大事に」してみたり、「サンプルを意識」してみたり、「ソーシャルメディアを活用」してみたり、「値付けを工夫」してみたりなどの「販売方法」を考えることよりも、むしろ書き手としては、「本の内容を上げる」事の方が大事なのではないだろうか。

 そして、それらを考えるのが出版社の役割であり、仕事であるのだから、やはりKindle本であっても、編集者・出版社側の仕事をする人の存在が大事になってくるのではないだろうか。

 やはり、一人でやる仕事は一人以上の仕事はできないわけで、そこに他人の介在が必要になるのである。

 残念ながら『キンドルで本を売る』はそんな「ブログの延長線上」みたいな「残念な本」の一つになってしまっている。この本を読んで面白かったら、同じ著者の『3Dプリンタの社会的影響を考える』も読んでみようかとは思ったのだが、多分『キンドルで本を売る』と同じような方法で書かれた本だと考えると、それは選ばずに、同じようなテーマを扱っている『MAKERS』の方をとってしまうのである。

『MAKERS』はかなり読み応えがある本ではありそうです。

2012年12月18日 (火)

『ふがいない僕は空を見た』を見たふがいない僕たち

「性」の映画である。画面のそこかしこに「セックス」や「出産」にまつわるシーンが出てくる。しかし、それらのシーンがどちらかというと「性」よりは「生」のシーンに見えてしまうのだ。

『ふがいない僕は空を見た』(監督:タナダユキ/原作:窪美澄/脚本:向井康介/プロデューサー:佐藤現・木村俊樹/制作:ステアウェイ/製作:東映ビデオ・東映チャンネル・ステアウェイ)

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『「ふがいない=いくじがない。気概・気力に欠けている(「広辞苑」第六版)」僕』って誰なんだろう。

 助産院を営む母子家庭の一人息子で、アニメ同人誌販売イベントで出会ったコスプレ主婦とのセックスに溺れる斉藤卓巳(永山絢斗)くんのことだろうか、あるいは卓巳の友人でコンビニや郵便配達のアルバイトで認知症の祖母を支えながら極貧生活をしている福田良太(窪田正孝)くんのことなのだろうか、そんな良太に勉強して大学に行くことを進める強制わいせつで逮捕されてしまった元予備校教師の田岡良文(三浦貴大)のことなのか、または卓巳に妻を寝取られてしまったのにそんな妻と別れるのは嫌だと泣き喚くマザコン男の岡本慶一郎(山中崇)のことなのか、はたまた良太に「団地の住民はしょうがないな」と小言を垂れるコンビニの店長、有坂研二(山本浩司)のことなのだろうか。または、アニメ誌販売イベントで出会った高校生とコスプレセックスに溺れる不妊症の主婦、あんずこと岡本里美(田畑智子)なのだろうか、あるいはそんなコスプレセックスに溺れる卓巳くんを今でも嫌いになれない同級生、松永七奈(田中美晴)のことなのか、またはマザコン息子を抱えて不妊症の息子の妻にやたら不妊治療やら代理母をすすめる岡本マチコ(銀粉蝶)なのか、良太と同じコンビニでバイトをしている七奈の友人でありながら卓巳と里美のコスプレセックスの写真を学校中どころか町中に配っているあくつ純子(小篠恵奈)なのか、はたまた卓巳の担任教師で自分が妊娠していることを恋人に言えずに堕胎可能な時期を逃してしまい、それを卓巳の母親である助産師に一発で見抜かれてしまう野村先生(藤原よしこ)なのか、それとも一見しっかりしているようだが原作を読むと『中学・高校時代は、みっちゃんの言葉を借りると「殺人以外の、目につくわるいことはなんでもひととおりやった超不良」だったらしい』みっちゃんこと長田光代(梶原阿貴)なのか、でも一番ふがいないのは卓巳の母親であり別れた夫にいまだに頼まれると小遣いを渡してしまう斉藤寿美子(原田美枝子)なのかもしれない。

 とまあ、登場人物すべてが「ふがいない」存在なのかもしれない。いやいやそれ以上に、この映画をみている私たち自身が「ふがいない」のである。

 しかし、そんな「ふがいない」僕たち・私たちであっても、生まれた以上は生きていかなければならない。

 映画の中でお産を手伝った卓巳が、生まれてきた赤ん坊の一点を見つめながら言うセリフ。

『おまえ、やっかいなものをくっつけて生まれてきたね』

 そのもののように、私たちは「やっかいなもの」を持ち続ける「ふがいない」存在なのだ。

2012_12_14_033_2卓巳とあんずのコスプレセックスの衣装が映画館に飾ってあった

 原作版『ふがいない僕は空を見た』もどうぞ。収録作『ミクマリ』は2009年「女による女のためのR-18文学賞大賞を受賞。『ふがいない僕は空を見た』は2010年『本の雑誌』ベストテン1位、2011年本屋大賞2位、第24回山本周五郎賞受賞作である。

『ふがいない僕は空を見た』(窪美澄著/新潮文庫/2012年10月1日刊)

2012年12月17日 (月)

Kindle Paperwhite 3Gがやってきた!……って、遅っ!

「って、遅っ!」というタイトルのシリーズがあるわけではないが、「Kindle Paperwhite 3Gがやってきた。やっときた。って遅っ!」なのである。

 何しろ、注文したのがアマゾンがKindle日本国内発売を発表した2012年10月25日当日。ところがアマゾンから「お届けは2012年1月13日~1月15日」ってメールが来たのが、発注した当日というのは、それに腹を立てて10月26日のブログに書いたとおりである。

 まあ、日本で発売を発表した当日に製造していた数をはるかにオーバーする注文がアマゾンに舞い込んでしまい、結局次の製造ロットが日本に届くのが3ヶ月後ということで、それはそれで慶賀ではあるが、普通発注して当日か次の日に届くのがアマゾンの常識だと思っていたから、それは腹が立ったわけである。それが1ヶ月早まったということで、なんか嬉しいんだか、相変わらず腹が立っているのかわからない状況になってしまった。

2012_12_16_001_212月15日(土)にやっと来たKindle Paperwhite 3Gである。まず輸送用パッケージから。

2012_12_16_005_2

2012_12_16_009_2_4パッケージを開けて本体が出てくる。

電源を入れて……。

2012_12_16_023_2今までつかっていたSony Readerとの画面比較。両方ともE Paperなのだが、Kindleのほうがバックの白さが鮮明だ。とは言うものの、大きな違いとしてはSony ReaderだとPCと同期しなければダウンロードできないのが、Wi-Fiと3G(それも無料で)が使えるKindle Paperwihteの使い勝手はとても高い。更に、「プレミアムレザーカバー」というのが「オート電源オン/スリープ機能付」というのがまたいい。

 さあ、これからはKindle Paperwhite 3Gでどんどん電子書籍を読むぞ! と思ったのだが、問題は日本の電子書籍のタイトルの少なさだよな。別に、講談社の本ばっかりを読むわけにはいかないからなあ。

Dscf5549_edited112月11日の山手線の車内吊り。やっと正々堂々と宣伝できるようになったというわけですね。

2012年12月16日 (日)

"Congrats on earning your 500 lifetime kilometers badge!" from Fitbit

 
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『3日もあれば海外旅行』は現役世代向けではありました。が

 学生時代はどちらかというとモノグサな方で、旅行なんかもほとんど行かなかった。それが、サラリーマンになってみると最初の9年間は毎月12~16日位はほとんど旅という生活を送っていたわけで、えらい違いになってしまった。そして、サラリーマンをリタイヤしてみると……なんかやたら旅に行きたくなる自分がいたのであった。

『3日もあれば海外旅行』(吉田友和著/光文社新書/2012年11月20日刊)

 そんな訳でこの『3日もあれば海外旅行』という本を買ってみたのだが、考えてみれば「3日もあれば」というのは羽田空港が国際線を再開し、更に深夜便が就航したのに伴って、週末の金曜日の深夜便で飛び立って、月曜日の早朝に帰ってくる海外旅行が可能になったということであり、つまりそれはまだ職業を持っている人たちにも週末の3日間で海外個人旅行ができるようになりました、ということであったのだった。

 つまり、行きたければ「いつでも」「どこにでも」行ける今の生活とは関係ない話だったわけなのであるけれども、でも、旅についてのいろいろな知識を与えてくれる本なのであった。

 そんな週末旅の行き先は基本的に東南アジア。東アジアだとそんな深夜便を使わなくても行けてしまうし、あと1日プラスしてしまえばヨーロッパや北米なんかも視野に入ってくる、というもの。

 その一番の理由はLCC(Low Cost Carrier)の参入とネットを利用した航空券やホテルの予約が可能になったということである。

 いくつか、目次から注目すべきところを上げると……。

 オススメの週末3日旅の行き先は;

東南アジア:バンコク/シンガポール/ホーチミンシティ/クアラルンプール/バリ(デンパサール)

東アジア:ソウル(金浦)/釜山/台北(松山)/香港/上海(浦東)/北京

ヨーロッパ・北米:パリ/フランクフルト/ロンドン(ヒースロー)/ハワイ(ホノルル)/北米西海岸(ロザンゼルス)

 更に、そんな旅をするときの気をつける点は;

行きたい場所に行く/金額ではなく日程ありきの旅づくり/ベストな予約サイトはそのつど変わる/PEX航空券は航空会社から直に買う/燃油サーチャージに注目する/コードシェア、機材、座席指定などを考慮する/成田や羽田以外の空港から出発する/ソウル発着の路線を有効利用/リピーターにオススメの海外発券

 そして、一段上の旅行方法として;

 マイルは現金以上の価値を持つ/貯めどきを見極めながら旅を計画/ハイエナ化しない陸マイラーに/貯め方よりも使い方がより重要/海外旅行保険はカード付帯保険で/旅の荷物は15キロ以内/SIMフリースマホで全世界常時接続/Wi-Fiルーターで手軽に済ます/シートモニターの代わりにiPadを/旅先の読書は電子書籍で

 とあって、スマホにインストールしておきたい旅アプリ10選として;

 FlightTrack/Currency/Weather +/tripadvisor/Skyscanner/世界会話手帳/Evernote Food/Instagram/懐中電灯4G(iOSのみ)/Shazam

 などをオススメしている。

 という具合に、海外旅行に行く際の「すべて」が収まっているスグレモノなのであるが……、考えてみれば、先に述べた理由のとおり、別に週末海外旅行や、3日間海外旅行なんて忙しいことを考えなくてもいい境遇にいるのである。むしろ、週末に絡めない方が、あるいは年末年始・ゴールデンウィーク・夏休みなんかのハイ・シーズンにはこだわらずに旅程を組める身分になってみると、取り敢えずあまり旅には詳しくない私としては、航空券やホテルなんかの予約サイトの種類だとか、あまり気にしていなかったマイルのこととか、旅行に行く際にインストールしておくと便利なスマホ・アプリの紹介だとか、旅行に持っていくと便利なデジタル・ガジェットだとかの紹介が便利であった。

 さて、こうした知識を身につけた私が、11月の沖縄についで行くのはいつかな、どこかな……。

 あ、その前にパスポートを新たに取り直さなければ。

 まずは、そこからですね、始まりは。

 もう数年前に切れてしまったパスポートをまずとっておいてから、どこかのサイトやら、メールマガジン(実はいろいろ購読しているのだ)での「オススメ」があったら、とりあえず発注してしまう、というのが「普通の旅好きのあり方」だろう。結構、安い海外旅行ネタがそれらのメルマガなんかにはいっぱいある。カミさんの都合もあるだろうが、それはそれ、あまり気にしないで行っちゃおうかな。

 まずは、この季節に暖かい南アジアからかな。

 

2012年12月15日 (土)

『LINE』ってアプリがあったんだ……って、遅っ!

 LINEが登場したのが2011年6月、それが2012年10月末時点で、国内ユーザー3200万人、世界で約7000万人にもなる。おまけに現在全世界で毎月500万人ユーザーが増加し続けているスマートフォン・アプリなのである。だとしたらこれは速攻でユーザーになるしかない。と考えて早速アプリをインストールした。2012年12月の500万分の1になったわけである。

 そしたら、その瞬間から友達が沢山いるし、早速旧友から友達申請が来て、早速来年早々に飲む約束が出来てしまった。

 なんとまあ、安直な!

『LINE なぜ若者たちは無料通話&メールに飛びついたのか』(コグレマサト・まつもとあつし著/マイナビ新書/2012年11月30日刊)

 LINEがなぜこんなにも普及したのか。本書では『Twitterのように何でもかんでもオープンになる、Facebookのようにどこまで公開されているか分からない、といった状態が怖い人が、狭い範囲でつながるLINEのタイムラインを使い始めている感触があります』ということのようだ。

 通常、ITの世界では「アーリーアダプター」という新し物好きがいて、そんな人たちがガジェットであったりプリケーションであったりを面白がって使い始め、その後、一般のユーザーが使い始めるという普及の順番がある。ところがLINEの場合、こうしたアーリーアダプターはむしろ遅れてきたユーザーとなり、むしろ非IT系の若者からユーザー層が広がってきているのだ。

『ITに詳しくない人であればあるほど(つまり一般の人ということですが)、LINEのタイムライン機能を活用しているようです。
 これは先述したことでもありますが、ITに詳しい人には、TwitterやFacebookといった代替手段が既に存在しているため、あえてLINEのタイムラインを使う必要がないのです。
 しかし、Twitterではオープン過ぎて使いにくい(知り合いだけでコミュニケーションできればよい)、Facebookは高機能で分かりにくい(どこまで公開されちゃうの? タグ付けされても大丈夫なの?)、という人たちには、アドレス帳ベースの知り合いだけがつながるLINEのタイムラインがしっくりきたというわけです』

 ということなので、それはIT関連の仕事をしているオジサンたちじゃない、もっと若い人たちから広まっていった、という理由にも頷けるものがある。更に、ユーザーの中心層は『スマートフォン中心でパソコンを普段は使わないような若者が中心』であるようだ。ということは、今やパソコンを持っているのは当たり前になっている大学生は、あまりLINEを使っていないのだろうか? 

『大学生の学年が低い(=年齢が若い)ほど、LINEの利用率が高くなるというものです。なぜこのような傾向が現れるのでしょうか? 二つの仮説を挙げることはできます。
仮説1)
 学年が進むにつれ、友人同士のカジュアルなコミュニケーションよりも、就職活動に向けた情報交換や、自己PRの機会としてSNSを活用することになる
仮説2)
 スマートフォンへのユーザーシフトが若い世代でも起こっているが、最初に使うコミュニケーション手段が、スマートフォンとの相性がよくカジュアルなコミュニケーションに向いたLINEである』

 確かに、「友達の友達は皆友達だ」という開いたつながりが基本的にSNSのつながりであるからこそ、SNSを就職活動にも使えるわけであるが、どちらかというと閉じたつながりのLINEの場合は、そんな就職活動用の「自己PR」何かには使えないわけだ。だとすると、高校生あたりにはLINEは親和性のあるメディアであるかもしれないが、大学生にもなって多少は社会性を持った存在になると、あまり使えなくなるというメディアなのか。

『ここにLINEが抱えるジレンマもあると言えます。若年層にとっては気楽で使いやすい反面、社会人が仕事の連絡や、自分の実績のアピールなどに使うにはLINEはカジュアルで、空間が閉じられ過ぎているのです』

 ということなのであるが、それこそユーザーによるメディアの使い分けの問題だろう。つまり、友達のようなカジュアルな関係の人にたいしてはLINEを使って、そうじゃないオフィシャルな関係に人たちにたいしては他のSNS、TwitterやFacebookを使って表現し、あるいはブログなんかで書いたっていい。当然、今LINEを使っている若者たちだって、そのくらいのメディアの使い分けはできるはずだ。というか、その程度のメディアの使い分けができなければ、今の世界で生きていく価値はない。

 様々なメディアがあって、様々なユーザーがあって、現代世界は動いていく。ユーザーは上手にメディアを使い分ければいいのだ。問題は『個々のユーザーの情報リテラシーと。サービスやツールの進化、そしてそれらに応じた社会の変化という3つの要素の足並みがある程度揃わない限りは、こういった難しさ、居心地の悪さから私たちが解放されることはないのです』ということなんだろうけれども、そんなにバランスのとれた社会ができるはずはない。社会は基本的にアンバランスなものなのだ。そんな、アンバランスな社会で自らを律していくのが、この情報社会では「情報リテラシー」なわけだ。

『自動車に例えると分かりやすいかもしれません。移動手段として急速に普及した自動車は、誕生当初さまざまな問題を引き起こしました。道路インフラが未整備だったり、運転技術が未熟であれば事故の起こる確率はさらに増します。
 一方で、自動車関連の技術はどんどん高まり、よりスピードが出る車が大量生産されたわけです。今、インターネット、特にソーシャルメディアの分野でそれに似た状況が生まれていると言えるのではないでしょうか』

 と言うことであれば、それこそ運転技術を向上させるしか方法はないのだろう。つまり、情報リテラシーを上げるしか方法はない。

 それがネットと付き合おうとする人間の基本的な、あくまでも基本的な「マナー」なのである。そんな「マナー」すらわきまえないでネットと付き合おうとするなら、炎上でもなんでもすればいのである。

 いずれにせ、日本発のアプリが世界に進出というのは、楽しい。ネットの世界は普及したものが正しいのだからね。

 

2012年12月14日 (金)

『ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない』のは分かってはいるのだが、読んじゃうんだよね

 昨日の映像ソフト協会の会合で、角川歴彦氏から「オフレコ」の話として、電子書籍の問題として「公衆送信権」と「送信可能化権」にまつわる○○の問題が出た。それはたしかに大きな問題だ、という話とはなったのだが、それとは無関係なところで本日の話は始まります。

 その問題は、またいずれ。

「ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない」ったって、そんなの当たり前じゃない、それは読んだ人の問題でしょ。と思っていたら、実はビジネス書の側にも問題があったのだった。いわゆる「ビジネス駄本」ってやつね。

『ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない』(漆原直行著/マイナビ新書/2012年2月29日刊)

「ビジネス書」とひとくくりに言っても、経営学や経済学、ビジネス資格などのビジネス書ではなく、「自己啓発」や「成功法則」「ライフハック」などの関連本。

『そもそも本書で私が言わんとしていることの大前提として、たとえば決算書の読み方や最新の会計制度、企業法務関連の解説書といったビジネス実務書や、経済・ビジネス理論などを説くビジネス専門書と、自己啓発や成功哲学を語る“ビジネスパーソンのための生き方解説本”は同じ土俵では語れないと考えています。大きな括りでは同じ“ビジネス書”というカテゴリーに含まれるタイトルであっても、別物として捉えたほうがいいという認識です』

 ということなのだ。

 結局、凡百のビジネス書(自己啓発や成功法則など)の行きつくところはデール・カーネギーの『人を動かす』、ナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』、サミュエル・スマイルズの『自助論』、スティーブン・リチャーズ・コヴィーの『七つの習慣』といった“古典”に行くしかないというのだが、実は私は今あげた本のどれ一つも読んだことがない。勿論、漆原氏呼ぶところの“ビジネス駄本”はかなり読んでいるけれどもね。

 比較的最近読んだ小山龍介氏の“ライフハック本”なんかについては、「ふ~ん、なるほどねえ。でも、これってビジネス・ガジェットについての小ワザ特集なんじゃねえの?」という感想を持ったにすぎない。むしろ、本書でも触れている梅棹忠夫氏の『知的生産の技術』なんかの方にそれこそライフハックの元祖という印象を持った。

 つまり、ビジネス書なんていかにも「今風」を装っているんだけれども、所詮は古典の言い回しを変えて提示しているだけで、何も新しいことを言っているものではないということ。

『ビジネス書を読んでも成功できない理由、読めば読むほど窮屈に思えてくる理由を考えてみると、「やる気やポジティブ志向を煽るだけ煽って前のめりな姿勢にさせる一方で、その結果生じる願望と現実のギャップの存在を正面から解説してくれず、それを乗り越える困難さや痛みを説明してくれない」あたりに問題があるように思えてくるのです。たとえるなら「親切なようで思いのほか不親切なホテルのコンシェルジュ」「さんざんおだてて屋根に昇らせておいて『じゃ、あとは自己責任で』とハシゴを外すようなヤリ逃げ野郎」のような一面を、ビジネス書は持っているのではなかろうか、と。「それなら屋根に昇るまえにハシゴを用意したほうがいいと教えてくれよ」と思うわけです。横丁のカドにあるタバコ屋のオバちゃんの道案内並みに、要領を得ない。いや、オバちゃんのほうがまだマシ、と思えるようなビジネス書もあったりします』

 と書くが、しかし、そんな懇切丁寧にビジネスの要諦を教えてしまったら、結局それは「ビジネス書を読んでも何の役にも立ちませんよ」と教えてしまうことになるのだから、ビジネス書の根本は「最終的な責任はとりません」と、読者を放り出すことなのだ。で、結局『究極の自己啓発、究極の成功は、自分が自己啓発書や成功本の著者になってしまうこと』なわけなのである。つまり、その典型が勝間和代さんというわけなのであります。

『有能な実務者、優れたビジネスパーソンには、たしかにビジネス書を読んでいる人が少なくありません。でも、ビジネス書を読んでいるから成功したワケではないのです。自分なりに目的や問題意識を抱き、視野を広く持ち、何事も貪欲に吸収してやろう……といったことを強く意識しているから、本もよく読んでいる、というだけのこと。そういう人は、本を読むことに限らず、誰かの話を聞いたり、問題や目標に対してどう取り組めばよいか塾考したり、失敗をいとわず試行錯誤を繰り返したりという取り組みを日ごろからしているものなのです。その方策のひとつとして、読書も取り入れているにすぎません』

 ということにすぎないのである。

 なんだ、そんなことならビジネス書を読む意味なんてないじゃないか、と考えるあなた、あなたは正しい。何故なら、ビジネス書のブームというのは、単に出版社側の事情にすぎないのであるから。

『ビジネス書は、文芸書などと比べると単行本でも売れる傾向が見られる。たとえば小説やエッセイなど、娯楽や趣味が主な購入目的になるような本は、読まないからといって生活に困ったり、仕事がうまく回らなくなったりすることがまずない。だから、暮らしに余裕がなくなると途端に買い控えられたりする。また、それなりにヒットした作品なら、最近は1年程度で文庫化されたりするから、それを待つ読者もいる。
 一方、ビジネス書は、文字通り『仕事』に関わってくる。そこでケチっている場合ではない、という心理が働くようで、1000円台半ばあたりの単行本が文芸書とは比較にならないくらいのペースで売れていったりする。どんなに売れても文庫になるようなタイトルはほとんどないし、刻々と動く経済動向、常に新しさが求められるビジネス環境といった背景も絡んで、新しい本をできるだけ早く読まなければ、という意識がビジネス書の愛読者には強くあるようだ』

 とくかく「本が売れない」という昨今、こうしたビジネス書の刊行理由はまさしくあるわけで、それは需要に喚起されておこされたブームではなく、まさに出版社側の事情にあるわけである。特に最近の新書ブームもそれに輪をかけていて、安くて、なんとなく役に立ちそうなイメージのあるビジネス新書が多く刊行されているというのも、そんな事情によるもの。

 と、考えてみればビジネス書なんて読む必要はないということが良くわかるでしょう。

 もしどうしても読みたいのであれば、最初に上げたビジネス古典を読めばいい。結局、ビジネス書の行きつくところは、それらの古典なのだから。

『知的生産の技術』なんかはいいですよ。私がオススメするのはそんなところ。

 でも結局は本屋さんに行くとビジネス書を選んでしまうんだよね。何故か。それは「突っ込みどころが沢山ある」からなのだ。こんな「本について好き勝手なことを書く」ブログなんかをやっていると、やはり「突っ込みどころが沢山ある」本の方が面白いから……という理由で、この『ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない』も同じ理由で選んだのである。

 まあ、選んで正解だったかな?

2012年12月13日 (木)

『人生の特等席』というよりは「終着駅」だな

 クリント・イーストウッド4年ぶりの主演映画である。

『人生の特等席(原題:TROUBLE WITH THE CURVE)』(監督:ロバート・ロレンツ/脚本:ランディ・ブラウン/製作:クリント・イーストウッド、ロバート・ロレンツ、ミシェル・ワイズラー/製作総指揮:ティム・ムーア/主演:クリント・イーストウッド、エイミー・アダムス、ジャスティン・ティンバーレイク)

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 原題は「カーブが心配」とでも翻訳すればいいのだろうか、クリント・イーストウッド扮するアトランタ・ブレーブスの老スカウト、ガス・ロベルが観察する高校生スラッガー、ボー・ジェントリー(ジョー・マッシンゲル)の欠点がこの「Trouble with the curve」だったわけなのである。つまり速球には強いのだが、変化球に弱い欠点があるというのだ。しかし、寄る年波に眼を病ませてしまいあまりよく見えない欠点を支えてくれるのが、ガスの娘、ミッキー・ロベル(エイミー・アダムス)であり、ミッキーの観察でガスを助け、ブレーブスにボーをドラフトの第1位指名をしないように進言する。ところが、ブレーブスは若いパソコン使いの上昇志向のやたら強いスカウト(マシュー・リラード)の意見を取り入れてボーを第1位指名し獲得してしまう。

 たまたまボーを観察するために泊まったモーテルの息子にピッチャーの才能を見出したミッキーは、ブレーブスのスカウト主任(ジョン・グッドマン)を説得してそのモーテルの息子をアトランタに呼び、ボー・ジェントリーを得意のカーブでキリキリ舞いさせるのである。

 というお話。「人生の特等席」のお話ではないのである。とはいうものの「カーブが心配」では何が何だかわからない。で、それを心配した配給会社は、クリント・イーストウッドの最近のお得意の役柄「年取っていろいろ衰えてきたけれども、頑固に自分を貫き通す「元なんとか」が、若い娘に心を開かされることで、物語が解決する」というお約束のストーリーそのものの展開にホッとして、「三等席の人生じゃダメだ」「分かってないのね。パパと一緒に野球を観た場所は、私の特等席だった」という少々臭いセリフのやりとりから『人生の特等席』という、ちょっと恥ずかしタイトルに収まった、というところなのだろう。多分。

 しかし、こんなに野球の知識が豊富で、選手の才能を見抜く目を持っていて、なおかつ法律事務所のパートナーになるほどの法律知識がある人だったら、もはや球団のゼネラル・マネージャーになるしかないのでは、と思わせる。これで美人だったらまさしくスーパーウーマンなんだけど、エイミー・アダムスはあまり美人じゃないところがいい。

 しかし、アメリカの国際非営利団体「国際女性経営幹部協会(CWDI)」の調査によると、女性の経営幹部は女性役員割当制度という法律で「女性(男性も)役員を役員全体の40%以上にしなかればならない」ノルウェーが1位で44.2%、2位がスウェーデンの21.9%、3位・4位がブルガリアとラトビアの17%、5位がフィンランドの16.8%、そして6位がアメリカの15.2%という状態であっても、男社会のプロ野球の世界ではGMになるのはまだ難しいだろう(ちなみに日本は38位1.4%で周辺には湾岸諸国しかない)。それだけプロ・スポーツの世界は未だに「マッチョ」な世界なのである。ハリウッド映画でしばしば揶揄されるこの「マッチョ幻想」なのであるが、そうかプロ・スポーツの世界は未だに「マッチョ幻想」が生きている世界なのか。だから、男の子たちがプロ・スポーツに憧れるんだな。

 女性の社会進出が著しい北欧に比べると、未だに「良妻賢母」思想の残るアメリカでは女性の社会進出は現場マネージャー・レベルに留まっていて、経営幹部になる人は少ない。ましてやプロ・スポーツの世界では……、ということか。

 そういえば、イーストウッドの世界もそんなマッチョな世界ばかりだ。なにしろ『ローハイド』や『荒野の用心棒』『夕日のガンマン』『ダーティーハリー』なのだからね。しかし、マッチョな世界で生きてきたイーストウッドも、寄る年波には勝てず、『人生の特等席』ならぬ「人生の終着駅」に近づいている。相変わらず「頑固な年寄り」という自らの特等席を持っているイーストウッドも、次第に若い人に席を譲る年寄りにならなければいけない。勿論、年をとってきて体力的には若者に勝てない状況になってきていることも事実である。眼だって見えなくなってもおかしくない。

 とは言うものの、ハリウッドはいつまでイーストウッドにマッチョなイメージを追い続けるのであろうか。アメリカ大衆が追い求める「イーストウッド=マッチョ」像にはもはや少々無理がきている。もう少し、普通の老人の役でもやらせたらどうなのだろうか。もっとも、それも面白くないか。だとしたら、死ぬまでマッチョな役を演じ続けるのだろうな。

 マッチョなまま死んでいくイーストウッドもいいかもしれない。

 それも難しいけれどもね。

2012年12月12日 (水)

『一人一票実現国民会議』なのである

 ということで、昨日は新橋駅前SL広場のイベントを見てきた。

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 要は、選挙区によって1票の格差があって、例えば高知3区の1票が東京6区や神奈川10区では0.44票分の価値しかないという問題なのだ。小選挙区制の衆議院選挙の場合、日本における登録有権者数約1億4000人のうち42%でその過半数を選出してしまうという不公平が行われている。しかし、最高裁裁判官(15名)は「主権者は、一人一票である」と明言しなかった。この1点だけを理由として「一人一票実現国民会議」有志は、主権者として今回の「最高裁判所裁判官・国民審査」で、10名の裁判官全員に「×」を投票することを提言するのだ。

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 新橋駅前SL広場には、舛添要一氏と新党改革の街宣カーも来て、舛添氏が演説を行っていたが、この「投票の不平等」について言及は一切なかった。イイのかそれで。収入の格差と選挙の投票格差だって同じ問題じゃないのか? 舛添氏にとっても小選挙区制はイヤなはずだ。ところが、この小選挙区制で選挙を戦わなければならない状況であればそれもやむを得ないというところなのだろうか。

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 いずれにせよ、取り敢えず、私も最高裁裁判官国民審査には×点をしておくことをお薦めします。だって、三権分立の中で代議士は選挙で選べるけれども、裁判官を選べる機会はここしかないのである。本当は官僚も×点をつけられるといいのだけれども……。

CMもあるよ→ http://www.youtube.com/watch?v=fZIJK_JJlJ0

2012年12月11日 (火)

Progress report of the previous week from Fitbit

Hi mxl01056, here are your weekly stats.
12/03/2012 to 12/09/2012
WEEK'S MOST ACTIVE DAY
Fri, Dec 7
WEEK'S LEAST ACTIVE DAY
Tue, Dec 4
TOTAL STEPS
72,866
DAILY AVERAGE
10,409 steps
BEST DAY
17,892 steps
TOTAL DISTANCE
52.32 km
DAILY AVERAGE
7.47 km
BEST DAY
12.85 km
TOTAL FLOORS CLIMBED
128
DAILY AVERAGE
18 floors
BEST DAY
25 floors
TOTAL CALS BURNED
18,554
DAILY AVERAGE
2,651 cals
BEST DAY
2,890 cals
WEIGHT CHANGE
1.6 kg
LIGHTEST
92.8 kg
HEAVIEST
94.7 kg
AVG SLEEP DURATION
7 hrs 6 min
AVG TIMES AWAKENED
9
AVG TIME TO FALL ASLEEP
0hrs 18min

Last week's step winners

1 mxl01056
72,866 steps
See current leaderboard

Last week's badges

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蒙を啓いてくれた堀切菖蒲園

「いずれアヤメかカキツバタ」というのは「どちらもすぐれていて優劣のきめがたい意」というのが「広辞苑 第六版」の解説であるが、私らの解釈だと、どちらかというと女性の美醜に対して「どちらも美しくて優劣のきめがたい」という意味に使っているような……。

 で、問題は「ショウブ」「アヤメ」「カキツバタ」の違いなんだけれども、実はその三者に違いがあるとは知らなかったんですね。まあ、まさに「蒙」ですね。

「ショウブ(菖蒲)」は「サトイモ科の多年生草木。根茎は水底の泥中に横たわり、葉は長剣状で八〇センチメートル余。初夏、花茎の中程に黄緑色の小花を棒状に密生。葉は芳香があり、丹吾の節句に菖蒲湯とする。根茎を乾して「菖蒲根」と呼び健胃薬とする。古くは「あやめ」と呼んだが、アヤメ科のアヤメ・ハナショウブの類とは葉の形が似るだけで、全くの別種」

「アヤメ(菖蒲」は「アヤメ科の多年草。やや乾燥した草原に群生。また、観賞用に栽培。根茎は地下を這い、毎年、剣状の細長い葉数枚を直立」

「カキツバタ(杜若・燕子花)」は「アヤメ科の多年草。池沼や湿地に生じ、高さ約七〇センチメートル。葉は広剣状。初夏、花茎の先端に大形の花を開く。色は通常紫または白。大きな三枚の外形花片には中央に一本の白線が入る。観賞用にも栽培。花を布にこすりつけて紫色に染める」

 というのが、同じく「広辞苑 第六版」の解説。

 なんでこうしたことを調べる気になったのかといえば、堀切菖蒲園に行って、こんな看板を見たからなのだ。

2012_12_10_066_2違うんですよ、ショウブとアヤメとカキツバタはね

 しかし、こんな時期になんで堀切菖蒲園なんだろう。開花時期とはまったく異なるので、当然ながら誰も来ていない。静観亭という料理屋だか集会施設だかのカラオケ会の音が聞こえるだけである。

2012_12_10_030_2ここが「堀切菖蒲園」の入口

2012_12_10_047_2高台にある茶店(?)から見た菖蒲園全景である。当然、今は菖蒲の開花時期ではない。ので、葉っぱが見えるだけ。

2012_12_10_048_2ここが上の写真を撮った茶店

 勿論、季節はずれの菖蒲園に行ってもなにも得るものはないはずである。が、少なくとも、私にとって、「ショウブ」と「アヤメ」と「カキツバタ」が違う種類の植物であるということがわかっただけでも大いなる収穫。

 だって「ショウブ」も「菖蒲」。「アヤメ」も「菖蒲」。これではどちらも同じでしょ、と考えても普通は不思議ではないはずだが、「ショウブ」と「アヤメ」は別の科の生き物なのだ。

 まあ、昔の人は「見た目」だけで判断して「ショウブ」も「アヤメ」も「菖蒲」という字をあててしまったんだろうけれども、それがその後の人々(それって私?)の判断を誤らせてしまったという結果を招いたのである。

 う~む、見た目には「菖蒲」が「アヤメ」だろうが「ショウブ」だろうが関係ないし、同じ時期に開花するので、見た目には美しいし、別にいいじゃん、とは思うのだが。生物学的にはそうはいかないものがあるんだろう。まあ、当たり前ですね。

 そんな蒙を啓いてくれた行程であった。

Fujifilm X10 @Horikiri (c)tsunoken

2012年12月10日 (月)

『デジタルネイティブの時代』にはとりあえず期待しないでおこう

 うーむ、たまには選書に失敗してこんな本を選んでしまうこともあるんだな、という気分に久々になったのである。『デジアルネイティブの時代』いういささかジャーナリスティックな題名に気が惹かれて読んでみたのだが、全然ジャーナリスティックじゃない本だった。

『デジタルネイティブの時代 なぜメールをせずに「つぶやく」のか』(木村忠正著/平凡社新書/2012年11月15日刊)

 木村氏によればデジタルネイティブ世代は4つに分けられるそうである。つまり第一世代は1982年以前生まれの「ポケベル世代」「ピッチ世代」という「移動体文字文化」第1世代である。第二世代は1083~87年生まれの「友達とのメールが主」というパケット通信代を気にしながら使っていた世代。第三世代は1988~90年生まれの、ケータイブログ、掲示板、つぶやきなどが始まった世代。第四世代は1991年生まれ以降の現在20数歳、ケータイブログ、モバイルSNS、ソーシャルゲームが利用可能になった、今時の若者世代である。

 で、そのデジタルネイティブ世代がどのように特性を構造化し、変容させてきたのかと言えば、その特性は次の四つである。

①空気を読む圧力
②対人関係を構成する「親密さ」と「テンションの共有」が相互に独立し、「テンションの共有」のみによる(「親密さ」を伴わない)「親しさ」への志向
③「コミュニティ」「ソーシャル」とは異なる「コネクション」という社会原理の拡大
④サイバースペースへの強い不信感、低い社会的信頼感と強い「不確実性回避傾向」

 で、そこまではいいのだが、そのあとの本書は文化人類学的手法を使ったアンケートや対面調査の結果がズラッと並んでいるのである。序章から終章に至る全5省のうち3省半が文化人類学的調査の結果表示である。実はこんな本の作り方は「新書的」ではない。学術論文ではそうした調査の方法の提示や結果の表示は必然である。むしろ、そした調査の内容・真偽が学会などで問われるわけである。しかし、新書では読者は(というか私は)そんな「調査経過」なんかは望んでいない。むしろ、そうした調査経過・結果を踏まえたうえで、著者の「ドッカーン」というか、ちょっと「なんでかなあ」という結論を提示するのが「新書」のあり方であるはず。

 で、結構この部分を読むのに疲れた。普通はこんなところは読み飛ばして、結論を読んでしまうのだが、しかし、書評を書かなければいけないということになってしまうと(って、別に誰に頼まれたわけではないけれどもね)そうはいかない。で、この読むのも面倒な調査データをいろいろ読んでみたのだが、結局、私にとっては文化人類学という本来「西洋先進社会の人間が、自らを安全な場所において、非西洋社会を分析するための学問」というところで文化人類学自体に対する偏見があるのだ。勿論、クロード・レヴィ=ストロースみたいな優れた学者も文化人類学は生み出しているのだが、それはほとんど数少ない例で、基本的には「西洋の進化した文化を持つ私たちが、南米やアジアの遅れた人々(それって「土人」というのとどうちがうの?)を研究する学問」という極めて差別的な方法論を持った学術領域である文化人類学的手法を、調査方法に持ってきた木村氏の方法論にも、なんか「自分は調査対象と違う」という「エリート主義」を感じてしまうのは私だけなんだろうか。つまり、木村氏の「私」はこの本の中のどこにあるのだろう。

 で、まあそれはいいとして、結論としての「デジタルネイティブ世代」についての総論としては、先に挙げた4っつの特性なのである。

 ったって、所詮は「空気を読む圧力」「テンションの共有」「サイバースペースへの不信感」でしょう。だったらそれは日本人全体が持っている、サイバースペースへの不信感でしかないのだ。

 つまり、ネットの便利さは分かっているのだが、一方でネット世界での自らの姿がさらされてしまうことに対する恐れ、ということが彼らにあることはわかっている。しかし、ネットにアクセスした瞬間に、私たちの「プライバシー」は世界にさらされてしまうというのは当然のことであり、私たちのいわゆる「PC世代」にとってはそれは自覚的なことなのである。

 この本で言うところの「デジタルテイティブ世代」がそんなことに対して自覚的ではないこと自体がちょっとびっくりなのであるが、その程度のメディアリテラシーしかない人間がネット・メディアに向き合っていることが、もっと驚かされる。そんな人間が「空気を読め」と言ったり「テンションを共有しろ」と言ったりしていることは、まさしく他人に対する「圧力」であり、それは「民主主義」じゃないだろう。他人は他人であり、「空気を読まない」「テンションを共有しない」ことは当たり前であり、そんな多様性が民主主義の基本なのである。そんな、基本すら認めようとしない我が国の人々の「非民主主義的なあり方」が、いまだ民主主義が根付いていない我が国のあり方そのものなのだな、ということが分かってきた。

 生まれた時からデジタルメディアが「存在する」中にいた人々にとっては、そんな空気みたいな存在のデジタルメディアであるから、当然それは「メディア」である以上、そんな「メディア」に自ら発信する場合は、そのメディアに自分をさらけ出す行為を行っているのだ、という自覚はないのだろうか。ちょっと、そんな自覚すらない状態で自らの姿をメディアにさらしているとうのはちょっと怖い。

 いまや衆議院選挙(東京では都知事選も)の真っ最中である。そんな中で、この日本の非民主主義的なあり方を見ると、また今度も「第三極」に投票して、またまた「騙された」なんて非難する有権者の姿が目に浮かぶようだ。そう、デジタルテイティブ世代だって既に上は30代。つまり有権者の中の大きな塊の世代に属しているのだ。そんな大きな塊がみんないわゆる「B層」に属するのだとしたら、この国の民主主義はどこに行ってしまうのだろう、という気分にすらなる。

 まあ、当分政治は停滞するだけだろうね。

 だとすると、12月4日の当ブログに書いたような世界はまだまだやってこないということなのだろうか。

 残念なことであるけれども、仕方ないか。事実を受け入れるだけでしかない。

 って、なんでこんな話になったのだろう?

 

2012年12月 9日 (日)

西新井大師・柴又帝釈天・神楽坂毘沙門天、三題噺

 お題いただきました。「西新井大師・柴又帝釈天・神楽坂毘沙門天」でございます。はてさて。

 まあ、お寺のスケールの順で言えば「西新井大師>柴又帝釈天>神楽坂毘沙門天」なんだが、妙にこの三寺、関連があるのである。

 基本的なことを言ってしまえば、西新井大師は「真言宗豊山派のお寺で、五智山遍照院聰持寺」というのが正しい名称で「空海が天長3年(826年)に開いた」という、この三寺では一番古いお寺である。由緒もある。

2012_12_03_017_2西新井大師

 柴又帝釈天は「日蓮宗のお寺で経栄山題経寺」というのが正しい名称。寛永6年(1629年)に開かれたお寺である。

2012_12_06_041_2柴又帝釈天

 神楽坂毘沙門天は「日蓮宗のお寺で鎮護山善國寺」というのが正しい名称で、文禄4年(1595年)に馬喰町に開祖され、その後、麹町に移り、寛政5年(1793年)に現在地に移されたお寺である。

2012_12_06_090_2神楽坂毘沙門天

 じゃあ、それらがどういう関連にあるのかと言えば……。

 柴又帝釈天と言えば山田洋二の『男はつらいよ』シリーズで有名であるが、実は松竹がこの作品を企画した時に、舞台を西新井大師にするか柴又帝釈天にするか検討したのである。両方とも下町(というより場末ですがね)の名刹として有名であり、門前町もある。町工場なんかもすぐそばにあって、映画の舞台としてはどちらを選んでもいい題材になるわけである。西新井大師は東武伊勢崎線(現在はスカイツリー線というそうだが)の西新井駅から大師線という支線が出ていて西新井からひと駅先にある大師前駅で降りる(というより大師線は西新井と大師前しか駅はない)。柴又帝釈天も京成本線高砂駅から金町線という柴又駅と金町駅しかないミニ支線が出ていて、その高砂の次が柴又駅という、「すがれ感」もちょうど同じくらいという、なんか良く似た感じのお寺である。

 で、結局、柴又帝釈天が選ばれたわけであるが、それが何故であるかは映画の関係者でないと分からない。西新井大師の方が格が上だからといってお高くとまっていたのか、柴又帝釈天門前町が積極的だったのか、なんかそんな気がする。なにしろ西新井大師は空海自身が開いたお寺だからね。

 で松竹で『男はつらいよ』シリーズがスタートしたわけだが(実は第1話はフジテレビで放送されたのが先なのだが)、それに対抗しようという訳でもないだろうが、東宝が『毘沙門天慕情』という砂塚秀夫企画・製作・主演した映画があったのである。神楽坂という場所柄から鯉次郎という名の“幇間(たいこもち)”が主演の映画で、まさしく「寅次郎」に対抗する「鯉次郎」という訳であった。

 そこそこ当たったのではあるが、「そこそこ」であったので続編は作られることはなく終わってしまった。まあ、毘沙門天は飯田橋という大きな駅が目の前だし、門前町といっても既にして大きな神楽坂商店街があるので、西新井や柴又みたいな「すがれ感」はないしね。

 ということで、西新井大師と柴又帝釈天と神楽坂毘沙門天が繋がったのであるが、実はもう一つ共通点があるのだ。

 つまり、三寺とも門前に川魚料理屋というか「鰻屋」があって、昼間っから蒲焼でお酒を一杯やれるというところであります。

2012_12_03_080_2

2012_12_06_056_2

 というところで、三題お噺が繋がったようで、チャンチャン。

 って、つながってないか。

Nikon D7000 10-24mm @Nishiarai @Shibamata @Kagurazaka (c)tsunoken

2012年12月 8日 (土)

オリオンの三つ星!

「私たち3人の赤軍兵士は、死んでオリオンの三ツ星になることを願った。私たちが殺した人々も、同じ天で星になっていると思うと心が静まる。革命戦争はこれからも続き、夜空に輝く星の数はますます増えるだろう」というのが、イスラエル・テルアビブのリッダ空港を襲った日本赤軍の3人、奥平剛士、安田安之、岡本公三の合言葉だった。

 からという訳ではないが、12月6日の夜は晴れていたのでオリオン座がよく見えた。で、大丈夫かなと思いながら撮影した写真が以下の通りである。

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 オリオン座、及びオリオンの三ツ星が結構ちゃんと撮れている。全部、手持ち撮影、プログラム・モードである。一番下はちょっとブレているけど。

 カメラはニコンのD7000、なんでD7000なのかというと、カミサンが夜のアメフトの試合でも使えるようにということで、ニコンの一眼レフで一番ISO感度の許容数が高いのがD7000だったということ。つまりD7000はISO6400まで使えるのである。恐るべしデジタルカメラである。アナログだとフィルムの最高感度はISO1600というのがあって4倍増感でもISO6400が限度、今やそれもなくなってしまって、フィルムではISO400が限度かな。

 それもこの撮影ではISO6400の二倍増感で撮影しているので、実質撮影感度ISO25600という昔なら「信ジラレナイ」トンデモ感度での撮影である。であるからこそ、AF-S Nikkor 55-300mm/F4.5-5.6という暗いレンズでも撮影できてしまったのである。ファインダーを覗いても何も見えない。で、勘でシャッターを押して、再生画像を見ると「写ってる!」ってな訳である。

 一番上の写真は70mmくらい、一番下の写真でも200mmくらいでの撮影である。ということは、前から持っているAF-S Nikkor 70-200mm/F2.8だったらもっといい条件で撮影できるはずである。じゃあ、今度はそのレンズで撮ってみようかな。ただし、このレンズではD7000ではマニュアルでしか使えないという問題がある。

 まあ、だったらD50かD100を使うか、いずれにしても三脚を使って撮ればもっといい写真が撮れるはずである。とは言っても、別に天体写真を継続して撮るつもりはないけどね。

 まあ、ちょっと気が向いたという程度のモチベーションでもこの程度の写真は撮れてしまう、というのがデジタル一眼のスゴいところというべきか。本当に、何を主題にして撮影行を行えばいいのかわからなくなってしまう。

 まあ、普段は基本的にこんな街歩きのスナップが中心なんですけどね。

2012_12_07_055_2

 この鳩は人形じゃなくて、本物の動く鳩ですよ。多分、レストランの美味しい匂いにつられて来たんだろうな。

Nikon D7000 AF-S Nikkor 55-300 @Kamishakujii 10-24 @Ushigome (c)tsunoken

2012年12月 7日 (金)

『ソーシャルもうええねん』というより、これは「働き方ブログ」だな

 従業員数33万人を数える松下電器(現パナソニック)のエンジニアから独立して、多分従業員数は数人のケイタイ・アプリなんかを開発しているクレイジーワークスの総裁(社長をそう呼ぶらしい!)である、村上福之氏のブログ本だ。

『ソーシャルもうええねん』(村上福之著/Nanaブックス/2012年10月25日刊)

 そんな村上氏の「超大企業=パナソニック」と「超未上場ベンチャー=クレイジーワークス」の対比が面白い。

○が超大企業、●が超未上場ベンチャーであります。

○元来、社内は学校に近いです、上司は先生のようなものです。
●学校よりサークルなどに近いです。上司は先輩みたいなものです。

○自分が出来る仕事の範囲は狭いです。
●自分ができる仕事の範囲は大きいです。

○自分の部門のしごとしかしません。
●よその部門の仕事も、かなり回ってきます。兼任業務も多いです。

○あなたの会社がテレビCMに出たりします。または自分が関わっている製品がテレビに出たりすることもあります。
●社外であなたの会社を知っている人はほとんどいません。テレビで見ることもまれです。

○初対面の方に仕事のことを聞かれても説明が非常に楽です。
●初対面の方に仕事のことを聞かれると少しだけやっかいです。

○コンパで「へー!」とか「そこの製品使ってる!」とか言われることが多いです。心底うれしいです。
●合コンで「何の会社?」と言われます。

○あなたが独身男性の場合、彼女の父親が大変安心してくれます。
●あなたが独身男性の場合、彼女のお父さんから、面倒くさげな顔で「それは、何の会社かね?」と言われます。

○住宅ローン審査がすぐ通ります。
●住宅ローンの審査を通すために、場合によっては、追加の書類を要求されたり、審査に時間がかかります。

○会社の成長や衰退が実感できません。
●会社の成長を痛いほどに実感します。衰退も実感します。

○まず会社はつぶれません。少々の赤字でも銀行や取引先がつぶさせません。
●驚くほど簡単に、あなたの会社が下降の一途をたどることもあります。あなたの会社が売られたり、買われたり、ベンチャーキャピタルの闇の力で社長を取り替えられたりします。

○つまらない仕事も多いです。
●つまらない仕事も面白い仕事も多いです。

○本音を言えば、なぜこの仕事をしなければいけないのかわからない業務もかなり多いです。
●元来、仕事の多くは売上に直結するため、やりがいを感じやすいです。

○多くの場合、出世は遅いです。
●出世は早いです。

○あたなの代わりはいっぱいいます。
●あなたが社内の結構なキーマンになってしまったとき、あなたの代わりはいないこともあります。そうなるとあなたは神です。営業のキーマンが辞めたため、簡単に会社がつぶれることもあります。

○にもかかわらず、会社を辞めようとすると、両親やパートナーから非常に反対されます。
●辞めるとき、家族やパートナーからあまり反対されないことが多いです。

○仕事をしていないにもかかわらず、お給料をいっぱいもらっている人が結構います。あなたが数十年後、そういう人になる可能性もあります。
●仕事をしないと会社には残れません。

○法律的に正しい仕事のやり方を教わることができます。
●ドロ臭い仕事も多く、あとあと考えると法律的に微妙なこともやっていたりします。

○ただし、それは面倒くさい手続きや決まりが多いです。
●仕事のやり方が手っ取り早いです。

○比較的、書類作成にかかる時間が多いです。
●比較的書類が少なく、口約束で決まることがかなり多いです。

○会議も長いです。若いうちは発言権があまりない会社もあります。
●会議は大企業よりは少なく、短いことが多いです。若いうちから発言権があります。

○根回しは必要ですし、重要な案件だと、かなり多くの方や部署への根回しが必要です。
●根回ししなくてもいいことが多く、根回しが必要でも手間は少ないです。

○あなたが会社にとって重要でない上に、つまらない業務の担当になる確率が高いです。
●あなたが会社にとって重要な業務の担当になる確率が高いです。そもそも業務部門そのものが、そんなに多くないためです。

○反対に、世界的に重要な仕事を任されたりもします。「世界標準規格を作ってよ」などと任される可能性もあります。
●あなたの会社が世界を動かす可能性は今のところ低いです。

○そういう仕事はやりがいも多く、かなり貴重な体験もでき、人生観もかなり変わります。
●小さな会社が大きくなっていくのを見ていくのは、かなり貴重な体験もできますし、人生観もかなり変わります。

○社内不倫をしてバレても、異動すれば噂は消えます。
●社内不倫をして、見つかれば、周知の事実になります。社長まで知っていたりします。

○問題があったとき、誰が責任を持つのか、またはキーマンが誰なのかを探すだけで一苦労です。
●問題があったとき、誰が原因なのかすぐわかります。

○すでに上場しているため、あなたが上場利益でお金持ちになることはありません。
●ストックオプションをもらって上場すれば、いきなりお金持ちです。

○お給料は役職がつくまではそこそこです。生活には困りません。ある程度の役職がつくと給料は上がります。ただし出世レースに勝てればの話です。
●お給料はよくわかりません。役職がつかないうちは少ないところもあれば、異常に多いところもあります。

○社長に会うことはかなりまれです。社長に意見することはできません。
●飲み会で社長が隣で飲んでいることもあります。社長に意見したり、社長になれたりします。

 で、超大企業と超未上場ベンチャー、あなたはどちらを選びますか? ということなのだが、私のように大出版社というほど良い中小企業にいた人間からすると、ちょうどこの「超大企業」と「超未上場ベンチャー」の両方に当てはまる事柄があったりして、面白い。

 はてさて、どちらがいいのか。「まず会社はつぶれません。少々の赤字でも銀行や取引先がつぶさせません」というのは、少々当てはまらなくなって来ている昨今、どの企業を選ぼうとも、その会社が倒産するかもしれないということを前提に仕事をしなければいけなくなってしまっている。

 う~む、難しい時代だな。

 その前に、定年を迎えられて良かったのかな?

 最後にもうひとつ。

『僕のように、よくブログを書き、なおかつそのブログの文章が長いひとはだいたい「なんらかの意味で面倒くさいひと」です』

 というのは、なるほど納得でありました。

2012年12月 6日 (木)

『スポーツの世界は学歴社会』は究極の「趣味の本」である

 まあ、多分それは日本の高学歴社会の反映であるだろうし、学歴とスポーツ能力の関係はないはずである。

『スポーツの世界は学歴社会』(橘木俊詔・齋藤隆志著/PHP新書/2012年11月29日刊)

 なにしろいまや日本の大学進学率は50%を超えている状態である。スポーツ選手だけが特別なのではなく、特に落ちこぼれでもない限りは「普通は大学に進学する時代」なのである。ただし、スポーツ選手の選手生命は短い。普通のサラリーマンが60歳で定年を迎えるのに対して、スポーツ選手の場合はプロ野球選手の最長寿年齢の選手でも40歳前半くらいだし、大体普通の選手は30歳台の真ん中か前半、大相撲だと30代では長寿な方で、大体普通は20代で引退する。むしろ、そうした選手引退後の人生に関して「大卒」という肩書きが関連してくるのではないだろうか。

 こうした問題に関して本書では計量経済学で用いられる回帰分析を用いていろいろ分析を行っている、というかむしろ橘木氏、齋藤氏ともに経済学者であり、むしろスポーツの専門家でないのだ。

 で、例えばプロ野球選手が引退後、監督になる確率を大卒と高卒で調べると;

<大卒の場合>
・監督になる確率……0.1パーセント程度上昇
・コーチになる確率……5.3パーセント程度上昇

<東京六大学野球リーグ出身の場合>
・監督になる確率……0.1~0.5パーセント上昇
・コーチになる確率……12~17パーセント上昇

<東都大学野球リーグ出身の場合>
・監督になる確率……0.0~0.2パーセント上昇
・コーチになる確率……6.4~10.3パーセント上昇

<首都大学野球リーグ出身の場合>
・監督になる確率……高校出身者と有意に変わらない
・コーチになる確率……0~10パーセント上昇

<関西学生野球リーグ出身の場合>
・監督になる確率……0.0~0.2パーセント上昇

 などなど、確かに大卒、更に六大学・東都・首都という順に監督やコーチ(つまり管理職)になる確立が高くなっている。これは例えば中日ドラゴンズの監督には明治大学出身者が多く、讀賣ジャイアンツには慶應義塾大学出身者が多いという特徴があるそうだが、その理由として親会社の中日新聞には明治大学、讀賣新聞には慶應義塾大学出身者(その代表が正力亨)が多いという事情があるようだ。つまり;

『日本のプロ野球チームのオーナーは、基本的に大企業の経営者であり、その多くが名門大学の出身である。こちらはそう簡単に変わらないだろうから、名門大学出身者がプロ野球の指導者になりやすい環境は、今後も続く』

 ということ。なあんだ、そうだったのね。割りに単純な話。

 で結論としては;

『スポーツの世界において、学歴は重要な変数かと問われれば、本書での解答は「Yes」である。中卒よりも高卒、高卒よりも大卒というように、上の学校を卒業したほうが有利だからである。さらに、どの学校を卒業したかも、ウエートが高い。これは、学業の名門校にも、スポーツの名門校にも当てはまる。とくにプロ選手として活躍している人には、スポーツの名門校出身者が目立つ』

 という、やっぱり「なあんだ、そうだったのね」ということになってしまう。

 結局、一般社会での状況と同じ状況がプロスポーツの世界でも通用しているということなのだ。だとしたら、やはり高卒選手は減ってきて、皆が皆大学へ行きたがる。更に、選手引退後のことを考えると、尚更大学へ進学するという一般的な傾向と同じことになるわけなのだろう。

 それが分ったからってどうなのよということもあるが、まあ雑学のひとつとしてね。

 それにしてもこの二人の先生。『京都大学の師弟関係にあるが、2人で会うときは、学問よりも趣味のスポーツのことを話す時間のほうが長い間柄』であるそうな。まあ、その結果としての計量経済学の方法論を使った分析なわけであるけれども、その意味では書いたほうも「趣味の本」、読むほうも「趣味の本」という、まことに世の中には何の意味もない本なのであった。

 たまには、こんな本もいいかな。

2012_10_06_653_2Nikon D7000 AF-S Nikkor 70-300mm @AVF (c)tsunotomo

2012年12月 5日 (水)

Fitbitからまた何かモチベーションを上げようというメールが来た

 なんか、このところFitbitからWeekly Reportが来ないなと思っていたらこんなのが来た。

 これもなんかモチベーションを上げようという仕掛けなんだろうか。

リンク: mxl01056's badges.

『「アラブの春」の正体』と同じ根っ子をもった運動は?

 チュニジアで始まった「アラブの春」「ジャスミン革命」ではあるけれども、それがFaceBookで拡散して成し遂げられたという話が入ってくるだけで、その実相は我々にはよく分からない。そんな不満に応えてくれる本なのであった。

『「アラブの春」の正体 欧米とメディアに踊らされた民主化革命』(重信メイ著/角川oneテーマ21/2012年10月10日刊)

 重信メイさんっていうと、私なんかの世代だとどうしても重信房子氏が前景に見えてきてしまうのである。しかし、メイさんのほうもいまやこうやってアラブ関連のジャーナリストとして活動してるんだな。

 ということで本書なのだが、基本的にはチュニジア、エジプト、リビアで起きた「アラブの春」が、実はバーレーンやイエメン、サウジアラビア、カタール、オマーンなどでもデモがあったりしていて、実は「アラブの春」とは無縁ではなかったし、アメリカがゴチャゴチャにしてしまったイラクや、相変わらず内戦が続くシリアなどの問題もあり、相変わらず世界の火種ともいうべくアラブの世界がそこにはある。

 しかし、チュニジアやエジプトに関していってしまうと;

『革命後の選挙がイスラム系の政党に有利だったのは、革命の原動力になったリベラル、左派のグループから有力なリーダーが出てこなかったからという理由もあります。
 ではなぜ、有力なリーダーなしに革命が成就したのでしょうか。人々の間に不満があるときには、行動を起こすためにリーダーは必要ではありません。政府を倒すまでは民衆蜂起でできるのです。リーダーが必要になるのは、政権を倒し、新しい政権を作るときです。
 政権を倒すまでは、不満や要求という共通の思いが人々の心を一つにします。しかし、政権を倒した後、不満を解消し、要求を実現していくかというプロセスでは議論が分かれます。そのときに、大まかな方向性を示し、人々をまとめていくリーダーシップが必要になるわけです』

 という状況で、結局革命を起こした主体は政権打倒後には政治の主体になれずに、既存の政治家や軍隊などが再建の主体になってしまったのである。それは言ってみれば反革命であり、革命を起こした民衆を裏切る行為でしかない。つまり、いわゆる「アラブの春」が本当の意味での革命ではなかったというのがその実態。もっとも、その原因は絶対王政やそれまでの支配者が超長期政権で、彼らに対する反対者の存在を許さず、また育っていなかったという理由もあるのだけれども、結局はそんな烏合の衆のような民衆運動でしか、革命運動がなかったということなのである。残念ながら。

 しかし、それは「始まりの始まり」にすぎないだろう。つまり、それまで虐げられていようとも、ただ黙っているだけでしかなかった民衆が、自らを虐げている権力者を倒すことが出来る、と学んだ大事な経験なのである。次には、もうちょっと気のきいたリーダーがちゃんと現れ、彼の領導する「本当の革命」が起きるかもしれないし、また何度か同じような「革命・反革命」を繰り返しながら、更に学んでいくのかも知れない。いずれにせよ、支配者は民衆が「モノを学ぶ民」であることに気づかないうちに、民衆は「モノを学ぶ」のである。いずれ何年先か分らないが、革命が実現する日がくるだろう。

 それが歴史の必然である。

『イスラム社会は歴史的に封建主義的な時代の規範を滞びて成長してきました。領主がいて富と権力がそこに集中する仕組みがまずあり、領主が集まってきたお金や仕事を配下たちに配っていく。コネが有効な社会になっているのです。
 このシステムは、かつてのイスラム社会では良い面もありました。イスラム教に、収入から一定の「ザガート(喜捨)」をせよ、という教えがあるように、強い者、富める者が、貧しい人たちに手をさしのべるような側面がうまく機能していた時代があったのだと思います』

 というイスラム社会の前近代性は、近代社会では国家による扶助となって変わってきているわけで、いずれイスラム社会もそのような変化を受けいれなければならなくなってくるのだろう。問題は宗教性ではなく、歴史の発展の正当さである。かつては宗教がそのような相互扶助の元になって来ていたものが、近代社会では国家が宗教に代わってそのような行いをし、宗教は「心の問題」だけを担当するようになってきた。そうして初めて「宗教の自由」という近代社会の存立の前提が明確になる。

 そうした意味ではアラブ社会で一番進んでいるのはパレスチナだということになるのだろうか。パレスチナにはイスラム教徒ばかりでなくキリスト教徒も生活をしていて、PLOなんかもそんな宗教にわけへだてなく、住民を寓していた。

『イスラエルはたしかにユダヤ教徒がつくった国ですが、彼らに土地を奪われたパレスチナ人はイスラム教徒だけではありません。キリスト教徒も無宗教の人たちもいます。そういう人たちがみんなでかつて自分たちやその親が住んでいた土地を取り戻すためにイスラエルの占領政策に抵抗しています。
 弾圧、差別、自由がない……だから抵抗しているのです。宗教のためではなく、生活のために戦わざるをえない』

 つまり「アラブの春」も宗教が原因ではなく、人間的な問題なのだろう。それは、イスラム教であれユダヤ教であれ、問題の根っ子は同じところにある。

 つまり「富の偏在」である。そういう点で言えば「オキュパイ・ウォールストリート」も同じ根っ子を持った運動なのかも知れない。更に言ってしまえば、中国の反日デモなんかも同じ根っ子かもしれない。

 すべての運動が同じ根っ子を持つものであれば、それらが連帯して活動できる日が、いずれは来るはずだ。

 それが楽しみである。

2012年12月 4日 (火)

『ウェブで政治を動かす!』ことがまず第一。直接民主制までは、ちょっとね

『われわれはいつから「政治」に興味がなくなってしまったのだろうか。
 テレビで政治のニュースなんか始まったら。即チャンネルを切り替えるし、新聞や雑誌の政治記事なんてしっかり読んだこともない。選挙だって、いつ行ったかも覚えていない。そもそも行く意味がわからない――』なんて書き出しを読むと「?」となってしまうのは、私が「若者」でないから?

『ウェブで政治を動かす!』(津田大介著/朝日新書/2012年11月13日刊)

 まあ、確かに「政治」と「政局」を取り違えているマスメディアの責任もあるのだろうけれども、それでは「政局」でない「政治」の一側面――「政策」にフォーカスを置き、『インターネットのような新しい情報技術を政策決定過程の透明化や、決定過程にどれだけ関与させることができるのかを考察』するのが本書の狙いなのである。

 たとえば、我々が最も政治を近く感じる瞬間というのは当然「選挙」ということになるわけであるけれども、その選挙に関しても公職選挙法でもってネットは使いづらいツールとなってしまっている。つまり公示期間における政治家個人・政党のサイトの更新はできないし、多分、TwitterやFacebookによる選挙運動は禁止されている。

 それではそんな状況下でどうやって政治にネットを使っていくかというと、まずその双方向性を考えて、政治家の側からの使い方、有権者の側からの使い方を考える。

 政治家の側からの使い方として、今一番使われているのがTwitterであろう。ところがこの議員発のTwitterで「放射能汚染地域に住む人の血ってほしいですか?」と2012年5月25日に桐生市役所前の献血者の画像とともにツィートした桐生市の庭山由紀前市議や、2011年2月に宮崎県・新燃岳の噴火をめぐり「宮崎の火山が噴火し続けている。牛や鳥を大量に殺処分して、命を粗末にしていることに宮崎の大地の神様が怒り猛っているように感じる」とツィートした民主党の河上満栄前衆議院議員、その他、田村耕太郎前参議院議員、三宅雪子衆議院議員、梶川ゆきこ前広島県議などなど、まったくこの人たちのメディア・リテラシーってどうなってんの? と疑いたくなるような、SNSの使い方だ。

 とはいうものの、別に政治家がメディアリテラシーが高いわけではないし、その辺はごく普通の一般市民と変わりはない。とは言うものの、それはメディアリテラシーの問題ではなく、ごく一般的な「その場で言っていいこと・悪いこと」の問題でしかない。つまり、その程度の問題意識の低い政治家を我々は我々の代表として選んでしまったということなのだ。

 一方、有権者の側からのネットの使い方としては、まず一つ考えられるのは「政治家のメディア化」ということである。

『インターネットを「街」と見立てれば、立場の違うさまざまな人々の貴重な声を集めることができる。不特定多数に自分の意見が伝わり、それがきっかけとなって対話の機会が生じるといった意味で、ソーシャルメディアで政治家が発言するのは、人の多い駅前などで街頭演説をするようなものだ。かつて、街頭演説やタウンミーティングは、政治家が「メディア」としてふるまう上で需要な「仕事」の一つだった。それがソーシャルメディア上にまで拡大し、不特定多数の有権者にフォローされ、ツィートが閲覧されるようになったことで、近年政治家のメディア性は急速に高まっているとも言える』

 というように、これからは政治家自身が「編集力」をもって、Twitterなどのソーシャルメディアを扱わなければならないということのようだ。長文のブログやサイトで語る政治・政策ではなくて、140字のTwitterなどでキチンと自分の政策を語れないようでは「今北産業」のようなアホな連中を相手に政治を語れないということなのだそうだ。

 私なんかは粗忽なもんだから、ネットの普及を見て「これは直接民主主義の武器なんじゃね?」なんて欣喜雀躍したものだが、どうもそこにまで行くにはまだまだ道が遠いようだ。「政治家という職業」にNOを突きつける直接民主主義というのは私の理想なんだけれども、しかし、それを実現するためには有権者たる我々自身の政治的・社会的・文化的リテラシーがキチンと出来上がっていないといけない。というか、現状での我々はそれらのリテラシーがあまりにも低すぎる。自分が不利になる政策にはすぐ反対し、自分の有利になる政策ばっかりを追いかける。それでは当然、他の立場の人とはぶつかるわけで、それを調停する術を持たない。そんなことでは、直接民主主義は成立しない。

 ということで、とりあえずは間接民主制のなかでのネットの使い方ということなのだろう。

『インターネットが政治にもたらした最大のもの――それは「政治を日常化する」ことによる可能性だ。そして、その可能性を考える際には、政治を取り巻く情報技術のドラスティックな変化が、わずかここ数年の間に起きた現象であるということを踏まえておかなければならない』

『ウェブに一方的な期待をかけるだけでは政治は動かない。ウェブは双方向性が命である。最新の情報技術によってもたらされた豊かなコミュニケーション環境を、政治家や官僚との対話に生かさなければ世のなかは変わらないし、いつまでも「お上」に任せている場合ではない。ウェブを利用して政治家に語りかけ、政治を自らの手で「動かす」という当事者意識が、今われわれに求められている』

 という、当面は間接民主制の中でのネットの使い方の適正化と言う事なのかもしれない。

 ちょっと残念。しかし、ちょっと頑張ろう。

2012_12_02_059_2Nikon D7000 AF-S Nikkor 18-105mm @Harajuku (c)tsunoken

 

2012年12月 3日 (月)

表参道で狂言を観る

 青山は骨董通りのプラダブティックの斜め前にある銕仙会能楽研修所で狂言を観てきた。

2012_12_02_036_2

 とはいっても、もともとは脚本家の井出真理さんのFacebookで知ってそれでいってきたのである。若松孝二監督の遺作、『千年の愉楽』の脚本家として知られる井出真理さんと私の関係はどうなってんだ、という疑問は当然なんだろうけれども、まあいいじゃないですか。たまたま彼女が昔書いていたラジオドラマの脚本つながりで、当時のラジオドラマのプロデューサーであったレコード会社のディレクターの紹介で秋田名物「きりたんぽ鍋」をご馳走になった関係だけです。

 でも、久々の狂言って面白いですね。特に、この日の狂言は素人狂言集団「遊兎の会」の催しとあって、素人狂言でも結構楽しめたのは事実だ。

2012_12_02_006_2井出真理さんが出演したのは、この「咲嘩(さっか)」というお話し。つまり、最後は太郎冠者のおかげで散々な目にあってしまう詐欺師・咲嘩が井出真理さんの役柄だ。画面左が咲嘩(井出真理さん)である。

2012_12_02_014_2で、結局、咲嘩は気の利かない(のか、あるいはそれを承知で主の真似をしているだけなのか)太郎冠者のおかげでとんでもない扱いにあってしまう。

2012_12_02_025_2こんな、可愛い太郎冠者もいるのだ。

 演題は「柑子」「蚊相撲」「柿山伏」「咲嘩」「魚説法」「舟ふな」「酢薑」「ぬけがら」「しびり」「内沙汰」「萩大名」「雷」の12題。その他、小舞がいくつか間に入る。

 うーむ、たまには能・狂言もいいかなと思える今日この頃であった。

 今度はプロの狂言師の舞台を観てみたいな。

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Nikon D7000 AS-F Nikkor 18-105mm @Aoyama (c)tsunoken

2012年12月 2日 (日)

最後のカメラ展 FIRST HEROES OF LAST CAMERA

「最後のカメラ展」はいいとして"FIRST HEROES OF LAST CAMERA"はないんじゃないの、それを言うなら"FIRST HEROES OF THE LAST CAMERA"でしょ、まったく日本人はすぐに定冠詞を忘れるんだから。と思ったら、"LAST CAMERA"というのはそういう名前のカメラなのであって、固有名詞だから定冠詞はいらないのだった。

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 きっかけはラジオだった。Tokyo FMで毎日朝8時30分から11時まで放送している「ブルーオーシャン」という番組に、女性プロモデラーのオオゴシ*トモエさんという人がゲストで出演して、その中で「最後のカメラ展」というプラモデルのカメラの展覧会をやっているという話があり、「カメラ」というところに反応してしまったのだった。

 で、行ってみると、そうか「写真展」じゃなくて「カメラ展」だったのね、ということに気がついた。つまりLAST CAMERAというプラモデルのトイカメラで撮った写真を展示しているのではなくて、プラモデルなのでいくらでも改造可能、それぞれのアーチストがいろいろカスタマイズしたカメラというか、こうなるともうカメラとはいえないようなオブジェ化したLAST CAMERAがいろいろ展示されている。

 う~ん、やっぱりカメラという以上は、勿論カメラそのものを展示してもいいけれども、同時に撮影する機械なわけだから、やはり撮影したらこうなった、という実例も見せて欲しかったのだが、それは12月下旬にリリース予定の『FIRST HEROES OF LAST CAMERA ~ 最後のカメラ本』まで待たなければならないという。そこがちょっと残念。

『最後のカメラ展 ― FIRST HEROES OF LAST CAMERA』は代官山の麓にあるGRAVA DAIKANYAMA3階のShower Room Factoryにて12月28日まで開催中。

2012_11_30_004_2これがLAST CAMERAの外箱

公式サイトはコチラ→ http://www.superheadz.com/lastcamera/exhibition.php

2012年12月 1日 (土)

『沖縄戦「集団自決」消せない傷痕』が見せる戦争の傷痕

 著者の山城博明氏は沖縄県宮古島の出身。沖縄大学在学中から沖縄復帰闘争、全軍労闘争、全島ゼネスト、コザ暴動などベトナム戦争や佐藤・ニクソン共同声明「沖縄の核抜き・本土並み、72年返還」を巡る多くの沖縄における闘争の写真を撮り、『現代の眼』などに発表してきて、卒業後、讀賣新聞西部本社に入社、その後、琉球新報に移ったフォトグラファーである。

『沖縄戦「集団自決」消せない傷痕』(写真:山城博明/解説:宮城晴美/高文研/2012年9月29日刊)

 そんな山崎氏の沖縄、慶良間諸島での集団自決の生き残りの人たちを撮影し、証言を集めた写真集である。

 沖縄での集団自決については、日本軍の関与について否定する人たちがいる。そんな命令を軍が出してはいない、○○隊長がそんな指令を出していない、云々。だから「玉砕」や「集団自決」はなく、皆自ら自死していったのだ、という極端なことを言う人までいる。

 しかし、そんな枝葉末節は問題ではないのだ。実際に軍が多くの現地人を徴用・徴兵して戦争を戦っていたのである。そんな雰囲気の中で、「生きて虜囚の辱めを受けず」というような戦陣訓や、「死してお国のために」などという本来は軍人だけの考え方が一般人にまで普及していた時代の出来事なのだ。

 本来、民間人は敵軍に捉えられてもそれは保護されるだけであり、軍人のように捕虜となることはないというのがジュネーブ条約で定められており、民間人を殺したり、捕虜にしたりしたらジュネーブ条約違反となり、戦後裁判で有罪・戦犯となってしまう。ところが、そんなことを知ってか知らずか、日本軍の将兵はそうしたことを一般人には教えず、また自ら行ってきた一般人に対する強姦や殺戮から、アメリカ軍が攻めてきたら一般日本人もそれと同じ扱いを受けるのだと人々を脅し、自ら死を選ばざるを得ないような気分に一般人を追い込み、結果として一般人まで玉砕に追い込んだというのが、その集団自決の実態ではなかったのか?

 勿論、ちょっと論点はずれるが、米軍による東京大空襲や広島・長崎への原爆投下も、日本軍による重慶絨毯爆撃と同様、ジュネーブ条約違反である。というか現代戦争ではごく一般的に民間人への攻撃が行われているが、これらもみなジュネーブ条約違反であるが、最早それを言い出す人はいなくなってしまっている。

 元に戻って、つまり、「命令を発したか・発しなかったか」ということはまさしく枝葉末節であり、そんな細かいことにこだわって、集団自決があったかなかったかと問うのはまったく馬鹿げている。ところがこうした馬鹿げた枝葉末節にこだわるんですね、保守派の人たちは。そんなことだから、2007年9月29日に宜野湾海浜公園で行われた、集団自決の教科書への記述に対する文部科学省の検定に抗議する超党派の県民集会が主催者発表で11万人集まったという事実に対して、いやいや2万人だったとか4万人だったとか言って、あたかもそんな集会がなかったかのような言い方をする。これだって、何人集まったかが問題ではなく、そうした集会が行われたという事実が重要なのである。

 沖縄の人たちからすれば、自らの歴史としてあまり触れたくない集団自決、つまり生き残っている人たちは死んだ人たちに対する「裏切り」という感覚を持っているために、その問題には触れて欲しくないことなのだろう。山城氏も最初は写真に撮ることの許可を得るためにえらく苦労したようだ。しかし、こうした歴史の証言者たちもすで80歳から90歳になっているわけで、今のうちに映像に捉えておかないと、いずれ歴史の中に埋もれてしまいかねない。そんな意味で、かなりショッキングな写真集ではあるが、誰かがやらなければいけない仕事なのだろう。

 最後に「解説」として書かれた宮城晴美さんの「1945年3月――永遠に消せない記憶」から引用する。

『逃げ場のない小さな離島という狭窄空間のなかで、敵への投降・“捕虜”を禁じる日本軍の徹底した死の論理が、住民を「玉砕」思想へと追い込んでいった。厳しい監視体制の下、敵に強姦・殺害される恐怖心、生き残ることの恐怖心に支配された住民のとった行動が、「集団自決」だったのである。
 敗戦後70年近い歳月が流れてもなお、生き残った人たちの心身の傷が癒えることはない。それでも、自らの身体の傷を“裸出”し、山城さんのカメラを通して戦争のむごさ、理不尽さを告発した島の人々の勇気に心から敬意を表したい。』

 ところで、昨日の『絵で解る琉球王国』とこの本は、豊見城市にある戸田書店豊見城店で購入した。この戸田書店豊見城店は「沖縄の本」コーナーがものすごく充実していて、棚段数もかなりの本数がある。他の沖縄の書店よりはずっと充実した状況を、静岡に本店がある戸田書店が実現しているというのも何か不思議である。頑張れ沖縄の書店。

 山城博明氏のサイトはコチラ→ http://www.tenpau.com/

 戸田書店のサイトはコチラ→ https://www.todabooks.co.jp/

 これにて「tsunokenのブログ 沖縄編」はひとまず終了。またいずれ沖縄については書くつもり。お楽しみに。

 最後に『小説 琉球処分』を今一度紹介しておく。まず、この本を読んでからかな。

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