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2012年10月26日 (金)

「『裸の島』バリアフリー版」は、普通なら「ちょっとなあ」なんだけれども、そうではない

 第25回東京国際映画祭の一環として開催された『日本橋で日本映画を観よう』という企画上映で、COREDO室町にある日本橋三井ホールで新藤兼人作品『裸の島 バリアフリー版』を観てきた。

193(c)1960 近代映画協会

  しかし、それは上映終了後のシンポジウムで近代映協のプロデューサーである新藤次郎氏がいみじくも語ったように、まさしくチャレンジングな行いであった。

『裸の島』は無言劇である。新藤兼人の「映画は映像に語らしめたい」という気持ちから作られた実験的な作品であり、まさしく「台詞なし、効果音と音楽のみ」の「ひたすら瀬戸内の小島の地面に毎日水をかけるだけ」の映画である。それがひたすら毎日の営みであるかのように繰り返される。その中に、子どもたちが釣った鯛を街へ売りに行くときのささやかな喜びと、長男の突然の死という悲しみが点描されるが、しかし翌日からはふたたび土に水をやる毎日がはじまるのである。

 こうした実験性と同時に無言劇であるからこその国際性から、1960年モスクワ国際映画祭グランプリを獲得し、同時に世界60カ国以上で上映されることになって、元々、近代映協解散記念作品だったものが、逆に近代映協開設以来の最大興行成績を残した作品となったのである。

 そんな作品を恐れ多くも「監督の創作意図を無視して分りやすくした」演出をしたのは松田高加子さんという人。この映画の視覚障害者用の台本も制作した人で、副音声の演出もしている。勿論、映画は聴覚障害者用の字幕もついている。言ってみれば、映画のことがよくわからないような健常者にも「至れり尽くせり」の仕業なのだ。

 勿論、それは元の映画を作ったときの当初の製作者の意図からは全く離れたところにあるものだ。言ってみれば、製作者の著作者人格権のうちのひとつ「同一性保持権」の侵害である。仮に、一部の人に内容がよく理解できない作品であっても、それをその一部の人のために分かり易く改変することは禁じられている。仮に、それが善意から出発したものであるといってもである。その一部の人には理解されないということも、製作者の目標のひとつだったりするからである。

 というのは、著作権法にのみ即した言い方であって、当然この『裸の島 バリアフリー版』が著作権法違反の映画だといっているわけではない。当然、新藤監督の著作権継承者であり、近代映協のプロデューサーである新藤次郎氏の了解の下に作られているのは当然であるからである。

 で、「観てどうなのよ」ということであるが、それは副音声なしの方が趣があってよいのは当たり前である。新藤兼人の演出・製作意図もそこにある。副音声による「ト書き」的な解説のない方が、乙羽信子と殿山泰司の演技の素晴らしさ、台詞もないストーリーでもって立派に台詞を語っている表情の演技、身体の演技が引き立つのは当然である。そして、台詞がないために延々と続く日常というものの重さがよく表されているということにもなる。はっきり言って、私には副音声が邪魔だったし、目を瞑って聞いていてもそれは却って難しかった。

 普通の生活では、人はそんなに喋らないものだ。目と目で分かり合えたり、いがみ合ったりする。それが普通人の日常である。長年連れ添った日本人の夫婦ならなおさらだ。テレビドラマみたいに心情の演技まで台詞で語ったりするのは、映画のシナリオでは一番馬鹿にされるやりかたであって、そこで描かれるのは「日常」ではないのだ。

 しかし、それでは映画を楽しめない人たちが置き去りにされてしまう。本来は視聴覚障害者であっても「映画を楽しむ権利」はあるはずだ。「健常者が普通」なのではなく、「健常者も障害者も普通」というのが社会のあるべき姿であるはず、という考え方に立ったら、これからは映画を作る際にこうしたバリアフリー版の制作も視野に入れて作る必要が出てくるのかもしれない。

 もともと、この映画を観るきっかけになったのは、講談社の書店未来研究会のWebサイトの仕事をしているときに、そのWebデザインや毎週毎週私が書いた記事のUPなどでお世話になったさがわかすみさんという人から紹介された、株式会社カンバスという会社(代表:福原誠二)がこのバリアフリー映画の制作をITを使ってやっているという話を聞いて「バリアフリー映画」というものに関心を持った、ということなのだ。もっとも、その時話題になったのは『裸の島』ではなく、カンバスでバリアフリー映画を作った同じ新藤兼人作品の『裸の19才』と主演で副音声も担当した原田大二郎氏についてだったが……。

 でも、この「バリアフリー体験」は面白かった。

 まだまだ、バリアフリー映画の製作は端緒についたばかりなのだろう。『裸の島 バリアフリー版』もここはこうしたらな、という部分もあった。制作方法もまだ確立していないような感じだ。制作関係者も映画製作現場から来た人たちじゃなくて、どちらかというと映画ファンだった人たちが多いようだ。

 う~ん。私は映画関係者ではないかもしれないが、でも映画製作者ではあった。実際には、出版社の人間としては異常なまでの現場への突っ込み方をして映画の現場からはちょっとウザがられて来てもいた。という、中途半端な映画関係者ではあるのだけれども、なにか手伝うことがあれば、やってみようかな。

 という人間が一人でも出れば、取り敢えずこのバリアフリー版上映は成功なのかな。

2012_10_25_002_2Fujifilm X10 @Nihonbashi (c)tsunoken

上映終了後のシンポジウム参加者たちのフォトセッションから。左から東大先端科学技術センター研究員で自らも視覚障害者である大河内直之氏、様々なバリアフリー政策に取り組んでいる佐賀県知事の古川康氏、近代映協の新藤次郎氏、そしてこの作品の副音声シナリオ制作と演出を担当した松田高加子氏はシンポジウムの司会も担当。

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コメント

tsuneken様
随分前のことですが、いま、ひょんなことから貴ブログを見つけて拝読いたしました。ここまできちんとレポートして下さる方いなかったので感激しております。
あの副音声の原稿自体の完成度が低かったことと、あの副音声はオープン形式でやるべきではなかった、と個人的には思っています。(興行でやる場合はイヤホンで聞く形が主流です)
デフォルトの副音声は選択肢としてのサービスであるべきだと思っている立場ですので、みんなに聞かせるのは「違う」と考えているからです。
「副音声付きで楽しい作品に」というのはそれはそれでイベント的な企画、もしくは製作者がそうするべきだと思います。
でも、映画のバリアフリーについては、まだまだこうやって色々と感じて考えてくださる方がいることがありがたい、という段階ですので、オープンでやってあーだこーだ言われることに意義があったりします・・?
なんて下手くそな音声解説への言い逃れでもありますが(笑&汗)
またどこかでバリアフリー上映に出くわしたらこれに懲りず立ち寄ってみていただけると嬉しいです。

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