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2012年10月

2012年10月31日 (水)

ディズニーがルーカスフィルムを買収って? でもない話ではないのか

 またまたビックリなニュースが飛び込んできた。何と『ディズニーがルーカスフィルムを買収」というニュースが日経新聞電子版に掲載されている。

http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM31015_R31C12A0MM0000/

 最初読んだときは「まさか」という思いと、ますますメディア・コングロマリット化するディズニーの拡大路線は収まるところを知らないなあ、という感じだった。

 基本的に、ルーカスフィルムはディズニーをお手本にキャラクター戦略を作ってきたわけで、映画の権利は渡すけれどもキャラクターの権利は渡さないという、20世紀フォックスとの配給契約が今のルーカス帝国の出発点だった。だとするとルーカスがディズニーの傘下に入ることは不思議ではないのかもしれないが、一方、『スターウォーズ』の莫大なキャラクター収入をディズニーに渡してしまうのは随分ともったいない話でもある。

 しかし、ジョージ・ルーカスも最早68歳である。映画を企画して、投資して、なおかつ一部では演出もして、それで興行にかけて、ヒヤヒヤしながら結果を待つ、という生活に疲れてしまったのかもしれない。ディズニーの買収条件はジョージ・ルーカスが100%所持するルーカスフィルムの株を半分は現金で、残りの半分はディズニーの株式でということなので、ジョージ・ルーカスはディズニーの株主として残るわけだし、多分エクゼキューティブとして残ることになるのだろう。

 つまり、もうヒヤヒヤする人生は送るのは沢山。これからはディズニーのエクゼキューティブ・スタッフとして企画だけをやり、あとの作業は誰かに任せるという考え方なのだろう。その方が気楽にいられる。

 で、最初言っていた『スターウォーズ』全9作を完成させるのだそうだ。多分、全作完成する頃にはジョージ・ルーカスは80歳になっているだろう。だとしたら、企画だけやって気楽にその行く末を見守りたい、という気持ちになることは十分理解できる。

 まあ、ジョージ・ルーカスも年老いたりというところなのかもしれない。

 

『ホリエ戦記』は麻雀の話ばかりでちょっと物足りないのだが

『ホリエ戦記』っていうから、てっきり堀江貴文氏の東京地検特捜部との闘いを描いた漫画なのかと思ったら、そうじゃなくて東大文科3類に入学した堀江氏の駒場寮での麻雀漬けの毎日を描いた漫画だった、って当たり前だよね『近代麻雀』の連載なんだから。

『ホリエ戦記 ホリエモン闘牌録①②』(堀江貴文・本そういち著/竹書房/2012年7月4日・10月18日刊)

 とは言うものの、後にオン・ザ・エッジ(後のライブドア)を共同で設立することになるひとりの先輩から怪しい塾の講師のアルバイトを紹介される話が出てくる。そこの生徒にオン・ザ・エッジの設立資金を提供したやはり共同設立者のあ有馬あきこなんかもいたわけだから、堀江氏にとってはその塾の存在こそが堀江氏の原点な訳だけれども、その怪しい塾の話は1章のみで、あとはひたすら麻雀を打ち続ける話ばかりだ。その麻雀戦記の中には後に堀江氏の活動の中からいろいろ出てくる「想定外」とか「情報強者」「利益減」「市場分析」「未公開株」「一部上場」「ストックオプション」「ホワイトナイト」「連結決算」「情報公開」「時価総額」「吸収合併」などの経済用語が出てくるわけだけれども、別にそれがストーリーに絡んでくるわけではない。

 ま、あくまでも麻雀漫画だからね。

 しかし、面白いのは2巻の巻末にこの漫画でモデルにされた「ドクター田神のなかのひと」のあとがき「檻中でダイエット中のホリエくんへ」である。

『ホリエくんが駒場寮にいたときの話で麻雀以外のネタと言えば、ハドソンのゲームソフト「桃太○電鉄」を使った「賭け桃○」でしょう。通常の桃○郎電鉄は目的地を目指して獲得した賞金を使って物件や土地を買って社長を目指すというものです。ところがある人が、目的地を目指さずひたすらクレジットカードとばいきゃくカードを駆使して物件・土地転がしを始めてその利鞘で稼ぎまくるという「バブル経済作戦」を考案し、それをいかに効率よく行うかを最適化するようになり、ゲームというよりただシークエンスを処理するようなものになってしまいました』

 というのはいかにもその後のライブドアによるマネーゲームを想定させるものだ。まあ、いかにも頭の良い東大生ならではのゲームの楽しみ方ではある。

 もうひとつ、いかにも堀江氏だなあと感じさせるエピソードとしては;

『みんなでホリエくんを取り囲み、一人が「お前もうちょっと人の事を考えろよ。」と嗜めたときのホリエくんの答えが秀逸でした。「え~っ、人の考えなんてわかるわけないじゃないですか~!」あの言葉にホリエくんのすべてが縮約されていると私は思います』

 という話もある。まさしく堀江氏ならではの他人に対する考え方である。

 堀江貴文氏の新自由主義的な勝者の論理には鼻白らむものがあるのだが、あの愛すべき小太りのキャラクターがどうにも可愛い堀江氏の存在にはアンビバレンツな思いがある。

 時にカチンと来るときもあるメルマガ『堀江貴文のブログでは言えない話』の読者である私としては、できるだけ権力からの干渉を少なくして経済を自由にさせたほうがいいという堀江氏の考え方には賛成するし、セーフティーネットで敗者を保護すればいいじゃないかというのも決して間違っているとは考えないが、しかし、相変わらずの勝者の論理だけには納得がいかないものがある。

 いずれにせよ、あと半年もすれば保釈になる堀江氏である。

 保釈後の活躍に期待しておこう。

 

2012年10月30日 (火)

『「独裁」入門』ってタイトルはスゴいけれども、内容はいつもの香山節です

 えっ? 何で香山リカが『「独裁」入門』? って思うのだが、ああ橋下徹批判なのね、というところで納得。
『「独裁」入門』(香山リカ著/集英社新書/2012年10月22日刊)

 つまりは、小泉純一郎がテレビのぶら下がり取材を使って行った「ワンフレーズ・ポリティクス」を、橋下は140字のみのコミュケーションであるツイッターを使ってより戦略的に行っており、そのツイッター・コミュニケーションと、ツイッター・コミュニケーション的な政治手法を支持する人たちに対する危惧を述べたものだ。

 それは;

・短文形式のソーシャルメディアが流行し、そこでの情報を鵜呑みにする。
・誰かが名指してくれた「敵」を総攻撃する。
・意見が分かれるような問題に対して、「全面賛成」「全面反対」の二者択一を迫る。
・すべてをはっきりさせてくれそうなリーダーを待望し、その人に白紙委任しようとする。

 という実に単純な支配構造なのだが、それに異を唱えない人たちが今増えているということに対する危惧を香山氏は提示するのだ。つまり、小泉郵政選挙の際に言われた「B層」の問題が今また大阪で起きているのである。つまり「B層」とは「IQが比較的低く、構造改革に中立的ないし肯定的。主婦層、若年層、シルバー(高齢者)層など。具体的なことは分らないが小泉総理のキャラクター・内閣閣僚を支持する」(Wikipediaより)層のことである。で、この「B層」がどんな政治判断をしてきたかと言えば、小泉郵政選挙では小泉を支持しておきながら、その結果として巻き起こった新自由主義的な改革、つまりすべては自己責任において強者と弱者に分かれることになった結果に対して「騙された」と息巻くのである。同じことが2009年の衆議院選挙でもあって、自由民主党の政治にはもういいとばかりに民主党に投票した人たちが、やはり同じく民主党政治に対して「マニフェストに騙された」と息巻き、「もう民主党には投票しない」と考えるのだ。

 こうした人たちが、今や期待するのは橋下「日本維新の会」である。

 当然、次の衆院選では橋下維新の会が優勢に動くことはまず間違いはないだろう。ところが、その橋下維新の会が選挙で優位に立ったとしても、議院で最大多数をとることはないだろうから、どこかの多数党に寄生することになるのだと思うが、そこで行う政策はやはり新自由主義的な政治経済政策であるから、やはりその支持層からは「維新八策に騙された」と言われるのだろうな。

 なんで日本の市民層はそこまで劣化してしまったんだろう。戦後すぐに日本人はそれまでの自ら行ってきた政治(とそれを支持してきた自らの行い)に対する反省から、もっと考えて政策の選択を行うことを念じたはずである。それが60年~70年経つと風化してしまうのであろうか。

 戦後の保守・革新確執の時代から、それに不安を覚えた保守層が一致団結して作り上げたいわゆる55年体制が、どうやら綻びを見せて、そこから持っていった新体制がまさか戦前に至る道である単純な「二者択一」政治であり、小泉劇場、民主党政治、橋下維新という完璧な「後退政治」であるという事実は、戦前と同じ道を歩むことを何とも思っていないのかなこの国民は、という気持ちにさせる暗澹たるものである。それでなくとも尖閣諸島、竹島問題と世の中は次第にナショナリズム優位の方向に動いている。このまま行くと、また日本は戦争を始めて、そして戦争に負けて、焼け跡から立ち上がらなければならないのかという気分にもなろうというものだ。

 Twitterは便利なメディアである。それを否定するものではない。問題はそれを使う人たちの問題なのである。Facebookも同じである。すべてのメディアは中立である。しかし、それを使う人たちの問題なのだよなあ。

 たとえばツイッターは140字だけで意見を伝えるメディアである、と同時にリツィートなんかをすると書き込める文字数はもっと少なくなる。そんなメディアでは細かいニュアンスや感情を伝えることは難しい。結局『ツイッターは、「全体、背景、経緯、熟考、ニュアンス」などを前提としないメディアなのだ』と言う事になってしまえば、それは「言論」ではない。ところが、このツイッターでの発言を「言論」と言ってはばからない人物がいるわけだ。つまり橋下である。

 そこでは「事実検証的」は言論はなく、単なる「断定的な言い分」だけが、あたかも言論のようになされる。まあ、たしかに140字でしか表されない表現ではそのようになることは仕方がない。しかし、それがメインのメディア表現になってしまっては政治家としては失格である。そのような短文では表せない政治課題は沢山ある。そのような短文で表してはならない問題は種々雑多なくらい沢山あるのだ。

 それを140字だけで表せということ自体が極論でしかないことは当たり前であるのだし、橋下自身だってそんな簡単な問題じゃないことは百も承知、二百も合点というはずである。

 更に問題は、自分に対する批判者に対してだけはそういう「言葉足らずの反論」をしながら、支持者に「私はこんなにイジめられているんですよ」と発信していることなのだ。

『週刊朝日』の記事にしたって、別に『週刊朝日』初出のネタではない。ところが、橋下にとっては朝日新聞出版社が朝日新聞社の子会社であることが有利だと考えたのだろう。で、朝日新聞と朝日新聞出版が別会社であることを承知の上で、朝日新聞に噛み付いたのである。それがまさしく「私はこんなに(朝日新聞に)イジめられているんですよ」という発信なのである。橋下の出自については多くのマスコミ関係者だけではなく一般の人も知っていた。が、彼はそれをあたかも初めて世に晒されたが如く訴えたわけだ。

 こんな奴に騙される大阪府民、大阪市民ってダメですね。本当にあんな奴を首長に選んじゃっていいの? ということを石原慎太郎を都知事に選んだ東京人が言っちゃいけないか。こういうのを「目くそ鼻くそ」というわけですね。

 橋下が大阪市長になっても、多少は無駄な出費も抑えられたかも知れないが、一方、切り捨てられる市政も沢山あることを知って欲しい、っていうかこれから知るでしょう。でも、そこで「騙された」と言ってはいけません。

 ま、選んだのは「あなた方」なのです。

 

2012年10月29日 (月)

『C世代駆ける』から見えてくる日経新聞の(非)戦略性

 さて、三冊目の日経e新書である。

「C Generation」というのは9月15日のブログ『『ワークシフト』でもシフトしないこともある』でその本『ワークシフト』に書いてあったまさにC Generationのことである。Computer Generation、Connected Generation、Community Generation、Change Generation、Create Generation、Communication Generation、Collaboration Generation、Contribute Generation、Casual Generationなどなどいろいろ言われている世代のこと。基本的には現在の20代のことなんだけれども、日経的には30代も含めてC世代という呼び方をしている。

『C世代駆ける 20年後、世界はこうなる』(日本経済新聞社編/日本経済新聞社/2012年5月1日データ作成)

Book_04_larhttp://pr.nikkei.com/ebooks/list/book/index04.html

 つまり、昭和的価値感では20代は使いッ走り、30代はお勉強の時代、40代になってミドルマネージメントになって社会の中枢に現れるというのが普通だった。しかし、平成の時代は20代はお勉強もしながら中枢で仕事をしつつ、あるいは勉強をしながら仕事をして、30代ではもはや社会の中枢で仕事をしてください。40代は「仕事が引き続きできる奴」と「もうお仕舞いの奴」に分れて、「お仕舞い」の人には早々と余生を送ってもらって引き下がってください。という位にいまや世の中は若返ってきているという話なのだ。

 というと威勢が良いが、実はそうではなくて、今や日本を含む世界の有様はそのようになって来ているんだけれども、日本はまだまだそんな体制になっていない。政治の世界では未だに60代、70代、でつい最近は石原何某という元都知事がよせばいいのに再び中央政界に舞い戻るという80代で何ができるんだよ、というような世界がある。経済界でも60代、70代の経営者がいっぱいいて、なかなか若者がそんな世代と渡り合える状況にはなっていない。

 がしかし、一方でそれを打ち破ろうとしているC世代が出てきているっていう、頼もしい話なのである。そう「20年後、世界はこうなる」というサブタイトル通り、20年後にはいまのC世代が社会の中枢になっている時代なのだ。今のC世代を取材して、かれらの20年後を予測させる記事はいっぱいある。

 デジタル・ネイティブとも呼ばれるこの世代。Windows 95が出たのが1995年だから、生まれたときからパソコンがあったし、携帯端末もものごころがつくころには普通にあった。そんなデジタル・ネイティブ世代が「世の中の普通の人たちは当たり前のように横つながりでつながっているんだ」という関係論の中で育ち、今や社会に出てきている時代になって、これから20年の間にどんな風に日本があるいは世界が変わっていくんだろう、という論考なのである。

 日経新聞の連載記事をまとめた本であるだけに、さすがに取材だけは丹念にいろいろな人に、いろいろな組織に行っている。その分量たるや大変なものだ。で、問題はそれらの大量に主題した材料が新聞記載の時のままか、新聞では読んでいなかったので比較ができないが、新聞記載でカットした部分までも含めて、この本には収められているのだ。それはそれでよい。

 しかし、問題は「本の主題」までが「新聞のまま」ってのはないでしょ。

 言ってしまえば「20年後、世界はこうなる」というのが、具体性がなにもないならまだしも、抽象的にも語ってくれないのだ。

 新聞は基本的には「中立」を保たなければいけないというのが「建前」になっている(日経新聞が中立を建前にしなくてもいいし、実際には中立じゃないけどね)以上は、なかなか「じゃあ、世の中こうなる」という結論を出しにくい、というのは分る。しかし、これは新聞じゃなくて、「報道」じゃなくて「言論」の書籍なのである。堂々と自分の主張を入れていい「書籍」なのである。あ、待てよ。「堂々と自分の主張」って誰の主張なんだ、ってところで躓いてしまうんですね新聞記者は。最早新聞記事じゃないんだから、新聞記事を書いている時とスタンスを変えて自分の考え方を存分に入れて文章を書き換えればいいじゃない。でも、普段から「客観的な記事」の書き方を訓練されてしまっている記者諸君は、そんな自分勝手な記事の書き方を知らない。

 じゃあ、その取り纏めをした人が、取材してきた内容を元に自分の視点で書けばいいんじゃないの? と考えるんだけれども、やっぱり新聞記者上がりの論説委員位じゃダメなんでしょうかね。普通、論説委員位になれば自分の名前で本を書く人もいるんだから、できるはず。それができないってことは……。

 ってところから、実は日経e新書の秘密が見えてくるのだ。

「日経新聞の記事や連載が元になっている本」というのは「日経新書」にいっぱいある。それらは、著者名が個人でそれぞれの人の立場になって、行ってみれば自分勝手なことを書いているわけである。でもその場合、書いた内容に何か問題があれば追及されるのは日経新聞ではなくて著者である。著作権がある以上、基本的な問題点はすべて著作者が引き受けるのである。たとえ、それが日経新聞の論説委員であっても責任はすべて個人である。

 で、この日経e新書3冊(?/データ?)を読んだ限りでは、そんな明確な未来予測はないわけで、要は「日経新聞」の記事あるいは「日経オンライン」の記事をまとめただけの本(?/データ?)でしかないわけだ。

 それだけの本を誰が読むの?(って、私は3冊も読んだけれども)

 つまり日経新聞としては、多分この原稿のままでは売れないだろうけれども、でもこのテーマに興味がある人が多ければ、その取材データを元に、誰かいいライターを見つけて本に出来るかも知れない、ということでいわば天候予想バルーンみたいな感じで出してみた、ってのがこの「日経e新書」なんじゃないか。まあ、購入数が多ければ、そのまま紙の書籍化しちゃえばいいしね。

 というのが、私が日経e新書3冊を読んだ結果の考え方です。

 まあ、いろいろあるけど、取り敢えず電子書籍化できる材料があるのならば(材料だけはいっぱいあるはず)、取り敢えずWebに載っけてみて、上手くいけばビジネス化すればいいというのが、今の日本の電子書籍ビジネスなんだから、日経的にはこのやり方はこのやり方で正解。

 ただし、「個人の視点」のない本は、絶対に面白くはありません。

 それだけは日経新聞の人には言っておきたい。

 どうせ読んでないだろうけど。

2012年10月28日 (日)

今週の『新文化』から:「2次利用フリー化」の真意は?

 出版界の業界紙『新文化』を定期購読しているので、取り敢えず毎週その記事を取り上げて書いていこうかと考えた。

 で、今週は『ブラックジャックによろしく』の著者・佐藤秀峰氏が、自らの作品に対する2次利用を無償で可能とする施策をとっていることについての記事がでていたの2012_10_28_001_2(c)新文化

http://www.shinbunka.co.jp/

 つまり、佐藤氏は自らの作品の商用・非商用の区別なく、佐藤氏の販売サイト『漫画onWeb』に掲載した『ブラックジャックによろしく』を、サイト名とアドレスを載せることを条件に、事前の承認を得ることなく無償で複製し、公衆送信ほかどのような翻案や2次利用を行うことを認める、ということを行っている。

 つまり、これは出版社が行っている「著作権保護」の方向とは正反対の施策であり、また『ブラックジャックによろしく』という大ヒット作を持っている佐藤氏ならではの施策でもある。

 ただし、現在の「インテーネットは基本フリー」という流れからは、その流れに即した方向である。著作権保護をしようとしてもネットメディアではそれはネット・ユーザーの協力なしには実施できないものであり、ところがネット・メディアでは基本的に著作権なんてものはないに等しいのであるから、であるならば積極的にそうした現在の流れに即した方向で試してみようじゃないかという考え方でもある。

 基本的には現在、映像や音楽はネット上ではフリーが当たり前になってしまっている現状からすれば、出版だけがネットから著作権を保護しようとしている方向に向いているのは、実態から逆行しているのではないか。都条例で漫画の販売を規制しよう、自炊代行を禁止しよう、違法ダウンロードを刑罰化しよう、著作隣接権を確立しようという、現状の保護策は時代に逆行するラッダイト運動みたいなもので、いずれは全く意味がなくなってしまうのではないか、という発想法なのである。

 問題は、そんな2次利用フリーにした場合、著作者が利用収入を得られなくなってしまうのではないかという危惧があるだけなのであるが、そんな状況の中でどうやって収入を得られるだろうか、どうやってそのような状況の中で生活が出来るようになるだろうか、という道を探るというのが一種の研究課題として佐藤氏も模索している状況である。

 佐藤氏も別に著作権を否定しているわけではなくて、著作権は認めるが、それを「保護」するという後ろ向きの考え方ではなくて、積極的に開放することで著作者が生き残れる方法はないだろうか、と考えているのである。

 佐藤氏のこうした考え方の基本にあるのは、著作権に対していい加減な態度でありながら、一方ネットでのフリー化の動きという、いわば出版社の既得権益が侵されそうになると、途端に保守化してしまう出版社の考え方に対する批判なのである。

 佐藤氏は言う『私は、編集者もストーリー作りに協力しているのであれば、そういう契約を新たに作ればいいと考えています。ところが現状は、編集者がどんなに頑張っても著作権は100%作家にある。ならば、それぞれの制作方法に合わせて『出版社が○%、作家が○%の権利を保有する』といったような、個別の契約書を用意すればいいのです』と。

 要は出版社が著作隣接権なんてもので権利主張するなら、もっと前に「著作権の一部所有」を、ちゃんと編集者の仕事をした上で主張すればいいじゃないかよ、ということなのだ。

 単純にして明快な発言である。

大学ラクロス・シーズン終了

 学生ラクロスのレギュラーシーズンは10月前半で終了し、昨日からはプレイオフの前半戦の1部2部入替戦が始まった。

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 大井第二球技場の第1試合は2部Bブロック1位の立教大学と1部Bブロック6位の青山大学の試合。第2試合は2部Aブロック1位の成蹊大学と1部Aブロック6位の獨協大学の試合が行われた。

 しかし、やはり2部とはいえそれまで全勝で闘ってきたチームと、全敗で闘ってきた1部のチームの勢いの差というものがあるのかもしれない。第1試合は7対3で立教大学、第2試合は14対7で成蹊大学が勝つという、Aブロック、Bブロックとも2部が1部を破るということで、結局「下克上」が成されるという結果になって、双方の応援団も大喜びという結果となった。

 立教大学は3年前に2部の横浜国大に敗れて2部降格となってから2年ぶりの1部昇格ということで、喜びもひとしおといったところ。特に現在のチームはかなり3年生がいるチームなので、来年も1部で良い活躍が見られそうで楽しみでもある。

 プレイオフはこれから1部ABブロックの各1位2位によるけさがけ準決勝を挟んで決勝に進むというファイナル・フォー戦となって、その後、クラブ・チームとの日本一決定戦が行われるわけであるけれども、大半のチームはそれとは関係なく、この10月前半でシーズンを終了し、後は勉強なのか就活なのか、いずれにせよ普通の大学生の生活に戻るというわけだ。

 長いような、短いような大学スポーツのシーズンではある。

Nikon D7000 AF-S Nikkor 70-300mm @Oi (c)tsunotomo

2012年10月27日 (土)

『なぜ若者は身の丈で幸せか』という設問は、やはり中年の発想なのか

 引き続き日経e新書である。

 ポイントはIT技術の進展や高速交通網の整備などで、これまで「負の遺産」と考えられていた「日本の風景の同質化」というものが、逆に若者たちをもはや東京に憧れる要素をなくし、地方に生きることの気持ちよさ、東京に住んでいても「頑張らなくても」生きていける要素などを増やしてきている、ということなのだろう。

『なぜ若者は身の丈で幸せか 低温世代の経済学』(日本経済新聞社編/日本経済新聞社/2012年9月1日データ作成)

Book_20_larhttp://pr.nikkei.com/ebooks/list/book/index20.html

 10月19日の当ブログ『ポストグローバル社会は、脱市場、脱貨幣経済?』で書いた、イケダハヤト氏や高木新平氏たちの生き方、つまり「生きていくのに必要なのはお金じゃなくて、人と人のつながりだ」っていうこと。それが現在20代の「低温世代」の生き方なんだろう。

 本書では、マイクロファイナンスのNPOを立ち上げる若者、つまりお金を集めるのも小額だし、融資も小額であるマイクロファイナンス。しかし、それがたとえばカンボジアあたりではそこそこ商売や農業の元手になったりする。あるいは湘南海岸でエコロジーに生きる若者。楽天技術研究所を辞めて、太陽光発電パネルを使った携帯電話の充電装置の開発を手がける若者。大手コンサルティング会社を辞めて農業法人を立ち上げた女性。ソニーの広報担当の職を辞めて「自分探し」の旅を続ける若い夫婦。小学校や保育園で絵本の読み聞かせをする若者。モノとモノの交換をし続ける若者たち。シェアハウスを運営する若者。シェアハウスから延長して「近所の人たち」を繋げる街づくりのコーディネーターを目指す若者。

 宮崎でITベンチャーを立ち上げる若者。渋谷にある広告代理店を辞め、徳島県で四国や九州の地場産品を国内外にネット販売する会社を立ち上げた若者。東京を離れ熊本の町家でウェブ制作とカメラマンの仕事を始めた夫婦。

 福島で大規模合コンを仕かけた若者たちは「福島にもこんなに若者がいたんだ」とびっくりする。伊東市で引きこもりの子どもたちを受け入れる塾を経営する若者。生まれ故郷の神奈川から和歌山に移ってソフト会社に勤める40代の人。「地元婚」を希望する若者たち。

 などなどが紹介されている。

 つまりこうした状況変化のもとになっているのが;

『ITや高速交通網の進展は都市と地方のインフラ格差を縮め。逆に低コストを武器に地方から競争を仕掛ける時代が近づいている。行政に頼るのではなく、自らの実益性や価値観から、最適な場所で最適なビジネスを興す。そんな彼らには「ヒルズ族」よりも「ノマド族(遊牧民族)」という言葉がふさわしい』

 ということなのだろう。

 そこに、たとえ東京や大都市にいても、シェアハウスやネットを通じた「物々交換」でもって、お金をかけない生活を営む。考えようによっては、実にアタマのよい生き方をする若者たちがいる。ところがそれは昔からあった生活の方法なのだ。

 田舎では生産物の交換というのは当たり前の話であって、『両親が専業農家の山崎家は、自宅近くの畑で野菜をすべて調達する。しかも「余った野菜をご近所に配れば、米や魚に変身する」。智子さんがこっそり教えてくれた。たまに遊びにくる大工さんから朝、近くの海で釣ったヒラメやイカをお土産にもらうことも。ここ2~3年はスーパーで米や魚を買った記憶がない』というのは田舎特有の話ではあるが、しかし東京だってつい40年ほど前は隣近所での米や味噌醤油の貸し借りは当たり前の話だったし、『マンションの、隣は何をする人ぞ』という状況になって、『全てはお金で解決する』時代になったのはそんなに前のことではないのだ。シェハウスのような考え方は新しい時代の考え方ではあるが、でも「若衆宿」ではないが、そんな「思想」はずっと前からある庶民の生きる知恵みたいなものの集大成なのである。

 問題はやはりバブルの時代なんだろうな。あの時代の大変化が日本及び日本人にそれまでの生き方をすべて否定し、新しい人間にならなければならないという強迫みたいなものを植え付けたようだ、まさしく「すべては金で解決する」というような。

 ということで、こうした低温世代に対する4人の識者、内田樹神戸女学院大学名誉教授、城繫幸ジョーズ・ラボ代表、原田泰大和総研顧問、山田昌弘中央大学教授ら、はっきり言って「旧世代」のコメントは無視して、今や若者論を語らせたらこの人といわれる古市憲寿氏のコメントからいくつか抜粋。

『世代間の意識差はかつてなく縮まっています。20代も30代も、あるいは70代だって意識は若い。『一億総若者社会』とでもいえる世の中になっています』

『そもそもなぜ『若者』だけが立ち上がらないといけないのか。社会に文句があるなら、文句のある人が立ち上がればいいんじゃないですか』

『将来に希望を持てないからこそ、今に幸せを感じるという現象がおきているのではないでしょうか』

『自分たちに格差社会の被害者であるという意識はない』

『『本気度』が伝わってくるこうした運動に比べると、最近のデモは遊びの延長といえなくもない』

 で、その遊びの延長として、

『お祭り気分で、もっと若者が地方議員にでも立候補すればいいと思うんですけどね。別に難しく考える必要はない。都道府県議会議員で3000人弱、市区町村議会なら3万人以上もいる。歌手や画家になるより、よっぽど簡単です。ドイツのベルリンでは平均年齢29歳の『海賊党』が15議席を獲得しました。デモをして満足しているよりも、よっぽど有意義なのでは』

 というのには大賛成だ。そう面白いのは「お祭り気分」で行っちゃう気分なのだ。それこそ「選挙」なんて「お祭り」じゃん。おまけにそれでとりあえず4年間の「就職」もできるわけだ。

 そんな候補者が出てきたら、すぐに応援をしてしまうぞ。

2012年10月26日 (金)

Kindle Pawer White 3G を注文した

 Kindle Pawer White 3Gを注文した。

 やっとスタートする日本における電子書籍元年である。

 なんか「やるやる詐欺」じゃないかといわれていた電子書籍。毎年、「今年こそ元年」なんていいながらここまで来てしまった。

 遂に、遂にという感じで出てきたKindleがどういうものになるのかはまだわからない。しかし、Kindleストアなんかもスタートしたので、今度こそは本物だろうということなのだ。

 で、なんでKindle Pawer White 3Gなのかと言えば、私は基本的にタブレットはいらないと考えているからだ。勿論、それはApple iPadを発売初日に買って使ってみたからわかっていることなのだ。そう、文章の書き込み機としてはタブレットは長文には合わないガジェットでしかないし、となると電子書籍リーダーとしては大ぶり過ぎる。持ち歩き用のパソコンとして使うのであればMac Book Airなんかの方がずっと使い勝手はいいし、しかし、いまやマイクロソフトの牙城に跪いてしまった私としては、今のLenovo X121eで充分だ。ということで、iPadは7インチまで小さくなってしまっても、電子書籍端末としては意味がないし、タブレットとしてもそんな理由で使う気はさらさらない。iPadも息子に上げてしまった。

 で、今のところ電子書籍端末としては、会社で大量購入したSony Reader PRS-650を使っているわけなのだが、これはパソコンとリンクして使わないとダメなのでまことに使い勝手が悪い。というか、会社で大量購入した直後にSonyからは3G付きのReaderが発表されて、なんだこれは売れ残りの大量処分だったのか、とダマされた気分。まあ、自分でお金を出して買ったわけじゃないからまだいいけど。

 ということで、遂に発表されたKindle Pawer White 3Gなわけだ。

 電子書籍デバイスとしての優秀さは以前から知っていたことではあるし、今回は3G搭載モデルとWi-Fiモデルと両方出しているのは、なかなか良心的だ。おまけに3Gは無料で使える。あのAmazonにしては上出来である。

 で、今日注文したのだが、なんと「お届けは2013年1月13日~1月15日」ってなんなの? いまから2ヵ月半も待たせて、その間はAmazonに電子書籍を発注できないじゃないか。

 ちょっと何とかしてよ、ジェフ・ベゾスさん!

 しかし、「Pawer White」っていいんですかねえ、こんな「国語の乱れ」を許しても。

 

 ………

 

 すんません。Paperwhiteでした。

「『裸の島』バリアフリー版」は、普通なら「ちょっとなあ」なんだけれども、そうではない

 第25回東京国際映画祭の一環として開催された『日本橋で日本映画を観よう』という企画上映で、COREDO室町にある日本橋三井ホールで新藤兼人作品『裸の島 バリアフリー版』を観てきた。

193(c)1960 近代映画協会

  しかし、それは上映終了後のシンポジウムで近代映協のプロデューサーである新藤次郎氏がいみじくも語ったように、まさしくチャレンジングな行いであった。

『裸の島』は無言劇である。新藤兼人の「映画は映像に語らしめたい」という気持ちから作られた実験的な作品であり、まさしく「台詞なし、効果音と音楽のみ」の「ひたすら瀬戸内の小島の地面に毎日水をかけるだけ」の映画である。それがひたすら毎日の営みであるかのように繰り返される。その中に、子どもたちが釣った鯛を街へ売りに行くときのささやかな喜びと、長男の突然の死という悲しみが点描されるが、しかし翌日からはふたたび土に水をやる毎日がはじまるのである。

 こうした実験性と同時に無言劇であるからこその国際性から、1960年モスクワ国際映画祭グランプリを獲得し、同時に世界60カ国以上で上映されることになって、元々、近代映協解散記念作品だったものが、逆に近代映協開設以来の最大興行成績を残した作品となったのである。

 そんな作品を恐れ多くも「監督の創作意図を無視して分りやすくした」演出をしたのは松田高加子さんという人。この映画の視覚障害者用の台本も制作した人で、副音声の演出もしている。勿論、映画は聴覚障害者用の字幕もついている。言ってみれば、映画のことがよくわからないような健常者にも「至れり尽くせり」の仕業なのだ。

 勿論、それは元の映画を作ったときの当初の製作者の意図からは全く離れたところにあるものだ。言ってみれば、製作者の著作者人格権のうちのひとつ「同一性保持権」の侵害である。仮に、一部の人に内容がよく理解できない作品であっても、それをその一部の人のために分かり易く改変することは禁じられている。仮に、それが善意から出発したものであるといってもである。その一部の人には理解されないということも、製作者の目標のひとつだったりするからである。

 というのは、著作権法にのみ即した言い方であって、当然この『裸の島 バリアフリー版』が著作権法違反の映画だといっているわけではない。当然、新藤監督の著作権継承者であり、近代映協のプロデューサーである新藤次郎氏の了解の下に作られているのは当然であるからである。

 で、「観てどうなのよ」ということであるが、それは副音声なしの方が趣があってよいのは当たり前である。新藤兼人の演出・製作意図もそこにある。副音声による「ト書き」的な解説のない方が、乙羽信子と殿山泰司の演技の素晴らしさ、台詞もないストーリーでもって立派に台詞を語っている表情の演技、身体の演技が引き立つのは当然である。そして、台詞がないために延々と続く日常というものの重さがよく表されているということにもなる。はっきり言って、私には副音声が邪魔だったし、目を瞑って聞いていてもそれは却って難しかった。

 普通の生活では、人はそんなに喋らないものだ。目と目で分かり合えたり、いがみ合ったりする。それが普通人の日常である。長年連れ添った日本人の夫婦ならなおさらだ。テレビドラマみたいに心情の演技まで台詞で語ったりするのは、映画のシナリオでは一番馬鹿にされるやりかたであって、そこで描かれるのは「日常」ではないのだ。

 しかし、それでは映画を楽しめない人たちが置き去りにされてしまう。本来は視聴覚障害者であっても「映画を楽しむ権利」はあるはずだ。「健常者が普通」なのではなく、「健常者も障害者も普通」というのが社会のあるべき姿であるはず、という考え方に立ったら、これからは映画を作る際にこうしたバリアフリー版の制作も視野に入れて作る必要が出てくるのかもしれない。

 もともと、この映画を観るきっかけになったのは、講談社の書店未来研究会のWebサイトの仕事をしているときに、そのWebデザインや毎週毎週私が書いた記事のUPなどでお世話になったさがわかすみさんという人から紹介された、株式会社カンバスという会社(代表:福原誠二)がこのバリアフリー映画の制作をITを使ってやっているという話を聞いて「バリアフリー映画」というものに関心を持った、ということなのだ。もっとも、その時話題になったのは『裸の島』ではなく、カンバスでバリアフリー映画を作った同じ新藤兼人作品の『裸の19才』と主演で副音声も担当した原田大二郎氏についてだったが……。

 でも、この「バリアフリー体験」は面白かった。

 まだまだ、バリアフリー映画の製作は端緒についたばかりなのだろう。『裸の島 バリアフリー版』もここはこうしたらな、という部分もあった。制作方法もまだ確立していないような感じだ。制作関係者も映画製作現場から来た人たちじゃなくて、どちらかというと映画ファンだった人たちが多いようだ。

 う~ん。私は映画関係者ではないかもしれないが、でも映画製作者ではあった。実際には、出版社の人間としては異常なまでの現場への突っ込み方をして映画の現場からはちょっとウザがられて来てもいた。という、中途半端な映画関係者ではあるのだけれども、なにか手伝うことがあれば、やってみようかな。

 という人間が一人でも出れば、取り敢えずこのバリアフリー版上映は成功なのかな。

2012_10_25_002_2Fujifilm X10 @Nihonbashi (c)tsunoken

上映終了後のシンポジウム参加者たちのフォトセッションから。左から東大先端科学技術センター研究員で自らも視覚障害者である大河内直之氏、様々なバリアフリー政策に取り組んでいる佐賀県知事の古川康氏、近代映協の新藤次郎氏、そしてこの作品の副音声シナリオ制作と演出を担当した松田高加子氏はシンポジウムの司会も担当。

2012年10月25日 (木)

「クラウドコンピューティングEXPO」はちょっと地味?

 昨日から始まった「第3回クラウドコンピューティングEXPO」@幕張メッセに行って来た。

2012_10_24_041_2http://www.cloud-japan.jp/

 まあCEATEC JAPANのクラウド部分だけを抽出した展示会だと考えればいいのだろうか。開催規模も同じ幕張メッセながらCEATECの半分位のスペースで、CEATECは一般の人がかなり多かったのだが、今回はやはり関係者というか、例えばクラウドを導入しようと考えている企業などなのだろうか、ウィークデイということもあり、背広にネクタイという人が多い展示会であった。

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 しかしながら「クラウドコンピューティング」といっても、別に何か新しい機材があるわけでもなく、コンピュータ自体はどこかの企業が普通のサーバーを沢山持っていて、わが社のサーバーにデータを預けなさい、というだけのことなので、私のような「素人」が見ても面白いものはない。

 ということになると、このNTTドコモあたりの展示が私なんかでも「見て面白い」という程度のもの。

 それ以外は、クラウドに上げてしまうことによる心配事、つまりセキュリティや標的型攻撃ウィルス、社外秘事項を如何にして外部から守るかといったことに対するソリューションの提供なのだから、展示もいきおい地味なものになる。うーん、これならCEATECの中でやってもいいんじゃない? 何でそれと分ける必要があるんだろう。

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 ということで、目に付いたのは上のアライドアーキテクツや、下のWOWOWコミュニケーションズあたりのソーシャルメディア・マーケティング位かな。でも、それもかなり地味。まあ、IT企業というのはごく一部を除いてはほとんど中小企業の集まりであり、「モノ」を作っている会社じゃないから、それもやむを得ないんだけれどもね。

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 ひとつだけ面白かったのは、このシンフィールドという会社の「マンガマーケティング」という発想。つまり地味で文字ばかりになってしまいがちな企業ホームページなんかにマンガを導入して、より多くの人に読んでもらおうという考え方なのだ。230人のマンガ家と契約していて、企業の相談にのりますっていうんだけれども、どうなんだろうか。HPにマンガを載せれば読む人が増えるという考え方では、HPのアクセス数は増えないと思うのだが。むしろHPへどういう導入の仕方でアクセスさせるかという問題の方が大きくて、HPにマンガを載せればアクセスが増えるということではなく、HPに来てくれた人に対してどういう表現で内容を伝えるのかという部分でマンガが有効というのなら分るのだが。

 それにしても、こうして企業HPなんかだけでマンガを描いているマンガ家が230人もいるっていうのがおもしろいよね。まあ、彼らもいずれはメジャー雑誌などでマンガを発表したくて、今は食うためにHPなんかの発注マンガを描いているのだろうけれども、取り敢えずは「頑張ってね」としか言いようはない。ただし、発注マンガばっかり描いていることに満足してしまうと、いざ自分の表現で描くっていうときになった際にいやでもポテンシャル低下しているということに気づくはず。そうならないためには、HPの発注マンガはあくまでも食うための手段と考えて、常に自らの表現でマンガを描き続けていてほしいものだ。

 最後に苦言をひとつ。

 どこの会社のブースとは言わないが、写真撮影をしていて「写さないで」と言われたブースがある。ならば初めから「撮影禁止」という立て札でも立てておけばいいのに、それもないし、むしろこうした展示会に出したものを撮影禁止にすること自体がおかしい。そんな撮影されたら困るものを何で展示するのか。だったら展示もするなよ、と言いたい。

 クラウドコンピューティングEXPOは10月26日(金)まで開催中。

Nikon D7000 AF-S Nikkor 18-105mm/f3.5-5.6G ED @Makuhari (c)tsunoken

2012年10月24日 (水)

ふたつの「残念なこと」アップルとアームストロング

 今朝のニュースでふたつばかりの「残念なこと」があったので……。

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 一つはアップルの「iPad mini」である。

 ティム・クックCEOが「今年はアップルにとってすごい年になる」と言って発表したのが、たかだかiPadの9.7インチの画面が7.9インチになったというだけの、「なんだこりゃ、iPadをパクッたGallaxyをパクッただけじゃん」的なものにすぎなかった、ということだ。

 せめてアプリケーションにでも何か新鮮味のあるものがあれば別なのだが、まあ、それはいずれとのことなのだろう。

 やはり、スティーブ・ジョブズの死後のアップルは、イノベーションというところからは離れていってしまうのだろうか。たしかにティム・クック氏はマーケティング担当の役員からCEOになった人であって、彼の率いるアップルがなにか「新しいもの」を提案してくることは、あまり予想はしてこなかったのだが……、まさにその通りとなってしまった。

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 そして、もうひとつの「残念なこと」が、自転車ロードレースのランス・アームストロングのツール・ド・フランスの7連覇の記録が抹消されてしまったことである。

 勿論、それはランスのドーピング疑惑が確定となった事を受けてのUCIの裁定なのだ。しかし「7連覇全部がドーピングによるものなのかどうか」という点はまったく考慮されてはいない。というか7連覇全部がドーピングによるものなのか、ある年、あるいはいくつかの年だけがドーピングによるものなのかは、いまや誰も分らなくなってしまったにも関わらず、じゃあ面倒くさいから全部優勝はなし、というのがUCIの結論らしいのだ。

 アメリカの全米アンチドーピング機関(USADA)が「ランスはクロ」の判定をUCIに送って、UCIは結局それを受け入れただけでの裁定というのは、はなはだUCIとしての独自の立場をもった考え方の表明というものではなくなってしまった。あれだけ各国の自転車競技運営組織とケンカしてきたUCIとも思えない、情けない結論というのも「残念」だった。

 以上、ふたつの「残念なこと」でした。

ウォーレン・バフェット氏は『いまこそ日本買い宣言』をしたそうであるが

 なんかブログの読者が急に増えている。例えば10月22日の「 『やっぱり! 株はデイトレ』と言ったって、貴方、人間失格したいですか」が、それまで普通に毎日500~600PVだったのが突然901PVとなってビックリしたのが、なんと昨日の「ジャパンカップ・サイクルロードレース2012」に至っては2000PVに迫りそうな勢いでアクセスが伸びている。デイトレーダーの悪口を書いたのがちょっとは面白がれたのかも知れないというところは理解できるが、さすがに超マイナーなサイクルロードレースで更にアクセスが伸びるとは思っても見なかった。

 なんか悪い冗談なのか、誰かの仕掛けで糠喜びをさせようという仕掛けなのかもしれないが、やはり読者が増えるというのは嬉しいもので、とりあえずはお読みいただいてありがとうございます、と言っておこう。

 で、今日のエントリーである。

 日経e新書というのが創刊された。

 日経新聞や日経関係の雑誌などに連載された記事を読み物にしたもので、電子書籍だけの販売である。したがって、この本はAmazonでは買えないので要注意。表紙の画像をポチっとしてもAmazonには飛びません。いくつかの電子書籍店で販売しているので、デバイスを持っている人は、自分のデバイスで買える書店で買ってください。下のリンクをポチっとしてね。
Book_28_lar_2http://pr.nikkei.com/ebooks/list/book/index28.html

 ということで、いくつかこの日経e新書を買ってみたので、今日からそれらの本について書き、いくつか読んでから、日経e新書のまとめをやってみたい。

 で、一番最初が『いまこそ日本買い宣言 バフェットが語る株式投資・戦略論』(日経ヴェリタス編/日本経済新聞社/2012年9月1日データ作成)である。

 しかし、この日経e新書というのは「何かすごいスカスカ」なのである。私の使っているのはSONYのReaderなのだが、その場合1ページの表示が「28字×15行=420字」で、一般的な新書だとだいたい1ページ600字くらい(岩波新書だともうちょっと多い)で、日経e新書の1ページの分量は約2/3くらいだ。で、この『いまこそ日本買い宣言」は130ページなので、一般的な新書だと80ページちょっと、次に取り上げる『なぜ若者は身の丈で幸せか』は249ページなので一般的な新書で160ページくらい、三番目に取り上げる予定の『C世代駆ける』でようやく537ページで一般的な新書だと340ページくらいになる。

 このスカスカ振りが「日経e新書は何故紙の書籍で出さずに電子書籍だけなのか」をとくカギがありそうだ。その辺の検討結果は三作目を取り上げたあとで述べることにしたい。

 なんて本の内容とは関係ないところで随分スペースを使ってしまった。それもこれも、本書の内容によるものなのだ。

 つまり、ウォーレン・バフェット氏といえば、毎年の世界長者番付でマイクロ・ソフトのビル・ゲイツ氏に次ぐ第2位の位置を保ち続けて、いまや個人資産6兆円とも言われている大金持ちであり、同時に世界的に有名な投資家として投資会社バークシャー・ハサウェイを率いて、世界経済にも大きな影響を持っている人物である。なんたってバークシャー・ハサウェイ社は300億ドルを超える手元資金を抱えているのだそうだ。300億ドルっていったら2兆円ですよ2兆円。

 この人の投資戦略は至って単純。

『マクロ環境をもとに事業を売ったり買ったりしたことは一度もありません<中略>日々のニュースを基準に売り買いの判断をするようになったら、絶対に投資で成功できません<中略>長期投資家であれば、企業の10年後をじっくりと見据えたうえで投資すべきです』
『事業そのものにほれ込んだ銘柄には集中して投資し、いったん保有したらめっなことで手放さない』
『長期投資を好むバフェット氏は、株式の値上がり益にはこだわらない。投資先の企業が安定して利益をあげて配当を続け、さらに余剰資金で自社株買いをして発行済み株式数を減らすことを望む』
『気に入った銘柄に一気に多額の資金をつぎ込み、長期に保有するのがバフェット流の真骨頂だ。長期に持ち続ける銘柄のことを、かつては「永久保有銘柄」とも呼んでいた』

 というバフェット氏が、バークシャー・ハサウェイの子会社IMCインターナショナル・メタル・ワーキング・カンパニーズB.V.が2008年に買収した、超硬合金を用いた切削工具の製造・販売をおこなう世界的な会社である日本の株式会社タンガロイを訪問した際に、日本企業にも興味を持っているということを話したのが本書のタイトルのきっかけになっている。

 しかし、上記のバフェット氏の投資哲学とはまさしく王道の哲学であり、それを実施するためには莫大な資金を要する。特に『株式の値上がり益にはこだわらない』という部分なんかは、それこそ細かい値上がり益を気にして日に日に100~200の売り買いを続けるデイトレーダーにとっては「とんでもない」哲学のように見える。

 バフェット哲学こそ確実に株で稼ぐ方法であるわけなことはデイトレーダーでも知っている。しかし、そのためには莫大な資金が必要なわけで、せいぜい1億円くらいの資金で株をやるとなると勢い「値上がり益」を望むようになる。しかし、株が値上がりするということを予想することは誰もできない。まさしく『日々のニュースを基準に売り買いの判断をするようになったら、絶対に投資で成功できません』なのだが、しかし、デイトレーダーにとっては、自分の少ない資金をまさしく『日々のニュースを基準に売り買い』しなければならない。どころか、単なる勘だけでの売買もある。しかし、そんなことをしたら絶対に投資で成功できませんなんてことでは、株をやる意味はないだろう。というか、まさしくそれはデイトレーダーに敗北宣言をせよと言っているに等しい。

 まあ、デイトレードはギャンブルであるから、たまにはギャンブルで勝つ人も出てはくるが、しかし大半は損をして退場するのだ。

 そうか、やはりデイトレードは、実際の企業の経営とは何の関係もない、単なるギャンブルだったのである。

 って、何を今更知った風な……。

2012年10月23日 (火)

ジャパンカップ・サイクルロードレース2012

 10月21日はジャパンカップ・サイクルロードレース2012を観戦するため、宇都宮森林公園に行ってきた。

 ジャパンカップは国際自転車連盟(UCI)からアジアツアー1.HC(ワンデイ・超級)というカテゴリーに指定される日本国内最高峰のレースで、アジアツアーにも指定されているために国際UCIポイントにも関わる、大事なレースでもある。

 ヨーロッパのレースシーズンは既に終わっているとはいえ、そんなUCIポイントにも関わるレースであるために、まだ来年の行き先が決まっていない選手にとってはポイント稼ぎがかかっているレースであることはコミックの黒田硫黄作『茄子』にも描かれていた。

 今年は観戦を決めたのが遅かったこともあったために、「東北新幹線+宇都宮駅からシャトルバス」という初めての方法で行ってきた。今までは、クルマ、観戦ツアーバス、自転車という3方法で行ってきたのだが、やっぱり「自転車レースを見に行くのは自転車で行く」ってのが最高の観戦方法ですね。さて、そこまで体力が回復するのはいつのことだろう。

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 で、肝心のレースであるが、既にご存知の通りリクイガス・キャノンデールのイヴァン・バッソが、終盤怒涛のスプリントを決めて優勝。2008年、ドーピングによる出場停止期間明けの最初のレースとしてこのジャパンカップを選んでから出場し続け、4年目にしての初優勝である。

 オリカ・グリーンエッジは別府史之のエース体制で臨んでいるのでもしやとも思われたが、前日の宇都宮市街で開催されたクリテリウムで第2位に食い込んだ際に、私がFacebookに「最後の別府史之選手の追い込みはすごかったけど。『その足は明日に残しておけよ』といいたくなる追い込みでした」と書いたとおり、残念ながら集団に飲み込まれてしまい16位という結果に終わった。

 上の写真はレース中盤の古賀志林道の上りの写真であるが、オリカもリクイガス、サクソバンク・ティンコフバンク、ガーミン・シャープと共に集団の前方を形成しており、バッソもその集団前方に位置取りしている。別府もその中にいれば最後のスプリントに絡んでいけたはずなんだけどなあ。

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 ラスト1周の先頭集団。4番バッソ(リクイガス)、12番ダニエル・マーティン(ガーミン)、34番ラファエル・マイカ(サクソバンク)、95番ジュリアン・デヴィド・アレドンド(チームNIPPO)、25番クリスチャン・メイヤー(オリカ)。ここからの上りの位置取り争いが激しくなる。
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 で、優勝のイヴァン・バッソ、2位のマーティン、3位のマイカのゴール後の1シーン。

 

 で、以下はレース外の点描。

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 毎年数台必ず来る「痛チャリ」軍団なのだが、残念なことにこの痛チャリ、走っているときにはゴーゴーうるさいだけで、せっかくのイラストは見えなくなってしまうのだ。それでもやっぱりこの仕様にしないと気が済まない人がいるんだな。

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 レースは1回目の前を通ると、その後20分位は何もせずに待たなければならない。まあ、その間に痛チャリ自慢をしたり、観客から受けようとパフォーマンスをする人もいるのだが、その一方、この人みたいに読書に耽る人もいる。

 私みたいにアチコチ動き回ってみる人も多いが、こうして静かに読書をしながら次の選手の登場を待つ人もいる。私もこんなブログを書いていると、多少は「読書中毒」に罹っているのかも知れない、こんな人をみると気になってしょうがないのだ。

 ということで帰りの新幹線では、社内誌『トランヴェール』のを熟読してしまった。会津特集だったということもあるんだけどね。

Nikon D100 AS-F Nikkor 28-200mm/F2.8 @Utsunomiya (c)tsunoken

2012年10月22日 (月)

『やっぱり! 株はデイトレ』と言ったって、貴方、人間失格したいですか

 株のデイトレーダーの生活ってどういうもんなんだろうか、デイトレーディングってのも面白そうじゃん、という興味で読んでみたのだが、こりゃ現実の経済活動とは何の縁もない単なる「ギャンブル」じゃん、というのが正直なところの感想である。

『やっぱり! 株はデイトレ 3人の成功者(主婦、若者、元会社員)の手法はこれだ』(友成正治著/明日香出版社/2012年4月11日刊)

 株の価格というのは基本的にはその株式を発行している企業の価値を「株価」というものに表したものである、と考えるのが当たり前である。当然、決算でいい状況を示した企業の株価は上がるし、その反対に実績を落とした企業の株価は下がる。ところが、そんな企業のパフォーマンスと関係なく、株価の細かい動きに合わせて売り買いを繰り返すことによってキャピタルゲインを得ようというのがデイトレーディングの考え方である。つまり安く買って高く売れば儲けだが、その逆に高値をつけたときに売って、安値で買えばやっぱり儲け、ってことは高値で売ったものは「何なの?」ということになるのだが。それが「信用取引」というものの不思議さなのである。

 そんな訳だから『1年以上デイトレをやってきたけれども、日経は読んでない』と言うデイトレーダーもいるし、本書で紹介している「若者、主婦、元会社員」である『佐藤君、鈴木さん、富田氏の3人は、決算日に対する対処のしかたは全く同じです。非常に簡単で、『発表当日は、その銘柄がどんな動きをしようとも、絶対に売買しない』というものです』という言い方を読んでいる限り、「何だこの人たちは、企業というものを人間の動きの集大成とは見ずに、単なるギャンブルの賭け対象としてしか見ていないのか」と考えてしまうのだ。

 だから『デイトレで成功を続けるためには、まずは知識が必要です』という言い方には納得できるのだが、その知識は日本経済に対する知識ではなくて、売買対象の企業に対する知識でもなくて、何と『証券会社ごとに違う手数料について知っておくことも大事な知識のひとすですし、何を手掛かりに、売り買いの判断をするべきか? というのも、これまた大切な知識です。佐藤君が一度失敗した原因「日経の記事で、見出しから受ける感じと記事本文の内容が違っていることもある」というのも、心に留めていただきたいことです。
 知識の上に、売買技術も必要です。資金の配分をどうするか? これは、仕掛ける銘柄数との関係で決まります。また、100株単位の銘柄に1000株の売り仕掛けをする時、1000株を一度に売るか、500株ずつ2回に分けて注文を出すかなど、身につけておくべきことはたくさんあります』ってねえ、これは売買する企業の企業価値とは何の関係もないじゃないか。

 まあ、株というもの自体が、そのような「投機的な立場の投資者」の存在を許しているのは事実だし、株式市場自体もそのような「投資家」ではなく「投機家」の存在を認めているのはまったくその通りではある。しかしながら、本来の株式市場というのは企業が資金を得るために上場するものだし、投資家はそれぞれの企業の可能性や、経営者の能力などに魅力を感じて投資し、その期待の見返りとしての決算における配当金を期待して投資するのである。しかし、こうしたデイトレーダーなどの短期キャピタルゲインだけを求める人たちにとっては、企業の文化や経営者の能力や可能性なんてものは関係ない,、ましてやその企業の1年間の儲けを配分する配当金なんてものには全く興味がない。単に、見えない相手である別のデイトレーダーとのかけ引きだけなのである。自分が買った会社がどんな会社なのかには興味はない、どんな経営者がいるのかになんか興味はない、その会社が何を開発したのかなんてことには興味はない、その会社が何で失敗したのかなんてことにも興味はない。興味があるのは、見えない相手であるもう一人のデイトレーダーが何を考えているのか、ということ。つまりこれはポーカーゲームなのであります。

 そんなポーカーゲームをゲーム場じゃないところでやっているのがデイトレーディングなのか、というのが本書を読んでよく分かった。だって、少しぐらいはは日本経済についてとか、世界経済についてとか、企業論とか、投資論とか、書いてあるのかと思ったら、そんなことは一切書いていない。とにかく、どうやったら「損切り」を早いところ済ませる心ができるかとか、如何に負けても負けない心を作っていくかなんて、殆ど宗教書か自己啓発本みたいなものだ。

 結局、デイトレーディングってものは、実態の企業経済とは殆ど関係のない、単なるゲーム。まあ、競馬、競輪、オートレース、競艇などは単なる予想ゲームだし、パチンコは多少は技術が関わるゲームだし、まさしく相手のあるポーカーの見えない相手版だというのがデイトレーダーの世界なのである。

 ウーム、これは私が足を踏み入れる世界じゃないな。

 私の場合は、やはり株を購入する以上は、その会社のことを知ろうと思うし、その会社が儲かれば一緒に嬉しいと思いたいと考えるし、その配当を受けたいと思うという、普通の投資者感覚で株式投資を考えたいと思う。やっぱり「投機」じゃなくて「投資」をしたいじゃありませんか。

 まあ、その意味では「デイトレーダー失格」ですね。

 まあ、失格してもいい。ほとんどデイトレーダーって、逆に人間を失格してる人たちだもん。

 

 

2012年10月21日 (日)

とりあえずビジネス環境を作ったぞ!

 会社を定年で辞めたからというわけじゃないが(まあ、でもそれが一番大きい理由かな。この場所で作業をすることが多くなるわけだし)、部屋の模様替えというか、私の事務スペースを居間に確保した。

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 上の写真で見られるように、これまでは「パソコンラック+棚」でもって各機器を置いておいたが、しかし、これは実は私のように「本に関するブログ」を書いている人間にはちょっと狭すぎるのだ。要は、ブログを書くときに本を見ながら書かなきゃならないし、引用をするときはキチンと本を見ながら書かなければならない。そんな時にやはり作業スペースが小さいというのはちょっと困るということなので、パソコン環境の改善というのは以前からの大きなテーマではあったのだが、それが何とか改善したというわけなのだ。

 で、どうでしょうか? 

 かなり作業環境としては改善されているでしょう。

 とりあえず、私の作業環境を紹介しておきます。マシンは上も下も同じなんだけどね。

 まず、メインマシンはHEWLETT PACKARD Pavilion m9380jpというマシン。今ではちょっと古いタワー型のマシンだが、CPUはIntel Core 2 Quad Q8200というスペックなので、結構早い。会社で使っているマシンより早いのが自慢だった。本当、会社のパソコン(どのメーカーだったかは忘れた)の遅さといったらなかったもんな。メインマシンのHDDは924GB。まあ、でもこれも古くなってしまったから、いずれ近いうちに買い換えるんだろうな。

 これにIO DATAの外付けHDDが279GB。これは前に使っていたメインマシンをGATEWAYの器材から換えた時にバックアップ用に使っていたものを、今は写真ファイルをメインに使っている。こんな問題も、これからは「んじゃあクラウドに上げちゃえば」ということになるのだろうな。

 ついでに周辺機器も紹介しちゃいます。

 モニターはMITSUBISHIのDiamondcrysta RDT232WLMという23インチワイド。これはもう一つ液晶ディスプレイが倉庫にあるから、ツインディスプレイも可能ということで、これはもしかするとそのような仕様にするかもしれない。そのきっかけは、もしあるとすればちょっと先のブログに書きます。

 上にあるプリンターはEPSON PX G5300というもの。8色の顔料インクを使うタイプで、ちょと前まではEPSONの最高モデルだったんだが、今は「ちょっと前のモデルですねえ」なんていわれてしまうタイプ。基本的には写真をプリントする時に使う。

 NTTの無線LANルーターを挟んで、プリンターの左にあるのがスキャナーでEPSON GX-770というタイプ。フラットベッドスキャナーなんだけれども、フィルムスキャンができるタイプで、35mmとブローニー判が6X6、6X7、6X9というフィルムのスキャンができるもの。今はもっと新しいものができていると思いますが、とりあえずはこれで満足かな、と。

 下が、実は我が家の(パソコン以外の)メインマシンです。電話、コピー、FAX、プリンター、スキャナー兼用マシンの(基本的には)電話機、BROTHER MFC-675CD。これももう製造中止になっているので、いずれは買い替えかな。プリンターとしてはこちらがメインで、文書なんかの印刷に使ってます。

 そこから先は、あまり家とは関係ない。

 左下に見えているのが、サブマシンであり、基本的に外部に出たときに使っているモバイルパソコンLENOVO ThinkPad X121eです。IBM時代からの、こんなものいらないんじゃないかというキーボードの真ん中にポインティング・デバイスが相変わらずついているけれども、どうせそれは使わないので、まあ、使いやすいマシンではあります。私はこれを外に出たときのパソコンとして使っており、旅行に行ったときには重宝してます。と言っても、使い方はほとんどメール確認とブログ書き位のみ。

 LENOVOの右側にあるのがデジカメ、EPSON RD1s です。レンズはELMARIT 28mm/F2.8が付いています。レンズはこの他にSUMMICRON 35mm/F2とSUMMILUX 50mm/F1.4、SUMMICRON 50mm/F2、COLOR SCOPER 21mm/F4。これは実際はお散歩カメラ。レンズはライカM3、M6で使っていたものをそのまま使っている。当然、M3もM6も現役カメラです。その画像はいずれ。デジカメはこれ以外にもNIKONで数台ありますので、ブログに掲載する写真の基本はNIKONかこれを撮っているFujifilm X10。

 という仕様でこれからもブログを更新していきます。

2012年10月20日 (土)

ポストグローバル社会は、脱市場、脱貨幣経済?

 前大阪市長の平松邦夫氏が主宰する「公共政策ラボ」の第2回東京シンポジウムが10月18日(木)、講談社で開かれた。

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 第1回はキックオフイベントとしてやはり講談社で開かれ、「ポストグローバル社会と日本の未来」という、訳の分らないというか、あまりにも漠然としたテーマで何を語ったらいいのか分らないはずの話者は内田樹氏、小田嶋隆氏、中島岳志氏、平川克美氏といった、まあ、何を話すかはおおよそ想像できる人たちばかりで、「グローバル社会、市場化が叫ばれる中、この国はどこへ向かっていくのか。日本の将来が心配で心配で溜まらない人たちが、東京、音羽に集結! 政治の混乱、格差の拡大、少子高齢化、エネルギー問題などで混迷する日本社会の再構築をとことん話し合う」というお題目でシンポジウムを行ったわけだが、その第2弾である。

 第2弾にあたって、オヤジばっかりじゃなくて若い人も入れようととなったのかもしれない。今回の第2弾では平松氏、内田氏、小田嶋氏に加えて、「錦織圭や石川遼はマックでバイトしない」というブログが炎上して話題になった1986年生まれのプロブロガー、イケダハヤト氏と、「博報堂を辞めました」というシェアハウス「トーキョーよるヒルズ」を主宰する1987年生まれの高木新平氏という二人が加わった。高橋新平氏はプログラムにも掲載されていなくて、「飛び入り参加」の形での登壇である。

 まず、内田氏が切り出し役というわけで、最近の中国が所謂中華思想というものから離れてきて、普通の国家みたいに「国境」というものにこだわり始めてきたという点に触れ、むしろこれからは日本がポストグローバル社会のフロントランナーになるのではないか、というネタ振りをする。小田嶋氏はまあそれに類する話でとりあえずお茶を濁した感じかな。面白かったのは、所謂「B層」の話で、小泉改革を支持したにもかかわらず、しかしそれに裏切られて貧困層になってしまい、次に民主党に期待したものの、結局民主党にすべて裏切られ続けたB層って、「結局バカ層」ってことでしょ、「バカが社会を変えていく」というクダリ位かな。まあ、多分そのB層が今度の衆院選では「日本維新の会」を支持するんだろうな。「何かやってくれるかもしれない」という「期待感だけで」。

 ところがイケダハヤト氏になるととたんに話のテーマが変わってきて、ポストグローバル社会と日本」という話に繋がるためにはかなり遠回りしなければなない話になってくる。

 イケダ氏は、例えば妻と二人だけの家庭では年間200万円くらい稼げれば何とか生活ができる。だって必要なものがあったら、例えば洗濯機が欲しいと思ったら、SNSで「洗濯機が欲しい」とつぶやけば、かならず「私の洗濯機がもういらなくなったから、もらってもらえますか」なんて返してくれる人がいて、洗濯機を買わなくてもいいというような状況があって、別にお金がなくても生活ができるという話。

 高木氏はまさにそういう生活を今現在行っているわけで、現在自ら主宰する「トーキョーよるヒルズ」がしまっているために、この6ヶ月間、日本の各地のシェアハウスを順次泊まり歩いているような現状から、まさしくこれからは「お金を稼いで税金を納め、それを再配分する社会」ではなくて、むしろ「お金を使わない社会」になって行くんじゃないか、という話が出てきたところから、話は俄然「脱市場、脱貨幣経済、貨幣が媒介しない経済」というテーマに振れていく。

 その辺から、「ポストグローバル社会」の問題に話は戻ってくるのだが、この辺からブロガーでソーシャルメディアコンサルタントをやってきて、ITに詳しいイケダ氏と、むしろ人と人の直接の触れ合いでモノを作ることを目指している高木氏との微妙な考え方の差が見えてくる。

 ただし、二人の言っていることは、我々の世代から見るとそんなに差はなくて、基本は「お金を使わない生活。物々交換的な市場を通さない経済」を基本に考えているということなのだ。

 そんな二人から見ると、所謂今流行の「ノマド」も、30代の人のノマド生活って基本的に資本主義社会の成功方式から逃れていないノマドで、単に大手企業に勤めることができないからノマドをしているじゃないのという風に見えて、20代のイケダ氏や高木氏のノマド生活とは違うということなのだそうだ。

 そこで、内田先生が「私はお米を年間50kg位送ってくれる人がいるから、お米に関しえては市場経済からは離れている」なんてことを言うもんだから、「脱市場経済は実は既得権益じゃないのか」なんて批判も多少は出てくるのだが、まあ、それはしょうがないだろう。むしろ「既得権益」という言い方はせずに、「お仲間内経済」と言ったほうが良いだろう。要は、そんな「お仲間」を増やしていって、日本中がそんな「お仲間」で一杯になったら、まさしく「物々交換」だけで生きていける「原始共産制」に近い社会が出来上がるかもしれない。

 もともと、経済関係なんてものは「市場」や「貨幣」をともなっているものではなかった。農漁村ではつい最近までお金を使わない「生産物の交換」という経済が当たり前にあったわけだし、都会だってお隣さんとの醤油や味噌の「ちょっと切らしちゃったから、貸して」的な経済があったのである。それをいちいち市場に提出して「お金」というものに換えて流通させて、それで税金を払い、その税金から再配分という形で、例えば東日本大震災の被災地の復興事業に使うなんてまわりっくどいやり方ではなく、直接、自らの身を被災地に運んで復興事業に携わるというような「経済」のあり方もあっていいはずである。

 というところから、高木氏は「プライベート・パブリック」という概念を提起したり、ある地域を日本という国家から独立させて、そこで貨幣を使わない経済ができるんじゃないか、という提案をしている。つまり、彼の「トーキョーよるヒルズ」というシェアハウス自体がそんな小さな「自治」のはじまりだというのだ。

 まさしく『独立国家のつくりかた』の坂口恭平氏ではないが、このような考え方をしている若者が多いと言うことに、なんかとっても期待する部分が多い、私、オヤジなのである。

 

 

 

 

2012年10月19日 (金)

『2014年、中国は崩壊する』はちょっと一方的なシミュレーション?

 国会新聞記者による中国の現状分析と、近未来のシミュレーションなわけだけれども……。

『2014年、中国は崩壊する』(宇田川敬介著/扶桑社新書/2012年6月1日刊)

 11月8日から開かれる中国共産党第18回全国代表大会で、胡錦濤氏の後を引き継ぐ習近平氏の体制が2013年から開かれるわけなのであるが、その習近平体制での経済・政治シミュレーションとして宇田川氏は以下のような予想を展開する。

『政権交代の年、そして政権交代後1年間は何事もない。しかhし、その期間が過ぎ、政治不信がより一層募れば、下層民衆の突き上げは容赦ないだろう。その分岐点は習近平体制が発足してから1年経過後。2014年だ』

『習近平が国家主席になって1年、2014年の初夏。これまで30年続いた計画経済による8%を超える経済成長が滞り、マイナスに転じる』

『上海や香港などの経済大都市に関しては、下落傾向が鈍いものの、中国西部地区の不動産は日本のバブル崩壊と同様に「二束三文」となり、値がつかない状態になるだろう』

『中国株は、不動産の下落に連れ添うように売られ、投機目的としてもその価値を失う。一部の勝ち組企業が残るものの、それ以外の企業価値は大部分が損なわれるだろう。
 株価の暴落によって都市生活者のドロップアウトが進む。先に挙げたバブル不動産のスラム街化は、中国企業の株価を引き下げ、治安の悪化から外国企業の撤退を招き、中国国内おける「負のスパイラス」を完成させる』

『バブル崩壊でデフレが進行するなか、変動相場制に移行しても通貨安にはならず、通貨高にしかならないのだ』

『このような状態で中国のGDPは極端に下がる』

『習近平政権はバブル崩壊対策として、一つには国家の資産のあり方や通貨発行の方法を変更すること、そして、もう一つは地下経済の流通システムを崩壊させ、上部の一般経済に組み入れようとするだろう』

『この二つの政策が行き詰ると、国務院は、なりふり構わずに景気浮揚を図る政策に舵を切る。それが保有する外国債の売却と保護関税の創設だ。はっきり言えば、改革開放経済前の中国に戻ってしまうことだ。習近平版、または21世紀版の「文化大革命」が発動されるのだ』

『中国の主だった者の多くは日本やカナダといった外国に逃れるが、下層民衆のすべてが中国から脱出できるわけではない。大多数は弾圧された生活を余儀なくされる。当初は公安武装警察、次に人民解放軍がこれらの弾圧にあたるだろう。そうした過程において、天安門事件のような国務院に対するデモが各地で起きる。人民解放軍に影響力のある習近平は、人民解放軍を容赦なく中国の下層民衆に対して差し向けることになる』

『武力弾圧が怖くて行動に出なかった多くの下層民衆が、いずれは反乱した人民解放軍の武器を携えて国務院に向かうだろう。その結果、中国国内は内戦状態になる』

『アメリカやロシアなどの軍事大国は、中国の内戦に介入するが、その介入によって軍事衝突は激しさを増し、中国は完全に崩壊するだろう』

『これまで自治区であったチベットや新疆ウィグルなどの独立や、それ以外の地域、地区についてもロシア・アメリカ・イギリス・インドなどによる分割統治が発生する。香港のような租借地が発生したり、あるいは満州国のような民族単位の国家ができる可能性もある。また、内戦によって全土が荒廃し、周辺国や信託統治国における「復興特需」が発生するだろう』

 という一直線ストーリーである。

 しかし、そんな一直線のストーリー通りに話は進むのであろうか。歴史というものは様々な可能性の集大成であるのだから、そのような一種類のシミュレーションをしていると必ず間違えることになる。勿論、宇田川氏はその為の安全弁も作っており、「あとがき」に申し訳程度に上記以外の可能性も触れている。

『一つは、中国の指導部が筆者の想像以上に素晴らしい政治を行った場合だ。現在、習近平体制とは言ったものの、現時点ではどのような政治を行うのか未知数のまま筆を進めてきた。習近平が筆者の想像を上回るような画期的な政策を矢継ぎ早に行えば、「歪み」はソフトランディングし、中国がより一層発展していく可能性もなくはない。
 他方の可能性は戦争である。中国が現在のまま国家社会主義を推進しながら市場経済を発展、継続させるには「拡大主義」以外にはありえない。国境を巡る紛争はもちろん、アメリカ、ロシア、インドなどと戦争がはじまってしまえば、中国は外部の敵に対峙するという意味で、内部からの崩壊を免れることができる。これはソフトランディングではないが、中国の崩壊を避ける一つの手段であることに違いはない』

 ということである。

 しかしながら、第一のストーリーについて殆ど1冊を通して展開しているのに比べて、それ以外のストーリーは「あとがき」のこれだけのスペースでしかない。

 新書という本のスタイルからして、これはやむを得ないと考えるのか、あるいは第一のストーリーだけを考えていれば良いという風に宇田川氏が考えているのかは分らない。とは言うものの、やはり宇田川氏としてはこの第一のストーリーが一番大切なのだろう。170ページの殆どを費やしているのは、この「中国崩壊ストーリー」なのだから。

 しかし、私は多分宇田川氏の予想は外れると考えている。

 習近平氏がどのような政策を採るのかは今のところわからない。最近のIMF総会に欠席した中国の様子を見ると、なりふり構わぬ保護貿易政策に移る可能性もないではない。しかし、内戦状態になって諸外国の介入を招くような状態になるデメリットは、中国がこれまでの歴史で学んできたことだし、対外戦争を仕掛けられる国の状態ではないことは、為政者なら知っているはずであるし、そのデメリットも熟知しているはずである。

 だとしたら、習近平氏は必死になって国がそのような状態に陥ることを避けるはずである。軍事的なプレゼンスを示すことと、実際に軍事力を行使することはまったく別なのである。

 いずれにせよ、習近平体制がどのような政策を採ってくるかは剋目して待つ必要はあるけれども、徒に怖がる必要はないだろう。

 勿論、どのような状態になっても慌てることはないように、国も企業も準備しておく必要は認めるけれどもね。

2012年10月18日 (木)

『新幹線 お掃除の天使たち』は特別なことではないのだがなあ

 この本で触れられている「鉄道整備株式会社」いわゆるテッセイは、10月1日に社名を「株式会社JR東日本テクノハートTESSEI」と変更している。

「テクノハート」が何を意味するものかは分らないが、これからそれが明らかになるのだろう。

『新幹線 お掃除の天使たち 「世界一の現場力」はどう生まれたか?』(遠藤功著/あさ出版/2012年8月28日刊)

 東京駅で折り返すJR東日本の東北・上越・北陸新幹線の停車時間は12分。降車に2分、乗車に3分かかるので、その間、清掃に割ける時間は7分しかない。しかし、その7分間で『車両清掃、トイレ掃除、ゴミ出し、座席カバーの交換、忘れ物のチェックなどを完璧に終える』。さらに、列車の入線・降車時、清掃を終えホームで待つ乗客が乗車時に整列し一礼する姿を目にした人は多いはずだ。

 こうした働く姿の美しさとお客さんを大切にする「礼の文化」に海外から目をつけられ、マスコミの取材も多く、アメリカのスタンフォード大学やフランスのエセック大学なんかからも研修希望者が来て、カリフォルニア州知事時代のアーノルド・シュワルツネッガーが「新幹線の売り込みもいいが、このシステムを輸入したい」と言ったなどの逸話が残されている。

 テッセイ自体は、JR東日本の数あるグループ会社のひとつで車両内や駅構内の清掃を行う会社に過ぎないし、パート社員が多くて社員の平均年齢も52歳という、本来は地味な会社である。しかし、それが「新幹線劇場」と呼ばれるに至るには、どんな道筋があったのか、というのが本書の内容である。

 それは言ってみれば「QCサークル運動」の集大成であるといえる。

 QCというのは、本来メーカーなんかで進められた運動で、『同じ職場で品質管理活動を自発的に小グループで行う活動のことである。全社的品質管理活動の一環として自己啓発、相互啓発を行い、QC手法を活用して職場の管理、改善を継続的に全員参加で行うものである』(Wikipediaより)ということだ。

 トヨタの「カイゼン」運動なんかが有名で、主に自動車や電機メーカーの工場部分で行われて、「安全な自動車作り、安全な家電製品作り」なんかを目標にして行われている、いわば日本お得意の「現場力」作りに寄与する職場運動である。

 上の人間の作ったマニュアルに従って作業を行うのではなく、自分たちで職場のあり方や作業のあり方を考えて働きましょうという、いわば(日本人なら)当然のことをまんまやったということなのであるが、それが他国の「マニュアル通りに仕事をしないとダメ」という発想から見ると実に新鮮に見えて、その「システムを導入したい」なんていう勘違いの反応さえ出るのである。それは「システム」の問題ではなく「考え方」の問題なのだからね。

 ところが、今や日本でもアメリカ式の「マニュアル通りの仕事の仕方」が普通になってしまっている。まあ、アメリカ発のチェーン店方式のコーヒーショップやファミリーレストランなんかがそのはしりなのだけれども、これも一種のグローバル化なのかもしれないが、決まりきった挨拶やサービスのやり方が普通になってしまって、やっている本人たちはマネージャーがそうしろというから仕方ないのかも知れないが、結局は自分たちが何も考えない気持ちよさの中に埋没してしまっているようだ。

 QCの基本理念は3つあるそうだ。

①企業の体質改善・発展に寄与すること。
②人間性を尊重し、生きがいのある明るい職場を作ること。
③人間の能力を発揮し、無限の能力を引き出すこと。

 ということである。

 それを職場の現場にいる人間が自ら考え出し、改善に向かって歩き出すというのがQCの基本であるわけなのだが、それらは考えてみれば皆が普通にやっていることなのである。

 テッセイの人たちが、皆、生き生きとして仕事ができているのならば、それは結構なことであるが、別に特別なことをしているわけでもないことが、このように本で取り上げられること自体が、実は日本及び日本人が劣化している証拠なのかも知れない。

 その意味では、確かに良い本なのであるが……。

 

2012年10月17日 (水)

『読書の技法』は決して特殊な本の読み方ではない

 1ヵ月平均で300冊、多い時で500冊の本を読む著者の『一冊を5分で読む「超速読」と、一冊を30分で読む「普通の速読」』と時間をかけて読む「熟読」のススメである。

『読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門』(佐藤優著/東洋経済新報社/2012年8月9日刊)

 面白いのは、『一冊を5分で読む「超速読」』法である。

『まず序文の最初1ページを読み<それ以外はひたすらページをめくる。
 このとき文字を読まない。とにかくページ全体を見るのだ。
 ビジネス書で強調箇所が太字やゴシック体で書かれている本は、ページ全体を見るには値せず、太字やゴシック体の文字だけ追っていけばよい。
  <中略>
 そして、結論部のいちばん最後のページを読む。
 これで本全体の印象をつかむと同時に、その本で自分が読むべき箇所の当たりをつけることができる』

 という読み方は、私が書店で本の品定めをするための立ち読みの仕方と殆ど同じである。私の場合、まず序文(「はじめに」とか「はしがき」とか書かれている部分)を読み、「あとがき」を読み、第1章の書き出しと結論部分のラストを読み、まだ時間があればザラっと本文の「見た目が目立つところ」を読むというやりかた。この読み方で大体本の内容は殆ど分るので、下手をすればそれだけでその本について何か書けてしまうときもある。というか、その程度の読み方でも書ける本もあるということだ。

 ただし、私の書いているものは断じて「書評」ではない。書評を書くことになれば、そこそこ熟読しなければならないし、そうして書くこともあるが、殆どは「一回読んで、読みながら貼ったポストイットの部分だけを読み返して、エイヤ」って書くのであるから、やはり「本に書いてあることをネタに勝手なことを書く」という文章である。

 しかし、その後の『一冊を30分で読む「普通の速読」』だけで書評を書いてしまう佐藤氏のポテンシャルの高さはたいしたもんだ。

 一方、「熟読」に関しては佐藤氏によれば;

『本にはその本性から、「簡単に読み流せる本」と、「そこそこ時間がかかる本」と、「ものずごく時間がかかる本」の3種類がある』

 ということだ。

 つまり、1時間から2時間くらいで読むことができる新書などの類の「簡単に読むことができる本」と、『標準的な教養書』の「そこそこ時間がかかる本」があり、そして『難解な本』には2通りあるそうだ。つまり『第一は、概念が錯綜し、定義がいい加減で、論理構成も崩れている本である。古典的名著とされているものの中にも、このようなトンデモ本がたくさんある。
  <中略>
 第二は、議論が積み重ね方式になっているため、覚えなくてはならない約束事、さらに押さえていかなくてはならない事実関係が多く、読むのに時間がかかる本である』ということ。しかし、この第一のような「トンデモ本」をはじき出すために、速読術があるというのだ。

 確かに、本を読むための時間を作り出すことが難しい人たちは、そうやって「読まなくていい本」をはじき出すことも必要かも知れないが、しかし、そうした「読まなくてもいい本」の中に、意外と「読んでてもいい本」があったりするから、ことはややこしいことになる。

 とは言うものの、本と人との出会いというものは恋愛みたいなもので、読む本に出会わなければそれだけのことで、出会わない以上はその本の存在を知ることはないわけで、ということは「その本」は初めから「なかったこと」になるわけである。つまりそれだけのこと。

 むしろ大事なのは、「トンデモ本」だと考えて読むことをやめてしまった本の中に、実は「読むべき本」があったらどうしようという問題である。まあ、その時は「そんな本は初めからなかったこと」にして忘れてしまうか、あるいは「そんな本があった」ということに気づいたときに、再度その本を買って無理をしてでも読むということの二つしか方法はない。

 で、忙しいビジネスマンがよく言う言葉として「本なんか読んでいる暇はない」という言葉に対して、佐藤氏のこの本から引用して反論だけを呈しておく。

『ビジネスパーソンは忙しい。学生時代のように、毎日6~7時間、机にむかうことは非現実的だ。1日1時間、机に向かう時間を確保すれば十分可能である。筆者の経験則で言うと、それ以下の時間だと効果が出ない。
 忙しいビジネスパーソンでも、昼休みに20分、出社前か会社の帰り道にカフェで30分、夜寝る前に10分で計1時間を作り出すことはできるはずだ。逆に1日3時間をかけても集中力が続かない。1~2時間が適正だ。要は休日を含め、継続を怠らないことだ』

 ということ。

 1日1~2時間あれば新書の1冊くらいは読めるのである。

 皆さんも、お試しあれ。

2012年10月16日 (火)

いまや東大卒官僚だけではない『もう「東大話法」にはだまされない』

 別にそれは東大だけの「話法」ではなく、一般的な立場主義的エリートが使う「自分の身だけ守る」話法なのだ。

『もう「東大話法」にはだまされない 「立場主義」エリートの欺瞞を見抜く』(安富歩著/講談社+α新書/2012年9月20日刊)

 で、そんな「東大話法」で使われる20の法則があるらしい。

ルール①自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
ルール②自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
ルール③都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事する。
ルール④都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
ルール⑤どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
ルール⑥自分の問題を隠すために、同様の問題をもつ人を、力いっぱい批判する。
ルール⑦その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
ルール⑧自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説をする。
ルール⑨「誤解を恐れずに言えば」と言って、ウソをつく。
ルール⑩スケープゴートを侮辱することで、読者や聞き手を恫喝し、迎合的な態度をとらせる。
ルール⑪相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念をもちだす。
ルール⑫自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
ルール⑬自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
ルール⑭羊頭狗肉
ルール⑮わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
ルール⑯わけのわからない理屈を使って相手をケムにまき、自分の主張の正当化する。
ルール⑰ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
ルール⑱ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところへ突然おとす。
ルール⑲全体のバランスを考えて発言する。
ルール⑳「もし○○○であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。

 ということなのであるが、それは東大卒のキャリア官僚がよく使う手であることは間違いない。要は、自らに責任があることに対して「それは立場が言わせた言葉である」という言い方で、責任逃れをしていつの間にか責任の素材を曖昧にしてしまうやり方である。しかし、こうした言葉の使い方は、今や官僚だけではなく、一般社会の企業経営者の間にも普及してきている。つまり、一般社会の企業経営者たちも既に官僚化してきているということなのだろう。

 それは何故か? やはり創業経営者じゃないサラリーマン経営者にとって、彼が出世の道を歩むためには、彼が一発開成の大ヒットやホームラン・バッターじゃなくて、むしろ目立たないけれど着実にランナーを進める打者だった、ということなのだろう。つまり、仕事で好成績もあげるけれども、失敗も多くするというタイプじゃなくて、失敗はせずにやたら目立つこともなく、しかし失敗がないから上からの覚えもいいという人間なのだ。それはやはり「官僚の資質」なのである。

 こうして、21世紀の日本は「官僚的資質の持ち主」が出世する社会になってしまっている。しかし、そのような社会からは……、あるいは会社からは出井伸之やスティーブ・ジョブズのような第二次創業者的な経営者は生まれないだろう(ジョブズは創業者かもしれないけれども)。

 むしろ、ひたすら前任者の業績を敷衍するだけの経営を行い、前任者の業績をつまみ食いするだけの経営者であり、何ら新たな挑戦をしない経営者である。リスクをとれない経営者ばっかりになってしまっている。

 それが今やまずいことに創業者一族の中にもそのような経営者が増えてきて、会社の経営では新しいことが打ち出せないものだから、ギャンブルに会社の金をつぎ込んでみたり、美術骨董に会社の金を注ぎ込んでみたり、という、なんか日本資本主義の最後を見ているような状況になってしまっている。

 そう、今や日本資本主義は最終段階にきているのではないか。もはやこれはツブれるしかない。それも「官僚主義」という怪物のお陰である。

 安保世代や団塊の世代が言ってきた「日本資本主義解体」「日本帝国主義解体」が、実は目前の喫緊の課題になってしまってきていたりして。

 でも、それは安保世代や団塊世代が望んできたことなので、誰も文句を言えないだろう。

「革命」なんか起こさずとも、日本資本主義が内部から崩壊してくる時代になってきた。崩壊したあとの世界はまだ見えていない。しかし、確実に崩壊に向けて進んでいることだけは確かだ。

 安保世代よ、団塊世代よ、喜べ。貴方達が望んでいた「日本資本主義崩壊」は目の前だ。

 ただし、その結果できる政権は「革命政府」ではないけれどもね。

 しかし、確実にその政権下の官僚は官僚主義的な官僚ではないだろう。つまり、今の官僚が一番手をつけなかった、高齢者の優遇策から手をつけるのだろう。

 よかったね、僕のお兄さんお姉さん世代の人たちよ。もはや、安保世代の国民年金や団塊世代の厚生年金なんかも出なくなってしまうのです。それは社会的に無駄な出費だからね。

 日本資本主義崩壊万歳!

 

2012年10月15日 (月)

楽天の実験が目指すものは

「楽天が書籍二次卸業に参入する」という情報は『日経新聞』なんかにも掲載されていたので、ご存知の方は多いと思われるが、その意味するところまでは理解されていないのではないか。

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 書籍流通というのは出版社からトーハンや日販という取次という名の「卸売業者」の手を通じて書店に届き、読者に届くという流れが、通常の方法である。

 ところが、この方法だと客からの注文品(要は、書籍店舗になかった商品)を受けた書店は、それを取次に発注するわけなのだが、その場合、注文品の店着まで早くて3日~1週間ほどかかる。それでも確実に届くならまだしも、客注品の3割くらいはどこにいったか分らない状態になってしまう。従って、書店店頭ではそんな曖昧な説明を客にしなければならない。

 そうした現状を見て、ドイツのリブリ(ドイツの取次業者)のような「今日発注した本は翌日に必ず店に届く」という状況に変えられないか、ということで日本出版インフラセンター(JPO)が経産省から受託した「フューチャー・ブックストア・フォーラム事業」の一環として、楽天を巻き込んで「客注実証実験」を始めたというわけなのだ。

 JPOは9月4日に書いたように、「コンテンツ緊急電子化事業」(緊デジ)なんていうくだらない事業に傾注するよりも、こうした目先の問題にもっと取り組むべきだろう。つまり、それこそが書店がアマゾンに勝てる数少ない要素かも知れないからだ。

 問題は、「何故、取次便では客注品が3日~1週間もかかってしまうのか」という問題である。その理由がわかれば、問題は解決するはずである。

 多分、それは取次の客注品にたいする考え方の問題なのだ。つまり、新刊などと違って「客注品」は店によってその多寡がかなり異なる。取次会社と契約している運送会社は荷物の分量(箱の数)によって運賃を取次会社あて請求するから、取次会社としてはなるたけ箱数を減らすために、客注品の箱が取り敢えず一杯になるまでは発送を控える。取次は書店という一種の「流通拠点」に物を卸すのが仕事なので、それでいいという発想だし、運送会社もそれでよしとして既得権益を守ろうとしている。まさしく、これはユーザーのことを考えていない「業界内発想」ってやつね。ヤマト運輸や佐川急便などの「小口運送」を手がける運送会社がこの「取次―書店」間の輸送に手をつけられないのも、この既得権益のためなのである。

 その間、アマゾンは「個人の客」が相手なので、当然「一冊からの超小口」運送を「無料」で始めてしまった。それは当然で、日本では書籍は「再販価格商品」なので割引はできない、じゃあどこで割引をするのかといえば「配送費無料」というサービスに変えたわけだ。で、アマゾンで注文すれば、アマゾンに在庫がある商品ならば、うまくすると当日、遅くとも翌日配達をしてくれる。これでは既存のリアル書店がアマゾンに勝てるはずはない。あとは、如何にして書店在庫点数を増やして顧客の「衝動買い」を実現するかということがリアル書店の対アマゾン競争策となるので、ジュンク堂のような「図書館のような」書店が増えざるをえないのだ。

 そこで、読者が新聞広告の切り抜きなんかを書店に持ってきて本を探し、しかし、書店で見つからなかった時に、書店にその本の注文をしたときに如何に早く読者にその本を届けるのか、というのが書店側の喫緊の課題となる。そこに、もともと「個人の客」を相手にビジネスを行っていた楽天が参入する隙間があったわけだ。楽天はヤマト運輸で流通を行うようだ。もともと小口運送を手がけていたヤマト運輸であるから、問題なく処理できるであろう。

 問題は楽天だって日販から書籍を仕入れているのであるから、書店と同じ立場。それでもって運送費と楽天のマージンは出せるのかといった問題はあるのだけれども、そこは交渉の問題である。「ヤマト運輸・日販・楽天」の三者の間でどのような交渉が行われているのかはわからないが、それぞれ「三方損・三方得」の落としどころはあるはずである。

 こうして「実証実験」は始められる。この実験の場合、実は書店側にアマゾンにない一大メリットが生まれるのだ。それは何かといえば、「返品」という問題なのである。

 アマゾンであれ、書店であれ、客は本の中身を見ないで注文するわけである。

 買った本が届いて「なんじゃこれ」ということはあるはずである。私なんかも何回アマゾンでそんな思いをしたものか。当然である、書店店頭で多少読んでみて買うのと、不見転で買うのとはまったく本の買い方としては異なる。「書店店頭で立ち読みをして、中身を確認して」買うのが本来の本の買い方である。

 それができないアマゾンの場合、まあ、高くてもせいぜい1,000~3,000円程度の出費なのであきらめもつくが、しかし、やはり面白くないことにはかわりはない。

 ところが、この楽天を通した客注の場合、流通は楽天を通したとしても、実際にお金の流れは「書店→取次」である。ということは通常の書籍流通の流れとはまったく一致している以上、取次は書店からの返品を受け付けないわけにはいかない。

 つまり、この方法で本を注文する限り、買ってみて読んでみて、予想とはまったく違ったことが書いてあった場合、客は「返品」できるのだ。

 これは「アマゾンにない一大特典」である。

 これで安心して、不見転で本を注文できるということなのだ。うれしいですね。しかし、今のところこの実証実験に参加するのは大垣書店、廣文館、啓文社、今井書店、田村書店、啓林堂書店、なにわ書房という関西系の7法人だけである。早いところ全国の書店で実施して欲しいものだ。

 その結果は……、楽天によるトーハン、日販の「中抜き」なのだ。次にくるのは。

 

2012年10月14日 (日)

『山手線に新駅ができる本当の理由』よりも大事なこと

 問題は、東京(圏)への一極集中をこのまま推し進めて、というかそれは最早避けられないものだという前提に立って、結局一極集中した東京に稼いでもらって、地方はその儲けから分け前を回してもらう経済スタイルをこのまま進めるのか、あるいは東京圏ないしは三大都市圏と地方との格差をなくすべき、地方都市の開発を進めるべきなのか、ということなのである。

『山手線に新駅ができる本当の理由 そこには「ニッポンの復活」がかかっていた』(市川宏雄著/メディアファクトリー新書/2012年8月31日刊)

『特筆すべきは、やはりその経済規模であろう。2009年度の都内総生産は85兆2016億円。同年の国内総生産は471兆1387億円だったから、東京都だけで日本一国のGDPの6分の1以上(16%前後)を生産していることになる。この85兆2000億円という金額を2009年当時の1ドル=85円で計算すれば約1兆24億ドルになる、ニューヨーク(約6014億ドル)や上海(約2477億ドル)を軽く凌駕しているばかりか、世界の国別GDPランキングに置いても13位に匹敵する数字なのだ。東京都のDGPは、オーストラリア、メキシコ、韓国、オランダ一国のGDPを超えているのである。日本の富が、いかに東京に一極集中しているかがよくわかる。
 東京への一極集中は、わが国の税収面から見ても明らかである。2008年の数字だが、日本の所得税・法人税の税収シェアを見ると東京都だけで約44%。神奈川、千葉、埼玉など後背地を含めた東京圏で見れば約54%を占める。わが国の税収の半分以上は東京圏でまかなわれているのであり、ある意味、東京圏の盛衰がわが国全体の運命を左右するといってもいい状況になっている。』

 更に言ってしまえば、交通網の整備がストロー効果でもって、ますます東京への集中をもたらし、それが東海道新幹線によって関西圏も東京圏へとストロー効果が見られるというのである。つまり、これからリニア新幹線などで東京圏への交通が高速化という形で整備されると、ますます東京圏へのストロー効果となって、最早、橋下氏がいくら頑張ったところで、関西経済圏の復活どころか、むしろ「関西圏の地方化」が進むのであろう。

 という中での、「山手線田町~品川駅間の新駅建設と品川車両基地跡地の大規模開発」という話なのである。多分それは東京の山手地区、山手線内の最後に残された大規模地域再開発なのである。その広さは『東京ドームのグラウンド面積の約15倍。

 特に、「羽田空港に近い」「新幹線品川駅に近い」更には「リニア新幹線の始発駅が品川になる」という多くの交通メリットがあり、また「成田空港と羽田空港の一体化」という長期展望がある以上、これからの東京の中心は「田町・品川地区」になるという予想は見え見えであり、まさしく『品川―田町地区の再開発の成否は、追い上げ著しいアジアの主要都市に東京が負けることなく、さらに活性化し、日本経済が再び上昇気流に乗って、「持続的な発展モード」へと移行するためのカギを握っている』ということは事実であるが、その一方、『地方は、定住人口を無理に増やそうとしなくていい。地方は、都市部の人間が季節を限って訪れて心を癒すオアシスであったり、退職者が第二の家を持つ候補地になればいい。夏休みに都市部の子どもたちが短期滞在しに来る遊び場になるのもいだろう。こうした人の動きが、地方に新たな、それも大きな雇用機会を発声させることにもなる。極端な発言に聞こえるかもしれないが、東京に暮らす人にも地方に暮らす人にも、これからの時代は交流がお金を生み、地域を発展させるという考え方が必要なのではないだろうか』という発言は、ちょっと地方に対する現状認識が浅いんではないか、東京の発展とともに既に活動力を失って殆ど死にかけている、あるいは既に死んでいる地方のことが頭に入っていないのではないか、とも思われる。

 私なんかは、最早東京圏での都市再開発なんかは、誰もそれを推し進めなくても、勝手にデベロッパーが推し進めるだろうからということで、あまり関心がない。更に、中京圏、関西圏もストロー効果でどうせ東京に飲み込まれてしまうだろうから、これも関心はない。

 で、私として関心があるのが「東アジアのハブ」としての福岡経済圏である。何しろ福岡からソウルまでは1時間20分、上海まで1時間30分、東京まで1時間30分である。ちなみに東京からソウルまで2時間20分、上海まで3時間20分であるし、東京とは適当な距離にあってストロー効果は起こりにくい。むしろ東京より近い東アジアのハブとして福岡(博多)が大きな都市として出来上がれば、日本は東京を中心として中京圏、関西圏を巻き込んだ超大都市圏ができて、それに影響を受けないアジアの中心たる博多都市圏ができれば面白いことになる、と考えている。博多と沖縄が一緒になればもっと強力だ。

 ということで、東京超大都市圏と博多・那覇経済圏という東西二つの経済圏が日本を推し進めていけるのではないか……、と夢想するのだが。

2012年10月13日 (土)

『繰上和美―時のポートレイト』展を見に行く

 東京都写真美術館へ『繰上和美―時のポートレイト ノスタルジックな存在になりかけた時間。』展を見に行く。

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Kurigami2(c)Kazumi Kurigami

 繰上和美といえば日産、ソニー、サントリー、ブリジストンなどの広告写真でモノクロを多用した、いわゆる「カッコイイ」写真で有名であり、永瀬正敏と宮沢りえの出演する『セラチンシルーバーLOVE』というスタイリッシュな映画でも知られる写真家である。

 そんな繰上のアサインメントで撮られた写真ではないスナップ写真の展示会である。

 スナップ写真に何か意味があるのか? と問われて正鵠を得た答えを出せる人はいないだろう。本来そうした意味性とは離れた場所に生息するスナップ写真が、繰上のように広告写真というまさしくアサインメントの極地にいる写真家にとっての、自らの生命を取り戻すきっかけになるのであれば、それは多くの癒しの時になるのであろうが、そうした意味を持たない写真群をこうして展示し、一般の目に晒すという行為は、何の意味があるのであろうか。

 写真が「作品」として撮られた以上、それは人の目に晒されることが前提になって存在しているのであるが、スナップ写真として撮られた時点では、それが「作品化」することが前提にはなっていない、というのが我々アマチュア・フォトグラファーの考え方であるにも関わらず、しかし、スナップ写真として撮られた時点でそれを「作品化」することが前提になっているプロフェッショナル・フォトグラファーという立場は、何ともはや皮肉な立場としか言えないのではないだろうか。

 まさしく、写真によるプロフェッショナル・フォトグラファーの自己疎外とでも言うべき、スナップ写真のあり方である。

 そんな繰上和美氏が自らの写真を自ら解説する「友の会特別内覧会」は10月30日に開催される。

 その結果はまた改めてご報告することにして、今日は取り敢えず疑問だけを提出しておく。

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EPSON RD1s Elmarit 28mm/F2.8 @Yebisu (c)tsunoken

2012年10月12日 (金)

『なぜビジネスホテルは、一泊四千円でやっていけるのか』なんて理由は単純

 理由は単純。まさしくユーザーの勝手なんである。

『なぜビジネスホテルは、一泊四千円でやっていけるのか』(牧野知弘著/祥伝社新書/2012年10月10日刊)

 たしかに、私がしょっちゅう国内出張でホテルのお世話になっていた1980年代当たりの頃は「シティホテル」と「ビジネスホテル」との分類はなく、「高めのホテル」と「安めのホテル」という認識しかなかった。それが1990年代になると「ビジネスホテル」という呼び方が普通になってきて、一種のカテゴリーとして「ビジネスホテル」「シティホテル」というものが確立してきたようである。ということで今言うところの「ビジネスホテル」とは『「宿泊特化」、つまりレストランなどの料飲施設は必要最低限にし、宴会場は持たない宿泊客だけを相手にするホテル』ということで、牧野氏はその代表格として「東横イン」を上げている。

『この業態はホテルを運営する立場から見ますと、実に身軽な業態です。お客様は基本的にはビジネスの出張客。最近では外国人旅行客でもリュックサックひとつで一人旅を続ける人も多く日本にやってきますが、このビジネスホテルは無駄なコストのかからない手軽な宿泊施設として彼らにも広く認知されています。
 こうしたお客様は泊まるだけが目的。しかも余計なコストをかけたくないお客様なので、こちらからあれこれサービスしなくともよいというわけです。
 立派な夕食の準備もいらない。バーもいらない。ルームサービスなどまったくニーズがない。フロントで鍵の受け渡しと宿泊料金の収受さえできれば、運営者サイドで特別な設備もサービスも必要のない、きわめて「軽い」運営形態となります。
 建物もシティホテルのようにゴージャスにする理由がありません。客室も泊まれれば満足ですから、ダンスができるほどに広いシティホテルの広さは必要ありません。内部のデザインや設備を含めた仕様も、マンションに毛の生えた程度の内容で、お客様は十分に納得してくれます。したがってホテルの運営には最小限のコストしかかからないことになるのです。』

 ということだ。つまりそれはホテルというビジネスにおける最大の出費がこうしたレストランやルームサービスやらコンシェルジェ関連の「サービス」に関わる人件費である以上、こうした「サービス人件費」のかからないビジネスホテルが最低限度の宿泊料金を提示できるわけだ。

『清潔な部屋と寝心地のよいベッド、質素でも十分に品質の高いアメニティ類、そして何よりも日本人の特性とも言われる従業員の「スマイル」。彼らが他に何を求めるというのでしょうか。
 かつての日本のホテルは欧米の高級シティホテルを模倣して、これらのホテルと同等のサービスを目指して建物、設備などのハード、接客サービス、料理などのソフトを充実させてきました。
 しかし、時代は変わり、ホテルを利用するお客様のプロフィールも利用する目的もどんどん多様化する中で、マジョリティをつかんだのがこの「ビジネスホテル」というカテゴリーだったのです。』

 ということで、いまや私も個人旅行に行くときも完璧にビジネスホテル利用派になっている。つまり、どうせ夕食なんかは外に出ちゃうんだし、別にルームサービスなんかは頼むつもりはないし、所詮「泊まれればいい、できれば清潔なベッドで」ということになれば、これはビジネスホテルで十分なのである。まあ、余計な気を使わないですむユースホステルみたいな感覚か。

 それにしても、ホテルの売上に占める人件費率がシティホテルで40%程度、ビジネスホテルで15%程度というのを読むと、なるほど世の中が「ビジネスホテル」と、「帝国ホテル・ホテルオークラ・ヘテルニューオータニ+外資系高級ホテル」という二大勢力に二分されるのはよく分かる。つまり、かかったコストを単純に宿泊料金や料飲料金に反映させればいい後者のホテル群にたいして、そうはいかない大半のホテルはビジネスホテル化させて人件費コストを下げるしかないわけなのだ。しかし、こうしたビジネスホテル化したホテルは更なる競争に巻き込まれることになるのだ。つまり、全国ホテルチェーンとの果てしないコスト競争である。さらに、全国チェーンホテルの場合、お客さんの「あそこのホテルチェーンなら泊まる部屋の感じも分っているし、サービス内容も分っている」という安心感もある。

 こうなると、やはり生き残るのは「超高級ホテル」か「全国チェーンのビジネスホテル」ということになって、全国の風景が画一化するという日本の無機質化が促進されるわけなのだけれども、それも私たちが望んだ道なのだから、仕方ないか。

 結局、ユーザー側の勝手なニーズがそうさせているのである。

2012年10月11日 (木)

Fitbitから週間スタッツが来た!

 Fitbitを使用開始してから1週間たったら、こんなアナライジングが来た。まあ、こうやってモチベーションを持続させるような仕掛けが一杯入っているFitbitなんだな。

Hi mxl01056, here are your weekly stats.
10/01/2012 to 10/07/2012
WEEK'S MOST ACTIVE DAY
Tue, Oct 2
WEEK'S LEAST ACTIVE DAY
Wed, Oct 3
TOTAL STEPS
51,833
DAILY AVERAGE
7,405 steps
BEST DAY
15,678 steps
TOTAL DISTANCE
37.22 km
DAILY AVERAGE
5.32 km
BEST DAY
11.26 km
TOTAL FLOORS CLIMBED
75
DAILY AVERAGE
11 floors
BEST DAY
15 floors
TOTAL CALS BURNED
17,436
DAILY AVERAGE
2,491 cals
BEST DAY
2,829 cals
WEIGHT CHANGE
0.7 kg
LIGHTEST
94.3 kg
HEAVIEST
95.4 kg
AVG SLEEP DURATION
7 hrs 8 min
AVG TIMES AWAKENED
15
AVG TIME TO FALL ASLEEP
0hrs 6min

Last week's step winners

1 mxl01056
51,833 steps
See current leaderboard

Last week's badges

See all of my badges

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IT Pro EXPOは当然いまのトレンドであるクラウドなのだが

 昨日の予告通り、昨日見てきたIT PRO EXPOについて書く。

2012_10_10_001_2http://itpro.nikkeibp.co.jp/expo/

 これはCEATEC JAPANで既に確認済みのことではあるけれども、結局今現在のIT業界の目玉は「クラウド」である。

2012_10_10_013_2

2012_10_10_011_2

 確かに画像データなどの情報量の多いデータが増えてきて、なおかつそれらのデータをいろいろな場所で利用しようということになると、結局データを持って歩くわけにはいかなくなって「それはクラウドでしょ」ということになる。当然、アプリケーションもクラウドに上げてしまうので、自らのパソコンには何も入っていなくても仕事ができるというわけだ。というか、これはスマートフォンやタブレットコンピュータで仕事をする方法なのである。勿論、企業なんかで多くの人が同じデータにアクセスして仕事をしなければならなかったりする場合にはとても便利である。

 しかし、クラウドに上げてしまうというのは、結局自分のデータをどこかよそのサーバーに預けてしまうわけで、そのセキュリティの問題があるだろう。

 勿論、そんな考え方は超アナログな考え方で、データセンターのセキュリティを100パーセント信用できる人だけがクラウドを使えばいいということにしてしまえば、別になんの問題もないでしょ、ということなのだが。

 とは言うものの、タブレットコンピュータ(iPadを持っていたことがあったが)では、データを引っ張り出してプレゼンテーションなんかに使うのはいのだが、しかし、やはりこれを入力機として使うのはあまりうまくいかないのではないだろうか。少なくとも私の場合、簡単な単語や文を入力するのはいいのだが、このブログのような多少はまとまった文章を入力するのは、やはりキーボードがあった方がやり易いように思うのだが、それはあまりにも旧世代的な考え方なのであろうか。

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 そんな訳で、私はむしろこちらのウルトラブックの展示のほうが気になった。なにしろ、その軽さには感心してしまう。

 まあ、旧世代的にはこちらだな。

Fujifilm X10 @Tokyo Big Sight (c)tsunoken

2012年10月10日 (水)

IT Pro EXPOに来ています

 東京ビッグサイトで今日から開催のIT PRO EXPOに来ています。

 10月はCEATEC JAPANに始まってIT関連のイベントが目白押しで、この後もクラウドコンピューティングEXPO、スマートシティと続きます。

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 イベントのレポートは明日のブログで。

 それと今読んでいる本は祥伝社新書『なぜビジネスホテルは、一泊四千円でやっていけるのか』。シティホテルは一泊二万円でもかつかつなのに、ビジネスホテルは四千円でやっていけるノウハウがあるわけですね。

 こちらは明後日くらいのUP予定。その後は、佐藤優氏の本を読む本とか、新幹線のサービスの本とか、山手線田町品川間の新駅の本とか、いろいろ待ち構えてます。

 お楽しみに。

『独学術』といったって独学の方法じゃなくて、本の読み方の本なのである

 独学のススメということではなくて、独学の際に必要になる「本の読み方」に関する本なのである。

『独学術』(白取春彦著/ディスカバー携書/2012年9月15日刊)

 では「独学」とは何かといえば、それは学校での勉強では学べないことを自ら学ぼうとする姿勢のことである。皆が欲しがっている『教科書や決まった答え』を覚えるのは勉学ではない。学校で教わったことだけで満足したのでは、何も勉強しなかったのと変わりはないのだ。つまり『事典的な事項を覚えるだけでそれ以上に何の発展もないような単純な作業は本当の勉強ではない。それはもうパソコンなどの機器が代替できるものだ。人間の頭脳はパソコンよりも優秀だ』ということである。しかしながら、しばしば見受けるのは「パソコン・レベル以下のものしか考えていない」というか「何も考えていない」人々である。そういう勉強の仕方をしているから『大学へ行ったって、社会では通用しないよ』という言い方をされてしまうのだ。

 で、そんな独学の方法とは何かといえば「本を読む」それもなるたけ「原典」に近いものを読むということである。つまりそれは『大学の教授が研究で読んでいる本を読むことだから、彼らと同じレベルに立つこと』である。そんな勉強をして始めて「大学に行った価値がある」ということであろう。じゃあ、大学は何を教えるところなのか、と言えば「勉強の中身」を教えるのではなく、「勉強の仕方」を教えるところなのだ、と考えれば納得がいく。

 で、ポイントは「難解な本を読む」ということ。

『難しい本は理解しにくいから読んでも無駄だ、というのは、いかにも効率を考えているように見せかけた「逃げの論理」にすぎない。それが難しい本だからこそ、読む価値があるのだ。これまで難しいと見えていた点がようやくわかるようになるのは、新しい自分への脱皮ともなる。
 そもそも、すべてが容易にわかる本など最初から読む意味などないだろう。だいたいにして本というものはそれぞれ、今までの自分とは異なる考え方、異なる知識、異なる視点などを含んでいるから、読むにあたいするわけだ。』

 難解な本というのは何なのだろう。つまりそれは「難しい概念」や「難しい術語」や「難しい言い回し」が含まれている本ということだろう。だとしたら、そんな本こそ自ら経験してきたこと、自ら読み親しんできた中身などとは別の、まさしく「読書体験が新しい体験になるような」読書だということであろう。それこそ、本を読んで新しい自分になれる体験ということである。その本を読み終えたとき、新たな段階に立っている自分を発見できるのだ。

 で、その難解な本の読み方が懇切丁寧に書かれてある。つまり「まず眺める」「からかうように本を扱う」「適当に読み始める」ということであり、具体的な方法として「傍線を引きながら読む」「書き込み」をする、という方法を提示している。つまりそれは『図書館の本では自分の勉強はできない』ということである。

 まあ、これは白取氏がやってきた独学の方法論であり、皆が皆この方法を真似する必要はないだろう。私もそのようにはして来なかった。ただし、「難解な本を読む」ということはかなり必要なことで、というか基本的に自分が経験してきたり、自分がこれまで学んできたりしたことにないことを学習するということは、新たな価値観を見出すと言うことである以上、その「新たな価値観」が「難解」という表現にあたるものを多く含んでいることには違いがないからなのである。更には、「難解な本を読む」ということは、常に自分で物を考えながら読まなければならないということでもあり、そこから「自ら考える」力も身につくのではないだろうか。

 難解な本であっても、それを読了する頃にはその本を征服したような気持ちになり、何となく内容が理解できるようになるものである。

 ただし、最後まで難解なままで内容も理解できない本も、中にはある。つまりそれは「悪い本」であり、そんな本に付き合ってしまった自分に腹を立てるかもしれないが、まあ、それも経験のひとつであり、そんな「悪い本」をこれからは読まなくなるような知識が付いているはずだ。

 私も、高校生のときに、友人を論破しなければならない必要性から、『経済学哲学草稿』『ドイツ・イデオロギー』などのマルクスの「それぞれの文が一貫性がなくバラバラ」な本を苦労しながら読んだりしたし、『資本論』に挑戦して、第1巻だけで挫折したりしたのだが、その辺の勉強はその後の人生に役立っているかと言えば、まあ、それは「大学の授業のレベルの低さ」を確認する役には立ったが、大学ではあまり関係なかったな。

 ただし、大学生になってから経済学部の学生であるにもかかわらず、モーリス・メルロ=ポンティやロラン・バルトの本ばっかり読んでいた私には、実にそのマルクスの著書を読んでいた経験が役に立ったのである。

 で、それらの現象学や記号論の著書が、その後の社会に出てから役に立っているし、特にこのブログを書くのには、特に役立っていることは事実だろう。

 ということで、苦労して難解な本を読んで、それが40年以上経ってから役に立つなんて素敵なことじゃないか。

 まあ、いつかは役立つ若いときの独学ってやつですかね。

2012年10月 9日 (火)

ICS 世界の中古カメラフェア2012

「ICS 世界の中古カメラフェア2012」を覗きに、有楽町交通会館まで行ってきた。

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 ICSというのは「Inported Camera Sociey」(輸入カメラ協会)の略で、別に中古カメラの販売店の集まりというわけではないが、それらのカメラ店が海外の中古カメラ市場で直接購入してきたカメラを販売していることから、なんか中古カメラの販売店のイベントということになってしまっている。今は、別に海外のカメラばかりでなく、ニコンやキャノンの昔のカメラなんかも出品されてる。

 春には銀座松屋、初夏には渋谷東急、秋にはここ有楽町交通会館でという具合に年に3回開催されていて、いつもは点在する各カメラ店に直接行って品物を見定めるところを、1ヶ所で済ましてしまおうという考え方である。

 まあ、店によっては「カメラフェア特価」なんてのも設定してあったりするのも、このカメラフェアに人が集まる理由であろう。

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 有楽町交通会館12階のあまり広くはないイベント会場に所狭しと並べられている各社のブースに群がるのは、中年・壮年・老年の中古カメラ・ウィルスというかライカ・ウィルスにおかされた連中ばかりである。そんな連中の「癒しの場」がここ「世界の中古カメラフェア」なのであるな。私は既にライカ・ウィルスにはワクチンを投入というか、一番効果的な「ライカを買う」という行為をM3、M5、M6という風に済ましているし、レンズに関してもエリマリート28mm、ズミクロン35mm、ズミクロン50mm、ズミルックス50mm、ズミクロン90mmという具合に取り揃えて、なおかつカラースコパー21mmという別系列のものを持っている(本当はスーパーアンギュロン21mmが欲しいのだが……、というか以前は旧型のものを持っていたのだが)ので、取り敢えずレンズ・グルメにはならないようにしているので、もうこれ以上ライカ・ウィルスに罹る心配は……、余りないのだ。

 では何故そのような場所に行くのかと言えば、前にも書いたけれども「セコニック・スタジオマスターの革ケース」を探しに言っているのである。というか、時代を経れば経るほどそんなものは見つけられなくなるのであり、もし欲しければ、もはやオーダーで作りるしかないんじゃないかと思われる時代になってしまっている。

 で、今回も結局そんなものは見つけられないのだから、ということで中古カメラフェアは早々に辞して、現実のカメラ屋さんにいくことにする。

 フォトキナ2012でライカM9の後継機「ライカM」が発表されたので、M9が少しは安くなっていないかなと思って見に行ったのだが、と言う具合にライカはライカでも既にデジタル・ライカの方向へ興味の的は移ってしまっているのだが、残念ながらまだそうは価格が下がっていない。

 しかし、いまや一眼デジカメでは35mmフルサイズが当たり前になってきているし、コンデジでもフルサイズが出始めている。そんな中でライカMのフルサイズ・レンズ交換式・デジタルカメラの意味はどれほどあるのだろうかとも考えられるが、多分、それは自己満足以外の何もないだろう。

 仕事カメラであるならば、デジタル一眼(フルサイズでもそうでなくても)で十分賄えるし、それ以上の品質をスポンサーは求めていない。

 しかし、同じ28mmのレンズなら、28mmの画角で撮りたいと思うのが、35mmフィルムで撮りなれてきた我が身の写角に関しての身体の慣れである。それはどうしようもない。EPSON RD1sというデジカメはよくできたカメラであるけれども、やっぱり28mmレンズの画角が撮影すると35mm(公称:実際は32mm位)になってしまうのは、なんかちょっと違うように感じるのである。例えば「フォーサーズ」のカメラならば28mmは35mm換算で56mmになってそれは標準レンズの守備範囲なのであるが、その辺の感覚がね……。ただし、今の写真学生あたりは「そんなの当たり前じゃん」といって、全然違和感を持たずに撮り分けるんだろうな。

 そういう人はそういう人でいい。しかし、35mmの画角にこだわるというか、その呪縛から離れられない私たちの世代は、首を長くしてライカM9の値段が下がるのを待ち続けるのである。

 それもバカな話ではあるが。

 世界の中古カメラフェアは本日まで。

 

2012年10月 8日 (月)

『オッサンフォー』はナツメロか?

 腰巻には「Don't trust under 40!!!」とある。本来は「Don't trust over 30!」とかになって、その意味は「大人を信じるな!」となるはずであるが、それが「under 40」って、要は、最早40歳以下ですら「ガキ」なのかよ、とでも言いたくなる。

『オッサンフォー』(堀田純司著/講談社/2012年9月19日刊)

 1969年生まれの堀田純司氏と同じ年の頃の、一度足を洗った詐欺師の話である。

 多分、それまでの詐欺師人生でも逮捕された経験のない人たちなのであろう、つまり、詐欺師という仕事に対するルサンチマンはない。とはいうものの、何故彼らが5年の歳月を経て再び詐欺師になろうとしたのか? それは単に四人組のうちの「ちょーさん」と「おばのん」がいきつけの、大阪市西区堀江のカラオケ・スナック「アルカディア」の、多分彼らと同じ年頃の(つまり中年の)ママひかりの話を聞いたからなのだ。じゃあちょーさんかおばのんがママに惚れていたのかと言えば、まあ惚れてもおかしくはない年齢ではあるけれども、特別そんな関係はない。結局、まママひかりが結果としては騙されたことになる大阪市会議員・畑山を凹ましたれ、というていどの理由でしかない。

 結局、それは;

『ちょーさんは、「詐欺の手口は社会の鏡であり、詐欺師は人の欲望の司祭なんや」と、よく言う。』

 リクルート事件なんかにもあるとおり、非公開株をインサイダー情報を持っているとして公開情報を持ってきて、その株を買わせようと言う詐欺事件は一杯あるし、そうした「金持ち」を対象にした詐欺事件には「まあ、騙されたほうが馬鹿なんでしょう」という社会的評価をされて、被害者に対する同情なんてものはまずない。

『大掛かりな詐欺になると、会社をつくって営業を打ち、広く大勢から金を集めたりするわけだが、そうすると被害者は老人や主婦が多くなる』

 ということになって、その場合は単に「騙されたほうが馬鹿なんでしょう」とはいえない、被害者側の悲惨な状態なんかも出てきたりする。

 つまり、「ちょーさん」「おばのん」「やっさん」「ジョー」の四人組は、前者の詐欺には一生懸命になるが、後者の詐欺には手を染めないということを堅持としている。まあ、それがこの四人組がつかまらなかった理由なんでしょうけれども。

 しかし、こうした「詐欺話」が面白おかしく通用するのも、やはり大阪という場所だからこそなのかもしれない。同じ話を東京都の都議会議員のネタでやってもあまりリアル感がないのは何故だ? 

 多分、それは我々の中に「大阪人は経済人」という刷り込みがあるからだろう。東京の政治家ならばあまり「儲け話」には乗らないだろうし、それ以上に自らの経済スキャンダルには敏感だ。そこが大阪の政治家であれば、もうちょいと経済部分での「おちょくり」に乗りそうだし、詐欺だってわかっていたって、それがうまくいかなくて見事に自分の利益になってしまう目があれば、あえて乗ってしまおうというたくましさが、大阪の政治家にはありそうだ。

 その辺の、多分にありそうな大阪の政治家という存在が、この作品のベースノートなのだろう。こうした「分り易い政治家」の存在が、この作品においては結構重要な立場になってくる。

 で、結局、「詐欺」は「詐欺じゃなくなる」というかたちでもって、終了するのだ。勿論「犯罪」は正当に「犯罪」として行われるのであるが、でもその結果が、「犯罪によって受け取った金を別のものにして被害者に返してしまった」というかたちでね。

 なんか、これ面白くない。

 どうせなら、騙した以上は騙したまんまにして、騙された大阪市議を晒し者にして欲しかったし、それでこそアルカディアのママの憂さ晴らしにも(というか憂さ晴らしにしかならない)なったのではにだろうか。

 多分に、この小説の作家には「詐欺は犯罪=犯罪は悪」というステロタイプな考え方があるのではないか。そんな考え方では、一般社会人としては生きていけるかもしれないが、芸術家としては生きていけないという、日本の常識に嵌まったままの、多分「普通の小説家」で終わるんだろうな。

 基本的に、芸術家(表現者)というものは、本来はその国の為政者からのスポンサードを受けない限りは、単なる乞食である。河原乞食である。

 小説家も同じ。

 どこかの出版社とかお金持ちに(詐欺的技術で)契約された作家だけが、芸術家なのだったり、科学者だったり、哲学者だったりするわけだ。

 その中に政治家が入るのかと言えば、絶対に入るわけないじゃん。政治家は、国民から政治を預かっているのだが、その執行権は持っていない。執行権は官僚にあるわけなのだ。その執行「権限」を官僚から奪い返そうという政治家の言はよし。しかし、その方法論は基本的に破綻しているのだから、結局官僚政治になってしまうのはやむをえない。

 と、ちょっと話がそれてしまった。

 とにかく、この小説を読みながら、頭に浮かんだのは上田正樹の『悲しい色やねん』であります。「Hold me tight. Osaka Bay blues.」という歌詞がずっと流れていたのは何故だ?

2012年10月 7日 (日)

区境には何がある? いやいや何もないのだ。というところから問題は飛躍するのだ

 東京都大田区東海一丁目2番10号という住居表示の場所にそれがある。

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 というと何かすごいものがありそうであるが、全然そういう話じゃなくて、大田スタジアムという硬式野球場があるのだ。

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 この大田スタジアム、全面人工芝で外野席こそないものの、なかなか立派な野球場で、社会人野球や首都大学野球連盟、東京新大学野球連盟などがメインの球場として使っている他、高校野球の夏大会東東京都予選やプロ野球のイースタン・リーグの試合なんかもやっている野球場なのである。

 ところが、この「大田区の野球場」、実は品川区八潮四丁目1番19号にある「大井埠頭中央海浜公園」の中にあるのだ。つまり「品川区」の中に食い込んだ形の「大田区」の施設なんである。

「大井埠頭中央海浜公園」の中にはいろいろなスポーツ施設があって、アメリカンフットボールなんかをよくやっている大井第二球技場なんかもそこにあって、大田スタジアムのすぐ脇にあるのだ。ただし、ここは当然品川区である。

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 勿論、同じ「大井埠頭中央海浜公園」の中になるにあるのだから、そこには「大田区」と「品川区」の区境なんてものはない。表示もない。

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 そこに何か困った問題があるのかといえば、別に何の問題も起きていない。大田スタジアムの中の売店で買った焼きそばを大井第二球技場で食べている時にも、別にその売店の事業税が大田区に属するんだよな、なんてことは考えてもみないし、タバコを吸えない大井第二球技場から大田スタジアムへタバコを吸いにいく(大田スタジアムには灰皿がある)時にも、「おお、今俺は区境を越えているんだ」なんてことは考えない。

 まあ、区境表示があるわけではないし、それぞれに住居表示があるわけでもないので、市民は区境を越えるときにそれを意識しないというだけのこと。これがカーナビだといちいち「県堺」を越えるとそのアナウンスがうるさいくらいにあるけれどもね。

 区境の問題といえば、中央区と千代田区の間の特別区たばこ税問題というのがあった。これは、「東京高速道路」つまり西銀座デパートの番地表示が「東京都中央区銀座一丁目3番先」となっていて、いまだにそこが「中央区」なのか「千代田区」なのか確定していない、という問題。これは、東京高速道路が外堀・汐溜川・京橋川を埋め立てて作られたわけなのであるが、その際にきっちりと区境を決めないで埋め立ててしまったために、未だにその部分が「中央区」に属するのか、「千代田区」に属するのか、「港区」に属するのか境界か確定しないまま現在に至っているという問題。

 それが何の問題になったかと言うと、その西銀座デパート内で売られているタバコの「特別区たばこ税」の税収がどの区に入るのかということで、一時問題になっていたことなのであり、そのために区境をキッチリ決めようとしていた時期があったということなのである。

 結局、どんな解決策を見出したのかは知らないが、今ではその「中央区・千代田区区境論争」というのは起きていない。多分、両当事者の間でお互い傷つかない落とし所を見つけたのであろう。

 って、何を言いたいのかって? つまり、国境線なんてものもそれと同じことということなのだ。

 だいたい、地上であってもそこには「境界線」なんてものはない。ましてや「海の上」にそんなものはないのだ。「ここからどっちはどちらの国の領分」なんてものは決めることはできないのだ。ましてや、「実効支配」したからといって、そこに住むような島でもないし、双方の国にとって「面子」以上の価値は有り得ないのだ。

 取り敢えず、尖閣諸島の地下資源は双方で相当の金をつぎ込んで探査をしないと分らない。いまのところ、尖閣諸島も竹島も、経済的には漁業権の問題でしかない。

 だったら、中央区と千代田区の区境論争と同じように、それは単なる経済問題。そこは「話し合い」でいくらでも決着がつく問題なのである。

 軍事衝突なんて何の意味もないし、お互い傷がついて何の得もない。両国で冷静に話し合って、取り敢えずは漁業権についての取り決めをおこなえばいいじゃないか。

 この程度のくだらない問題で、お互い「反日」「反中」「反韓」なんてやって政治問題化している意味はまったくない。というか、そうやって互いに反感を抱いていることで一番利益を得るのはアメリカだけである、ということを三者とも考えた方がいいだろう。

 最早、東アジアの利権はアメリカの手によって各国に振り分けられているのであるのだから、やたら問題化すればするほど、アメリカが言いたいようにできるということなのだ。

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2012年10月 6日 (土)

『日本で知った「幸せ」の値段』以上に深刻な日本の問題

「にしゃんたさん」っていうタレントがいたのなんて知らなかったなあ。

 大河ドラマとニュース以外にもテレビを見なければいけないのかなあ。

『日本で知った「幸せ」の値段 無一文の留学生が大学准教授になるまで』(にしゃんた著/講談社/2012年9月13日刊)

 それではその値段を目次に沿ってみていくと;

日本名の値段 10万7000円
日本に来たときの所持金 7万円
初めてのアルバイト 時給500円
目標にした外国人タレントの古本 300円
大学時代に貯めた貯金 300万円
空手の稽古代 0円
バーの用心棒 時給1000円
初出演のテレビのギャラ 3万円
京都府名誉友好大使 の一ヵ月の報酬 約15万円
株式会社の投資金 100万円
行きつけの店のコーヒー 200円
県立大学准教授の年収 約800万円
学生たちと食べた定食 600円
結婚式で使ったお金 3000円
京町屋の家賃 15万円
社会人落語日本一決定戦準優勝の賞金 20万円
高速フェリーのお酒 500円

 という、それぞれの値段はその時、その時のにしゃんたさんの「幸せの値段」だ。その時、その時ににしゃんたさんが感じた幸せってなんなのだろう。つまり、それは日本という国でにしゃんたさんが認められていく過程なのである。

 日本という国は外国人を排斥するっていうことはないのだけれども、実は外国人を微妙に排除する方法論をとっている。「国籍条項」というものがそうだし、京都の人が外国人と学生に優しいという話にあるように「いずれ出ていってくれるんや」という発想があるのと同じように、日本人全体が外国人に対しては「いずれいなくなる人」という感覚なのだ。基本的に「日本は日本人が住む場所。外国人がいてもそれは一時的なもので、いずれ自分の国に帰っていくものだ」という考え方がある。これは、実は海外にいる日本人にも共通の感覚があるようで、今外国にいてもいずれは日本に帰ってくる日本人というものが当たり前という発想なので、海外に行ってその国の事業に骨を埋めるという発想がないのが日本人であるという考え方。

 しかし、こんな考え方を日本人が持っている以上は「世界に開かれた国・日本」というものにはならないだろう。

 いまや企業が国境を越えてグローバル化している時代である。そんな時代に何で日本人だけがそんなローカルな発想でいるんだろう、という気になるのであるが、結局それは同じ言葉を喋る人間が1億人いるという僥倖に支えられた考え方なのかも知れない、と最近考えるようになった。

 たとえばこの「にしゃんたさん」はスリランカの人だが、最初から英語を喋っている。まあ、多分にスリランカ訛りの英語だったんだろうけれども。結局、それはスリランカ語というものがマイナー言語だったからなのだろう。

 世界中で自国の言語だけで普通に生活できるのは、アメリカ(米語)、中国(簡体中国語)、インド(ヒンズー語)、日本(日本標準語)くらいのものだろう。その中でインドは一時イギリスの植民地だった経験から英語が第二標準語的に扱われ、インテリ層では英語(とは言ってもインド式英語だが)が普通に普及している。中国は、日本の10倍以上の中国語人口を抱えているものの、そんな大半の中国人相手にしては市場が成立しない、商売ができないので、やむなく英語を話すようになった。実際、中国人が英語を話すようになったのはここ10数年位のものだろう。

 まあ、最近は中国語だけでも市場が成立するようになって、それが反日の運動にも繋がっているような気がしないでもない。

 そこへ行くと、日本という国は朝鮮戦争などのお陰もあって、高度成長経済のお陰で中間層が育ち、そんな日本人だけを市場として考えても経済が成り立つようになってしまった。結果、日本人は日本語しか話せなくても・理解できなくても、普通に生活ができるという、まさしく小型アメリカの様相を呈してきてしまったのである。

 アメリカが世界の中で「大きな田舎」と呼ばれているのと同様な言われ方で、日本も世界の中の「田舎」になっているのではないか。田舎の人は外の世界に出て行こうとしない。外の世界の人がコミュニティに入ってきたら、とにかくウェルカムするが、それはいずれその人が外の世界に戻ることが前提になっているから……。でも、その人がそのまま日本に、我がコミュニティに居続けようとすると、それこそ「国籍条項」やらなんやら持ち出して「排除」しようとする。

「にしゃんたさん」が日本人の女性と結婚しようとしたときに、彼女の父親が言った「三つの結婚を許せない理由」がまさにそうである。まず一つ目は「黒い孫は困る」、二つ目は「長男やのに、日本なんかでうろちょろしているやつは、人間として信じられん」、三つ目は「自分の国を捨てるような人間は、妻や子も捨てる可能性がある」という三つの理由のすべては、結局、日本人的な価値観だけでよその国の人間を判断しようという傲慢さである。なぜ傲慢か? それはその考え方が傲慢ではないという日本人の共通する考え方の中でしか通用しない考え方であるということに本人が気がついていないからなのである。

 ところが、いまや日本には韓国・朝鮮人、中国人ばかりでなく、ブラジルなどの中南米からの人たちや、その他アジアからも沢山の人が来ており、彼らは基本的に「日本が気に入って」永住しようという人たちばかりなのだ。

 こうした人たちを受け容れて、日本では少なくなりつつある若年・青年労働者として永住してもらうというのは、日本の将来像を考えると実はとても大切なことなのである。

 その意味では「にしゃんたさん」みたいな人(実はとても多いような気がする)たちがどんどん出てきて欲しいし、日本の将来はそういう有為の外国人の手にかかっているような気もするのだ。

 でないんだったら、やはり鎖国をして次第に滅びていく日本を愛するという方法しかないんじゃないか。

 さあ、どちらがいいんだろう。

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2012年10月 5日 (金)

『中の人』が何を言おうが事件は現場で起こっているのである

 アルファブロガーとか言われている人たちの話なのだが。どうも、さすがにオタクっぽい話が多いことよ。

『中の人 ネット界のトップスター26人の素顔』(古田雄介著/アスキー・メディアワークス/2012年7月6日刊)

 とにかく沢山の人から読まれている、1日のPVが1万とか数万とか、一月数百万PVとか言われている人たちのインタビューである。私のブログが1日平均600位、月15000PV位だから、それこそ月とスッポン位の違いがあるんだけれども、それはなぜか、ということを考えながら今日は書いている。

 取り敢えず、収録されているインタビュー、24のサイトとそれを作っている26人とは何なのか。ということで、本書で紹介されている、サイト名とURLを書いておく。

NHK広報局 http://twitter.com/NHK_PR

カルチャージャパン http://www.dannychoo.com/

大島てる http://oshimaland.co.jp/

虚構新聞 http://kyoko-np.net/

筋トレ http://st.sakura.ne.jp/~iyukari/

X51/ORG http://x51.org/

ニコニコ仏教講座 http://www.nicovideo.jp/mylist/21033758

日本珍スポット http://b-spot.seesaa.net/

探検コム http://www.tanken.com/

やや日刊カルト新聞 http://dailycult.blogspot.jp/

デイリーポータルZ http://portal.nifty.com/

安全ちゃんオルグ日記 http://d.hatena.ne,jp/anzenchan/

Chikirinの日記 http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/

ココロ社 http://d.hatena.ne.jp/kokorosha/

僕の見た秩序。 http://www.dfnt.net/

ぼくはまちちゃん! http://d,hatena.ne.jp/Hamachiya2/

らばQ http://labaq.com/

ネタフル http://netafull.net/

アキバBlog http://blog.livedoor.jp/geek/

小鳥ピヨピヨ http://kotoripiyopiyo.com/

ザイーカ http://www.zaeega.com/

駄文ニュース http://ariel.s8.xrea.com/

カーズSP http://www.karzusp.net/

1')<淡々と更新し続ける雑記。ωもみゅもみゅ http://mew5.com/

 この24のサイトの内、ツイッター、ニフティ、はてな、ニコニコ動画、シーサーなどの既存のシステムに乗って、自分は書くだけというサイトは9つだけである。その他は、自分でどこかのサーバーと契約して、自分でHTMLなんかも書いて、写真や画像を貼り付けて、レイアウトをして、っていうことをやっているって、それはやはりひとつの「コンピュータ・オタク」なんじゃないのか。

 私も、ジャストシステムの「ホームページビルダー」なんかを買って、自分でサイトを作ってみたりしたことはあるが、結局、更新時期になってHTMLの書き方を忘れてしまい、サイトは永遠に更新されずに終わってしまい、数年前に削除した。

 そう、サイトを作る技術は私のような素人でもかなり簡単にできるのだが、それはちょくちょく更新していないと方法を忘れてしまうくらいには、面倒くさいのであります。

 で、私はラクな方の「ニフティのココログのシステムにのったブログ」を書いている。ページデザインとか、写真の貼り方なんかにはかなり制約はあるけれども、しかし、このラクさ加減には勝てない。で、どちらかというと「書くことがとにかく好き」な人は、別にHTMLなんかを知らなくても書ける、どこかのプロバイダの提供するシステムに乗ってブログを書くのである。自分でサーバーと契約してプログラミングからやっている人は、やはりそれ自体が楽しいんだろうな。

 更に、本書に載っているブロガー、サイト管理者の驚くべき生活である。つまり、このインタビューを読む限り、彼らはRSSリーダーなんかも使っているが1日数時間を他のサイトを覗くことに費やしている。毎日数百というサイトを訪ねてそこを覗き、ネタを探し、それについて考え、そして書く。

 つまり、彼らが毎日コンピュータの前にいる時間は、何時間になるんだろう。要は、そういうことになってしまうと、情報はネットからだけ、それ以外のメディアに接する時間はまず取れない。中には、一時情報をとるために直接現場に取材に行っている人もいるようだが、しかし、それはほとんど数少ない人にすぎない。

 つまり、どこかで一時情報として流されたものが、第何次情報だか分らないが、とにかくネットに上がった情報だけから取材し、それをネタにして、さらに自らのコメントを付して「第何次+N情報」として、再びネットに乗せるわけである。

 なんか、この情報の流れを見ていると、とにかく一度ネットに上がった情報が、勝手に拡散して、勝手にコメント付与されて、またまたネットに漂っているだけでしかないんじゃないのか、と思えるのだ。

 私が、そんなネット情報をブログのネタにしないのは、なんかそんな気持ちの悪い「ネットの中をグルグル回る情報の流れ」というものに耐えられないからなのだ。

 まあ、好きでやっているんだから他人がとやかく言うことではないかも知れないが、何かお前らさあ、もっとパソコンの前から離れて、自らの目で情報に当たったら? 更に、「情報」ばかりでなく「情報とは違う価値を持った本」というものにも接してみたら? と言いたくなったりもするのだ。

「事件はネットで起こっているのではなく、現場で起こっているのである。」

 とね。

 

 

 

 

 

 

2012年10月 4日 (木)

信越本線脇野田駅を知っていますか?

 JR信越本線脇野田駅といっても知っている人は少ないだろう。

 JR長野駅を出て妙高高原駅なんかを過ぎて、今は妙高市になった新井駅、無人駅の北新井の次の駅である。脇野田駅の隣は、やはり無人駅の南高田となって、次の高田駅に繋がるという、まあ、よくある田舎の寂しい駅である。昨年の乗降人口は1日122人という我々東京の人間からは信じられないほどの、典型的な「田舎の駅」である。

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 ところが、この信越本線脇野田駅が今や注目の的なのだ。

 それは何あろう、JR北陸新幹線の仮称・上越駅になるということが決まっているからなのだ。

 何でそんな人が乗り降りしないような駅が新幹線の駅に? という疑問は当然であるが、実は理由は単純。単に、新幹線と在来線の交差点だからというだけなのだ。新幹線は長野を出た後は飯山駅を出て、この仮称・上越駅を出た後は高田や直江津には向かわずに、更に山を潜って富山県の朝日町(朝日駅)へ向かってしまい、そうなると北陸新幹線に新潟県の駅が出来なくなってしまう、という理由から、かろうじてこの脇野田が新潟県の駅とすることをJR東日本が決めたというわけなのである。

Dscf5079_2ということで、脇野田駅のすぐ脇には2015年の開通を目指して、仮称・上越駅の建設が推し進められている

 当然、地元新潟としてはこうしたJR東日本の決定は面白くない。

 第一、上越新幹線、上越線という上野から新潟に行く路線があるのに、なんでこちらが上越市にあるから「上越駅」なんだという反論。ならば、上越新幹線、上越線の名称を変えろという暴論。しかし、新潟市は下越に属するんだから上越市が今の場所にあるのは当たり前であるのだが、せめて上越の象徴である「妙高」を駅名に入れて欲しいという願論。など、諸論頻発。いまだに「仮称・上越駅」のままなのだ。市民から駅名募集をしたところ「上越駅」でよいとする意見と、せめて「妙高上越駅」と「妙高」の名前にこだわる意見と両論がでて、結局、両論併記でJR東日本に提出したそうな。

 JR東日本としては、北陸新幹線は飯山から上越までの間に妙高市はほとんど通らないので、なんでそんなところに「妙高」の名前が必要なんだという感覚のようで、なかなか駅名は決まらないまま現在に至っている。

 北陸新幹線は当然JR東日本が建設するのであるが、信越本線はこの新潟県部分は、軽井沢-篠ノ井間が第三セクターしなの鉄道となったのと同様、やはり新潟県を主体とする第三セクター線になってしまうのだが、この脇野田駅は北陸新幹線駅とは100メートルほど離れており、その駅を新幹線のすぐそばに持っていくには、第三セクター側がその建設費を持たなければならない。

 そんなに出費をしなければならないのに、駅名は自分たちで決められないのはおかしいとするのが、新潟県民の思いだ。

 まあ、私にとっては北新井のそばにある場所にいろいろ訳あってたびたび行くので、便利になるのなら名前なんかはどうでもいいというものだが、地元の人にとってはそうもいかないような気持があるようだ。

 いずれにせよ、北陸新幹線が通ったからと言って、別に地元には何も恩恵はもたらさないんだけれどもね。

 結局、東京風俗にここも冒されてしまうのか……、ということだけなのだ。

Fujifim X10 @Joetsu (c)tsunoken

 

2012年10月 3日 (水)

『CEATEC JAPAN 2012』はますます家電とクルマの境目をなくそうという方向に

 今年もCEATEC JAPANに行ってきた。エレクトロニクス・ショーの頃から見に行っているから、もう何回目になるのだろうか。別に細かいところは分かるわけないから、基本的には今の日本のエレクトロニクスの世界はどんなトレンドになっているかを概観するだけである。

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 昨年10月6日の当ブログ『CEATECから見えてきた日本産業の明日』では、まだ「エレクトリック+ビークル+エレクトロニクス少々」という感じだったのが、今年は更に推し進めて「エレクトロニクス+ビークル」という方向になってきて、まさにクルマがデジタル・ガジェットのひとつになってくる近未来を予想させる状況になってきた。

 ただし、昨年大きなブース展示をして、「エレクトリック・カー」を大々的に展示して、さらにデジタル・ハウスの提案をしていたニッサンは、今年は独自のブースは出さずに、ENERGY AREAに協力出展するだけ。

 代わりに、トヨタがトヨタホームやヤマハ発動機と共同ブース展示で、スマートハウスでクルマがある生活の提案をしている。ブースの裏側にはトヨタとヤマハ発動機で共同開発した一人乗りの電動自動車(4輪だから自動車なんだろうけれども、殆どバイクみたいな)のテストライド・コースまで作ってすごいスペースを使った展示をしている。

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 勿論、ENERGY AREAも負けずに、エリアを二つに分けてそのうち「住まうエリア」ではニフティやヤフー、NTTデータなど34社がそれぞれ小ブースを出してスマートハウスの提案をし、「集うエリア」ではニッサンを中心に21社でクルマとデジタル・ガジェットの融合する生活の提案をし、更には「走るエリア」ではだだっ広い場所を使って、ニッサンが開発した<無人で駐車する「NSC-2015」>のデモをやっている。これはスマホのカメラで撮影した画像情報を車載機器で解析して、ユーザーの指示でクルマが勝手に駐車場所を確認して、駐車枠に勝手に止まってくれる、というスグレモノの機材である。

 昨年のニッサンの展示に触発されたトヨタが、今年はトヨタホームと共同でスマートハウスの提案をすると、ニッサンはその先を行く技術提案をするという、ここにもある、ある種の提案合戦である。

 ますます「自動車業界」と「家電業界」の垣根がなくなっていき、今にソニーやパナソニックの自動車や、トヨタやホンダやニッサンのスマート家電が出てきたりすると、世の中はもっともっと面白いことになってくるだろう。

 そうなると最早「業界」なんてものはなくなって来て、ということは例えば「出版業界」なんて小さな世界に安住している出版社なんてものは、近い将来存在価値を認められない「過去の遺物」になってしまうだろう。要は「あの会社って何をやっている会社なのかよく分からない」企業が、多分これからのトレンドになるのだ。

 面白そうなことには何でも飛びつく会社、というかそれだけアンテナの張り方が幅広く、なおかつフットワークのよい会社が、これからの日本を支えていく企業群になるのではないか。

 ますます、面白い世界が広がるなあ。

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 しかし、無駄にデカいソニーの84インチ/4Kディスプレイ。こんなの家庭用じゃないよなあ。

オフィシャル・ウェブサイトはコチラ→ http://www.ceatec.com/2012/ja/index.html

EPSON RD1s Elmarit 28mm/F2.8 @Makuhari (c)tsunoken

2012年10月 2日 (火)

今年もCEATEC JAPANに来てるぞ

 今年もCEATEC JAPANに来ています。

 昨年のトレンド「エレクトロ・ビークル」は更に進んで……。てなレポートは明日UPします。

 お楽しみに。

 CEATEC JAPNは幕張メッセにて今日から10月6日まで開催中。

 詳しくは http://www.ceatec.com まで

『辺境ラジオ』と「うめきた大仏」

 個人ネタが三日も続いたので、そろそろ普通のネタに戻す。

 そういえば、内田樹氏のブログ『内田樹の研究室』(http://blog.tatsuru.com/)で「うめきた大仏」のことを読んだのはいつごろか調べてみたら、2011年4月9日のことであった。なんか、もっと最近だったような気がしたんだがなあ。

『辺境ラジオ』(内田樹・名越康文・西靖著/株式会社140B/2012年9月25日刊)

 実は『辺境ラジオ』というのは、内田樹氏、名越康文氏、西靖アナウンサーの3人でやっている、大阪の毎日放送(MBS)ラジオの深夜不定期放送番組のタイトルなのであった。そんなことも知らずに、この本でもって初めてその番組の存在を知り、MBSラジオのサイトから当番組の2011年3月6日放送分をポッドキャストで聴いてみた。

「うめきた」というのは、JR大阪駅の北、梅田貨物駅(通称:梅田北ヤード)が都市再生緊急整備地域に指定され、注目されるようになった場所だそうだ。当然そこにはグランフロント大阪やナレッジ・キャピタルなどの再開発ビルなども決定しているのだが、そこに2018年あるいは2022年にFIFAワールドカップ招致を狙って日本サッカー協会が2009年12月に梅田北ヤードスタジアム構想を立てたことに対して、漫画家の海野つなみさんという人が「わたしやったら大仏建てるね!」と考えて漫画にもしたのだけれども、あまり賛同の声もなく立ち消えになってしまうかと思われたところ、『辺境ラジオ』のメール募集の話を聞き、それじゃあということでメール応募したところ、内田氏の興味にその「うめきた大仏」構想がズッポリ嵌まったというわけなのだ。

 番組でその話を聞いた内田氏はさっそく当時の平松大阪市長に提案したそうだが、結局政教分離という建前から断られたそうである。

『もともと大阪は霊的には強力な都市でしょ。真ん中には上町台地が南北に走ってるけど、近世までは台地の北の端に石山本願寺、南の端には四天王寺という巨大な霊的センターがあった。信長が石山本願寺をつぶして、秀吉がその跡地に建てたのが大阪城。<中略>信長が北の霊的な抑えを壊してしまったせいで、大阪の霊的布置が狂ってしまったんだと思う。』
『日本の霊的再生のためには政教分離なんかナンセンスだと思うんだよね。特に大阪はもともと霊的な都市なんだから。上町台地の南北に、四天王寺と石山本願寺という浄土信仰の二大拠点があって、そこを中心に街が造られた。御堂筋には北御堂・南御堂があり、そのラインに沿って越前や近江の真宗信徒が集まって街を形成していた。そういう極めて宗教的な起源を持つ都市なわけで、その点では東京とまったく成り立ちが違う。
 僕は大阪が活力を失っているのは金の問題じゃないと思う。本来は霊的な起源を持った、宗教的な感受性にあふれた街が、それを失っていることによって都市としての本質的な生命力をうしなっているんです』

 というのが、内田氏の「うめきた大仏」に関する宗教社会学的な論点である。

 近世までは、町を造営するに際して神社仏閣を町の中心におき、それを中心に町が発展してきたというのはその通りである。現在でも、家の新築の際には必ず「地鎮祭」を行い、その土地の神様に土地を利用し、土地に鍬などの器材で変形を加えることの許しを得るのである。内田氏は『東京とはまったく成り立ちが違う』というけれども、実はその東京だって江戸の時代には実に多くの霊的センターがあって、徳川家康が幕府を開き江戸の町を作った時に、日光東照宮を江戸城の真北に作り、鬼門にあたる東北には東叡山寛永寺を作ったというのは有名な話だ。また、明治新政府も東京招魂社、つまり現在の靖国神社を作ったわけだが、この靖国神社の鳥居が神田明神の真正面を向いていること、東から「浅草寺」「靖国神社」「明治神宮」という並びが一直線になっていることなど、やはり霊的センターを無視した作りにはなっていないのだ。

 問題は、やはり戦後の経済主導主義になって、精神的な観点が失われたことなのかもしれない。特に、株価至上主義・グローバル経済主義になってからは、そんな余計なことを考えずに、とにかく当期利益だけを考えて会社を経営するようになったことが、こうした霊的経験をさけるような動きになって来ているのかも知れない。

 内田氏の言っていることは反モダニズムである。宗教的なものを排除しようとするモダニズムに対置して、昔からあった宗教的な考え方を復活させようというのは、実は以前の内田氏からは考えられなかったことなのだが、やはり神戸女学院大学というミッションスクールで教鞭をとるようになってから、すこし考え方がユルくなってきたのだろうか。

 まあ、現在の大阪の元気のなさの原因がそうした霊的センターになるのならば、それは答えが見つかったというようなものだ。どんどん宗教施設を大阪に作ってしまえばいいじゃないか。それはそれで建設需要が増えるかもしれないし、じゃあその原資をどうするのかといえば、内田氏のような大量にいる経済的に豊かな団塊の世代からムシりとればいいのである。

 うん、いまひとつ正体がはっきりしない橋下氏に頼るよりは、コチラの方が具体的でよろしい。

 ところで、『辺境ラジオ』というのは別に「うめきた大仏」だけの番組ではない。『この番組は、アメリカや中国ではなく日本、東京ではなく大阪、テレビではなくラジオ、すなわち、中心ではなく端っこだからこそ見えるニュースの本質を語り合うラジオ報道番組』なので、その時々のビビッドな(?)テーマについて話をしており、本書もそんなテーマについて当然語っているわけだ。

 特に多いのが東京への「一極集中」と、それに比較して相対的な「大阪の地盤沈下」というテーマに関する話題なわけだけれども、しかし全体的なトーンとしては「それでもいいじゃない」ということなのだ。

『都市文化はもっともっと個性的に散らばっていた方がいいと思うんですよね。東京には東京の固有の文化がある。大都市、国際都市ならではの無国籍的な感じがある。無国籍的でハイーパーアクティブであれば、東京はそれでいい。「アクティビティ=価値」だとみんなが信じている都市があるのはぜんぜん構わない。だけど、他の都市もそれを真似することはないでしょう。別にいいんじゃないですか。アクティブじゃなくても。「しっとりしている街」とか「深みのある街」とか「手触りが良い街」とか「優しい街」とか、いろいろな街があっていいと思う。
 ハイパーアクティブであることは東京に任せて、大阪は「優しい街」と言うか、「深みのある街」になった方がいいとおもいますけどね』

 という内田氏の発言にはまったく賛成である。

 と正論を言っといて……。

 ブログの読者の皆さん。私はヘソ曲がりなもんで、その中のごく一部分だけを針小棒大に語っていますが、それには騙されないように。

 実際の本には私が語っていること以上に、いろいろなことが書いてあるのだ。

2012年10月 1日 (月)

講談社を辞めて最初にしたこと

「講談社を辞めて最初にしたこと」とはこのことなんだけれども、実は9月29日の土曜日は以前からラクロス観戦の予定があって、「このこと」はやる暇がなくなってしまった。ということなので、「講談社を辞めて最初にしたこと」は「関東大学ラクロス2部 立教大vs.横浜国立大戦@駒沢第一球技場」なのであった。

 で、昨日、一部の皆さんにお約束していた「このこと」をやったわけなのです。

 その「このこと」とは頭を坊主にすること。

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                             Before
                          &
                             After
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眼鏡の色まで変えちゃって、しかし、いわゆる「悪ヅラ」ですね。

 とは言うものの、いわゆる「五分刈り」という奴で、夏の地方予選第1戦目の高校球児みたいな「五厘刈り(いわゆる青坊主)」ではない。最初はそっちにしようかと思ったのだが、ちょっとショックが大きすぎるかなということで、多少妥協をして「五分刈り」。

 しかし、何故坊主にしたのか。別に女風呂を覗いて大学一年生に無理やり酒を飲ませたことを反省したわけではない。第一、それは私のことではない。私は○○○大学のアメフト部員ではない。

 長野刑務所に収監されるわけでもない。それも私のことではない。私はホリエモンではない。

 会社を定年退職して新たな人生を送ることになって、生活を一新するために、いっそ頭まで丸めて……、ということも無いわけではない。しかし、じゃあ何か新しいことでも始めようというのか、というと別にそんなこともないので、生活一新というわけではない。

 ただ、まあ、何となくサッパリしたかったと言うことなのかも知れないなあ。これなら頭を洗った後がラクでいい、というのはアリ。

 以前、髪が伸びてきた際に、「このまま伸ばしてポニーテイルにするのと坊主にするのと、どちらがいい?」とカミさんに聞いたら、「どっちもイヤ」という答えだったのでガッカリしたことがある。「よーし、いつかはそのどっちかをやってやるぞ」とタイミングを狙っていたのは事実である。

 更に、フサフサと見える私の髪の毛だが、しかし、次第に薄くなって来ているのも事実。いずれスダレ頭になったり磯野波平さんみたいになってしまうのなら、そうなる前に坊主になってしまえ、ってのもある。

 理由としてこじつければ何でもありなのだ。何となく切っちゃった、というのが正解の理由であります。人間の行動原理なんてものはそんなものですよ。たいして理由・原因・動機なんてものはないのです。

 しかし、丸刈りにしたのなんて中学以来のことだなあ。私の卒業した足立区立第七中学校というのは、同じ足立区立の十二中、九中なんかと並び称される、いわゆる「悪の巣窟」みたいな学校で、毎年冬休み明けには「今年の正月には〇○人が警察に補導された」なんてことが話題になっていた。そんな学校なので言ってみれば「悪にならないための坊主刈り」ってことで、全校男子は坊主刈りだったのである。じゃあ、それが功を奏したのかといえば、実はそんなのは何のものの役には立たずに、悪の巣窟であることは相変わらずだった。まあ、外側からする規制なんてそんなもんである。いまや足立七中も普通の学校になったそうだが、それは日本中の中学校も同じ、要は社会が豊かになればいつの間にか「不良」なんてものはいなくなってしまうのだ。

 いやまあ、そんなこと言いながら、自分の頭・顔を鏡で見れば、まさしく悪ヅラ、ヤクザ顔ではあります。まるで『アウトレージ』の出演者みたいだ。

 そう言えば、昔ロスアンゼルス空港のイミグレーションで役人から「Are you Yakuza?」って聞かれたことがあったなあ。

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