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« 『留学のほえづら』は「無知は恥」ってことを思い出させるバカ話 | トップページ | 東京ゲームショー2012 »

2012年9月22日 (土)

『東京震災記』を読んで、いまの東京を考える

「震災小説」というと高橋源一郎の『恋する原発』を思い浮かべてしまうが……、あっ、あれはトンデモ「原発小説」か。

 田山花袋というと『蒲団』を思い浮かべてしまうが、それもその一つである自然主義私小説であるリアリズム派の作家である。そんなリアリズムの人が書いた、関東大震災のルポルタージュ文学である。

『東京震災記』(電子版)(田山花袋著/インタープレイ/2012年8月15日刊)

 とは言うものの、田山花袋自身がまえがきで示しているように『震災記と言っても、これは私の見たり聞いたりしたことだけで、決して完全なものではない。もっと本当に詳しく知ろうと思うのには、いろいろな記録も、いろいろな新聞記事も引張り出して見なければならないのは勿論である』なのであって、しかし、それらの記録では事実を記述しただけで、本当の光景や感じや気分はわからない。というところに、小説家のルポルタージュの優位性があるのだろう。

 最初の方は地震があって即日や次の日くらいまでの、田山花袋自身の体験であり、自身で見てきたことの記述であるのだが、段々と話は聞き書きが増えてくる。そうなると、次第に話が他人事のように、伝えている内容はかなり悲惨な状況なんだけれども、書き方がのんびりとして、如何にも小説家がワンクッションおいて書いたような暢気さのようなものが漂ってくる。

 最初のころ『全く廃墟だ! 都会の廃墟だ!』と言っていたのが;

『『廃墟ということは、この大きな自然のリズムではないか。どんなものにでもいつか一度はやって来るものではないか。人間の『自然死』もまたこの『廃墟』の一種ではないか。人間の心の中にも絶えず『廃墟』が繰返されているのではないか。淫蕩、倦怠、奢侈、疲労、そういうものの中に『廃墟』が常に潜んでいるのではないか。
 そして『廃墟』の中から更に新しい芽が萌え出すのである。新しい恋が生れて来るのである。新しい心が目ざめてくるのである。
《それを思えば、この震災も決して無意味に行われたのではないということが出来る。矢張、これも大いなる自然のリズムであらねばならぬ》
 赤く焦げた土の中を、灰燼の凄まじく黄ろく舞う中を、自動車や車や罹災民の夥しく通る中を、私はこんなことを思いながら歩いた』

 と言うほどに、落ち着いて震災後の東京という町を考えるのである。

 そして軍隊に行く弟との会話では;

『『何と言っても、江戸時代がまだいくらかは残っていたんだからね。日本橋附近に行くと、現代の影響を少しも受けていないというような純下町式な気分があったんだからね? それのなくなったのは惜しいと思うね?』
『新しい東京の出来上がった時には、もう、あの気分なんていうものは、すっかりなくなってしまっているにきまっているからな』
『本当だとも……』
『しかし見ように由っては、こうも言えるかもしれないね。今までは、東京と言っても、江戸趣味や江戸気分がまだ雑然としてその間に残っていて、完全に「東京」というものになることが出来なかったが、今度は、今度こそは、初めて新しい、純乎とした「東京」を打建てることが出来るわけかも知れないね……?』
『そうも言えるだろけれども、それまでになるのは大変だよ』
『まア、為方ないさ。こrからせっせと皆なして新しい東京を作るんだね?』

 という具合に、かなり前向きなオプティムズムに溢れた発想になっているのである。

 さらに震災後の惨状を目にした田山花袋は次のような予想までしているのである。

『二人の頭には、期せずして、外からやって来る敵のことが浮かんで来ていた。海からやって来る強敵は、この都ではとても完全に拒げそうには思えなかった。
『そうだってね? 飛行機でもやって来る段になると、とてもこの地震の比ではないそうだね? この東京などは、一度で滅茶々々になってしまうってね?』
『そうですって――? だから、どうしたって、こんなところに落附いてはいられないッていうことになりますよ。いずれ、そうなると、もっと山の中に入るかどうかしなければならないようになりますよ』
『しかし、そんなことがあっては大変だがね?』
 こう言って私はそのいやな話を打ち切ってしまった。それにもかかわらず、太平洋中の飛行母艦から爆弾を載せた恐ろしい飛行機が何隻となく飛んでくるさまがはっきりと私の眼に映って見えた』

 と21年後の東京の有様をはっきりと予想する様は、まさしく文学者の想像力の素晴らしさを感じさせるものがある。

 関東大震災と第二次世界大戦の米軍による空襲でもって壊滅した東京は、その後、60年を経て完全に「江戸」を感じさせない街に発展している。勿論、街というものは発展するものだし、そのためには前時代の遺構・趣味というものは破壊されることによってしか、発展しないものであることはよくわかるのだが、果たしてそれでいいのかと考えてしまう自分もいるのだ。

 果たして、明治のモダニズム、オプティミズムだけでモノを考えていいのか、しかし、すでに破壊されてしまっている遺構を前にして、そんな気分は何ら力を持たないものなのか。

 最近行われている、「江戸の風情」を東京に呼び戻そうといういくつかの事業も、しかし、完璧に「江戸時代のもの」を回復するものにはなっていないのだから、まあ、無理して江戸を復元しなくてもよいのではないか、とも思うのである。

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