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2012年7月 4日 (水)

『いつだって僕たちは途上にいる』とおり、いつまでたっても途上のままなのだな、この二人は

 リクイガスのサガンがスゴいぞ、今年のツール。早くも2勝目だ。

 ということとは何の関係もなく、今日のブログは始まるのでした。

『人生2割がちょうどいい』『ガラパゴスでいいじゃない』というトンでもないタイトルがついた前二作に続いて出た第三作目が『いつだって僕たちは途上にいる」である。なんか、前二作よりもややマトモなタイトルかなとも思うのだが、『メディアの変遷について、そして、それに伴うコミュニケーションの変化について、有効で便利なノウハウを語ってもらう意図で企画』されたと、ナビゲーターの日経ビジネスオンライン清野由美が言うわけであるけれども、そんな意図は元々岡康道、小田嶋隆の両氏には理解されずに、ただ単に、オヤジのグダグダ話をやっているだけだという段階で、もはや企画倒れなのだけれども、それでもこの本のシリーズが「そこそこ」売れちゃっているので、辞めるわけにもいかなくて、清野さんがイライラしながら付き合っているというのが、このシリーズなのであろうか。

『いつだって僕たちは途上にいる』(岡康道・小田嶋隆著/講談社/2012年6月20日刊)

 しかし、なんでこのオヤジどものグダグダ話が面白いのであろうか。

 つまり、これって小田嶋氏の芸風なのだな。小田嶋氏のコラムの芸風。まずテーマを一つ投げかけ、その後、そのテーマについてグダグダ書きすすめるうちに、だんだんテーマからズレていき、えっ? もはやテーマからは関係ないところに話が行っちゃって、あれあれと思っている内に、どこかでオチを見つけてしまい、最後はキチンと落とすというスタイルだ。

 以前、マーシャル・マクルーハンが「メディアはメッセージ」であると語ったわけだが、つまりそれはメッセージはそのコンテンツ(内容)ではなく、メディアのあり方で決定されるということなのである。つまり、小田嶋氏のコラムのあり方もそのようで、コラムに書かれたコンテンツ(内容)ではなく、コラムの書き方にメッセージがあるということ。ということは、じゃあ小田嶋氏のコラムの書き方が変わらない限り、そのコンテンツ(内容)はいつも同じなのか、というとまったくその通りなのである。つまり小田嶋氏はいつだって『人生2割がちょうどいい』『ガラパゴスでいいじゃない』ということを言い続けているのである。そこにさらに今回『いつだって僕たちは途上にいる』ということがプラスしただけというもの。まあ、行ってみれば古典落語みたいなもんだな。

 古典落語を語る噺家は基本的にはいつも同じ噺をしているわけだ。しかし、何度聞いてもおかしい、もう何度も聞いている噺なのだが、常に新発見があって面白いというのが、古典落語の楽しみであるのだ。そう小田嶋氏の語り口というのが、ついに古典落語の域にまで達したということなのだ。スゴイぞ小田嶋さん。

ということでこの本に関して言うと、小田嶋氏が語っている「青春の映画5本」『熱いトタン屋根の猫』『恐竜100万年』『家族ゲーム』『ショーシャンクの空に』『トレインスポッテイング』、「青春の5冊」『車輪の下』『素晴らしいアメリカ野球』『仮面の告白』『ヒューマン・ファクター』『百年の孤独』、「3本の課題映画」『亀は意外と速く泳ぐ』『たそがれ清兵衛』『イントゥ・ザ・ワイルド』というラインナップに関しても、それについて何を語っているのか、を考えながら読んでいても、何にも見つからない。問題は、小田嶋氏がどんなものを選んで、それについてどんな語り口で語っているのかをみることだ。

 と、そうやって読んでみると、実は小田嶋氏はそれらの作品について何も語っていないことがよく分かる。要は、それらの作品は小田嶋氏の話のきっかけにすぎないのだ。それらの作品について語っているように見えて、しかし、語っているのは自らの「スタンド・バイ・ミー」体験だったり、対学生運動経験だったり、対早稲女話だったりするわけで、それ以外ではない。つまり、本や映画というものは「それについて語るもの」ではなく、「そうそうそんな本(映画)があったね、でさあ」という具合に話のきっかけになるものでしかない、というかきっかけになるものである。というのが、実は正しいオジサンの本や映画とのつき合い方なのである。

 だって今更本や映画を見てオジサンたちが感動なんかをするわけないのである。映画を見て、本を読んで、深く感動し、それ以降の自らの人生が変わるなんてことは、最早オジサンたちにはない。それは残念と言えば残念であるけれども、そんなもので感動するほどに純情じゃない、完全なスレッカラシのオジサンたちにとって、本や映画は「単に皆から見られないで涙を流すことが出来るメディア」でしかなく、見終わって、読み終わってしまえば、ハイさようならってな存在なのだ。

 ということで、清野編集者の本来のこの本に込められた思いは常に実現できずに、いつまでも「途上」のままで続いていくのであった。

 ちなみに岡康道氏も小田嶋氏と同じ観点から、それぞれ選んでいるが無視している。何故なら、岡氏は本書では小田嶋氏の刺身のツマでしかないからだ。ゴメン、岡さん。

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コメント

勘違いも程々にね。

君は素晴らしい映画や本で人生が変わるのかすごいなそれはひとつの才能だなその程度ということもできるが他人の作ったもので常に自分を上の段階で押し上げられるなんて並の人ではないな。

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