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2012年7月

2012年7月31日 (火)

『生きる悪知恵』という割には「悪知恵」じゃないという事実

 西原理恵子の人生相談っていうから、もっとムチャクチャな回答をするのかと思ったら、意外とマトモじゃん、というのが第一印象。

『生きる悪知恵 正しくないけど役に立つ60のヒント』(西原理恵子著/文春新書/2012年7月20日刊)

 取り敢えず「第1章【仕事編】商いは小さなことからコツコツと」から例証してみよう。

1 Q:70社受けてもダメ。出口の見えない就活に疲れ果てました。
  A:正面から入れないなら、横入りすればよし。
2 Q:やっとの思いで就職した会社が、いわゆるブラック会社でした。
  A:DV男との離婚と一緒。さっさと見切りをつけましょう。
3 Q:失業後なかなか仕事が見つからず、派遣だった妻が正社員に。「あなたは主夫をやって」と言われて……。
  A:働く嫁ほどこの世でありがたいものはなし。
4 Q:職場で仕事がありません。ヒマすぎて苦痛です。
  A:身近でいい仕事をしてる人の真似をしよう。
5 Q:仕事にやりがいは感じますが、給料が安く生活が厳しいです。
  A:同じような仕事の嫁を探せ。
6 Q:どう考えても向いてない部署に異動になってしまいました。
  A:仕事のインナーマッスルを鍛えろ!
7 Q:「ミスは人のせい、手柄は自分のもの」という上司を改心させる方法は?
  A:相手の悪事をみんなに晒せ。
8 Q:使えない部下にイライラします。
  A:ネジだと思えば腹も立たない。
9 Q:上司に毎日のように飲みに誘われ、困ってます。
  A:「ガンマGTP」か「離婚の危機」でごまかそう。
10 Q:ある日突然カツラをかぶってきた上司に、どういう態度をとればいいかわかりません。
  A:みんなのために、あえて地雷を踏みにいくべし。
11 Q:全社員にTOEIC受験が義務づけられたが、英語は超苦手なんです……。
  A:フィリピン・パブに行け!!
12 Q:育児中の同期に不満と嫉妬を感じてしまいます。
  A:向こうが子供なら、こっちは親をダシに断ろう。
13 Q:陽気すぎて迷惑な常連客への対処法を教えてください。
  A:スナックのママの技に学べ。

 という具合。まあ、マトモでしょう。もっとトンでもない答えを期待したのだが、意外とマトモ。

 こんな具合の質問と回答が、「第2章【家庭編】近くて遠くて好きで嫌いで」14本、「第3章【男と女編】ヤリたいときがヤレるとき」11本、「第4章【性格編】直すより慣れろ」11本、「第5章【トラブル編】上手なウソは人生の通行手形」11本、ということで、「役に立つ60のヒント」ということななるのだ。

 まあ、だいたい人生相談なんてものは、人に相談するようなものではなくて、基本的には自分の中で解決しなければならないものを、何故か他人に相談することによって、結果責任を逃れようとする、人間の態度の卑怯な部分が行わせるものなのだ。従って、そんな人生相談には「突き放す」ことが肝心。そういえば、ラジオのテレホン人生相談で人気のあった加藤諦三氏の人生相談もそうしたものだった。当然、加藤氏の人生相談は「役に立つ人生相談」だった訳なのであるけれども、結構突き放す部分では突き放していた。

 そんな、突き放した回答が返ってきたときに相談者はどうするのか。そうか、自分で考えなければいけないんだ、ということに気づいて自分で考えるようになるのか、といったらそうはならないんだよな。結局、相談者は「駄目だなこのセンセイは」ってなって、また別のセンセイに相談するのがまだいいほう、そのまま自分の生き方を自分で考えずに、その後の人生を放棄してしまうんだろうな。で、結局、何のための人生相談だったのかわからないことになってしまい、そのままの人生を文句を言いながら続けてしまうのだろう。

 か、あるいは人生相談なんてものは実はないのかもしれない。それはメディアが作り上げた虚構であり、そんな自分の人生を人に委ねるひとなんかは、実はいなかったりするのかも知れない。とは言うものの、人は他人の人生を覗くのは嫌いではない。ということで、ラジオやテレビ、雑誌には、まさしくエンターテインメントとしての人生相談なんてのがあるのかもしれない。勿論、世界で一番最初に「人生相談」を始めた人は大真面目に取り組んでいたのかも知れないが、いまやそれはメディアのプログラムの一つでしかない。

 星占いや、血液型占いなんかと同じように、それは誰もその結果を信じてはいないが、しかし、「あなたの今日の運勢は」なんていわれると、どうにも気になって仕方がないというような、どうでもよいプログラム。

 人生相談も、そういえば別に他人にとってみればどうでも良いことなのだけれども、放送されると何か気になってしまう、というまさに「どうでも良いけど気になる」プログラムである。

 だったら、西原さんももっとメチャクチャな回答を用意していればよかったのにな。なんせ、あのメチャクチャな「鴨ちゃん」と結婚した人である。その割には、自分の生活はキチンとしているのは、お子さんを育てているからなんだろうけれども、それでは漫画の作風とは合いませぬ。

 で、もっとメチャクチャ。この人こんなんでちゃんと子供を育てられるのかいな、って位のムチャクチャな回答があっても、その方がエンターテインメントとしては面白いのだがなあ。

 

2012年7月30日 (月)

『世界征服のためのやさしい手引き』というものがあるのだ

 7月27日のエントリー「『常識からはみだす生き方』というより具体的な「ノマドの技術」である」で紹介したクリス・ギレボーのサイト(http://chrisguillebeau.com/)を見ていたら、こんな電子書籍のようなものが出てきたので紹介する。むしろ、こちらはその精神について書いてあるものだ。表紙を含めて30ページほどのPDFである。『常識をはみ出す生き方』の前に読んでおくと、いいかも知れない。 

Worlddomination1

原語版(英語)で読む人はコチラをクリック→http://chrisguillebeau.com/3x5/files/2008/06/worlddomination.pdf

塚越悦子さんと松本匡史さんというひとが翻訳をしているので、日本語で読みたい方はコチラをクリック→http://chrisguillebeau.com/3x5/files/2008/01/briefguidetoworlddomination_jp.pdf

 章立ては以下の通り;

第1章:この29ページで君が学ぶこと
第2章:どうしようもないぐらい平凡な人たち vs. 少数派のとてつもない人たち
第3章:混みあった世界と、雑音を打ち破る方法
第4章:攻撃の計画、そして困難を乗り越える方法
付録:謝辞と資料

 要は当たり前じゃない生き方をして、それを他の人にソーシャル・メディアを通じて伝えて、そんな当たり前じゃない生き方が皆の普通の生活になれば、それは世界を征服したことになるんじゃない? ということ。同時に、自分が稼ぐだけじゃなくて、その稼ぎの一部分でいいから、何か有効なことに寄付して、寄付された人たちを喜びを分かち合おうということ。そうして、世界中の人が幸せになれば、それこそ世界を征服したことになるのじゃない? ということ。

 別にリチャード・ブランソンやビル・ゲイツみたいにならなくても、そうした社会貢献は出来るとして、レオ・ババウタやランディ・パウシュ、サム・トンプソン、スコット・ハリソンの例を上げているが、そんな人の名前は聞いたこともないでしょ。そりゃそうだ、彼らはそんなに有名な篤志家ではない。しかし、自分の出来るだけのことをして、ブランソンやゲイツのように感謝もされているのだ。

 最後に、ここで提案されている生き方じゃなくて、常識にとらわれ、『どうしようもないぐらい平凡になる11の方法』を紹介。

1. 他の人が言うことをそっくりそのまま受け入れる
2. 権威に対して疑問を持たない
3. 何かを学びたいからではなく、そうすることになっているから大学へ行く
4. 人生で一度か二度、イギリスのような安全なところで海外旅行する(ギレボーはアメリカ人だからね:引用者注)
5. 他のみんなはいずれ英語を(外国語を:引用者注)学ぶだろうからと考え、外国語を習ってみようとしない
6. 自分のビジネスを持つことを考えはするが、決して実行しない
7. 本を書くことを考えるが、決して実行しない
8. 手が届く中で一番高額な住宅ローンを受け取り、返済するのに30年かける
9. 平均10時間ほど生産的な仕事をするために、週40時間机に向かう
10.目立ったり、自分に注目を集めることをしない
11.ただ闇雲に与えられた課題をこなすだけ

 うーん、なかなか厳しい。

 私も「どうしようもないぐらい平凡な男」なのかも知れない。

 定年を期に、いろいろ変わる方法があるのかなぁ。

2012年7月29日 (日)

小林哲夫氏の出版を祝う会

 3月1日のブログ「『高校紛争 1969-1970』は温故知新なんてものじゃない。しかし、もう40年もたってしまったんだなあ」で書いた、中公新書『高校紛争』の著者・小林氏の出版を祝う会が昨日、小石川後楽園の涵徳亭で開催され、「うふふ……。ジジィの内ゲバてのも面白いかもしれない.。見に行きたいな」と書いたとおり、私は野次馬根性まる出しで参加してきた。

2012_07_28_005_2

2012_07_28_007_2
小林哲夫氏です。

 会場には「良くぞとってあったな」的昔のアジビラのコピーなんかもあって、雰囲気はなくもなのだが、当然のことながら既に40数年も前のことである、出席しているのもジジィ・ババァばっかりなので、つまり緊張感はまったくないのである。

 会の呼びかけ人のひとり、元東京教育大学付属駒場高校全共闘の大谷氏の、昔の「連帯の挨拶」ふうの挨拶から始まったのだが、もう皆同窓会状態で、呼びかけ人はじめ各高校の元全共闘代表の挨拶なんか聞いてやしない。ゴチャゴチャした雑然さの中の出版記念パーティーではあった。まあ、皆久々に会うんだからしょうがないって言えばしょうがないが、考えてみればそんなカオス状態のほうが、当時の高校生運動を象徴するのにはちょうどいいってなもんか。

 しかし、話を聞いてみると大体、反戦高協(中核系)かブント系が多くて、やはり学内運動だろうがなんだろうが勢力拡大には積極的だった中核派が多かったんだな。あとは高校生の自主的な活動を認めていたブント系も多く、反帝高評(社青同解放派)がわずかにいるだけで、反戦高連(革マル系)はいなかった。まあ、民青(日共系)や革マルは高校生段階ではあまり学内運動が盛んじゃなかったから、というか高校生の段階では普通にお勉強しなさい、という発想だったからなあ。

 しかし、ブントなんかは赤軍派なんかもいたりして、昔だったら完全に内ゲバ状態になっていたはずなのだが、やはり寄る年波には勝てないのか、あるいは既に皆運動はやめている状態なので、今更、内ゲバの必要がないのか、まったくそんな雰囲気じゃなくて、同窓会状態なのだ。

 反原発運動のことなんかを言い出す人もいたけれども、それはそれ、反原発ったっていろいろな立場もあるし、それを言い出すと収拾がつかなくなるのは分かっているので、皆大人の態度。

 ということで、特にその会での新しい提案とかはないようなので、途中で抜け出して帰ってきてしまった。だって、午後1時から9時までなんて、付き合ってらんないよ。

Fujifilm x10 @Kantokutei (c)tsunoken

2012年7月28日 (土)

『トライブ』じゃなくて「リーダーシップ」が大事なんでしょ

 ポイントは「マネージメント」ではなく「リーダーシップ」ということなのだな。マネージメントは、それまでのやり方を守っていても問題はない。大事なのは、新しいルールを作るリーダーシップということなのだ。

『トライブ 新しい世界の未来形』(セス・ゴーディン著/勝間和代訳/講談社/2012年7月24日刊)

 例えばトヨタのケース。カイゼンとかTQCとか、もともとボトムアップのやり方で現場からの仕事の改善策を提案していたのが、多分、豊田家じゃない後継経営者になってからは、官僚的なサラリーマン・トップ・マネージメントになってから弱まってしまい、こりゃいかんということで創業者家族に経営権を戻して、これからの経営を任せたということなのだろう。これからは、下からもどんどん改善策を出してほしいということで。

 これはライバルだった日産が、その出自からしてもともと官僚的な経営をしていてダメになったところ、カルロス・ゴーンという官僚以上に政治家な、これまで以上にトップダウンの経営者がきて、強引に経営を立て直してしまったという事に対する、トヨタなりの対抗策なのだろう。そっちがトップダウンなら、こちらはボトムアップだという具合にね。

 そう、もともと日本の企業というのは、セス・ゴーディン氏言うところの「下から何かが起こせる」発想法があったのだ。現場からの提案とか、現場からのルール改変なんてものが可能な、まさしくアメリカにはない日本的な企業風土があったのである。それが、経営者が数代変わっていくうちに、次第に官僚的になってしまい、下からの改善提案に対しては、それがあたかも「マネージメント」に対する挑戦であるというような受けとめ方をされてしまうようになり、下からの改善提案はいまや殆ど無視されるか、否定されるようになってしまった。まるでアメリカの会社のようにね。

 もともと、そんなマネージメント発想はアメリカやヨーロッパの階級社会の発想法であり、要は農民・労働者は黙って「お上」の方針に従っていれば幸せになるという考え方だったのである。日本ではそうではなく、お殿様であっても、広く領民の言う事を聴き、自分の家来の言う事を聴き、という事をしないと領地を収められなかった、という歴史を持っている。

 そう、セス・ゴーディン氏が言うようなリーダーシップの発揮は、日本ではリーダーシップを発揮する前に、既にその改善提案がお殿様に受け入れられていたとしたら、どうだろうか。その辺が、アメリカやヨーロッパの階級社会におけるマネージメント発想と、日本のような「何だかよくわからないヌエ的」な社会のマネージメント発想の違いである。

 従って、そんなリーダーシップを持った人間が、そのリーダーシップを発揮するための仲間(トライブ)を作らなければいけないという発想も、あまり日本ではないかもしれない。翻訳者の勝間和代氏が、そのゴーディン氏の考え方に賛同するのも、やはり彼女がアーサー・アンダーセン、マッキンゼー、JPモルガンというアメリカ系のコンサルティング・ファームや投資銀行にいたということが大きいのではないか。もしかして、彼女が日本の会社に就職していたら、もっと社内での改善提案や、新規事業提案などが、「マネージメントされている立場」でも言える状況(まあ、会社によっても違うかもしれないが)を知り、いやいや意外と会社は下っ端の提案でも聞いてくれる、懐深いところなんだという風に考えたかもしれない。というか、逆にそこで満足してしまって、「執筆家=勝間和代」は生まれなかったかもしれない。うーん、そういう意味では、勝間氏がアメリカ系の会社に入ったのは正解なのか。

 勿論、このセス・ゴーディン氏の考え方が間違っているなんてことはまったく考えてはいない。というか、官僚組織も含めて、こうした「マネージメント発想」をもってる企業も最近は少なくないようだ。特に、創業者との接触がなくなってしまった、4代目・5代目のサラリーマン経営者が、要は「サラリーマンのなれの果て」で経営者になった人が経営している会社では、そんなアメリカの企業と同じような、まさしく「官僚制の罠」というような状況に陥っている会社もあるかもしれない。

 まあ、そういう会社にいる人は、この本を読んで勇気づけられ、実行して、下手すると馘首されちゃうかもしれないけど、そんな会社はクビになったほうがいいじゃんかよ、って会社を見はなした方がいい、という考え方をするべきである。どうせそんな会社は20~30年(つまり定年まで)生き延びる会社じゃないかもしれないし、生き残ってもロクな会社の状況にはなっていないだろう。

 私の場合は、とにかく若手というか新入社員にまで企画を出せっていって、面白い企画だったら、多分通してしまい、会社から金を引き出すという、典型的な中小企業たる出版社にいるので、あまりこの会社のことを世間一般の官僚制大企業にまで当てはめるのは無理があるのかもしれないが、まあ、でも一般企業と同じ部分も多少はあるので、セス・ゴーディン氏の言う事もわからないではないのだが、どこか他人の会社っていう部分はある。

 まあ、でも改善計画や、新規事業や、全く新しい事業を考えたら、それを発表して(ブログでもなんでも)、自らのフォロワーを作りましょう、という提案は同意できる。フォロワーを増やすことができるかどうなのかは、それはあなたの才覚です。それがリーダーシップです。

 と、突き放したところで、どうでしょうか。

 勝間氏はそれがうまく成功している例ですね。しかし、その前には成功しなかった死屍累々があるんだということも、理解してくださいね。

 そう簡単には、うまくいかないんだよ。

2012年7月27日 (金)

『常識からはみだす生き方』というより具体的な「ノマドの技術」である

『キーワードは、ずばり「世界征服」。創造力を活かした個人事業、キャリア自立、徹底した目標設定、人とは違った旅』いいね!

『常識からはみだす生き方 ノマドワーカーが贈る「仕事と人生のルール」』(クリス・ギレボー著/中西真雄美訳/講談社/2012年7月10日刊)

 クリス・ギレボー氏のwebサイト"The Art of Non-conformity (従順にしない技術)"にメールを送ったら、早速返って来た返事の中の一節が;Our core message is: You don't have to live your life the way other people expect you to. You can do good things for yourself and for others at the same time.(我々の中心的なメッセージは:他の人の期待するように生きる必要はない。あなたは他の人と同時に自分自身に対していいと思うことがやれる。)というものだった。

 まあ、これはほとんど機械的に返ってくるメールだろうから、もういちど、今度はギレボー氏の本を読んで、書評をブログに書く予定だ(ただし日本語でね)ということを書いて送ったら、またまた返事が返ってきた。

Thanks so much for your kind note! It's great to hear from you, and I'm so glad to know you've enjoyed the book.
It seems we have a number of new Japanese readers who are pursuing their own unconventional path. I wish you well and hope to see you somewhere.
All best,

 という具合にね。さすがにこの素早さ、キメの細かさが人気ブロガーになる理由なのだろう。やはりブログで多くの読者を獲得する基本的な方法は、こうしたキメの細かさによる「この人いい人」イメージなのだろうな。

 もうひとつ、ギレボー氏の本書と、 6月14日のエントリー『ノマドワーカーという生き方』の立花岳志氏との共通点が「ライフプランニング」である。つまり、まず「理想とする完璧な一日」を書き出し、次に「死ぬまでにやっておきたいこと」を書くわけなのだが、そうはいっても「死ぬまで」というのは漠然としているので、その前に、「1年後、5年後、一生」という段階で書き分けるという方法だ。これは、立花氏の「一日、1週、1ヶ月、3ヶ月ごと、1年、5年」というのと同じである。なるほど、そうやって短期的・中期的・長期的な目標を設定しておかないと、ノマドという殆ど自分ひとりで生きていく生活では、たちまち生活が乱れてきてしまって、立ちいかなくなるのだろう。この辺は、そうした目標設定は会社がやってくれて、その中であまり頭を使わずに生きていけるお気楽なサラリーマンとはおおいに違う点である。

 私も「この10月からはノマドだ」なんて偉そうなことを言っているわけなのだが、それを実現するためには、やはりギレボー氏や立花氏のように、きちんと自分を律していかないといけない、ということなのだろうな。

 さらにこのギレボー氏、高校こそ中退なのだが、それから先が凄いことになっていて、地元のコミュニティカレッジ(日本で言う専門学校か短大のようなもの)に進むと、そこで4年制の大学に転入できるだけの単位を修得して大学に転学。大学に転学したあとは、最大限の履修単位を修得し、コミュニティカレッジでも単位を修得、おまけに他の大学の通信制で学ぶなど、2年間で入学した大学、以前から通っていたコミュニティカレッジ、第2のコミュニティカレッジ、通信制の大学ですべての履修単位を修得し、ふたつの大学から学位を受けているのだ。多分、型にはまった高校の授業に飽き足らず、自分で自由に授業を選べる大学の学び方が合っていたんだろう。つまり、学び方もまさにノマド! ということなのだ。その後、西アフリカでボランティア活動をした後、ワシントン大学の大学院に入ったわけだが、それも無試験で入っている。この辺は、ボランティア活動体験なんかを学習として認めるアメリカならではの考え方だ。それを「大学院 VS. ウェブの世界」ということで、費用その他を天秤にかけて、結局ウェブの世界を選ぶところもまさにノマド!

『イノベーションは、起業家や、リスクを受け入れ新しいことに挑戦しようとする人の手によって生まれる。社会正義の改善は、権威に疑問を抱く人々によってもたらされる。「理にかなわない」「実用的でない」というのは、僕には悪いことのように思えない。だからこそ、現状に満足していない人々に別の道を提案しているのだ。“現実の世界”はそこで満足している人たちに任せて、“生きている実感のある世界”にいっしょに入ってみないか。』という提案は、実に素晴らしい提案に思える。

 ただし、その提案を受け入れることは、自分に対して自分で責任を持つということでもある。

 つまり、誰もが自分の「生きた証」(レガシー)は欲しい。しかし、そのためのレガシープロジェクトを実現するためには、常に以下の5つのポイントを検証しなければならない。

・ビジョン――そのプロジェクトのおかげで世界はどう変わるか。
・恩恵を受ける人(ベネフィシャリー)――そのプロジェクトの恩恵を受けるのはどんな人たちか。
・おもな方法。メディア――そのプロジェクトをどうやって実行するか。
・成果(アウトプット)――結果として何が生み出されるか。
・評価基準(メトリクス)――成果の度合いはどんなふうに評価されるか。

 ギレボー氏にはギレボー氏なりのポイントがあって、人それぞれ皆そのポイントは異なるだろう。それでいて、常にそのポイントを自分で検証しなければいけない。それはそれで大変なことだ。

 え? 私? とりあえずブログを書くことと、旅に出ること……かな。

2012年7月26日 (木)

『山賊ダイアリー』は『2』になって、本当の「山賊ダイアリー」になった

 山の猟師の「エッセイ・マンガ」は快調である。

『山賊ダイアリー 2』(岡本健太郎著/イブニングKC/2012年7月23日刊)

 2月2日に書いたブログ「『山賊ダイアリー』が本当の山賊ダイアリーになるのはいつ頃だろう」に続く第2弾が7月に出た。

 第1巻目のときはさんざん酷いことを言った私だが、2巻目になって確実に「猟師」になっている岡本氏を見ると、多分このまま猟師生活を送りながら、(これまでとは逆に)余技としての「マンガ」を描いていくんだろうなこの人は、という感じになってくる。

 ただし、いまだに空気銃しか持っていない岡本氏は、やはりイノシシやシカなどの大物は銃では仕留められなくて、大半は鳥の猟だけで、罠猟と棍棒だけで獲ったイノシシの話が一話だけ出てくる。まあ、しかし罠猟とはいえイノシシを獲ったのであるから、これは猟師としてはすごいことなんだろうな。そして、多分このまま「猟師エッセイ・マンガ」として定着してしまうと、今後、読者のエスカレート要請にどうやって応えていくんだろう、この作者は、という気分になってしまう。

 読者としては、最初の頃の小鳥を空気銃で捕らえていた時期から、だんだんスケールアップしてイノシシやシカやクマなんかも捕らえてほしいと言う風になるのだ。果たして、普通の猟師としての作者がそこまでの読者の要請に応えることは出来るのか? あるいは、それを無視して「普通の猟師のエッセイ・マンガ」として作っていくのか? 

 あ、まあ次は空気銃から散弾銃にアップするという方法論があるのだろう。そこで狩猟範囲が広がるし、更には散弾銃からライフル銃になって、もっと大物をしとげるという話も……、はないだろう。

 要は、やはり岡本氏は「空気銃猟師」であるところが、「エッセイ・マンガ」家としては面白い直だからな。

 というところで、今回も上にあげた罠猟で挙げたイノシシ以外は、これまでと同じような鳥ばっかりの話である。まあ、61話のスズメバチを除けばね、っていうより、スズメバチも猟師の領域なのかよ、というのがちょっと不思議でしたけどね。

2012年7月25日 (水)

『海賊とよばれた男』は、近年にない思わず興奮する小説だ

 むむむ、やっぱり「創業者」ってのは、すごい迫力ある生き方をしてきたんだな、と感じさせる一冊(2分冊だけど)である。

『海賊とよばれた男 上・下』(百田尚樹著/講談社/2012年7月12日刊)

 主人公・国岡鐡造とは出光興産の創業者・出光佐三その人である。明治44年、門司で出光商店(小説では国岡商店)を立ち上げた出光佐三は、その後、数々の苦難を乗り越え、民族系石油会社の雄となるわけだが、まず、その創業時の話が如何にも明治という感じで面白い。国岡鐡造と親しくしていた人物で日田重太郎という人物がいた。この日田は明治時代によくいた(漱石の小説にも出てくるような)、いわるゆる高等遊民という人物で、淡路島の資産家で神戸に移り住んでおり、そこで神戸高商(今の神戸大学)に在学していた鐡造と知り合いになる。

 この日田が『今、ぼくは神戸の家のほかに京都に別宅がある。それを売れば八千円ほどの金になる。そのうちの六千円を国岡はんにあげる』といって、当時、神戸高商を卒業して町の小さな商店に勤めていた鐡造に、ポンと上げてしまうのだ。勿論、鐡造はそれを「融資」として受け止め、その後の国岡紹介の儲けから返していくのだろうけれども、その六千円がなかったら、今の出光興産もなかったわけだから、これはすごいことだったのだろう日田の慧眼が素晴らしかったのか、あるいは大博打が当たったのかどうかは知らないが。

 それで出来た国岡商店(出光興産)もすごい会社で、つい最近まで、「時間による従業員管理なし」「定年なし」「馘首なし」「株式公開なし」ついでに「労働組合なし」という、いわゆる明治の大家族主義経営を行っていたのである(最近、タイムカードとか定年制とか株式上場も行った)。たしかに、こうした社員管理をしないし、馘首なしという会社では労働組合なんかも、なかなかできないだろう。さらに、じゃあ「できない社員」はどうしたかというと、「できるようになるまで勉強させた」というのである。それは、創業期のエピソードとして;

『ある夜、十二時を回り、疲れ果てて寝床に入る鐡造をみて、(妻の:引用者注)ユキが言った。
「そこまですることはなかじゃありませんか」
「ぼくは若か店員たちば家族と思うとる。皆、優秀やけど貧しくて上の学校さ進めんやった子供たちたい。彼らば親御さんから預かったときから、兄であるぼくが彼らば立派な人間にする義務が生まれたとたい」
「でも、鐡造さんのやり方ば見とりますと、時間がかかります。子供たちが間違うたら、考えさせる前に、こうやるとよかと正しいやり方ば教えるほうがずっと早かじゃなかですか」
 ユキは鐡造が、年少の店員たちが自分で答えを導き出すまでずっと付き添い、同じ時間を過ごしていることを言っていた。
「それでは、自分で考える力が付かんたい。自分で工夫して答えば見つけることが大切たい。それでこそ、きっちりとした人間になるち思う。ユキはそげん思わんね」
「思います」
「ぼくの指示ば、ただ待っとるだけの店員にはしとうなか」鐡造は言った。「今の国岡商店は店舗ばひとつしか持っとらんばってんが、いずれいろんなところに支店ば出していきたいち思うとる。彼らはその店主になるわけやけん、大事な商いばいちいち本店に伺いば立てて決めるごたる店主にはしとうなか。自分で正しか決断ができる一国一城の主にしたか」
 ユキは目を細めて、「いつか、そんな日が来るとよかですね」と言った。
「その日が来るとば一緒に見届けてくるるか」
 ユキは力強く頷いた。』

 というのがある。まさにこれは教育者の言葉ですね。

 そして、これこそ創業者じゃないと出来ない態度として、「リスクをとる」という発想がある。関門海峡の門司側で商売をしていた国岡商店は、下関側の漁船に対して「洋上取引」でもって石油を売った。確かに、それは下関側の商圏には乗り入れないでの取引だし、下関側としても隔靴掻痒ではあるけれども、下関側が利権を守るためにそうしたリスクを犯さない商売しかやっていなかったのを見た、鐡造側の勝利である。

 この初期の成功に基づいて、国岡商店は基本的に「リスクをとることで成功していく」という方程式を作り上げたのだ。戦前に国策石油会社の圧力から満州に拠点を置かざるを得なかった国岡商会は、満鉄という国策会社相手に飛び込みセールスをしてみせて成功し、戦後も、他の石油会社が手を染めなかった廃油事業にあえて手を出してみたり、そして、何と言っても「日章丸事件」がその最大のリスクテイクである。

 イギリス海軍と対峙して、まさに拿捕の危険をおかしてのイランとの石油貿易を成功させた部分は、読んでいてもまさに「手に汗を握る」思いがした。セブンシスターズに首根っこを押さえられた他の石油会社では絶対にできないこの取引。下手をすればイギリス海軍によって撃沈されていたかもしれない危険を冒してでも、イランとの取引を成功させたかった国岡鐡造の思いは、当然、他の石油会社が手を出さないからという理由が最大の理由だろう。「イランを助けたい」という鐡造の思いは、まあ、多少割り引くとしても、まさに「挑戦者」ならではリスクテイクであり、そこでリスクを恐れていては、今の出光興産(国岡商店)はなかったのである。

 いまや、「就業規則」も「定年」もあるし、株も公開している出光興産である。この国岡鐡造(出光佐三)の思いはどこまで通用するのであろうか。

 ということで、私はこのノンフィクション・ノベルを敢えて「国岡商店=出光興産」として読んでいます。当然、細かい台詞とか、ストーリーは実際の出光興産の事実とは違うだろう。しかし、敢えてすべてを「事実」として読むことが、ノンフクション・ノベルの楽しみでもあるわけだから。

 ところで、このマルクス主義とはまったく縁がなく生きてきた経営者が書いた『マルクスが日本に生まれていたら』という本があるそうだ。最早、絶版だそうだが、どこかの出版社が再刊しないかな……、読んでみたい。

2012年7月24日 (火)

東京ジャーミィ・トルコ文化センター

 東京にイスラム教のモスクがあることをご存知だろうか。

 この写真がそれで、「東京ジャーミィ・トルコ文化センター」(Tokyo Camii & Turkish Culture Center)というのがその正式名称。小田急線代々木上原のそば、井の頭通りに面した場所にある。住所は渋谷区大山。

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http://www.tokyocamii.org/#giris

 1917年のロシア革命によって、ロシア・カザン州にいたトルコ人イスラム教徒が弾圧を受け、満州に逃れた彼らがその次に逃れたのが日本だったのである。

 そのカザン州のトルコ人が増加する子ども達のために1927年に日本政府に学校設立を申し込み、新大久保にメクテビ・イスラミイェという学校が出来たのが始まり。その後、渋谷区富ヶ谷に移り、1935年に現在地に学校が移り、その隣接地にモスク、東京ジャーミィが出来たのは1938年のことだった。

 カザン州出身のトルコ人は、その後、トルコ共和国籍を認められ、東京トルコ人協会が作られた。現在、この地はモスク建設を条件にトルコ共和国に寄付されている。

 日本とトルコ共和国の関係はすこぶる良好で、今のところなんの紛争も起きていない。ここ、東京ジャーミィ・トルコ文化センターも一般に開放されており、いつでも(日曜祭日を含む10:00~18:00)中に入ることは可能だ。

 ただし、1日6回ある礼拝の時刻に行くときだけは、その邪魔をしないように気をつけなければいけないのと、女性はスカーフをしなければいけない規則になっている。

 その点だけはご注意を……。

 しかし、東京に来た外国人はなぜ「新大久保」なんだろう。あのあたりは百人町という町名の通り、江戸城を守る伊賀百人組鉄砲隊の屋敷があった場所である。そんな場所が何か、外国人をひきつけるオーラがあるのだろうか。その辺は分からない。

EPSON RD1s Elmarit 28mm/F2.8 @Yoyogi Uehara (c)tsunoken

2012年7月23日 (月)

世界報道写真展2012

 ツール・ド・フランスも終わって、少しは早寝ができそうである。

 なんてこととは関係なく、今年も、恵比寿の東京都写真美術館へ『世界報道写真展2012』を見に行く。

World_20122

http://www.asahi.com/event/wpph/

 2011年の世界の報道写真は、124の国と地域から、5247人の応募があり、その中から選ばれた約170点の写真が展示されている。今年で55回目になるこの写真展は、、基本的に朝日新聞社が主催するものなのだが、今年は主催者に立命館大学が加わっており、そのためなのだろう8月5日までの東京都写真美術館での展示、8月7日から8月16日までの大阪・ハービスHALLでの展示の後は、9月19日から10月14日までが京都・立命館大学国際平和ミュージアム、10月16日から11月1日までが滋賀県草津市・立命館大学びわこくさつキャンパス、11月4日から11月18日までが大分県別府市・立命館アジア太平洋大学での展示という具合に、立命館大学での展示が組まれている。

 世界の報道写真ということになれば、やはりエジプトの反ムバラク政権のデモ・暴動や、リビアのカダフィ政権に対する反政府派の運動などの写真が多い。グランプリを取ったのは、イエメンのサヌアの抗議デモで催涙ガスを浴びた息子を抱える母の写真である。それだけ世界中が揺れ動いているわけで、世界には事件が充満しているということなのだ。

 日本が題材となっているのは、当然、東日本大震災からみの写真であり、日本人をはじめ7人のフォトグラファーが大震災を取り上げている。そのうちいくつかは、新聞や雑誌で見たことのある写真だ。

 私が気になった写真は南アフリカのブレント・スタートンが撮った「アジアの新興国で角の需要が高まり、密漁されるサイ」や、イギリスのポール・ヒルトンが撮った「世界中でビッグビジネスとなるヒレを目当てにしたサメの捕獲」という動物達の写真だった。つまり、いまやそれだけアジア新興国にも富裕層が増えたということなのだろう。サイの方の写真ではサイの角を乳鉢で擂っているベトナム人の女性の写真が写っているし、サメのヒレというのはフカヒレ・スープなんかの中国の高級料理だ。まあ、飽くことを知らない人間の欲求というのは、それを嘆いていても仕方のないことだろう。

 少し面白いのは、中国のホイミン・クアンが撮った「中国で今でも人気のある、毛沢東を描いたアート作品」で、いまや文化大革命で悪名高い毛沢東が、しかし民衆の間では今でも人気があり、肖像画を壁に飾ったり、銅像を安置するということが、かなり流行っているというのだ。毛沢東の出身地である湖南省湘漳県で人気があることは分かるが、それ以外の地域においてもまだまだ人気があるというのは、結局、開放政策によって登場した「貧富の差」に対する批判が特に貧困層にはあり、それが「平等主義」を掲げる毛沢東主義への回帰現象があるということなのだろう。特に、文化大革命が特権階級やインテリ層を徹底して批判した点などに対する評価が高くあるのではないだろうか。まあ、それが偶像崇拝につながる点がいかにも中国、という感じがしないでもないが。

 ともあれ、動画に追いやられているように見える報道写真のようであるが、いやいや、まだまだそれなりの力はあるのだ。こうした報道写真展を見ると尚更その気持ちが強まる。

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2012年7月22日 (日)

『ぱいかじ南海作戦』は一種の麻薬か?

 南の離れ島、海辺のキャンプ、焚き火、ビールの大宴会、といえばまさしく椎名誠ワールドの大開陳なわけだ。

『ぱいかじ南海作戦』(監督・脚本:細川徹/出演:阿部サダヲ・永山絢斗・貫知谷しほり・佐々木希/制作:アルケミー・プロダクションズ/2012年7月14日公開)

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http://paikaji-movie.com/

 しかし、考えてみればテントを張ったキャンプ生活というのは、ホームレスの生活とそんなに変わらない生活なんだなということである。テントのかわりにブルーシートがあるというだけで、実際にはそんなに変わりはない。問題は、キャンプの場合は、いつでも、その気になれば、元の生活に戻れるということ。ホームレスの場合は最早そこが最終舞台というか、まあ最終ではないかもしれないけれども、本人の考え方次第では最終生活ということになる。問題は、生活する際の工夫の問題である。それだけで考えてしまうと、その二つの間には、あまり変化はないようだ。

 原作と映画の間では一つだけ違う点があって、それは原作では主人公・佐々木しかし自称・宮本武士、宮のおっちゃんの持ち物総てを盗んでしまった“海浜野宿窃盗団”のメンバーがマンボさん、ヨシオ、メリヤスの上下を着た老人、インテリっぽい戸塚、ヤク中のギタさんという5人から、戸塚がいなくなった4人組になった程度で、あまり登場価値のない戸塚を削ったんだろうなと言う程度の判断。

 問題はそんな“海浜野宿窃盗団”に身ぐるみはがれた本名・佐々木・自称、宮のおっちゃんが、自分も自ら“海浜野宿窃盗団”になろうと志すのだが、結局そうはなれずにオッコチくんやアパ、ミキという女性を含んだ4人組の“ホームレス軍団(実はお金はある)”のリーダーにいつの間にかなってしまうという面白さなのだ。

 つまり、こうした南の島のホームレス生活が、皆を幸せにはしないかもしれないけれども、明日を考えなくてもいいような生活を実現するかも知れない、ということなのだ。これが、キャンプのいいところかもしれない。やっていることはほとんどホームレスと同じかも知れない。しかし、いつでも「普通の生活」に戻れる状況のなかでの、一時的なホームレス生活。それはそれで楽しいかも知れない。というか、そうしたワイルドな生活が好きな人にはね……、ということなのだが。

 こうした生活は一方では理想なのかも知れないが、他方ではそうも行かないのではないか、という気になる。だって、携帯電話が「圏外」になることは私的には何の問題もないのだが、だとするとパソコンもWi FiやWi Maxも「圏外」でしょ。それは困るのコトですよ。

 いまや、生活の基盤になっているインターネットなのだな。それがないと生活が出来ないとまで思ってしまっている、私たち。あ、でも考えてみれば今から20年も前まではブログもTwitterもFacebookもない世界に、我々はいたんだ。と、考えてみればそんなものがなくても生活するには何の問題もないはずなのだ。

 じゃあ、そんな生活を送ってみようかと考える人が出てきそうである。皆で南の島にでもいってみましょうかね、っていう気分にさせてしまうのが「ヤバイ」というのが、この作品の面白さなのかもしれない。

 そう言ってみれば、麻薬的な魅力を持った映画なのだ。

2012年7月21日 (土)

今日は一日お休みします

 どうもいろいろありまして、昨日は予定外の来訪者があったりして、ブログを書くことができませんでした。

 ネタはいっぱいあるんでけれどもね。ということで残念ながら本日の更新はありません。

2012年7月20日 (金)

『文明漂論』はいいけれどもね

 IIJの社長、鈴木幸一氏が日経オンラインに書いてきた「経営者ブログ」をまとめた本である。先日のサキコーポレーションの秋山咲恵氏のセミナーに行った際に日経新聞から配られた本である。ありがたく拝読。ったって、それ以上のお金を普段払っているんですけれどもね。

『鈴木幸一の文明漂論』(鈴木幸一著/日本経済新聞社/2011年12月12日刊)

 気になるのは鈴木幸一氏の年齢である。1946年生まれであるので、もう60代後半、それでもなおIIJの社長をやっているのである。コンピュータというかネットの世界では60を過ぎたら最早使い物にならない敗残物である。ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズですら1955年生まれ、孫正義氏が1957年生まれで最早年寄り扱いだし、三木谷浩史氏が1965年、堀江貴文氏に至っては1972年生まれという世界では、1946年生まれというのは、いかにも「年寄り」と言うしかないのだが……。

 会社の名前がすごい。なにしろ「インターネット・イニシアティブ・ジャパン」なのである。いまや、ウェブとかネットとか言うのが普通になった時代に「インターネット」であるし、おまけにそこで「イニシアティブ」をとろうと言うのであるのだから、それこそ会社を興したときの意気込みたるやすごかったんだろうな。

 それにしても、面白いのはいま流行の、特にIT系では当たり前のCEOなんて言い方はせずに「社長」である。そう「最高執行責任者」なんてわけの分からないことは言わずに「社長」である。CEOであれば、余計なことを言わずに会社の経営だけを考えろよと言うところなんだけれども、「社長」であるから、いろいろ社会・政治のことなんかや、自ら開催している「東京・春・音楽祭」のことなんかを書いてもいいのだ。

 インターネット・イニシアティブ(正式社名には「ジャパン」は入っていない)が事業を開始したのは1993年だが、実際にインターネット・サービスを開始したISP(インターネット・サービス・プロバイダ)として商用スタートしたのは1994年である。1994年と言えば私がニフティ・サーブと契約した頃かも知れない。まだパソコン通信しか知らなかった頃に、既にインターネットという武器を手に入れていた鈴木氏は突っ走るのでありました。IIJという名前は知っていたし、ISPということも多少は知っていたとはいえ、それがここまで大きなビジネスになるということまでは予見できなかった私はダメ人間なのでしょう。

 で、結局はニフティのブログを書いているわけなのだけれども、まあいいじゃないか。鈴木幸一氏だって最早じじいである。とりあえず今の会社を維持することは重要だけれども、今後のことを考えるとそろそろ次世代に経営を任せたほうがいいのではないかとも思うのだ。

 

2012年7月19日 (木)

問題は『みんな不妊に悩んでる』という問題じゃないんだよな

『東洋経済』7月21日号のカバー・ストーリーは『みんな不妊に悩んでる』である。勿論『東洋経済』だから、基本的には不妊クリニックとか、不妊治療にいくらかかるかとか、不妊ビジネスの方向に話は行くわけなのだが……。

 一般に、2年以上避妊なしで性交しても妊娠しない場合に不妊症と診断されるそうだが。

『どの国でも、不妊症を抱えるカップルが、10~15%の割合で存在するといわれる。ただし、日本の場合、“晩婚化”と“晩産化”が不妊を深刻化させている。2011年には、女性の平均初婚年齢が29.0歳まで上昇。新生児の約6割は、30代のママから生まれているのだ。』

 ということである。

 当然それには女性の社会への進出と、あるいは進出せざるを得ない社会状況というものがあるわけである。

 ポジティブな面から見ると、女性の社会への進出はいいことである。女性の仕事に対する姿勢や能力はきわめて高く、男のグータラ・サラリーマンよりはよっぽど高く評価されるべきである。国連難民高等弁務官を務めていた緒方貞子さんから、マッキンゼーを経て経済評論家になった勝間和代さんまで、日本には優秀な女性が数多くいる。

 しかし、同時に、今、若い女性がそうしたキャリアウーマンを目指すということになると、大学あるいは大学院を出て30歳になるくらいまでは、まあ独身ですごすということになってしまうだろう。それは、男が大学あるいは大学院を出て30歳になるくらいまでは、それまでに結婚を決めていなければ大体独身ですごすのと、同じ理由によるものだ。要は、まだまだ下積みで修業期間であるということで。

 とすると、それから恋愛期間を過ぎて結婚ということになると、いやでも30歳代後半かオーバー・フォーティーになってしまうだろう。ところが、この一番大事な時期、つまり25歳~35歳までが出産の適齢期という人間の基本的な人生を踏み外してしまうことになる、というのがネガティブな面。

 まあ、男は精子さえ作る能力があれば60歳でも70歳でも子作りが出来るが、女はそうはいかない。なにしろ、自らの胎内で10ヶ月余りも子供を育て、更には出産というとてつもなく体力を必要とされる作業が最後には来るのだ。勿論、その後の子育ては夫と妻の共同作業になるのだろうが、実はこれも親達の年齢の若さが必要な仕事なのである。だって、子どもの運動会などで、やっぱり大活躍して子どもにいい顔したいでしょう、お父さん。

 ということになると、問題は具体化してくる。要は「結婚していようがいまいが、女性が25歳から35歳までの間に初産できるような社会を作る」ということでしかない。

 つまり、徹底した個人主義の国、フランスやスウェーデンのように婚外子に対する社会的な偏見をなくすと同時に、法的にも婚外子と嫡出子との間の法的な差別をなくすことである。更に、婚外子で子どもを作ったお母さんたちが仕事を「普通に」こなせるための、保育施設などの充実も必要だろう。

 ちなみに、世界各国の婚外子状況をみれば、アイスランド63.6%、スウェーデン56%、ノルウェー50%、デンマーク44%、イギリス43%、アメリカ33%、オランダ31%、イタリア10%とまあ、カトリックの国イタリア、フランスが、プロテスタントの北欧・イギリスに比較して婚外子が少ないのは分かるが、でもそれと比べてみても日本の1.93%って、すごく低いとしか言えないのではないか。(Wikipediaより)

 勿論、婚外子は少ないほうがいいのかもしれない。やっぱり、子どもには両親があったほうがいいし、必要なときもある。しかし、男と女がヤッチャえば子どもができる可能性はあるのだ。と言うより、それが若い女と男であればあるほど、子どものできる可能性は高い。

 だとしたら、やはり婚外子に対する法的な差別からなくすことでしかない。それがあれば「出来ちゃった婚」なんてくだらないものはなくなるのである。

 男と女は好きなときにセックスして、子どもが出来たらそこで結婚するか、どうするか決めればいいのである。別に結婚しなくても大丈夫っていう社会的バックボーンがあれば、女性も自由な生き方を選択できる。

 問題は、社会的な方法論と、法的な方法論でなんとかなるのではないか。あとは、私たちの考え方で、婚外子と嫡出子を差別しないことだ。

 結局、人間の男と女も所詮「動物」なんだよな。だからサカリがつけば性交をしたがるわけだ。しかしその結果、子どもができたときに「社会化」するわけだ。ここが、動物と違うところ。

 まあ、だからその生まれた子どもを社会全体で育てるという環境を作るというのは、言わば、昔の村で行われていた、村全体の子ども(だって、夜這いで出来た子なんですぜ)という考え方で出来るはずである。

 特に、侍ではない、百姓社会の日本ではね。

2012年7月18日 (水)

『ツイッターを持った橋下徹は小泉純一郎を超える』と持ち上げる前に、もっと他の人を探そうよ

 確かに、今や橋下氏と大阪維新の会の躍進は凄いものがある。だからと言って、そこにばかり期待するのは、もっとも危険な罠である。

『ツイッターを持った橋下徹は小泉純一郎を超える』(真柄昭宏著/講談社/2012年7月2日刊)

『2015年の日本――。

【第一シナリオ】(分権派・成長派の勝利シナリオ)
 2013年までの衆・参両院議員選挙で、分権派・成長派が勝利。多くの新人議員が与党を構成し、新政権は閣僚の半数近くを元経済産業省の古賀茂明や元財務相の高橋洋一のような非議員実務家が占め、「テクノクラート(高度な知識により政策立案に参画し実務に関与する専門家)内閣」と呼ばれている。その多くは大阪市特別顧問経験者だ。
 彼らを支える政治任用スタッフも、大挙して政権に参画し、情報公開の対象となる深夜のメールのやりとりで政策が形成される。
 改正日銀法に基づく新総裁と首相の協定に基づき、物価上昇率は2%近傍、円相場は1ドル=100~130円に。政府は20年続いたデフレからの脱却を宣言。国民の関心事は道州制基本法に基づく道州制会議がどのような道州制を描くかになっている。

【第二シナリオ】(中央集権派・デフレ増税派の勝利シナリオ)
 2013年までの衆・参両院議員選挙で中央集権派・デフレ増税派が勝利。2014年に増税が実施され、翌2015年には、消費減退から景気が悪化し、再びデフレが深刻化。国民の関心事は、1ドル=60年台になれば日本から製造業が消えるのではないかという点に。
 労組はデフレ・円高支持派とデフレ・円高反対派に分裂――。
 中央から分配する財源が枯渇し、地方の疲弊が進む。政府・与党は、景気対策で財政赤字をさらに悪化させたうえで、税率10%への引き上げを予定通り行わないと国債が暴落するとのキャンペーンを開始。増税と円高・デフレの悪循環の先に来る財政破綻のシミュレーションが話題となる。

 第二シナリオに沿って首相になりそうな政治家は数多くいる。
 ところが、第一シナリオに沿って首相になりそうな政治家は数少ない。その数少ない政治家の一人が橋下徹・大阪市長である。

 2012年6月2・3日に実施した「毎日新聞」の世論調査では、橋下徹大阪市長が率いる「大阪維新の会」の国政進出に期待する人が61%、「仮に今、衆院選が行われ『大阪維新の会』が候補者を立てた場合、比例代表でどの政党に投票しますか」との問に対して、「大阪維新の会」と回答した人は28%にのぼった(自民党16%、民主党14%)。

 橋下徹が既成勢力にとって大きな脅威となった。』(「はじめに」より)

 と、新自由クラブ政策スタッフ、自由民主党国会議員政策集団研究スタッフ、竹中平蔵経済財政担当大臣政務秘書官、参議院議員竹中平蔵政策担当秘書、自民党政務調査会長特別秘書、自民党幹事長特別秘書、衆議院議員中川秀直政策担当秘書と、一貫して政府・与党の改革派に帯同する政治任用スタッフの道を(官僚とは違う立場で)歩んできた真柄明宏氏は、橋下徹大阪市長と大阪維新の会に期待すること大だ。

 しかし、今からそんなに期待するのは時期尚早というものだろう。橋下氏はまだ国政の経験もないし、大阪維新の会だってまだまだ地方政党にすぎず、今すぐ衆議院選挙と行ったとして、大阪維新の会が関西で大躍進することは既に見えているとはいえ、国政のなかでそのような地方政党がどこまで力を発揮できるかどうかは未知数である。

 勿論、大阪維新の会が、そのほかの新党大地などの地方政党や弱小党と連携を結んで、キャスティングボートを握る可能性は否定しない。しかし、それはあくまでもキャスティングボートを握るまでのことであって、国政でメジャーになるということではない。

 橋下氏が堺屋太一氏や古賀茂明氏などに大阪市特別顧問を要請し、その人たちが大阪市・大阪府の官僚の頭越しに政策を立案している状況は、確かに小泉純一郎が郵政民営化や公務員改革を行ってきたのと同じような「官僚に頼らない」姿勢として、おおいに期待させるものはある。実際に、数々の改革をこれから行って、大阪市・大阪府を生き返らせることができるかもしれない。まあ、そのための最終的には大阪「都」なんだろうけれども、ともかく取り敢えずは、橋下氏にとってはまず「大阪」である。大阪維新の会から国政に進出することはあっても、それは大阪都構想を実現するための法改正が第一目的であって、国政改革はその次の課題であるに違いない。じゃないと橋下氏の公約が果たせないのである。

 それでなくとも、関西電力の大飯原電稼働にあれだけ反対していたのに、突然賛成に回るような得体の知れなさをもった橋下氏である。消費増税だっていつの間にか賛成に回っているのだ(もっとも、これは野田首相を褒め殺しにする目的だ、という説もあるが)。何故か、ツイッターで本音を呟いているようなそぶりを見せる割には、なかなか本音を見せないしたたかな政治姿勢を見せている。

 最初に引用した「第一のシナリオ」「第二のシナリオ」は、まさしくその通りであるかもしれないが、かといって第一のシナリオを実施できる政治家として橋下氏をまず第一に上げるのは時期尚早である。むしろ、真柄氏としては現在国政にある人間で、一緒に政策を実現できそうな人を探すべきである。今の自民党や民主党のなかにも意識を同じくする人がいるだろう。そうした人を探しつつ、それらの人と一緒に国政改革を行って欲しいものだ。

 橋下氏に目を付けるのは、それからでも遅くはない。

2012年7月17日 (火)

『苦役列車』の原作の鬱陶しさ、映画の清清しさ。どっちを見りゃいいんだ?

 原作は鬱陶しいだけの青春人足小説(そんなのがあるのか?)だが、原作にないたった一人の登場人物を一人加えるだけで、映画はいわゆるよくある「ほろ苦い青春ドラマ」になるのであった。

『苦役列車』(監督:山下敦弘/脚本:いまおかしんじ/原作:西村賢太/製作:東映東京撮影所/2012年7月12日公開)

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http://www.kueki.jp/index.html

 原作の北町貫多(森山未來)は、なんか中卒であることを、時にはコンプレックスを露に、そして時には変なプライドを持って考えている、如何にも「中二病」な奴である。貫多と付き合う日下部正二(高良健吾)は、貫多からみれば「ごく普通の専門学校生」。この二人の港湾日雇い労働者が殆どの出演者である。貫多が昔付き合っていた熊井寿美代も、貫多が想像の中で犯す、正二の彼女・鵜沢美奈子も、結局は作品の中で貫多とは直接の関係のない女たちなのだ。

 で、そこで貫多が憧れ、次に「友だち」になる、古書店のアルバイター、法政大学に通う苦学生(って古いなあ)桜井康子(前田敦子)という実態としての「女」を映画では登場させるのである。ところが、この康子の存在が、本来は鬱陶しいだけの原作世界を、なんか先のありそうな「青春ドラマ」に変質させてしまったのである。

「友ナシ、金ナシ、女ナシ。この愛すべきろくでナシ」という映画の惹句は、本来原作小説の惹句であるはずなんだけれども、映画ではセックスさえさせてもらえなかったけれども、「友だち」としての康子が貫多にはいたじゃないか。最後に、セックスをさせてもらおうとして、「もうおしまいね」とシッカりフられる貫多ではあるけれども、しかし、フられた結果として、そこには港湾日雇い労働者である日常とは決別しようという貫多の心意気が出てくるのではないか?

 本来、それは原作にはない心意気である。原作のラストシーンは『最早誰も相手にせず、また誰からも相手にされず、その頃知った私小説家、藤澤錆造の作品コピーを常に作業ズボンの尻ポケットにしのばせた、確たる将来の目標もない、相も変わらずの人足であった』と終わるのであるが、映画のラストシーンは、何故か街場でしなくてもいい喧嘩をして身ぐるみはがれた貫多が何故か空から降ってきて、自室に戻るとやおら紙と鉛筆を持ち出して小説を書き始めるのである。

 しかし、それはもしかすると「私小説」に対する裏切りではないのだろうか。

 原作小説の主人公・貫多は西村賢太氏自身であることは、西村氏自身が認めているところでもあるし、「北町貫多=西村賢太」として描くことは、西村氏自身が認めていることであるわけなので、べつに「原作者→映画製作者」の間のやり取りとしては、何の問題があるわけではないが、しかし、それは「原作」に対する裏切りではないのだろうか?

 勿論、原作に書かれていないことを映画の脚本に書くことには何の問題もない。しかし、本来は原作私小説を書いた人の姿を、原作にもないのに、映画で描くっていうのはどうしたもんだろうか。おまけに、その結果、原作の魅力である「鬱陶しさ」がなくなって、「前向きな青春ドラマ」になってしまっては、原作の鬱陶しさを楽しんでいた読者には、少なくとも裏切りである。まあ、もっとも映画しか見ない人には、原作にある鬱陶しいだけの話よりは、少しは前向きのお話になったほうが読後感があるのでいいのかもしれない。

 まあ、鬱陶しいだけの原作の世界観を楽しむのか、少しは前向きな「青春ドラマ」を楽しむのかは、読者(観客)の好きずきであるから、そのどちらを楽しんでも良い。当然、原作から映画へと移り変わる行程は決してリニアであるわけはないのだから、原作が映画化されることでいくら変質しても良いのだ。

 ただ、その変質の仕方が「原作への裏切り」になる、ということを言いたかっただけ。

 最後に、原作でも映画でも一番決め手になる台詞。まさしく、貫多の中二病ぶりを明かす大事な台詞を紹介する。

『出たぜ。田舎者は本当に、ムヤミと世田谷に住みたがるよな。まったく、てめえらカッペは東京に出りゃ杉並か世田谷に住もうとする習性があるようだが、それは一体なぜだい? おめえらは、その辺が都会暮らしの基本ステイタスぐれえに思ってるのか? それもおめえらが好む、芋臭せえニューアカ、サブカル志向の一つの特徴なのか? そんな考えが、てめえら田舎者の証だってことに気がつかねえのかい? それで何か新しいことでもやってるつもりなのか? 何が、下北、だよ。だからぼくら生粋の江戸っ子は、あの辺を白眼視して絶対に住もうとは思わないんだけどね』

 まあ、これが江戸川区の外れ浦安に近いところで生まれ、その後原木中山、町田と移り住んだ奴のいうことである。

 何が「江戸っ子」だ、バカヤロ。

2012年7月16日 (月)

開成が強い! のか、國學院が弱い! のか

 昨日の神宮第二球場、第一試合は開成高校対國學院高校という、強いのかな? 弱いのかな? というのがよくわからないチームの試合。まあ、両チームともピッチャーがイマイチなのだから、まあ、強いチームとは言えないな。

 開成お得意の「運動会ノリ」な応援団だ。2012_07_15_001_2

 開成の「売り」はバッティング。青木監督の独特のバッティング理論があるが、問題は守備力である。まあ、確かに狭い校庭でしか練習していないので、守備練習なんかはあまりやっていないようで、とにかく「打つ」ことのみに集中するのである。確かに、打撃力はたいしたものだ。打撃力だけなら上位校とあまり変わらない。
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 で、打つには打つのだが、その後が続かない。走塁で失敗したりして、せっかくのランナーを随分ツブしている。で、8回裏までで4対3で國學院がリード。

 それが、9回表で開成が1アウトから固め打ちが始まり、5対4と逆転。

 逆転のランナーがホームイン!
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 逆転殊勲打の八木翔太郎君。本日2二塁打の大活躍。
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 喜びの開成ナイン。次は17日の日大一高戦だ。まあ、そろそろ……かな。
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Nikon D7000 AF-S Nikkor 70-300mm (c)tsunoken

2012年7月15日 (日)

『オレの宇宙はまだまだ遠い』はまだまだ感動からは遠い

 人気コミック『宇宙兄弟』のコラボレーション・マンガである。

 書店員、吉田新二の日常を淡々と追ったマンガなのである。しかし、どうも私はこうした「エッセイ風マンガ」というか、「日常のなんでもない日を淡々と語る」風のマンガには、なんか違和感を覚えるのである。

 同じエッセイ風のマンガでも、西原理恵子氏のマンガとか、ヤマザキマリ氏の作品とか、まあ(ほんのちょっとですが)破天荒な展開があるほうが「マンガ」かなというイメージがあるので、こうした「何にもない日常」を描いた作品って、ちょっと不得意ではある。

『オレの宇宙はまだまだ遠い』(益田ミリ著/講談社/2012年7月23日刊)

 主人公は;
名前:土田新二
年齢:32歳
出身:山形県
独身・既婚:独身
ニックネーム:土田
書店員歴:10年
彼女いない歴:6年
影:薄いほう
結婚願望:けっこう、ある
「いい人」とよく言われる

 というひと。

 つまり、田舎から東京の大学を出て、そのまま東京に居たいがために東京の書店に勤めてはや10年というところなんだろう。多分、本好きのようだから、本当は出版社に勤めたかっんだが入れず、結局、本屋さんの店員になっているわけだ。

 その日常は、帯にも書かれている通り『こんなはずじゃなかった、でもなくこんなもんだろう、でもないオレの人生。書店員・土田くんの人生にあったかな未来はあるか!?』というとおり、実はそんな人生を男は(女も?)送っているのである。「オレの人生はこういうもんだ!」と堂々と言える人は、本人の勘違いを除けば、ほとんどいないのが人生ってものだ。

 だとしたら、そうやって「普通の」人生を「普通に」送って、「普通に」生きて行くというのが、やはり「普通の」男の(女の)人生ってもなのなのかなあ、なんて考えてしまうと、それじゃあホンにできるような人生は送れないじゃないかよ、ということを言われそうだが、基本的にはみんなの人生は、そんなもんだ。とくに、物書きの人生なんかは「平凡」を絵に描いたようなもので、しかし、そんな平凡な人生を送りながら、非凡なストーリーを考えることが出来るのが、ライターなのである。

 そう、人生なんてものは「平凡」の積み重ねに過ぎない。本来はね。

 でも、そんな平凡な人生であっても、非凡な人生を「考え出すことは」可能なのだ。ということを、考える必要はあるだろう。だって、他人を感度させるのは、そんな非凡な体験・人生なのだから。

2012年7月14日 (土)

『職業としてのAV女優』もいいけど、AV業界の今後も書いて欲しかったな

 なあるほど、いまやスカウトに騙されてとか、かつての売春婦みたいにそれしか出来ることはないとか、苦界に堕ちるというイメージ(古っ!)ではないのだな、今のAV嬢の世界は。

『職業としてのAV女優』(中村淳彦著/幻冬舎新書/2012年5月30日刊)

 なにしろ『学生、主婦、公務員、フリーター、あらゆる社会的地位にある女性がインターネット画面に浮く「モデル募集」の求人広告に応募をし、街中での「AV女優になってみない?」という誘いに頷き、深く悩むことなく、その場の勢いや好奇心といった、ほんの少しの心の揺れでカメラの前で裸になり、セックスをしている。派手な遊び好きの女性かといえば、まったくそんなことはなく、現在は誰がAV女優をしていても不思議ではない。仕事の内容はカメラの前で性行為をすることであっても、AV女優になるまでの男性の経験人数が1人か2人という女性はざらである。女性たちは決して怯えるわけでもなく、「一日でも長く続けたい」と意気揚々とAV女優生活を送っている』というのである。

 なるほど、いまやウェブのおかげで、昔みたいに街角でスカウトマンから声をかけられてAV女優になるのではなくて、自らAVだと分かって応募してくるのである。とは言うものの、彼女らが所属する「モデルプロダクション」のサイトを見てみると、いろいろのモデルの職種が書かれていて、AVはそのいろいろの職種のホンの一部分みたいな書き方をしている。実際には、「この娘はAVでいける」となったら、マネージャーが必死になって口説いてAV女優にしちゃうんだと思うけれども、でも自分からAVもあるプロダクションだということは分かっていて応募してきた以上は、そんなことも想定内なのではあると思うが。

 ということで、AV女優の応募者が多くなれば、当然そこは需要と供給の関係論から、だんだんギャラは安くはなるわな。というかそうでなくてもAV業界は不況なのだそうだ。確かに、いまやネットでは、アメリカあたりにサーバーを置いたカリビアンコムみたいな「無修正動画」が溢れていて、AVみたいな「ぼかし」なんかが入った画像は、まず若いもんは見ないということ。つまり、いまどきAVなんかを見るのは、よっぽどそのAV女優が好きなオタクか、あとはパソコン嫌いののオヤジくらいのものだ。

 AV女優には「単体」「企画単体」「企画」というヒエラルキーがあるそうで、一番上の「単体」というのはAVアイドルなんかの世界らしい。つまり、彼女らにはAVオタクのファンがついていて、出てるのがAVということだけで、ほとんどグラビア&ビデオ・アイドルの世界に近いらしい。となると、当然そのSEX演技は「擬似」という、本番SEXはしないで「したふり」だけの演技になるそうだ。当然それは「ぼかし」があるから許される演技であるわけで、「無修正動画」では総てが無修正で写ってしまうのだから、「擬似」というのは有り得ないことになる。

 どちらがいいのかどうかは、それこそ「趣味の問題」ではあるが、問題は女優の質の問題であるだろう。「修正済み」か「無修正」かじゃなくて、質の高い女優(美人、スタイルが良い、ヨガリ声がいい、などなど?)が出るのであれば、基本的に「無修正動画」の方にAVファンは行ってしまうのではないだろうか。

 だとすると、ますますAV(ビデオ&DVD)は苦境に陥るわけだよなあ。といって、たとえば紙の本と電子書籍の問題みたいに、なんとかしなきゃあなんて周辺の気分にもならないし、業界もそんなことを考えるような業界でもないだろう。結局、新しいメディアに慣れるしかないんじゃないの、ということしか言いようはない。そう、皆して情弱やめようね、って。

 中村氏はそんな時代の変遷のなかで、AVが「作品」ではなく「商品」になってしまった。レンタルAV全盛時代は、あまり客のことは考えずに監督がけっこう勝手に作っていたのが、セル中心になってからは、「ユーザーにズリネタを提供できるかの“商品”という意識が徹底されている」ということになってしまって、結果、AVからでて映画監督になるような人がいなくなった、ということを書いている。勿論、クリエイターの世界であるから、その目指すものが何処にあるかというのは人によって違うわけで、ある人は「映画監督」であったり、「女衒」であったり、AVプロダクションの社長だったりでいいわけである。したがって、AVから映画監督になるやつが出なくても、なんら悲しむことではない。それは、AV監督ひとりひとりの志向性の問題にすぎないのだから。映画の助監督の世界だって、いずれは監督にと考えている人もいるが、いやいや俺は一生助監督でいい、というか優秀な(ファースト)助監督は監督以上に業界から必要とされている、ということもあるのだ。

 映画のヒエラルキーの中でも監督がトップじゃないし、プロデューサーがトップじゃないし、脚本家がトップでもない。それぞれが「自分がトップだ」と考えて仕事をしているんじゃないかという部分と、お互い相手の失策を突いてアドバンテージを奪おうとしているからこそ、映画の世界が活性化しているのであって、その結果として面白い映画が出来れば業界的にはOKというものである。AV業界ってのは、そういう風には動かないのだろうかというのが気にはなる。つまり、終わりなき下克上の世界である。そうした、終わりなき下克上の世界が普通に存在しているのであれば、AV業界だって、メディアをパッケージからネットに移して生き残れるのではないかと考えられるが、そうじゃなければ、最早その世界は終わり(?)ということになる。

 まあ、しかし売春がこの世からなくなる事はないだろう、というのと同じような意味でAV(と言う名前が残るかどうかは別として)はなくならないだろ。要は、「男のスケベ心」がなくならない以上はね。で、そこで絶対必要なのが、見てくれがカワイイ女の子だろう。

 なので、できればそこで働いている女の子たちが不幸せにならない方法を、皆で考えるべきだ。

 というのが、私の結論。

2012年7月13日 (金)

『ダース・ベイダーとルーク(4才)』は有り得ない話を書いているのだが……

 ダース・ベイダーとルークと言えば、『帝国の逆襲』(エピソード5なのかなあ、実は2作目)での有名な台詞"You are my son."で思わず椅子からズッコケたのだった。それはないよなということで、実はそれは作劇上のタブーなはずなのである。だって、伏線も何にもないじゃないかよ。

『ダース・ヴェイダーとルーク(4才)』(ジェフリー・ブラウン作/富永晶子訳/辰巳出版/2012年6月1日刊)

 で、この絵本はそのダース・ベイダー=アナキン・スカイウォーカーが、ちゃんと息子のルークを育てていたらどうなった、というお話なのである。ルーカスフィルム公認だそうだから、別にそんなサイドストーリーがあってもいいよということなんだろう。まあ、ギャグですけれどもね。

 まずはいつものプロローグ(というところが、まさにギャグ);

Long Long ago, and Far Far away

遠い昔、はるか銀河の彼方で……

エピソード3.5:
ダース・ヴェイダーとルーク(4才)
シスの暗黒卿ダース・ヴェーダーは、
反乱同盟軍の英雄たちと戦う
べく、銀河帝国軍を率いる。
だが、そのまえに、まずは4才の
息子、ルーク・スカイウォーカーと
遊んであげる必要がある……

 という本書は、しかし、随分家庭的なダース・ヴェイダーの姿がみられるのである。まあ、こんなことは有り得ないがね。

 ダース・ベイダーの妻、アミダラに嫌われた彼はルークを自らの元に引き入れようとするが、生まれたときから父・アナキンの姿を見ないまま育てられたルークは父を拒否。というような、父子譚が実は『スターウォーズ』のバックボーンだったということを知ったときは(しかし、それは随分後の前のストーリーでなのだ)、かなりショックだった。だって、そんな父子譚じゃなくて、もっと大きな銀河のお話だと思っていたんだからね。そう私が『レンズマン』のTVアニメシリーズ(って、オリジナル『レンズマン』とは何の関係もない偽物ですが)に関わっていたからという関係もあるんだけれども、そのオリジナル『レンズマン』を一部パクッて作った『スターウォーズ』であるのだから、もっと大きな銀河系の歴史があるのだと思っていたのである。もっとも、レンズマン・シリーズも父子譚的な部分はあります。ただし、父親殺しじゃないけれども。

 勿論、6月13日のブログ「『映画は父を殺すためにある』だけじゃない、すべての若者は父親を殺すために存在するのだ」にも書いたとおり『スターウォーズ』は父親殺しの系譜の映画である。しかし、この一大スペース・オペラが、アメリカ映画でよくある「父子譚」になってしまったというのは、本来、ジョージ・ルーカスが予想していたものではないのではないだろうか、というのが私の想像なのだ。つまりダース・ヴェイダーの台詞"You are my son."は、多分ルーカスのそのときの思いつきに過ぎなかったんだろうと考えている。

 つまり、まだ当たるかどうか全くわからない状態で出した第1作目(エピソード4になるのだろうか)が大当たりしたおかげで2作目が出来たわけだが、その2作目で伏線も何もないままルークの父親殺しを描いたルーカスは、多分、その点で批判を浴びたのではないだろうか。ということなので、その後に4作目を作るときに、普通はシークエル(sequel:続編)を次々に出していくはずなんだけれども、ここは汚名を返上しなければということでプリクエル(prequel:前編)を出したわけだ。いやいや、ほらちゃん伏線張ってるでしょ、ということで。

 エピソード1から3における緊張感のなさは、そんな理由からルーカスとしては作りたくなかったんだけれども、作らざるを得ないという状況から推し量ることが出来るのである。つまり、あんまりノッてないのね。で、結局、エピソード1から3は、その映像テクノロジーはスゴイことになっているんだけれども、シナリオに現れる映画の思想はてんで低下したものになってしまった。

 最初、9つのエピソードからなると言っていた「スターウォーズ・サーガ」も結局6つのエピソードだけをアリバイ的に作っただけで終わってしまった。もともと、テクノロジー・オタクのジョージ・ルーカスであり、ルーカス・スタジオやILMなんかの技術装置は作ったものの、映画作りの現場はあまり得意ではない。彼の製作現場から出てくるエピソードは、そんな現場逃走話が多いのだ。事実、第1作目以外はルーカス自身は、撮影現場としては自分の好きなところだけ演出して、それ以外の部分はすべて監督任せにしているという、ちょっと卑怯なやり方で映画を作っているのだ。

 そして、その後のポスト・プロダクションでいろいろ映像や音響をいじくっているのが好きなんだよな。ホント、オタクだよなあ。

 まあ、それでも当てちゃってるから、凄いけどね。羨ましい。

 

2012年7月12日 (木)

「サキコーポレーション」を知ってますか? 多分、知らないでしょうね。面白いよ、この会社

 昨晩は日経新聞が運営している『日経電子版有料会員限定「経営者ブログ」執筆者と語る夕べ』というものに参加してきた。

「経営者ブログ」執筆者とは㈱サキコーポレーション社長の「美しい」秋山咲恵氏である。㈱サキコーポレーションがどんな会社なのかは、以下のURLをクリック。社長の美しいお姿も掲載されてます。

Top_logo

http://www.sakicorp.com/

 つまり、プリント基板実装工程向けの自動外観及びX線検査装置の開発・提供・メンテナンスというのがサキコーポレーションの仕事であり、この分野では世界第2位のメーカーであるそうな。というか、もしかすると今年の決算次第では世界第1位に躍り出るかもしれない、という最近低調な日本の電子工業関連メーカーの中では唯一希望が持てる会社である。おまけに過去最高売上50億円、現在はリーマンショックのあおりが残っていて25億円なのだが、その売上の70%が海外売上というところもスゴイ。会社創業が1994年であるから、まだ18年しか経っていないのだ。そりゃあスゴイということになるわけだけれども、実は世界7ヵ国に現地法人を持っているとはいえ、その本社は役員が社長(CEO)秋山咲恵氏とそのご主人の秋山吉宏最高技術責任者(CTO)、非常勤取締役と監査役という4人しかいないし、全従業員が世界中で128人しかいない中小企業でもあるのだ。

 ファクトリーオートメーションとはいっても、その製造過程はロボット化できても、結局最後の製品チェックは人間がやっているというのが現状のようだ。多分、製品チェックという仕事は、製品が設計図通り出来上がっているかどうかをチェックするわけで、となるとなかなかマニュアル化できる仕事ではないし、基板自体も携帯電話とかデジカメになると相当小さな基板を使っているだろうし、なんか電子部品って仕様変更も多いようだ、ということでなかなかこれをロボット化するのは難しいことだったのだろうが、それをロボット化させたというのがサキコーポレーションの勝因なのである。

 秋山咲恵氏は京都大学法学部を卒業後、コンサルティングファームのアンダーセン・コンサルティング(現アクセンチュア)に入社。何しろ雇用機会均等法適用1年目ということで、いやでも注目される女性総合職最初の戦士ということなのだけれども、それでも国内企業ではなく外資を選んだというところもスゴイ目利きである。結局、国内企業の雇用機会均等法採用最初の就職者はかなり疲弊して、一般職に格下げを希望するというような逆転現象も見られているようである。

 で、そのせっかく入ったアンダーセンも「これから」という4年目位で辞めちゃって専業主婦になってしまうのだが、それも松下電器(現パナソニック)の研究所にいたご主人との単身赴任生活がいやになってしまったということなのだそうである。この辺、やはり女性ならではの「自由な働き方」なんだろうなと思うのだが、ここから先が面白い。つまり、松下のような大メーカーの研究・開発部門には日本中から(と言っても東京・京都・大阪が殆どですがね)優秀な研究者を集めて新製品や新ソリューションの開発を行っているのだが、会社に採用されて製品化されるのは「ホンの一部」のみなのだということである。で、多分ロボット制御工学が専門分野の吉宏氏の研究は松下では受け入れてもらえなかったんだろう。ソニーのアイボが何故松下では出来なかったのかということですね。

 で、じゃあそんな研究者の思いを商品化してしまおうと考えて起業したのが、サキコーポレーションである。京大法学部を出て文系アクセンチュア出身の妻と、同じく京大大学院工学研究課ロボット制御工学専攻の理系夫が作った会社が、ファクトリー・オートメーション工程の最後に位置する製品検査のロボット化という仕事をうまく成し遂げたサキコーポレーションなのである。CEOたる妻はコンサルティングファーム出身であるので経営に専念する。CTOたる夫は技術開発のみに専念する。いいね、この夫婦関係は。お互いの固有の分野には立ち入らない。自分の得意な分野だけは一生懸命やるが、相手の分野には手を入れない。

 ただし、今のうちはね。

 これから、サキコーポレーションが中小企業から大企業になっていく段階で、例えば創業時代のことを知らない役員が多く入ってくる、当然、従業員も増える、なにもかも大きくなる。そんな段階に入ってくると、多分、社長でも制御がきかなくなってしまう部分も出来てくるのだ。その時に、秋山氏はどういう態度で臨んでくるんだろうか。

「もう、創業時の気分は失われた」として、会社の株を全部売り払って、創業者利益を受けながら、また自分のベンチャーを起こすアメリカ式の創業者像がある。もうひとつは、ひたすら軌道修正をしながら、自分の道を目指し、ひたすら自分のやり方を通し、自分が目指す社会を作ろうとする松下幸之助的な生き方なのか。

 どちらを選んでもいいとは思うが、結局は「松下政経塾」なんかを作って中途半端な社会経験しかない政治家を育ててしまって大失敗、というような失態だけはしてほしくない。せっかくの「いい夫婦」像がそこではなくなってしまうからね。

 そう「いい夫婦」なのである、秋山咲恵氏と秋山吉宏氏は。お互いの専有部分を決めて、それには双方口を出さない。自分の専有部分には、とにかく自分の自己責任で決定して、自分で実行し、その結果を他人のせいにはしない。このようにうらやましいほどの人たちが、これからの日本を動かしていくのであれば、何の問題もないじゃないか。

 これからは、こうした人たちが日本を動かしていくんだろうな。美しいだけじゃなくて「やり手」でもあるのだ。最早、大企業の経団連とか日経連なんかの、旧弊にばかり囚われたサラリーマン経営者が動かす日本では先行きの不安は拭い去れない。特に、秋山咲恵氏も言っていたが、日本は大きな中間層が経済成長の結果創造されたために、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた以降は、日本の経済の先行モデルが無くなってしまったのであるが、結局、お手本がないので「これまでのやり方でいいんじゃないの」というのが、日本の経営者の考え方の基本になってしまい、今の日本経済の下落になってしまっている、という指摘はまったくその通りというしかない。

 じゃあ、そんな日本に再生の可能性があるのかといえば、それはあるはずだ。

 その答えが、昨日のセミナーにはあるな。

2012年7月11日 (水)

『「新型うつ病」のデタラメ』を読むと、本当に精神病を病んでいる人たちのことを想う

 結局は、何が何でも「病気」ということにして、社会的責任を放り出してしまおうという思想が、この国にはあるんだろうな。

 だって、病気じゃないじゃん。

『「新型うつ病」のデタラメ』(中嶋聡著/新潮社新書/2012年6月20日刊)

 たとえばパワハラがなんでうつ病の原因になるのか? 彼女が自分と違う男とセックスしている現場を見てしまったからうつ病になるのか? 「片付けられない症候群」はうつ病が原因なのか? アルコール依存症もうつ病なのか? ふざけんじゃないよ。そんなの全部自分が原因の症状でしょう。つまり、病気でもなんでもない、単なる気分の問題。それをすべて「うつ病」という病気だとしてしまうことで、自分でも納得してしまうという、現代の考え方の問題なのだ。

 新入社員がパワー・ハラスメント的な行為に悩まされるのは当たり前である。「お前、こんなことも出来ないのか」なんてのは普通に先輩社員から言われることだろう。それをパワーハラスメントだといって(事実そうなんだけれども、だからといって)、それをうつ病の原因にしてしまうのはちょっと早計だろう。

 本来の「うつ」はもっと「自責的」なものである。

『周囲の人たちに対する態度のとり方にも違いがあります。「従来型うつ病」の人は、「自責的」で自分を責める傾向があるのに対して、「新型うつ病」の人は、「他罰的」で、他人を責める傾向にあります。
 また、仕事に対する態度にも違いがあります。「従来型うつ病」の人は、「自責的」で、自分を責める傾向があるのに対して、「新型うつ病」の人は、「他罰的」で、他人を責める傾向がああります。
 また、仕事に対する態度にも違いがあります。「従来型うつ病」の人は仕事をなかなか休みたがらず、休職を勧めてもなかなかウンと言わないことが多い。これに対して「新型うつ病」の人は、自ら休職を求めてきます。』

 という通り、いわゆる『新型うつ病』って、結局は「なまけ病」でしかないし、そんなものを「病気」として認定していいものかどうかは、明白である。

 しかし、いまや日本社会は「病気に優しい社会」である。だもんだから、そんな「自己申告型」の病気だろうがなんだろうが、自分が「病気です」って言ってしまえば、それが通用してしまう社会になってしまったのだ。なんともはや残念な社会ではあるな。だって、仕事をすることに向かない人たちがベースになってしまう社会なのである。

 そんな人たちがベースになってしまえば、社会保障、社会保険ベースの社会ということである。で、その人たちの金を誰が払うのかよ、と言えば、それはそれ多少はそんな奴らよりも金を稼いでいる人たちからの税収でしょ。でも、その税収もこれからはどんどん少なくなる訳で、企業の税収も国外移転でこれから増収することはないだろう。

 ってことは何? 要は日本もギリシア化、スペイン化してしまうということなの? しかし、それはいい。問題は、日本の税収なのだ。

 低下する日本の税収の中で、どうやってこうした「社会保障」「社会保険」を支払えるのかという問題でしょう。

 まあ、その時になってはじめて、「新型うつ病」患者も、自分は「病気」じゃないんだと、気づくかもしれない。

 まあ、気づかないアホもいるかもしれないけれどもね。そんな奴は「いなくなって」もらいましょう。

2012年7月10日 (火)

『世界のグロービッシュ』は世界の共通語なんだからさ

 本書が「グロービッシュの世界(The World of Globish)」ではなく、「世界のグロービッシュ(globish The World Over)」というタイトルにしたのは、そういう意味だったのか。そう、それが大事なんだよな。

『世界のグロービッシュ 1500語で通じる驚異の英語術』(ジャン=ポール・ネリエール/ディビッド・ホン著/一般財団法人グローバル人材開発訳/東洋経済新報社/2011年3月31日刊)

 つまり、この本はグロービッシュってこんな言葉なんですという説明をした本ではなく、すでに世界語として通用しているグロービッシュという言葉がある。是非、英語ネイティブの人たちもグロービッシュを話して、世界中の人とつながりましょう、という提案なのだ。勿論、「文化」としての英語を残すことには何の問題もないが、そうではなく世界中の人とつながる「ツール」としてのグロービッシュである。

 なにしろ、この本自体がグロービッシュ、1500の英単語と基本的に能動形だけで作る簡単英語で書かれているのだ。その1500語というのは、たとえば"This is a pen."という日本の英語の教科書に最初に出てくる、be動詞や冠詞なんかも総ての単語を含んだ1500語である。つまりほとんどの日本人で、中学から10年間英語を学んだ人なら知っているはずの単語「だけ」で書かれているのだ。私自身も「英語」で書かれた本を、まったく辞書を開かずに読み終えたというのは、それこそ生まれて初めての経験であり、それは感動的な出来事であった。

 著者の一人であるジャン=ポール・ネリエールはfランス人だが、IBMでヨーロッパ・中東・アフリカ担当副社長だった人であり、IBM USAのインターナショナス・マーケティング担当副社長だった人物だ。つまり、アメリカ企業で英語にどっぷり漬かりながら、しかし、「そこには」英語ではない世界共通語、1500語だけの単語で通用する「ツール」としての英語=グロービッシュがあることを発見したわけである。

 そんな形でグロービッシュを見つけたネリエール氏は、むしろ問題があるのはNative Englishだという。確かに、非ネイティブ同士の話だと、お互い英語が下手な同士だから、互いの下手な英語に対する理解が進みやすい。つまり、相手の下手な英語を分かろうとする気持ちが働くのだ。それに比較してネイティブの場合は、相手のブロークンが英語を分かろうしない。幸い私の経験では、アメリカ西海岸の英語は白人以外は基本的に、アジア人、ヒスパニックの英語なので、ブロークンが当たり前ということなので、西海岸では仕事で英語を使っていて困ったことはない。これが中西部や東部なんかに行ってしまうと、少しは状況は変わるのだが、それでも西海岸で慣れてしまえば、東に行ってもなんとか通じる、というか誤解はされない程度の英語はなんとかなる。まあ、イギリスに行っちゃうと、ちょっとねということはあったが。

 つまり、一番ダメなのはイギリス人なのかということなのだけれども、実はそうじゃない。勿論、ロンドンに住むイギリス人は、世界中の人が英語を喋れないことはわかっている。しかし、彼らの問題は「イギリス語に変わる世界共通語」が分かっていないことなのだ。当然、イギリス人はアメリカ人ほど「ノン・バーバル」コミュニケーションを信じていないから、完全にバーバル・コミュニケーションたる「完璧なイングリッシュ・コミュニケーション」を望むわけだ。だからと言って、そんなイギリス人であっても、結局はイギリスという国は、インドからの移民は受け容れなければならないことが基本にある国だし、だということはインド人の「時制を無視する英語」を多分受け容れているのであろう。ということは、イギリスという「英語」の本拠地においても、「英語」は大事だけれども、それ以上に世界共通語の方が大事だ、ってことになれば、それは世界共通語たる「グロービッシュ」でいいじゃないかよ、という話になるのだ。

 つまりは、世界に冠を掲げたように思われる「英語」だが、それは言ってみれば、アメリカ、カナダ(の一部)、イギリス、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドという、旧イギリス帝国領土の言葉でしかない。

 そう、「英語」は世界のマイナー言語なのだ。「英語しか喋れない人は世界のマイナー人種」という感覚で見てみれば、世の中は全く変わる。

 そう「グロービッシュ」が当たり前の世界にしましょうよ。

2012年7月 9日 (月)

『どげせん』を日本の外交姿勢の参考に

 土下座というと最近の例では、ユッケを食べた客が死に、それを詫びた経営者の姿が思い浮かべられる。

『どげせん』(板垣恵介&RIN著/ニチブンコミックス/2011年3月20日・7月10日・12月10日刊)

 土下座っていうのは本来は深い謝罪や請願の意を表す行為だそうなのだが、あの社長は誰に向かって謝罪をしたのだろうか。本当は彼が謝罪しなければならないのは、彼の店で出したユッケを食べて死亡した客の遺族に対してのはずである。しかし、テレビカメラの前で土下座した彼は誰に向かって謝罪をしたのだろうか。その他、不祥事を起こした会社の経営者が記者会見で頭を下げるのも誰に向かっての謝罪なのかはわからない。

 国会議員の立候補者が選挙運動として土下座するのはよくわかる。彼は有権者に対して自らに投票することを請願したわけだから、これならわかる。しかし、不祥事を起こした会社の経営者がテレビカメラの前で土下座するのは、決してその不祥事に巻き込まれた被害者に対してではなく、「世間」に対して詫びているのである。

 あるいは、麻薬なんかで逮捕された芸能人が「世間をお騒がせして申し訳ない」なんて頭を下げたりするが、それも何故「世間」に詫びるのであろうか。

 結局、それらは謝罪ではなく、「保身」のためなのであろう。謝罪であるならば、それは自ら起こした行為によって被害を受けた人に向けられたものであるはずであり、それと同じ行為を「世間」に向かって行うというのは、「私は反省しております。だから許してね」という行為であるにすぎない。

 しかし、「世間」は当事者に対してそんなことは求めてはいないはずだ。つまり、「世間」はその被害者でもないし、迷惑を被ってもいないのだ。それでもなお、「世間」にたいして詫びるというのは、その理由を考えるとまさしく「保身」しか考えられないのだ。

 つまり、土下座をされると最早それ以上の攻撃をやめなければならないという、この日本に於ける不文律というようなものが働くからである。江戸時代では相手に土下座をして謝れば、大抵のことは許してもらえたという風潮があったようで、その延長線上にこの「世間」に対して土下座をするという風習があるのであろう。

 しかし、この土下座をして相手に謝るという方法は、実は謝っているように見せた最上等な自分の主張を通す戦略的な方法でもある。つまり、土下座をしてしまった以上は、最早許すしかないというところに相手を追い込み、その結果自分がやりたいように自分の主張を通すのである。結局、この『どげせん』というマンガが描いている土下座もその方法論である。

 というところから考えるならば、土下座外交というのもあながち否定されるものではないのかも知れない。つまり土下座をすることで、結局自国の意思を通してしまおうという方法論なのだからね。ところが土下座外交というと基本的には否定的な状況で使われることが多い。特に日本の対外外交姿勢については、それを土下座外交という言い方で非難することが多い。しかし、本来の土下座の考え方でいうならば、結局は跪いて頭を地面につけながら、結局自分の意思を通して、沖縄の米軍基地をなくし、北方四島を返還してもらい、尖閣諸島から中国に引き揚げてもらい、竹島から韓国に出て行ってもらえるはずである。ところがそうなっていないということは、日本の外交姿勢は土下座すらしていないのではないか。むしろ「何もしていない」外交姿勢である。そんな「何もしていないから」日本の対外関係はなにも変わることなく、いまだにアメリカの属国関係になってしまっているのではないだろうか。

 土下座でも何でもして、日本の意思を貫き通した外交というものをやってもらいたい。

 

2012年7月 8日 (日)

東京国際ブックフェア閉幕

 7月5日のエントリーでE-Book Expoのことを書いたが、今日はその共催イベントというか、こっちが本家の東京国際ブックフェアについて軽く報告。

 ただし、今日が最終日。

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 東京国際ブックフェアではいつも入り口のすぐ脇が講談社ブースで、反対側の入り口のそばが小学館ブースである。お互い張り合うように会場最大のブースを作って、凝った展示をしている。会場特典のついた書籍の販売は行わない。
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 今年も、講談社は入り口脇の場所にどっかと腰を据えて、『宇宙兄弟』の展示がメインだ。

 ところが、今年は隣がいつもと違う。そう楽天が講談社と同じくらいの大きさのブースを出展。別に三木谷氏の本『たかが英語!』を講談社が出版したからではないと思うが。

 当然、ブースの内容は発表したばかりのkobo touchのプレゼンテーションだ。というよりkobo touchのみの展示。
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 普通、こうしたデバイスのプレゼンテーションはe-Book Expoの方でやるはずなんだけど、わざわざブックフェアの方にブースを構えるというのは、楽天のこのデバイスに賭ける姿勢を示したものだろう。

 今年はいよいよAmazonもKindle Fire日本語版を投入するという話もある。2010年のiPadの発表で日本の電子書籍元年といわれたのだが、しかしいまひとつ盛り上がらず、相変わらずガラケーでの電子コミックが主流の日本の電子書籍マーケットだ。その後もシャープがそれこそガラパゴスというタブレットを投入して早期に引き揚げたり、ソニーがPCと繋げないとダウンロードできない中途半端な電子書籍リーダー(いまはリーダーだけで使えるようになったが)を発表したりと、なんかずっと中途半端な日本の電子書籍マーケットだったが、これまで楽天ブックスなどで書籍のネット販売を手がけてきた楽天が、いよいよ本格的に電子書籍に乗り出したということで、先のAmazonの動きとあわせて、今年こそ電子書籍元年だという話もある。

 ただ、今のところまだまだ電子書籍の出版タイミングの問題があって、なかなか紙と同時に電子も出すという形になっていない以上、まだまだ本格的な電子書籍元年とは言えないだろう。

「電子書籍は教科書から」という言い方があるが、私もその考え方に賛成だ。多分、教科書が電子化されて、子どもたちが電子に慣れると一気に出版市場は電子になびくだろう。

 問題は、どのメーカーのデバイスが電子教科書に採用されるかだ。もし一社だけが採用されるというとになれば、凄い数の採用になるわけで、その会社が一挙に電子書籍デバイスの日本におけるデファクト・スタンダードになるわけだ。まあ、文科省が選ぶわけなので、やはり国内メーカーが基本的には有利になると思われるが、問題は楽天koboを国内産とみなすか、楽天がオーナーとはいえkoboはカナダだというスタンスをとるのか。ちなみにkoboはEPUB3というiPadなんかと同じフォーマット。あるいはAmazonのAZWか、シャープのXMDFなのか、ボイジャーの.bookなのか。

 出版社にしてみれば、どこでもいいから早いところフォーマットを統一して欲しいというところなので、そのためには早いところ電子教科書を始めて欲しいところだろう。

 早いところ、電子教科書を始めて、フォーマットを一つに決めて、紙と同時に電子も出して欲しい。そうなれば私も家の中での本の増大に悩まされることがなくなるのだがなあ。

2012年7月 7日 (土)

『グローバル・エリートの時代』はまさに格差拡大社会なのだな

 2013年に、先進国と新興国の経済規模が逆転することは分かっている。しかし、「日本人の強み」を生かして「失われた二〇年」を終焉させることができるかどうか、それは分からないのである。

『グローバル・エリートの時代 個人が国家を超え、日本の未来をつくる』(倉本由香利著/講談社/2012年6月18日刊)

 倉本氏は日本企業にとって組織のグローバル化が必要であるとして、以下の理由を挙げる。つまり『日本企業は今後、すでに書いた質的な人材不足だけでなく、量的にも人材不足に直面する。日本では少子化とそれに伴う労働人口の減少が始まっており、2025年時点での労働人口は、現在よりも約2000万人減少する。一方で、新興国を含む世界市場の成長に合わせて、日本企業の規模を成長させようとすると、日本人だけでは企業が市場や競合の伸びについていけない時代が来るのだ。優秀な人材の供給源として新興国が台頭してくるため、これら新興国の人材を組織の中で十分活用できるか否かが、日本のグローバル企業にとって成長の鍵になる』ということ。

 なるほど、だからそんな組織のグローバル化を果たした(日本)企業の中で活躍できるグローバル・エリートたる、「個人がグローバル・エリートとして求められる時代」がきていると説くのである。多分、組織のグローバル化を果たした企業では、当然そこで働く人々はこれまでの日本型の「横並び意識」で仕事をすることが許されるのは「ローカル・サポーター」たる補助的な仕事をする人たちだけである。グローバル・エリートたりたいとするならば、その仕事のやり方はこれまでの欧米型の(そして、今まさにアジアでも韓国あたりがその辺で変質している)エリートたる個人での仕事のやり方なのだ。そう、いまでも確実に進んでいる働くものたちの二極化は、ことさら、拡大することになる。エリートとして力をつけて世界市場のどこにでも行って仕事をする人と、ローカルに留まって、日常の自分周辺の仕事だけをやっていく人、企業のグローバル・エリートたる新興国からきたエリートたちに使われるローカル・サポーター、という人たちの、格差の拡大である。

 で、倉本氏が求めるグローバル・エリートに必要なスキルとして、8つのスキルを求める。

スキル1 文化的背景や価値観の違いを感じる「感受性」
スキル2 異なる価値観や行動への「理解力」
スキル3 多様性を受け入れ、やり方を変えられる「柔軟性」
スキル4 異質な環境で自分が貢献する「オーナーシップ(当事者意識)」
スキル5 ゼロからトップダウンで作る「ゼロベースの構築力}
スキル6 違いを乗り越えて問題解決を行う「問題解決型思考」
スキル7 積極的かつ論理的な「説明力」
スキル8 しつこくコミュニケーションをする「粘り強さ」

 ということである。さすがになあ、と思うそれぞれの内容ではあるが、しかし日本人にとってはなかなか難しいものもありそうである。たとえばスキルの4、5、6あたりだろうか。しかし、それを乗り越えなければグローバル・エリートになれないとしたら、じゃなかったらローカル・サポーターにしかなれないとしたら、多分、日本人は頑張るのではないだろうか。日本人独特の「頑張る」思考でね。英語の問題は、また明日。

 ただし、そうやって日本人のグローバル・エリートが登場したからといって、問題はその先にある「グローバル・スタンダード」の作り方なのだ。

 倉本氏はアングロ・サクソン系による「プッシュ型」のグローバル・スタンダードがあり、ヨーロッパ型のスクラムを組んだ形でのやはり「プッシュ型」のグローバル・スタンダードがあるのに対抗して、日本人が得意とする「プル型」のグローバル・スタンダードがある、と言う。つまり、日本人がお得意の、相手の話をまず聞き、受け入れ、解決策を探るという方法論があって、それを上手く使ってグローバル・スタンダードに持っていくという考え方なのだが、多分それは外圧によって作られた「ローカル・スタンダード」に過ぎないものになるだろう。グローバル・スタンダードを作る方法というものは、結局、どんな形であれ「プッシュ型」「ゼロサム型」でしかありえないのだ。「勝った方がすべてとる、負けた方はすべて失う」という単純な図式のゼロサム・ゲームがブローバル・スタンダード争いなのだ。「プル型」は、結局そんなパワー・ゲームの中での負け組みとしてしか、生き延びる方法はないと考えるのであるが、どうだろうか。昨日の齋藤氏の論ではないが。

 倉本氏としては、日本人が一番弱い部分としての「押し」のことを気にしての書き方なのだとは思うのだが、自身のMITでのMBA経験からしたら、確実に「プッシュ型」でないとグローバル・スタンダードが出来ないことはよく知っているはずだ。事実、そうしたグローバル・スタンダードのでき方を実際の現場で見てきている人なのだ。だとしたら、そんなに日本人におもねることなく発言をして欲しい。

 つまり、「日本人よ、肉食系になれ。押しの強い人種になれ。これまでの日本人のDNAを捨て去れ。でないと、日本は今後永久に世界の属国だぞ」と。

 そのくらいの強い覚悟が今後の20年位の日本には必要なのだ。「失われた20年」を取り戻すのは、そんな覚悟である。

 最後に、倉本氏の言う「高機能移民政策の導入を」というのは大賛成だ。まあ、多分こういうとを言うと「在日特権を許さない市民の会」みたいなバカな右翼どもが反撥するんだけれども、かれらは馬鹿故に倉本氏の本をまだ読んでないようだ。しかし、そうやって新興国を含めた世界中から優れた頭脳の持ち主を優先的に日本に招くということをしないと、というかグローバル化した社会なのだから、そこでは国籍とか、生まれた国とか、そんなものは企業が気にしない状態になるはずだ。つまり、国、政府もそれに従えよな、というだけのことではある。

2012年7月 6日 (金)

『日本人は、なぜ世界一押しが弱いのか?』じゃなくて「世界一押しが弱いから日本人なのだ」

 アフリカで生まれた人類が東に行って、その押しの弱さから、どんどん東に追いやられ、ついにはアジア大陸の東にある細長い島にたどり着いて、もうこれ以上東にいけませんってなったのが日本人である、という考え方からすれば「日本人は、なぜ世界一押しが弱いのか?」という設問ではなくて、「世界一押しが弱いから、日本人になった」のだという設定になる。

『日本人は、なぜ世界一押しが弱いのか?』(齋藤孝著/祥伝社新書/2012年6月10日)

 そう齊藤氏の考え方の発想は逆なのだ。

 しかし、最近多い言論がこの「どうせ日本人は弱いんだから、弱いままでいいじゃない。このままガラパゴス化して、それこそ鎖国でも何でもしちゃえばいいんじゃない」という考え方と、「いやいやこれからの日本はどんどん開国して、グローバル化して外国にも出て行く、海外からも人を呼び込んでいくべき」という、攘夷と開国じゃないけれども、それに近い考え方だ。っていうか、何で今時また150年前の論争を繰りかえしているのだ。まったく進歩のない人たちだなあ、日本人って。

 で、齊藤氏のスタンスは鎖国ほど極論ではないけれども、、まあ元々押しの弱い日本人なんだから、あまり無理してアングロサクソンなんかと一緒になって戦おうとはせずに、その押しの弱さを生かして生きていきましょう、という発想である。

『日本民族としてのアイデンティティを捨てることで得られる利益を目指すのではなく、日本人として世界で勝負する道を目指すべきではないでしょうか。』として『ひたすらパスを回すサッカー』や、『美味しいものを求める進化の中で特筆すべきは、日本人の「やわらかいもの」を求める執念』、『小さいものの中に、いろいろな機能を詰め込む』という日本のお家芸、『日本人ならではの細やかさや工夫を重ねるまじめさが加わるという意味で、デザインという能力は、これから日本人が生き残っていくうえで、世界と互角に戦っていける数少ない分野』、『アメリカが押しが強いがゆえに築けないイスラム圏との良好な関係も、日本人の押しの弱さをもってすれば築ける』、『歴史的に見ても、はっきりした政治家ほど殺されやすい。大切なのは人も国も生き残ることです。直接の領土侵害は別として、世界一押しが弱い日本人が生き残るためには、イエス・ノーをはっきりさせず、「あの国はいつもオロオロしてはっきりしないな」といわれるポジションもいいのではないでしょうか』と結論付けるのである。

 たしかに、それは生き延びる方便としてはいいのかもしれない。しかし、それらは既に日本人がとっている政策・生き方なのである。そのような生き方をとっていても、なおかつ沈みゆく日本経済であり、自殺率の高さであり、政治の混迷なのであります。当然アングロサクソンと付き合っている以上は、押しの強い彼らのやり方をどこかで取り入れないとやっていけない。とするならば、むしろ日本のつき合い先をアングロサクソンからラテンあたりに変更したらどうだろうか。

 つまり、ギリシア、イタリア、スペイン、ポルトガルであり、そうしたラテン諸国の宗主的な立場にあるフランスである。フランスを除いて、それらラテン諸国はいまや経済が破綻寸前の状態にある。しかし、国民は国の経済が破綻しようが、国民は別とばかりに悠々と暮らしている。国が破綻したんならドイツかフランスの属国になっちゃえばいいんじゃない、俺らとはかんけいないもんね的な無責任な発想こそが、今の日本人に求められているのではないだろうか。そうすれば会社を潰したくらいで自殺なんかしなくてもいいようになる。同じ沈むのならアメリカ経済と一緒に沈むよりはギリシアやスペインあたりと一緒に沈むほうが楽しそうである。「日本もダメになっちゃったねえ」なんて言いながら、バルあたりでワインを飲んでいるほうが気楽でよさそうである。

 最後に、齊藤氏は「ゆとり教育」への批判を行う。『日本においては個性を最終地点に置いてはいけなかったのです。そんな「個性」という目指していけないものに振り回されてしまったというのが、日本のこの三〇年にわたる教育上の失策です』と。

 しかし、学生の学力低下はゆとり教育だけの問題ではないし、齊藤氏が問題視する『彼らはやる気がないわけでもないし、サボるということもしません。言われたkとはきちんとやろうとするのですが、やるのは最低限で、いわれたことしかしない子も多い』という現象もゆとり教育が原因ではない。『面白いから、好きだから、興味があるからということで、自分でどんどん仕事を増やしてしまい、やめようと思えば帰れるにもかかわらず、もうちょっと工夫したい、よくしたい、いいものを作りたいという人間が、結果的にいい仕事をする』というのは事実であるが、でも、そこまでやらずに適当に処理して家に帰ってしまうサラリーマンは、別にゆとり世代ではなくてもいたし、事実、おじさん世代でも多く見られる現象である。いわゆる「時間で働くサラリーマン」てね。

 だから、問題は「ゆとり教育」ではなくて、日本人の同質性・横並び意識に関するものなのである。あまり目立つことをやって周囲の人の妬みを買うのはいやだ、という意識。そんな意識がある以上は、ことさら頑張って自分の優秀性を人に見せることを嫌う一定の人たちは存在するのだ。勿論、そうじゃない人も一定程度には存在する。これらの人たちの存在率は別に「ゆとり教育」とは関係なく、多分昔から変わらないであろう。齊藤氏の一部の現象を捉えて全体に持ていってしまう言い方は、ちょっと変である。

 問題は「ゆとり教育」ではない。

2012年7月 5日 (木)

やったぁ、新城、敢闘賞!

 やったぁ。遂に新城、敢闘賞である!

 今日のステージ、最初から逃げに入り、その後200kmにもわたる逃げを続け、下手をするとこのまま勝っちゃうんじゃないかと言う感じの走りだった。

 最後はゴールスプリントで100位以下に沈んだようだけど(トップと同タイムの110位、ちなみに159位までが同タイム、総合ではトップを2分3秒差の53位)、スゴイね敢闘賞ですよ。以前、別府が敢闘賞を獲ったことがあるけれども、それは残念ながら最終シャンゼリゼ・ステージだったので表彰式はなし、ということで、今回の新城の表彰式がツール史上最初の日本人表彰台なのだ。

 まだまだ第4ステージである。

 これからのステージでもどんな活躍を、新城は見せてくれるんだろうか。

 楽しみである。

e-books EXPO 開幕! だけどなあ、なんか今ひとつ感が…

 業界的にはe-Book Expo(正式には「国際電子出版 EXPO」)が昨日から東京ビッグサイト西ホールで開催された。

 アメリカではアマゾンが紙の本よりも電子書籍の方が売り上げを上げているなんて情報も入ってくるが、日本では今のところまだまだという電子書籍である。「売れた!」っていう話も、一時はやったケータイ小説やコミックを除けば、紙の本と電子を同時発売して話題になった京極夏彦の『死ねばいいのに』の1万部や、これまた「ほぼ同時発売」で「この人なら当たり前でしょ」の『スティーブ・ジョブズ』の数万部が話題になった程度で、あまり芳しい話はない。

 それも、やはり日本語という特殊な言語が問題のようで、さまざまのフォーマットが入り乱れてしまい、出版社も「そんなのに付き合ってらんねえよ」というところでもあろう。

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公式サイトです→ http://www.ebooks-expo.jp/

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さすがにこのイベントでは昔から存在感のあるボイジャー社のブースである。見せるものもいろいろあるのがすごい。

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YAHOO!がどんな形で電子書籍に関係してくるのかはまだ見えない。楽天のようなデバイスではないし。

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「丸善&ジュンク堂+文教堂」グループは電子とリアルのハイブリッドを狙っているようだが、その先がよく見えない。

 昨日の(というかこのイベントの)目玉は初日の「国際講演」「IDPFコンファレンス」位か。7月5日・6日は国際ブックフェアのセミナーがあるけど、それはe-bookとは関係ない。

 ということで、私は「国際講演」を覗いてきた。「IDPFコンファレンス」はEPUB3の話ばかりみたいで、フォーマットに関しては「一個に統一せよ」と言うだけしかないトーシローの私には関係ない。

 国際講演の登壇者は講談社社長・野間省伸氏、楽天社長兼会長・三木谷浩史氏、IDPF事務局長・ビル・マッコイ氏で、モデレーターが丸善CHIホールディング社長の小城武彦氏、というなんか微妙な顔ぶれだ。だって、一昨日、カナダのKOBOを買収してコボ・タッチという電子書籍デバイスの発売を公表したばかりの楽天と、ケータイ小説では後塵を拝したとはいえ、京極夏彦、スティーブ・ジョブズに加え、最近『ハリー・ポッター』シリーズ日本語版を静山社をはずしPOTTERMOREという自分のサイトで売り出したJ.K.ローリングの次作『The Casual Vacancy』の翻訳権を獲得して、今度はその電子版も取っちゃおうという講談社と、EPUB3をなんとしてでも進めたいIDPFのビル・マッコイを、元経産省の役人で CCCやらカネボウやら、再生産業機構を動かしてきて、今や下流(書店)から出版業界を変えようとしている小城武彦氏が司会をするのである。

 これって絶対に怪しい組み合わせだよね。

 ということで、まずは三木谷氏が前日発表したばかりのコボについての戦略を、なんか怪しげな(本音を隠した)言い方で開陳した後、野間氏が電子出版協会の公式発言を繰り返しながら、なんか楽天の戦略を聞き出そうとしたり、丸善&ジュンク堂の戦略を聞き出そうとしたり、マッコイ氏はIDPFの戦略だけを聞かれもしないのに話したり、で、結局、楽天の本音とか、丸善&ジュンク堂の本音は出ない、勿論講談社の本音もまたという、まあ、よくあるティーチ・インのスタイルの講演ではあった。

 最初、「国際講演」とあったので、それぞれが一人づつ話すのかと思ったのだが、残念ながらいつものティーチ・イン・スタイル。これじゃあそれぞれの会社の考え方は出てこないって。この辺、主催者にちょっとだけ文句を言うと、もうちょっと発言者が失言するシチュエーションとか、発言者が思わず本音を言ってしまう状況づくりをしなければいけないんじゃないのか。まあ、主催者のリード・エグジビション・ジャパンは電子書籍のプロじゃないんだからしょうがないって言ってしまえばそうなんだけれども、もうe-Book Expoの16回目でしょ、だったらもうちょっと考えろよ、という厳しいことも言っておきたい。

 リード・エグジビジション・ジャパンはこうしたイベントをもうずいぶん開催している。最初は苦労したとは思うけれども、もはや大型イベント主催者としては老舗ではある。だったら、出演者、出展者から多少は嫌われてもいから、なんか主催者らしいイベントを行ってほしい、と考える。

 出展者から嫌われるのも、主催者としては必要なのだ。「あの主催者は嫌いだけれども、あのイベントに参加しないと業界から消されちゃうかもしれない」なんてことを出展者が考えてしまえば、それは主催者の「勝ち」なのだ。

 カンヌ映画祭みたいにね。

  国際電子出版EXPOは6日まで、東京国際ブックフェア、クリエイターEXPO東京と併催。ブックフェアは8日まで開催。

2012年7月 4日 (水)

『いつだって僕たちは途上にいる』とおり、いつまでたっても途上のままなのだな、この二人は

 リクイガスのサガンがスゴいぞ、今年のツール。早くも2勝目だ。

 ということとは何の関係もなく、今日のブログは始まるのでした。

『人生2割がちょうどいい』『ガラパゴスでいいじゃない』というトンでもないタイトルがついた前二作に続いて出た第三作目が『いつだって僕たちは途上にいる」である。なんか、前二作よりもややマトモなタイトルかなとも思うのだが、『メディアの変遷について、そして、それに伴うコミュニケーションの変化について、有効で便利なノウハウを語ってもらう意図で企画』されたと、ナビゲーターの日経ビジネスオンライン清野由美が言うわけであるけれども、そんな意図は元々岡康道、小田嶋隆の両氏には理解されずに、ただ単に、オヤジのグダグダ話をやっているだけだという段階で、もはや企画倒れなのだけれども、それでもこの本のシリーズが「そこそこ」売れちゃっているので、辞めるわけにもいかなくて、清野さんがイライラしながら付き合っているというのが、このシリーズなのであろうか。

『いつだって僕たちは途上にいる』(岡康道・小田嶋隆著/講談社/2012年6月20日刊)

 しかし、なんでこのオヤジどものグダグダ話が面白いのであろうか。

 つまり、これって小田嶋氏の芸風なのだな。小田嶋氏のコラムの芸風。まずテーマを一つ投げかけ、その後、そのテーマについてグダグダ書きすすめるうちに、だんだんテーマからズレていき、えっ? もはやテーマからは関係ないところに話が行っちゃって、あれあれと思っている内に、どこかでオチを見つけてしまい、最後はキチンと落とすというスタイルだ。

 以前、マーシャル・マクルーハンが「メディアはメッセージ」であると語ったわけだが、つまりそれはメッセージはそのコンテンツ(内容)ではなく、メディアのあり方で決定されるということなのである。つまり、小田嶋氏のコラムのあり方もそのようで、コラムに書かれたコンテンツ(内容)ではなく、コラムの書き方にメッセージがあるということ。ということは、じゃあ小田嶋氏のコラムの書き方が変わらない限り、そのコンテンツ(内容)はいつも同じなのか、というとまったくその通りなのである。つまり小田嶋氏はいつだって『人生2割がちょうどいい』『ガラパゴスでいいじゃない』ということを言い続けているのである。そこにさらに今回『いつだって僕たちは途上にいる』ということがプラスしただけというもの。まあ、行ってみれば古典落語みたいなもんだな。

 古典落語を語る噺家は基本的にはいつも同じ噺をしているわけだ。しかし、何度聞いてもおかしい、もう何度も聞いている噺なのだが、常に新発見があって面白いというのが、古典落語の楽しみであるのだ。そう小田嶋氏の語り口というのが、ついに古典落語の域にまで達したということなのだ。スゴイぞ小田嶋さん。

ということでこの本に関して言うと、小田嶋氏が語っている「青春の映画5本」『熱いトタン屋根の猫』『恐竜100万年』『家族ゲーム』『ショーシャンクの空に』『トレインスポッテイング』、「青春の5冊」『車輪の下』『素晴らしいアメリカ野球』『仮面の告白』『ヒューマン・ファクター』『百年の孤独』、「3本の課題映画」『亀は意外と速く泳ぐ』『たそがれ清兵衛』『イントゥ・ザ・ワイルド』というラインナップに関しても、それについて何を語っているのか、を考えながら読んでいても、何にも見つからない。問題は、小田嶋氏がどんなものを選んで、それについてどんな語り口で語っているのかをみることだ。

 と、そうやって読んでみると、実は小田嶋氏はそれらの作品について何も語っていないことがよく分かる。要は、それらの作品は小田嶋氏の話のきっかけにすぎないのだ。それらの作品について語っているように見えて、しかし、語っているのは自らの「スタンド・バイ・ミー」体験だったり、対学生運動経験だったり、対早稲女話だったりするわけで、それ以外ではない。つまり、本や映画というものは「それについて語るもの」ではなく、「そうそうそんな本(映画)があったね、でさあ」という具合に話のきっかけになるものでしかない、というかきっかけになるものである。というのが、実は正しいオジサンの本や映画とのつき合い方なのである。

 だって今更本や映画を見てオジサンたちが感動なんかをするわけないのである。映画を見て、本を読んで、深く感動し、それ以降の自らの人生が変わるなんてことは、最早オジサンたちにはない。それは残念と言えば残念であるけれども、そんなもので感動するほどに純情じゃない、完全なスレッカラシのオジサンたちにとって、本や映画は「単に皆から見られないで涙を流すことが出来るメディア」でしかなく、見終わって、読み終わってしまえば、ハイさようならってな存在なのだ。

 ということで、清野編集者の本来のこの本に込められた思いは常に実現できずに、いつまでも「途上」のままで続いていくのであった。

 ちなみに岡康道氏も小田嶋氏と同じ観点から、それぞれ選んでいるが無視している。何故なら、岡氏は本書では小田嶋氏の刺身のツマでしかないからだ。ゴメン、岡さん。

2012年7月 3日 (火)

『ランス・アームストロング氏のドーピング違反の正式判定』に対する批判に応える

 昨日は「楽天英語公用語化第1日目」ということで、注目を浴びて「楽天ラッキー」になるのかと思ったら、小沢離党の話が大きくなってしまって、三木谷さん残念でしたねと言うことなのであった。

 ということで突然なのであるが、6月15日のエントリー『ランス・アームストロング氏のドーピング違反の正式判定』に対してEMANONさんという人から批判のコメントをいただいたので、これに応えておきたい。

 こうした脊髄反射みたいな批判に対しては、キチンと反批判をしておかなくちゃね。というけれども、そこまで反批判をするまでもないんだけれどもね。

「アームストロング氏にドーピング違反の正式判定」(ウォール・ストリート・ジャーナル)
<http://jp.wsj.com/Life-Style/node_460408?mod=SlideshowRelatedLink>

 EMANON氏は私の書いた「まあ、積極的に証明をしてこなかったランスに問題ありとする見方をすることが、当面正しい方法だとは思うが」という部分にカラんできたわけだ。

 しかし、どうにも困ったことには、EMANON氏は基本的に「ランスはシロ」説に立って、私のその部分にだけ反応してきたわけなのである。別に私自身は「ランスはシロ」説にも「ランスはクロ」説にも立っていないにもかかわらず、あたかも私が「ランスはクロ」説に立っているかのように思い込み、文章の一部分にのみ反応してショートした頭脳でカラんできたわけなのだな。

 ランスがアメリカ人であり、ツール・ド・フランスが特に嫌米思想の強いフランスで開催されていることはよくご存知の通りであり、最近フランス人の勝利がなくなってきているこの大会で、数多くの勝利を重ねてランスがフランス人から妬まれていることも、よくご存知の通りである。毎年、ツール・ド・フランスの度に、この嫌米思想の強い国でランスのドーピング疑惑がことさら出されていたことはよく知られているでしょう。

「ランスはこれまで500回以上に及ぶドーピングテストを受けて、すべてが陰性だったわけです」なんてことは当然よく知っている。だからと言って「これが証明になりませんか?」と聞かれても困ってしまう。

 何故なら、競技終了後のドーピングテストの問題をフロイド・ランディスは言っているのではないのだ。競技終了後ではなく、ランスのマンションに行ったらランスとヒンカピーのEPO血液が保存されていたと言っているのである。このランティスの訴えによってアメリカ連邦捜査局が捜査を始めたわけで、競技終了後のドーピングテストに不正があったなんてことは言っていないのだ。で、連邦捜査局は違法性はないといってUSADAに捜査資料を引き継いだら、USADAがランスをドーピング違反の判定を下した、というもの。

 USADAがどのようなスタンスに立ってランスのドーピング違反の判定を下したのかは知らないが、言われているのは、ロンドン・オリンピックの年である今年はドーピングに対して厳しく当たるぞということを言いたくて、ランスをそのスケープゴートにした、という説である。

 つまり、私が「積極的に証明をしてこなかったランスに問題あり」と書いたのは、そんな常にドーピング疑惑の真っ只中にいて、なおかつ今年という年の特殊性もあってUSADAによってスケープゴートにされる可能性が極めて高い状況にありながら、そうした諸状況にたいする基本的なスタンス、あるいは状況説明の用意が出来ていないということを言いたかったのだ。要は、今現在政治家に求められている「説明責任」ってやつね。その責任はランスには「ある」。

 事実、ランスがドーピングをしていたかどうかは、いまだに分かってはいない。UCIだって、自分たちのドーピングテストの結果に泥を塗るような今回のUSADAの裁定には困ってしまっているのではないか?

 ランスがドーピングをしていたからって、ウルリヒやパンターニとの死闘がなくなってしまうわけではない、と書いたのもそれらの死闘が事実そのものであるからだ。できれば現役のうちに決めて欲しかった、と書いたのもその通りでしょ。今更、言われてもなあ、ということ。

 私自身は、ランスがクロだろうがシロだろうが、私の自転車人生にはなんの関わりもないことなので、どちらでも良いと考えている。

 むしろ私にとって気になるのは、EMANON氏の「ドーピングテストを受けてすべて陰性だった」からランスは真っ白というのは、実に短絡的な反応であり、世の中には必ず裏があるんだ、という発想に立たなければいけないという大事なことを忘れ去っていることなのである。

 今年のツールは既にスタートしている。問題は過去のツールじゃないのだ。

 あとはカンッチェラーラがどこまでいけるかでしょう、今年のツールは。サガンの頑張りもわかるけれども、最後のシャンゼリゼまでもつのかな、というところが気になる。

2012年7月 2日 (月)

関東学生アメリカンフットボール2012春終了!

 7月1日は関東学生アメリカンフットボール連盟、2012年春の開催最終日だった。

 アミノバイタルフィールド第一試合は早稲田大学対釜山大学の交流戦(41対12で早稲田)、第三試合は医科歯科大学の交流戦ということなので(8対0で東邦医科歯科大が東京医科歯科大に勝利)これも無視。実質的な関東カレッジフットボールの春閉幕戦はこの立教大学対拓殖大学戦なのだった。

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 試合開始直後、拓殖大No.1、柳沢選手のQB(クォーターバック)ランでタッチダウンを上げて、まあ、今日は拓大・柳沢に走りまくられて立教苦戦かな、という予想の展開であった。

 というか、残念ながら拓大の場合は、柳沢のQBランしか見所はないチームというか、そんなチームなので、昨年、柳沢が関東一部リーグでリーデイング・ラッシャーであるにも関わらず、二部に降格したのであろう。本当に、拓大は柳沢がいなくなってからのことは考えていないのだろうか。とするなら、それこそ拓大首脳陣のアタマの悪さとしか言いようがないだけれども。

 一方、立教大はこの試合No.16、2年の瀬本を基本的なQBに据えて、No.18山本は控えに置いている。2年生の瀬本を今日の試合の基本QBにおいたというところに、立教大の今年の秋以降の試合の展開が見えているようだ。

 前々の試合の東京都市大戦の第4クォーターで最初に起用された瀬本は、さすがに昨日の試合は3戦目なのだろうというぐらいの試合慣れをしてきていて、ランにパスに落ち着いたいいところを見せていた。立教にはいいレシーバーもいるしね。柳沢のまねをして自分で走ってすぐにツブされたのはご愛嬌というところ。2012_07_01_333_2

 おまけに立教大はNo.7小川のキックオフ・リターン・タッチダウンなんて大技を見せてしまったり、とにかく3~2年生の活躍が面白かった。

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 まあ、最後は拓大としては柳沢が自分が持って走るしかないというところで走っていたが、やはりアメリカンフットボールはチームスポーツなのだ。11人対1人では勝ちようがなく、結局41対24で立教大の勝ちになったわけである。

 しかし、QBだけじゃなく、テイル・バックやパンターまでやっちゃう柳沢って何なのよ。彼は日体荏原高校アメリカンフットボール出身だ。なのになぜ日本体育大学で採らなかったのかな、という思いと同時に、結局、日体大としてはそんなに何でも出来る奴はいらない、もっと自分のセクションの仕事が出来る奴が欲しい、というとで採らなかったんだろうな。

 で、拓大にいったわけだが、それが彼の優秀さを示すことにはなんったんだろうけれども、チームは今年二部。今年何とか頑張って一部に昇格し、4年は一部で終わらせたいというのが3年生の柳沢の思いだろう。

 しかし、そのためには、自分だけじゃなくて、他のチームメンバーのグレードアップも目指さなければいけない。

 それができるかな、3年生の柳沢君に。
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Nikon D7000 AF-S Nikor 70-300 @Chofu (c)tsunotomo

2012年7月 1日 (日)

ツール・ド・フランス開幕! ……したけれども

Bg_stageinfo

http://www.jsports.co.jp/cycle/tour/index.html

 今年もツール・ド・フランスの季節がやってきた。ことに今年はランス・アームストロンングのドーピング問題なんかもあって気になる開催だ。って本来は7月に入ってから言う言葉なのだが、今年はロンドン・オリンピックとの関係なんだろうか、いつもよりちょっと早く、6月30日にはプロローグが始まる。

 で、一昨日はチーム・プレゼンテーションが行われ、チーム・ユーロップカーからは新城幸也が2年ぶり3度目の出場となった。

Euc Pho_arashiro

http://www.jsports.co.jp/cycle/team_2012/euc.html

 昨年はすべてフランス人選手で出場するというチームの方針から選ばれなかった新城だが、昨年4位と大健闘したトマ・ボクレールをなんとか表彰台にあげたい、いや優勝させたいというチームの考え方から、今年は最強のチーム編成にしようということで、新城を選んだのであろう。

 一方、チーム・ユーロップカーと同じプロ・コンチネンタルのアルゴス・シマノに属する土井雪広は残念ながら選ばれず、また昨年チーム・レディオシャックからオーストラリアのオリガ・グリーンエッジに移籍した別府史之も出場せず。ただし、来年と再来年はオリガ・グリーンエッジがUCIプロチーム・ライセンスを獲得することが決まっているので、来年は別府の姿をツールで見られるかもしれない。

 ベルギーのリエージュからグランデパールの今年のツール。前半は平坦地のレースなので、またまた長距離の逃げからゴールに持っていく、ルーラーの新城らしい走りが見られるかもしれない。できればひとつかいくつかのステージで優勝する姿を見たいものだ。

 ということで、昨日はプロローグ6.4kmのリエージュ市街コース、いくつかのUターンを含むテクニカル・コースだ。この12時台ではまだ新城はスタートしていない……。

 ということなので、ツール開催中は、突然のエントリー書き換えもあるので要注意を。

 新城は初日を134位で終えた。まあ、タイムトライアルはあまり得意な選手じゃないから、まあこんなんもの。明日の第1ステージからに期待しましょう。

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