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2012年6月13日 (水)

『映画は父を殺すためにある』だけじゃない、すべての若者は父親を殺すために存在するのだ

「映画は父を殺すためにある」なんて物騒なタイトルがついているが、「通過儀礼という観点から映画を見ると」ということであるのなら、やはりそれは「父親殺し」ということになるのだろう。

『映画は父を殺すためにある 通過儀礼という見方』(島田浩巳著/ちくま文庫/2012年5月10日刊)

「父親殺し」というテーマでいえばそれはやはりアメリカ映画だろう。ということで、どんな「父親殺し映画」が選ばれているのかといえば、『スタンド・バイ・ミー』『ザ・プレイヤー』『フィールド・オブ・ドリームス』『スター・ウォーズ』『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』『愛と青春の旅立ち』『エデンの東』『理由なき反抗』といったところだ。うーむ、まさに父親殺しの映画たちばっかりだ。

 基本的にその映画が「青春時代」を描くものであるのなら、基本的にそれは通過儀礼を描くものになるだろうというのはよくわかる。しかし、その時に、なぜアメリカ映画は父親殺し、父親との相克を描かれることが多く、日本映画では少ないのか。

 島田氏は『アメリカの社会において、息子と父親、弟と兄の葛藤が重要な意味を持ち、若者にはその葛藤をのりこえて自立していくことが求められているからこそ、そういった現実が映画に投影される。そのように考えなければ、ダース・ベイダーがなぜルークの父親でなければならないのかはわからない。あるいは『フィールド・オブ・ドリームズ』の不思議な声の彼が、主人公の父親でなければならないのか、それも謎のままに終わってしまうのである』というが、むしろ、解説を書いた町山智浩氏の方がわかりやすくその理由を書いていてくれている。

『父との相克をアメリカ映画が繰り返し描く理由には、大きく二つあると考えられる。ひとつはユダヤ・キリスト教の伝統。本文中でも『エデンの東』と旧約聖書の関係が論じられているように、聖書は「神」を父、キリストをその息子、というイメージで描いており、その父子関係が世界理解の基本になっている。もうひとつはアメリカという国独自の歴史。イギリスに対して反抗して独立したアメリカという国は、常に自分を父と戦った息子としてイメージせざるを得なかったのだ。』という、さすがにアメリカ在住何年にも亘る町山氏だけのことはある。

 そして、その逆になぜ日本では父親と息子の相克というのはあまり描かれないのであろうか、ということなのだが。

 多分、それは戦後の日本についてのことではないのだろうか。つまり、戦前の家父長制の中での父親と息子の葛藤というものは、現代以上にあったのではないだろうか。詳しくは知らないが、戦前の日本では食事の際に、父親と長兄がそれぞれの膳に食事を盛られ、それ以外の家族は一緒の膳に食事を盛られたそうである。勿論、おかずの数や内容なんかも異なったものだったそうだ。その位、父親と長兄が家の中心にいて家族を支配していたのである。そんな時代の若者の通過儀礼としては「父親殺し」というのは十分にあったと思われる。つまり父親を頂点とした権力構造があったというわけでね。勿論、そんな形の食事の風景は武士の家、武士の家系だけだったのかもしれない。だとすると、武士の家系での父親殺しは当然あったはずであり、武士の時代の親子の対立というよくある例は、まるで不思議ではない。農民は若衆宿なんかに入って通過儀礼をおこなっていたそうなので、それは父親とは離れた場所での通過儀礼だったのかもしれないが。

 それが、戦後なくなってしまったというのは、やはり日本の敗戦というものが大きくのしかかっているように思われる。1945年8月15日をさかいに、それまでの天皇を頂点にした日本の家父長制、父親(あるいは日本国民のすべての父親)が絶対に正しいという価値観は破れ去ってしまった。昨日まで威張りくさっていた家の中での父親や長兄という存在や、やっていることが、敗戦によってすべて間違っていた、すべて正しくなかったという価値観に反転して、その日をさかいにまるで無価値のものになったしまったのだ。父親の言っていることの無価値性、父親の存在の無価値性が戦後社会に生きる我々にとっては自明のものとなり、そのような父親との相克なんてものはあり得ないものとなってしまったのだ。父親なんてはじめから相手にせずに、馬鹿にするものとしてしかあり得ない。父親の方も、それまでの自らの価値観がゼロに帰してしまった現実から、自らの存在をもゼロにしたい、自らの発言にも責任を持たない、自らの行動も息子たちの規範にはしたくない、という具合に。

 そんな「父親なき時代」の若者の反乱が1960年から70年にかけての学園闘争だったと考えれば、理解できることがある。つまり、それは父なき世代の「なにものか」に向けた反乱だったのだ。その「なにものか」が人によって異なり、自民党政治だったり、アメリカ帝国主義だったり、スターリン主義だったり、共産党だったり、中国だったり(右翼の場合)、公害企業だったり、とにかくそれらすべての「なにものか」。それこそ、反乱している本人たちですら分かっていない「なにものか」というものがあったのだ。とにかく「何か」に向かって反乱したい、反抗したい。とにかく、その反乱の対象が強固なエスタブリッシュメントであればあるほど、反乱の質が高まると考えた若者たち。

 言ってみれば、マルクス・レーニン主義なんてものは、反乱の理由づけに使っていただけで、とにかく反乱の材料になるものさえ手に入れられればいいという考え方。

 そういう意味では、まさしく1960年代の若者たちは「父なき時代の父親殺し」を演じていたといえるのではないだろうか。それぞれがそれぞれに、勝手に自分の父親を設定して、それと戦っていた時代。そして、その自分の戦っていた相手がすべて幻想だったことに気付いた時、若者は宗教に走ったと考えると、なぜかオウム真理教というものが理解できるのだ。

 さて、次なる時代の父親はいかなるものとして、若者の前に登場するのであろうか。最早、若者の時代をとうに過ぎた老人としては予想もつかない。

 グローバリズムなのかテロリズムなのか、あるいは、「勝ち逃げ」を決め込んだ「団塊の世代」なのか……。

 まあ、最後のやつだと考えるのが、一番妥当だろうな。ヘッヘッヘ……。

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