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2012年4月 5日 (木)

押井守『コミュニケーションは、要らない』に見る反語(アイロニー)

 こうした反語的表現は本のタイトルでよくやる手なのだが。

『コミュニケーションは、要らない』(押井守著/幻冬舎新書/2012年3月30日刊)

 押井氏に言わせればコミュニケーションには二つの側面がある、という。つまり、ひとつは「現状を維持するためのコミュニケーション」で、もうひとつは「異質なものとつきあうためのコミュニケーション」だということだ。

 前者は言ってみれば「身内のコミュニケーション」。「ご近所づきあい」「会社づきあい」「先輩とのつきあい」「友だちとのつきあい」「夫婦関係」「家族関係」「恋愛関係」を維持するためのコミュニケーションであり、それは「馴れ合いのコミュニケーション」とでも言うべきものであり、実は日本人がコミュニケーションという場合の殆どの意味はこちらに収束するという。

 しかし、大事なのは後者たるコミュニケーションではないのか。つまりそれは「議論」、会社や学校での「会議」や国同士の「外交」、企業間での「交渉」などなど、異質な世界や異質な文化といかにつき合い、新たな関係性を生み出すか、ということなのである。

 しかし、日本人は前者のコミュニケーションばかりに注力して、後者の本来のコミュニケーションをほとんど無視する、というか、日本人同士でそうしたコミュニケーションを図ろうとすると、「空気嫁」なんていって攻撃されたりする、気持ちの悪い民族性をもっている、という点に注目して『コミュニケーション(がその程度のものだったら)は、要らない』と言っているのだ。

 本来、コミュニケーションというものは、異質なものとの徹底したロジックによる闘いの筈である。その闘いの結果、新たな次元の了解点に達するというのが、弁証法的なコミュニケーションのあり方だろう。

『なぜこの人はこんなことを言っているのか?

 それを知りたいから、コミュニケーションをとろうとする。

 その根本にあるものが、個人的な好奇心であってもビジネス的な利害であってもいい。この人の言っていることが理解できないと仕事にならないという理由からでもいいし、女の子を口説き落とすためでもいい。この金持ちをたらしこみたいという邪な動機でもいいし、単純に面白そうだなという興味本位でもいい。

 ともかく、本来コミュニケーションとは、そういう異なる者同士の摩擦や抵抗なしにはありえない。ところが今の日本ではありえている。

 むしろ、いかに自分が無抵抗であるかが価値として通用しているのだ。』

 というところが問題なのだろう。つまり、「私はこの社会に異を唱えているのではありません」ということの表明のためにコミュニケーションがあるという、気持ち悪さ。日本中が「絆」とか「頑張ろう東北」「反原発」とか同じことを言って、それがコミュニケーションだと考えている薄気味の悪さ。それに異を唱えると、途端に「空気が読めないアホがいる」とされてしまう、そんなことがコミュニケーションであるならば、そんなコミュニケーションは要らないのだ。

 むしろ、「私は原発推進派である」という人がいたら、なぜそうなのか、なぜそういう考え方をするのかについて、徹底的に「ロジック」で討論することが本来のコミュニケーションなのではないだろか。そうして、そこからお互いに別の次元に至って結論を出す、あるいは出さない。

 日中、日韓、日露の国境問題なんかでも、そこに日本の主権を主張する人たちは沢山いる。政治家もいる。いわゆるネット右翼もいる。勿論、リアル右翼もいる。しかし、彼らの一人として中国、韓国、ロシアの人々と、その国境問題について話し合った人たち、コミュニケーションをとった人たちはいるんだろうか。殆どの人たちは、日本の国内で在日大使館あたりでデモをして、勝手に日本の主張を唱えているだけの人たちなのだ。例えば、ロシア人と国境問題についてまともに話し合ったことがある政治家は鈴木宗男くらいしかいないのではないか。

 そう、お互いに全面的に主張がぶつかり合う状況で会話する、それが本来のコミュニケーションのあり方だ。そこにあるのは「ロジック」だけである。日本人同士が交わすコミュニケーションなるもののような、「雰囲気」とか「空気」とか「お互い分かっているでしょ」的な了解事項はないのだ。それが、本来のコミュニケーションであるし、そうしたコミュニケーションを通した結果として、次の次元の了解点と対立点が見えてくるのである。

 相手との対話のない、勝手なデモだけじゃそれは叶わないことなのだ。

 そうした、本来のコミュニケーションを徹底的に避けてきた戦後(第二次世界大戦)の日本に対して、押井氏の目は厳しい。当たり前である、とにかく真摯な対立を避けてきた67年なのである。

 結果、政治はとにかく劣化し続け、経済も劣化し続け、もはや文化までもが劣化している。アニメ? コミック? カワイイ? ふざけんじゃないよ。そんなものは、すぐに他国に真似されておしまい。もうすぐ、中国や韓国あたりから「アニメ」「コミック」「カワイイ」が出てくるのである。もはや、日本発の文化なんて、他国に凌駕されておしまいになるだろ。現実的に、アニメについては動画マン訓練ができない日本では最早優秀な原画マンが育たなくなっているという状況がある。日本産アニメかと思って見ていたら実は韓国産だった、中国産だったという時代が、もうすぐその先にまできているのだ。

 結局、それもコミュニケーションを通じて外国と関わってこなかった日本人の問題なのだ。まあ、それもしょうがないかな。そうやって、日本はどんどん世界の中で沈没していくのだ。

 さいごに、「第5章 終わりなき日常は終わらない」というタイトルからしてみて、これは『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』について語っていることは見えているのだが、その「終わらない日常」が終わってしまったという言い方があるそうである。要するに;

『震災を契機に、この「終わらない日常」なるものが根底から崩れたという言説がある。

 それが本当なら、僕が「ビューティフル・ドリーマー」を作ったときに込めた目的は震災によってついに叶えられたことになる。

 しかし、残念ながら、この指摘は誤りだ。

 震災から1年以上が経過した今、日本は何か変わっただろうか?

 ものを作っている現場がどうこうという以前に、日本という国が震災前と後でどう変わったか? 変わる兆しがあるか?

 少なくとも僕には何も変わっていないように見える。

 変わらないからこそ、原発がメルトダウンするまでほったらかしだったのだ。』

 核爆弾を二つも落とされた国が、原発という「核(爆弾)の平和利用」というお題目だけで、それを許すという「無思考」に陥ってしまったのは、まさしく戦後日本人の「モノを考えない」生き方の結果なのだ。

 こういう言い方をすると、すぐに「マスコミの言うことを信じるのは情弱だ」というネット人民の発言につながるのだけれども、しかし、「マスコミは嘘ばっかり」というネット住民も「ネット情報」にはすぐ食いつくという、もう一方での「情弱」ぶりを示している。

 そうじゃなくて、取り敢えず、いろいろ入ってくる情報はすぐに信じないで、いろいろウラとかを調べて、自ら納得できる情報を信じればいいのだが……。その調べ方はどうすれば? という問題もあるのかな。

 まあ、取り敢えず、本書第6章の押井氏の言葉から、今回の結論としておこう。

『まず、「信じない」ということによって自分で考える。それが今の世の中を生き抜くために必要なことだと僕は思う。』

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