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2012年3月14日 (水)

期間限定の思想

 しかし、御茶ノ水女子大学の土屋賢二氏といい、神戸女学院大学の内田樹氏といい、なんで女子大学の教授ってのは、面白いエッセイをモノにするのだろうか。

『期間限定の思想 「おじさん的思考2」』(内田樹著/角川文庫/2011年10月25日刊)

『期間限定の思想』という発想は正しい。何故ならば「現代思想」なんてものは、時とともに変化していくものだし、「思想」として紙の上に定着してしまったら、その一瞬からすでに劣化が始まっているものなのだ。したがって、「フランス現代思想」の研究家である内田氏が、自らの思想を「期間限定」というのは、まったく正しいだろう。つまり、書かれた時から既に9年の時を経て文庫化されたこの本は、実際には読むに値しない本であるべきなのだ。過去の「期間限定の思想」を今更読んでも何かあるのか? ということなので、今回は全然別のテーマについて語る。それが、上にあげた「女子大学の教授の書くエッセイは何故面白いのか」ということである。

 別に、ツチヤ教授とかウチダ教授とかのところに、特別面白いネタを提供してくれる女子学生がいるわけではないだろう。多分、共学の大学に通う女子学生の場合、「人を愛するって、どういうことなんでしょう」なあ~んて疑問は当然担当教授のところに持ってくる前に、ボーイフレンドたる男子学生に発せられるわけだ。で、その疑問を持ってこられた男子学生は、いかにもな返事をするわけなのだが、しかし、これがてんで見当違いな返事なのだろうな。でもこれまたバカな女子大生は、そんなバカ男子学生の答えで大半は満足してしまい、担当教授のところまではその疑問は持ってこない。

 しかし、女子大学の学生は、そんな相談相手になる男子学生もいないだろうし、家族を除けば唯一の「男」である担当教授のところに疑問を持ってきてしまうのだ。で、そんなピュアな女子学生をネタにして、担当教授はエッセイを一本モノにしてしまうわけなのだろう。うん、女子大学の教授ってのも結構いい仕事だな。真面目で可愛い女子大生に囲まれて、なおかつ彼女たちがもってくる疑問をネタに本が書ける。私も女子大学の教授にでもなってれば良かった。なんてね。

 しかし、「期間限定の思想」もまだまだ使える部分もある。例えば;

『アメリカ社会の「人間の価値は年収で判定される」という価値観のせいで、どれほど成員たちの心が痛めつけられているか。傷つけられた人々が切望する「癒し」のために、どれほどの社会的リソースが蕩尽されているか。

 この社会的コストのバランスシートはいまはかろうじて「黒字」になっているが、「赤字」に転じるのは私の見るところもはや時間の問題である(いまや「赤字」に転じている:引用者注)。だが、このことに気づいている人間は少ない(しかし、これはある意味では気の毒なことでもある。「人種のサラダボール」であるアメリカ社会においては、文化も信仰も言語も美意識も違うエスニック・グループが混在している。それらを貫通しうる価値基準を探したら、「年収」以外にない)。』

 という指摘は今でも有効であるし;

『この「ダメ人間」世代の歴史的機能は「バブル期における、ゆきすぎた蕩尽と成功志向の補正」であるので、ある程度修正がきいて、社会システムがうまく動きだしたら、事情は一変する。

 つまり。「パイの奪い合い」からこの世代がまるごと「脱落する」ことで競争が緩和され、シュリンクしたマーケットの中でのリソースの分配が秩序を回復したとき、この世代はその歴史的使命を終えて、まるごと「棄てられる」可能性があるからである。

 彼らより若い世代、およびアジアからチャンスを求めて日本のマーケットに参入してくる若者たちは、彼らより高い地位、高い賃金、大きな権力、多くの情報を(彼らがスペースを空けてくれたおかげで)はるかに容易に手にすることができるだろう。そして、後進に「スペースを譲った」ダメ世代は、その後いわゆる「3K労働」を担当するブルーカラー層を構成することになる。』

 という指摘は、いまや徐々に実現しつつある。

 しかしながら、『長嶋の悪口を言う人がいないように『男はつらいよ』を徹底的に批判する批評家もいませんね。批判するとしたら、「どの作品も話が同じだ」とか「登場人物が類型的すぎる」とかそういうことでしょうけれど』という部分はちょっと違うな。

 批評家が『男はつらいよ』を批判しないというのは、別にみんなそれが好きだったからではなく、「当たっていた」からなのだ。あまり「当たっている」作品を批判したくないのは、批評家が「映画界」で生活している以上、仕方のないことなのだ。本来は、「寅さん的世界観」を嫌っている映画人は多い。つまり、山田洋次がつくる「寅さん世界」は、実に日本大衆の深層心理に深く入り込むことが出来るので、そんな「大衆」の心理に入り込むやり方、映画の作り方に反撥している。同じことはスタジオ・ジブリの宮崎駿的世界にも感じている。

 山田洋次、宮崎駿の方法論は、いわゆる「大衆」というものを設定して、その「大衆」に如何にして「入り込むことが出来るか」という視点から、映画を作っているのだ。本来、作家としての映画監督という立場からは離れて、「大衆」を置く。確かに、それは「事業家」としてはいいかも知れないが、決して「作家」の発想ではない。そうした「作家」の発想を忘れて映画を作る姿勢を嫌う映画人、批評家は実は多いのだ。

 そうした批評家は、やはり『三丁目の夕陽』的映画も嫌うのだ。

『自分がいなかった場所、自分が触れなかったものを私たちは「懐かしく」感じることができる。自分が経験しなかった出来事を自分の「過去」であるかのように回想することができる。それはある時代をともに呼吸した人々と一種の「巨大な記憶」を共有しているという感じに近い。』

 こういうとき、その「想像的に共有された記憶」によって、昭和三十年代の東京なんてものが「懐かしく感じられる」という「大嘘」に感応してしまうのだ。

 まあ、こうした「寅さん」的なものや「三丁目の夕陽」的なものを、批判できないところが内田氏の弱点だな。「集合的無意識」は認めているのに………。

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