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2012年3月 4日 (日)

『生きる希望を忘れた若者たち』っていうほど絶望的ではないという現状

「生きる希望がない若者たち」の本かと思ったら、そうではなく「生きる希望が本当はあるんだけれども、そのあることを忘れてしまった若者たち」についての本であることに、読み終わってから気がついた。

『生きる希望を忘れた若者たち』(鈴木弘輝著/講談社現代新書/2012年2月20日刊)

 つまり『第一段階では、「いま」だけを重視するコミュニケーションが支配的になり、第二段階では、人々がそれぞれの行き続ける指針を見失ってしまう。そして、第二段階がある程度まで達成する中で、第一段階にある「いま」だけを重視するコミュニケーションの中に居続けるようになると、人々は自分が「生きる希望」を持っていたことをいつしか忘れるようになると考えられる。』ということなのだな。

 しかしながら『ここでいう「生きる見本」とは、子どもが「大きくなったらお父さん(お母さん)のようになりたい」というものだ。近代においては、そのような思考・実践習慣が有効に機能していたと考えられる。しかし、現代においては、もはやそのような思考・実践習慣は失われてしまった。近代においては、「お父さん(お母さん)」が「生きる見本」として子どもにみなされるような社会的な条件が備わっていたからこそ、「〇〇離れ」という現象は気にならなかったのだろう。それに対して、現代においては、「お父さん(お母さん)」が「生きる見本」となるような社会的条件が失われてしまったからこそ、「〇〇離れ」などという現象が意識されるようになったのではないかと考えられる。』というとき、筆者自らが属する「団塊ジュニア前後の世代」というのはどこにいるんだろうか。つまり、「団塊の世代の子育て」自体がすでに「親の背中を見せて」子育てをすることはなくなってしまっているはずであり、いわゆる「友達親子」という気持ちの悪い関係が始まっていたはずである、それからすると「団塊ジュニア前後の世代」から既に「生きる希望を忘れた世代」が始まっていたということではないのだろうか。

 多分、私の世代(1951年生まれ=団塊の最期の尻尾)あたりが「生きる見本」を見ながら育った最後の世代なのだろう。それにしたって、既に核家族化は始まっており、同時に大方の大人はサラリーマン化していて、親父が仕事をしてる状態を子どもが見て育つという環境にはすでにない。私のような(足立区という)場末に育った人間の一部が、親が商売をしていて、その状態を見ながら育ったという環境にはあったのかもしれないが、山の手の人たちは既にサラリーマンの親の元で育っている筈であるから、そんな「親の背中を見ながら育った」経験はないはずである。

 では、なにがいまの若い世代が「生きる希望を忘れさせている」のだろうか。多分、それは大人たちの情けないありさまなのであろう。つまり、経済が停滞しても、それに対する効果的な対策もなく、単に「日本が円高だから輸出がうまくいかない」と言ってみたり、「モノ作りの主体が低人件費のアジアに移ってしまったので、日本のモノつくりは対抗できない」という言い訳をしてみたり、金融機関の破綻に際しても外国企業に売っ払って何とも感じていない政府のあり方とか、東京電力の処理についても、なんら斬新な発想のない大人たちなのである。つまり、「日本の将来にまったく展望がみられない」ということなのだ。

 そうした大人たちの、「前例のないことに対する判断力の低下」が問題なのだ。私も会社に何か提案するたびに、「それは前例があるのか?」と問われた。出版社みたいな「前例破り」が当たり前のような会社でもそうだったのだから、一般の会社ではもっとすごいんだろうな。この官僚制は。だからこそ、若者はそんな日本を見限って、勇敢な人たちは海外に行ったり、海外に行けない者たちは、日本国内で引きこもったりするわけだ。

 まあ、それは仕方がない。

 というか、それでいいのだ。最早日本はそのようになるしかない国であり、そんな存在であるのだ。同時にそれはアメリカでもあり、韓国でもあり、中国でもあるのだ。つまり、世界はそのようにしか進まないということ。

「生きる希望を忘れた」からって、生きなくなってしまうわけでもなくて、しっかり若者は生きているのである。勿論、活力はどうかという問題はあるけれども、基本的にはみんな生きているし、「生きる希望」をなくしてなんかいないし、忘れてもいないんじゃないか。現場では。

 そう、社会学者の立場からは「生きる希望を忘れた若者たち」が見えるのかもしれないが、現実の若者たちは、そんなに「希望」をなくしているわけではないのだ。

『もう日本に経済成長は期待できないかも知れない。だけど、この国には日々の生活を彩り、楽しませてくれるものがたくさん揃っている。それほどお金がなくても、工夫次第で僕たちは、それなりの日々を送ることができる。

 たとえば、ユニクロとZARAでベーシックなアイテムを揃え、H&Mで流行を押さえた服を着て、マクドナルドでランチとコーヒー、友達とくだらない話を三時間、家ではYouTubeを見ながらSkypeで友達とおしゃべり、家具はニトリとIKEA。夜は友達の家に集まって鍋。お金をあまりかけなくても、そこそこ楽しい日常を送ることができる』から、『日本の若者は幸せだからです』と書く『絶望の国の幸福な若者たち』の古市憲寿氏ではないが、基本的には日本の若者たちも普通の生活を送っているのだ。

 まあ、そんなに鈴木氏が心配することでもないようである。

 塾講師に邁進してください。なんか、その塾講師に触れた部分だけ鈴木氏の筆致も生き生きしているのだ。都留文科大学の教師の仕事よりは、塾講師のほうが鈴木氏に向いているのではないか?

 

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