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2012年3月

2012年3月31日 (土)

『ON THE ROAD』再読

 ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』を再読している。

 なぜか、最近、ポール・ニザンの『アデン・アラビア』とか『オン・ザ・ロード』とかの青春文学を読みたくなったのである。まあ、齢をとって、昔を懐かしむって奴かな。

『オン・ザ・ロード』(ジャック・ケルアック著/青山南訳/河出書房新社/2007年11月9日刊)

 申し訳ないが、福田実訳の『路上』よりは、青山南訳の方が「らしい」。

 なんか、以前から主人公サル・パラダイス(ジャック・ケルアック自身)と同じ道程を辿ってみたいと考えていたのだが、今またその感を強くしている。今年で定年になって時間が有り余るほどになったら、できたら行ってみたい。題して「ジジイ・オン・ザ・ロード」である。

 勿論、その次はアデン・アラビアである。言葉が通じるかどうかが、ちょっと不安であるが。

 旅の行程は以下のとおり;

<第1部>

ニューヨーク→ピッツバーグ→アシュタビラ→シカゴ→デモイン→オマハ→シャイアン→ソルトレイクシティ→サンフランシスコ→フレズノ→ベイカーズフィールド→ロサンジェルス→フラッグスタッフ→ダルハート→セントルイス→インディアナポリス→コロンバス→ピッツバーグ→ニューヨーク

<第2部>

ニューヨーク→パターソン→ワシントン→メイコン→ニューオリンズ→ヒューストン→フレデリックバーグ→エルパソ→ツーソン→ベイカーズフィールド→フレズノ→サンフランシスコ

<第3部>

サンフランシスコ→ソルトレイクシティ→デンヴァー→コロンブス→オマハ→デモイン→シカゴ→デトロイト→ピッツバーグ→ニューヨーク

<第4部>

ニューヨーク→パターソン→ワシントン→チャールストン→インディアナポリス→セントルイス→デンヴァー→コロラドスプリングス→ダルハート→フレリデリックバーグ→サンアントニオ→ラレード→メキシコシティ

 まず、ニューヨークに行って、レンタカーでも借りて、フリーウェイで西へ西へと進む旅だ。最初は、ニューヨークから北のほうを通ってサンフランシスコに行き、多少南下してからニューヨークへ向かって、北東を目指す。

 次は、ニューヨークから南下して中西部から北西へ向かい、サンフランシスコまで。

 そして、サンフランシスコから北の方を通ってニューヨークへ至る道程。

 最後は、ニューヨークから中西部へ行き、そこから南下して、メキシコシティで野垂れ死ぬのだ。まあ、原作では野垂れ死んじゃいないがね。

 いいねえ、この最後の野垂れ死にってのが、死に方としては最高だ。

 まず、とりあえずはその辺の行程のイメージ・トレーニングだな。イメージ・トレーニングが出来たら……出発だ。

 おっと、その前に、青山南翻訳版じゃなくて、原語版を読まなきゃな。

 実際のケルアックの文章を楽しまなきゃ始まらない。作家のトルーマン・カポーティに「あれはライティングじゃなくてタイピングだ」と言われた、ビート感溢れる文体を楽しまなきゃ、実際に「On the Road」を読んだとはいえない。以前、読もうとして途中で挫折をした「On the Road」に、もう一度、挑戦だ。

 まあ、時間はたっぷりあるんだし……。

『On the Road』(Jack Kerouac/Penguin (New Edition)/1998年9月3日刊)

 って、何を突然書いてしまったんだろう。

 ほとんど「自動筆記」だな。

2012年3月30日 (金)

日経平均を捨てて、この日本株を買いなさい。

 この時代に、何とも元気にさせてくれる本である。

『日経平均を捨てて、この日本株を買いなさい。』(藤野英人著/ダイヤモンド社/2012年2月9日刊)

 2008年9月末から2011年9月末までの3年間でTOPIX(東証株価指数)は30%も下落しているなかで、全上場会社3878社のうち1217社が株価が上昇している。さらに同時期に50%以上株価が上昇している会社は332社もあるというのだ。『日本の上場をしている会社の10%近い会社が、市場が3割も下がっている中で5割以上も株価を上昇させている』という事実は何を物語っているのであろうか。

 つまり、東証一部上場企業から225の企業を対象にしてその株価指数を15秒ごとに示したのが日経平均であり、東証一部上場全銘柄を対象として出したのがTOPIXという違いはあるが、要は「大企業」中心の指数である以上は、大きな景気の波に飲み込まれやすい、ということなのだろう。要はマクロ的な観点からみた景気指数であるところの日経平均やTOPIXからはこぼれ出てしまった部分に、投資家はもっと目を向けよという本なのである。

 藤野氏が「この会社は有望」と推奨する企業は、そんな既存大企業とは違って、経営者の顔が見えて、なおかつその経営者が明確なビジョンを語れる企業である。要は、現状はまだ中小企業体質をもった会社。確かに、それはその企業を信頼するに足る理由である。一方、既存大企業はその殆どがサラリーマン経営者であり、そんなサラリーマンが経営のビジョンなんて持ちようがない、というか自分が経営している間はとりあえず大過なく時を過ごせればいい、という発想の下に会社経営をしているわけだ。まあ、どちらが会社として魅力があるかという観点で見れば、それは絶対に前者になるわけだな。しかし、投資というのはいわば「博打」である。自分が投資した会社が上手く行くかどうかなんてのは誰もわからないわけで、だったら、ダメになってもいいから社長とお友達になれる会社に投資するか、あるいは、堅実に安定志向で大会社に投資するのかは、個々の投資家の性格によるところが大きいのではないか。

 ということで、そんな後者のような投資家に、いえいえ前者のほうが面白いですよ、というのが藤野氏のスタンスだ。

 まあ、例えばベンチャーキャピタルに投資をするエンジェル投資家なんて、基本的には純粋投資というよりは、ベンチャーキャピタルの経営者と「一緒の夢を見ようよ」という感じが強いのだろう。そして、ベンチャーキャピタルの99%位は市場を去って行くのである。アメリカでは。つまり“Dream Come True”のアメリカでも、その大半は夢破れて去って行くのである。それは厳しい実業の世界なのだから。その意味では、アメリカに比べて起業のハードルが高い日本では、逆にアメリカよりは成功の確率は高いのだろうか。多分そうだろう。しかし、それは数パーセントの違いでしかないと思う。やはり、ベンチャーキャピタルが生き残る可能性は相当低いだろう。だからこそ、挑戦し甲斐があるというところに前向きになったほうが面白いということなのだろうな。

 2012年以降の世界経済の5つのトレンドがあるという。

①IT革命のさらなる進展

②新エネルギー革命の本格化

③新興国経済の勃興

④グローバルデフレ

⑤所有から利用への流れが強まる

 という5つのトレンドである。

 ①から③までは、すでに現在進行中であり素人にもよく分かる状態だが、④のグローバルデフレについては初見である。つまり、第二次世界大戦の敗北によって殆どゼロベースになってしまった日本経済であるが、その後、高度経済成長を国一体で成し遂げ、その後デフレに陥ったわけであるが、それがアメリカや欧州のデフレの後追いではなくて、むしろ日本が先にデフレに陥ったという観点は何を言ってるのか。

『私は、「今後世界の経済が日本化していく」と予想しています。

 日本はこの20年間で国家債務を膨らませ、その結果として低い経済成長とデフレの状況に陥りました。経済学における研究では、国家債務がGDPくらいの水準まで膨らむと、その国の経済成長率が低くなることが知られています。

 今、日本以外の欧米先進国が、日本と同じように国家債務を膨らませ、その水準は軒並みGDP並かそれ以上の状態になっています。

 そのため、今後は日本以外の先進国が、日本のように低成長でデフレの状態に陥っていく可能性が高いと思います。こうした動きは専門家の間で「グローバルジャパナイゼーション(世界の日本化)」と呼ばれています。』

 なるほど、もはや日本は海外のトレンドを追いかける存在じゃなくて、海外から追いかけられる存在になったのだな。って、これってレーニンが言っていた「歴史の不均等発展の法則」のままじゃないか。資本主義の面で遅れていたロシアが、しかし先進国に先立って社会主義革命を起こしてしまうという、マルクスの「資本主義の最高段階での共産主義革命」というテーゼに反する、一国社会主義の考え方。

 ふ~む、最早日本はそんな段階にまでいってしまったんだな。

 それは喜ぶべきことか、悲しむべきことか。

 まあ、世界に範を示すという意味では面白いかもしれないな。要は、日本型デフレ脱却モデルが、世界モデルになるなんて、いいじゃないか。

 というか、その前に日本がデフレ脱却をすることが大事なんだけれどもね。

 

2012年3月29日 (木)

スーパー・マリオを見てきた

『スーパー・マリオを見てきた』と言ったって、ピーチ姫とかクッパとかが出てくるマリオとルイージの「スーパーマリオ・ブラザース」のことではない。当然。

1

スーパー・マリオさんです

 ここで言う「スーパー・マリオ」とはマリオ・モンティ・イタリア共和国閣僚評議会議長(首相)のこと。

 昨日、駐日イタリア大使館と日経新聞の共催で、マリオ・モンティ氏の講演会があったのだ。

 モンティ氏は、韓国核サミットのあとの、京都旅行のつもりで日本に来たのだろうが、そこで日経新聞につかまってしまったんじゃないか。

 で、講演会の話の内容は今日の日経新聞(夕刊?)に載るだろうから、あまりその内容には触れない、っていうより最早、新聞を読んでみても、イタリアの経済危機からの脱出はかなり見えてきているんじゃないか。

 女の尻ばっかり追いかけて、おまけに身内の脱税疑惑とか汚職疑惑とかいっぱいあるのに、何故か国民からそこそこの支持を受けていたベルルスコーニ首相(この辺がイタリアっぽい)が、さすがに現在のイタリアの経済危機に対して何ら解決策を見出せないことに業を煮やした、ジョルジョ・ナポリターノ大統領から、2011年11月13日に第82代閣僚評議会議長に指名されたのが、マリオ・モンティ氏である。

 12月4日には、年金支給年齢の67歳までの引き上げや、付加価値税の2%増税、株式・金融商品・贅沢品に対する課税、州議会議員定数の10人への削減、公選制州政府公務員に対する給与の廃止などを盛り込んだ、総額300億ユーロ(約3.3兆円)の緊縮財政策を提案し、実現した。その辺の辣腕振りから「スーパー・マリオ」と呼ばれたのである。

 モンティ氏は首相と同時に経済・財務相を担当する。ミラノのボッコーニ大学で経済と経営の学位を修め、イェール大学大学院で経済学を研究し、トリノ大学で経済学を教え、母校、ボッコーニ大学で学長、総長を務めたわけであるが、それと同時に、欧州連合の委員会で重要な立場での仕事を経た、という経歴から政界入りしてもよさそうなものだが、それをせずに学者のままでいようとしたところに突然の(まあ、別に本人にとっては突然じゃないのかも知れないが)首相指名である。

 ただし、問題はそんなところではない。実は、このマリオ・モンティ氏は、どこの政党にも属していないということなのだ。おまけに、マリオ・モンティ内閣の閣僚17人のすべてが政治家ではないということなのだ。うち7名は学者である。

 新閣僚は、北大西洋条約機構(NATO)軍事委員会委員長の海軍提督ディ・バオラ氏が国防相、イタリア最大のリテイル銀行のCEO、コラード・パッセラ氏が経済発展相兼インフラ運輸省、元警察分署長のアンナ・マリア・カンチェリエーリ氏が内相、法学教授で法廷弁護士のパオラ・セベリーノ氏が法相、年金専門家のエルサ・フォルローネ氏が労働・社会政策相、という形である、基本的に、皆、いわばテクノクラートの各分野の専門家なのだ。

 こういう政権を何というのか。つまり、それは「独裁政権」なのだ。だって、本来であれば国会議員(つまり、民主主義的に選ばれた人たち)の中から、首相を選び、閣僚を選ぶというのが、民主主義的な首班の選び方であり、内閣は国会に責任を負う、と思っていた。つまり、首相とか国務大臣は国会議員に対して責任を負うというのが普通だと考えていたら、大統領の指名でもって首相を選び、その首相が国会の承認を得て組閣・政策を行うってどうゆうことよ。つまり、この内閣は「国会議員に対して責任を負わなくていい」のだ。それこそ、橋下徹大阪市長がやりたかった政体だ。

 その政権が行う政策については、基本的には国会の承認が必要なのは言うまでもない(というか、それすらも必要なくなってしまったら、そもそも国会がいらなくなってしまう)、しかし、その提案するものは、今の日本の政体とは違って、「有象無象の陳情」を気にしないでいい提案なのだ。まあ、いわゆる「総論賛成・各論反対」の総論部分だけを抽出した提案。これっていいじゃない。

 おまけに、その政権は国会に責任をもつ必要がない政権なのだ。もともと、国会に基盤を置いていない政権なので、個々の政治家の支持者の細かい陳情なんてものは気にしなくてもよい。という、結構毛だらけの方法論なんだけれども、じゃあ、これを日本に摘要するとなると、結構難しい問題がある。

 もともと、憲法第68条第1項で「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、指名されること」というのが定められていて、なおかつ同じ第68条第1項但し書きで「国務大臣の過半数は、国家議員の中から選ばれなければいけない」という縛りがある。

 つまり、共和制でない我が国では、「国事行為をしてはいけない」とされる天皇が、内閣総理大臣を「勝手に」指名することは出来ないし、天皇もそれをやる気はないだろう。

 おまけに、「政治家生活の上がり」に国務大臣の席を狙っている代議士にとっては、それが学者やテクノクラートに取られるのは惜しいとは思うのではないか。

 この辺、やはり世界で一番古くから「民主制」を経験しているイタリア人はすごいな、というところである。

 つまり、「民主主義的に選んだ独裁制」という発想だ。要は、民主主義だけで行っては、結局それは「ポピュリズム=衆寓政治」に至ってしまう、ということを踏まえて、普通に国民が生活できる状況では民主主義ではあるが、いざ、国民的な不況になってしまったら、その解決策は既成政党では無理だろうから、そのときは独裁制を認める、ということなのだ。要は、独裁制でないと、社会を根本的に変えることは出来ない、ってこと。

 まさに「プロレタリア独裁」ってのはその根本である。勿論、「独裁」とはいっても、プロレタリア・ソビエトのなかでの民主主義は徹底してるという前提条件があるわけだ。

 それは、いいとして。

 多分、その国民の「感じ」を読み取ったのだろう。マリオ・モンティ氏の今のところの政策は当たっている。年金問題と、課税問題、この辺は日本も同じだ。問題は、これから先(例えば、00年後)のことなんだけれども、そこは日本・イタリアも分かってはいない。しかし、モンティ氏の方法論でもって、イタリアの対外債務とか、不良債権とか、国債低下とかの問題が解決されるのであれ、それは素晴らしいことだ。

 まあ、いずれにせよ、さすがに民主主義「先進国」イタリアだけのことである。今後、モンティ氏の方策が上手くいけば、イタリアは再興。まあ、だめでもこれだけ施策を打っておけば、どうにかなるでしょ。

 あとは、日本がどうなるかですね。ちょっとバカシ、目先を代えて「民主独裁制」を試して見ますか? 問題は「誰が、誰を見つけるか」ということなんだけれどもね。

 しかし、それは憲法を改正しなければならないので、結構難しいぞ。

 

 

 

2012年3月28日 (水)

『元証券マン 日本の保育を変える!』

 ちょっと訳あって読んだ本だ。

『元証券マン 日本の保育を変える!』(山口洋著/かんき出版/2012年3月5日刊)

 もともと、大和証券の社員だった山口洋氏が始めた会社で、JPホールディングスという持株会社の下に、日本保育サービス、四国保育サービス、ジェイプランニング販売、ジェイキッチン、ジェイキャストという5つつの会社があり、首都圏を中心に保育所104施設(うち認可保育園72、東京都認証保育園28)、学童クラブ39ヶ所、児童館7ヶ所を運営している、そんな会社の社長が書いた本だ。

 ポイントは全国で2万5000人以上いるといわれる、保育園に入所を申請しても入れない「待機児童」の存在だ。これは入所を申請したけど入れなかった人の数なので、初めから入所をあきらめている人を含めると、潜在需要は80万人を超えるという調査もあるそうだ。もう一つは、2000年に行われた児童福祉法の改正で、社会福祉法人だけじゃなくて株式会社を含めた民間事業者が保育園を運営できることになったことだ。

 少子化が叫ばれている時代になんで「待機児童」が? と思われるが、しかし、実際にはそれだけ専業主婦が減って、働く女性が増えてきたということなのだろう。勿論、その理由は夫の収入減という問題もあるだろうが。事実、保育園とは逆に定員割れしている、専業主婦の子どもでないと入れない幼稚園が全国で13,000ヶ所あるという。

 ともあれ、これからの需要が2万5000人から80万人いるというのは、大変有望な市場である。元証券マンがここに商機ありと目をつけたに違いない。

 山口氏は独立して最初はオフィスコーヒーサービスを始めたそうだ。そのうちオフィスではなくパチンコ屋でコーヒーサービスを始めた。まあ、それがJPホールディングスの本社が名古屋にある理由なんだろうけれども。これが当たって販路を拡げることになるうちに、そのサービスをする女性がどんどん増えてくる。そこは女性なので、結婚して辞めたり、子どもが出来て退職したりする人が多くなるわけだ。

 せっかく仕事を覚えたのに辞められてしまえばそれは戦力低下である。そこで、山口氏はパチンコ屋の駐車場に託児所を作り、仕事中のお母さんから子どもを預かるということを始める。と同時に、その頃、パチンコ屋の駐車場の車内に子どもを置き去りにして遊んでるうちに、子どもが車内で熱中症になって亡くなる事故が多く見かけられ、社会問題化していた。そこで、山口氏は自社の社員ばかりでなく、パチンコ屋の店員やお客さんの子どもまで預かることにする。いずれにせよ「託児所付き」という雇用条件は効果を発揮したという。

 当然ここまでは、いわゆる「無認可保育」である。ところが、世の中の流れが変わってきて、「待機児童」の問題が社会問題化することになり、政府はそれまでの規制を緩和して、株式会社でも保育園を運営できるように世の中の流れが変化してきたのだ。

 まさに商機である。

 それ以降は、2001年に2ヶ所、2002年に1ヶ所、2003年に6ヶ所、2004年に6ヶ所、2005年に5ヶ所、2006年に13ヶ所、2007年に12ヶ所、2008年に18ヶ所、2009年に11ヶ所、2010年に30ヶ所、2011年に21ヶ所という具合に、急速に数を増やしていく。この辺は、さすがに元証券マンではある。一瞬の商機を逃さず、一気呵成に市場を席巻していくのである。当然、そのための借入金は並大抵ではないだろう。しかし、着実に市場を増やしていっているので、多分、株の時価総額はかなり膨らんでいるはずであり、それを続けていく限りにおいて、何の問題もない。ただし、伸び続けている間はね。

 多分、待機児童がかなりいる時期は問題はないだろう。しかし、それがかなり満たされてくる段階になると、社会福祉法人たる中小保育園との軋轢がでてくるはずだ。しかし、大体が世襲の中小保育園は、その時期になったらこんな大会社とは最早競争にならなくなってしまっている。そうなったら、中小保育園は潰れてしまうか、この会社に吸収されてしまうだろう。完全にそこは資本の論理である。

 規制緩和というのはそういうこと。

 そのときに至って、山口氏はどういう方向に舵取りをするのだろうか。「より良い保育」を続けるのか、あるいは「利益の拡大化・極大化」の方向に向かうのか。

 当然、株式会社の経営者の仕事は「利益の拡大化・極大化」であり、それは株主に対する責務でもある。しかし、一方で「保育・教育事業」としての子どもに対する責務もある。競争状態にあるときは、そのバランスを考えて経営するわけであるけれども、寡占状態になったときにどうするのか。

 そんな先の話じゃないような勢いで伸び続けるJPホールデイングスである。そのときの山口氏の考え方には大いに興味がある。

2012年3月27日 (火)

『薬指に誓って』というのは単なるフック。問題は電子書籍なのだ。もっとやれよ。

 女性たちに人気のBL(ボーイズラヴ)小説を読んでみた。Sony Readerで。

『薬指に誓って』(あさぎり夕著/集英社コバルト文庫/2012年2月2日刊)

 まあ、要はBL小説ってのは男同士のセックスを描いた「エロ小説」なわけだ。本書でも、一回は挿入はないが「手」でイってしまう男同士のセックスだし、もう一回はアナル・セックスと同時に、アナルに入れられた方も入れた方と同時に射精をしてしまうという、いわゆる「心太(ところてん)」っていうやつ。

 前半の、中学生と生まれたばかりの幼子の関係論に発する、13歳離れた関係論は、いわばセックス関係になる前提でしかない。問題は、2回のセックス・シーンなのだろう。問題は、そこのシーンがいかにうまく描かれるかというための、前置きとしてうまく描かれるかということなのだろう。

 それが、この作品では「刷り込み」の問題となって、不自然じゃないという形になっている。いわゆる「ローレンツの理論」というやつである。主人公、相川碧が幼子のときにいろいろ面倒をみてくれた立脇秀青に対して持ってしまった、「ローレンツの理論」的な慕情。それが、主人公が20歳になったときに、秀青にたいする恋情となって事実化するという話。でも、実際には「ローレンツの理論」では「性倒錯」までには至っていない。というか、その問題にまでは立ち入っていない。多分、アヒルの子供は、父親アヒルについていっても、大人になると雄は雌とセックスするだろう。

 つまりそこは、「文学的想像力」というものだけれども、それはほとんど創造力の飛躍といっていいほどのものだ。まあ、そういう関係もあっていいのかもしれない、という程度の。

 男同士のセックス・シーンに男の読者たる私が興奮するかといえば、まあ、あんまり興奮はしないが、読み終わってトイレにいったときにカウパー氏腺液が出ていたってことは、なるほど結構興奮していたんだろうな。さすがに、それは作者の筆力の巧みさであるだろう。ただし、どう考えても私が男に欲情するなんてことは想像できない。まあ、その辺は私の想像力の足りなさなんだろうな。

 しかし、この小説を読みながら欲情する女ってどういう人なんだろうか。男と男のセックス話なんだよね。そこには女が介在しない。女が介在するセックスだったら、自分の経験や想像に基づいた発想はあるんだろうけれども、男と男ですよ。気持ち悪いだけじゃないですか。でも、この手のBL小説の最大の読者は「若い女性」だというじゃないですか。

 だから、この人たちは書店店員の「お姉さん、こんなのが好きなのね」目線がいやだから、携帯やら電子出版の方に行くんだろな。でも、言っておきますが、書店店員がそんな目で貴方を見てませんから。書店の仕事って忙しいからそんなことを考えているヒマはないというのが実際。別に、普通にリアル書店に行って、多少立ち読みして「これだっ」と決めて、その本をレジに持っていっても、店員は普通にレジを打っておしまいなのだ。

 ということで、実は上にも書いたとおり電子書籍でもってこの本を読んだんだけれども、まあ、あまり電子書籍でよむ必然性は感じられなかったのである。

 でもまあ、女性読者の自意識過剰に過ぎないんだけれども、その結果、日本の電子書籍化がもっと進んでくれればいい。

 もっと、出版社も電子書籍に前向きに取り組んでほしい。少なくとも、リアル書籍と同時に電子書籍と一緒に出せよ。そうしたほうが、読者がどちらの方に行けばいいのか迷わないでいいじゃないか。

 ねえ。

2012年3月26日 (月)

日本一(あるいは世界一)短いタイトルのコミック(多分コミックじゃなくても)『う』

 食べ物をメインとした漫画はたくさんある。しかしこの漫画、なにしろ「うなぎ」だけがネタである。どこまで続くのだろうかと思っていたのだが、意外と健闘している。

『う ①』(ラズウェル細木著/講談社モーニングKC/2011年6月23日刊)

『う ②』(ラズウェル細木著/講談社モーニングKC/2011年12月19日刊)

 うなぎだけがネタといっても、鰻料理なんて、結局「蒲焼、白焼き、肝吸い、肝焼き、う巻き、うざく、骨せんべい」位なもので、あとは蒲焼の変形で「鰻茶漬け、まむし丼」があるくらいなものである。ところが、それだけのネタで漫画を1年続けるってスゴいなあ。まさしく第1話を読んだ『モーニング』編集長に、「オレには次回なにを描くのか到底想像できんよ」と困惑されただけのことはある。う~む、鰻恐るべしですな、まったく。

 しかし、日本人ってなんでこんなに鰻が好きなんだろう。とにかく、一部には「川魚料理」という看板を掲げて、鰻の他に泥鰌や鯉なんかを出す店もあるが、しかし、大半は「鰻屋」という専門店なのだ。そんな専門店がいったい何軒あるんだろう。とにかく、東京だけでも鰻屋のない町はないというくらいある。

 で、まず白焼きと肝焼き、うざくで日本酒を一杯、から始まってシメに蒲焼(私の場合、最初に酒を飲んだときは、鰻重にはしないで蒲焼だけだ)という、鰻食いの基本スタイルは同じようだ。この漫画も、基本はほとんどそのスタイルで毎回、毎回、展開するのだ。それでいてネタに困らないんだから、たいしたものだ。

 しかし、「鰻酒(うざけ)」というのはお目にかかったことはない。多分、東京では出す店がないのではないだろう。しかし、「河豚酒」とか「岩魚の骨酒」というのはあるし、河豚料理店に行けば「河豚酒」は必ずある。しかし考えてみれば「岩魚の骨酒」を出す店は東京では見かけない。ネットで調べてみても、渓流釣りをする人たちの話で、自分で骨酒を作る話ばかりで、岩魚の骨酒を出す店を紹介する記事はみあたらない。富山あたりに行けば、岩魚の骨酒を出さない居酒屋なんてないくらいのものなのだがなあ。

 ま、多分あれだな、江戸っ子は「酒はね、酒だけで飲んでじっくり味わうのさ」なんてやせ我慢をして、本当は旨い飲み方・旨い食い方を知らないという、いつものやつだな。昔、六代目三遊亭圓正が一門そろって名古屋公演に行ったときに、名古屋名物「ひつまぶし」を食べたときに、この鰻蒲焼をご飯に混ぜて食べてしまうという食べ方をして、思わず「旨いねえ、一度でいいからこういう食べ方をしてみたかったんだよなあ」とつくづく弟子に語ったという有名な話がある。だったら東京にいるときからそんな食べ方をしてもよさそうなものだが、そこは粋な江戸っ子を自任する圓正師匠である(本当は大阪出身なんだけどね)、鰻は鰻重、鰻重はきれいに食べるという信念で、「ひつまぶし」みたいな「混ぜちゃう」下品な食べ方はしなかったのだ。まあ、それはそれで「江戸っ子の粋」と心中したいのだから、勝手に心中すればいいのだけれども、本音通りに生きたほうが、旨いものにもありつけるってもんだ。

 でも、結局は鰻重やうな丼のよさは、タレが染み込んだご飯の魅力に尽きるのではないか。それこそ「うなタレ飯」なんて食べ方もあるのだし、天丼、カツ丼、親子丼なんかと同じ、微妙にご飯に混ざったタレの旨さというのは、他に代えようもないほどだ。日本人はこうしたご飯にいろいろ混じっているのが好きだし、韓国の「ビビンパ」なんてグジャグジャに混ぜて食べるのが旨いわけだし、中国やベトナム、タイ、インドのカレーなんかもある。多分、これは「米文化」の地域全体の、「公認されたおいしくいただく方法」なのではないか。そんなところで、「やせ我慢」したかったらしてもいいが、結局それは「旨いものを食べる機会を損失」しているだけである。

 あまりやせ我慢をしないで、旨いものを食べましょうよ。

 ってことで、なんか鰻を食いたくなったなあ。明日の夜は白焼きで一杯だぁ。

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南千住は「尾花」の蒲焼だっ。う…う…、旨そう!

 ところで、この『う (1)(2)』とも、文字の本だけじゃなくてコミックはどうだろうか、ということでSony Readerで読んだのだが、う~む、やはりなんか「アタマに残らない感じ」がやっぱりする。なんなんだろうな。やはり、私のアタマがまだアナログなんだろうな。

 う~ん、反省…………しなくてもいいか。ウナギネタだしな。

 

2012年3月25日 (日)

『東京国際アニメフェア2012』に行ってきた

 東京ビッグサイトに『東京国際アニメフェア2012』に行ってきた。

 実はこのアニメフェア、主催者の「東京国際アニメフェア実行委員会」に昔関わっていたことがあり、また第1回から数回は出展者としても関わっていたこともあり、その後、アニメとは関わらない仕事になってからも、毎年見に行ってはいたのだ。

 今年は、本当は3月23日のビジネスデーに行く予定だったのだが、都合で行けなくなり、24日のパブリックデーに行ってきたのだ。

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 その東京アニメフェアが、実は昨年はちょっとした危機に見舞われていたのである。

 つまり、2010年に東京都が「東京都青少年の健全育成に関する条例」の改正案を、都議会に提出したことによる騒動だ。いわゆる「非実在青少年」ってやつですね。マンガの表現に関するこの改正案については、まずコミック10社会(秋田書店、角川書店、講談社、集英社、小学館、少年画報社、新潮社、白泉社、双葉社、リイド社)が反撥をして、2011年3月に開催される「東京国際アニメフェア2011」に出展を予定しているアニメ制作会社、テレビ局、代理店にたいして、コミック10社会の原作作品のアニメ出展をしないように要請した。

 それに応えたと言うわけではないが、角川書店、アニプレックス、アニメイト、キングレコード、ジェネオン・エンターテインメントジャパン、フロンティアワークス、マーベラスエンターテインメント、メディアファクトリーの8社が、アニメフェアへの参加を取りやめ、「アニメ・コンテンツ・エキスポ」を幕張メッセで同日開催することを表明。アニメフェアが解体されるのではないか、という危機に陥った。

 ところが3月11日に起きた東日本大震災の為に、イベント自粛モードに入ってしまい、両フェアとも中止ということになった。

 ということで、今年は2年ぶりの開催と言うわけである。勿論、「アニメ・コンテンツ・エキスポ」もやるけど、今年は開催日をズラし、3月31日から4月1日まで幕張メッセで開催される。

「東京国際アニメフェア」も今年で10回目となり、海外からの注目度も上がってきており、海外企業の参加も増えてきた。本来の目的であるトレードショーにも少しずつなりつつあり、その様子を見たかったのだが。それはやはりビジネスデーに行かないとダメですね。

 なかでも最大のブースを展開しているのが中国で、「中国館」という中国のアニメ関連会社が数多く参加しているのだけれども、そこが賑わったのはビジネスデー。24日のパブリックデーは関係ないとばかり、ブースにもほとんど人はいないし、なんか閑散としている。これは、他の海外企業ブースも同じで、要は彼らはビジネスに来ているので、パブリックデーの新作プロモーションは関係ないのだ。

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 TMSはやはり「ルパン3世」なんだなあ、今年は「峰不二子」のテレビシリーズがあるようだ。

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 というのは分かるんだけれども、何で出展しているのか、訳の分からないのがTOKYO MXテレビだ。彼らが放送しているのは、既に他局でファーストランが終わった番組ばかりで、当然彼らはコンテンツホルダーではないし、新作プロモーションもできないわけだ。まあ、テレビ局として存在感を示したいのはわからないでもないが、それだけが出展の理由だなんて、彼らは本当のアニメフェアってものが分かっていないのではないか?

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 東京工科大学のブースである。昔、JCGLという会社でCGの研究と制作を行っており、私も『レンズマン』という番組でいろいろ世話になった金子満という人がいた。しかし、時期尚早という(なにしろ、スーパーコンピュータを使わないと映像制作が出来ない時代だったのだ)ことで会社は潰れ、結果として現在東京工科大学の教授になって、やっていることは昔と同じ、デジタル映像制作の研究という金子さんの縁で、実は私この大学のコンソーシアムの一員なのだ。

 で、本当は23日にそのシンポジウムがあって、それに参加する予定だったのだ。

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 考えてみれば、あの原稿を書くのをちょっと後ろにズラせば、シンポジウムに参加できたんだよな。ああ、バカな事をした。

EPSON RD1s ELMARIT 28mm/F2.8 @Ariake (c)tsunoken


2012年3月24日 (土)

『刑務所なう。』って、古っるーい

 堀江貴文氏は2011年6月20日に収監された。

 えっ? その頃ってまだTwitterで「なう」なんてやってたのかなあ。昨年の3月11日を過ぎて、そんなノンビリしたバカな書き込みはなくなったとおもったのだが……

『刑務所なう。 ホリエモンの獄中日記195日』(堀江貴文著/文藝春秋/2012年3月15日刊)

 その収監されてから、とりあえず2011年いっぱいまでの獄中日記と、メールマガジン「堀江貴文のブログでは言えない話」から「時事ネタ評論(後に「時事ネタ・オピニオン」になる)」を収録し、獄中日記をネタにした西アズナブルのマンガを加えたのが本書である。

 しかし、オスカー・ワイルドの『獄中記』、安部譲二の『塀の中の懲りない面々』、佐藤優の『獄中記』、花輪和一の『刑務所の中』などの、いわゆる「刑務所物」というジャンルは確実にある訳なのだけれども、この本みたいに、まさにいま獄中にある者が書いている「獄中記」というのは前代未聞なのではないだろうか。普通は仮釈放になって出所してから、記憶を頼りに書くわけだ。それがまさに獄中にあるものが獄中から発する「獄中記」ってわけですからね。おまけに、メルマガとかTwitterとか有り得ねえって。

 ビックリするのは、毎日毎日三食の献立をすべて書いてあるというところがスゴい! 一度だけ12月29日だけ朝メシと昼メシだけで夕メシが書かれていないのは、何か訳あって夕メシを摂れなかったのか、書き忘れたのか。まあ、確かに刑務所の中では楽しみといえば、食事の時間だけだろうから、それもやむを得ないのかな。それにしてもたいした記憶力だなあ、と関心していたら、何のことはない、前の月に次月の食事のメニューが配られるというのだそうだ。そんなら記憶力とは関係ないわけで、う~ん、こんなことバラさなけりゃよかったのに。

 しかし、書かれているのは基本的に堀江氏のリバタリアンぶりである。基本的にこの人、政府が何かやるのが大嫌いで、とにかく「そんなものは民間にまかせれば、もっと効率的になるのに」という発言のオンパレードである。確かに、それには頷ける部分も多いのだが、しかし、なにがなんでも民営化っていいのだろうか、と言う気にもなる。やはり民営化できない「不採算部門」とか「軍事部門」とかはあるだろう。戦争なんか民営化しちゃったら、両方の国で民営化した軍隊が、お互いのメリット・デメリットを考えて、「ここは戦わないほうが両得ですね」なんていって、かえって平和が続いたりして、ってこりゃいいことなのか。

 でも昨日、自民党、公明党両党は小泉純一郎が推進した郵政民営化法を否定する郵政民営化法改正案を来週、国会に提出することに合意したそうだ。民主党と亀井静香の国民新党は当然賛成だから、多分、今国会で成立するだろう。自民・公明も何を考えているのかねえ。つい最近まで自党の党首だったひとの政策に異を唱えるのって、まあ何ともお恥ずかしいありさまですね。で、これって完全に退歩だよね。いまや郵便局なんて、宅配便に完全に負けている存在で、我が家だってお付き合いのあるのは、年賀はがきと政府や地方公共団体からのお手紙くらいなものだ。

 こういうところを見ると、まさに『ギリシャの苦境を見るにつけ、国家や政府という仕組みが時代遅れになっていると感じる』という堀江氏の考え方には、なるほどなと納得してしまうのだ。そう最早、企業は国境を越えてしまっているグローバリズムの時代。もうすぐ労働力の国際流動化もはっきりと見えてくるようになるだろう。そんな時代に各国政府だけが「国民国家幻想」の中にいるのだ。

 国が支えている年金や社会保障も、いまやかなり怪しい状態になっている。厚生年金なんて、AIJの詐欺的行為にたくさんの元官僚が関わっているし、最早、この国の官僚も政治家も、どうやって国を潰そうと考えているとしか思えない。であるのに、何故「国民国家幻想」なんだろう。多分それは、「国民国家」にいることが、自分たちの安寧につながるという考え方なのだろうな。

 もう、こんな奴らが国を経営しちゃいけないのだ。

 そして、堀江氏が一番気にするのがオリンパス問題なのだ。これはトンでもない事件で、本来であればライブドア事件と同様、企業の刑事責任が問われ、当然、東証では上場廃止=倒産となる事件なのだ。しかし、オリンパスの前身、高千穂光学は日本の戦争(第二次世界大戦)にもかなり協力した企業であり、そんな会社を潰しちゃイカン、ライブドアみたいに昨日今日できた国に協力もしない企業とは違うのだ、というのが「官」の発想なのでしょう。

 SESC(証券取引監視委員会)なんて無能の集まりでしかないし、検察は法務省といういまや三流官庁の下っ端でしょ。つまり、こんな奴らがいる限りは「法の下の平等」なんてものはないのだ。「法の下の平等」なんてものは、「憲法条文の中の幻想」でしかないことは、皆知っている。所詮、そんなものは政治家・官僚の都合で動かすときに「憲法」を使って言い訳をするという程度の「利用憲法」なのだ。

 しかし、面白いなあ;

『11月23日(水)

 祝日、勤労感謝の日。まさに我々が工場でやっている作業は「勤労」というイメージにぴったりである。自動機械でやるより人力でやっているだけの単純作業。まさに「歯車」。産業革命後。「歯車」になった者たちが共産主義革命を支えたのは、その低賃金というよりも作業の単純さ退屈さ、喜びのなさが原動力だったのではあるまいか。』

 という言い方は、まったくマルクスと同じなのだ。つまり、堀江氏の言う「自動機械でやるより人力でやっているだけの単純作業」それこそが、マルクスの言う「疎外された労働」なのである。収入の低さよりもっと大きいのは「喜びのなさ」なのだ。要は、作った物が自分に属さない、という問題。

 まあ、とりあえず堀江氏もまだまだ元気で、毎日「朝勃ち」するそうである。ということで『服役生活は「童貞力」がつくとも言える。思えば、2年もセックスしないなんて童貞喪失以来なかったことだ。あの童貞時代の悶々とした心のなかにたまっていたパワーのようなモノを発散することで、いろいろ成し遂げられたようにも思う。』

 う~む、「童貞力」か。なんか分かりそうな気持ちがする。要は、童貞で女の子とヤリタイヤリタイしか頭になかった頃の、「女」以外の部分における表現衝動である。

 まあ、そういうところに単純化したほうが、行きやすいかも知れないね。とくに「獄中」という特殊な社会では。

 で、こんなに面白いんだったら、やっぱりメルマガ読んだほうが面白いのかな、と考えて「堀江貴文のブログでは言えない話」をソッコーで申し込んでしまった。

 まあ、この方がリアルタイムで読めるしね。

月曜日が楽しみだ。

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例の、書き込み内容とはまったく関係ない写真。

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2012年3月23日 (金)

署長刑事 時効廃止

 昨年、9月23日の当ブログで書いた『署長刑事 大阪中央署人情捜査録』に続く、姉小路氏の文庫書き下ろし第2弾である。まあ、前作よりは「小説」になっているかな、2時間ドラマじゃなくて。

『署長刑事 時効廃止』(姉小路祐著/講談社文庫/2012年3月15日刊)

 しかし、警察物って基本的には個人捜査である。つまり、警察組織からは外れて、あるいは外されて、反撥して、などなどそうした組織的に動く捜査からはハジキ出された人たちの話が多い。

 と思ったら、昔は『七人の刑事』とか『太陽にほえろ』のような、逆に警察組織そのものの事件捜査のドラマが多かったように思う。実はまだその時代というのは、会社とか組織なんてものに対する信頼感があった時代なのだろう。そう、つまりまだ社会は成長している最中の話であり、皆、会社とか公務員とかそうした「組織」と一緒に動いていれば、皆が幸せになれた時代なのだという背景がある。それが、いまや『相棒』にせよ、『踊る大捜査線』にせよ、主人公は警察組織のハグレ者ばかりである。つまり、警察組織であっても、もはや一刑事としては組織を信じることが出来なく、頼るは自分だけという、これも時代相なのであろう。そう、いまや組織に殉ずることで得られる個人的幸福は有り得ないという、世代感がバックボーンにあるようである。

 で、この『署長刑事(デカ)』シリーズなのだけれども、主人公の古今堂航平は頭が大きく背が低くいことからキューピーちゃんというあだ名をつけられた、多分、人当たりの良い警察官なのだろう。対する新人女性警察官の塚畑由紀は、高校時代に柔道のインターハイ地区予選で優勝した経験のある大女で、古今堂の幼馴染みの太子橋信一に言わせれば「ひこにゃん」のそっくりなのだそうである。まあ、美人じゃないけれども、愛想はいいというところか。こした凸凹コンビというのは、ドラマ設定上ままあることであるが、姉小路氏はどんな配役をイメージしたのであろうか……、ま、それはどうでもいいけれども。

 しかし、古今堂はキャリア署長である。つまり、警察庁から警視として大阪中央署の配属された署長。ということは、この後は、1年間の署長体験を経て警視正となり、つまり国家公務員となり出世の道を歩むはずの人生である。普通はそんな人間が「組織」を離れた勝手な捜査名は行わないはずである。それは即自に出世の道から外れることになる。下の人間からは「所詮一年しか署長はやらないんだから、一年間、何もしないでいてくれる」という態度でつき合わされるだろうし、上司の府警本部の人間からは「出世直前のお前はとにかくネガティブな動きはするな」という雰囲気の戒めを受ける。

 まあ、所詮「署長」といっても警察組織の中では中間管理職にすぎないのだけれども、出世のトバ口としては、普通は上を向いて仕事をするもんだけれども、そうしないところが「人情署長」というところなのだろうな。

 で、今回の事件は溶接工・板内照男がビル工事の13階から転落して、死ぬ間際に言った言葉『きっと、バチがあたったんや。昔、あんな嘘をついたさかいに』から、17年前のストーカー殺人事件で捕まった青年が、最初は警察の取調べで自白をしたものが、公判で否認に転じるものの、結局は刑事事件の提訴に関して99.9%は有罪という日本ならではの、検察・裁判所の癒着構造のなかでは結局有罪ということになって、無期懲役で服役中に死んだのだが、その青年の妹と結婚してしまった刑事、谷永作の「何か」に引っかかった思いから始まる。

 大阪府公安委員の警備会社社長の那須野大蔵によると思われる、昭和45年の松川千之進死亡事案、17年前のストーカー殺人事件、今年の大阪城外堀自殺事案の三つの事件・事案が、一つの線でつながった時に事件解決の方向が見えてきたのだ。

 勿論、最後の大阪城外堀自殺事案以外は、すでに時効を迎えている。そこで真犯人が見つかっても、起訴はできない。しかし、、17年前のストーカー殺人事件の犯人の一人は3年間の香港在住期間があった。つまり、外国に在住していた期間は時効に加えないという法令を適用すれば、今からでも起訴できるじゃないか。

 ということで、那須野大蔵父子はお縄になるのだけれども、本当は那須野父子は「親子」じゃないというのが、この話のキモなのだ。

 まあ、その辺は小説を読んでください。ここまででもかなりのネタバレしてるんだから、ね。

 ともあれ、『署長刑事 大阪中央署人情捜査録』に比べれば、今回は2時間ドラマ風じゃない(?)。そうか、もしかすると著者はシリーズ・ドラマ化を狙っているのか、なんてね。

 しかし、その為には本がいっぱい売れなきゃダメなのである。

 ということで、『署長刑事 大阪中央署人情捜査録』『署長刑事 時効廃止』ともども、お買い上げをお願いします。2時間ドラマとしてはバッチリのお話です。スケールも2時間ドラマらしい。

 まあ、そういう話です。

 

 

2012年3月22日 (木)

『テレビは余命7年』って、そんなに持ちますかね

 昔、TBS闘争に敗れテレビマンユニオンを作った人たちが書いた本のタイトルが『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』というものだったのだが、いまやテレビは現在ですらない。

『テレビは余命7年』(指南役著/大和書房/2011年9月25日刊)

 現在ですらないテレビは、いまやどんなテレビなのだろうか。つまり、ニュースとワイドショーを除いては生放送はなく、ひな壇にずらりと並んだお笑い芸人がつまらないお喋りだけをして、なおかつやたらテロップを入れてさして聞きたくもないお笑い芸人のお喋りをいやでも眼に見させようという悪辣な意図の下に作られた低廉なバラエティ番組ばかりだ。

 食べ物番組といえば、これまたおバカなタレント未満みたいなのが出てきて、タイアップ先の食べのもを食べるのだが、そんなタレント未満の連中のレポートを見ても、なんらその味の雰囲気は伝わって来ず、ただただタレント未満の「おいしいー」というだけの発言じゃ、その店に行ってみようかななんて気分にもなりゃしない。

 以前、『遠くへ行きたい』というドキュメンタリー番組に出演していた永六輔氏は、番組の中で一切食べ物を口にしなかった。それは食事をする瞬間(人がモノを口に入れる瞬間)というのはかなり下品になる瞬間であり、そんな下品な瞬間をテレビで放送してはいけないという信念に基づくものであった。ところが、いまやそんな「食い物番組」ばっかりである、今この瞬間も「豪華15人! 大江戸線で大騒ぎSP」という下らん番組をやっている。なんで知ってるんだといえば、ウチのバカ息子が見ているからなのだ。ってお恥ずかしい。

 で、じゃあ数少ない生放送たるニュースとワイドショーはどうなっているのかといえば、故・筑紫哲也とか久米宏(今は古舘伊知郎)がやっているニュースとは、起こっている事、起きた事を伝えた後は彼らの実に浅薄なコメントを出しているだけなのだし、ワイドショーはそれこそタレントが司会をし、タレント解説者みたいな人間がしたり顔でコメントを発しているだけなのだ。

 CBSイブニングニュースのアンカーパーソンとして日本でも有名なウォルター・クロンカイト氏は、別名「大統領よりも信頼できるニュースアンカー」といわれたのだが、その基本的な姿勢は私的コメントを発しなかったことにある。つまりアンカーパーソンはその日のニュースを編成する権限を持ており、その編成権でもって「番組の意思」を伝え、アンカーパーソンとしては基本的に中立という姿勢を変えなかった。しかし、日本のキャスターたちはニュースの編成権は局のプロデューサーに渡したまま、テレビに写る人というだけのキャスターでしかないわけなので、そこに自分のコメント、それも自分で取材したわけでもないからごく浅薄でしかないコメントをつけるしかないのだ。こうした、高踏的な姿勢で作られたニュース番組なんてNHK以外の民放にはないじゃないか。

 とまあ、こういう状態なので『テレビは余命7年』なんて言われても仕方がないのだ。で、なんで7年? というと;

『かつて「護送船団」と呼ばれ、大蔵省の庇護のもと繁栄を謳歌した銀行業界も、13行あった都市銀行は、いまや4つに集約されている。バブル崩壊の元凶となった「不動産取引の総量規制」から、北海道拓殖銀行の倒産までが、約7年である。』

『江戸末期、ペリーの黒船来航から幕府の権威・井伊直弼大老暗殺までも7年である。』

 なるほど、で;

『今回の「地デジ化」(2011年7月24日:引用者注)が、かつての不動産総量規制と同じく、下り坂への1つのシグナルと見ている。7年後の2018年、テレビ界の威信を失墜させる大事件が起きると予想する。具体的には、それは在京のテレビ局のどこかの破綻と見ている。』

 ということなのだ。

 しかし、こんなことは前から言われていたことであり、なにしろ人口3億1千5百万人のアメリカ合州国でネットワークはCBS、NBC、ABC、FOXの4チェーンしかないのに、人口1億2千5百万人の日本で、NHK、NNN、JNN、FNN、ANN、TXNという6チェーンもなんで必要なんだということである。当然、これは淘汰されるしかないのだが、それがされないというのが免許事業という形での権益保障なのだ。

 これが、「免許事業じゃなくて誰でも参入していいよ、とりあえずそのときに一番強いところに電波割り当てをします」という事業形態であれば、上記の6チェーンなんて跡形もなかったのだけれども、そこは電波という公共物を取り扱う事業であるから、そんなに新規加入は出来ない。

 しかし、4月からスタートする「NOTTV」はスマートフォン向けのテレビだそうだが、そうしたネットTVがこれからどんどん出てくる。GOOGLE TVやAPPLE TVなども出てくる。これらは別に電波法に規制された放送じゃなくて、勝手に開設していいサイトなので、誰でもが作れる。そうなると電波テレビ放送局の優位性なんてなくなってしまうのだ。

 まあ、最初の頃は、これまで積み上げた蓄積があるから既存のテレビ局が優位に立つだろうけれども、次第にその優位性は損なわれ、いつしかその地位はネットTVにとって代わられるのだ。

 したがって、もしかすると2018年まで今のままで既存のテレビ局が持つのかどうかも怪しい。下手をすると、あと数年の内にテレビ東京あたりは放送を辞めてしまって、ネットTVだけになってしまうかも知れない。

 その後はどうなるんだろうか。私の予想ではテレ朝系列あたりが一番怪しいかなと考えているのである。

 ただし、現在のテレビ会社の経営者は「今のままで自分が経営している間は大丈夫」と考えているから、新人募集も今と変わらない方針で臨むだろう。そうすると、それを信じた学生たちはどう反応するんだろうな。って、皆でどろ舟に乗ろうよっていう話なんだけれどもね。

 いずれにせよ、考えてみれば、日本の高度成長と一緒に伸びてきたテレビ業界である。当然、高度成長が終われば一緒にシュリンクしていく業界なのでもある。

 問題は、そこから映画業界みたいに再生できる方法論を見つけられるかどうか、なのだけれどもな。

 

2012年3月21日 (水)

『内定とれない東大生』tったって、別に当たり前じゃん、とも思うのだが

 しかし、東大出て60社にエントリー、2勝58敗ってどうよ。でも、まあ今は扶桑社に入れて『週刊SPA !』の編集者になれたんだから良かったのかも知れない。ということで、2勝58敗の編集者と採用内定済みの4年生3人と現在就活中の3年生の、現役東大生4人で作ったプロジェクトが「東大就職研究所」。つまりそういう研究所が東大にあるわけではないのですね。

『内定とれない東大生 「新」学歴社会の就活ぶっちゃけ話』(東大就職研究所著/扶桑社新書/2012年3月1日刊)

 しかし、東大生といったって、ペーパーテストで「解」をだすことは得意かも知れないが、「解」のない人生の問題を解くことにおいては、別に他の大学生と変わらないわけで、そういう意味では「内定とれない東大生」がいたっておかしくはないのである。勿論「学歴フィルター」が存在する以上、東大生が就活において圧倒的に有利な点は否めない。しかし、それでも箸にも棒にもかからない学生だっているわけだ。まあなんとなく「東大生=ヲタク」というイメージからすると、もっと「内定とれない東大生」が多いのかとおもったら、逆に随分少ないんだなあ、という印象のほうが強い。

 なにしろ、192人にアンケートをとった結果、内定なしが6人、未回答が2人、大学院進学と答えた人も内定が出ないために大学院進学と答えたと考えて22人、つまり162人(84.4%)が内定獲得って、高くない? 2011年8月~11月にかけてのアンケートであるから、マイコミの8月31日~9月4日のアンケート結果、58.5%。2012年3月の見通し80.1%に比べればかなり高い内定率である。

 では、どんな東大生が「内定とれない」のかと言えば、『何ひとつ自分で決めてこなかった人生なんで、結局、何がしたいかわからないんです』とか、『年収は1年目で600万円以上欲しかった。それを考えたら、外資系企業しかない』とか、『(NHKで)「受かったらどうするの?」と聞かれ、「国Ⅰを受ける予定で、どうしようか迷ってます』と答えたり、『(何故、大手ばっかり受けるのか? と聞かれ)メジャーかどうかです。ぱっと名刺を渡したとき、相手の顔色が変わるような。「ここ知ってる!」とか、「あそこにお勤めなんですか!」とか』、『一次は個別面接ではなくグループディスカッションの企業も多いのですが、一言も話せずに終わることもありました。周りは「司会やります!」なんて言って、とても積極的なんですが、私はどうしても人と話すのが苦手なんです』なんというような奴らじゃ、やっぱりダメだろう。

 結局、「内定とれない東大生」の特徴は、会社選びのポイントは「知名度」「高給」で、やたら就活サイトを使ってエントリー数だけは多く、内定とった東大生はOB・OG訪問やインターンなどのリアルな接触に積極的なのと好対照だ。さらに、異性との交際も積極的で、要はそれはコミュケーション能力にたけている人たちなのだ、ということなのかも知れない。やっぱり、就活においてものリア充がいいわけなのですね。

『週刊現代』がよく記事にする「東大までの人、東大からの人」という伝で言えば、やはり「内定とれない東大生」は「東大までの人」の部類なのだろう。そう東大に合格することが目的になってしまった人たちなのだ。

『大学は、それぞれの将来に向けての学びの場、手段であるべきだ。「自分はいったいどういう生き方がいいのだろう?」「自分はどんな仕事が向いているのか?」といった問いに、就活で初めて向き合うのでは遅すぎる』

『こんな言い方をすると角が立つかもしれないが、東大という肩書きをもってしても、自分と向き合えていない人間は内定がとれないのだから、東大以外――つまりはすべての大学生は、なおさらのことだろう。就活は何も大学3年の秋から始まるものではない。高校受験に大学受験、人生のさまざまな選択の場で、きちんと自分と向き合う必要がある。

 ふわふわしていないで、どしっと地面に足を踏みしめて生きられているか、否か。内定とれない東大生へのインタビューとアンケートから、両者を分けるそんな理由が見えてきた』

 ということなのだな。

 ところで、企業が大学生の採用にあたって重視する素質・態度・、知識・能力というものが経団連のアンケート調査結果として発表されているとして本書にも収録されている。上から順に『主体性/コミュニケーション能力/実行力/チームワーク・協調性/課題解決能力/倫理観/社会性/論理的思考能力/創造力/産業技術への理解/専門課程の深い知識/情報リテラシー/一般教養/外国語能力/専門資格』となっているのだが、これは全くの大ウソである。

 せいぜい、「コミュニケーション(飲みニュケーション?)能力/チームワーク・協調性/産業技術への理解/情報リテラシー/一般教養」ぐらいだろう。だって、「主体的に行動ができ、課題解決能力に溢れ、倫理観と社会性を持っている」人が会社を経営していたら、東電福島第一原発事故なんてこんなに大きな問題にはならなかったし、大王製紙やオリンパスの事件なんて起きなかったのだ。大体が日本経済の地盤沈下の張本人の経団連が、自らの地盤沈下の責任を逃れるために、そんな能力を学生に求めているというのなら、それこそ言語道断だろう。結局、自ら欠けているそれらの能力のおかげで、いまや韓国やインドのモチベーションの高い企業から追い討ちをかけられ、瀕死の状態にあるのだ。

「内定とれた東大生」の発言に『(会社選びの基準は? と問われ)潰れなさそう。有名。与えられた仕事を、求められているちょっと上のクォリティでやりたい。社蓄です。(笑)』とあるのは、若干のテレもあるのだろうが、まあそれが実態だろう。

 むしろ、外資系金融会社の内定がとれた学生の;

『むしろ、大手日系企業に40年の人生を預けることのほうがリスクになると感じます。もし、自分はその会社に合わないと思ってほかの会社に移ろうとしても、転職市場で評価される能力が身についていない。外資はすぐにクビにされるなんてイメージが広がっていますが、逆に言えばクビにならない日系企業を辞めて転職活動をすると、「なぜ辞めたんだ?」とマイナス評価で見られる。外資なら転職市場で評価される能力を身につけられるし、給料も若いうちにそれなりにもらえるから、いざというときの開業資金も貯まる。』

 という言葉に「優秀なヤツは外資かベンチャー」という東大生らしさを感じてしまうのだ。

 

2012年3月20日 (火)

『散歩の収穫』は年寄の自己確認か?

 過激なアーチスト、赤瀬川原平氏のなんともユルい写真集である。

『散歩の収穫』(赤瀬川原平著/日本カメラ社/2010年11月30日刊)

 赤瀬川原平氏は、尾辻克彦という別名で芥川賞と獲った小説家である。しかし、その作風はどちらかというとエッセイ風で、最近の出来事をエッセイのようにまとめた作品が多い。で、赤瀬川名義ではカメラ・エッセイがおおい。ということは、赤瀬川であれ、尾辻であれ基本はエッセイ。カメラがらみのことを書くときは赤瀬川であり、それ以外のときは尾辻なのか、とも思うのだが、尾辻名義でもカメラのことを書いているし、まあ、結局はどちらでもいいということになってでしまうのだ。

 ということで、最近は「老人力」なんていって、年寄り風を装っている赤瀬川氏だが、実はもうちょっと若い頃はかなり過激なアーチストだったというのはご存知だろうか。たとえば「千円札事件」なんてのもあったし、「アカイアカイアサヒアサヒ」事件なんてのもあったのだが。ご存知だろうか。多分知らないでしょうね。要は、オブジェとして千円札を認めた赤瀬川氏は、それを偽造するという「美術行為」をしたわけなのだけれども、それを「美術行為」と認めない官憲は「ニセ札」を作ったとして起訴してしまったのだ。「アカイアカイアサヒアサヒ」事件なんてもっとくだらない、『当時、「新左翼の機関誌」とも言われた『朝日ジャーナル』の左偏重を朝日新聞上層部が危惧していた状況下で発表された赤瀬川の当該の漫画に朝日新聞社の常務会は全員一致で、同誌の自主回収を決定した。回収の理由は、ヌードの表紙と赤瀬川の「櫻画報」が読者に誤解を与えかねないというものだった。この事件で編集長が更迭された他、朝日新聞出版局では61名の人事異動がなされ、『朝日ジャーナル』自体も2週間にわたって休刊した。(Wikipedeiaより)」というお話。

 まあ、くだらないといってしまえばクダラナイのであるが、当時はそれでも大きな事件として取り上げられたのである。

 そんな赤瀬川氏の老境に差し掛かった写真集である。

『カメラは散歩の導火線だ。

カメラの好きな人ならいうまでもないことだが、散歩するのにカメラがあると、ものを見る好奇心に火がともる。』

 という写真に対する赤瀬川氏のイメージがまずある。

 こうして写真は『こうなると、散歩は狩猟民族の原点へとさかのぼる。』ということになって、結局それは『フィールドワークでの写真の面白さだ。』ということになるのだが、それは同時にスナップ写真の面白さでもある。

 町を(別に田舎でもいいが)歩いていて、ちょっと気になるモノを撮影し、それについて語るという、いわゆる「フォト・エッセイ」のスタイルは、そのような方向にある。あとは、写真として風景を切り取る写真家(エッセイストだろうが作家だろうが、そのときは写真家だ)の眼の問題だろう。

 私がそのような高みに上がれるのはいつのことだろう、と思いながら赤瀬川氏の写真集とか、田中長徳氏の写真集とか、アンリ=カルチエ・ブレッソンの写真集なんかを眺めているのとは、その高みと私の写真集(いつか出すかも知れない)とは雲泥の差なのだ。

 で、面白い写真を見つけたので、そこから引用;

『俗世間 つもりちがい十ヶ条

高いつもりで 低いのは 教養

低いつもりで 高いのが 気位

深いつもりで 浅いのは 知識

浅いつもりで 深いのが 欲

厚いつもりで 薄いのは 人情

薄いつもりで 厚いのが 面の皮

強いつもりで 弱いのは 根性

弱いつもりで 強いのが 我

多いつもりで 少ないのは 分別

少ないつもりで 多いのが 無駄

子供しかるな 来た道だ

年寄り笑うな 行く道だ』

 赤瀬川氏はそれに対し『おっしゃる通り こちらはもうその道を、だいぶ進んでいる』と返すのだが、果たして我々はどうだろうか。

「うるせえな、そんなことはわかっているけど、やってられっかよ」という反応は正しい。まあ、若者の反応ですな。

「う~む、なかなか深いですな。しかし、そればっかりじゃ」という反応は、中途半端な年齢の人たち(私もこれだろうか)。

「おっしゃる通り」ってなっちゃうと赤瀬川氏と同年齢の人たちの反応になるのかな。みんながみんなじゃないとおもうけれども。

 まあ、年寄の言うことにもたまには耳を貸したら、というだけに今日は収めておきます。

 

 

2012年3月19日 (月)

『26世紀青年 ばかたち』って現代のバカさを描いたのか

『本当は怖いソーシャルメディア』で紹介されていた映画『IDIOCRACY(イディオクラシー)』を見た。

邦題は『本格未来進化映画 26世紀青年 ばかたち』(監督:マイク・ジャッジ/製作:マイク・ジャッジ/エリザ・コプロヴィッツ/20世紀FOX)

 人工冬眠で1年後に目覚めるはずだった主人公が、ちょっとした手違いで500年も冬眠してしまい、目覚めた2505年のアメリカ社会は超低能社会で、まさしく「バカのバカによるバカのための社会」になっていて、ごく平凡な兵隊だった主人公がこの世界では最高の知能をもっていることが判明し、元プロレスラーでポルノ男優上がりの大統領から、この国の食糧危機、経済停滞、ゴミ問題などの解決を依頼されるという話。最後はこの主人公が大統領になり、国民に「本を読もう」という呼びかけをする。勿論、その本は電子書籍ではなく紙の本だというところがちょっと「あれっ」というところではあるが。

 ところで、26世紀のアメリカの描写はテレビではお笑いバラエティとスポーツしかやっていないし、映画はストーリー何もないただお尻のアップだけを延々と写しているだけの映画だし、医者もマニュアル通りの診察しか出来ないし、弁護士も自分の好みでしか弁護しない、裁判や処刑なんかも完全な見世物ショーになっている。タイムマシンがあるというので行ってみると、なんとそれは歴史のお勉強をする機械なのだが、その歴史自体が「チャップリンがナチを作った」というようなデタラメの歴史である。

 つまり「進化」の結果は「劣化」でしかなかった。

 IQが高い人たちは子どもを作らず、低IQの人たちは逆にセックスばかりして、それも生出ししちゃうので子どもをバンバン作って、結果、どんどん国中がバカばっかりになってしまう。

 今のままの社会を進めていくと、26世紀にはこんな社会になってしまうよ、ということなのだろうか。勿論、映画の作り手達は別にそんなに深刻に現代に警鐘を発しようなんて崇高なことは考えていなくて、ネタとして面白がっているだけなんだろうけれども、しかしもはやそんな「おバカ社会のとば口」にいる我々から見ると、そこには現代社会の病巣が浮かんでくるのである。

 アメリカでは配給会社の20世紀FOXからかなり冷遇されて、批評家向けの試写会もせず、宣伝も殆どされずに、全米でたったの130館で公開されたそうである。結果として興行収入は444,093ドルという最低の数字しか上げられなかったそうだ。そりゃそうだろう、だってFOX NEWSをかなりバカにした表現があるものね。

 政治や外交、経済なんかにはちっとも興味がないし、だいたい戦争をやっている相手の国も知らないで、妊娠中絶や同性愛に反対し、聖書だけ読んでればいいと考えて地動説も信じないアメリカのメジャーな人たちは、野球やバスケット、フットボールばかり見ていてマッチョ志向だし、見るテレビはおバカなバラエティばかりだし、本も読まないし、既にしてアメリカは「ばかたち」になっている。

 翻って我が国の状況を見ても、ジャンクフードやジャンクな飲み物ばかり食らって、低級なテレビ・バラエティばかり見て、おまけに政治もショーのような政治ばかりやっているという、なんかアメリカと遜色ない「バカ」さ加減ではある。日本もアメリカと同様「劣化」してるんだね。

 しかし、本当はそんなバカたちを相手にして稼いでいる、利口な人たちがいるはずなのだけれども、何故かそれは描かれない。そこまで突っ込まなければ、「バカの社会」を描いたとはいえないのだけれどもね。

 ま、だからB級かC級扱いなのだろうけれどもね。

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 遠景に見えるのが巨大コストコです。

(c)20th Century Fox

2012年3月18日 (日)

台東区 今戸 慶養寺

 台東区今戸にある曹洞宗霊亀山慶養寺は、私の家の菩提寺なのである。

 昨日は、春のお彼岸の入りの日だったので、墓参りに行ってきたわけなのであるが……。

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『浅草・今戸の慶養寺の門前に、〔嶋屋〕という料理屋がある。

 表構えは大きくないが、奥行きが深く、裏手は大川(隅田川)にのぞんでいて舟着きもあるし、気のきいた料理を出すので、秋山小兵衛も贔屓にしていた。

 秋になると、あぶらの乗った沙魚を酒と生醤油でさっと煮つけたものなどを出して、小兵衛をよろこばせる。

 だが、いまは秋ではない。

 この年の、梅雨の晴れ間の或る夜のことだが、嶋屋から座敷女中に見送られて外へ出てきた客が、今戸橋の北詰を右へ曲がった。

 右手は慶養寺の土塀、左手は山谷堀である。

 この客は中年の侍で、総髪も手入れがゆきとどいているし、夏羽織と袴をつけた風采も立派なものであった。』

 故・池波正太郎氏の『剣客商売』13巻『波紋』から『敵』の書き出しである。

 この直後、中年の侍は今戸橋のそばの暗がりに隠れていた浪人に棍棒で殴られ気絶してしまい。その後心臓を刀で一突きにされて死んでしまうのだ。

 特に何かの由緒があるお寺というわけではないが、江戸時代から続いているお寺ではある。もうひとつ、初代と7代目の林家正蔵、林家三平なんかの墓もこのお寺にある。初代が亡くなったのが天保13年(1842年)なのだから、基本的にはそれより前からは、確実にあったわけだ。

 もうひとつ、歴史に関わる話としては、慶應4年(1868年)の江戸城明け渡しの前日4月10日に、土方歳三が酒井邸(千代田区丸の内)から今戸八幡別当に移ったという記録があり、どうもこの今戸八幡別当というのが慶養寺ではないか、という説があるらしい。確かに今戸神社と慶養寺は間に一軒別のお寺を挟んで隣同士だし、神仏習合の時代ならそんなこともあるのかもしれない。ま、そうであれば面白いね、っていうだけの話ではあるが。

 取り敢えず、池波正太郎の小説に慶養寺が出てきたのを見つけたときは嬉しかった。

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2012年3月17日 (土)

『PK』はタイムノベル。タイムパラドックスに満ち溢れています。

「PK」というのは、ご存知の通りペナルティ・キックのことなんだが……。作品はあまりペナルティ・キックとは関係ない。が、それ自体がペナルティだというのだろうか。

『PK』(伊坂幸太郎著/講談社/2012年3月7日刊)

 次郎君という昔の友達のむちゃくちゃ話をする父親に育てられてた、57歳にして初めて大臣の職に就いた代議士とその秘書官の話と、どうもその父親でありそうな作家の話が螺旋構造でつながっていき、その代議士が若い頃マンションのベランダから落ちてきた幼児を助けた話が続く中、どうもその秘書官が次郎君? という『PK』。

 作家の家に個人宅向けの警備システムの飛び込みセールスにやってきた青年が、自分のことをスーパーマンだと言って、しかし、それは「あの」スーパーマンではなくて「未来がわかる」スーパーマンなのだが、その結果、放っておいたら将来身勝手な殺人事件を起こす人間がわかるので、そんな殺人事件が起きないように、その前に次々とその将来の犯人を殺しているスーパーマンの話と、『PK』に出てきた代議士が助けた幼児というのが実はそのスーパーマン青年であり、代議士が十年後に1万人の被害者がでるような物騒なことを実行することがわかり、代議士を殺そうと思い会いにいくのだが、それが誤報だとわかり、すんでのところで殺さずにすむのを建物の外から透視していたのが、実は「あの」スーパーマンだった、という『超人』。

 他人と握手をすると6秒間だけ時間を止めることができる青年が選んだ職業は、子どもたちを握手が沢山出来る戦隊物ショーの出演者の話と、将来、耐性菌の蔓延を防ぐために過去の世界にゴキブリを送って耐性菌の抗生物質をとってくるが、そのためには人間一人が姿をなくしてしまわなければならず、その消されてしまう青年の話と、先の時間を止めることができる青年が突如現れそのゴキブリを奪ってしまい、そのあとに『あなたの今までのやり方よりも、より効果的に、求めていた結果が得られます』という言葉が残されていることから、初めて二人の青年の時制が違うことが分かる、『密使』。

 この三つの中篇が、同時に螺旋構造でつながっている不思議な作品が、本のタイトルでもある『PK』なのだ。

『グラウンドは緑の海だ。照明で照らされ、色鮮やかな芝が広がっている。ロスタイムは、砂の山が風で少しずつ削られるが如く、じわりじわりと減り、今や掻き消える寸前だ。観客は固唾を飲み、その視線の移動だけが音を立てている。

 唐突に波がうねった。水面すれすれを紡錘形の魚が突っ切るかのように、ボールが芝を揺らし、右サイドへと飛んだ。

 走り込んできた小津が脚を動かし、右足でボールを受け止めた瞬間、競技場の五万人の観客たちの声が、それはすでに声とも言えぬ、無言の叫喚とでも呼ぶべきものだったが、地面を震わせた。オフサイドの旗も上がらない。』

 という『PK』の書き出し部分。

『その彼は、目を凝らし、それが、緑色のコスチュームを着た人間だと認めた。顔から足まで完全に覆われ、大きなベルトをした姿は、子供向けのテレビに登場してくる戦隊物の恰好だった。「うちの息子と一緒にテレビを見ていますから、間違いありません!」

 車に乗る直前、その緑の男は、ベルトから何やら小箱のようなものを外し、顔を寄せ、不気味な音でも耳にしたのか、体をぶるぶる震わせ、「気持ち悪い!」と叫んだかと思うと、ひどく慌てた様子で、「失言に気を付けないと」と呟いたらしかった。』

 という『密使』のラスト。

 つまり、『緑の海』で始まって、『緑色のコスチューム』で終る三部作のキーワードはタイムトラベル。

 っていうか、こんなにタイムパラドックスに満ち溢れてていいのかなあ。それこそ、ペナルティ・キックを相手に与えてしまうミスだと思うのだけれども、いまやそんなことは考えなくていいのかな。

 タイムパラドックスはAの世界とA'やA''の世界で分けてしまえばいいのか? じゃあ、そのA'やA''の世界はどこにあるんだ、ということはSFの世界では考えなければいいものなのだろうか。う~む、この辺のSF的世界観ってよくわからないな。

2012年3月16日 (金)

『じじいリテラシー』は女ならではのおやじ転がしの本なのです

「じじいリテラシー」なんていうから何か新しいことが書いてあるのかと思ったら、要は「おやじ転がし」の本なのね。

『じじいリテラシー』(葉石かおり著/星海社新書/2012年2月23日刊)

「リテラシー」というのは、日本ではは「識字」という表記をして、本来は「文字(書記言語)を読み書きし、理解できること」という意味だったのだが、最近では「情報リテラシー」とか「メディア・リテラシー」とか「金融リテラシー」なんて言い方もされていて、この本に書かれているように「活用する技術」といった方向で使われている。本当はちょっと違うんだけれども、まあ、今はそちらの方で使われてしまっているのだから、私もそれに倣うとしよう。

 で、葉石さんによればじじいには6つのタイプがあるそうだ。つまり;

①オレオレじじい

②うんちくじじい

③肉食じじい

④茶坊主じじい

⑤9時5時じじい

⑥耕作じじい

 の6タイプである。う~ん、他にもあるような気もしないではないが、取り敢えずこの6タイプがあることにしよう。で、当然自らじじいである私は自分がどのタイプのじじいであるのか考えるわけである。

 最早オレオレじゃないし(昔、一時期そんな時もあったけど)、うんちく垂れるほどいろいろな世界には精通していないし(一部の部分ではオタク的に語れるけれども)、当然最早肉食は不可能になっているし(糖尿だしね)、茶坊主だったらいまだに平社員ってことはないわけだし、当然、島耕作みたいにカッコイイサラリーマンじゃないもんね。ということは、私は「9時5時じじい」か?

 で、「9時5時じじい」ってのは;

『与えられた仕事以外はせず、就業時間中にパソコンゲームに熱中したり、「外出する」と言っては喫茶店やパチンコ屋に入り浸る。それでいて定時になると、「待ってました!」とばかりにとっととタイムカードを押して帰宅する。

 ハッキリ言って給料ドロボーそのもの。肩書きはせいぜい「部長補佐」止まりで、リストラがあればまず最初に有力候補になるのがこのじじいです。

 暇な時間をどう潰すかがいちばんの目的であり、何をするにも動きが緩慢です。思わず「自分でやれよ」と言いたくなるようなどうしようもない依頼を年中し、それを断ると「アイツはダメなヤツだ」と吹聴する危険性もあるので注意が必要です。

 仕事ができないくせに自己顕示欲はそれなりにあって、ブログやツイッター、フェイスブックといった会社以外の「表現の場」を持ち、それが自慢でもあります。

 全じじいのなかではもっともリテラシーがむずかしく、「危険物取扱注意じじい」です。』

 ということなのだが。

 なあるほど、確かに『ブログやツイッター、フェイスブックといった会社以外の「表現の場」を持ち』というのは当たっているし(別に出版社にいてこんなことは自慢でもなんでもけれどもね)、百歩譲って『給料ドロボー』『肩書きはせいぜい「部長補佐」止まり』ってのも認めましょう。そりゃ、外出すれば喫茶店にも入るし、映画を見ちゃうときもあるけど、入り浸っているという感じではなく、まあサラリーマンとして許される範囲だと思うけどなあ。つまり、「ブログ、ツイッター、フェイスブック」「給料ドロボー」「肩書き」以外はあんまり当てはまっていないなあ。そんな中途半端なじじいはどうすりゃいいんだ。って考えてみれば、別にじじい側はどうでもいいんだ。そうだそうだ、「じじいをどうやって攻略すればいいか」という本だったな。

 でも、私のように6つのタイプのどれにも当てはまらないじじいが現れたらどうするんだろう。この辺が、このテのマニュアル本の弱みではあるな。つまり、世の中そんなに類型化できないモデルがいっぱいあるんだよ、ってことで。だから、本当はこのような類型化からもれてしまった対象に対してどのような態度をとればいいのかということについて書いてあるマニュアル本があればいいのだけれども、それはない。当たり前である、マニュアル本にとては、類型化から外れた対象があってはならないのだ。類型化から微妙にズレた対象がいた場合には、そこもチェックして対応策を書かなければマニュアル本としてはダメなのだ。

 何故だろう。

 それは、マニュアル本を読む者は、究極の「自分のアタマで考えないバカな」人たちだからなのだ。

 そんな人たちに優しく手を差し伸べる(それで自分がおおいに稼ぐ)のが、正しいマニュアル本なのである。

 ただし、葉石さんがじじいに「ゴロニャ~ン」するんだったら、別にどのじじいだってOKかもしれない。ネットの写真を見ると、特別美人ではないが、なんか色気のある女性である。こんな女性が下手に出て「私は貴方についていきますわ。ニャンニャン」なんて言ったら、大抵のじじいは目尻を下げて、鼻の下を地面につく位に伸ばして、言うこと聞いちゃうもんね。

 ということで、『じじいリテラシー』は女性向けの「おやじ転がし」の本なのであった。男が同じことをしたって、多分じじい側は絶対無視無視。おやじの男に対する発想は「オレのライバルになることは絶対許さん」だからね。男は男で、自分のサバイバルを考えなければならないのだ。

 この人が葉石かおりさんです→http://www.google.co.jp/landing/placepages/kodawari.html

2012年3月15日 (木)

『底抜け合衆国』は民主主義って何なのかを考えるいい教科書だ

『USAカニバケツ』に続く町山君の2冊目のちくま文庫化である。2000年から2004年のアメリカとは、要するにブッシュJr.の1期目の大統領の時期で、イラク戦争に突入した時期なので、当然、本の内容はほとんどが「ブッシュ批判」あるいは「ブッシュバカにする」内容だ。

『底抜け合衆国 アメリカが最もバカだった四年間』(町山智浩著/ちくま文庫/2012年3月10日刊)

 当然、ジョージ・W・ブッシュJr.はどうしようもないアホだったことは有名だ。ほとんど裏口でイェール大学を卒業し、州兵になったものの、多分父親ジョージ・H・W・ブッシュの多大な寄付でもってベトナム行きを忌避し、しかもその時期にはマリファナやコカインを常用していたにもかかわらず、そのような過去は一切消してしまい、これまた親のコネで石油エネルギー企業の経営者になって、テキサス州知事になって大統領になったわけだが、その大統領の時期にも、エンロンやハリバートンなどのエネルギー企業や軍需産業との結びつきから戦争に突入し、でも結局9.11同時多発テロの首謀者だったはずのウサマ・ビン・ラディンは発見できずに、関係ないイラクを攻めて泥沼のベトナム化させてしまい、高額所得者の減税はやるは、進化論を信じないキリスト教原理主義者だは、で結局アメリカ経済を疲弊の一途にさせてしまった、典型的なバカなボンボン二代目政治家なのだ。

 この辺、ブッシュと仲が良かった元防衛庁長官の息子で、二浪して慶応大学にはいったものの一年留年、ロンドン大学に留学したものの一単位も取れずに放校かという矢先に父親が急死して帰国し、弔い選挙で出馬した、小泉純一郎元首相とよく似ている。まあ、二人とも似たような境遇に気があったんだろうな。小泉の「ワン・フレーズ・ポリティクス」なんてのも、自らの政治的知見のなさを覆い隠すだけのものでしかなかった。しかし、国民は「小泉郵政選挙」でコロッと騙されて小泉の応援をしてしまうという、日本民主主義の劣化状況を見事に示したわけなのである。

 同じことが、ブッシュの政治にも言えて、9.11でアフガン進攻を言うまでは国際的な支持もあったのだが、それが何の関係もないイラク進攻までいってしまって、しかしそれでアメリカ国民はブッシュ支持をやめたかというと、第2期までブッシュに大統領を任せてしまうというオソマツさなのだ。イラク進攻なんて完全に「石油対策=ブッシュ陣営の身内企業の要請」でしかないのに、それを支持してしまうアメリカの貧困層って何なのよ。結局、そんな戦争に行って命を的に戦わなければいけないのは、ホワイト・トラッシュと呼ばれる白人低所得者層やマイノリティーであり、アメリカも徴兵制がなくなったおかげで、金持ちのボンボンはそんな「戦争」なんてあったの、という状況で暮らせるのである。

 要は、太平洋を挟んで両方の国々で民主主義がこれだけ劣化しているという証拠なのである。

 別に、民主主義が最高の政治形態であるとは考えないけれども、でも今のところ民主主義に代わる政治形態があるわけでもないし、だとしたら取り敢えず民主主義を如何に「よりよい政治形態」として維持するかが、現今の課題であろう。ところが、こんな金持ちのボンボン二代目政治家が、その国を支配してしまうことを「よし」としてしまう日米の民主主義の劣化状況はどうにかならないものか。

 それこそ昔のローマ帝国や中国のように、国家元首の世襲が禁じられていたひそみに倣って、日本も国家議員の世襲を禁じたらどうだろうか。まあ、「未曾有」を「みぞゆう」と読むようなアホな首相だけは出てこないだろう。

 代議士ってものがそれなりに高給取りになってしまい、おまけにそこには権益がついてきて、オイシい思いもできる、というところから自分の息子・娘にも政治家を継がせたいと考える政治屋がでてきてもおかしくはない。いまや政治が稼業にになってしまっているのだ。本来は、それなりの自分が持っている理想社会というものがあって政治に携わるはずなんだけれども、いまや稼業として親から預かった仕事として政治を「やる」のである。こんなの、「政治」じゃないよね。

 おまけに、そんな政治家のバカ息子やバカ娘に投票するバカ有権者がいるわけだ。その候補者が何を考えているのかではなくて、お父さんにお世話になったからとか、お母さんと親しいから、なんて理由で投票するっていうのは、まったく民主主義をバカにした投票行動だ。

 問題は、例えばオバマを選んだアメリカ人、民主党を選んだ日本人の双方が、自ら選んだ人間に対して感じている幻滅感なのだ。「Change」のオバマも、「マニフェスト」の民主党も、結局は現状を大きく変えることはできずに、前政権の尻拭いをしながら少しずつ前に進んでいる状態だ。そんな状態で、画期的な新しい政治、新しい政策なんてできるんだろうか。勿論、前政権からいやでも引き継がなければならないテーマはあるだろう。国民の生存に関わるテーマなんかは仕方がない。しかし、それ以外のテーマ(例えば、沖縄の基地問題とか)はいくらでも変えることは出来るのだ。でも、大きく変えない新政権って何なのさ。

 結局、オバマも日本民主党も、「あまり大きく変えたくない」んだろうな。革命じゃないし。っていうけれども、政権が変わるってのはまさに「革命」なのです。革命なら「旧体制の支配者」は皆殺されるのです。オバマも日本民主党も、「旧体制の支配者=官僚」を残したままで「新体制」が出来るとおもった浅はかさなのである。

 革命を起こした以上は、旧体制の遺物はすべて壊せ! 革命を起こした以上は、旧体制のやり方はすべてなくせ! 革命を起こした以上は、旧体制の人間はすべて殺せ! まあ、「殺せ」っていうのは、ちょっと言いすぎだけれども、そのつもりでやれってこと。「優秀な官僚」なんてものは、支配者次第なんだから、支配者がこれからは代わったんだから、お前ら心して付き合えよ、ということを言っていいのである。

 それでこそ、正しい民主主義のあり方だ。

2012年3月14日 (水)

期間限定の思想

 しかし、御茶ノ水女子大学の土屋賢二氏といい、神戸女学院大学の内田樹氏といい、なんで女子大学の教授ってのは、面白いエッセイをモノにするのだろうか。

『期間限定の思想 「おじさん的思考2」』(内田樹著/角川文庫/2011年10月25日刊)

『期間限定の思想』という発想は正しい。何故ならば「現代思想」なんてものは、時とともに変化していくものだし、「思想」として紙の上に定着してしまったら、その一瞬からすでに劣化が始まっているものなのだ。したがって、「フランス現代思想」の研究家である内田氏が、自らの思想を「期間限定」というのは、まったく正しいだろう。つまり、書かれた時から既に9年の時を経て文庫化されたこの本は、実際には読むに値しない本であるべきなのだ。過去の「期間限定の思想」を今更読んでも何かあるのか? ということなので、今回は全然別のテーマについて語る。それが、上にあげた「女子大学の教授の書くエッセイは何故面白いのか」ということである。

 別に、ツチヤ教授とかウチダ教授とかのところに、特別面白いネタを提供してくれる女子学生がいるわけではないだろう。多分、共学の大学に通う女子学生の場合、「人を愛するって、どういうことなんでしょう」なあ~んて疑問は当然担当教授のところに持ってくる前に、ボーイフレンドたる男子学生に発せられるわけだ。で、その疑問を持ってこられた男子学生は、いかにもな返事をするわけなのだが、しかし、これがてんで見当違いな返事なのだろうな。でもこれまたバカな女子大生は、そんなバカ男子学生の答えで大半は満足してしまい、担当教授のところまではその疑問は持ってこない。

 しかし、女子大学の学生は、そんな相談相手になる男子学生もいないだろうし、家族を除けば唯一の「男」である担当教授のところに疑問を持ってきてしまうのだ。で、そんなピュアな女子学生をネタにして、担当教授はエッセイを一本モノにしてしまうわけなのだろう。うん、女子大学の教授ってのも結構いい仕事だな。真面目で可愛い女子大生に囲まれて、なおかつ彼女たちがもってくる疑問をネタに本が書ける。私も女子大学の教授にでもなってれば良かった。なんてね。

 しかし、「期間限定の思想」もまだまだ使える部分もある。例えば;

『アメリカ社会の「人間の価値は年収で判定される」という価値観のせいで、どれほど成員たちの心が痛めつけられているか。傷つけられた人々が切望する「癒し」のために、どれほどの社会的リソースが蕩尽されているか。

 この社会的コストのバランスシートはいまはかろうじて「黒字」になっているが、「赤字」に転じるのは私の見るところもはや時間の問題である(いまや「赤字」に転じている:引用者注)。だが、このことに気づいている人間は少ない(しかし、これはある意味では気の毒なことでもある。「人種のサラダボール」であるアメリカ社会においては、文化も信仰も言語も美意識も違うエスニック・グループが混在している。それらを貫通しうる価値基準を探したら、「年収」以外にない)。』

 という指摘は今でも有効であるし;

『この「ダメ人間」世代の歴史的機能は「バブル期における、ゆきすぎた蕩尽と成功志向の補正」であるので、ある程度修正がきいて、社会システムがうまく動きだしたら、事情は一変する。

 つまり。「パイの奪い合い」からこの世代がまるごと「脱落する」ことで競争が緩和され、シュリンクしたマーケットの中でのリソースの分配が秩序を回復したとき、この世代はその歴史的使命を終えて、まるごと「棄てられる」可能性があるからである。

 彼らより若い世代、およびアジアからチャンスを求めて日本のマーケットに参入してくる若者たちは、彼らより高い地位、高い賃金、大きな権力、多くの情報を(彼らがスペースを空けてくれたおかげで)はるかに容易に手にすることができるだろう。そして、後進に「スペースを譲った」ダメ世代は、その後いわゆる「3K労働」を担当するブルーカラー層を構成することになる。』

 という指摘は、いまや徐々に実現しつつある。

 しかしながら、『長嶋の悪口を言う人がいないように『男はつらいよ』を徹底的に批判する批評家もいませんね。批判するとしたら、「どの作品も話が同じだ」とか「登場人物が類型的すぎる」とかそういうことでしょうけれど』という部分はちょっと違うな。

 批評家が『男はつらいよ』を批判しないというのは、別にみんなそれが好きだったからではなく、「当たっていた」からなのだ。あまり「当たっている」作品を批判したくないのは、批評家が「映画界」で生活している以上、仕方のないことなのだ。本来は、「寅さん的世界観」を嫌っている映画人は多い。つまり、山田洋次がつくる「寅さん世界」は、実に日本大衆の深層心理に深く入り込むことが出来るので、そんな「大衆」の心理に入り込むやり方、映画の作り方に反撥している。同じことはスタジオ・ジブリの宮崎駿的世界にも感じている。

 山田洋次、宮崎駿の方法論は、いわゆる「大衆」というものを設定して、その「大衆」に如何にして「入り込むことが出来るか」という視点から、映画を作っているのだ。本来、作家としての映画監督という立場からは離れて、「大衆」を置く。確かに、それは「事業家」としてはいいかも知れないが、決して「作家」の発想ではない。そうした「作家」の発想を忘れて映画を作る姿勢を嫌う映画人、批評家は実は多いのだ。

 そうした批評家は、やはり『三丁目の夕陽』的映画も嫌うのだ。

『自分がいなかった場所、自分が触れなかったものを私たちは「懐かしく」感じることができる。自分が経験しなかった出来事を自分の「過去」であるかのように回想することができる。それはある時代をともに呼吸した人々と一種の「巨大な記憶」を共有しているという感じに近い。』

 こういうとき、その「想像的に共有された記憶」によって、昭和三十年代の東京なんてものが「懐かしく感じられる」という「大嘘」に感応してしまうのだ。

 まあ、こうした「寅さん」的なものや「三丁目の夕陽」的なものを、批判できないところが内田氏の弱点だな。「集合的無意識」は認めているのに………。

2012年3月13日 (火)

『猫語の教科書』を読んだからって、猫語は喋れません

「猫文学」と言えば、我々は『我輩は猫である』という名作を持っている。しかし……。

『猫語の教科書』(ポール・ギャリコ著/灰島かり訳/ちくま文庫/1998年12月3日刊)

 まあ、私のように猫を飼ったことがない人間にはあまり分からないことであるが、しかし、我が家の庭を、あたかも我が通り道だと考えて、毎日通っている二匹の飼い猫(野良猫?)を見といると、何となく理解できるところもある。ある種、猫は自由人だなというところとか。

 要は、人間は猫を飼っていると思っているのであるが、実はそうじゃなくて、猫が人間の家を乗っ取って、猫のために人間が存在する家になっているのだ、という本なのである。何しろ、タテマエ上の著者はポール・ギャリコというニューヨークの作家ではあるけれども、本来の作家は名も知られない「猫」なのだ。ポール・ギャリコはサンボという名の猫を飼っていたようだし、この本の「猫写真」を撮ったスザンヌ・サースという女流写真家の家にはツィツァという猫がいたようだが、どうもそうした猫たちの中にはこの本の著者はいないようだ。

 しかし、この本の翻訳権は猫にあるのだろうか、あるいはポール・ギャリコなのだろうか、いずれ猫が著者だということになってしまったら、それは当然、猫にあるわけですよねぇ。印税も猫に入るだろうし。ウーム、こういう「稼ぐ猫」だったら乗っ取られてもいいかな、なんてね。

 しかしながら、結構本質的なことも書かれているわけで、たとえば『根本的なところで、人間は猫よりずっと弱いのよ。猫はここ五千万年の間、変わることなく生きのびてきたことを思い出してね。人間が現れるずっと以前から私たちは猫だったし、最後の人間がこの地上から消えた後も、猫は生き続けるのです』なんてのは、事実だろう。

 まあ、「猫の視点を使った人間社会の風刺」という言い方をしてしまうと、それは『我輩は猫である』とおなじ結論になってしまうのだけれども、でも結局はそこに終結してしまうんだろうな。

 つまり;

『人間と暮らしてしまうといやでも学ばざるをえないことですが、人間はほんの少しのいいところを除くと、愚かだし、虚栄心は強いし、強情な上に忘れっぽく、ときにはずるくて不誠実でさえあります。平気で嘘をついたり、表と裏があったり、破るとわかっている約束をしたりもします。わがままで、欲張りで、考えが浅く、所有欲が強いくせに気まぐれで、おくびょうで、嫉妬深く、無責任で、ひとりよがりで、狭量で、忍耐心に欠け、偽善的で、だらしない。』

 という卓見は、その通りだろう。夏目漱石先生も同じことを書いていたような気がする。ただし、そうした嫌な部分も含めて、だからこそ人間というものは愛すべきものなのだ。その辺も、この猫は分かっているみたいだ。つまり、先の言葉を言ったすぐそのあとで『でもこういう悪いこと全部にもかかわらず、人間には愛と呼ばれる、強くてすばらしいものがあって、彼らがあなたを愛し、あなたも彼らを愛するとき、他のことはいっさいどうでもよくなります』というフォローが入るわけです。って、完全に猫に乗っ取られてるジャン。

 ひとつだけわからないのが、「第12章上手な話し方」にある「声を出さないニャーオ」である。この辺は猫を飼っていない人間だから分からないのか、その辺のしぐさをするのはアメリカの猫だけなのかは分からないのか、どうなのかわまったく分からない。まあ、要はこの「声を出さないニャーオ」をすると、人間は『男も女も心を揺さぶられて、まずどんなことでもしてくれまう』ということなのだそうだ。ウ~ム、猫の戦略恐るべしではありますな。

 

 最後に『じゃまをするとすごくおもしろいものを忘れていました。手紙を書いたり仕事をしたりするのに、ペンとかえんぴつでなく「タイプライター」という機械を使う人がいます。もしお宅の人間がこの機械を使う作家だったりしたら、とても幸運。タイプのじゃまはすてきにおもしろいし、そのうえ、感謝されます。だって、私の知っているかぎり、作家はみんな、書く仕事をやめる口実なら、およそどんなものでも大歓迎なの』ということで、ポール・ギャリコ自身を語っているのだが、まあ、この辺で馬脚を現したということなのだろうな。あまり、ここでは作家の本音を言ってしまってはいけないんじゃないか。

 ただし、ここではっきりとこの本を書いてた猫がタイプライターで書いたことがわかったわけだ。あの「暗号」の意味もね。

 ということになると、その辺、最後まで「猫視点」を変えなかった、我が漱石先生は偉かった、ということがいえるのかな。

 取り敢えず、猫を三匹だか四匹だか飼っている(飼われている?)という、一緒に北茨城に行ったH坂氏に聞いてみようかな。

2012年3月12日 (月)

3/11 北茨城 そして小名浜

 3月10日、11日と学生時代の友人と一緒に茨城県は北茨城市平潟漁港に行ってきた。

 大学の語学クラスで一緒だった元○○○一人、ノンセクト一人、ノンポリ二人、という4人が、何故か卒業後もたまに会う関係でいるのだが、最近は早期退職で会社を辞めたやつとか、そろそろみんな60歳になってヒマになったせいか、最近はちょくちょく会っている。その中で一人温泉好きがいて、以前にも新潟県は苗場、貝掛温泉に行ったのだが、今回はちょと趣向を変えて「鮟鱇(アンコウ)料理と温泉を楽しもう」ということで、北茨城ということになった。

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 しかし、3/11北茨城ということになってしまうと、当然、昨年の東日本大震災や、その津波の爪あとも見るということになる。

 ということで、最初に行ったのが、北茨城市の五浦(いずら)にある「天心・六角堂」である。天心・六角堂とは東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)を開校した岡倉天心が、政治的発言をめぐって東京美術学校を排斥された後、日本美術院を設立して横山大観、菱田春草などの美術家を育てていたのだが、もともと上野にあった日本美術院を移したのが、この茨城県五浦の地であった。

 その母屋とは別に、天心が自らの思索の場として作ったのが、この六角堂であった。太平洋に面して、沖の波を眺めながら思索にふけるというのは、いかにもありそうな「絵」ではある。しかし、その六角堂が昨年の東日本大震災の津波によって消失してしまっていた。上の写真の真ん中に写っているのが、その六角堂の礎石である。

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 現在は、茨城大学によって「天心・六角堂復興プロジェクト」というものが進められていて、復興の方針とかが定められていて、先ごろその起工式が行われたようだ。

天心・復興プロジェクトのサイトはコチラ→ http://www.ibaraki.ac.jp/donation/project2.pdf

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 こちらは岡倉天心の墓。というか、本来の天心の墓は東京巣鴨の染井霊園にあるので、多分これはそこから分骨したものだろう。

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 平潟漁港に着いてみると、まさしく津波の被害を目のあたりにした。漁港に近い低い場所は完璧に津波にやられ、もはや土台だけの家々を見るにつけ、地震以上に津波の被害というものは大きいものなのだということを感じさせる。

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 しかし、同じ低地にある家でも、場所や家の建ち方なのだろか、残っている家と、流されてしまっている家の関係がよくは分からないのだが、微妙な関係論があるんだろう。

 こうして見ると、復興とか復活とか口で言うのはたやすいことだけれども、実際のことではなかなかうまくいってないのではないか、復興に向けてのロードマップというものも、容易じゃないなという感を一層にした。

 翌11日は北茨城から一度北上して、塩屋崎灯台、小名浜港などを見てきた。塩屋崎灯台では、たまたま灯台がある岬の反対側から津波が来たので、ウチは助かりました、というお土産屋さんと話ができた。小名浜港では、昨年の津波の結果、すべての海洋生物が全滅してしまったというアクアマリンふくしま(ふくしま海洋科学館)を見てきたのだが、昨年7月15日に営業を再開したアクアマリンふくしまでも、まだまだ展示は一部カバーに覆われている場所があったりして、やはり完全には復興していないな、という感じがした。

 で、昼食を摂って外に出てきたとき、皆が手を合わせている、黙祷している人もいる。「えっ、何?」と思ったのだが、時計を見ればその時刻は午後2時46分。ちょうど、昨年の同じ日、大地震があった時刻なのであった。

 東北の人にとっては、一生涯忘れられない、「3月11日午後2時46分」なのだろう。

 黙祷

Nikon D7000 AF-S Nikkor 18-105mm, IS03 @Kitaibaraki (c)tsunoken

2012年3月11日 (日)

『本当は怖いソーシャルメディア』といったって、もう付き合わないわけにはいかないんだから

 昨日の『IT断食のすすめ』ではないが、結局、メディアというものは、メディアの発信者と受信者の間の格差を自律的に広げてしまうものなのだろう。

『本当は怖いソーシャルメディア』(山田順著/小学館101新書/2012年3月4日刊)

『「新聞はインテリがつくってヤクザが売る」という言葉がある。あるいは「インテリがつくってバカに売る」とも言える。』という言葉を目にすると、多分、メディアの受容者である「バカ」の人々は怒るかもしれないが、まあ、そんなものである。これをテレビの世界に置き換えてみると「テレビに出るやつはバカ、でもそれを見ているやつは大バカ、作っているやつだけ利口」というのがテレビの世界でのコモンセンスである。昔、某テレビ局でアルバイトをしている時に、実際にテレビ局の人から聞いた話だ。じゃあ、出版はどうなのよ、って? まあ、ご安心ください。出版に関してだけは、本を読む人は小利口、作っているやつは大バカだからです。まあ、この「小利口」というところに、多少出版人の○○があるんですがね。

『そこで、この伝でいけば、インターネットを基盤とするソーシャルメディアはどうなるだろか? ソーシャルメディアもまた「インテリが作ってバカに売る」という構造にあるのは明白だ。この場合、「バカに売る」でなく「バカを集める」である。集めれば集めるほど収益が上がるのだから、現在の社会構造から見て、下流層(ビンボー人)が多くなる。これは日本でも同じである。』

 とまあ、さんざっぱらな言われ方ですね。しかし、意実なんだからしょうがない。

 スティーブ・ジョブスがスタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチ。

"Stay hungry, Stay Foolish"

 はあまりにも有名だが、それはスタンフォード大学という西海岸の超エリート大学の卒業式だからこそ言えた話で、日本の三流四流大学の卒業式で「腹ペコでいろ、バカでいろ」なんて言うわけはないのだ。だって、そんなこと言われなくたって「腹ペコでバカ」ってまんまだもんね。まさに中川淳一郎氏が言うとおりの『ウェブはバカと暇人のもの』というとおりの状況に、どんどんハマっていくのである。

 つまり、インターネットの時代になって、一番大きく変化したのは「情報はタダで入る」という考え方が当たり前になってしまったこと。しかし、タダの情報ほど劣化した情報はない、という基本を皆忘れてしまって、「ググッておしまい」なのだ。しかし、所詮タダで手に入る情報は「その程度」の情報でしかない。本来は、お金を払って、身体を使って、時間を使って情報というものは手に入れるものなのだ。結局、タダで手に入る情報は何らかの「ヒモ付き情報」でしかない。

 しかし、ネットでの情報過多の弊害についてのアメリカでの調査では;

『1、ストレスと無力感が助長される(多くの大学での調査で判明)

 2、クリエイティビティ(創造力)が減退する(ハーバードビジネルスクールの調査によると「成果を出すには情報を遮断し、一定期間集中することが必要」という)

 3、生産性を下げる(ミシガン大学の研究結果)』

 ということなのだが、では、こういうのはどうなんだろう。

『いずれにせよ、いま、ネット上には映像コンテンツがあふれている。この先は、さらにあふれる。そうなると、いったいなにが起きるだろうか?

 当然、ユーザーは、好きなときに好きな場所で、好きな端末で自由にコンテンツを楽しむだろう。たとえば、朝起きてしばらくはスマホやタブレットで、勤務中のオフィス時間帯はPCで、帰宅後はネットテレビで、というようになる。』

 おいおい、「勤務中の時間帯」にPCで「映像コンテンツ」を楽しんじゃうのかよ、ってとんでもないね。仕事しろよ、仕事。そんな仕事中に映像コンテンツを見ながら「忙しい、忙しい」ってないだろ、そんなこと。まあ、まったくこれじゃあ日本企業がどんどん劣化して、落ち込んでいくのも無理ないか。

 えっ? 何だって? ソーシャルメディアの怖さについて書いてないって? そんなこと、当たり前じゃないですか。

 ソーシャルメディアに参加して、いろいろ書き込みとかしていれば、当然、個人情報はプラットフォーム企業に筒抜けになる。そんなことは承知で、メディアと付き合えばいいのじゃないだろうか。プラットフォーム企業に自らをさらけ出して付き合っているという自覚をもって使えばいいのである。

 所詮、いまさらソーシャルメディアと付き合うなといっても、多分無駄だろうから、それを自覚して付き合うしかないかな。

2012年3月10日 (土)

『IT断食のすすめ』というよりは、どうせならITを使い倒せっていったほうがいいのじゃないかな

 ITなんて所詮ツールに過ぎないんだから、それを使いこなせばいいのである。それがITに使われてしまう、というのは、まるっきりチャプリンの『モダンタイムス』そのままのお話でしかない。まったく、何をやってんだか。

『IT断食のすすめ』(遠藤功・山本孝昭著/日経プレミアシリーズ/2011年11月9日刊)

 遠藤氏と山本氏はごく当たり前のことを言っているに過ぎない。そんなことだから『朝イチでメールは読むな』なんて本ができてしまうのだ。要は、朝一番でメールを読むと、そのメールを追いかけるだけで午前中、下手をすれば一日中の仕事が終わってしまうからというわけなのだが、そんなものは自分で仕事をコントロールすればいいだけのことである。そんなことも出来ない人がITなんか使ったって、それはITに使われるだけで、何も仕事をしたことにはならないのだ。

 しかし、一度ITを導入してしまうと、もはや後戻りできなくなるんだなあ。

『情報と対話は、食料と同様に、人間の数十万年の歴史の中でずっと「不足」していた。「ヒト」は情報と対話にずっと飢えていた。

 それがITの進展により、たった20~30年で、対処できないほどにあふれかえり、ICF=情報と対話の洪水となってしまった。

 これこそがIT中毒の元凶だ。IT中毒とは、ITにより対処不能な量の情報や対話を抱え込み、逃れられないことが根本原因にある。容易に逃れられない、止められないのは、「ヒト」の本能が強烈に働いているからだ。

 消費カロリーよりも少ないカロリーしか摂取しなければ、確実にダイエットは成功する。理屈はとても簡単だが、先進国の本屋やウェブページに、これほど多くのダイエット関連のコンテンツがあふれているのはなぜだろうか。

 ダイエットを成功させることも、IT中毒を克服することも、「ヒト」の本能的な欲求との戦いだと認識すべきである。それは生き残ること、種を残すことをより確かなものにするために獲得した、「ヒト」の根源的な性質との厳しい戦いだ。』

 で、結局はごく当たり前の結論に至るわけなのだけれども、しかし、もう時は遅いのではないだろうか。

『ITが促してくれるわけではない。やはり、情報共有を促すのは人間であり、ITはコミュニケーションを手助けしてくれる脇役にすぎない。』

 と言ってみたり。

『ITは怖いほど、便利な“道具”だ。しかし、私たちはその便利さ故の「安直さ」に、常に留意しなければならない。「質」を伴わない「安直さ」は、現場から「深さ」や「愚直さ」を奪い、日本企業の競争力の源泉である現場力の劣化を招いてしまう。「手抜き」が蔓延り、いつの間にか「手抜き」が当たり前になってしまったのでは、日本企業の復権ばありえない。』

 と言ってみたりしても、結局ITというものは、アメリカが自動車で日本に取られてしまった覇権を取り戻そうと、国を挙げて取り組んでいるテクノロジーなのである。つまり、日本がIT先進国になることは、あり得ないだろう。つまり、アメリカによるアメリカのための、アメリカの技術がITであることを考えたら、少なくともITの分野で日本がアメリカをおさえて先進国になることなんてあり得ないことなのだ。

 つまり『真のIT先進国とは、IT「活用」の先進国のことだ。トヨタ生産方式が世界のモノづくりのひとつのお手本となったように、「日本流IT活用方式」の確立が急務である。』なんてことは、まず無理だろう。

せめて『ITを捨てて、対話を増やそう! 自分の頭で考えよう! そして、現場に行こう!』という事だけが、われわれ日本人ができることだ。

取り敢えず、「自分のアタマで考えよう」よ。

2012年3月 8日 (木)

『世田谷駐在刑事』は串団子

「山手西警察署学園前駐在所勤務 兼 組織犯罪対策 全国指導官」って、なんか凄く忙しい警察官だな。

『鬼手 世田谷駐在刑事・小林健』(濱嘉之著/講談社文庫/2012年2月15日刊)

「警視庁情報官」シリーズで公安警察の実態を描いてきた濱嘉之氏の新作品は駐在所勤務でありながら、同時に組織犯罪対策課の刑事であり、なおかつ警察庁が新設したマル暴全国指導官であり、いまだに東京や近辺のヤクザには「鬼コバ」と恐れられている、こわもて刑事なのである。人呼んで「駐在刑事(デカ)」という異名を持つ、凄腕の刑事なのである。

 こんなスーパーマンみたいな警官は本当にいるのだろか。まあ、多分いないからこそ、濱氏は描きたかったんだろう。

 濱氏は中央大学法学部を出て警視庁に入った元刑事である。警備部、公安部、情報情報調査室、生活安全部などを経て作家になった人である。つまり、警察官としてのキャリアではあるけれども、当然、警視庁、警察庁のトップになるためには東大閥にいなければ駄目だから、そこには入れないわけで、結局スピンアウトして作家になったわけだ。しかし、東大出のキャリアでは絶対に出来ない現場経験を持っているからこその、作家なのだろう。

 で、今回は「駐在刑事(デカ)」なのである。

 たしかに、駐在所のおまわりさんというのは、地域に密着して生活しているからこその、地域密着情報が上がってくるだろうし、そうした情報を警察が求めているのだろうなというのはよく分かる。公安だろうが警備だろうが、警察が「国家権力」である以上は、住民のすべてを知りたがるのだろう。その地域に住んでいる住民の思想調査とか住民意識の調査とか、当然政治意識に関する調査も、その一部である。

 そんな、調査の結果上がってきたのが『鬼手 世田谷駐在刑事・小林健』なのであるが、田園調布か成城学園あたりをイメージさせる高級住宅地にこんなに犯罪の芽があるなんてだれも想像しませんよね。でも、そういうところにこそ犯罪の大元があるというのが濱氏の考え方なんだろう。特に、大きな問題になる犯罪は。

 たしかに、足立区や江戸川区、荒川区なんてのは小さな犯罪は沢山あるけれども、経済犯なんかは結局こうした山の手地区のほうが多いのかもしれない。特に、今の時代は経済ヤクザと一般企業の結びつきなんてのも多そうだし、そんな意味では「駐在刑事」の存在も大きいのかもしれない。

 が、それも濱氏の想像の世界でしかない。とは言うものの、「本当にあるかもしれない」というのが想像の基本であるのだから、オウム真理教が関係しているのではないかと言われる「世田谷一家殺人事件」のような事件が、この小説にあったりすることは問題ではない。まあ、多分、元刑事の濱氏には何か見えているものがあるのかもしれない。

 TBSがこの作品を単発テレビドラマにするそうだが、しかし、こんな「串団子」みたいな話をどうやって2時間のドラマにするんだろうか。小説としては「串団子」はアリなのだけれども、映画やテレビの単発ドラマの脚本としては「串団子」は一番嫌われる手法なのだ。まあ、脚本家のお手並み拝見というところなのだけれども、今の若いプロデユーサー連中に「串団子」を批判できるほどの力量のあるプロデューサーはいるのだろか。

 まあ、今のところスタッフもキャストも発表されていない状態なので、何ともいえないが。問題は「脚本」次第なのでしょうな。楽しみにしようではないか。

 フンフン、どうやってドラマにするのかいな。

 

『分裂するアメリカ』はやむをえない状況なのである

 なんか今日はとても忙しいのである。って言ったって、要はJ Sports 3でパリ―ニースを見ながら、一方でフジテレビのアルガルデカップ決勝戦なでしこジャパン対ドイツ戦を見つつ、ブログを書いているという状態である。

 アルガルデカップは今のところ2対2の同点。パリ―ニースも昨日、新城幸也が前日の50位から26位まで順位を上げているところである。残り30km。

 まあ、でもこのブログは毎日0時にはUPしているので、そろそろ書き終えなければいけない。なでしこジャパンは4対3で負けており、パリ―ニースは残り17kmって、ライブだなあ。

『2010年から2011年にかけて、アメリカでは2つの草の根の運動が巻き起こった。保守的な「ちいさな政府」を訴えるティーパーティー運動と、リベラルなニューヨークから始まったウォール街占拠デモだ。「医療保険に税金を使わないでほしい」「経済的に富裕な1%を優遇し、99%をないがしろにしないでほしい」

 主張の中身こそ違ったが両者は奇妙なほど似ていた。それは「反ワシントン」のポピュリズムだ。』

 とまあ、結局ポピュリズムがアメリカの政治・経済を引っぱってしまうのだな。

『分裂するアメリカ』(渡辺将人著/幻冬舎新書/2012年2月29日刊)

 多種な民族、それも出自の国が更に異なる多種の民族。多種の宗教。こうした多様性をかかえる国であるアメリカ合州国は、結局、「草の根」的な政治運動がもっとも起こしやすい国でもある。しかし、その「草の根」運動は、結局指導方針を持たないポピュリズムに陥るしかないのだ。

 そして、FacebookやTwitterというソーシャルメディアの出現が、そんな傾向を輪をかけて促進する。つまり、中東革命のような「指導方針なき革命」という、いささかおかしな社会変革が、今後アメリカでも起きる可能性があるということだ。

『都市部の若年層を中心に、ソーシャルメディア出現後のアメリカ人のテレビ離れや視聴習慣の変容は凄まじく、地上波の夕方ニュースにかつてのような影響力はない。「有名アンカーは要らない。主役はニュースだ」と喝破したCNN創設者のテッド・ターナーのコンセプトが、ターナーが目指したニュース報道の内部改革によっでなく、ソーシャルメディアという「黒船」の出現と絡んで、20年越しで遅ればせながら実現したのはあまりに皮肉である』ということ。

更に、その方向性が『注目すべきは、ブログジャーナリズムやソーシャルメディアの浸透期とシンクロしていることだ。つまり、偏りのあるブログで「濃い」情報に対する免疫がある人たちが横のつながりで情報をやりとりする時代のなか、テレビのようなマスの媒体に求めるものも変容してきたのだ。「番組」をパッケージで有り難く視聴する感覚から、自分で能動的に動画やブログを検索する感覚への変容だ。テレビがリビングルームに鎮座する「家具」のような存在から、スマートフォンやラップトップの画面で見るものに変わったとき、テレビのコンテンツに期待するものも武妙に変化する。番組にもブログ的なものをほしがる。

 アメリカのテレビのオピニオンショーや政治的イデオロギーが偏った番組の跋扈は、かつては客観的だった報道番組にオピニオン部門ができたことによる偏向というより、社会の総ネット化によって、ネット的スタンダードに「感染」を受けていると理解したほうがいいのかもしれない』ということになり、結局『党を越えた情報が、州の名物ブロガーのもとにはタレコミとして届く。信憑性をブロガーが主観で判断して紹介する。リベラルなブロガーが共和党情報に強いことや、保守的なブロガーが民主党憎しでリベラルな情報に強かったりする。

 彼らブロガーに共通しているのは政治の実務経験である。実務を通して政治の内部に詳しいことは、マスメディアよりもブログでより直接的に役立つ。経験からくる勘やスタッフ仲間の人脈をフル稼働して、面白いブログを生み出している。正確に早く、客観的にという「報道」とはまったく違う才能と需要がそこにはあるからだ。彼らの知識や適性は、ジャーナリズムというよりは政治分析に向いている』と言うくらい、アメリカのジャーナリズムではブロガーの存在感が増しているようだ。

 しかし、ここにも書かれている通り、ブログというものは『偏りのある』『「濃い」情報』が特徴だ。つまり、人に読んでもらうためには、そのほうが結果に結びつくからなのだが、それは『正確に早く、客観的にという「報道」とはまったく違う才能』の世界なのだ。それこそマイケル・ムーアのような「無責任な政治的な面白がり」こそがブログの世界である。その辺は、日本もアメリカも同じである。「ブロガーは無責任」という。

 で、そんな「無責任」のブロガーたちによって動かされてしまっている、アメリカの「草の根」運動である。ますます、オバマの言うような「一つのアメリカ」からは遠ざかってしまうのだろう。どんどん分裂するアメリカの方へ。

 著者の渡辺将人氏はシカゴ大学大学院を出てジャニス・シャコウスキー下院議員やヒラリー・クリントン上院議員のスタッフをしていた人だ。そんな経験からみたアメリカの、ワシントンの実情と、一方反ワシントン的な動きを見せる「草の根」運動との乖離を活写したのが本書である。

 まあ、しかし、アメリカはもともと外国からの、合法、違法を含めた移民で、先住民を潰しながら作り上げた国である。先住民族の歴史を完璧に無視して、建国200年を言っている、幼い国である。その幼さが指導方針を拒否する「草の根」運動の危うさにつながっているのだろう。ティーパーティー運動も、ウォール街占拠デモも、その目指しているところは、直接的な要求はあるのだが、それに至る方法論がまるでない、単なる「暴動」と同じでしかない。こんな、幼い政治運動を何故先進国で行わなければならないのだろうか? 結局、それは「アメリカ人の頭の悪さ」を示すものでしかないのではないのか。

 そんなアメリカが世界の支配者然として、強大な権力を振り回している今の世界って何なんだろう。確かに、最早ヨーロッパには昔日の輝きはないし、アジアや中南米はまだまだ世界を席巻できる状況にはないと言うことなんだろう。

 結局、今のところはアメリカに世界の悪者を演じてもらおうという、ヨーロッパの(というかフランス、イギリスの)悪辣な深謀遠慮なんだろうな。

 悔しいね、このヨーロッパの落ち着き振りには。

 

2012年3月 7日 (水)

ゲバラ最期の時

 ゲバラの虐殺の状況というものは、最早、有名な話だ。しかし、タイトルに「ゲバラ」という文字を見つけてしまうと、とりあえず読んでおこうか、という気分になってしまうのだった。

『ゲバラ最期の時』(戸井十月著/集英社文庫/2012年1月25日刊)

 エルネスト・チェ・ゲバラが39歳で虐殺されたのが1967年10月9日のことだった。あれから44年既に過ぎているが、もしゲバラが生きていたら83歳。どんな老革命家になっていたのだろうか。いろいろ予想すると面白い。

 ゲバラと最後に言葉を交わした当時18歳のフリア・コルテスは言う;

『私は何も知らなかったんです。私が彼のことを少しでも知っていたら、チェがどんな人で、何をしようとしているかを知っていたら、私はあの時何かをしたでしょう。

 チェが世界的な人物で、彼の死が世界的出来事だったなんてことは、ずっと後になってから知ったのです。そうです、あれは確かに世界的な出来事だったのです。そして、終わりのない物語でもあるのです。

 世界中から、たくさんの人々が彼の歩んだ道、彼の死んだ場所を見ようとはるばるやって来ます。あの日から三九年が経つというのに人の数は増える一方です。チェが最期を迎えた場所がどんな所なのか、みんな知りたいのです。知って、その場で考えたいのです。チェが、その時何を考えていたのかを。

 チェと会った、たった半日のせいで私の人生は大きく変わってしまいました。私自身が好奇の目に晒され、職も失いました。ゲバラの最後の女だとか、ゲバラの子を妊娠していたとか、信じられないようなデマを飛ばされ、たくさんの誹謗中傷を受けました。いつだって、人は面白半分に勝手なことを言うものです。

 でも反面、お陰で強くもなれました。それも、チェと出会ったお陰です。それまでは知らなかった、世界中のいろいろな人とも出会えたし……。そう、あなた(著者の戸井十月のこと:引用者注)だってその一人です。あなたとだって、チェとの出会いがなければこうして会うことも、話すこともなかったでしょう。私の人生はチェとの出会いによって大きく変わってしまったし、あの時から私の人生は始まったと言ってもいいくらなのです。

 今ハッキリ言えるのは、あの頃、私たちが信じていたことはまったくの間違いだったということです。私たちは無知で愚かで。チェが言っていたことを理解するのに時間がかかりすぎてしまったんです。』

 やはり、エルネスト・チェ・ゲバラという人の人間的な魅力と言うのは相当にあったのだろうな。まあ、見た目もカッコイイし、なんかキリスト的な神々しさもある。ただし、これは本人に会ったことがないから言えることであって、多分実際に会ったら、風呂にも入っていないゲリラ生活でクッサクてたまらないだろうけれども。

 いずれにせよ、会った人の人生を変えてしまう魅力に溢れた、エルネスト・チェ・ゲバラなのだ。そして、多分、ゲバラによって一番人生が変わったのがフィデル・カストロだろう。ゲバラなくしてはキューバ革命はなかったろうし、相変わらずのアメリカ合衆国の傀儡政権が跋扈する政治だったのだろう。

 そのカストロも既に老境に達しており、次のキューバ共和国のリーダーは誰になるのだろうというのが、興味の的である。多分、アメリカもそれを興味津々で見ているに違いない。どうせCIAだってカストロ以後のキューバでの反革命を狙っているに違いないのだ。まあ、もっともそれは、アメリカ政権がどんな状況になっているか次第なのだけれども。

 現在のボリビアはフアン・エボ・モラレス・アイマという先住民族出身の左翼政権であり、ゲバラを公式的に認めた最初の政権である。社会主義的な施策をかなり行っているが、特に社会主義政権であるということは名乗っていない。この辺が、中南米の難しいところであり、あからさまには反米・社会主義を唱えているのはベネズエラくらいなもので、やはりアメリカのCIAトラウマは中南米には多くその傷跡を残しており、アルゼンチン(は反英か?)やブラジルなんかも表立っては「反米」を唱えていない。しかし、中南米の国々の多くが社会主義的政治施策でもって次第に植民地経済から独立国経済の方へと力をつけているのは事実である。

 暴力革命でキューバは現在のキューバにはなったが、それ以外の中南米諸国も、それぞれその国のやり方でもって順々と民主化はなされていったし、ゲバラの夢も少しずつではあるが実現しつつある。

 人は生きていることよりも、死ぬことでもって、より永く人々の心の中に生き延びる人がいる、ということがあるのならば、まさにゲバラこそはそんな人の代表だ。

 そして、もうひとつ、国際主義革命と言うのであれば、レーニンやトロツキーの方が先行例なのであるが、その後のスターリンとの闘争に紛れ込んでしまい、結局、本来の国際主義革命を実際に行ったのはゲバラとなってしまった不思議。

 でも、それは不思議じゃないのだな。まあ、ひとつは「ロシア革命」というのは、私たちの世代としては、もはや「歴史」になってしまっていたということと、もうひとつはレーニン、トロツキーは「政治家」だったということなのである。それに比べてゲバラは、一生涯「革命兵士」であったという違いだろう。それはカストロとゲバラとの違いにも言えそうである。

 もうひとつは、中南米ではすべて「スペイン語」が通じると言うことなのだ。これは、逆に言ってしまうととんでもないことなのだけれども、ポルトガル人が支配したブラジル以外はすべてスペイン人が植民地にした中南米という構図だろう。その結果、中南米に関する国際主義革命が可能になっている状態を作っているのだ。まさしく、スペインのお陰で国際主義革命が出来る中南米なのだが、あとは各国ごとの事情なんだろうな。

 一生涯「革命兵士」

 兵士の最後は「死」である。

 死は永遠になる。

 まさに永続革命へのスタートなのである。

 今の時代に「永続革命」って?

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(c)Albert Korda/(c)Jim Fitzpatrick

 ボリビアに行ってみたい。

2012年3月 6日 (火)

新宿ニコンサロンで開催中の『Remembrance 3.11』展

 銀座と新宿のニコンサロンで開催中の『Remembrance 3.11』、今日は新宿ニコンサロンのほうの紹介をする。

 新宿では、和田直樹写真展『惨禍―三陸沿岸部の定点記録―」を2/28から3/5まで、田代一倫写真展『はまゆりの頃に』を3/6から3/12まで、鷲尾和彦写真展『遠い水平線』を3/13から3/19まで、宍戸清孝写真展『Home』を3/20から3/26まで開催中(やはり大阪ニコンサロンでは3/22から4/18までとちょっとズレて同じ催しを開催)。

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 で、一昨日は新宿ニコンサロンで和田直樹写真展『参加―三陸沿岸部の定点観測―』を見てきた。

 震災直後の瓦礫に覆われた三陸海岸部から始まって、夏の頃のだいぶ瓦礫が片づいて、雑草が生い茂ってきた同じ部分を同じアングルで、そして今年に入ってからの、雪につつまれた同じ部分を同じアングルで、それも全部パノラマ写真で撮影した写真の展示であった。

 パノラマ写真という、どちらかと言うとのんびりした風景写真に合いそうな手法での写真に若干違和感を感じながら見ていく。しかし、見進んでいくにつれて、こうして広いアングルで景色を眺めるというのも、「風景の見方」ではありなのかという気もしてくる。そう、別にのんびりした風景でなくてもいいのだ、というか本来、風景に「のんびり」も「緊迫」もないのであって、風景は風景でしかない。

 というのならば、こうして緊迫した風景もパノラマ写真でもって見ていて、そのまま定点観測をするうちに、もとの「のんびり」した風景に戻ってくるのかもしれない。

 そんな日が来るまで、和田氏は観測を続けるのだろうな。

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EPSON RD1s ELMARIT 28mm/F2.8 @Shinjuku & Ginza (c)tsunoken

2012年3月 5日 (月)

銀座ニコンサロンで開催中の『Remembrance 3.11』展

『Remembrance 3.11』という統一タイトルでニコンサロンでは連続企画展を開催中だ。

 銀座ニコンサロンでは、石川直樹写真展『やがてわたしがいる場所にも草が生い茂る』を2/29から3/6まで、笹岡啓子写真展『Difference 3.11』を3/7から3/13まで、新井卓写真展『Here and There―明日の島』を3/14から3/20まで、吉野正起写真展『道路2011―岩手・宮城・福島―』を3/21から3/27まで開催中だ(大阪ニコンサロンではちょっとズレて3/22から4/18まで開催)。

 新宿ニコンサロンの催しは、また明日紹介する。

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 で、昨日は銀座ニコンサロンで石川直樹写真展『やがてわたしがいる場所にも草が生い茂る』を見てきた。

 震災後すぐのころの岩手あたりの状況だろうか、雪につつまれた瓦礫のありさまが何とも凄まじい。まさしく「惨状」というほかはないのだが、そのまま写真を見進めていくと、岩手県大船渡あたりの「吉浜のスネカ」の写真が出てくる。

「吉浜のスネカ」というのは、秋田県男鹿あたりの「ナマハゲ」と同様、怠け者を懲らしめる鬼で、毎年1月15日の恒例のお祭りのようなのだが、「ナマハゲ」のまさに「鬼」というような形相に比較して、なんとものんびりした顔の「スネカ」なのだった。どこかユーモラスで笑ったような顔をしている「スネカ」は、なんか惨状の中に住む人々の心を和ませるような雰囲気だ。

 別に、そうやって人々の心を和ませるために、そんなユーモラスな顔をしているわけではないのだろうが、何かそんなことを感じさせるような「スネカ」の顔であった。

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EPSON RD1s ELMARIT 28mm/F2.8 @Ginza (c)tsunoken

2012年3月 4日 (日)

『生きる希望を忘れた若者たち』っていうほど絶望的ではないという現状

「生きる希望がない若者たち」の本かと思ったら、そうではなく「生きる希望が本当はあるんだけれども、そのあることを忘れてしまった若者たち」についての本であることに、読み終わってから気がついた。

『生きる希望を忘れた若者たち』(鈴木弘輝著/講談社現代新書/2012年2月20日刊)

 つまり『第一段階では、「いま」だけを重視するコミュニケーションが支配的になり、第二段階では、人々がそれぞれの行き続ける指針を見失ってしまう。そして、第二段階がある程度まで達成する中で、第一段階にある「いま」だけを重視するコミュニケーションの中に居続けるようになると、人々は自分が「生きる希望」を持っていたことをいつしか忘れるようになると考えられる。』ということなのだな。

 しかしながら『ここでいう「生きる見本」とは、子どもが「大きくなったらお父さん(お母さん)のようになりたい」というものだ。近代においては、そのような思考・実践習慣が有効に機能していたと考えられる。しかし、現代においては、もはやそのような思考・実践習慣は失われてしまった。近代においては、「お父さん(お母さん)」が「生きる見本」として子どもにみなされるような社会的な条件が備わっていたからこそ、「〇〇離れ」という現象は気にならなかったのだろう。それに対して、現代においては、「お父さん(お母さん)」が「生きる見本」となるような社会的条件が失われてしまったからこそ、「〇〇離れ」などという現象が意識されるようになったのではないかと考えられる。』というとき、筆者自らが属する「団塊ジュニア前後の世代」というのはどこにいるんだろうか。つまり、「団塊の世代の子育て」自体がすでに「親の背中を見せて」子育てをすることはなくなってしまっているはずであり、いわゆる「友達親子」という気持ちの悪い関係が始まっていたはずである、それからすると「団塊ジュニア前後の世代」から既に「生きる希望を忘れた世代」が始まっていたということではないのだろうか。

 多分、私の世代(1951年生まれ=団塊の最期の尻尾)あたりが「生きる見本」を見ながら育った最後の世代なのだろう。それにしたって、既に核家族化は始まっており、同時に大方の大人はサラリーマン化していて、親父が仕事をしてる状態を子どもが見て育つという環境にはすでにない。私のような(足立区という)場末に育った人間の一部が、親が商売をしていて、その状態を見ながら育ったという環境にはあったのかもしれないが、山の手の人たちは既にサラリーマンの親の元で育っている筈であるから、そんな「親の背中を見ながら育った」経験はないはずである。

 では、なにがいまの若い世代が「生きる希望を忘れさせている」のだろうか。多分、それは大人たちの情けないありさまなのであろう。つまり、経済が停滞しても、それに対する効果的な対策もなく、単に「日本が円高だから輸出がうまくいかない」と言ってみたり、「モノ作りの主体が低人件費のアジアに移ってしまったので、日本のモノつくりは対抗できない」という言い訳をしてみたり、金融機関の破綻に際しても外国企業に売っ払って何とも感じていない政府のあり方とか、東京電力の処理についても、なんら斬新な発想のない大人たちなのである。つまり、「日本の将来にまったく展望がみられない」ということなのだ。

 そうした大人たちの、「前例のないことに対する判断力の低下」が問題なのだ。私も会社に何か提案するたびに、「それは前例があるのか?」と問われた。出版社みたいな「前例破り」が当たり前のような会社でもそうだったのだから、一般の会社ではもっとすごいんだろうな。この官僚制は。だからこそ、若者はそんな日本を見限って、勇敢な人たちは海外に行ったり、海外に行けない者たちは、日本国内で引きこもったりするわけだ。

 まあ、それは仕方がない。

 というか、それでいいのだ。最早日本はそのようになるしかない国であり、そんな存在であるのだ。同時にそれはアメリカでもあり、韓国でもあり、中国でもあるのだ。つまり、世界はそのようにしか進まないということ。

「生きる希望を忘れた」からって、生きなくなってしまうわけでもなくて、しっかり若者は生きているのである。勿論、活力はどうかという問題はあるけれども、基本的にはみんな生きているし、「生きる希望」をなくしてなんかいないし、忘れてもいないんじゃないか。現場では。

 そう、社会学者の立場からは「生きる希望を忘れた若者たち」が見えるのかもしれないが、現実の若者たちは、そんなに「希望」をなくしているわけではないのだ。

『もう日本に経済成長は期待できないかも知れない。だけど、この国には日々の生活を彩り、楽しませてくれるものがたくさん揃っている。それほどお金がなくても、工夫次第で僕たちは、それなりの日々を送ることができる。

 たとえば、ユニクロとZARAでベーシックなアイテムを揃え、H&Mで流行を押さえた服を着て、マクドナルドでランチとコーヒー、友達とくだらない話を三時間、家ではYouTubeを見ながらSkypeで友達とおしゃべり、家具はニトリとIKEA。夜は友達の家に集まって鍋。お金をあまりかけなくても、そこそこ楽しい日常を送ることができる』から、『日本の若者は幸せだからです』と書く『絶望の国の幸福な若者たち』の古市憲寿氏ではないが、基本的には日本の若者たちも普通の生活を送っているのだ。

 まあ、そんなに鈴木氏が心配することでもないようである。

 塾講師に邁進してください。なんか、その塾講師に触れた部分だけ鈴木氏の筆致も生き生きしているのだ。都留文科大学の教師の仕事よりは、塾講師のほうが鈴木氏に向いているのではないか?

 

2012年3月 3日 (土)

『東電解体』ってもなあ、所詮学者の書く本ってこんな感じ?

 今、日本アカデミー賞のテレビ中継を見ながらこのブログを仕上げているのだが、どうせ予定調和的に終わる日本アカデミー賞なのだろうな。

 ということで、本書もやはり予定調和的な書かれ方をした本なのだった。

 問題は東京電力の解体ではなくて、国内の「大きすぎて倒産してしまうと影響が大きすぎる会社」を如何にして倒産させないかという、政府の施策についての批判なのだ。

 勿論、その最たるものは銀行だろう。とにかく金融資本主義の段階に至ってしまった日本は、「銀行が潰れると日本は大変なことになってしまう」ということで、こうした金融資本を潰さないために「公的資金」つまり税金を投入して救済してしまうのだ。でも、その銀行が国有化されてしまうというのは、長銀と日債銀という、ごく一部の例でしかない。何だ、日本政府ってのは、資本家のためだけの政府なのかよ、って今頃気がついたの? って本なのである。

『東電解体 巨大株式会社の終焉』(奥村宏著/東洋経済新報社/2011年10月27日刊)

 東電に関しては、要は地域独占の問題でしょう。そんなもの、地方のテレビ局の問題とかと変わらない、要はその独占で持って潤っている人たちがいて、その逆に、そこに入り込みたい人が排除されるという問題なのだ。

 基本的なことをいってしまうと、最早、東京電力やトヨタ、パナソニックなどの巨大企業は、生きる道はないということだ。とにかく大きすぎて、決定も遅いし、動きも鈍い。そんな企業は、もう21世紀では生き残れないということなのだろう。

 申し訳ないが、本書は昨日の平川氏の本から興味を持って読んだのだが、読んでこれほどガッカリした本もない。何故か。つまり、学者の書く本によくあるような、自分自身の「提言」がある文章じゃないのだ。

 最早、日本(というか、世界は)は大企業が長大企業のままに生き残れる状態ではないのは、皆知っている。アメリカにおけるGMやクライスラーの破綻を見るだけでもいい、日本だって上記の企業は今後どうなるのかは分からない状況である。

 しかし、JALのようにそこから生き返る可能性もある企業もある。そのくらい企業社会というものも、人間の社会と同じように生きているということなのだろう。

 だとしたら、学者は学者なりにこれからの社会のあり方を提示してもいいじゃないか。

 でも、この奥村さんはしないんだよな。

 例えば東電に関しても;

『かにり国有化したとしても、そのあと独立させ、そして前記のように分割していくことが必要である。

 また、会社更正法によっていったん倒産させたあと、新会社を作ってこれが東京電力の事業を引き継ぐとして、その際に前記のように分割していくことが必要である。

 このような東京電力分割論はもちろん東京電力だけの問題ではなく、他の電力会社にも適用していかなければならない。東京電力だけ分割して、他の電力会社は現状のままというのでは筋が通らないし、混乱する。

 そして問題はさらに発展して他の業界の大企業にも当てはまるのだが、いずれにしてもそれはそれぞれの会社が自発的に行うはずはないから、法律によって国が方向をさし示していく以外にはない。

 それは国民的課題であり、国民全体が考えていかねばならない問題である。』

 って、自分の考え方も出さずに、こう言い切るだけでいいのかね。

 これじゃまったく無責任な学者の言い分じゃないか。「曲学阿世」ってこんなものなんかもね。とにかく自分からは解決策の提案はない。勿論、今現在の問題指摘は十分ある。しかしそんな問題は皆知っているのだ。だから、皆が求めているのは「問題解決の策」なはずだ。

 しかし、そんな問題解決の策を出すような学者はいないっていうもんだよな。結局、学者は現状を分析し、それを表明するだけで、今後それがどのように変化するかということを予測することはしない人種なのだな。

 その意味では、経済学者ということで言って、未来予測をキチンとした経済学者って、結局マルクスとケインズしかいないってことなんでしょうかね。ハイエクだって、結局はケインズ批判をしただけだしな。

 まあ、そういうことでは先人の功績に感謝なのだけれども、今の時代に、マルクス、ケインズを超える経済学者・社会学者・哲学者って、あらわれないのだろうか。

2012年3月 2日 (金)

『小商いのすすめ』と今更いわなくても、沢山ある小商い

 内田樹氏の小学生の同級生で、内田氏とともに翻訳会社アーバン・トランスレーションを設立したり、『東京ファイティングキッズ』という本を出して、いまは株式会社リナックスカフェというまさしく「小商い」会社の代表取締役を務める平川克美氏の新著である。

『小商いのすすめ「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ』(平川克美著/ミシマ社/2012年2月2日刊)

 人口減少に移行した日本は、大量生産大量消費の時代は終わり、大企業病は様々な部分で綻びをみせ、トヨタ、パナソニック、東京電力などの巨大企業は最早終焉の時代に向かって突き進んでいるようである。

 しかし、だからといって昭和三十年代の東京都大田区に思いを寄せるのはどんなもんだろうか。著者自身も語っているではないか;

『わたしの実家はほとんどこの隣組の中心的な存在であり、わたし自身はこの隣組的なしがらみや、価値観といったものからいかにして逃れるのかといったことが青年期のテーマのひとつになりました。

 ひとことでいえば、この隣組的価値観が嫌で嫌でたまらなかったのです。』

 と。

 しかし、その返す刀で;

『ここでは、昭和三十年代の日本の光景に、わたしが嫌ったこの隣組的な価値観や風景がひとつの輝きを与えており、それは将来への可能性でもあったとおうことをこれから見ていこうと思っています。』

 というようでは、心もとない。

 確かに、今となっては皆同様に貧しかった、昭和三十年代を懐かしむ気持ちを否定するつもりはない。『ALWAYS 三丁目の夕日』をありがたがる気持ちも分からないではない。しかし、そんな昭和三十年代の日本あるいは東京とはどんな時代だったのか。

 映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の画面からは見えてこない部分を見ると、例えば「汲み取り式トイレ」とか「毎月1回ある共同どぶ掃除」「氷屋さんから毎日氷を買って入れなきゃならない氷式冷蔵庫」「それまでの手洗い式から多少は便利にはなったけれども、まだまだ効率の悪かったガッコンガッコンいう洗濯機」「毎日いけなかった銭湯」「舗装していない信号もない道路」などなど、決して画面からは見えない「汚い」「臭い」「危険」という、まさに「3K」そのものの日本および東京なのである。

 そんな時代をなぜ今更懐かしがるのだろう。多分それは、例えば高収入の親の子どもは小さいときから塾などに行き、結果、高偏差値の高校、大学に行き、結果として高収入を約束されている企業に就職するのに反して、低収入の親に育てられた子どもは、そのまま低偏差値の高校、大学や専門学校にしか行けないので、それこそ低収入の企業に就職できればいいほうで、派遣労働者やフリーターなど非正規労働にしかつけず、結果、一生低収入で終わるしかない、という「格差固定社会」に対する思いがある。それに比較して、国民全体が貧乏であったが、しかし、その分だけ将来に対する希望に溢れていた時代のほうが、皆幸せだったのではないか、という思い込みでしかない。

 しかし、そんな時代であっても格差はあった。皇族・華族は別にしても、やはり金持ちの家に育ったこどもと、あまり金持ちではない家、貧乏な家に育った子ども達とは別の人生を送っていたのだ。ヨーロッパほどではないが、やはり日本だってそんな格差社会ではあったのだ。ただし、裕福な階級に比べて貧乏な階級が圧倒的に多かったから、貧乏階級の考え方が割りと社会の主流になって、社会的にも力をつけてきたということなのだろう。その結果としての、高度経済成長であり、一億総中流社会なのである。

 しかし、1970年代にいわれたこの「一億総中流」という言い方にも、私なんかはかなり反撥を感じたものだ。アメリカのホームドラマに出てくるような典型的な中流家庭、毎週末には芝刈りをしなければならないような庭もないし、エレベーターから直接玄関に入るマンションにも暮らしていない、「ウサギ小屋」に住んでる我々のどこが中流なんだ、というところである。中流だったら高校生運動なんかしてないよ、ってなもんである(ちょっと、昨日とカブった)。

 しかし、その昭和三十年代回帰という部分を除けば、平川氏のいう「小商いのすすめ」には賛成だ。つまり「ヒューマン・スケールの復興」という言い方をしているのだが、別にそれは「身の丈にあった商売をしようよ」だって「身の程を知った商売をしようよ」という言い方だって、何の問題もない。昔の下町の「帽子屋さんのおやじ」とか「駄菓子屋さんのおばあちゃん」という具体例があるのだから、何故それが商売として成り立っていたのかを考えればいいのである。

 それは「自分の家」で開業しており、「従業員は家族のみ」であり、「仕入れは現金仕入れ」であるということなのだ。自分の家であれば家賃は考えなくてもいいし、従業員は家族のみであれば下手をすれば給料は払わなくてもいいし、現金仕入れであれば仕入れた時点でお金はすべて払ってしまっているので、売上は気にしなくてもいい、ということなのだ。

 実は今でもそんな感じでやっている店は実は多いのだ。「〇〇商店街」なんていって、いまでも活気のある商店街が東京の下町にも多くあるが、そんな商店街でも元気に商売をやっているお店は、だいたい上記の条件にあった店なのだ。

 平川さんが、今どこにお住みなのかは存じ上げないが、今でも元気にやっている下町の商店街にいくと、結構こうした「小商い」の参考例がいっぱいある。まあ、仕事をやっているとあまりこうした下町の商店街に行く機会もないだろうが、平川氏ももういい歳である。一度、会社の仕事から離れて下町商店街巡りをオススメしたい。

 結構、いい発見があるのではないだろうか。

2012年3月 1日 (木)

『高校紛争 1969-1970』は「温故知新」なんてものじゃない。しかし、もう40年もたってしまったんだなあ

 著者及び中公新書編集部からの献本ありがとうございました。

 しかし、やはり「紛争」という言い方には当事者としてはなんか引っかかりが今でもあるのだ。なんか「紛争」というとどこか関係ないところでやっている闘いみたいじゃないですか。せめてサブタイトルで「闘争」という言葉を使ってくれたことで、少しは気持ちも収まるのだが、やはり1960年生まれの小林氏にとっては「紛争」なんだろうな。やっぱり当事者じゃないのだから、仕方のないことなのかも知れない。

 勿論、当事者じゃないから書けることもある。

『高校紛争 1696-1970 「闘争」の歴史と証言』(小林哲夫著/中公新書/2012年2月25日刊)

 小林哲夫氏と会ったのは2年ほど前のことである。どこかで私のブログを読んだようで、どうもコヤツは高校生運動をやっていたようだ、ということの興味で私のメール・アドレスに連絡をしてきた。

 残念ながら、すでに40年近く過ぎたことを私もよく覚えておらず、確かに私が通学していた東京都立足立高校という場末の高校でもバリケード封鎖もあったのだけれども、既に街頭闘争に参加していた私が、バリ封した連中と話し合った結果、そんな「制服廃止」とか低次元の理由でバリ封したって意味ないじゃん、とバリ封には参加せずに、分かったからお前たちに「処分するな」という運動だけはやってやる、といって勝手にやらせておきながら、バリケードの内側には入ったりしていたというオソマツさまで、あまり小林氏の取材意図には応えられなかった思いだけがある。

 そう、私にとっては、私が入学試験を受けた年から始まった学校群制度というものと、高校生運動がつながっているような気がするのだ。小尾乕雄東京都教育長の指示で突然採用された学校群制度で「自分の行きたい高校にいけない」というのが、ひとつの理由にはなっていたのではないか。行きたくもない高校に無理やり入れさせれてしまった高校生は、やっぱり面白くないよね。で、なんでこんな制度が出来てしまったのか、ということを考えるわけなのだけれども、その結果が「後期中等教育の帝国主義的再編」「支配者としての高等教育受益者と労働者としての中等教育卒業者を分けて育てる」ということに結びつくのは簡単だ。要は、支配者からしてみれば「(上も下も)飼いならしやすい市民」を育てる為の施策なのである。

 だから、高校生は反乱した。

 勿論、政治党派からの働きかけはあった。本書にも書かれている、「2.11紀元節復活粉砕全都統一行動」という清水谷公園で行われた集会とデモには、私は反帝高評の要請で参加したわけなのであるけれども、それは同じ高校に学んでいる×××の要請に応じたものだった。各党派が、その枠を超えて集まるというのはとても良いと考えたからだ。ただし、私は青ヘルはかぶらなかった。中核と革マルのいつもの小競り合いがあったな。

 反帝学評からのオルグもたくさんあったけれども、なぜかそうしたセクトのオルグには「窮屈さ」が感じられて、なんかノレなかたんだよね。なんで、皆こんな指導部の言い方に盲従するの、って感じで。気分的にはブントだったし。基本的にはノンセクト・ラジカルだった。

 だから、高校生は反乱した。

 セクトの指導はあった。しかし、それ以上に高校生たちの「窮屈感」はあったのだ。「お前らはまだ高校生だから社会に対する判断力はない」という教師からの圧力。その教師が「日教組」のストには参加することによって、授業がなくなってしまう不可思議。なんで? ということを高校生が感じてもおかしくはない。

 なんだ、教師ってのは我々にとっては反面教師でしかないのか。「日教組」の教師だって、結局は自分の立場を守るための活動しかしていないわけで、自分の教え子のことを考えているわけではないのだ。とりあえず「日教組」「都高教」なんてとこに属していたって、本人の自覚次第では、我々から見れば「反動」でしかないのだった。

 だから、高校生は反乱した。

 本当は、高校生は自ら発した疑問に対して、真摯に向き合って、一緒に考えてくれる教師を求めていたのではないのだろうか。しかし、多くの教師はそこで「管理者」の立場で生徒に接したのであった。それは「日教組」の組合員であろうがそうじゃない人であろうがである。この時期、日教組も「体制側」として高校生運動に向かっていたと言うことなのである。

 だから、高校生は反乱した。

 つまり、高校生の反乱は、反乱なのであった。革命ではない「反乱」。所詮、高校生には革命はできない。革命後の政治展望なんてのはないし、革命政政府の運用は難しいだろうからね。

 しかし、1969年から70年にかけてこうした高校生運動があったことは事実だし、これは歴史からは無くされてはいけない問題だと、当事者だからかな、考える。高校生だっていろいろ考えているのだ、ということで。

 私も、それまで理系クラスにいたにもかかわらず、何故か文転してしまい、大学は(一浪の後)経済学部に入って、いまは出版社にいるという具合。まあ、確かに高校生運動に参加してからは、民青の奴のと論争に勝たなければいけないので、マルクスやサルトルなんかの本ばっかり読んで、経済学や哲学には詳しくなりましたがね。今から考えてみると、そのまま理系でいて政治なんかに興味を持たなければ、そのまま企業の開発部門で人生を終えてたかもしれない。というか、それこそ東電あたりで原発推進の旗振りをしていたかもしれないのだ。人生って、本当にどうなるか予測はできないものですね。

 そんな意味で、小林氏が当事者でもないのに、その事実の証言を集めたということには頭を垂れるだけである。というか、当事者じゃそれは出来ないか。お互いの党派の立場があるからね。

 小林氏が当事者じゃないからこそ、できた偉業なのかも知れない。

 ところで小林氏からのメールによれば、取材をした元新左翼の連中で「出版祝い」をしようという話があるそうである。全党派集まってしまうので、小林氏は戦々恐々としているようだが、うふふ……、ジジイの内ゲバってのも面白いかもしれない。

 見に行きたいな。

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