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2012年2月

2012年2月29日 (水)

『3/11 キッズ フォト ジャーナル』写真展を見に行く

 数寄屋橋のソニービル1階で『「3/11 キッズ フォ トジャーナル」写真展』という催しをやっている。

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『3/11キッズフォトジャーナル』とはセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンとソニー株式会社によって設立された「RESTART JAPAN ファンド」の支援を受けて、岩手、宮城、福島3県の小中学生33人によって結成された、東日本大震災で被災した子どもたち見つめている「震災後」を、世界に向けて、写真と文章によって伝えていこう、というプロジェクトで、既存のメディアとは異なる内側の視点から、被災地の歩みを伝えている。

 当然、写真機材はソニーの提供である。

 キッズフォトジャーナルの代表者の後藤由美は、2004年のスマトラ沖大地震・インド洋大津波の際にも、その被害が大きかったインドネシアのアチェ州で、同様のプロジェクトに関わったフォト・エディターだ。

 この写真展は2月23日に講談社からこのプロジェクトの写真集『3/11 キッズフォトジャーナル』が刊行されたことをきかっけに開催されたもので、残念ながら、今日(2/29)までの会期である。気になる人は、今日見に行こう。あるいは、本を買ってもいいですがね。勿論、印税は彼らの活動に充てられる。

キッズフォトジャーナルのサイトはコチラ→ www.kidsphotojournal.org/

RESTART JAPAN ファンドのサイトはコチラ→ www.savechildren.or.jp/restartjapan/

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 ソニービルには「乃木坂46」を見に行ったわけではありません。決して。

Fujifilm X10 @Ginza (c)tsunoken

2012年2月28日 (火)

北越谷の香取神社なんて知らないでしょ 超マイナーだもんね

 東武伊勢崎線の北越谷駅というと、越谷駅が先にあってその次に作った北越谷というイメージであるが、実は元々この北越谷駅が「越ヶ谷駅」という名前だったのだが、お隣の越谷市役所に近いところに駅が出来たので、そちらに「越谷駅」を譲って、一時期は「武州大沢駅」だったが、1956年に周辺の市町合併などもあり、現在の「北越谷駅」になったそうだ。

 元々、東武伊勢崎線と東京メトロ日比谷線(昔は帝都高速度交通営団日比谷線)が最初に相互乗り入れ(当時、地下鉄と私鉄・JRの乗り入れは日比谷線が初めて)をした当時は、北越谷がその終点駅だった。

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 これが現在の北越谷駅なのであるけれども。今回はその駅のことではなくて、近辺にある香取神社についてであるのだ。

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 武蔵国と書いてあるから、これは江戸時代以降の碑文なんだろうな。

 元々、この北越谷は武蔵国ではなく下総国葛飾郡だったわけで、江戸時代になって武蔵国に編入されて越谷宿の一部になったわけである。越谷宿は千住、草加に次ぐ、奥州街道・日光街道の三番目の宿場だった。現在の南越谷あたりから、この北越谷あたりまで、かなり大きな宿場町だったようだ。

 その、下総国だった証拠がこの下総国一ノ宮香取神社なのである。いまでも越谷市大沢という地名が残っている通り、大沢宿という越谷の助合村としての大沢宿が成立しているのであるが、越谷には武蔵国久伊豆神社があって、別の神様を奉っていた別の町があったということなのだろう。

 で、今の香取神社は戦いの神様じゃなくて、安産の神様らしい。境内には「安産の石」なんてのも置かれていたり、神楽殿にはお雛様が飾られていたり、まあ、今の神様はとにかく安全のことしか考えていないのね、というところである。そういえば、亀戸香取神社なんて「スポーツの神様」だもんね。

 それだけ、日本が平和な国だということなんだろうけれどもね。

EPSON RD1s ELMARIT 28mm/F2.8 @Kita-Koshigaya (c)tsunoken

2012年2月27日 (月)

ジョナス・メカス最新作『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 』を見る

 東京都写真美術館の1階にある映画館を中心に『映像のフィジカル』という展覧会を開催中だ。勿論、2・3階でも展示会(スチールも動画展示もある)を同時開催中であり、言ってみればその中心に位置するのが1階の映画上映なのである。

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 今日(平成24年の2.26)はジョナス・メカスの新作の上映会があった。

『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語』である。

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(c)Jonas MEKAS

 ジョナス・メカスといえばリトアニア出身の映画評論家・インディペンデントフィルムメーカーとして有名で、昔見た『リトアニアへの旅の追憶』のイメージが今でも鮮明にある。ボレックスH16スプリングモーター・ムービーキャメラで撮影されたその映像は、時としてカクカク動く映像として記憶に残っている。「日記映画」というふうにジャンル分けされたその映画は、当然ストーリーなんかはないし、ドキュメンタリーフィルムとしてのテーマ性もない作品であり、どうやってこの作品を評価すればいいのだろうか、という途惑いを私たちにもたらしたのだった。

 しかし、私たちはそれを受け入れ、テーマ性をもったドキュメンタリーでもないその映画を、まさしく「日記映画」として受け容れたのだった。そう、そういうジャンルの映画なのだということで。それはつまり、もし私たちが16mmキャメラを持って何かを撮りはじめたら、多分そんな映画になるのだろうな、と言う意味での日記映画なのであった。

 事実、その以後、私も16mmボレックス・キャメラを中古(大古?)で買って、映画を撮り始めたのであったが、それはまさしく「日記映画」なのであった。自分では「現象学的ドキュメンタリー」なんてカッコつけて言っていたのだが、結局それは日記映画でしかなかった訳だ。

 で、このメカスの新作『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語』なのだが、それは機材が16mmキャメラからSONYのデジタル・ムービー・キャメラになったために、カクカクした映像にはならなかったが、しかし、やはり同じ思想の元に撮影された作品であることには変わらなかった。

 それらの作品は、実はメカスのサイト(http://jonasmekasfilms.com/diary/)でも見られる日記映画そのもの(だってサイトの名前が「ダイアリー」でしょ)なわけであるのだが、考えてみれば、デジタル・ビデオ・キャメラがまさしく、そのような日記映画にもっとも相応しいメディアであるのだった。

 16mmフィルムの場合は「現像」という過程を経なければならない分、やはり日記からは多少離れていた部分があったわけで、撮影から上映(公開)までがリニアにつながっているビデオの場合はまさしく日記にもっとも相応しい形態なのであった。できれば、24時間分のすべての映像を撮影して、24時間で公開するという方法があるかもしれない。実際、YOU TUBEがそれを可能にしている。

 とするならば、ジョナス・メカスの日記映画こそは、そうした映像のメディア革命の端緒だったのかもしれない。

 というところで『メカスの映画日記』もご一読を。まだ、再版されているみたいだ。

 リトアニアから言葉も通じないアメリカに来て、言葉が通じないからこそ映像の世界に入ってきたメカスの過程が見えてきます。

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EPSON RD1s ELMARIT 28mm/F2.8 @Yebisu & Naka-Meguro (c)tsunoken

2012年2月26日 (日)

『革命論』というタイトルに興味を持って読んでみたら

『政治哲学が流行している。テロや金融危機や経済格差について、さらには原子力災害について、黴の生えた机上の空論であるはずだった哲学がまだなにかを語りうるということを、この政治哲学は実証している。』という語りから始まる本書なのだが、私にはまるで何を言いたいのかがわからない悪文の典型にしか思えないのだ。

『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(市田良彦著/平凡社新書/2012年2月15日刊)

 つまり、アガンベン、アルチュセール、ネグリ、デリダ派、バディウ、スピノザ、フーコーを語りながら現在の政治哲学状況を説こうとするのだが、しかし、本書のほとんどは彼らの言説の引用からなっており、市田氏の言説が読み取れるのは、先の「序章」と「あとがき」だけであり、それ以外の章からは市田氏の独自の言説の展開はみられない。

 結局、市田氏が言いたいのは「あとがき」で;

『政治家はいったいなにをしているのだ、と私たちは毎日思わずにいられない現実を生きていり。瓦礫は片づかず、放射能はもっと始末をつけられない。遠くはない将来に国が破産するかもしれない、と誰もが頭の片隅で思っている。それでも儲けている人々がいて、「貧困」の波がじわじわ日本を浸食する感覚も共有されている。にもかかわらず、政治家には、つまり現状の政治にはでいることがはなはだ少なく、私たちはメディアを通して見る政治の現状に苛立ちを募らせている。政治家も自分の無力さを承知しているから、ひたすら低姿勢に振舞おうとする。誰もがいくぶんか「哲学者」になっている状況であるだろう。なるほかない状況であるだろう――ゼロからの問い直しを強いる志向を「哲学」と呼ぶとするならば、である。現に生起している政治を前にして、あるいは有権者や市民としてその政治のただなかにいて、政治を成り立たせているものをいっさいの前提なしに摑み直せ、思考のリセット地点に戻れと人々に迫る状況は、いわゆる「政治」を軽く越えている。政治への不信につきまとわれ、どうしてこれだけの税金を支払わなければいけないのかと毒づきたくなるとき、人はすでに「哲学者」の領分に足を踏み入れている。キルケゴールをもち出さずとも、不安は哲学的な一歩である』

 と書く。

 つまりそれは、現在の日本の政治状況、あるいは世界の政治状況の中では、だれもが自ら哲学者となり「革命」を考えなければならない状況にある、ということなのだろうか。

 しかしながら、そこで考えられている「革命」とは「国家内での革命」でしかないのではないだろうか、『マルクス主義は「国家と革命」の「と」に翻弄されてきた。革命とは国家を死滅させる国家を建設することだという逆説を実践的に解くことができす、その名を冠した国家をソ連では消滅させ、中国では資本の有能な管理者に変えた』というけれども、だからこそネグリは「マルチチュード」という言葉を復活させ、国家の枠を超えて発展してきたグローバリズムという名の、資本の拡大に対抗させようとしたのではないだろうか。

『マルクスにとって「哲学」は「経済学批判」にまで進まなくてはならなかったのに、つまり「哲学」も「経済学批判」のなかで別の生を与え直されねばならなかったのに、本書はその一歩を踏み出すことを完全に禁欲した。さらに「政治」哲学についても、禁欲せざるをえなかった諸点は多い。ひたすら、ひとまず私に可能なリセット地点への戻り方を探るためである。さらに言えば、今日の「経済学批判」にはなにより前提的「哲学」(イデオロギーと呼んでもかまわないのだが)が欠けているとも考えている。社会的危機の時代に「大学知識人」であることへの焦燥に駆られてメニューを考えたり、政治家のように頭を低くすることをしなくてもよい、と考えたのは、一人の人間がこんな悠長な「原点回帰」をしていても大丈夫なくらいに、「怒れる」人々は強いと安心しているゆえんである。』

『もう一つ、小さな事情がある本書には第一読者として想定された人々がいる。私は今、「ヨーロッパ現代思想と政治」という共同研究(京都大学人文科学研究所)の研究班長という立場にある。そこで喋っていること、いつも喋ろうとしていることの背景を、同僚たちに包み隠さず、かつ系統だてて示しておく必要を、共同研究が滑り出したkの一年で痛感していた。各回ごとに主たる発表者がいる研究会でのかぎられた議論では、どうしても「まどろっこしい」ところがある。そこで同僚たちに、私の発言の背後にある包括的見取り図を整理して提示しておきたいと考えた。本書はつまり一種の仲間内の言説という側面をもっている。』

 というところで、なるほど納得。つまり、学者先生の整理ノートなわけだ。だからこその、本人の主張なしの、他人の言説の「まとめ」みたいな文章だったのだ。

 だったら、そういうものを「新書」という、極めてソーシャルな読み物として出すのはどうなのだろうか。私のように、そのタイトルで興味をもってしまって手を出すようなオッチョコチョイが出てしまうではないか。

 ああ、読んで損した。

 というか、このブログを読んだあなたも、あまりの無内容に、やっぱり損した。あはは、ごめんね。

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EPSON RD1s Elmarit 28mm/F2.8 @Ginza (c)tsunoken

2012年2月25日 (土)

『電子書籍』が著作権概念をかえてしまう

 市田良彦氏のマルチチュードに関する論考について書こうと思っていたのだが、その前にちょっと気になる記事が出たので、そちらについて書く。

 市田氏の本は、ちょっと面倒くさくなりそうなので、また後ほど。

 で、今日は、『ロッキングオン』創刊編集長にして、現在はデジタルメディア研究所所長の橘川幸夫氏が日経ビジネス・オンラインに書いた『「まとめサイト」が電子書籍に起こす革命 「著作権」という概念を変質させる可能性も』という、記事について書く。

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 橘川氏は「まとめサイト」が著作権に関係なく、勝手に記事を集めて構成していることに注目する。たしかに「まとめサイト」はそれらの記事を書いたネットの人たちの著作権を勝手に利用して、自分のサイトを作って広告収入を得ているのかもしれない。しかし、それは著作権を無視しているようだけれども、実はそうではない。いまひとつ、だってそれに引用されるブログの著者が著作権を主張していないでしょ、ということと、ブログの著者たち自身が著作権をどう考えているのかよくわからない、ということなのだ。

 いろいろなブログを読んでいても、そこに著作権に関する表記のあるブログは少ない。多分、それは自らのブログが別のネットで引用されて拡散されることを期待しているからなのであろう。だとしたら、このブログを書いた人にとっては著作権なんかは関係なく、自らのブログが寄り多くの人に拡散されて読まれることが「いいこと」だと感じているからなのだ。

 問題は、著作権云々ではなく、自分が書いた文章をどれだけの人が読んでいるかと言う事なのだ。つまり、結果として、どれだけの人が読んで、それでなおかつ「読んだ文章に対してお金を払ってくれるのか」ということである。

 著作権というのは、もう何度も言われているし、このブログでも過去言ったことがあると思うのだけれども、グーテンベルグが活版印刷を発明して、よその人が書いたものをべつの人が書き写せることが「容易」になったことから生まれたものなのだ。まさに「copyright」ということなのである。まあ、言ってみれば「複写権」が「著作権」なのね。

 こうしたテクノロジーの進展によって生まれた「著作権」なわけだから、当然そのテクノロジーの進展によって「なくなってもおかしくはない」というだけの権利でしかない。

 という、人権とかいうものとはまったく違った権利なのだ。その人権だって時代によって変わってくるわけで、つねに人の権利なんてものは、時代の様相によって変わるものなのだ。

 ということで、多分あと10年か20年も過ぎると「著作権」なんてものはなくなってしまうのだろう。今、「著作権」やら、あらたに「著作隣接権」なんてものを作ろうとしている出版社の社員なんてのは、もういらないのだ。

 しかし、当然「著作者」に対する尊敬とか、憧れはあるわけで、それは「印税時代」とは変わらないわけだ。つまり、読者の作家に対する気もちは変わらないというわけで、その辺の「作家対読者」の関係は変わらないはずだ。だったら、作者としてみればこれまでの製作スタンスとは何ら変わらないわけで、今まで通り読者が喜びそうなモノを書いていればいいのだ。

 読者は、出版社が決めた「定価の10%」という印税率には関係なく、面白ければもっと払ってもいいし、じゃなかったら払わなければいい。

 実は、そんな簡単にはいかないから、多分、これまでの定価方式がまだ生きるんだろうけれども、長期的にはそんな方向に行くだろう。

 それでいいのだ。そうしてこそ作家の本当の力の勝負になるだろうし、多分「大御所は引退だろうな。それでもいい作品を書き続ける「大御所」は生き延びるだろうし、そうじゃない単なる業界の「大御所」は消え去るのだ。

 いんじゃないの、それで。

 と言うお言葉が、現役の作家から聞こえてきそうである。

 で、OK。

 

 

 

 

2012年2月24日 (金)

『矮笑小説』は現代のミステリー小説状況を語っているのだ…多分

 業界小説というんだろうか? あるいは業界裏情報小説? それとも裏業界小説? それじゃあ別の意味になってしまうね。

『矮笑小説』(東野圭吾著/集英社文庫/2012年1月25日刊)

 こうした小説を読む楽しみといえば、そこに描かれている人の実像というか、「誰がこのキャラのモデルなのか」ということを想像しながら読むと言うことである。勿論、そこに描かれている人物は、モデルとされた人からはかなりデフォルメされているが(デフォルメされていなければヘタをすれば訴訟騒ぎになってしまう)、しかし、何となく描かれているキャラから実際の人物が透けて見えてくるのだ。

 例えば、大衆文学の大御所でゴルフといえば、故丹羽文雄氏が有名だが、平泉宗之助先生は果たして。とか、日本を代表する女流ミステリー作家で仙台在住でめったに東京に出てこない花房百合恵と言えば、京都在住でその作品がテレビドラマになる時は、娘の山村紅葉をキャステイングすることを条件に映像化を許諾していた、故山村美沙氏みたいだし。いまや五本の指に入るベストセラー(ミステリー)作家の赤村ミチルは、なんか高村薫っぽいよなあ。なんてことを読者は勝手に想像しながら読むわけである。

 まあ、この作品に沢山出てきて、エピソードによっては主役をつとめる熱海圭介とか、唐傘ザンゲ、大凡均一なんかは、とくにモデルはいないのだろうが。

 しかし、それにしても彼らの作品、熱海圭介の『撃鉄のポエム』『狼の一人旅』『銃弾と薔薇に聞いてくれ~撃鉄のポエム2』にしろ、唐笠ザンゲ『虚無僧探偵ゾフィー』『煉瓦街諜報戦術キムコ』『魔境隠密力士土俵入り』、大凡均一『深海魚の皮膚呼吸』『殺意の蛸足配線』、青桃鞭一郎『まったり殺して』『こってり殺して』、腹黒元蔵『御破算家族』『納涼茶番劇』、古井蕪子『腰振り爺さん一本釣り』『ぷりぷり婆さん・痛快厚化粧』、大川端多門『怪盗泥棒仮面』『怪人髑髏対探偵骸骨』って、すごいタイトルですね。いかにも何も考えていない、あるいは作家に勝手にタイトリングをさせてしまう、灸英社という会社の懐深さというか、何もしていなさが出ていて、なんでこんな会社が大手の文学系出版社なんだよ、という感じがするのだが、これは東野圭吾氏の「対集英社感」なのだろうか。あるいは、東野氏なりの「こんな売れそうもないタイトルの本を一回でもいいから出してみたい」という意志のあらわれなのだろうか。まあ、『矮笑小説』も相当なタイトルではあるけれどもね。

 しかし、この灸英社の獅子取という編集長だか出版部長だかは、相当な人だ。なにせ、ゴルフ接待から、カバン争奪戦、スライディング土下座から、原稿を取るためには未婚の女流作家にはプロポーズまでしちゃうのだ。東宝50年代の社長シリーズでもあるまいに、いまどきそんな「ゴマすり」を「する」………いや、「できる」編集者なんていないのだ。

 この獅子取部長のやり方は間違ってはいない。方法はどうあれ、売れっ子の、つまり現時点で売れる可能性の極めて高い作家の原稿を取れるならば、何だってやってやる、という、もしかすると高度成長時代の日本サラリーマンなら、(出版社じゃなくても)相当の人がやっていたマインドなのである。多分、獅子取部長はそんなころの入社なんだろうな。結果として、こんなに現場にズッポリはまってしまった彼は出世はできないだろう。多分、取締役の前の段階で終わりだろう。しかし、それでもいいのだ。取締役になってつまらん経営問題なんかを抱えるよりは、一生現場で作家先生にゴマをする生活、それもきっと、極めて充実した人生なのだ。現場編集者としては「ベストセラーを出してナンボ」ですもんね。

 とすると、東野圭吾氏もそんな「現場にズッポリはまってしまった」編集者が好きなのだろう。勿論、いまや東野圭吾っていえば、どこの出版社だって書いたものが欲しい人であり、それが小説であれば、もう嫌が上でも自社に欲しい「名前」であり「作品」である。

 ところが、今の「草食系編集者」は、獅子取部長のようなことは、「カッコ悪くて」出来ないのだ。まあ、大手出版社の編集者が、プライドが高くてそんなゴマすりはできないというのならまだ分かるが、いまやそうじゃない出版社の編集者もダメなのである。というか、むしろ大手出版社の編集者のほうが平気でゴマをすってるぜ。

 頑張れよ、中小出版なのだけれども、結局、大手の出版社に入った編集者はそれなりに社内でもまれて、ゴマのすり方も教わることになるのだ。しかし、中小出版社の場合、どこかに「強烈な創業者」がいない限り、そんなゴマのすり方を教えてくれる先輩もいないし、そんな職場だから、編集者もどんどん草食化してしまうんでしょうね。

 中小出版社の編集者諸君。幻冬舎の見城徹氏の本を読もうよ。もうとんでもなく、アナログだぜ。

 そして、真似しようよ。

 そうすれば君らの会社も大きくなれる「かも」知れないよ。

 大きくなれば、それなりにいいことが、少しは、あるんだよ。

 

2012年2月23日 (木)

『マレー蘭印紀行』を読む。「マレー蘭印」に行きたくなる

『12万円で世界を歩く』下川裕治氏のルポをアサヒ・コムで読んで、どこか読みたくなって買ってしまったのである。金子光晴氏のゆったりとした、しかし貧乏な旅に比べて、下川氏の旅は2泊3日という慌しいものであった。それでも、まだ「南洋」というに相応しいこのマレー蘭印の旅は、どこか魅惑に富んでいる。

『マレー蘭印紀行』(金子光晴著/中公文庫/1978年3月10日初版・2004年11月25日改版)

『川は、森林の脚をくぐって流れる。……泥と、水底で朽ちた木の葉を灰汁をふくんで粘土色にふくらんだ水が、気のつかぬくらいしずかにうごいている。』

『マレー蘭印紀行』の書き出しである。なんときれいな詩人の文章であろうか。私には絶対書けないなあ。

『南洋の部落のどこのはずれへいってもみうける支那人の珈琲店がこの河岸の軒廊のはずれにもあった。

 その店に坐って私は、毎朝、芭蕉(ピーサン)二本と、ざらめ砂糖と牛酪(バタ)をぬったロッテ一片、珈琲一杯の簡単な朝の食事をとることにきめていた。』

 なんて文章を読むと、私もマレーシアでそんな朝食をとりたくなるから不思議である。

 中でも、その美しさを謳いあげた『珊瑚島』という一編の美しさは格別である。

『ながい年月にさらされ、波浪に洗われた珊瑚虫のからだが積みかさなって、波打ち際をつくっていた。

 軽くて、まっしろで、かる石のように無数の小孔のあいた、細ながい舎利骨片が、なみうちぎわをつくっているばかりではなく、小島全体をもりあげているのであった。小島を形成しているだけには止まらず、小島に近いまわりの海底までを、その珊瑚屑でぎっしりとうずめているのであった。

 裸足のままで、海の浅瀬に立つことはできない。波打ち際をひろい歩きすることもできない。舎利のとがり足のうらを刺し、いるにいられないからだ。』

『小島のしげみの奥から、影の一滴が無限の闇をひろげて、夜がはじまる。

 大小の珊瑚屑は、波といっしょにくずれる。しゃらしゃらと、たよりない音をたてて鳴る南方十字星(サウザン・クロス)が、こわれておちそうになって、燦めいている。海と、陸とで、生命がうちあったり、こわれたり、心を痛めたり、愛撫したり、合図をしたり、減ったり、ふえたり、又、始まったり、終ったりしている。

 諸君。人人は、人間の生活のそとにあるこんな存在をなんと考えるか。

 大汽船は、浅洲と、物産と交易のないこの島にきて、停泊しようとしない。小さな舟は、波が荒いので、よりつくことが滅多にできない。人間生活や、意識になんのかかわりもないこんな島が、ひとりで明けはなれてゆくことを、暮れゆくことを。人類世界の現実から、はるかかなたにある島々を、人人は、意想(イデア)とよび、無何有卿(ユートピア)となづけているのではあるまいか。』

 などという文章を読んでしまうと、なんか私のようなマズい文章書きは恥ずかしくなって、思わず『珊瑚島』前文を引用してしまいたくなる。しかし、そうもいかないから上の部分だけの引用ですませるけれども、さすがにいかにも昔の詩人の文章とはなんと美しいものだろか。

 金子氏は『跋』で『ただ行文拙劣、観察浮簿をまぬかれず、精進の途にある一文筆人のこの一足跡に大方の批判鞭撻を待つものである。』なんて書いているけれども、とんでもない! このように美しい文章をかける人を私は知らない。

 なんか、私も下川氏と同じように2泊3日でマレーシアに言ってみたくなったきた。

 その意味では、『マレー蘭印紀行』の狙いはバッチリ決まっているのである。

2012年2月22日 (水)

『おやじがき』は「おやじ刈り」でもあります

「おやじ刈り」ならぬ「おやじ描き」である。まあ、どちらにしても「おやじ」をネタにして、それをバカにしたものである。ネタにされたオヤジたちに同情。

『おやじがき 絶滅危惧種中年男性圖鑑』(内澤旬子著/講談社文庫/2012年2月15日刊)

『おやじは、現在絶滅を危惧されています。男性が歳より若く、人よりかっこよく、という気持ちをいつまでも捨てなくなりつつあるからです。これだけ「健康」だの「自然体」という言葉がもてはやされる中、腹部の脂肪や頭髪の欠損は一律に忌み嫌われています。しかし、世の中からおやじがいなくなり。こぎれいで健康で、身だしなみにスッキリ気を使い、ちょいワルで部下のおねえちゃんに背中を見つめられつつ、妻とはつねに恋人感覚で、息子とは趣味のバイクで友達同士、そんな中年男子ばかりになってしまったら、なんだか息が詰まりませんか?』というけれども、そんなカッコイイ中年おやじなんかがいるわけないじゃん。

 結局、「おやじ」は「おやじ」のまま生き続けるのである。『世間の目なんて気にしない、耳毛上等、脂即是腹、背広は吊るしで』というのは、オヤジを一面的にしか見ていないような気もするが、総体としてはまあそんなもんだろう。そんな、オヤジが「絶滅危惧種」だって? いえいえ、これからどんどん増殖していくはずなのである。

 内澤氏によって刈られた(描かれた)オヤジは以下の通り;

『過半数』『ガラアキ』『すだれ』『ベレー帽』『カブトパンチ』『ミミゲ』『エクステンション(つけ毛)』『まつげ』『のりほお・一』『のりほお・二』『ピクピク』『サングラス』『食後(ヨウジ・一)』『宴会(ヨウジ・二)』『収納(ヨウジ・三)』『はがれちゃた・一』『神秘』『正しい座り方』『麦わら帽子』『大あくび』『開口』『寝顔』『イヤホン』『ゴルフやけ』『のりくび』『ワザ』『ひとりで二杯』『アゴマスク』『マスク』『SUDOKU(数独)』『日能研』『危険度(レベル3)』『危険度(レベル4)』『娘の』『勝敗』『ザビエルハゲ』『おやまの大将』『コートのベルト』『ぷりぷり』『ロン毛』『アンチ・アンチエイジング』『暮れ』『セカンドバッグ』『正装』『ネクタイランニング』『扇子』『フールトゥ』『CUBAN CIGAR』『ループタイ』『事務次官』『スモゥキング』『ステンカラコート』『靴下』『アームカバー』『ハンカチおやじ』『自給食』『理想の夏』『団塊パンダ』『ボルサリーノ』『ロス・プリモス(もみあげ・一)』『房飾り(もみあげ・二)』『ウェーブ(もみあげ・三)』『先だけ(もみあげ・四)』『ダブル』『黒シャツ』『バックル』『ハンチング』『対比』『写メ』『長メール』『尻の財布』『磁力頼み』『集客』『酷暑・一』『酷暑・二』『酷暑・三』『はがれちゃった』『小花柄』『数珠』『三つボタン』『ジャラ付け』『歩き読み』『グリップ』『両手持ち』『ワンセグ?』『首に紐つけ』

 ということなんんだが、まあタイトルからだけでは中身が想像できないものも多いが、でも大体なんとなく分かるでしょう。アナタもやっていることなんだから。

 しかしながら、これらのオヤジ群が「絶滅危惧種」なのかといえば、全然そうじゃなくて、じつはこれからどんどん増えていく「種」なのであります。

 だって、これからはオヤジがどんどん社会の中で増えていくのですよ。60歳定年がいつの間にか65歳定年になり、しかし65歳のオヤジが何か仕事を出来るのかと言えば、それは無理。単に、若者の足を引っ張るだけの存在でしかない。しかし、政府が65歳定年を指示するからそれに従っただけの企業が、じゃあオーバー60歳に何を指示するかといえば、要は「若いものの足を引っ張らないでね」と言う事だけであって、「60歳の経験を生かしてください」なんてことはないのだ。それは何故か? つまり、60歳の団塊世代が、それまでの高度成長時代の経験なんかを生かしちゃったら、今のゼロ・ベース年代の業態にはまったくあわないからなのだ。ということで、オーバー60歳のオヤジたちは、会社の中での「窓際」に完全になって社会に放り出されるのだ。そう、つまりはいまや企業が老人ホームの一部を補完する時代になってしまっていて、会社に行っても何の仕事もない老人がいっぱいいる時代になっているのである。

 そんな、仕事はないけれども仕事をしているつもりのオヤジたちが、新橋あたりで若者批判をするわけですな。自分じゃ何も仕事をしていなかった人たち、自分発の仕事を何もしていなかったけれども、何かに巻き込まれてなんか一生懸命その中で動いてきた人たちが、新橋にはいっぱいいる。その程度のオヤジに何か言われたくないよ、というのが若者の発想であろう。

 それは正しい。

 オヤジの言うことなんかは聞く必要なんかはない。とにかく、護送船団方式でもって、政府主導で拡大してきた日本経済の中にいた人間なんて、自分の企画でもって仕事をしていた人間なんてごくわずかである。所詮、その他、大勢でもって仕事をしていただけでしょう。そんなんじゃ、今からの生き残り競争をやっている業界では無理だよね。もう、絶滅種、だけどまだまだ「おやじ」だけは生き残るんだよな。残念ながら。それは上に書いた理由で。

 ということで、『おやじがき』は残念ながら『絶滅危惧種中年男性圖鑑』から、『いまだに残っていた壮年男性圖鑑』という形で、多分残るのだ。で、結局、取材されるのは同じようなオヤジばっかりなんだろうけれどもね。

 間違っても、ジローラモ氏のようなカッコイイ「ちょい悪オヤジ」なんてのは、まず出てこないからね。

 残念!

2012年2月21日 (火)

『タイムマシンの作り方』が事実だとすると、結構、刺激的だぞ

 そうか、タイムマシンってのは「夢のマシン」だと思っていたのだが、実は「理論的には」出来るんだな、ということが本書ではわかった。でも、いつのことになるんだろう。

『タイムマシンのつくりかた』(ポール・デイヴィス著/林一訳/草思社文庫/2011年12月15日刊)

 ユーリ・ガガーリンが、ボストーク号で世界で始めて有人宇宙飛行をして、有名な「地球は青かった」と言ったのが1961年。2012年にはヴァージン・ギャラクティック社がスペースポート・アメリカからスペースシップワンでもってビジネスで宇宙飛行(まだ旅行じゃないのがつらいが)を始めるそうだから、つまり始めての有人宇宙飛行から一般人が宇宙飛行できるまで50年かかったわけだ。

 ということは、仮に2012年に「時間旅行」が実験レベルで可能になったとしても、一般人がそれが可能になるのには最低50年、つまり2060年代のことである。例えば、蒸気機関車が運行開始となってからの一般人の列車乗車可能になった時間、ライト兄弟が始めての有人飛行機を作ってからの一般人が飛行可能になった時間、などを考えてみれば、「時間旅行」が実験レベルで可能になる時から、一般人がそれを利用できるまでは100年くらいのことを考えればならなければいけないんじゃないのか。それだけ、「時間旅行」は危険なことがいっぱいありそうである。ということは、最低でも2100年頃なのか。それじゃあ、もう私は生きていないから、どうでもいいや。ってなことになってしまうから、思考停止、するわけにはいかないんだよな。

 つまり、タイムマシンというのは「理論的には出来る」ということで、その「理論的な作り方」を見てみると、まず『ステップ1:衝突器で一〇兆度の高温を作る』に始まって、『ステップ2:圧縮器で高温の塊を圧縮する』となって、『ステップ3:膨張器で負のエネルギーを注入する』から『ステップ4:差分器で時間差を作る』というのが未来へ行く機械。過去へ行く機械はもっと簡単に出来るそうだけれども、当然、過去にいったあとは現在に戻ってきたいわけだから、未来に行く機械ももっていかなきゃならないわけだ。

 なるほど、そうして時間旅行は出来るはずなのだけれども、その理論の出してくる数字をみてみると、まず現在のテクノロジーでは出来ないエネルギー量なのだ。原発くらいじゃダメなんだよね。そのエネルギー量をどうやって確保するかなんだけれども、でも、いずれかは人間は確保するんだろうな。

  当然、当初はそんなエネルギーを使えるのは、技術的にも人間的にも、とっても優れた人だけなんだろう。つまり、今の宇宙飛行士みたいな人たちだ。で、問題はそんな優れていない我々がいつになったらそんな莫大なエネルギーを使えるようになるのだろうか、ということである。

 ということで、そんなエネルギー量が一般人にも使えるようになる時代は………ということで、100年後なんてことを考えたのだが、どうだろうか。テクノロジーの発展は幾何級数的に伸びるわけだから、宇宙旅行がライト兄弟の初飛行から110年後、有人宇宙飛行から50年後ということから考えてみれば、もうちょっと短い時間で一般人にも可能になる時代が来るかもしれない。

 さて、それはいつ頃のことだろう。

 もし私が過去にいったら、当然、タイムパラドックスに挑戦しますよ。自分の母親・父親を殺したら自分も抹殺されてしまうのか……、殺人といのは昔から第一級事犯ですが、でもやってみたくあんるじゃありませんか? 

 どうなるのでしょうか?

2012年2月20日 (月)

旧中原街道を往く

 旧中原街道を往く、っといたって別に平塚から虎ノ門まで歩いたわけではない。品川区荏原二丁目、武蔵小山銀座のはずれ辺りで、現在の中原街道と二股で分かれる旧中原街道に入って、それが五反田のTOCビルの裏側に突き当たる、せいぜい1キロ位の距離である。

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 旧中原街道の荏原二丁目の分かれ道。遠くに見えている屋根のてっぺんが、星薬科大学であります。

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 中原街道は東海道の裏街道として使われており、大名行列なんかが沢山あった東海道の面倒さを避けて使った街道らしい。赤穂浪士もここを通って江戸まで来たそうだ。「宿場町」なんてのもなくて、武蔵小杉とかに「継立場」というのが置かれたそうだが、要はその「継立場」が言ってみれば宿場町だったわけで、そこには岡場所が置かれていたのだろうな。

 武蔵小山の平塚橋(そこから旧中原街道は分かれている)あたりが、昔はどういう町だったのかは分からないが、多少は賑やかな町、つまり岡場所なんかもあった町だったのかもしれない。

 とりあえず、そこから分かれた旧街道は道なりこそは旧街道のままを残しているそうだが、町の雰囲気はまったく「街道筋」ではない、普通の生活道路という感じである。

 ただし、上の写真にもあるとおりの戸越地蔵尊とか、「旧中原街道供養塔群」なんてのもあったりして、そんなところで「旧中原街道」を想像するしかない。

 品川区という場所柄、機械加工関係の工場や会社が散見される道をあるいていくと、桐ヶ谷斎場へいく道との交差点をすぎて、もうすぐに品川区西五反田に達してしまい、TOCビルの裏側、船井総研ビルの脇にて終わる、旧中原街道の旅ではあった。

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EPSON RD1s Summicron 35mm/F2 @Ebara Gotannda (c)tsunoken

2012年2月19日 (日)

『キツツキと雨』のヌルさと亀有のヌルさと

 今年は『シナリオ』に載っているシナリオの作品を全部見ようかな、と考えて先月みた『ロボジー』についで見たのだ。

『キツツキと雨』(監督:沖田修一/脚本:沖田修一・守屋文雄/製作:オフィス・シロウズ パレード)

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(c)「キツツキと雨」製作委員会

 見たのはMOVIX亀有という、このヌルい映画ならではの、ヌルい場所ではありますな。

 映画の骨子は、「ぴあフィルム・フェスティバル」あたりで賞をとってデビューしちゃった、映画の現場経験のない若手監督が、優柔不断なそれまでの映画製作姿勢からあまり変わっていない態度でいることからくる現場の不満と、木こりのオヤジと息子のよくある葛藤、そして映画作りの現場というある種の麻薬的な面白さの、ないまぜの面白さなのだ。

 しかし、こうした優柔不断な監督をみてしまうと、これでよく現場が維持できてるなという気がする。撮影部とか照明部とか美術部なんてのは体育会系体質のセクションは、監督の言うことは聞くけれども、しかし「優柔不断」には途端に怒り出す部分である。その他の、文化系セクションも、これまた逆に監督から指示が出ないと何もしないところだから、やはり監督の指示がないとダメなのだ。

 つまり、監督って、単なる「(撮影)現場監督」なのである。アメリカでは編集権が監督にはない、なんてことはよくあるのだ。

 実際に映画を使って仕事(ビジネス)をするのはプロデューサーなんですね。そんな、プロデューサーを題材にした映画が日本にはないってのは、それだけ日本の映画監督はラクなポジションにいるってことなのだろうか。ハリウッドではたまにこうした映画プロデューサーを主役にした映画(当然、プロデューサーは悪役)が作られていますがね。

 ま、しかし日本っていう国は、そうした「作品を作る立場」と「それを使ってビジネスを行う立場」というのが、明確に分かれていて、作家と編集者というのが完全に業務的にもわけられてしまっている。当然、作家は編集者がどんなことをしているのかはわからない。作家の書く作品に編集者が出てくることもあるが、それは編集者ののりを超えて探偵のようなことをやる編集者か、じゃなかったら、エッセイに出てくるアホな担当者というだけの存在にすぎない。

 ということで、この沖田・守屋コンビには、日本に於けるプロデューサー物語として、佐々木史朗氏を取り上げて欲しいのだ。私もいろいろ聞いているけれども、この人はとっても面白い人物のようです。

 それを期待!

 

 ということで、いまや亀有の名士、両津勘吉氏三態であります。

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 これはよく出てくる駅前の両津勘吉氏。

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「亀有公園」の両津勘吉氏。

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 なんと亀有香取神社の境内にも両津勘吉氏なのであった。

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 亀有公園前には交番はないが、亀有駅前には交番がある。駅前から亀有公園はすぐそば。ということで、この駐在所が『亀有公園前派出所』のモデルなのだ。ただし、交番にはそんな看板とかはない。残念!

Fujifilm X10 @Kameari (c)tsunoken

2012年2月18日 (土)

『プリズン・トリック』も後出しジャンケンありだぞ

 本日も「ネタバレあり」です。要注意!

 さんざっぱら読者を翻弄していて、最後にはやっぱり「後出しジャンケン」って、最近のミステリーでは、これありなんですかね。

『プリズントリック』(遠藤武文著/講談社文庫/2012年1月17日刊)

『開け放たれたドアの向こうに、人が倒れているのが見えた。ドアの間に見えるのは肩から上の部分で、他は壁に隠れて見えない。肩の部分だけでも、官給品のパジャマを着ているのが分かる。そのパジャマから出ている頭は……。

「ひっ」

 野田は吐き気を催した。その男の顔は、短く刈った頭部から顎にかけて一様に、赤く焼け爛れていた。一見して、生命活動が途絶えているに違いないと確信できた。思わず眼を背けた。怖い物見たさで、いま一度見ようとして顔を上げた。視線が男の顔に到達する前に、開け放たれたドアで止まった。ドアの内側に貼った模造紙が、斜めに外を向いている。野田の位置からでも模造紙に大書された文字が見えた。

「石塚、死すべし。

         宮崎」

 野田の全身は小刻みに震えていた。咽喉が激しく渇いた。倒れている者は石塚という名の者か? パジャマを見れば、受刑者であることは明らかだ。息絶えているか? 殺したのは宮崎なのか? それで逃げた? 受刑者が受刑者を殺して逃げるなど、前代未聞だ。刑務事故どころの話ではない。スキャンダルだ。』

 市原刑務所の刑務官たちは即座に宮崎の立ち回り先を求めて動き出す。まずは宮崎の妻が留守を守っている家だ。

 しかし、捜査に乗り出した千葉県警は、顔と指が薬品で焼け爛れた死体を見て、実は殺されたのは宮崎であり、犯人は石塚、あるいは石塚になりすました人物であることを喝破。石塚、あるいは石塚になりすました人物を追うのである。

 警察庁から千葉県警に出向中で、この事件の捜査副本部長であり広報担当官となる武田陽司。そして、千葉県警の刑事たち。

 元雑誌記者で、長野県安曇野市の第三セクター、安曇野トマトファームの栽培施設建設予定地の土壌調査についての虚偽評価に関する、長野二区選出の代議士、高橋甲子郎官房長官の関与に関するスクープで、結果として高橋の長女を自殺させてしまったことから、雑誌記者を辞め、現在は損保会社の調査員をやっている滋野隆幸。そして、信濃毎日新聞社会部の記者、浅井由梨。

 業務上過失致死罪で市原刑務所に収監されて、満期出所になるが家族からは縁を切られて、帰るあてのない中島幸平と、何故か事件の責任者ということにされてしまった若い刑務官、野田邦夫。

 ストーリーはこれらの登場人物の間を、次々に視点を変えながら動いていく。当然それらの人たちの間では、事件はそれぞれの見る立場から異なって見えてくる。そして、しばしば出てくる主語のない人物の描写。赤いニシンもいっぱいいる。

 それらはすべて読者をミスリードするためのフックであることは、重々承知の上で読むわけなのだけれども、何故か、なかなか前へ進まないストーリーにイライラしつつ読む進んでいくのである。

 あるいは、それもミステリーを読む楽しさでもある。まあ、それも良い。

 しかし、そうやって読者を翻弄してきて、一番最後になって単行本出版の際にはなかった一章『戸田和義の手紙』が付け加えられている。これを読んだら、本当に村上資祐は壊れちゃうよ。っていうか、読者も壊れちゃうんじゃないかなぁ。

 戸田の手紙の最後の部分に戸田の本心が書かれている;

『私がこの手記を公表しようと思い立ったのは、ただひとつの理由からだ。真の芸術を広く知ってもらうためにほかならない。市原刑務所での事件の細部が明らかになっていくのとは裏腹に、一連の事件にこめた私の芸術性への理解が全くなされていないことを、無性に腹立たしく思った。

 村上が警察やマスコミに送りつけた手記(「終章」のこと:引用者注)の中には、私が事件に込めた芸術性を示唆する言葉が、あちこちにちりばめられているというのに、世間はそれに気づいていない。あまりにも愚かすぎる。頭の悪い連中が、勝手に事件を読み違え、愚かな発言をしているのを黙って見過ごすわけにはいかない。

 この手記が明らかにされる前に、私は村上に全てを教えるつもりだ。かれが壊れるのを見るのは、何にも代え難い至福だ。今から身体が震え、失神してしまいそうだ。

 至福を与えてくれる者を「友」と呼ぶのであれば、正しくきみは「友」だ。きみ以上の「友」はいない。』

 完全に狂っている。既に、村上の前に、戸田が壊れているのである。

 下手をすれば、読者も壊れちゃうんじゃないかなあ。え? 今の読者はその程度じゃ壊れないですって? ならばOK。

 

2012年2月17日 (金)

『女ともだち』はドロドロ、ズブズブ、グジャグジャの「後出しジャンケン」だぁ

 ネタバレあります、要注意。

 ドロドロだけじゃない。ズブズブ、グジャグジャの「後出しジャンケン」なのであった。

『女ともだち』(真梨幸子著/講談社文庫/2012年1月17日刊)

「度を超した負けず嫌い」(石井千湖氏の「解説」)が登場人物たちのキーワードである。

『平成十七年(〇五)年十月三日、埼玉県三ツ原市にある「三ツ原タワーマンション」(通称リトルタワー)の二〇一号室で、会社員吉崎満紀子(当時四一)が惨殺死体で発見された。その翌日の四日、同マンション最上階二〇〇一号室の会社員田宮瑤子(当時三八)が、やはり死体で発見される。両人とも同じ間取り(2LDK)、同年代、ともに独身で、世にいうキャリアウーマンである。意地の悪い人ならば、「負け犬女」と呼ぶかもしれない。

 翌日の朝刊に、早速「高層マンション連続殺人事件」というタイトルが躍った。「ブラディータワー」という名を最初に使ったのは、その翌週発売の女性週刊誌であったが、命名したライターはさぞやご満悦だったろう。その記事をきっかけに、「ブラディータワー」という名称はそのまま定着してしまったのだから。

 され、世間が特に注目したのは、吉崎満紀子の、その最期の状態だった。満紀子の性器はえぐられ、子宮が奪われていたのだ。世間がこの事件になにかしらの「物語」を見出し、物語にそって事件を推理しようとするのは当然の成り行きだった。』

 被害者・吉崎満紀子は早稲田大学法学部に在学中に司法試験に合格したが、司法修習生にはならずに、総合家電メーカー・テイトー電機に入社、しかし、入社7年後に子会社に出向となり、そのままその子会社に籍が移っている。まあ、ていのよい「左遷」。一方、アダルト系のオークションサイトで自らのヌードを晒していたり、宝塚を思わせる劇団の追っかけとなって、公演のときに良い席を取る為に不特定多数の男とセックスをして金を稼いでいたりするという一面もある。

 もうひとりの被害者・田宮瑤子は、静岡県の私立高校を卒業後、武蔵芸術大学に学び、番組制作会社東洋フィルムに入社。その後、数社の制作会社を経て、現在は出版社で高校・大学受験の参考書の編集者をしている。問題は、こんな職業をしている瑤子の部屋からは、パソコンも携帯電話も発見されなかったということだ。本来は、有り得ない話である以上、その部分は相当に突っ込まなければいけないところなのだけれども………。

 小説の冒頭近くであっさりと『パソコンも携帯も持っていなかった瑤子』と書かれた記述は、その後、最期の方で瑤子の義父・田宮武雄が、警察の田宮瑤子の遺体発見よりも先に瑤子の遺体を発見し、そこにあったパソコンを持ち去った記述があらわれるまで、読者には伏せておかれている。というか、忘れさせようという作者の詐術なのである。

 もうひとりの「度を超した負けず嫌い」は、担当検事の佐倉環である。環は小さいときから弁護士になるのが夢だったのだけれども、兄弟が多い家の末っ子に育ったために大学まで行かせてもらえずに、高校を卒業した年に国家公務員Ⅲ種合格し、検察事務官となり、その後、内部試験に順調に合格し、副検事を経て特任堅持となった。

 環は、『「現実に起こった生の出来事だけが真実」と頑なに信じる人々だ。この事件を担当する検事がまさにそれだ。検事は被害者満紀子がネットを利用して不特定多数に売春をしていたことを認めていながらも、ネットを単なるツールとしてしか考えていない節がある。そう、電話と同じ扱いなのだ。だから、満紀子の携帯に残っていた履歴や電話番号、そしてメール文の範囲でしか捜査の手を伸ばしていない。まるで時代遅れだ。想像力の貧困といってもいい。この全時代的な検察の姿勢が、公判をますます真実から遠ざけているような気がしてならない。』という、この小説の語り部であり主人公である楢本野江の言い方に対して、『メールの件については、もうすでに調査済みです。あのフリーメール、事件の一週間後にはもう警察がたどり着いていました。それで井沢詩織さんの周辺も内偵が行われました。もちろん『ローズオットー』の存在も知っています。しかし、それは今回の事件には直接関係がないと判断し、証拠からはずしました。』と、いともあっさりと認め、そして否定しきったのだった。

 そして、小説の一番最後のところで、楢本野江の本名を明かす。「ナラモト アキエ」と。

 ええっ、なんだってぇ。一番最初に、まだ生きている田宮瑤子の章で出てきた「アキ」が、主人公の楢本野江だったんだってぇ?

 うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ。

 これって、究極の「後出しジャンケン」じゃないかよぅ。

 今のミステリーは、こんなことも許されるんですねぇ。

2012年2月16日 (木)

『アホ大学のバカ学生』って当たり前でしょ! いまやアホ大学だけじゃないようですよ

 思わずタイトルに挽かれて読んでしまった。

『さおだけや~』の編集者は星海社(講談社)に引っ張られてしまったが、いまだに光文社の新書編集部はなかなかいいセンスのタイトルをつけるんだなあ。

『アホ大学のバカ学生―グローバル人材と就活迷子のあいだ』(石渡嶺司・山内太地著/光文社新書/2012年1月20日刊)

 がしかし、中身は挑戦的なタイトルと異なって、いたって真面目なのだ。

 勿論、「それどころか『ジョージョー企業って何ですかぁ?』という質問も。大学3年生がですよ。答えられないなんて、ちょっとがっかりしました」とか『2008年当時、勝間和代氏が絶好調だったときのことだ。出版希望の女子学生と話をしていると「勝間和代って誰ですか?」と言われて驚いたことがある。』と言うくらいに今の学生は常識を知らない………という気はない。そんな学生は多分(本当に「多分」)ごく一部の、言っちゃ悪いけれど「低偏差値大学」の普通の、ごく普通の学生なんだろう。多分、本当に多分。

 しかし、そんな学生の気分と言うのは、結局、一世代前のバブル景気がマスコミだけには残っていた時代の「イメージ」でしかないそうだ。『夜は銀座のクラブとか行き放題なんでしょ。しかも経費で』『本を出したらテレビコマーシャルとか流さないんですか?』『移動はタクシーが基本なんですよね』『テレビ局に入ったら、みの・たけし・徳光・関口宏がメインの番組作りたいんです』な~んてのは、あるはずないじゃん、バーカ、と言ってしまって終わりにしちゃあいけないのだろうから、多少、マスコミ志望の学生さんたちに話をしておく。そのような時期は確かにあった。しかし、以下を読んで欲しい。

 基本的に、これはどこの企業でも同じなんだろうけれども、新入社員は「使い捨てのバイトと同じ」である。出版社とかテレビ会社なんかは、まさにその通り。まあ、まず定時に帰るどころか、下手をすると家に帰るなんてこと自体が、うまくして週1回なんてことがあります。そのほかはどうしているのかと言えば、単純、会社とか編集プロダクションとか制作会社なんかに「実質出向状態」で仕事をすることになるのだ。

 そこでは、そこに行った会社の業態にあわせて仕事をするしかないのだ。つまり、自分が所属している会社とは全然違う会社の業態。ただし、出向じゃないから、自分だけは自分の会社と同じ業務形態だし、残業なんかもあるわけですね。その辺が、自分が行った会社と自分の元々いた会社との差異をそこで見るわけなのだけれども、そうした自分の状況を理解しつつ、その行った会社の人間とどういう関係を作り上げられるかというのが、その人間の「人間力」ってもんじゃないだろうか。

 まあ、そうしたような自分の身の回り変化に対してどれだけ耐性があるのか、が就活では問われているのだ。

 そんな意味では、大学の職員レベルではまったくわからない、就職以後の世界ではあるわけで、そんなところまで大学職員に求めても意味はない、というのが本書の目論見であろう。つまり、「就活は大学に頼るな」という基本精神があればいいのだけれどもね。だって、我々の就活(なんて言葉は当時なかった)のときは、大学の就職部(いまはキャリアセンターとか言うそうだが)なんてのはまったく相手にはならずに、結局、私なんかは新聞の求人広告でもって応募したのだった。

 本当は、それでいいはずなんだけれどもなあ、いつの時代から、そんなに大学の就職率とか、企業の就職率とかが話題になるようになったのであろうか。というか、なんで大学が学生の就職になんか気にすることがあるのだろうか。というのが、オールド世代の発想。今は、違うんだろうけれども。

 ホントにバカバカしいぜって言ってもいいのかな。

2012年2月15日 (水)

『ないもの、あります』

 別にこの本を探していたのじゃない。しかし、何となく書店の棚を見ていると目に飛び込んできたのであります。

『ないもの、あります』(クラフト・エヴィング商會著/ちくま文庫/2009年2月10日刊)

 タイトルがいいね。おまけに著者がふざけている、クラフト・エヴィング商會って何? って思わず調べるじゃないですか。、吉田篤弘、吉田浩美による、日本の作家、装填家のユニットである。『名称は稲垣足穂の文章中の「クラフト・エビング的な」という表現に由来するが、「変態性欲の研究者の名前」という意味は後から知ったという。』といのがWikipediaの説明である。ちなみに、もともとのユニットは吉田浩美+二人というユニットだったそうなのだが、その「二人」がやめてしまったので、篤弘+浩美という夫婦のユニットになったという話なのだそうだ。

 で、クラフト・エヴィング商會の扱い商品は以下の通り;

「堪忍袋の緒」「舌鼓」「相槌」「口車」「先輩風」「地獄耳」「一本槍」「自分を上げる棚」「針千本」「思う壺」「取らぬ狸の皮ジャンパー」「語り草」「鬼に金棒」「助け舟」「無鉄砲」「転ばぬ先の杖」「金字塔」「目から落ちたうろこ」「おかんむり」「一筋縄」「冥土の土産」「腹時計」「他人のふんどし」「どさくさ」「大風呂敷」

 ということで、基本的には「言葉遊び」なんだし、見事な遊びっぷりにはみんな納得なんだけれども、一箇所だけ気になるところがあった。「金字塔」に関しての記述の中で;

『この世における究極の「ないもの」、それは「永遠」でありましょう。

 こればかりは、「ないもの、あります」の看板を掲げる当商會としいたしましても、手の施しようがありません。』

 と、諦めらているんだが、しかし、世の中にはそれを見つけた人がいるんですねえ。と言っても、もう分かっている人には分かっている、そうアルチュール・ランボーというフランスの詩人です。

『また見つかった。

 何が、永遠が、

 海と溶け合う太陽が。』(アルチュール・ランボー『地獄の季節』岩波文庫版/小林秀雄訳)

 問題はランボーが「永遠」の先に見たものだ。

 多分それは「絶望」じゃなかったのだろうか。少なくとも、ジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』で、フェルディナンがランボーの詩に見つけたものは「絶望」だった。

 その「また見つかった」の後にはこう続く;

『独り居の夜も

 燃える日も

 心に掛けぬお前の祈念を、

 永遠の俺の心よ、かたく守れ。

 人間どもの同意から

 月並みな世の楽しみから

 お前は、そんなら手を切って、

 飛んで行くんだ……。

 ――もとより希望があるものか

 立ち直る筋もあるものか、

 学問しても忍耐しても、

 いずれ苦痛は必定だ。

 明日という日があるものか、

 深紅の燠の繻子の肌、

 それ、そのあなたの灼熱が、

 人の務めというものだ。

 また見つかった。

 ――何が、――永遠が、

 海と溶け合う太陽が。』

 そして、それに続けて;

『『幸福』は俺の宿命であった、悔恨であった、身中の虫であった。幾時にもなっても、俺の命は、美や力に捧げられるには巨き過ぎるのかも知れない。』

 と続くわけである。

 アデンでアビシニヤの蛮人(エオチオピア人)相手に商売をやりながら糊口をしのいでいたランボーは『僕は静かに生きも静かに死にもしまい。これほど確かな事はありますまい。要するに、回教徒が言う「よの定め」だ。これが人生です。人生は茶番ではない』と書き、彼の絶望の人生を描いている。

「金字塔」もやはり自分では見られない限りは「絶望」である。

 まあ、しかしこれも「言葉遊び」ですけれどもね。

2012年2月14日 (火)

石原莞爾『最終戦争論』は読んでみるとなかなか深みのある本だ

 石原莞爾という人は、もしかして現代に生まれていたら思想家か哲学者になっていたかもしれない。やはり明治22年に山形県で生まれたという事実が、結局は軍人になるしか出世の道がなかったということなのかも知れない。

『最終戦争論』(石原莞爾著/中公文庫/1993年7月10日初版・2001年9月25日改版)

 この『最終戦争論』のほとんどの部分は「戦争史の大観」としてまとめられた。

 人類の歴史から(主に西洋史だが)みた戦争の歴史である。そしてそしてその最終段階の戦争に関しては『忠君愛国の精神で死を決心している軍隊などは有利な目標ではありません。最も弱い人々、最も大事な国家の施設が攻撃目標となります。工業都市や政治の中心を徹底的にやるのです。でありますから老若男女、山川草木、豚も鶏も同じにやられるのです。かくて空軍による徹底した殲滅戦争となります』として『破壊の兵器も今度の欧州大戦(ナチス・ドイツによる第二次世界大戦前半戦:引用者注)で使っているようなものでは、まだ問題になりません。もっと徹底的な、一発あたると何万人もがペチャンコにやられるところの、私どもには想像もされないような大威力のものができねばなりません』と予想するところまでは良かった。しかし、その「最終戦争」なるもの。つまり、その戦争で覇者が決まれば、あとはとにかく平和な時代が続くという最終戦争の時期が、この講演があった昭和5年から30年後くらいということで、50年後には世界が統一されていることになるのだそうだけれども、結局は、この講演から15年後には、『一発あたると何万人もがペチャンコにやられるところの、私どもには想像もされないような大威力の』原子力爆弾が広島と長崎に落とされて、日本はアメリカ(政治的には連合国だが)に降伏してしまったわけだ。

 石原氏は、最終戦争に至る前に世界は四極に分かれると言っている。つまり、第一はソビエト連邦と社会主義国家の連合体。第二が米州。つまりは南北アメリカである。第三は、ヨーロッパ。ナチス・ドイツによる『「運命共同体」によるヨーロッパ連盟』である。そして、第四極が東亜である。基本的には日本、中国、韓国を中心としたアジア圏ということなのである。勿論、大英帝国というブロックが当時はまだまだ力を持っていた時期ではあったのだけれども、これは最早19世紀で終わっている政経ブロックであるというのが石原氏の見立てである。

 そして、その最終戦争、というか決勝戦は「東亜」と「米州」で争われるというのが、これまた石原氏の見立てなのだけれども、果たしてその前に「最終戦争」になるはるか前に、日本はアメリカに敗れてしまったわけだ。

 で、最後には「東洋文明は王道であり、西洋文明は覇道である」、ということで「王道は覇道に勝つ」という論理なのだが、それは『西洋文明は既に覇道に徹底して、みずから行き詰りつつある。王道文明は東亜諸民族の自覚復興と西洋科学文明の摂取活用により、日本国体を中心として勃興しつつある。人類が心から現人神の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。

 最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。』というところなのだけれども、じゃあ結局、太平洋戦争ってのは「最終戦争」だったのか、あるいはそうじゃなかたのか? 戦争の様相からしてみれば「最終戦争」のようだが、国際関係論的にはまだまだ「最終戦争」じゃないんだよな。

 まあ、その後も朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争とあって、中東ではずっと戦争が続いているわけだし、東ヨーロッパのソ連崩壊以降の民族紛争も戦争ではある訳でいってしまえば、まだまだ戦争はずっと続いているのである。

 それはいいとして、本書の質問コーナーで『日本が最終戦争に於て必勝を期し得るという客観的条件が十分に説明されていない。単なる信仰では安心できないと思う』という質問や『最終戦争の必然性を宗教的に説明されているが、科学的に説明されない限り現代人には了解できない』といった質問には『科学的とみずから誇るマルクス主義に於てすら、資本主義時代の後に無産階級独裁の時代が来るとの判断は結局、一つの推断であって、決して科学的に正確なものとは言えない。この見地に立てば、不完全な私の最終戦争必至の推断も相当に科学的であるとも言い得るではなかろうか』という、まさしく「推断」を述べているわけなのであるけれども、結局それは日蓮上人が言った『日本を中心に世界に未曾有の大戦争が必ず起る。そのときに本化上行が再び世の中に出て来られ、本門の戒壇を日本国に建て、日本の国体を中心とする世界統一が実現するのだ』という予言に集中するのだ。

 それは、単に日本に都合のいいことだけを言っているに過ぎない。だって、別に仏教は日本土着の宗教じゃないのです。遠くインドから東南アジア・中国を通じて日本にやってきただけの、外来宗教でしかない。そんな意味では、キリスト教やイスラム教となんら変わらないのだけれども、何故か仏教だけは日本古来の宗教のような扱いを受けている。私の家も曹洞宗だし、カミサンの実家の宗教は浄土真宗だし、「結局、仏教?」ということになってしまうのだけ れども、それだけ仏教が日本に定着してしまったんだろうな。

 一方で、『最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり』と言っているのは、先の日蓮上人を信仰する立場と矛盾はしないのだろうか。天皇は言うまでもなく我が国の「八百万の神々」の頂点にいる人なわけだ。こうした「神仏習合」のような融通無碍な態度は日本人だけの特質なんだけれども、こんなイイ加減な国民が「最終戦争」で勝てるのかどうかは………、まず無理でしょうね。

 ともあれ石原氏の予言によると昭和45年頃には最終戦争の時代が来るし、平成2年頃に世界が一つになるそうだが、実際にはいまだに世界は統一どころか、EU(石原氏が言うところの「ヨーロッパ連合」だが)は下手をすると崩壊しそうになっているし、東ヨーロッパ経済圏はいまや完全に崩壊して、社会主義国なんて跡形もない、南アメリカ州はアメリカ合衆国の支配下に入っている国はいまやほとんどないし、東アジア経済圏だけが、上手くすると上手くなる、という状況か? だとすると、石原莞爾氏が考えていた「東アジアを中心とする世界国家」がもしかすると成立するかも知れない(まあ、多分無理ですけれどもね)。そのときの中心は、残念ながら石原氏が想起していたのと違って、中国になってしまうのだろうけれどもね。

 でも、取り敢えずは世界統一国家が出来る。で、その後はどうなるのかといえば、要は世界統一国家からの分離独立運動が起きるだけなのだ。

 結局、人種、文化、宗教が異なる(生物学的には同じDNAなんだけれどもね)人々を、まったく一緒には扱えないってことで、分離独立運動は必ず起きる。問題は、それに対して、「世界政府」が「規制」あるいは「弾圧」をするのかどうかなんだけれども、それは絶対「規制」するでしょうし、「弾圧」的に動くことだろう。だって、それは世界政府の存在を否定する動きなのだからね。で、そんな分離独立勢力が結局は「革命勢力」になっていくのである。

 結局、人間の歴史って、こうした「革命の歴史」なのである。どんな政体が社会を支配しようが、かならずその政体は「革命」によって滅ぼされるのだ。

 そうやって、人間てのは「革命」を繰り返しながら生きていく存在なのだろうな。

2012年2月13日 (月)

『2012年のCP+』はどうなっていたのか

Img004_2_4 ちょうど1年前のブログで書いたカメラ映像機器展「CP+」に今年も行ってきた。

 今年の目玉は、なんと言ってもCP+直前に発表された、オリンパスOM-DとフジフィルムX-Pro 1である。コンパクトな一眼レフOMシリーズを昔作っていたオリンパスがデジタルPENシリーズについで出した、本格派デジタル一眼レフがOM-D。レンズマウントはマイクロフォーサーズマウントなので、各社から発売されているマイクロフォーサーズマウントのレンズや、アダプターを介してオールドレンズなんかもいろいろ使えそうだ。一方、X-Pro 1はレンジファインダー風のカメラだがX 10より少し大きなライカサイズのカメラで、広角・標準・望遠のレンズ交換式カメラ。ただし、マウントはFUJIFILM Xマウントという専用マウントだ。イメージとしては、X 10をレンズ交換式にした感じか。

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 オリンパスOM-D。大きさはコンデジとデジイチの中間くらい。むかしのOMシリーズよりは、少し大きい。

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 フジフィルムX-Pro 1。ライカくらいの大きさなのだが、X 10からするとかなり大きくなった印象だ。

 ところで、最近のカメラ女子ブームを反映したのだろうか、各社のブースでの展開でも女性フォトグラファーによるシンポジウムが目立つ。

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 エプソン・ブースの女性フォトグラファー。

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 ニコン・ブースでは女性のドキュメンタリーフォトグラファーがアフリカやアジアで撮影した作品について解説をしている。

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 オリンパス・ブースはPENデジタルを使った、いかにも女子カメラ部的な写真の撮り方講座。

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 高校写真部による東日本大震災復興応援プロジェクト写真展では、カタログを配布していた。

 あとは、昨年までフィルムカメラを展示していたハッセルブラッドも遂に今年はデジタルカメラになってしまって。コシナではフォクトレンダーやカール・ツアイスの出品はなく、完璧にデジタルカメラショーになってしまっていた。

 アグファもコンパクトデジタルの参考出品だし、とにかくフィルム関係の出品はゼロ。コダックも出展していないし、こうなると完全に日本の写真機器の独壇場である。大したもんだが、ちょっと寂しい。

 で、帰りは大渋滞の東京ゲートブリッジ経由で帰ってきたわけだ。

 

2012年2月12日 (日)

『屋根裏プラハ』を見に行く

 京橋のアイランド・ギャラリーで田中長徳氏の『屋根裏プラハ』を見に行った。

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(c)Chotoku Tanaka

 といっても、今回の展覧会は展示というよりもプリントの販売が目的の展覧会である。概ね50,000円位のお値段で売られている写真であります。

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 しかしながら、みごとな田中長徳氏の「第三信号系」の写真なのである。多分、プラハで撮影した写真群なのであるだろうけれども、そのすべてが「何を撮っているのかよくわからない」写真であるのだが、なにかすべて「味がある」。

 そんな写真のことを田中氏は「第三信号系の視線」という言い方をしているのだけれども、しかし、そんな「第三信号系の視線」をどうやって獲得すればいいのだろう。結局、それは写真センスの問題なのだろうか。と言ってしまうと、それはじゃあ写真が登場する前の時代では、なんといったのだろうか。絵画に関しては「第三信号系」という言い方はない。

 しかし、ユトリロなんかの印象派の絵画を見てみると、何を描いているのかわからないけれども、でも風景を描いているのはわかるのだが、だからその中の焦点は何なのか、というものが何もない絵画である。

 まあ、そんな絵画で言う印象派のような立ち位置に「第三信号系写真」はいるのかな、と考えれば考えられなくもない。そのような写真に価値をつける(値段をつける)というのは、はなはだ困難なことのように思えるけれども、でも、最近は結構普通に値段がついているようだ。

 そうやって、写真家が食べていけるようになっていければいいのだけれどもね。特に、最近はWebやらクラウドやらの時代になってきて、そんなネットに上げた写真には著作権はないというような時代にはなって来ている(私もそんな考え方に沿うほうであるが)。しかし、著作権がないという時代になってしまえば、結局写真作家はオリジナル・プリントを売るという方向でしか、自らの作家性を守るものはない。

 と、いうようなことを考えながら写真展を見ていた。最初から、買う気はなかったのにね。

 私なりの「第三信号系写真」なのだが………、まあそれこそセンスの問題ですね。

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『屋根裏プラハ 田中長徳写真展』はISLAND GALLERYにて2月11日から26日まで

ISLAND GALLERYのサイトはコチラ→ http://islandgallery.jp/

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EPSON RD1s Summicron 35mm/F2 @kyobashi (c)tsunoken

2012年2月10日 (金)

『世田谷文学館』の展示を見ながら「東京の拡大」について考える

 京王線の芦花公園駅そばにある「世田谷文学館」に行ってきた。

 2月11日から4月8日まで「都市から校外へ―1930年代の東京」というタイトルの展示が行われているのだ。しかし、この展示、英語の表記は“Expansion of Metropolis around the 1930s”というということで、こちらのほうが「拡がる東京」という感じで、何かしっくりくるのは私だけだろうか?

 それにしても最寄停留所が京王バスの「ウテナ前」って、すごいな、まだウテナ化粧品ってあったんだ。

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 展示は、1930年代に東京の都心から郊外である「世田谷」に移ってきた文化人やその周辺のことを捉えた展示である。

 文学作品では江戸川乱歩の明智小五郎と少年探偵団が世田谷近辺を根城にしていたことからはじまり、その他の文学者が次々と世田谷に移り住んできて、まさに武蔵野の面影を世田谷に求めたんじゃないかという思いの中で展開されるのであるが、しかし、一番面白いのは、今でいう建売住宅の萌芽がここにあらわれていると言うことなのだ。

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 つまり、ここにいう「朝日住宅」なのだ。様々な住宅を作って展示し、そのままの家を注文主の要請に応じて作るという、今の住宅展示場のような形を作っていたのが、世田谷の周辺住宅事情ではあったようだ。

 当時、田園調布株式会社という会社が開発した「田園調布」という町は、いまや東京の高級住宅地として定着しているし、隣の「成城学園」も学園都市として成り立ってはいる。

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 でも、本当の東京の文化的な街は、本当は今でも、文京区とか千代田区なんだよな……と言う事を信じたい。

 だって、世田谷区が文学者や芸術家の街になったあとは、吉祥寺(武蔵野市)とか、三鷹市(太宰治)なんかが、武蔵野のイメージを持った町としてもてはやされるようになった訳だ。

 つまり、どんどん拡がっていく東京のイメージなのである。今に、八王子を越えて上野原とか大月あたりに住む芸術家なんてのが主流になったらどうするの? って、もういるの?  う~む、そこは最早東京じゃないしなあ。

 困った困った。

 世田谷文学館の展示『都市から郊外へ―1930年代の東京』は2月11日から4月8日まで

世田谷文学館のサイトはコチラ→ http://www.setabun.or.jp/

Fujifilm X10 @世田谷 (c)tsunoken

『クラウドの未来』っていうより、そこに出版社の未来を読まないとけない

 とにかくクラウドの時代なのである。もうウェブ(インターネット)じゃなくてクラウドなのだ。で、クラウドって何なのさ。で、この本を読んでみた。で、クラウドを理解したのかどうか、と言えば、それも覚束ない。

『クラウドの未来―超集中と超分散の世界』(小池良次著/講談社現代新書/2012年1月20日刊)

 つまり、グーグルに関して言えば「Gメール」と「ドロップボックス」と「エバーノート」を使って、データやコンテンツもアプリケーションもすべて「クラウド」に上げちゃって、自分のパソコンやタブレット、スマートフォンをとにかく軽くして、「どこでもドア」ならぬ「どこでも仕事」をしましょうということなんだけれども、なんか「余計なお世話」という感じがしないでもない。

『いまソーシャル・ネットワーク・サービスや検索サービスなどインターネットを経由する情報量は級数的に増えているからです。ソーシャル・ネットワーク・サービスに飛び交う情報量はたった四日分だけで、人類が書籍や写真などに蓄積してきた情報の総量と同じと言われ、人類の経験したことがない新領域に入っています』と言ったって、その情報のほとんどは、誰かが発信してきた元情報のツィートや、そのまたリツィート、そのまたリツィート………、というクズ情報でしかない。ソーシャル・ネットワーク・サービスに参加している人たちのなかで、自ら情報の第一発信者になっているのは、参加者のなかの3割にも満たない状況なのである。「Web 2.0」の時代になって、誰でもが情報発信者になれる時代が来た、という言われ方をされたけれども、結局、自ら情報を発信する者はその3割以下で、その他の大勢はクズ情報(二次情報)を拡散するだけで、自ら情報発信者になろうとしない状況のなかで、そこから先に進んでどうなるの、という気もしてならない。

『読者の中にもGmailを利用している方は多いと思いますが、同サービスに蓄積されたメールや添付書類はグーグルが展開している米国などのデータ・センターに保管されています。後ほど詳しく述べますが(しかし、述べられない:引用者注)、米国政府はこうした情報を捜査権限を使って調べることができます。』と言うとおり、我々のクラウドに上げている情報はすべてアメリカ政府が覗けるよというこを前提として、それを使わなければならないと言うことなのである。

 ただ、まあインターネットの時代でもそれは言われていたことであって、個人の情報や、個人データベースなんかはパソコンに入力してインターネットにつないでしまった時点で、それが世界中のどこのサーバーに保存されているのかがわからない状態になってしまい、逆にどこか分からないところから、迷惑メールやらスパムメールがくることを拒めない状況になっているのであるから、それがもっともっとヒドい状態になるということだろう。

 基本的には『インターネットの発展に大きく貢献したサン・マイクロシステムズ(現オラクル:引用者注)のスコット・マクネリー元会長は「ネット時代にプライバシーなんて守りきれるもんじゃない」とよく話していました。彼の言うとおり、ユーザーは利用する多種多様なサイトのプライバシー保護ルールを常にチェックすることは不可能です。つまり、ウェブの長所といわれる情報の分散管理と自由流通は、個人情報の保護を事実上不可能にしています』ということなのだ。

 まあ、確かにそうして個人情報やプライバシーが外部に漏れてしまう(というか、どこか分からない場所に管理されている)状態は、あまり気持ちの良いことではない。しかし、いまや時代はそこまで進んでいてしまっているのだ。多分、インターネットが嫌でも我々の生活を変えてしまったのと同じく、いずれはクラウドの波に飲み込まれるのであろう。嫌でも………。

 私はもうすぐ会社を定年で終えることになる。現状は、会社のパソコン、家のパソコン、タブレット(iPad)は息子にあげてしまったから今は持っていないがスマートフォンは使っている、と言う状況なのだが、とりあえずがは「ノマド・ワーカー」ではないからさほどクラウドの必要性は感じていない。しかし、いまここで書いているブログも、あるいはウェブ・メールもどちらもアプリケーションもデータもniftyにあるわけで、まあ一種のクラウドなわけだ。会社のパソコンに来たメールは転送指示でniftyに送っているので、まあ、メールはどこに来てもいつでも見られるという状況にある。

 そんな境界領域にいる人間がこれからクラウドとどう付き合っていくつもりなのか。というと、結構これが前向きなんですね。多分、いろいろな場所(とにかく会社じゃない所には行くわけで)でこのブログを書いたり、定年後はいろいろ旅行とかするだろうし(本当かな?)、メールを読んだりするだろうし、ということで基本的に「モバイル・コンピューティング」になること必然なのだ。

 勿論、まだまだ減益の、これからの外勤営業マンにとっては、クラウドは必然になるだろう。それは、営業の立場からユーザーやディーラー、リテーラーからの情報を企画セクションにダイレクトに伝えるツールになるだろうし、出版社にとっては、これからは編集とか営業とか関係なく、基本的に「企画を出す人」が重要と言う本来の会社の雰囲気になるかも知れない。つまり、企画を出せない社員は要らないとい雰囲気に。まあ、それが本来の出版社のあり方なんだけれどもね。

 そんなわけで、少しはクラウドの方法論を知っている私からすると、niftyは日本の会社だし、バックボーンもしっかりしている会社なので信用しているが、やはりGoogleはアメリカの会社で信用ならない、ということなのだ。おまけにアメリカ政府の査察も入るしね。

 ということで、今日の結論は「今後もniftyさん、よろしくね」ってことなのであった。

 ま、そういうことです。

2012年2月 9日 (木)

『屋根裏プラハ』を読んで江戸っ子の口調に親しむ

 1947年生まれの田中長徳氏にとっては、「革命」という二文字は常に青春とともにあった文字である。同時に「革命」は「敗北」につながるタームでもあったのだが………。

『屋根裏プラハ』(田中長徳著/新潮社/2012年1月30日刊)

 そんな田中長徳氏が夫人のオーストリア留学に付き合ってウィーンに在住したのが田中氏の「東欧」との付き合いの初めだった。しかし、「東欧」とは言っても本来はチェコスロバキアのプラハは、ウィーンと同じく「中欧」なのである。西側資本主義諸国のオーストリアのウィーンから北に300kmほど行ったところにあるのがプラハであるといえば、それは東京から仙台か、名古屋に行く距離でしかない。

 たまたま、チェコスロバキアが東欧のワルシャワ条約国になってしまったから、何となく我々にとっては「東欧」という遠く離れた国というイメージになってしまった。

 ついでに言ってしまうと、私が以前フランスのニースからブルガリアのソフィアまで行ったことがあるんだが、それもスイスのチューリッヒでのトランジットを含めてたいした時間がかかってという意識はない。とはいうものの、ソフィア国際空港のありさまといってしまえば、まだまだ共産主義からの完全解放は出来ていない状況というか、あるいはとりあえず全部OKになってしまった状況なのか、とにかく日本の田舎の駅みたいな「国際空港ターミナルビル」を出ると、タクシーの運ちゃんがいっぱいいて、俺のほうが安い、俺なら観光案内ができるといったような感じ群がってきて、はてさてどうしようということなのだけれども、まあ、そこは運を天に任せるというお金持ちの日本人のスタイルでいくしかないので、それに任せれば、まあどうにかなるもんで、ソフィア中央部のホテルまで行き着けたということがあった。

 それはいいとして、ヨーロッパの都市と都市、というのはそれだけ近いのだということなのだろう。それが一方で「鉄のカーテン」の強さ、もう一方で元々あった都市同士のつながりということもあるのだろうけれども、それは同時に境界領域においては、意外と自由に行き来していたということもあるんじゃないだろうか。

 チェコのビロード革命の際にも、チェコ国民は西ドイツのテレビ番組をみんな見ていて、いわゆる「自由社会」ではこうなんだ、ということを知って立ち上がったのである。まあ、その後の「自由社会」とか「資本主義社会」の状況がどうなったかのかは、別ですがね。

 そんな「共産主義チェコ」を知る田中氏の、言ってみれば「資本主義チェコ」に対する無念なのだけれども、それはちょっとひん曲がっている。つまりスターリン体制のソ連主導の「共産主義体制」を批判するのは、まあ、反帝反スタの時代に育った田中氏ならまあ、普通のことだろう。しかし、いまやそんな共産プラハはないわけで、そこで共産プラハのイメージを捜し求めるということはどうしたもんだろう。結局、チェコはビロード革命の結果、共産主義を捨てて資本主義の社会に加わったわけなのであるが、同時に資本主義社会の「軽薄さ」も一緒に飲み込んでしまったわけで、それはやむをえないことなのであるけれども、しかしなあ、ということなのだろう。

 多分、それが田中長徳氏が求める、田中氏の側に出来上がってしまっている、プラハの街のイメージなんだろうな。そんな「滅びゆく街」がプラハの街のことなのだ。そんな風に田中氏はプラハをとらえているのではないか。

 ところで、田中氏は本書を「純エッセイ集」としてこ、これまで書いてきたカメラ・エッセイとは一線を画しているわけなのであるのだけれども、しかしそこは「写真家」「写真機家」の田中氏である、結局は写真のことばかりを書いているのである。ただし、普段のエッセイに比べると「写真」のことは書いているが「写真機」についての薀蓄は意外なくらい少ない。その辺が若干「純エッセイ集」に近寄っている点であるだろう。

『カフェでのワインの小グラスは時間つぶしの為の砂時計である。ただし、飲み干したら立ち上がる必要がある。一方でカフェで長い文章を書くという予定があるのなら。朝からカフェに一人で行って居心地の良い場に座を占めて、ウェイターに一本のワインを注文する。ウェイターはプロ中のプロだから、あたしのようにコルクの木くずを瓶の中に落下させるようなヘマはしない。これがカフェでワインを一本頼む最大の理由だ。時間と快適を買うのである。それをちびちびやりつつ、メモの整理などをして、気が向けば原稿書きもし、ついでに持参のライカを磨いたりすると、自分が何か大写真家になった気分が味わえる。そういう場所はウィーンならグラーペンのカフェ・ハベルカとか、プラハならモルダウ沿いのカフェ・スラビアあたりがいい。ただし、これは七十年代の話だ。』

 なんて文章を読んでしまうと、途端に「田中長徳的世界」に入り込んでしまう。

 とくに田中氏の「あたし」という一人称使いには、「江戸っ子の粋」というようなものを感じさせて、「江戸っ子好き」の私にはタマらない。

 ところで、本書には田中自身による「第三信号系」のネタばらしが出ている。つまり;

『第三信号系視神経。これは思いつきの造語である。視神経には第一から第三までの信号系がある。こんなことはどんな眼科の本にも書いてない。だからちょっと補足説明すれば第一信号系の視神経が捉える写真とは「その画像自体が意味を指し示す写真」のことだ。パスポート写真とか新聞の顔写真などがこれにあたる。第二信号系の視神経が捉える写真とは、日常のすべての実用的な画像を意味する。報道写真も広告写真もオンラインのポルノグラフィもこれの範疇だ。第三信号系の写真とはある意味、扮装をしていない写真、実用の範疇から逸脱した写真のことを言う。写真が衣服を着けずに、意味合いを捨ててそこかしこを自由に歩行している状態と言ってもいい。ヨセフ・スデクの作品は数少ない第三信号系写真に属する。』

 って、これじゃあ「第三信号系」という言葉に異様に反応して、それについてのエッセイをものしてしまった島尾伸三氏の立場はどうなるんでしょうねえ。

 まあ、私の知ったことではないが………。

2012年2月 8日 (水)

『KABA2』を見てたら、昔のことを思い出した

 大友克洋氏の久々の新刊である。

『OTOMO KATSUHIRO ARTWORK KABA2』(大友克洋著/講談社/2012年1月30日刊)

昔話をばひとつ………。

<1988/7/10 19:00 調布市 東京現像所第2試写室>

 監督にとって生まれてはじめての長編(アニメーション)劇映画。

 ゼロ号試写上映開始。

 およそ3年前から制作を開始したアニメーション映画がやっと完成(完全なものではないが)し、映像と音響がひとつになったフィルムが、実に公開1週間前になってやっと完成したのだ。

 最後の半年の追い込み状況を知っているものにとっては、まさに奇跡。途中「ギブアップしたらどうか」などというプロデューサーのオドシに耐え、公開を前倒しできないか(つまり前の映画がコケたので)という映画会社からの要求には、「公開日は絶対まもる。その代わり前倒しも絶対にできない」とツッパッたものの、内心ビクビクしていた現場プロデューサーたる自分の立場からは、まさに天にも昇る気持ちで向かえた、「初号試写」なのだ。

 とにかく公開には間に合った(内容には問題はあるが)。

 ところが、肝心のゼロ号試写に監督の姿が見えない。試写の開始時刻は伝えてある。でも、監督が来ない。公開前の一番最後から2番目の重要な作業。ゼロ号で最終的なプリントの焼き具合をチェックして、最終的に公開版のプリントを発注する為の作業。それがゼロ号試写なのだ。その場に監督がいないなんてありえないじゃないか。

 しかし、無情にもゼロ号試写の開始時刻になってしまった。

 他のアニメーション・スタッフ、撮影スタッフ、音響スタッフみんな揃っている。やむなし、監督抜きでもやるしかないか、プリントについては撮影監督と確認するしか・・・。

 ゼロ号試写が終わった。

 ついに監督の姿は見えなかった・・・。

 と、アニメーターの一人が「いや、来てたよ。でも、上映終わったら、姿がみえなくなってたけど」えっ、と私。「何だよ来てたのかよ。じゃあ、最後まで顔を出せよ」という気持ちは抑えながら、やむなく、作業を進める。

 実は、この後、まだまだ70mmプリントを上げなければならず、そのためには公開前日までの作業が詰まっているのだ。

 その後、家に閉じこもり状態になってしまった監督。連絡がつかない。

<1988/7/14 新宿某所 1900>

 70mmの作業やら、音楽などの作業やら、宣伝作業やらを残しつつ、今日は楽しい「スタッフ打ち上げパーティー」だ。この日を最後に、公開後のリテイク作業の為のメイン・スタッフを除いて、スタッフ解散となる、その最後の日。

「あんな仕上がりのフィルムでスタッフは満足しているのか。監督は心配で皆の前に出られない、と言っている。」との監督夫人の電話。

「いやいや、皆出来上がったフィルムには満足しています。とにかく出来上がったんだから、皆、監督と会って一緒に喜びたがってますよ。とにかく、車だしますので、絶対来てね。」と、まあ頼りない私の電話。

 監督の到着を待っているスタッフに対しては、「とにかく、監督は車でこちらに向かってますので、もう少し待っててね。」と、これまた頼りないアナウンスをする私。

 だって、監督がくるかどうかなんて、分からないんだから。携帯電話もない時代の話だし。

 で、待つことしばし、やっと監督登場。数日ぶりに見る監督の顔。まだ引きつってる。いやいや始めちゃえば何とかなるさ………。

 あれから、20数年。監督も随分図々しくなりましたね。

 というオソマツさまでした。

2012年2月 7日 (火)

『地名に隠された「東京津波」』というより、単なる「東京地名研究」でしょ

 なんか「東京津波」っていうのはあまりリアルに感じられないし、とは言うものの、もし東京湾に10メートルの津波がきたらどうなるかっていうのは想像できないし、とりあえず日比谷、日本橋の埋立地から東は全滅だってことは分かっているんだけれども、でも東京湾に10メートルの津波がくるってことが、まず信じられない。しかし、それを想定していくと………。

『地名に隠された「東京津波」』(谷川彰英著/講談社+α新書/2012年1月20日刊)

 谷川氏は『昨今の東京人を見ていると、この東京の町の地形、特にその土地の高低感が失われているように見えてならない。どこの繁華街に行っても同じように見えてしまう。新宿も渋谷も池袋も同じような町に見えてしまう。人々は超高層ビルを見つめ、人々が行き交う通りをぬって歩くだけだから、同じなのである』というけれども、しかし、山手線や京浜東北線に乗って上野から赤羽方面に行けばいやでも、武蔵野台地とその東方に広がる低地の存在を知らされるし、京浜東北線の鎌田から先に行けばやはり、海岸段丘の姿を知ることになる。

 さらに、たとえば『タモリのTOKYO坂道美学入門』なんて、エンターテインメントの本ですら東京の高地と低地を結ぶ坂道についての話題を提供しているし、港区、文京区、千代田区、渋谷区あたりを動いていればいやでも坂道を通らなければならず、その度にその地域の名前を確かめてみれば、その低地についた名前を見ればそれらしい名前がついていることを発見できるのだ。

 要は「谷」「窪」「久保」「沢」「池」「落合」「池尻」「江」「川」「砂」「浜」という字がついた場所には住むなというのが、昔から言われている言葉である。しかし、そうは言ってもなかなかそのようには出来ぬから難しいのであって、ご予算との関係からもそうそう住みたいところに住めるわけではない。だったら、せめてそうした危険地帯に住まねばならなかった人たちが、どうすれば良いのかを示してほしいところなのだが、谷川氏は地震の研究家ではないので、それは出来ない。

 ということで、谷川氏は最終章にビルと契約して津波が来た際にそのビルに逃げ込めるようにしたらどうかとか、スーパー堤防をつくれとか、せめて『津波から逃れるためには、あなた自身が立っているその土地が標高何メートルあるのかを常に意識することである。地震がいつ起こるかを予知することではなく、いつ来ても構わないようにまず足元を見つめることがあなた自身の命を救うことになる』というのだが、それも心もとない。

 やはり谷川氏は地名の研究家であることは知られているが、それ以上に地震の研究家ではないのだ。勿論、地名から考えて災害にあいやすい土地というものはあるのだが、それは地震研究からしてみれば、様々な要素のひとつでしかない。そんな、地名研究から東京全体の地震をさける研究というのは、多分、ちょっと大風呂敷を広げすぎたようで、結局、タイトルとは別に、東京地名研究という枠から出ることはなかった、というのが本書なのである。

 勿論、だからと言って本書の価値が落ちると言うわけではなくて、それはそれでいいのだが、地震と絡めた論の展開にはなっていないということなのだ。

 純粋に、「東京地名研究」というだけでも良かったのにね。

2012年2月 6日 (月)

江東区砂町の人は焼鳥とおでんが大好き

 ということで、台東区鳥越のおかず横丁では何の収穫もなかったので、その足で江東区北砂4丁目にある「砂町銀座」へと出かけた。

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 こちらはおかず横丁とはまったく異なり、2メートル幅ほどの狭い商店街は人でいっぱいだった。まさしく北砂の人たちの胃袋担当という感じで賑わっていたのだった。

Dscf2914_2居酒屋兼焼鳥屋

Dscf2953_2おでん種屋

 ところが見ていると面白いもので、たかだか600メートル位の商店街なのだが、そこにあるのは、ここに写っているだけでも「焼き鳥屋」だけで8軒、「おでん種屋」が4軒という数にのぼる。撮影し忘れているお店もあったはずだから、実際にはもっと多くの焼き鳥屋さんやおでん種屋さんがあると思う。これに加えてとんかつ屋もかなりあった。

Dscf2915_2焼き鳥&惣菜屋

Dscf2962_2ここも、焼き鳥屋

Dscf2920_2おでん種屋、発見

Dscf2921_2また焼鳥屋だ

Dscf2922_2こちらはおでん種屋

Dscf2923_2焼鳥と空揚げの店

Dscf2924_2焼鳥と卵の店

Dscf2925_2「食べ歩きお断り」の焼鳥屋

Dscf2951_2おでん種屋だ

Dscf2958_2焼鳥ともも焼きの店 

 う~む、砂町の人たちはそんなに焼鳥、おでん、とんかつが大好きなのか。というか、やはり下町の惣菜の代表選手は焼鳥とおでんととんかつだということがよく分かる。

 この食慾を見てると、日本もまだまだ健全だという気がして、元気になるような気がしてくる。変なもんですね。

Fujifilm X10 @北砂 (c)tsunoken

2012年2月 5日 (日)

浅草 鳥越 おかず横丁

 台東区鳥越一丁目に「おかず横丁」という商店街がある。

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 この鳥越という地域は下町の浅草という土地らしく町工場が多いところだった。こうした家内制手工業のところでは、夫が経営者兼工場一番の働き手であり、妻も工場の働き手の一人で、それに小僧さんのような住み込みの労働者(それこそ集団就職で来たような)が数人というのが普通の構成で、こうした商店街で惣菜を買ってきてしまえば、あとはご飯を炊くだけで食事ができてしまうという手軽さから、こうした惣菜商店街は下町には多い。

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 しかし、昨日行ってみたらなんかすごく閑散としているのだ。日曜日じゃないのでもう少しは人通りがあると思ったのだが、それにしても開いている店が少ない。

 そこで帰ってきてからおかず横丁のホームページをもう一度見たら、230メートルあまりの商店街に開いている店はたった11軒しかないのだ。つまり、肉屋が2軒、魚屋が1軒、寿司屋が1軒、蕎麦屋が1軒、和菓子が2軒、味噌屋が1軒、お茶屋が1軒と惣菜屋が2軒である。行く前におなじサイトを見たときには代表的な店だけが載っているのかと思っていたのだが、実はこれでザッツオール。あとはシャッターが閉まった元商店があるばかり。

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 しかしまあ、考えてみればそうした「下町の製造業」なんてのは、いまや埼玉県や千葉県の方に移ってもう少し大きな工場になってしまい、その跡地はビルになって問屋さんなんかの中小商事会社になっているのであり、そこを経営している人も、働いている人も、みんな近郊から通っているわけだ。つまり、もうここには住んでいる人はおまり多くはないのだ。

 ということで、下町の商店街とはいえ、この程度の中途半端な下町ではもはや寂れるしかないということなのかも知れない。

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 鳥越神社だけでは観光客も集められないし、他に観光の名所なんてものはないし、それは浅草寺にはかなわないしなあ。

 まあ、こうやって徐々に下町の商店街なんてものもなくなっていくのだろう。これも町の歴史のひとつなのだろうな。

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Fujifilm X10 @鳥越 (c)tsunoken

2012年2月 4日 (土)

『20歳の自分に受けさせたい文章講義』だけじゃなくて、僕らも受けたい文章講義にしてほしい

『20歳の自分に受けさせたい文章講義』(古賀史健著/星海社新書/2012年1月25日刊)

『かつてITを使いこなす力が「仕事力」の明暗を分けた時代があった。

 しかし、iPhoneやiPadの例を見るまでもなく、ITツールの操作性は日を追うごとに平易なものとなり、いまや幼稚園の子どもでも直感的に使えるようになった。そして将来的には、日常的な英会話でさえも、優秀な翻訳ソフトの登場によって「みんなのもの」になる可能性が高いと言われている。

 では、文章にも同じことが起こるだろうか?

「書くこと」にすべてを機械にまかせる時代は来るだろうか?

 それはありえない話だ。「書くことは考えること」であり、そこだけは機械まかせにはできない。むしろ予測変換などの文章入力支援ツールが一般化していくほど、ホンモノの文章力との差が明らかになっていくだろう』

 という言い方は、例えばカメラの自動化が進んできたときにも言われたことであった。つまり、フォーカスを合わせる、露出を合わせるばかりでなく、静物、人物、風景、スポーツなど被写体の種別・目的にあわせてカメラの方が適当な撮影プログラムを組んでくれるばかりではなく、最近は「顔認識プログラム」なんていうものも出来て、カメラが被写体の一番いい顔を撮影してくれるなんてものも出来ている。アマチュアでもいい写真が撮れますといういいかたでね。

 しかし、じゃあそれでいい写真が撮れるのかというと、全然そんなことはなくて、結局、写真のセンスのない人はそれなりの写真しか撮れないし、プロはそんなプログラムは使わなくてもいい写真は撮れるのである。何故か、プロは写真学校や芸術系大学で「いい写真の撮り方」を学んでるからである。なんて言っちゃうと身も蓋もない言い方だけれども、しかし、それは事実であって「いい写真」「良く見える写真」の撮り方にはテクニックがあって、それを学校で学ぶことができるのが写真の世界なのだ。ただし、それは一般的じゃなくて、実は写真学校になんか行かなくても「いい写真」を撮っている人は沢山いて、プロ写真家にも多くいるのである。

 何故なのか。それは写真学校では「いい写真に見える写真」の撮り方(テクニック)を教えてくれるからなのだ。つまり、写真学校で「いい写真に見える写真」の撮り方を学んだ卒業生は、とりあえず「いい写真に見える写真」を撮ることはできるというわけなのだ。しかし、彼らが本当に「いい写真」を取れるかどうかは別問題である。つまり、写真表現の場合は最後はセンスの問題に行き当たる。センスのないヤツには「いい写真に見える写真」は撮れても「いい写真」は撮れない。写真学校で教えるのはそんなセンスのないヤツでも、とりあえず写真で食っていけるように「いい写真に見える写真」を撮る技術を教えているわけなのである。そこから先は君達自身の問題だよ、ってわけで。だから、センスのいい人は、そんな写真学校で「いい写真に見える写真」の撮り方なんて学ばなくても、ちゃんと「いい写真」が撮れるのである。

 では翻って、文章についてはどうなんだろう。少なくとも、写真ほど「技術」はいらなそうである。つまり、日本人で小中学校あたりの勉強を経てきた人なら、取り敢えずは「テニオハの使いかた・原稿用紙の使いかた」位は知っているだろう。じゃあ皆書けるね、というと「そんな簡単には書けないよ」という返事が返ってくる。何故だろうか、というのが若手ライターとして様々な本を書いてきた古賀氏の本書を書く動機なのだ。

 皆、日本人である。日本に生まれて、日本に育ってきた。じゃあ、皆、日本語は書けるよね。と言われて、原稿用紙とかワープロに向かうと、「何を書いていいのか分からない」という大合唱である。何故なのか? そこで古賀氏の本書に戻って言うと;

『自分の小中学校時代を振り返ってみえても、“書く技術”らしきものを教わった記憶は皆無に等しい。作文の時間にはいつも「思ったとおりに書きなさい」「感じたままに書きなさい」と指導されてきた』

 というのだ。で、結局どういうことになったのかと言えば「先生にほめられるような文を書く」ということになってしまうのだ。結局;

『作文も読書感想文も“書き方指導”ではなく、形を変えた“生活指導”になっていたのである』

 そう、小中学校の「作文指導」(という科目があるのかどうかは知らないが)の先生は、作文の技術指導はしないで、結局は生活指導しかしていなかったのである。多分、そんな先生自身も、学生時代に「作文指導」なんて受けていなかったんだろう。そんな人が、他人にこれまた「作文指導」なんて出来るわけはないのである。日本中の国語の先生が、例えばエッセイストとして何らかのメディアで文章を発表している人だったり、ブログでも書いている人だったりすれば、もう少し状況は変わったのだろうが、多分、それらの先生自身が自分の文章を他に向けて発表したことがないのだろうな。そんなんじゃ、ダメじゃないかよ。

 ということで、実は文章を作るのはセンス(他人には教えることができない)じゃなくて、技術(これは伝承可能)なんだということを言っているのが本書。

 それも;

『“書く技術”を身につけることは、そのまま“考える技術”を身につけることにつながるからである』

 というとおり、個人的な発想は一度「アウトプット」してみなければ、それが世の中に通用する考え方かどうかは分からない。しかし、そんな個人の発想をアウトプットするには「技術」が必要なのである。それが「考える技術」なのである。

 もともとある、自分の小さな発想や、企業の大きな発表資料、世の中の様々なこと、それらをどうやって自分の中に取り込んで、そして外に出す(アウトプット)のか。実は、そうした過程を経て、それらに関する自分の考え方は確実さを増す。それが「自分で書く」ということに繋がるのだ。

 とりあえず「自分のアタマで考えよう」というChikinさんみたいな発想で「これは何でかな。何でこうしないのかな。」などと一度いろいろ考えてみることが大事なようだ。要は、常識とか、新聞・テレビが言っていることをウラから考えてみる、とかいったことなど。

 そうした「考える技術」を持った人は、多分「書ける技術」を持った人になるだろう。

 って、ここまで書いてきて自分でも気付いたことなのだけれども、要は、クリアカットな発想で世の中を見ている人たちには、今の日本で自分がどうすればいいのかということには、個人的には皆分かっているのだ、ということ。

 しかし、我々凡才どもには分かっていないから、世の中の様と個人のブログとかの差異に気付かないということに陥ってしまうのだけれども、実はそうでもなくて、天才・古賀氏でも我々と同じようなものだと言ってもらえることもあるのかな。

 最後にひとつだけ言いたいことがある。古賀氏は『いい文章を書くのに、文才などまったく必要ない』というのだけれども、それは古賀氏の活躍するノンフィクション部門だけの話。フィクション部門では、やはり「文才=センス」というものはあるようです。

 ただし、絶対条件じゃないですがね。

 

2012年2月 3日 (金)

『人はなぜ<上京>するのか』というよりも、そこにおける人の差異が気になる

 とは言っても、結局江戸の時代までは移動は極端に制限されていた時代だから、明治以降、とくに東海道線が開通してからの「上京」ブームなのであったが、それがつい最近まで続いていたというのも、歴史的に見ても凄いことじゃないのだろうか。

『人はなぜ<上京>するのか』(難波功士著/日経プレミアシリーズ/2012年1月25日刊)

 どういう形で、日本中の若者はどうやって「東京」を目指したのか。とりあえず目次を追って見てみると………。

第1章 上京、星雲編。

 明治維新になったからといって、突然「そうだ、東京へ行こう」ブームが起こったわけではない。東海道線が全通したのが明治30年頃であるから、基本的にはそれ以降の「東京ブーム」であろう。とにかく、この時代は東京に出ないと何も始まらなかった時代。政治(権力)も天皇(権威)も東京にあった。とにかく出世、上昇志向と上京志向がまったく重なっていた時代だろう。しかし、まだ大阪の商都としての存在感はあった時代。

第2章 上京、失意編。

 関東大震災によって廃墟と化した東京である。しかし、一時的に関西方面へ逃れる文化人と、同時にやはり東京じゃないと一旗上げられないということで、再び舞い戻る文化人を代表とするインテリ層という形もあった。

 同時に、この時期、初めて「東京二世」が出てきた時期でもある。先の、「星雲編」で田舎から東京に出奔してきた人たちの子どもの時代だ。それを、本書では斉藤茂吉の子、北杜夫に求める。

第3章 上京、団塊編。

 誰もが知っている(というのは私たちの世代が最後かも)、貧しい東北や長野・新潟などの雪深いところから来た集団就職の中卒生たちの姿と、比較的裕福な南西地方(中部・関西・中国・九州の一部)からやってきた、とりあえず東京の大学に入ってから考えようぜ、ってな無責任の塊のような若者たち。北から来た集団就職組は岸首相から「声なき声」と持ち上げられ、無責任の塊(基本的には若者はそういうもんだけれども)たちは「安保反対」を唱えて、機動隊に殺された。あ、殺された人は東京出身だけれどもね。

第4章 上京、業界編。

 東京生まれ二世三世が、これからは「東京」なんて大きすぎる区切りじゃなくて、もっと細分化しましょう、ということで「港区」「吉祥寺(武蔵野市じゃなくて)」とかに細かく分かれて、そこに生まれたのかを競う時代になった。池袋や新宿じゃないよね、ってことで。そう、最早この時期には池袋、新宿は、まだ残っていた「田舎出身者」のための街になっていたのだ。

 この時期から「東京では」モノ作り産業じゃなくて、いわゆる情報産業的な業界がもてはやされるようになったわけだ。いわゆるギョーカイってやつね。基本的にはマスコミ・ギョーカイなわけだが、その周辺にいる諸種のプロダクション・制作会社・編集会社なんてのも一緒にギョーカイしてました。

 まあ、日本もバブルだし、その恩恵を受けつつ、楽しくやろうやってのが基本なんだけれども、その支えているバックボーンが何故かちょっと不安な毎日だった。つまり、モノを作ってもいない、要は新しい価値を創造しているわけでもないのに、単に土地を持っているだけで、あるいは情報を右から左へ動かしているだけなのに、こんな景気いい話はどこかに落とし穴があるんじゃないか、って………本当に思っていたかな?

 たしかに、バブルのおかげで私なんかも銀座で大盤振る舞いなんかもした記憶はある。ま、私もある種ギョーカイにいたわけで、けれども、どこかそこには「うたかた」の気分もあったような………のかな?

 で、この時期に、完全に大阪商都はなくなってしまい、単なる関西の中心街であるにすぎない、周辺にもよくある「小東京」になってしまった。

第5章 上京、頓挫編。

 で、結局、「団塊ジュニア」とか「ロスト・ジェネレーション」とかの時代になってしまうのだな。もはや東京に何の夢もない時代。でも、新青森から博多まで新幹線ができてしまい、皆ちょっと気になれば「プチ上京」ができてしまう状況。でも、飽きればすぐ帰ってしまう。

 まあ、東京の時代変遷がまさに日本の明治維新からの時代変遷と同じくしているのだから、しょうがないといってしまえばその通りではあるのだけれども。

 日本中にある、「小東京」というか「東京の支店」としての「ファスト風土」をもって、「僕らの東京」として、東京以外の地方の少年たちが受け止めてくれれば、それはそれでその企業の経営者はいいけれども、それをささえる文化はどうなってしまうんだろう、と考えるとかなり心細い。つまり、そうした「ファスト風土」チェーンの経営者のどれほどが「文化的資質」をもっているのか、「文化」というものをどのように捉えて、どのように考えているのかということだ。

 文化のないところに良い経営は育たないというのは、多分、最早、明治・大正・昭和的な発想なのだろうか。

 剥き出しの経済主義である今のグローバル資本主義では「文化と経済は別」であるから、自らが追求するのは「経済性」だけである。文化は「私の収める税金で誰かが運営してくれればいい」ということなのだ。

 まあ、多分それが今の普通の「経営者=サラリーマン経営者」なのだろう。

 しかし、それじゃあダメだという時期にはきている。例えば経営ビジョンにしても、そこに求められるのは単なる経済性だけではなく文化性も求められているのだ。つまり、ソニーの繁栄と凋落、アップルの凋落と繁栄、というのはまさしくこの<企業=文化>なのではないだろうか。企業が生み出す商品に付随する文化、というわけだ。そういう意味での<企業=文化>の時代になってきた。バブルの頃の「企業活動からは切り離されたメセナとしての文化活動(単なる見返しを要求しない投資)」ではなくて、企業活動自体が何かの文化活動になっているという意味での、企業としての文化が必要だ。つまり、それは経営者の持ている<文化的ビジョン>なのだろう。

 それを成しえた上での、「東京観」というものを見てみたい。<文化活動>としての<企業活動>がもしあるのなら、その結果としての<日本の文化平準化>ではない、なにかの解決方法も出てくるような気がする。

 文化というのは地方、地方によって違う。そういった文化的差異を受け容れて、なおかつ産業的価値も上がる方法を、我々は見つけなければいけないところにきているのだと思う。

 世界の文化の差異を認めるのなら、国内の地域の差異も認めなければいけない。地域の差異を認めるならば、人と人の差異も認めなければいけない。

 そのように、世界中の人は生きているはずなんだけれどもなあ。

2012年2月 2日 (木)

『山賊ダイアリー』が本当の山賊ダイアリーになるのはいつ頃だろう

 岡本健太郎は「マンガ家」なのか、あるいは「猟師」なのか、まあ「サラリーマン兼業マンガ家」という存在は今までにもあったが「猟師兼業マンガ家」というのは、岡本が初めてじゃないだろうか。

『山賊ダイアリー 1 リアル猟師奮闘記』(岡本健太郎/講談社イブヌングKC/2011年12月22日刊)

 岡本健太郎は、岡山県の超田舎の集落で生まれ、2009年1月に「池袋」のバーで「オレもいつか地元で猟とかやりたいんだよね」と発言し、動物を殺すことに理解を示さない女の子にフられた。その女の子だって牛や豚や鶏は食べるのにね。

 で結局、岡山の超田舎に帰った岡本健太郎は2009年年5月21日に銃の所持許可試験に合格、2009年6月30日に狩猟免許を取得し、晴れて「猟師」になったわけだ。ということでは、まだまだ初心者ハンターである。

 愛用の空気銃シャープ・チバ製エース・ハンターで撃ってし止めた動物は、第1巻ではウサギ、キジバト、ハシブトカラス、マムシ、マガモと釣りの仕掛けでうなぎであり、それらを全部食べてしまっている。さすがに山賊ではある。ただし、イノシシを捕獲する罠を設置するために山に入ったときにみかけた子ギツネと、間違ってそのイノシシの罠にかかってしまったタヌキは食べずに逃がした。まあ、でも今度捕まえたら食べちゃうんだろうな。

 ちなみに、ウサギは空揚げと第1巻の終わりのほうですき焼きも食べる。『脂身のない鶏肉のようでヘルシーな肉です』とある。キジバトはタレで丸焼き。まあ小さいからそんなもんだろうな。スズメとかツグミみたいな味か。ハシブトカラスはタレと塩で串焼き。『なかなか歯ごたえがしっかりした肉です』だそうだ。マムシは塩コショウで姿焼き。『香ばしくてうまい!』。マガモはローストチキン。『うおおおおう……!! こりゃ美味い!! 家畜のニワトリと違い、皮と脂がくどくなく、赤身の力強い味を堪能できます』。ウナギは当然、蒲焼。『養殖うなぎのように、脂でギトギトしておらず、魚本来の味わいが口いっぱいに広がります。う――ん、こりゃもう、養殖モノは喰えんな…』。うむむむ、何か食べたくなったぞ、野生の肉ってそんなに美味いのか?

 しかし、これは後日のブログにも関係するけれども、岡山の超田舎出身の若手マンガ家が行くバーってのが池袋、それも漫画の絵からするとサンシャイン60の上にあるやつだろう。まあ、若手で講談社で漫画を描いているのだから池袋に行くというんは分からないではないが、そうか地方出身者であまりアチコチ歩き回るヤツでない者にとっては、池袋が大都会の代名詞であり、そこに聳える60階建ての巨大ビルというのは、それこそ大東京のシンボルなのだろう。そんなところに女の子を連れて行って、それこそ田舎の狩猟の話なんかしたら………、やっぱりフられるわな。やっぱり、そんなところに行ったらもうちょっと街の話をしてシチーボーイを装いつつ、女の子を手に入れてからおもむろに、狩猟の話をすればいい。その段階になって、まだ「ええ…!! 動物を殺すなんて!!」と言ったら、そこで別れればいいのだ。そこまで行けば、自分が食べてる牛や豚や鶏がどうやって自分の口に入るのかを理解しているでしょう。

 とは言っても、最早彼女とは別れてしまった岡本健太郎である。もう、猟師として生きながら、猟師兼業マンガ家として生きているしかないのだ。猟師兼業マンガ家としてエッセイ・マンガを書き続けていってほしい。ついでに、これからも野生動物を空気銃で撃って、いろいろな動物を捕らえて食することを描いていってほしい、とはいっても鳥やウサギくらいなら空気銃でもいいのだろけれども、シカやイノシシやクマなんかでは空気銃では追いつかないだろう。まあ、免許は持っているようだし、今後は散弾銃なんかにグレードアップして猟師道を突き進んで行くんだろうな。

 で、撃つところまではいいけど、その後、その動物を解体して料理する部分はコワくない? という疑問をお持ちの方………、大丈夫です。全然、コワくはないです。何故か?

 このマンガ家、全然、絵が

 …

 …

 …

 …

 …

 上手(リアル)じゃないから………、

 って、

 そういうオチ?

 

2012年2月 1日 (水)

『あんぽん』はちょっと日朝関係、在日問題に捉われすぎ?

 ウォルター・アイザックソンが書いた『スティーブ・ジョブズ』と比較しながら読むと面白いかも知れない。

『あんぽん 孫正義伝』(佐野眞一著/小学館/2012年1月15日刊)

 それは佐野眞一氏の方が徹底した取材に基づいて書いているからなのだ。結局、ウォルター・アイザックソンの方は佐野氏ほどの徹底的な周辺取材は行っていないようだ。つまり『スティーブ・ジョブズ』に書かれていることの大半は、以前どこかで読んだことばかりなのだ。ということは当然アイザックソン氏は、それまでにかなり出版されている「ジョブズ本」を読みこなしており、それに基づく取材をジョブズ本人からしているのだろうけれども、でもそれだけでは不十分である。ジョブズがアブドルファンファター・ジョン・ジャダーリというイスラム教徒のシリア人と、ジョアン・シーブルというドイツ系移民の子の間に生まれたことは有名であり、その子供がウィスコンシン州出身の高校中退のポール・ジョブズとアルメニア系のクララとの間の養子となった、という部分について、何故、アイザックソンは追究しなかったのだろうか。孫正義が「在日」の子だったということに関して、かなりしつこく追究した佐野氏に対して、このアイザックソン氏の、あっさりとジョブズ氏の言うことだけを受け入れるというのは、アメリカ式の「出自を問わない」精神なのか、それとも「出自を必要以上に問う」日本風の取材方法にはなじまないのか。

 しかし、この佐野氏の孫正義氏に関するその出自を問うやり方は徹底している。勿論、これまでに出されていた「孫正義伝」の胡散臭さを感じていた佐野氏は、初めは自分が「孫正義伝」を書くことに抵抗があったようだ。しかし、そのバックボーンを調べるに従って、孫正義の「うさんくささ」がどこにあるのかが気になったようだ。特に大きいのは父・孫(安本)三憲の存在だろう。

 在日として過酷な人生を生きてきた三憲にとって、次男・正義や四男・泰蔵(東大卒、現在ガンホー・オンラインエンターテインメント会長)の存在は大きなものだし、それこそ希望の星だったに違いない。

『孫は「経済白書」が「もはや戦後ではない」と高らかに謳った翌年、鳥栖駅前の朝鮮部落に生まれ、豚の糞尿と密造酒の強烈な臭いの中で育った。

 日本人が高度成長に向かって賭けあがっていったいったとき、在日の孫は日本の敗戦直後以下の極貧生活からスタートしたのである。

 その絶対に埋められないタイムラグこそ、おそらく私たち日本人に孫をいかがわしいやつ、うさんくさいやつと思わせる集合的無意識となっている』という言い方で、

あるいは『朝鮮民族の誇りそのままに、堂々と白いチマチョゴリを着て葬儀に出席したこの二人の女性こそ、孫正義の祖母であり、孫正義の義理の叔母だった。

  <中略>

 孫正義はそのことをおそらく知らない。山野炭鉱のガス爆発事故が起きた昭和四十年は、今回の大災害で放射能漏れ事故を起こした福島第一原発の用地買収が終わり、まもなく建設が始まろうとしている頃である。

 その福島原発で放射能漏れ事故が起きたことに衝撃を受けた孫が、脱原発のための再生エネルギー法案の成立に奔走する。孫一族はまさに日本のエネルギー産業の最先端、炭鉱で言えば切羽の部分を担い、これからも担おうとしているのである。』とつなげるのはどうなのだろうか。孫を「いかがわしいやつ、うさんくさいやつ」と見るのであれば、もっともっとそうした見方を徹底しなければいけないのではないのではないだろうか。

『山野鉱のガス爆発について詳しく調べた地元の郷土史家によれば、「爆発したのにヤマを早期再開することを考えて、施設関係の電源を切らなかったという話もあった」という。

 何やら今回の福島第一原発事故を連想させる話である。東電はメルトダウンするかもしれないとわかりながら、原子炉の温存をはかるため、緊急措置を遅らせたと言われている。

“国策”に直結したエネルギー産業は、人名よりもいつも企業の延命の方を優先させる。

 三井山野鉱山爆発事故では、死者の約半数が「組夫」と呼ばれる下請けの鉱夫だった。孫正義の叔父の国本徳田も「組夫」だった。

 この構造は、エネルギー産業の花形が、炭鉱から原発になってもまったく変わらない。原発作業でも、最初に危険な目にさらされるのは放射線量が最も高い現場で働かされる“ジプシー”と呼ばれる下請け労働者である。

 炭鉱の“ジプシー”労働者だった「組夫」の叔父がガス爆発で死に、その甥がそれから約半世紀後に、“反原発”の狼煙をあげる。朝鮮半島から強制連行された一族の血は筑豊にとどまることなく、いまや無人のゴーストタウンとなった福島の原発地帯まで延びている。』という言い方をしてしまえば、最早、孫一家の海峡を越えた怨念が福島まで延びて、いまやその「恨み」を果たそうとしているかのように読めてしまう。

 まあ、それもないではないだろうが、孫正義にとっては「いまや再生可能エネルギーに賭けた方が、今後300年の日本、今後300年のソフトバンクを考えたら勝てる」と考えただけなのではないだろうか。

「在日」に対する差別は一部の部分では今でもあることは知っている。しかし、孫正義が生まれた頃から一般社会での「あからさまな」差別はなくなっている。在日の人たちの日本同化もかなり進んでしまい、もはや日本人なのか韓国(朝鮮)人なのかなんてのは、まだ残っている一部の韓国(朝鮮)人のみのアイデンティティを求める人だけの問題になっているに過ぎない。あとは、「モノを知らないネット右翼」の連中の在日差別くらいなものだろう。

 そうした意味で、佐野氏が言うような反「在日」差別感情が孫正義のいまの活動の原動力になっているという発想は、あまりにも旧態依然の発想でしかない。

 もちろん、それも少しはあるかもしれないが、しかし、もっともっと孫正義の発想は前にいっているのではないだろうか。でなかったら、孫の行動は日本でとどまっているはずだ。いまや、孫の発想は日本を飛び越えてしまっている。アジアや世界全体を相手にするようになるだろう。

 そんな時に、日朝関係なんていってたら、もう遅いのだ。もう、狭いのだ。それは長い歴史のなかでのホンの一部分でしかない。

 多分、これからの経営者とは、孫のように世界スケールでモノを考えなければならなくなるのではないだろう。だとしたら、そんな狭い国と国の、民族と民族のことなんて、てんで素っ飛んでしまうのではないだろうか。

 勿論、佐野氏の民族的良心から、こうした形で「在日問題」を取り上げることには反論する気はないのだけれども………。

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