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« 『人はなぜ<上京>するのか』というよりも、そこにおける人の差異が気になる | トップページ | 浅草 鳥越 おかず横丁 »

2012年2月 4日 (土)

『20歳の自分に受けさせたい文章講義』だけじゃなくて、僕らも受けたい文章講義にしてほしい

『20歳の自分に受けさせたい文章講義』(古賀史健著/星海社新書/2012年1月25日刊)

『かつてITを使いこなす力が「仕事力」の明暗を分けた時代があった。

 しかし、iPhoneやiPadの例を見るまでもなく、ITツールの操作性は日を追うごとに平易なものとなり、いまや幼稚園の子どもでも直感的に使えるようになった。そして将来的には、日常的な英会話でさえも、優秀な翻訳ソフトの登場によって「みんなのもの」になる可能性が高いと言われている。

 では、文章にも同じことが起こるだろうか?

「書くこと」にすべてを機械にまかせる時代は来るだろうか?

 それはありえない話だ。「書くことは考えること」であり、そこだけは機械まかせにはできない。むしろ予測変換などの文章入力支援ツールが一般化していくほど、ホンモノの文章力との差が明らかになっていくだろう』

 という言い方は、例えばカメラの自動化が進んできたときにも言われたことであった。つまり、フォーカスを合わせる、露出を合わせるばかりでなく、静物、人物、風景、スポーツなど被写体の種別・目的にあわせてカメラの方が適当な撮影プログラムを組んでくれるばかりではなく、最近は「顔認識プログラム」なんていうものも出来て、カメラが被写体の一番いい顔を撮影してくれるなんてものも出来ている。アマチュアでもいい写真が撮れますといういいかたでね。

 しかし、じゃあそれでいい写真が撮れるのかというと、全然そんなことはなくて、結局、写真のセンスのない人はそれなりの写真しか撮れないし、プロはそんなプログラムは使わなくてもいい写真は撮れるのである。何故か、プロは写真学校や芸術系大学で「いい写真の撮り方」を学んでるからである。なんて言っちゃうと身も蓋もない言い方だけれども、しかし、それは事実であって「いい写真」「良く見える写真」の撮り方にはテクニックがあって、それを学校で学ぶことができるのが写真の世界なのだ。ただし、それは一般的じゃなくて、実は写真学校になんか行かなくても「いい写真」を撮っている人は沢山いて、プロ写真家にも多くいるのである。

 何故なのか。それは写真学校では「いい写真に見える写真」の撮り方(テクニック)を教えてくれるからなのだ。つまり、写真学校で「いい写真に見える写真」の撮り方を学んだ卒業生は、とりあえず「いい写真に見える写真」を撮ることはできるというわけなのだ。しかし、彼らが本当に「いい写真」を取れるかどうかは別問題である。つまり、写真表現の場合は最後はセンスの問題に行き当たる。センスのないヤツには「いい写真に見える写真」は撮れても「いい写真」は撮れない。写真学校で教えるのはそんなセンスのないヤツでも、とりあえず写真で食っていけるように「いい写真に見える写真」を撮る技術を教えているわけなのである。そこから先は君達自身の問題だよ、ってわけで。だから、センスのいい人は、そんな写真学校で「いい写真に見える写真」の撮り方なんて学ばなくても、ちゃんと「いい写真」が撮れるのである。

 では翻って、文章についてはどうなんだろう。少なくとも、写真ほど「技術」はいらなそうである。つまり、日本人で小中学校あたりの勉強を経てきた人なら、取り敢えずは「テニオハの使いかた・原稿用紙の使いかた」位は知っているだろう。じゃあ皆書けるね、というと「そんな簡単には書けないよ」という返事が返ってくる。何故だろうか、というのが若手ライターとして様々な本を書いてきた古賀氏の本書を書く動機なのだ。

 皆、日本人である。日本に生まれて、日本に育ってきた。じゃあ、皆、日本語は書けるよね。と言われて、原稿用紙とかワープロに向かうと、「何を書いていいのか分からない」という大合唱である。何故なのか? そこで古賀氏の本書に戻って言うと;

『自分の小中学校時代を振り返ってみえても、“書く技術”らしきものを教わった記憶は皆無に等しい。作文の時間にはいつも「思ったとおりに書きなさい」「感じたままに書きなさい」と指導されてきた』

 というのだ。で、結局どういうことになったのかと言えば「先生にほめられるような文を書く」ということになってしまうのだ。結局;

『作文も読書感想文も“書き方指導”ではなく、形を変えた“生活指導”になっていたのである』

 そう、小中学校の「作文指導」(という科目があるのかどうかは知らないが)の先生は、作文の技術指導はしないで、結局は生活指導しかしていなかったのである。多分、そんな先生自身も、学生時代に「作文指導」なんて受けていなかったんだろう。そんな人が、他人にこれまた「作文指導」なんて出来るわけはないのである。日本中の国語の先生が、例えばエッセイストとして何らかのメディアで文章を発表している人だったり、ブログでも書いている人だったりすれば、もう少し状況は変わったのだろうが、多分、それらの先生自身が自分の文章を他に向けて発表したことがないのだろうな。そんなんじゃ、ダメじゃないかよ。

 ということで、実は文章を作るのはセンス(他人には教えることができない)じゃなくて、技術(これは伝承可能)なんだということを言っているのが本書。

 それも;

『“書く技術”を身につけることは、そのまま“考える技術”を身につけることにつながるからである』

 というとおり、個人的な発想は一度「アウトプット」してみなければ、それが世の中に通用する考え方かどうかは分からない。しかし、そんな個人の発想をアウトプットするには「技術」が必要なのである。それが「考える技術」なのである。

 もともとある、自分の小さな発想や、企業の大きな発表資料、世の中の様々なこと、それらをどうやって自分の中に取り込んで、そして外に出す(アウトプット)のか。実は、そうした過程を経て、それらに関する自分の考え方は確実さを増す。それが「自分で書く」ということに繋がるのだ。

 とりあえず「自分のアタマで考えよう」というChikinさんみたいな発想で「これは何でかな。何でこうしないのかな。」などと一度いろいろ考えてみることが大事なようだ。要は、常識とか、新聞・テレビが言っていることをウラから考えてみる、とかいったことなど。

 そうした「考える技術」を持った人は、多分「書ける技術」を持った人になるだろう。

 って、ここまで書いてきて自分でも気付いたことなのだけれども、要は、クリアカットな発想で世の中を見ている人たちには、今の日本で自分がどうすればいいのかということには、個人的には皆分かっているのだ、ということ。

 しかし、我々凡才どもには分かっていないから、世の中の様と個人のブログとかの差異に気付かないということに陥ってしまうのだけれども、実はそうでもなくて、天才・古賀氏でも我々と同じようなものだと言ってもらえることもあるのかな。

 最後にひとつだけ言いたいことがある。古賀氏は『いい文章を書くのに、文才などまったく必要ない』というのだけれども、それは古賀氏の活躍するノンフィクション部門だけの話。フィクション部門では、やはり「文才=センス」というものはあるようです。

 ただし、絶対条件じゃないですがね。

 

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