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2011年12月30日 (金)

『呪いの時代』というタイトルは本当に日本が「呪いの時代」に入ったんだという緊張感が漂っている

 問題は「ロストジェネレーション論」などの世代論で世の中を規定しようと言う考え方のおかしさというところに集中するのだ。

『呪いの時代』(内田樹著/新潮社/2011年11月20日刊)

 つまり朝日新聞がいうところの「ロストジェネレーション論」によれば、『社会の最底辺に格付けされている人間に社会の諸矛盾は集約的に表現されており、その人たちはそれゆえにこの社会の矛盾の構造を熟知しており、この社会をどう改革すべきかの道筋も洞察していると言う事になります』ということなのだが、この論は話の前半と後半が本来は関係ないはずなのに、何故かふたつの違う論を無理やりつなげてしまっているところに問題がある。

『卒業年次ゆえに下層に格付けされているという主張がもし正しいなら、彼らが階層を上昇するということは原理的にはありえません。もし、彼らの中から階層を上昇するものが出てきた場合、それは「卒業年次が階層化の主因である」という説明に背馳してしまう。個人的な才能や努力や偶然がプロモーションに関与するというのは誰でも知っている事実ですが、ロストジェネレーション論はまさにその「事実」を否定するところから出発している。どれほど努力しても、才能があっても、社会的成熟を果たしていても、卒業年次の「焼き印」によって社会的上昇機会を奪われているというのが彼らの社会理解である以上、この「失われた世代」の人々はそもそも努力する必要がない。するだけ無駄なんですから』という具合。つまり、「世代論」で世の中を切るというのは、いかにもその対象たる世代からは受け入れられようとも、結局、間違った世の中の理解の仕方である、ということなのだ。

 この「ロストジェネレーション論」を内田氏は2008年6月8日に起きた、東京・秋葉原で無差別殺傷事件を起こした加藤智大という青年の話から始める。つまり『加藤智大という青年が携帯サイトに書き込んだ言葉は外部評価への恨みに満ちていました。劣悪な労働環境、家族や地域との絆の喪失、そういったものが犯行の動機であると、彼自身が書いており、メディアも、精神科医たちも、そのような説明を受け容れていました』ということのなのだが、じゃあ何故『彼は職場の上司を刺し、職場近くで彼が具体的に見て、その生き方を羨望している生活者たちを襲ってもよかったはずです(よくないですけど)』ということになるのだが、そうしなかったのは『殺人の犯人は彼が「ほんとうの私」だと思っている肥大した自尊感情そのものです。もっと尊敬されるべきであり、もっと厚遇されるべきであり、もっと愛されるべきであると思っている「私」が、その「当然私に向けられるべき敬意や愛情や配慮」の不足に対して報復したのだ。』つまり、結局「オレはこれだけ有名になったのだ」ということを自己確認したかっただけなのだということ。

 そこでつまり『加藤はある日何かを「呪った」のだと僕は思います。呪いの対象になったものは具体的な誰かや何かではなく、加藤が妄想し「『ほんとうの加藤智大』が所有しているべきもの、占めている地位」を不当に簒奪している「誰か」でした。そして、その「呪い」は現実の力を持ってしまい、実際に何人もの人を殺した』ということなのである。

 結局、この「呪い」の話はその後の「就活」論、「婚活」論にも連なっていくのであるが、大きな問題としては、今の若者が「自分はこの程度のものだ」という認識が欠けているということがあるのではないかと、私なんかは考えるのだ。勿論、「この程度」がどの程度を示しているのかということはあるし、それが人によって千差万別であるということが前提なのだけれども、いずれにせよ「自分がこの程度の人間なのだ」とか考えることで解決する問題はいくらでもあるのに、そう考えないから、「自分はもっと評価されてもよい」「自分の持つ経済的価値はもっと大きいはずだ」「自分はもっと美しい人から愛されていいはずだ」なんて妄想から自由になれないのだ。バカですね、なんて簡単にいってしまってはいけないんだ。まあ、厄介な世の中ですな。

 多分、それは今の教育の方向性にも問題があるだろう。例えば、スポーツをやっていた人間なら誰でもわかることだが、どんなに努力してトレーニングに励んでも、天賦の才のある人には絶対に勝てないということがある。どんなに勉強をしても頭のいいやつには絶対に成績で上にはいけない。容姿の美醜なんてのは完璧に親の問題だし。という具合に世の中には「自分はこの程度のもんだ」と思わせることが沢山あるにもかかわらず、そうした状況を受け容れられずに、もっといい就職先があるはずだとか、もっと美しい人と結婚できるはずだ、なんて考えていつまでたっても就職しなかったり、結婚しなかったり……。その理由のひとつには、例えばいまは大学に入りたければどんな大学かは別として、とりあえず大学には入ることが出来る。大学の3年生になれば皆「就活」をすることになるわけだけれども、そこはコンピュータ社会なので、だれでもどんな会社にも「応募」することだけは出来る。で、皆一流の(というかマスメディアで露出の多い)大きな会社ばっかり受けることになってしまい、結局、受けた人の大半はオチるわけですね。そこで、「自分はこの程度」に気がついて「自分の身の丈」にあった会社を選んで就職する人は、まあ、問題なしなのだが、そこに至っても「自分はこの程度」に気付かない人たちは希望する会社に落ち続け、結局、「世の中は自分を受け容れてくれなかった」ということになって、加藤智大になっていくのである。

 明治維新で身分制社会を辞めて四民平等となった日本だが、戦前までは階級社会であり、貴族の存在もあったし、それら貴族達の「ノブレス・オブリージェ」もあった。しかし、戦後になってアメリカが支配するようになって、その辺の日本社会の「良さ」の部分がすべて無くされてしまい、アメリカ式の弱肉強食世界になってしまった。

 何せ、アメリカ社会というのは「ノブレス・オブリージェ」という本来は社会的になんら関係ないところで行われる行為が、「節税策」として行われるというトンでもない社会なのだ。つまり、高所得者は節税になるからいろいろなところに寄付行為をするというわけなのだから、その逆に日本みたいに寄付をしたって学校や、政党や、公益法人などに寄付をしたってわずかな寄付金控除しか受けられない国になったしまったら、アメリカ人は多分殆ど寄付なんて行わなくなってしまう強欲人種なのだということ。

 そんな、強欲民主主義への反省が、例えば「勝ち負けを決めない運動会」とか、「成績順位を公表しない期末テストや中間テスト」になっていったんだろうな。しかし、そうやって本来はあるはずの「人間の才能のあるなし」を見せないようにしてしまった。そういうものを見て「自分はこの程度の人間」という感覚を覚えさせないようにしてしまった罪は大きい。その結果としての、大量殺傷事件ということを考えるとね。

 まあ、この辺はこれからの「リアルな現実を教えていきましょう」という文科省の教育方針変換に頼るしかない。どうなんだろうか。あまりリアルに教えてしまうと、モンスター・ペアレンツが何か言いそうだしなあ。

 一方、強欲民主主義は高所得者たちの「ノブレス・オブリージェ」に頼るしか変換の方法はないだろう。つまり、これまでの「交換」経済ではなくて「贈与」経済である。勿論、贈与経済も実は交換経済の一部であり、貨幣で交換可能な経済ではあるのだが、交換経済ではその「交換」が一度限りの関係で終わってしまうのに比べて、贈与経済というのは「終わりがない」というところが面白い。

 AからBへの贈与は、同時にBからAへの贈与ということで完結しそうだけれども、実はそうはならなくて、実際の交換関係で言うと「A→B→C→……N→…………→N……→C→B→A→B→C→……N………」という具合に永遠の円環構造になっていくのだ。いわゆるポトラッチ戦争というやつね。内田氏はニュージーランドのマオリ族の「ハウ」という習慣をもって説明しているけれども、日本では多分ポトラッチのほうが分かりやすいだろう。つまり、ここでは高所得者が低所得者に対して「贈り物」をするわけであるけれども、低所得者は別に、高所得者に同額の贈り物を返さなくても良い。それぞれの「身の丈」にあった返礼をすればいいのだ。そうすることによって、高所得者から低所得者への財産の移動が可能になるのだ。

 勿論、そのためには、先のような「自分はこの程度の人間なんだ」という感覚が取り戻されなければならないが……。う~む、どうなんだろうか。

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 南青山5丁目の変なビル。最近はこうした「下より上のほうが広い」ビルが流行っているんだろうか。なんか、上の方のフロアの窓際の人が危うい、という感じがしますね。あ、まあ窓際はいいのか、窓際は。

Fujifilim X10 @南青山 (c)tsunoken

 そんな「クリアカット」な論説ではなかったな……反省。

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コメント

外部評価への不満に対する「呪い」防止の観点からいうと、身の丈の把握とともに「不確実性」の把握(例えば同じ能力でも時と場所が違えば評価が変わるetc)の把握も必要っぽいですね

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