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2011年12月

2011年12月31日 (土)

師走雑景・師走雑感

 ジャスミン革命(これって革命なのかなあ?)でチュニジアで政変が起きて、こりゃ今年はいろいろなことが起きそうだなと思っていたら1月にエジプト革命に飛び火して(でもこれも革命といっていいものやら)、日本では3月11日の東日本大震災(確か震災当時は「東北太平洋岸大震災」だったと思うが)でしょ。

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 その後、リビアではカダフィ大佐が殺されちゃうし(これも革命なんでしょうか?)、

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 アメリカでは国債がデフォルトに陥る寸前までいってしまって(どうせなら共和党が徹底抗戦してデフォルトになってしまえば面白かったのに)、ユーロはギリシャ経済が殆ど破綻状態で(というか事実破綻している)、その後もスペイン、イタリア、アイルランドと続きそう(まあ、これらは革命が起きるほどじゃあないでしょうな。まあ先進国革命というのは、なかなか起きないからね)な感じだ。

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 アジアでは中国の土地バブルが崩壊して、タイでは大洪水で製造業が大被害で日本の下請工場が殆どダメになっている。

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 で、日本では超円高で「国内製造業」は壊滅的な状況だけれども、世界的にはこの円高を利用して、海外企業をどんどん買ってグローバル化していく日本企業の姿が見えるわけです。

 と思ったら、お隣の朝鮮民主主義共和国の金正日総書記が亡くなってしまった。三代目の金正恩氏が「売り家(国)と唐様で書く三代目」となるかどうかは、まあ、お楽しみということにして。

 まあ、いろんな意味・場面ではビクともしない日本の姿が見えてきて、「すげえな日本」なんですが、それを言っちゃあおしまいよ、ということもあり、別の結論を見出したいと思います。

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 つまり「いつだって大変な時代」ということなんですよね。そりゃそうだ。来年だって、なにが起こるかわけがわかりゃしない……と言っておけば、責任回避できますかね。

 ということで、お後がよろしいようで。

『いつだって大変な時代』(堀井憲一郎/講談社現代新書/2011年7月15日刊)

 

Fujifilm X10 @麻布 (c)tsunoken

 

2011年12月30日 (金)

『呪いの時代』というタイトルは本当に日本が「呪いの時代」に入ったんだという緊張感が漂っている

 問題は「ロストジェネレーション論」などの世代論で世の中を規定しようと言う考え方のおかしさというところに集中するのだ。

『呪いの時代』(内田樹著/新潮社/2011年11月20日刊)

 つまり朝日新聞がいうところの「ロストジェネレーション論」によれば、『社会の最底辺に格付けされている人間に社会の諸矛盾は集約的に表現されており、その人たちはそれゆえにこの社会の矛盾の構造を熟知しており、この社会をどう改革すべきかの道筋も洞察していると言う事になります』ということなのだが、この論は話の前半と後半が本来は関係ないはずなのに、何故かふたつの違う論を無理やりつなげてしまっているところに問題がある。

『卒業年次ゆえに下層に格付けされているという主張がもし正しいなら、彼らが階層を上昇するということは原理的にはありえません。もし、彼らの中から階層を上昇するものが出てきた場合、それは「卒業年次が階層化の主因である」という説明に背馳してしまう。個人的な才能や努力や偶然がプロモーションに関与するというのは誰でも知っている事実ですが、ロストジェネレーション論はまさにその「事実」を否定するところから出発している。どれほど努力しても、才能があっても、社会的成熟を果たしていても、卒業年次の「焼き印」によって社会的上昇機会を奪われているというのが彼らの社会理解である以上、この「失われた世代」の人々はそもそも努力する必要がない。するだけ無駄なんですから』という具合。つまり、「世代論」で世の中を切るというのは、いかにもその対象たる世代からは受け入れられようとも、結局、間違った世の中の理解の仕方である、ということなのだ。

 この「ロストジェネレーション論」を内田氏は2008年6月8日に起きた、東京・秋葉原で無差別殺傷事件を起こした加藤智大という青年の話から始める。つまり『加藤智大という青年が携帯サイトに書き込んだ言葉は外部評価への恨みに満ちていました。劣悪な労働環境、家族や地域との絆の喪失、そういったものが犯行の動機であると、彼自身が書いており、メディアも、精神科医たちも、そのような説明を受け容れていました』ということのなのだが、じゃあ何故『彼は職場の上司を刺し、職場近くで彼が具体的に見て、その生き方を羨望している生活者たちを襲ってもよかったはずです(よくないですけど)』ということになるのだが、そうしなかったのは『殺人の犯人は彼が「ほんとうの私」だと思っている肥大した自尊感情そのものです。もっと尊敬されるべきであり、もっと厚遇されるべきであり、もっと愛されるべきであると思っている「私」が、その「当然私に向けられるべき敬意や愛情や配慮」の不足に対して報復したのだ。』つまり、結局「オレはこれだけ有名になったのだ」ということを自己確認したかっただけなのだということ。

 そこでつまり『加藤はある日何かを「呪った」のだと僕は思います。呪いの対象になったものは具体的な誰かや何かではなく、加藤が妄想し「『ほんとうの加藤智大』が所有しているべきもの、占めている地位」を不当に簒奪している「誰か」でした。そして、その「呪い」は現実の力を持ってしまい、実際に何人もの人を殺した』ということなのである。

 結局、この「呪い」の話はその後の「就活」論、「婚活」論にも連なっていくのであるが、大きな問題としては、今の若者が「自分はこの程度のものだ」という認識が欠けているということがあるのではないかと、私なんかは考えるのだ。勿論、「この程度」がどの程度を示しているのかということはあるし、それが人によって千差万別であるということが前提なのだけれども、いずれにせよ「自分がこの程度の人間なのだ」とか考えることで解決する問題はいくらでもあるのに、そう考えないから、「自分はもっと評価されてもよい」「自分の持つ経済的価値はもっと大きいはずだ」「自分はもっと美しい人から愛されていいはずだ」なんて妄想から自由になれないのだ。バカですね、なんて簡単にいってしまってはいけないんだ。まあ、厄介な世の中ですな。

 多分、それは今の教育の方向性にも問題があるだろう。例えば、スポーツをやっていた人間なら誰でもわかることだが、どんなに努力してトレーニングに励んでも、天賦の才のある人には絶対に勝てないということがある。どんなに勉強をしても頭のいいやつには絶対に成績で上にはいけない。容姿の美醜なんてのは完璧に親の問題だし。という具合に世の中には「自分はこの程度のもんだ」と思わせることが沢山あるにもかかわらず、そうした状況を受け容れられずに、もっといい就職先があるはずだとか、もっと美しい人と結婚できるはずだ、なんて考えていつまでたっても就職しなかったり、結婚しなかったり……。その理由のひとつには、例えばいまは大学に入りたければどんな大学かは別として、とりあえず大学には入ることが出来る。大学の3年生になれば皆「就活」をすることになるわけだけれども、そこはコンピュータ社会なので、だれでもどんな会社にも「応募」することだけは出来る。で、皆一流の(というかマスメディアで露出の多い)大きな会社ばっかり受けることになってしまい、結局、受けた人の大半はオチるわけですね。そこで、「自分はこの程度」に気がついて「自分の身の丈」にあった会社を選んで就職する人は、まあ、問題なしなのだが、そこに至っても「自分はこの程度」に気付かない人たちは希望する会社に落ち続け、結局、「世の中は自分を受け容れてくれなかった」ということになって、加藤智大になっていくのである。

 明治維新で身分制社会を辞めて四民平等となった日本だが、戦前までは階級社会であり、貴族の存在もあったし、それら貴族達の「ノブレス・オブリージェ」もあった。しかし、戦後になってアメリカが支配するようになって、その辺の日本社会の「良さ」の部分がすべて無くされてしまい、アメリカ式の弱肉強食世界になってしまった。

 何せ、アメリカ社会というのは「ノブレス・オブリージェ」という本来は社会的になんら関係ないところで行われる行為が、「節税策」として行われるというトンでもない社会なのだ。つまり、高所得者は節税になるからいろいろなところに寄付行為をするというわけなのだから、その逆に日本みたいに寄付をしたって学校や、政党や、公益法人などに寄付をしたってわずかな寄付金控除しか受けられない国になったしまったら、アメリカ人は多分殆ど寄付なんて行わなくなってしまう強欲人種なのだということ。

 そんな、強欲民主主義への反省が、例えば「勝ち負けを決めない運動会」とか、「成績順位を公表しない期末テストや中間テスト」になっていったんだろうな。しかし、そうやって本来はあるはずの「人間の才能のあるなし」を見せないようにしてしまった。そういうものを見て「自分はこの程度の人間」という感覚を覚えさせないようにしてしまった罪は大きい。その結果としての、大量殺傷事件ということを考えるとね。

 まあ、この辺はこれからの「リアルな現実を教えていきましょう」という文科省の教育方針変換に頼るしかない。どうなんだろうか。あまりリアルに教えてしまうと、モンスター・ペアレンツが何か言いそうだしなあ。

 一方、強欲民主主義は高所得者たちの「ノブレス・オブリージェ」に頼るしか変換の方法はないだろう。つまり、これまでの「交換」経済ではなくて「贈与」経済である。勿論、贈与経済も実は交換経済の一部であり、貨幣で交換可能な経済ではあるのだが、交換経済ではその「交換」が一度限りの関係で終わってしまうのに比べて、贈与経済というのは「終わりがない」というところが面白い。

 AからBへの贈与は、同時にBからAへの贈与ということで完結しそうだけれども、実はそうはならなくて、実際の交換関係で言うと「A→B→C→……N→…………→N……→C→B→A→B→C→……N………」という具合に永遠の円環構造になっていくのだ。いわゆるポトラッチ戦争というやつね。内田氏はニュージーランドのマオリ族の「ハウ」という習慣をもって説明しているけれども、日本では多分ポトラッチのほうが分かりやすいだろう。つまり、ここでは高所得者が低所得者に対して「贈り物」をするわけであるけれども、低所得者は別に、高所得者に同額の贈り物を返さなくても良い。それぞれの「身の丈」にあった返礼をすればいいのだ。そうすることによって、高所得者から低所得者への財産の移動が可能になるのだ。

 勿論、そのためには、先のような「自分はこの程度の人間なんだ」という感覚が取り戻されなければならないが……。う~む、どうなんだろうか。

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 南青山5丁目の変なビル。最近はこうした「下より上のほうが広い」ビルが流行っているんだろうか。なんか、上の方のフロアの窓際の人が危うい、という感じがしますね。あ、まあ窓際はいいのか、窓際は。

Fujifilim X10 @南青山 (c)tsunoken

 そんな「クリアカット」な論説ではなかったな……反省。

2011年12月29日 (木)

今日もちょっとダメですね……

 ということで、今日もちょっとダメな状況になっています。

 要は、秋葉原無差別殺傷事件に関して、その犯人が『彼は「ほんとうの私」だと思っている肥大した自尊感情そのものです。もっと尊敬されるべきであり、もっと厚遇されるべきであり、もっと愛されるべきであると思っている「私」が、その「当然私に向けられるべき敬意や愛情の配慮」の不足に対して報復した』という卓見に関しては、これはスゴいと思ったということなんだけれども、それに関する「ちゃんとした」意見を言わなければならない以上、そこはちゃんとクリアなアタマで言わなければならないという感覚が、この酔っ払いオヤジでもあります。

 で、明日その辺のクリアカットな意見を書かせてもらいます。

 なので、今日はこんなところでカンベンカンベンというところであります。

 二日間もスミマセン。まあ、二年もやってればそんな日もありまさぁね。なんて居直ったりして。

 まあ、とりあえず読んでみたら?

2011年12月28日 (水)

今日はちょっと

ということで、今日のエントリーはありません。

かなり呑んじゃったしね、もうだめです。

本当は内田樹さんの『呪いの時代』に関連して書くつもりだったんだけど、いまやそれもできずに轟沈です。

といいうことで、明日、読んでください。

とは言うものの今日も飲み会があるし……どうなることやら。

こんなブログを読んでいただいて申し訳ありません。

まあ、明日はちょっとはましな文章になるかな……。どうでしょうか?

2011年12月27日 (火)

『Lee Friedlander : Self Portrait』とは関係ないことになってしまったけれども

 一昨日のエントリーでリー・フリードランダーの『セルフ・ポートレイト』についてちょっと触れたので、本日は紹介をば……。

『Lee Friedlander : Self Portrait』(Lee Friedlander著/The Museum of Modern Art/2005 (c)Museum of Modern Art)

 アメリカ式の「奥付」(?)表示なので、正確な初版印刷時はわかなない。しかし、2005年でないことだけはわかっており、多分1960年代後半から1970年代前半だろう。

 まあ、それはどちらでも良い。問題はこのセルフポートレイト集がどんな意味を持っているかということだろう。如何も鏡に写して撮りましたという写真がある、建物の壁に写った「影」もある、ホテルの鏡に向かってライカM3を構えてキチンと撮った写真もある、で以降のページに載った写真は、写真家自身が意識して写し取った自画像なのだ。もっとも、その殆どは鏡に写した写真のようなので、左右は反転している反射像が写っているわけだ。

 リー・フリードランダーはニューヨークのジョージ・イーストマンハウスで1966年12月に開催された「コンテンポラリー・フォトグラファーズ――社会風景に向かって(Contemporary Photographers , Toward A Social Landscape)」展、1967年にニューヨーク近代美術館(MOMA)で開催された「ニュー・ドキュメンツ(New Documents)」展に出品して、新しい写真家の一人として注目されたのだが、このフリードランナーの作品から触発された日本の写真家たちも、日常的なスナップ写真(にみえる)、スナップ風写真を撮り始めるわけである。まあ、「形」から入る日本人だからね。それがいわゆる「コンポラ写真」というやつ。

 で、その日本人が撮った写真というのは。ごく普通のスナップ写真になってしまって、それが何かの「事件風」を撮ってればそれなりにジャーナリズム的興味もあるのだけれども、大半は「街の普通の風景」である。結局、このフリードランダーの写真も、最後はそっちの方向に収束する形で終わっている。

 それはそれで、その写真を見て何か感ずるところもあれば、それなりに見にいったりして、まあ多分そこには、なにか見出すものがあって、そこに注文すれば、自分の欲しい写真を注文できる方法もあるだろう。そういう人は、そうして自分の欲しい写真を手に入れればいいだけだし、多分、Amazonしか入手する方法はないだろう。

 ともあれ、この145枚の写真から見られるものはなんだ、と言ってしまえばリー・フリードランダーのコンポラ写真というか、ごく普通の街写真なんだよね。それがどんな意味を持つのかといってしまえば、もともと意味はない、それがコンポラ写真なんだから、と言ってしまえばラクですけれども、そればかりの意味ではないようだ。ひとつひとつを見ると、そこに自分の考え方を持っていくことは出来ると思う。というか、コンポラ写真って、結局は「見た人自身が出る」てことなんだよな。

 でも、なあ。

「意味のない写真」は実際に「意味のない」んだからね。それが評価されちゃうってのもね……そうか、それが面白いのか!

2011年12月26日 (月)

自炊「業者」は困るというのはわかるんだけど、何かちがうんだよね

 業界紙『新文化』の今週のトップ記事が、作家7人(浅田次郎、大沢在昌、林真理子、東野圭吾、弘兼憲史、武論尊、永井豪)が書籍スキャン業者二社を著作権侵害という理由で提訴したという事件である。要は「書籍のスキャン業は違法である」ということを裁判で訴えようということである。

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 まあ、作家の人たちの気持ちは分からないではないが、これはもっと違う問題があるのではないだろうか、とも私なんかは思うのだ。

 今、出版社にいる人間としてこんなことを言ってしまうのは、ちょっと問題があるのかもしれないが、まあ、もういいだろう。とりあえず、この状況(つまり、書籍のデジタル化とその方法論の普及)というのは最早逆転出来るものじゃないし、もうどうしようもないんじゃね? ということであり、出版社としては自らの出版権を持っている出版物の早々のデジタル化を進めるしかないんじゃないの? ということでしかない。

 つまり、自炊業者の跋扈は、出版社の怠慢だということ。

 勿論、本を買った人が勝手に自炊するのは著作権法的にもまったく問題はない。いわゆる、私的使用の範囲に収まるからだ。それが、「業」として自炊を行うと著作権法違反というのは、基本的には分からないではないが、しかし、これは避けられない歴史の進行の中の出来事なのだ。<あるテクノロジーの発展がある>と<それを利(悪)用した方法が出現(当然、違法)>で、結局それを解決する方法は<新しいテクノロジーに対応したビジネスモデルを作る(これは適法、でもそれは違法モデルを現実適合させた、結局は違法モデルのままなのだけれどもね)>ということでしかない。

 最近の例で言えば、音楽のモデルだろう。それまでアナログLPから代わった、CDというパッケージ商品で大いに稼いでいた音楽業界が、しかし、リッピングなどの違法コピー問題で大慌てふためいている状況の中で、ネット上で勝手にCDに乗せられた音楽が勝手にコピーされている状況になってしまい、それについては数多くの訴訟をしたわけなのであるが、その個別訴訟では勝てたかもしれないが、時代の状況には勝てずに、結局,、iTunesのような合法コピーサイトは認めるということで、その後、CDが売れるのは、年寄り向けの楽曲や、オタク向けのおまけつきCDだけになってしまった。いまや、音楽はネットで欲しい楽曲(アルバムではない)だけを購入する時代だし、でも、その分だけアーチストとしては「ライブ」を重要視する時代にはなっている。

 出版もそうなるのだろう。本を書いて、その本について「サイン会をやる」とか「本についての講演会をやる」とか「著者を交えた読書会をやる」とかのライブ時代にはなるのだろうし、その一方では、本の読まれ方も変わってきて、電子書籍で読んだりするのが当たり前になるはずだ。ところで、電子書籍なんていう言い方もいずれはなくなるんだろうな、以前は電子メールといったりEメールなんていっていたのが、いまや「メール」というだけで、その意味を表しているように。

 つまり、先の7人の作家の発言も、結局は出版社がいち早くデジタル化に取り組んでいれば何の問題もなかったのだ。だって、既にデジタル化されている本を自炊する人はいないだろうということで。つまり、7人の作家は、自炊業者を著作権法で訴えるより先に、むしろデジタル化に後ろ向きの出版社に対して、自分の著作物をさっさととデジタル化しろ、と言うべきなのだが、そんなにデジタル化にたいして前向きじゃない出版社が多いので、やむなく自炊業者を提訴したんだろう。

 実は、本当に書籍のデジタル化・電子書籍に後ろ向きの出版社は多いのだ。しかし「悪貨は良貨を駆逐する」なんてのは、歴史上の必然だし、歴史は常に前向きにしか進まないのである。

 と、考えてみれば、出版社にとっては予想していたとは違う状況が生まれるのだ。そう、最早いやでも取り組まなければならない「デジタル化」であります。出版社自らデジタル化をするつもりがなければ、作家はそのデジタル化の権利はどこか他のところに移すしかないでしょう。今、自炊業者という呼ばれ方で差別されている会社がいつの間にか、デジタル出版業界の大メジャーになる可能性もある。多分、そのときになって、今、デジタル化に対して後ろ向きになっている出版社あたりは、そんな「デジタル出版業界の大メジャー」に跪く会社になってしまうんだろうな。

 要は、7人の作家の訴えは、実は自炊業者に対する訴えじゃなくて、出版社に対する訴えであると理解した出版社は、まあ、生き残るだろうけど、そうじゃなくて、妙に7人の訴え人に同調するような(バカな)出版社の今後10年は見ものだ。10年経って生き残っているだろうか、というところですね。

 多分、ダメだろうな。

 ツブれる会社は早いとこツブれた方がいい。

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 恵比寿ガーデンプレイスの「バカラのシャンデリア」であります。バブリーだね。

Fujifilm X10 @恵比寿 (c)tsunoken

2011年12月25日 (日)

鏡に写った銀座、恵比寿……そして

 今年撮った写真の中で、ウィンドウや窓ガラスに写ったモノ(と言っても大半は自分の姿だが)の写真を集めてみた。

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 1月に中平卓馬展に行った時に、BLD GALLERYの入っている銀座のビルの磨き上げられた壁面に写った私の姿です。

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 ご存知、東京都写真美術館のウィンドウ。ポスターは『こどもの情景 戦争とこどもたち』『ジョセフ・クーデルカ プラハ1968』。ボヤッと私が写っている。
 

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 銀座の瀬戸物のお店のショウウィンドウに写った私。6月なので、半袖ポロシャツ姿だ。

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 分かりますか? 真ん中の窓に写っている東海道新幹線。これは私の姿ではない。

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 つい最近、東京都写真美術館に言った際の私の写真。ポスターは現在開催中の『ストリート・ライフ』と『写真の飛躍』。こちらもボヤッとした写り方。意識して写さないと、だいたいこんな風に写ってしまう。

 ガラスなどに写った自分の姿を集めた写真集ではリー・フリードランダーの『セルフ・ポートレイト』が有名だが、意外とそんな写真は少ない。というか、ファインダーを覗いて自分が写っているのを見ると、基本的にはそのアングルからは撮らないものだ。私も意識してそんな自分を撮影したのは一番上の写真だけだ。

 一方、「セルフ・ポートレイト」というと大体女性の写真家が半ばナルシシズム的に撮影したものが多いようだ。写真としての完成度の高いものなら良いが、その大半はナルシシズムが前面に現れていて、思わず辟易して敬遠したくなる。その辺はリー・フリードランダーのセルフ・ポートレイトは、そんなナルシシズムとは無縁の場所にいるところが面白い。勿論、フリードランダーは意識的に自分の写真を撮っているのであるから、多少はナルシシズムはあるのだろうが、もともとフリードランダーの写真自体に撮影者の意識を感じさせない、いわゆるコンテンポラリー写真であると言うこともあって、セルフポートレイト自体もそんなコンポラ写真の一部のように見える。

 私の写真がそのどちらのほうに近いのか、とりあえずこれからは気にしないで、どんどん自分の姿も撮っていこうかな。

EPSON RD1s Summicron 35mm/F2, Elmarit 28mm/F2.8

Fujifilm X10

(c)tsunoken

Lee Friedlander: Self Portrait

2011年12月24日 (土)

ジャックと豆の木、ジャックの豆の木、オオミヤの豆の木

「ジャックと豆の木」は、少年ジャックが庭に捨てた豆が見る見るうちに成長して、雲の上の巨人の城にまで達してしまい、豆の木を登ったジャック少年が巨人の金銀財宝を持って帰ってしまう、というイングランドの民話ですね。

「ジャックの豆の木」は、新宿花園ゴールデン街に以前あったバーの名前で、故・赤塚不二夫さんが出入りしていたことで有名。そこに夜な夜な出陣して「密室芸」を披露していた男が、森田一義、いまのタモリである。つまり、タモリの出世の原点みたいな店です。

 で、「オオミヤの豆の木」というのがあるのを知ったのは、今日会った大学の先輩が待ち合わせの場所として指定したのが「豆の木」だったからというわけ。大宮駅の中央改札外のコンコースにある。

 下の写真がその「豆の木」なんだが………。   

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 私なんかは、どう見ても「豆の木」には見えないんだが、どうもこの「螺旋状に上に伸びている様」が大宮市民にとっては「豆の木」に見えるんだそうだ。この角度で見るとなんかカクカクした形に見えるのであるが、下のように別の角度から見れば螺旋状になっているのがわかる。

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 二重螺旋といえば「Double Helix」つまりDNAの二重螺旋を思い浮かべてしまうのだけれども、大宮市民にとっては違うようだ。

 もともと、このオブジェは大宮駅開業100周年記念として日本交通文化協会の発注で東京藝術大学美術学部デザイン科教授の造形作家・伊藤隆道氏が制作したもので、本来は「行きかう・線」という名前であったそうだ。それを市民から名前を公募して現在の「豆の木」とう名前を命名され、いまや大宮駅での主要な待ち合わせ場所になっているそうだ。

 しかし、どう見ても「豆の木」には見えないこのオブジェに「豆の木」という名前をつける大宮市民(というかさいたま市民か)の命名センスには疑問を持たざるを……………………得ることはないことにしよう。最早、待ち合わせ場所として大宮市民が認知しているわけだからね。それにしても、これが「豆の木」ねえ…………。

 で、今、大宮駅周辺では東口(高島屋があるほう)よりも、西口(そごうがあるほう)のほうがなんとなく表口的な雰囲気がある。

 元々は、氷川神社があり旧中山道がある東口のほうが表口で、にぎやかであったのに比べて、西口は何もないところで、ひたすら原っぱが大宮バイパスまで続いていた印象があったのだが、今日行ってみた大宮は、いまやまったく逆で、西口のほうがにぎやかで、家族連れも沢山歩いており、というか小さい子どもの姿が目立った。ということは、駅前に飲み屋街が連なる東口に比較して、新しく開発された西口の方にはあまりそんな「オヤジ」な雰囲気がなくて、ちょっとお洒落な雰囲気もあるし、あまり気兼ねしないでも楽しめる町、ということになるのだろう。

 勿論、何もないほうが開発はしやすいので、多くのJRの駅では昔は裏口だったほうが再開発できれいになっている例は多いのだけれども、どうしても昔からの表口のほうが人通りも多いし、昔からの賑わいもあるのに対して、新表口はきれいだけれどもそれだけ、という感じの駅が多い。まあ、街の中心部がまだ旧表口のほうにあるということもあるのだろう。

 ただし、この大宮駅だけは新表口たる西口の発展のしかたは見るべきだろう。

 私なんかは、雑多・雑駁な町のほうが好きなので、どうしても東口のほうが気になるのであるが、しかし、この差を見ちゃうとね……。

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 上が西口、下が東口である。

 西口の今風の駅に対して、どう見ても東口は「田舎の大きい駅」というところですね。まあ、東武野田線なんてローカル線もあるし、ニューシャトルがある西口と比較しても意味がないか。

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 というところで、大宮駅東口散歩です。それぞれ皆「埼玉風」でいいですね。

 ただし、この旧表口たる東口もいずれは再開発されるのだろうな。そのときは飲み屋街なんかはなくなっちゃって、結局は女子どもの町になっちゃうんだろうな。

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Fujifilm X10 @大宮 (c)tsunoken

2011年12月23日 (金)

『テレビ局削減論』を言うんだったら、責任持ってどの局を残すんだということを言ってほしい

 テレビ局削減論というのは、基本的に私も賛成だ。以前、このブログでも書いたと思うのだが、私の場合は基本的に「民放2局、NHKが総合と教育の2局」の合わせて、4局ネットワークでよいということ、民放は基本的に日本テレビとフジテレビが残れば言いと言う考えかただ。

『テレビ局削減論』(石光勝著/新調新書/2011年12月20日刊)

 石光氏も「民放3、NHK1」といっているが、やはりNHK派総合と教育の2ネットワークになるだろうから、合計5ネットワークという事だと思うが、ここから後がいけない;

『「たしかに一理はあるが、それじゃ、どことどこが一緒になると思う?」

 筆者の持論に接したひとから、よく聞かれる。その度に「それは見当がつかない」と答えることにしている。逃げ口上であるのはもちろんだが、正当な理由もないわけではない。日本のテレビ局の場合、親子兄弟関係にある新聞社の意思如何が大きく左右するので、その動向を見極めなければならないからだ。それは新聞社とテレビ局の新しい系列を生み出すことになる。強い局が弱い極を抱え込むとか、弱い局同士がくっついてシェアを拡大するとかいった、テレビ業界だけの単純な提携では済まないのである。』

 って逃げてはいけないでしょ、石光さん。

 ここは、堂々とどの局とどの局を残して、その他の局は残留局の傘下に入るべきか、あるいはネットワークを捨てて、東京ローカル局として生き残りを図るべきかをはっきりと予想して欲しいのだ。当然、新聞社の系列も変化するかあるいはなくなるかもしれないし、今後のテレビ局の再編成次第では、テレビ局の資本関係は大きく変わらざるを得ないのだ。つまり、そこでは新聞社のテレビ支配が終わるかもしれないということだし、それはテレビ側としては願ってもないことじゃないか。

 私が「日本テレビ」と「フジテレビ」と言ったのは、とりあえず「新聞社が支配するテレビ」ということでは日本テレビがそれこそ第一番なわけだし、親会社たる讀賣新聞も今のところはまだ大丈夫ということだし、親会社(? 子会社?)である産経新聞はもうダメダメだけれども、子会社(? 親会社?)であるフジテレビ自体がまだまだ大丈夫、という状態だからだ。

 その他のTBS(東京放送、毎日放送)もあるけれども、毎日新聞はいまや青息吐息だし、東京や大阪なんかんでの都市圏での視聴率はまあいいけど、田舎に行ったらTBS系の番組視聴率なんて問題外だしね。それは朝日系列(テレビ朝日、朝日放送)も同じ。つまり、朝日、毎日は地方では全然駄目な新聞だし、テレビも同じ、ということ。

 ということで、民放2局NHK2局体制になった。だとして、そのテレビ番組が今より向上するかといえば、それは有り得ない。だって、今番組を作っているアイツらが作るわけでしょう。「ヒナ壇芸人」でもって、ほとんど「収録時間=放送時間」みたいな低廉な番組を作ったり、グルメ番組と称して、結局はどっかのラーメン屋でラーメン食う芸人を写しているだけの番組や、旅番組と言って、もはやいなくなったと思った芸能人を使ってタイアップでタダで泊めさせてくれる宿を紹介する番組しか作ってこなかった連中の仕事なんて、誰が見るんだろう。

 多分、「民放2局NHK2局体制」になって10年ぐらい経って、今の状況を全然知らない制作スタッフが出てきた時からだろうな。そんな時になって、初めて新しい体制における番組作りが出来るのかも知れない。まあ、そこまで待つか……。

 とまあ、いろいろ考えられるのです。

 とにかく、時代が急変する今の時代。今後、近年の予想は立たないわけです。しかし、長期的なよそうは立てられるわけで、そんな長期予想をするしかない。

 で、長期予想をすると、多分テレビは完璧に「民放2局、NHKが総合と教育の2局」体制になっているだろう。そこでは、民放とNHKが競争して面白い長編ドラマが展開されるだろうし、いいドキュメンタリーも制作される。

 お笑い芸人は、まあ残されたテレ朝とかTBSなんかのローカル番組から、面白いヤツが見出されるだろう。その中の、本当の芸をもった連中が残って、全国中継の番組に乗るのだ。

 それでいいじゃないか。

 番組は、絶対に面白くなる。

 

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 猿田彦コーヒーって、なんか凄い名前のコーヒー屋さんだな。

Fujifilm X10 @恵比寿 (c)tsunoken

2011年12月22日 (木)

『下流社会 第3章』における「オタク」の差別について

 しかし、「下流社会」というタイトルが付いているのだから、やはり一番下流化しやすい「オタク系女子」にも、もうちょっと光を当ててと言いたくなる。

『下流社会 第3章 オヤジ系女子の時代』(三浦展著/光文社新書/2011年12月20日刊)

 女性を五つのクラスタに分類するのだが、その五つとは「(1)文化系クラスタ――歴史、伝統、日本が好きなインテリタイプ」「(2)アウトドア系クラスタ――焼肉、焼鳥が好きな肉体派」「(3)OK系クラスタ――娯楽志向が強い従来型の女性」「(4)手作り系クラスタ――日々の生活を楽しむ」「(5)オタク系クラスタ――イラスト、ゲーム、漫画にふける不活発女子」というものだそうだ。

 このうち「文化系クラスタ」に属する典型的な女子として、三浦氏は「遺跡ガール」「神社仏閣ガール」「鉄子」「カメラ女子」「古本女子」にインタビューをし、「アウトドア系クラスタ」では「山ガール」2名と「自転車&釣りガール」にインタビューをするが、「手作り系」「OL系」「オタク系」は無視である。

 さらに、「第3章 一卵性双生児とサラリーマン父子」では「父親の影響インタビュー」では「建築ガール」2名と「鉄子」、「第6章 オヤジ系女子の衣食住」では「居酒屋女子インタビュー」を2名に行っている。

 って、従来からの女性の価値観に乗っ取っている「手作り系」「OL系」はいいとしても、「オタク系」はまったく無視である。何故なのだろう、と考えてみると、その理由は「序」に書かれていた。

 つまり『アウトドア系であれ、文化系であれ、彼女達の外見はあきらかに女性であり(笑)、まあ、普通にきれいにしている。しかし、やっていることは男性的でおじさん的。いわば「きれいなおじさん」みたいな女性が増えているのである。昔の女性は「きれいなお嬢さん」「きれいなお嫁さん」「きれいな奥さん」であることを求められたが、現代の女性は「きれいなおじさん」=「オヤジ系女子」でも許されるのだ』であり、『それは、女性の生き方が多様化して、同じ年代の人たちがみな一様に同じことをすることがなくなったからだ。20歳で結婚する人もいるが、50歳でする人もいる。22歳で出産する人もいるが、45歳でする人もいる。そして、35歳を過ぎても未婚の女性や、40歳を過ぎても子どものいない女性が増えた。ライフスタイルが多様化し、長い余暇時間を多様な趣味で埋めることができるようになったのだ。

 ゆえに、女性だからといって女性的な趣味を持つわけではなくなった。料理や手芸が趣味だという人は減り、登山や釣りやカメラなどなど、いろいろな趣味を持つようになった』ということ、つまり『1980年代初頭までのように、25歳までに結婚して、すぐに子どもを2人産むというのが女性の標準的な生き方であれば、こうしたオヤジ系女子たちは出てこなかった。30歳を過ぎても未婚、35歳を過ぎても子なし、40歳を過ぎたらもしかしてバツイチ。そういう、いわばちょっとスネに傷持つ女性が増えた。言い換えれば「味のある女性」が増えたのだ』ということ、で結果として三浦氏は『オヤジ系女子、「きれいなおじさん」は好きですか?』という質問に『好きです。もちろん、きれいなおねえさんも好きです(笑)。でも、私、内気な草食系おじさんだから、きれいなおねえさんタイプとは何を話していいかわからないんですよ。

 オヤジ系女子は話題も豊富だし、私の興味と彼女たちの興味が近いから、話していて面白い。お酒も飲めるし、汚い居酒屋でも焼鳥屋でも喜んで来てくれるので、気が楽。きれいなおじさんと飲むほうがただのおじさんと飲むより楽しいですしね。

 それと、私は女子的な文化が好きなんです。いわば「女子系オヤジ」(笑)。』ということなのであった。

 もちろん、こうした傾向は良いと思うし、私もここにいう「文化系女子」や「アウトドア系女子」は嫌いではない。特に気楽にお酒に誘える女性というのは下心抜きでいいもんだ。とは言うものの、三浦氏からまったく無視された「オタク系女子」はどうなのよ。

「オタク系女子」だって、結構おじさんと話したがっているかも知れない。話をちょっとオタク系の方向に振ってあげれば、彼女たちの尽きせぬネタの多さは、それなりに面白いのに、オタク系を無視しちゃうのは、三浦氏がそちら方向に興味がないのか、あるいは様々な調査結果から「オタク系は下流化しやすい性質」を持っているということがわかったので、あえて避けているのだろうか。

 あるいは、オヤジ化しないオタク系女子はやっぱり三浦氏にとっては付き合いづらい人間に分類されてしまうのだろうか。

 これをもって三浦氏がオタク差別をしているとまでは言わないが、やはり「オタク系女子にも愛の手を」とだけ言っておこう。

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 別にオタク話だから秋葉原ってわけではないですが。

EPSON RD1s Summcron 35mm/F2 @秋葉原 (c)tsunoken

2011年12月21日 (水)

『ルシフェリアン』というか陰謀論は結局は「後出しジャンケン」

 う~む、陰謀論って結局は「究極的な後出しジャンケン」というわけですな。

『世界と日本の絶対的支配者ルシフェリアン』(ベンジャミン・フルフォード著/講談社+α文庫/2011年12月20日刊)

 とりあえず3月11日の東日本大震災について書かれているプロローグであるが、当初悪い冗談としてしか思われていなかったHAARPという地震兵器によるものだという説があるが、その説にプラスして原子爆弾によって起こされたという話まで加えてフルフォード氏は語っているわけなのであるが。思わず笑止である。

 まず、HAARPについて説明すると、HAARPとはアメリカ空軍、アメリカ海軍、アメリカ国防高等研究計画局などの共同研究として行われている、電離層の挙動や無線通信等への影響を調査することを目的に行われてる「高周波活性オーロラ調査プログラム(High Frequency Active Auroral Research Program)」のことなのである。このプロジェクトにはアラスカ大学を始め、多くのアメリカの大学が関わっていて、日本の東京大学もその機器を提供している。この研究が「地震兵器」だというのは、ロシアの軍事専門誌が「HAARPは超強力なビームを生成する究極の地球物理学兵器である」という趣旨の記事を書いたからなのである。

 つまり、その研究に参加している日本を何故攻撃しなければならなかったのか、ということがまず第一。

 更に、原子爆弾を使ったら当然放射性物質が出るわけで、それを誤魔化すために原発も一緒に爆発させるのだ、ということであり、そこで福島第一原子力発電所が狙われた、ということなのである。だとしたら、東日本大震災の震源地は福島県沖になるはずなのに、なんで宮城県になったのか、ということが第二番目の疑問。

 つまり、陰謀論を展開するためには、その読者の不明が必要なのだけれども、ここまで明解にいろいろなことが分かっている場面では、陰謀論は展開できないということなのだ。

 ただし、読者が不明な連中ばっかりだたら大丈夫、ということ。

 ルシフェリアンとは旧約聖書に出てくるルシファーという堕天使の子孫であり、強大な力を手にした、神への反逆者だということだ。その人物の子孫であるロスチャイルド家、およびその分家たるロックフェラー家が世界を支配している、という発想の考え方なんだけれども、こうした陰謀論の主たるものは「フリー・メイソン」なんかがあげられる。しかし、フリー・メイソンはイギリスを発祥の地とするので宗教を問わない(ただし、無神論者や共産主義者はダメ)のに比較して、ルシフェリアンはユダヤ教を元としているだけ、それをあげつらう人物は反ユダヤ主義者というレッテルを貼られるのであろう。フルフォード氏はその名前からしてユダヤ系ではあると思うのだが、反ユダヤ主義を唱えているわけなのだな。

 しかし、反キリスト教の立場からプロテスタントをルシフェリアンが仕掛けたという言い方はあまりにも大雑把でしかないのではないだろうか。同じプロテスタントという呼ばれ方をされているものの、イングランド国教会の立場と、ドイツのプロテスタントとはその内実が大きく異なる。

 イングランド国教会のプロテスタンティズムは、結局ヘンリー8世の離婚問題があって、離婚を認めないローマ法王との対立にあっただけで、実は教義はあまりカトリックと変わりはない。しかし、ドイツのプロテスタンテイズムつまりルター派の考え方は、現世利益ばっかり考えていた当時のローマ法王庁に対し、聖書の基本に戻れという考え方の宗教改革であって、それが当時ニュー・テクノロジーであったグーテンベルクの活版印刷技術が聖書の普及を助け、結果として起こった広範な(ドイツ以北のすべての国で普及された)プロテスタンティズムなのである。この二つのプロテスタンティズムの大きな違いを無視してプロテスタンティズムを一括して、それらをルシフェリアンが仕掛けたプロテスタンティズムであると語ってしまうと、それはあまりにも杜撰なんじゃないの、ということになってしまう。フルフォード氏の「総ては陰謀によって動かされる」という論によれば、グーテンベルクもルシフェリアンなのか! ってことになってしまうが如何。

 更に言ってしまうと、レーニンやトロツキーがロスチャイルドの舎弟であるロックフェラーの金を受けていたからルシフェリアンである、といってしまったり、更にはヒトラーまでルシフェリアンであるなんて事まで言ってしまって意味があるのだろか、という気分になる。

 レーニンやトロツキーが資本家の金を受け取っていたからといって、別にそれは毀誉褒貶されることではなくて、まあ、言ってみればロシアの帝政が倒されることにおいて、共産主義者と資本家の思惑が一致したということだけなのだ。そんなことはよくある事で、60年安保全学連の島成郎が、右翼の大物・田中清玄から資金援助を受けていたのだって、お互いの当面の敵が同じ(つまりアメリカ)なら、あえて「更に盛られた毒だって食らう」のが政治に携わる者だろう。

 そして、ヒトラーまでがユダヤ系のルシフェリアンであるという言にいたっては、これどうなんでしょう、という感じである。まあ、以前から「ヒトラー=ユダヤ系」疑惑というのはあったのだが、雑婚の多いヨーロッパではまあ3代から先は分からないのが普通なのだ。苗字なんてものは直系の人しか使わないし、だいたい日本と違っていくらでも簡単に国境を超えられるヨーロッパでは、本当のところを言ってしまうと、特定個人を指して、その人がどの国のどんな宗教を信じる、どんな民族なのか、なんてのは分からなくなってしまうのだ。

 まあ、逆にそんな「ヨーロッパ+白人社会」だけでは陰謀論も通じるんだろうな。アジア人や黒人が加わってしまったら、陰謀論なんて無理無理。あっそうか。だからルシフェリアン思想は有色人種排斥なんだ。彼らにとってわかりやすい「白人だけの社会」を作りましょうということなのだろうね。

 とはいうものの、とりあえずアメリカのプレゼンスは今後どんどん低下するだろうし、EUも同じである。中国も基本的に国内需要を高めないと、今後長くは高度成長は望めないだろうし、韓国もいまや青息吐息である。あとはインド、ブラジルがどうなるかということなのだけれども、両国とも国内需要はあまり高くはない点では同じであり、輸出に頼っている以上は他国の経済事情に左右されるという不安定な状況は変わりはない。

 ということで、世界不況の中で、とりあえず(こっちも不況だけど)世界で比べると相対的に強い円を皆欲しがり、結局は円高を受け入れざるを得ない日本が、経済的にはこれからは世界の中心にならざるを得ないだろう。

 まあ、自国通貨が高くなるというのは、自分の国のプレゼンスが高くなるということなので、それは受け入れなければいけないのだろう。もしかすると、日本のプレゼンスがものすごく高くなって、世界中が軍事にたよらなくてもいい、平和な世界統一政府が出来るかも知れない。って、それはルシフェリアン的でない世界統一政府だからルシフェリアンとしては困る?

 そう、もともと軍隊は持ってるけれども、戦争を認めてない、世界でも数少ない国だからね。ただし、日本人はもっと世界史を勉強する必要があるかもね。なんで、この戦争が起こったのか。なんでこちらの国が勝ったのか、ということをね。

 そうなったら、ルシフェリアン(というのが本当にいたのならということなんだけれども)たちはどうするんだろう。

 まあ、自分たちが征服する統一政府じゃないから邪魔をするんだろけれども、やっぱり戦争ですかね。

 ただし、どこの国を相手にした?

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 別に意味はありません。アジア的な雰囲気かなというところで。

EPSON RD1s Elmarit 28mm/F2 @立石 (c)tsunoken

2011年12月20日 (火)

『リーダーの値打ち』というよりは、企業組織論だな

 山本「切込隊長」の新著であります。

『太平洋戦争における敗戦についての原因を戦前の政治から戦中の行動原理によって導き出す研究も、随所で行われています。勝ち目でない戦争であると認識していた人たちの意見がなぜ容れられなかったのか、緒戦の優勢をもって戦争を終結させるというオプションは考えられなかったのか、敗勢が見えてきたときになぜ降伏案を受託できず損害が大きくなり続ける状況を止められなかったのか』という「まえがき」の答えは「空気」なのである。そんなことを言い出す空気ではなかった、というのが当時の関係者からの発言なわけなのだが、そんな時にリーダーシップを持った人の出現を待つ、と言うのが本書の基本なのであるが……。

『リーダーの値打ち 日本ではなぜバカだけが出世するのか?』(山本一郎著/アスキー新書/2011年12月10日刊)

 ところでサブタイトルの「日本ではなぜバカだけが出世するのか?」については若干不満がある。つまり、なんで「日本では」なんだろう。だって、アメリカだって史上最大のバカたるジョージ・ブッシュを大統領に選んだじゃないか。単なるパパ・ブッシュの出来の悪い息子でしかないにもかかわらず、アメリカ人は彼を最高のアメリカ人だといって大統領に選んで、そして2008年11月の世論調査で不支持率が76%という、それまで戦後最高の不支持率を誇ったリチャード・ニクソンをも上回る戦後最悪の不支持率を記録し、ツブしたのだった。つまり、選挙で選ばれる政治家は、要は選挙民の民度の問題でしかなく、民度の低い選挙民は程度の悪い政治家しか選ばないということなのだ。

 このことは、小泉郵政選挙で大挙して小泉自民党に投票して、そしてその結果、自分たちが派遣切りに追い込まれて、裏切られたと言っているいわゆる「B層」の人たちとか、2009年の総選挙で民主党に投票して直後に沖縄の基地移転問題やら八ッ場ダム問題なんかで「民主党に裏切られた」といっている人たちを見ればよく分かるように、それは投票する人の民度の問題だということがよく分かるだろう。

 そして、いまアメリカを席巻しているティーパーティーのアホな連中も同じである。自分自身の動きが結局は自分自身の首を絞めることになるにも関わらず、なんであんな行動をとるのだろう。

 とまあ、これはリーダー論ではないので、ひとまずここで措いておくとして、まあ、何故リーダーは劣化するのかということである。勿論、政治家の場合は政治家の劣化イコール支持者の劣化ではあるのだが……。

 とにかく、日本で出世するバカっていうのは、前例踏襲主義の組織論に基づくものなのであるということなのだろう。とにかく失敗をしたくないという心理が前例踏襲に傾く。更に、前任者を否定しないということで、イノベーションを生み出すことの出来ない組織になってしまっていく。

『これら社会や組織の閉塞感を打破し、次なる進歩や成長、改善を生むための土壌を養うには、私は専門性という知識に特化した自己改革、啓発、教育の徹底と、相互に信頼関係を構築し成果を出すための協調性、和の心とをきちんと育み続けることがもっとも大事なことであろうと思います。ある意味で、一億総中流の時代から、一億総専門家へと導いていく社会設計だということです。

 理想論ではなしに、各々のスペシャリティ、専門性を軸にリーダーシップを個人個人が涵養し、専門家として必要な知識を持って、自分の領域を守りながら利益を出し成果をあげていくプロセスは極めて重要です』

 とは言うけれど、我が国の「トップにはジェネラリストを望む組織論」からは、そうした専門性を持った人にリーダーシップを発揮してもらえるような組織観は出てこないのではないか。もしあるとするならば、それは新たに創業する企業のトップにしか有り得ないのではないか。というか、結局、起業家はそうした専門性を持った人たちだし、専門性を持っていなければ起業できない。で、創業者の初代時代はいいのだが、それが2代目以降になって来ると、やはりジェネラリストになったり、オーナー企業じゃないと官僚的な人たちがトップになってくるので、いやでも「前例踏襲主義」に陥ってしまう。

 まあ、その繰り返しなんだろうな。

 それは別に日本だけの話じゃない。例えばアップルだってスティーブ・ジョブズを追い出して、創業者じゃない人がトップになった時に会社はツブれそうになって、ジョブズが戻ってきてから立ち直るような具合に。当然、ジョブズなきアップルでジョブズのようなリーダーシップを発揮できる人は出てこないだろうし、逆にジョブズ的なリーダーシップを発揮しようと思ったら、多分、周囲から猛反発を受けるだろう。唯一のカギは、そんな周囲の反発を跳ね返すような強烈なリーダーシップを発揮することなのだけれども、多分そんな人は、それまでの段階ですべり落とされてしまって、リーダーにはならないのだろう。

 それは、多分マイクロソフトもそうだし、グーグルやフェイスブックだってそうだろう。つまり、創業者がいなくなったときが、その会社が成長をやめるときだろうし、その後はゆるゆると下降を辿ることになる。

 では、そうでなく、何代も経営者が代わっても「もっている」企業はどうなのかといえば、それは強烈な官僚機構を作り上げている企業なのだ。つまり、実際には官僚による共同統治である。そうした官僚機構を作り上げた企業が、何代も生き延びている企業ということになる。勿論、そんな会社に勤めているサラリーマンはかなりの閉塞感を抱くことになるだろう。しかし、そこでそんな閉塞感を脱出するためには、その組織で出世することに血道を上げることになるわけだ。そして、そんな出世競争を繰り広げるたびに専門性は失ってきて、最後にリーダーになったときには完全に劣化した経営者が出来上がるわけだ。

 まあ、そうやって企業は劣化したリーダーを作り上げ、結果として何十年、何百年してなくなるという、企業としての生命を失うということになる。そして、その繰り返しが「歴史」となってくるのだ。

 結局、不断の起業ということでしか、人間社会の歴史は作られることはないという真理がそこにある。

 それでいいんじゃないの? 「永遠」なんてことは人間社会では有り得ないわけなのだから。

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 もしや、という期待もものかは、青の関西学院に対して、赤の日本大学はまさかのノータッチダウンという結果になってしまった。

Nikon D50 Tamron 200-500 @横浜 (c)tsunoken

2011年12月19日 (月)

「"Y"のあるなし」が気になりだして

 昨日に引き続き恵比寿ネタであるが……。

 ところで、「エビス」のローマ字表記に2種類あることは知ってましたか? つまり「エビス・ガーデン・プレイス」ということは「ヱビス・ビール」というか「ゑびす麦酒」の「エビス」は「YEBISU」ですが、「恵比寿駅」や渋谷区の表示では「EBISU」となります。

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 YEBISU(上)とEBISU(下)です。

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 渋谷区の表記はEbisu Garden Placeとなっている。Yebisu Garden Placeの地域表示がなんでEbisu Garden Placeになってしまうのか。双方は違う場所を示しているのか?

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 JR東日本・恵比寿駅はEbisu Stationです。

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 東京メトロ・恵比寿駅もEbisu Sta.

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 アトレ恵比寿もatre EBISUです。

 恵比寿という地名の大本はヱビス・ビールの製造工場があったから。だったら、恵比寿じゃなくて、本当は「戎」のはずだし、そのローマ字表記は「YEBISU」じゃないとおかしいはずである。なぜ「ヱ」が「YE」となるのかといえば、「ヱ」と言う文字が「ワ行」に属するから、で本来は「WE」という表記になるはずなんだけれども、実は古いローマ字表記では「ワ行」であるにも関わらず「ヤ行」の表記である「YE」となるからなのである。これは日本円を「Yen」と表記したり、江戸を「Yedo」と表記するのと同じであります。

 現代のローマ字表記では「えびす」は「Ebisu」なのだが、本来の地域表示では「Yebisu」でなくてはならないはずだ。

 YEBISU BEER側としては抗議をしないのだろうか。

 まあ、どうでもいいことですがね。ちょっと気になる。

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Fujifilm X10 @恵比寿 (c)tsunoken

2011年12月18日 (日)

『ストリート・ライフ』におけるブレ写真について

 東京都写真美術館で収蔵展『ストリート・ライフ』を見てきた。

 トーマス・アナン(英)、ジョン・トムソン(英)、ビル・ブラント(英)、ウジェーヌ・アジェ(仏)、ブラッサイ(仏)、ハインリッヒ・ツィレ(独)、アウグスト・ザンダー(独)という19世紀後半から20世紀前半にかけて活動していた写真家のソーシャル・ドキュメンタリー写真の展覧会(都写美収蔵展)である。

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 19世紀後半から20世紀前半といえば、写真は既に確立された表現方法とまでなっていたが、まだ感光剤の力は弱く、例えば風景写真(特に街角写真)なんかのように手前から奥までにフォーカスをあわせようとするパン・フォーカスを使うためには相当絞りを小さくしなければならない。ということは、当然それだけ露光時間は長くなるわけで、多分当時のISO感度10以下という状況で考えてみれば、数秒以上の露出になったと思われる。

 ということで、この写真展にもそんな写真が多く、遠くに写っている人間はそうでもないのだが、手前の方に写っている人たちはかなりその像がブレている。一番上の写真のようにね。しかし、ブレているということは、そこにはそれだけの「時間」が写っていることなのだ。これは実に面白いことで、現在のISO6400とか12800あたりまで普通に写ってしまうデジタルカメラでは絶対に起こらないことなのである。それらのデジカメで写っている画像は単なる「瞬間」を写し取っただけの「空間」の画像でしかない。しかし、昔の低感度写真ではいやでも「時間」も一緒に写ってしまう。このどちらが「表現としての写真」を考えた場合、上なのであろうか。

 勿論、テクノロジーのおかげで(というか写真術というものがテクノロジーの賜物でしかないのだけれども)とにかく「止まった瞬間」の写真しか撮れないのことがいいのか、あるいは低テクノロジーのおかげで「動いている状況が見える」写真の方がいいのか。それは、見た人の判断ごとでしかないわけなのだけれども、私なんかは「時間が写っている」写真が好きなので、それこそ一番上の写真のように、デジカメであってもあえて低感度を演出して写真を撮りたくなるのである。このブレ加減っていいでしょ。

 勿論、写真というものは基本的にクリアでなければいけない。アウトフォーカス(ピンボケ)、ブレ(手ブレ)、露出オーバー・アンダーは駄目である。しかし、低感度のための対象ブレはOKなのではないか。

 例えば有名なロバート・キャパの「オマハ・ビーチ」(Dデイを撮影した有名な写真)なんかは完全にブレているが、それは手ブレ(も少しは入っているが)じゃなくて対象ブレなのである、と考えることにしよう。キャパの本『ちょっとピンボケ(Slightly out of focus)』だが、しかしそれは「ピンボケ」じゃなくて、「手ブレ」なのである。

 ピンボケは写真として致命的な失敗であるが、手ブレ、対象ブレは問題はない。それこそ、スチール写真が空間だけでなく時間も写し取っているという証拠なのだ。

 ということで、手ブレ、対象ブレを見せる低感度支持! そんな低感度を実現できないデジカメ粉砕! 写真を全人民に解放せよ! だ。

 その意味では、感度をISO100から12800まで、マニュアルで使えるFujifilm X10が高く評価される意味が分かる。

 収蔵展は2012年1月29日まで開催中。

 

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 スリリングな職場ですね。

Fujifilm X10 @恵比寿 (c)tsunoken

展覧会のサイトはコチラ→  http://syabi.com/contents/exhibition/index-1448.html  

2011年12月17日 (土)

『大学キャリアセンターのぶっちゃけ話』だが、もっとぶちゃけちゃった方がいいんでないの?

 まあ、いくつかの大学のキャリアセンターで仕事をした事のある筆者の「ぶっちゃけ本音話」であるわけなのだが。

『大学キャリアセンターのぶっちゃけ話 知的現場主義の就職活動』(沢田健太著/ソフトバンンク新書/2011年10月25日刊)

 私が就職活動をしていた30数年前はキャリアセンターなんてものはなくて、地味~いな就職部というものがあった訳であるが、私自身の就職に関していってしまうと、実は私自身は一般公募があるところしか受けていない、というか学内選考があるような会社には、基本的に学内選考で落ちてしまうことが分かっていた(つまり成績が最低ということ)ので、一般公募で一発勝負というという会社しか受けられないという状況だったので、大学の就職部のお世話にはまったくなっていなかったのである。

 昔はそんな学生が多かった。というか、大学に入っても、殆ど学校に来なかった学生の多かった時代の、まさにそんな学生は、そうした方法でしか社会人になることは出来なかった。逆に、今は学生も結構ちゃんと授業に出席しているようだし、そんな学生には、学校側もキチンと対応しなければならない時代になったのだということだろう。

 まあ、それでも就職できたということは、まだまだ高度成長経済の名残が残っていた1970年代だったということなのだろう。今じゃあ、とってもダメですね。

 で、そんな会社の人事マンが言いがちなセリフというのが第2章に載っている。いわく「どんな方でもいらしてください」だし、いわく「みなさんに来てもらいたいと思います」だし、いわく「いろいろな人に来てもらいたいと思っています」だし、いわく「就職活動に学校名は関係ありません」だし、いわく「ありのままの自分を出してくださいね」だし、いわく「出る杭を求めています!」だし、いわく「オレも学生時代は勉強してなくて」だということ。つまり、そこで学生が学ばなければならないのは「本音と建前は違う」という「大人の社会の常識」なのだということである。つまり、ここに上げられた言葉のすべては「人事サラリーマン」としての建前の発言であり、本音は其の裏側にあるということ。

 つまり、『現実は、ここまで幾たびも指摘してきたように、企業階層を大学階層との間には明らかな相関性がある。入試偏差値の高い大学の学生は希望通りの会社に入りやすいし、低い大学の学生は正規社員として採用されることが簡単ではない』ということ。基本的には学歴格差・大学格差というものは明らかに存在するし、事実、高偏差値大学を出てきた奴は問題処理能力は確かに高い。

 しかし、会社というものは問題処理能力がいくら高くても、新規事業に関する企画力がなければダメだ。その辺になると、大学の偏差値は関係なくなってしまい、あとは個人の能力の問題だけになってしまう。そこで、企業側は先の人事マンの言うような建前の台詞を吐くことになるのであるが、でも、低偏差値大学からは人は採らない。

 12月8日の「『危機の大学論』なんて、そんなに危機なんですか?」に書いたとおり、むしろキャリアセンターの方から学生に対し「そんな会社にウチの大学から受かるわけないじゃないか。それを承知なら受けてもいいけど、結果は知らないよ」というメッセージをキチンと伝えるべきである。

 じゃあ、何故人事マンが低偏差値大学から人を採らないのかと言えば、実に簡単である。要は高偏差値大学から採用した人が実はダメ社員だったとしても、それは採用担当者じゃなくて、その人間が配属された職場の上長の責任になるのに対して、低偏差値大学からさ移用された人が、結局やっぱりダメじゃないかよ、と言う場合は採用担当者のチャレンジはやっぱりダメだった、ということで採用担当者の罰点になるという単純な理由からなのだ。そう、人事マンも所詮はサラリーマンな訳ですからね。

 いずれにせよ、大学キャリアセンターなんてものが「学生の面倒を見る」ために作られたのが間違いじゃないのか? 大学生というのはもう大人だ。そんな大人をまるで子どもみたいに扱って、何から何まで面倒を見ると言う風な大学環境を作ってしまい、その中で「安心して学べますよ」「安心して就職活動ができますよ」なんてことを当たり前のようにしてきてしまった大学側がおかしい。

 だって、大学生って言ったら、2年生になれば20歳を過ぎて選挙権だって得られるのである。そんな、人間をなんで子ども扱いして面倒を見なければいけないのだろうか。「さあさあ、君達は選挙権があるのだから、投票に行こうね。投票用紙の書き方はこう。え? 誰に投票したらいいのか分からない? じゃあ、この人の名を書いときなさい」なんて言うのと、就職活動における過剰な面倒のみかたは、実質的に同じものだ。だって「君は何をしたいの? フムフム、じゃあこんな会社があるし、この位の会社ならウチの大学でも採ってくれそうだから、受けてみないか?」というのと、上記の投票における指導と、実質はまったく同じでしょう。

 これじゃあ、学生は一生乳離れできないままに人生を終えてしまうのではないか、という危惧を抱く。

 もはや、大学生は大人である。大人なら大人らしく、自分の人生は自分で選びなさい。以上、終わり。ということで、学生を突き放しなさい。キャリアセンターなんてものはやめて、昔ながらの地味~な「就職部」に戻すべきだ。

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 特に意味はありません。「歌川国芳展」か。ちょっと見てみたいな、ということであります。

Fujifilm X10 @有楽町 (c)tsunoken

 

 

2011年12月16日 (金)

『セクシャル・ハンター・ライオット』は、まあ、読ませる少年コミックというところですね

 昨日の順番は3番目だったけれども、取り敢えず最初に書いちゃいます。というか、こういう小説って、基本的に「のちのち判断」じゃなくて、読んで速いうちに書いちゃわないと……って、いうことなんですね。

『セクシャル・ハンター・ライオット』(菊池俊彦著/はまじま薫夫イラスト/講談社ラノベ文庫/2011年12月2日刊)

 自ら「ライトノベル」と称する小説を読んだのは初めてである。しかし、講談社にも講談社ノベルスとかX文庫、講談社BOXとか、いわゆるライトノベルに属する作品を発表しているジャンルはあったし、講談社文庫の中にもライトノベル的なものは散見できる。例えば、京極夏彦の「京極堂」シリーズなんて、本はやたら厚いので「重い」けれども、中身の身軽さはライトノベルなんじゃないの、とも思うのだ。

 という感覚で、じゃあ講談社が自ら「ライトノベル」と称して発刊した新シリーズはどうなんじゃい、ということで12月2日創刊の講談社ライトノベル8点のうち、一番エッチそうな『セクシャル・ハンター・ライオット』を選んだのであった。

『(セク)シャル・(ハ)ンター・(ラ)イオット』ということで、要は『セクハラ』小説を狙ったようだ。ストーリーの根底は「夢の世界から人間界を侵食するキリオーネラ(虚夢)」とそれに立ち向かう人間界の「ハンター」との闘いという、基本的にはファンタジーのお話である。しかし、ハンターたちの闘<ちから>というのが、実は<性欲>だったりするところから、お話はファンタジーからは少しずれてくるわけだ。

 ただし、その「性欲」の行く先は、エロマンガとか、エロDVDとか、エロゲーとか、大人の玩具とかの「代理性欲」でしかなく、唯一の「本物の性欲」に近いものが、「同級生の女子高校生のパンツ」なのである。パンツを見せてもらうことでもって性欲<ちから>を与えられた主人公は少しずつ<ちから>を取り戻す。しかし、最大の敵と戦うためにはそんな同級生の女の子のパンツではだめだ! やはり、一番好きなあの子のパンツじゃなければ……というところで、幼馴染のあの子のパンツを脱がせて、それを武器にしてキリオーネラと戦い、勝利する……というお話。

 まあ、単純といってしまえば、ごく単純な話なのだが、多くのジュブナイル小説の単純さとはあまり変わらない。使っている素材が、まあ随分違うことですわね、ということだけでしかないだろう。

 つまり、ライトノベルって、結局は少年漫画の世界のお話なのだろう。つまり、女の子にはおおいに興味はあるし、なんか自分が知らない女の子のことを知りたい、という気分と、さらに女の子の秘められた部分であるところも知りたい、見たい、ということ。で、男子高校生は女子高校生のパンツを見たいのだ。まあ、中学生も同じかも知れないが、それは「中等教育」ということで一緒に。

 ただし、凄いのはここから先で、例えば主人公が「幼馴染のあの子のパンツを脱がせて、それを武器にしてキリオーネラと戦い」というのはいいのだが、じゃあその主人公が幼馴染の子と「○。○○」をするところまで描いているかというと、それはないのだ。

 つまり、これは少年漫画の世界と同じ。主人公の男の子は当然好きな女の子の「ぱんつ」を見たいし「はだか」もみたい。胸がどんな感じで盛り上がっているのかを知りたいし、「あそこ」の構造もどうなっているのかも知りたい。しかし、こんなことは小中学生の男の子の当然の性的欲求なのだ。でも、それが「セックス」に至るまではしない、というのがその年齢の男の子同士の(見えないかもしれないが)約束なのだ。

 そう、つまりラノベであっても、少年漫画であっても、基本的に「自分らの性的欲求の先にはセックスがある」ということは分かっていても、それを表現としてはあらわさないのがお約束なのだ。

 それを含めて「非実在青少年」ってひとくくりにする「東京都青少年の健全な育成に関する条例」って凄いよね。別に、「(主人公たる)青少年」のほうは全然(セックスしようとか)考えていないのに、それ以上に(こいつらセックスしようとしてしまっていると)考えてしまう大人たちって何なのよ。なんだそれ、オヤジのほうがよっぽどスケベということだけじゃないか。と、思ったらそうではない。実は、「東京都青少年の健全な育成に関する条例」を制定する原因になたのは「お母さんたち」だそうなのだ。

 これって、おかしくね? だって、お母さんたちがセックスして、オーガズムを味わったかどうかはしらないが、その結果として受精して子供が生まれたわけでしょう。まあ、そんなことはすっかり忘れて、自分たちの子どもだけはセックスと遠ざけたいのだろうけれども、そうはいかないのですよ。

 結局は、そんなセックスの連鎖があるおかげで、人類は生き延びているわけで……。

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 こんな可愛い女子高校生が「ぱんつ」をみせてくれるってか? なわけないジャン。ねえ、普通は。たとえ「見せパン」履いててもね。

Fujifilum X10 @上大岡 (c)tsunoken

 

2011年12月15日 (木)

駒込駅東口界隈

 さて昨日は会議が21時半までかかってしまって、なおかつ少々お酒(「おささ」と読んでください)をいただいてしまっているので、いつもの「本について書く(「書評」ではない)ブログ」はやめにして、写真ブログです。

 で、昨日は駒込のある場所で開催された会議に参加して、そのまま「ちょっと寄って(酔って?)」帰ってきたわけなのであるが、そのJR山手線駒込駅について書くと、実は駒込駅には南口と東口がある。北口とか西口はない。

 で、その南口は六義園とか古河庭園とか、もうちょっと南の方に行けば東京大学本郷キャンパスがあるという、なんとなく文教地区的な雰囲気の町なのだが、東口にいくと、途端に田端商店街とか霜触商店街とかの下町的な風情の町になってしまい、そのギャップが面白い。

 まあ、単純に言ってしまえば「南口=坂の上の本郷通り」「東口=坂の下の庶民の町」という違いなんだろう。別に山の手でもなんでもないんだけれども、なんとなくお高くとまっている南口、本音で生きる下町、という構図だ。

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 ここが、駒込駅東口から直結している「アザレア通り」居酒屋さんが並んでます。
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 私の馴染の店、焼き鳥屋さんの「松本」という店。前のマンションにいた頃から通っていた。だから、もう10年以上も通っていたことになる。つくねが美味しいし、焼き鳥以外のメニューも沢山あってオススメです。値段も「駒込値段」だからね。
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 この加瀬政という居酒屋も、昔からあった。

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 逆に、こういう「立飲み屋さん」なんかは新参者だ。多分、立飲み屋ブームがあった数年前に始めた店だろう。
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 と言う事で、「手抜き駒込案内」はおしまい。

 さあ、明日からは再び「本について書く(「書評」ではない)ブログ」に戻るぞ。

 で、予告です。

 明日は『大学キャリアセンターのぶっちゃけ話』(沢田健太著/ソフトバンク新書/2011年10月25日刊)

 明後日は『リーダーの値打ち 日本ではなぜバカだけが出世するのか?』(山本一郎著/アスキー新書/2011年12月10日刊)

 明々後日は『セクシャル・ハンター・ライオット』(築地俊彦著・はまじま薫夫イラスト/講談社ラノベ文庫/2011年12月2日刊)

 という予定なんだけれども、さあその通りになるかどうか……。

 本は全部読んでいるのだが、そんな気分になるかどうか。まだ分かりません。

 とりあえず乞うご期待(って、別に期待はしてないか)。

2011年12月14日 (水)

『世界はマネーに殺される』のではなく、それを救うのは日本なのだということ

 基本的に青木氏は「円高容認派」である。というか、容認するにしてもしないにしても、いやでも円高マインドは変わらないのだし、もはやその傾向を云々しても始まらない、ということなのだろう。

『世界はマネーに殺される』(青木文鷹著/扶桑社新書/2011年12月1日刊)

 結局は、金融工学と企業のグローバル化がすべての原因なのだ。金融工学によって『リスクを分散しつつリターンを極大化するという、二律背反の方向性を追求し始めます。その流れをコンピューターの高性能化が後押ししました。より広範囲の事象をより複雑に、より短時間で計算できるツールを手にした彼らは、本来リスクコントロールに使うはずであった金融工学の考え方をさまざまな資金運用や金融商品開発に持ち込んだのです。』と言うとおり『金融工学を応用した金融商品は、安全で高利回りの商品に見せることができました』ということなのであるが、「安全で高利回りの商品」なんてあるわけないじゃないか。それは金融の基本である。安全な金融商品は絶対低利、高利回りの商品は絶対危険なのである。それを「ロー(あるいはミドル)リスク・ハイリターン」なんてのは詐欺でしかない。基本的に金融の世界では「ハイリスク・ハイリターン、ローリスク・ローリターン」というのが当たり前じゃないか、それをそうじゃないような世界を見せるというのは、完全に詐欺の手法なのであります。

 一方、企業のグローバル化はやむをえないリスクの分散化なのだろう。国内だけでは、その高い人件費のためにコモディティと化してしまった自らの製品の国際競争力がなくなってしまった企業は、やむなく人件費の低い国に資本を移転しなければならない。日本は我が国の製品を、しかし輸入して国内販売をせざるを得ないのだ。しかし、これはアメリカが辿ってきた道なのだ。例えばAPPLEがiPadやiPhoneを沢山売っているが、しかしこれは設計はすべてアメリカで行っているが、製造はすべて中国なのだ。アメリカはiPadやiPhoneをすべて輸入しているわけである。つまり、そこで大量のドルを中国に渡しているわけですね。

 しかし、それはしょうがない。中国製の方が安く売れる以上は中国製だっていいのである。問題は、その製品の信頼性をアメリカ本社が保証してればいいんでしょ。日本だってそうである。今でも(というか今は洪水でそれどころじゃないが)ニコンのデジタル一眼レフなんかを見てると「MADE IN THAILAND」という銘が高々と掲げられていたりする。で、何か問題があるかといえば、別にないのだし、故障が起きても日本国内のニコンショップで修理は受け付けてくれる。それでいいのである。それでも高収入の日本人はお金を支払ってくれるのである。アジアやアフリカ、南米の人たちに比べると、まだまだ高収入の日本人なのだから、それをしもアジア人やアフリカ人、南米人に対する一種の支払い(高収入の人たちから、低収入の人たちへの資金の移動)と考えて払えばいいのである。

 円高は、どうしたって世界中の通過の中で「日本円」が一番信用があることの裏返しでしかないわけで、もはや国際決済通貨の立場を辞めようとしている「アメリカ・ドル」や、下手をするともうなくなってしまう「ユーロ」に比べて、「日本円」の世界的な信用の問題なのだろう。とするならば、これから先ももっともっと円は売れ続けていって結局は「1ドル=50円」時代にもなるだろう。

 それはしょうがないじゃないか。

 だとしたら、あとは日本企業としては高くなった円を背景に、どんどん外国の有料企業を買うしかないし、日本人としてはどんどん海外旅行をしたり、外国産のブランド品を買い込むしかないのではないだろうか。もはや、日本人が昔のアメリカ人のように「世界で一番リッチな国民」になって、世界に覇権を轟かせるしかないのだ。

 とはいっても、小心かつ慎み深い日本人だから、昔のアメリカ人のように傍若無人にふるまうような事はしないだろう。企業だって自分が買った企業だから、以降は自分のいうとおりにしないと今の従業員は全部クビ、なんて事はせずに、とりあえず買った企業の文化を守る方向にいくだろう。

 そうやって、日本人の世界に於けるプレゼンスを示していけばよい。そう、田舎者の集大成のようなアメリカ人のようにではなく、おとなしい都会人としての日本人のプレゼンスである。

 つまり、「ちょっとだけ偉そうに。ちょっとだけ金持ちそうに」するだけの、外国人から愛される日本人のままで多分今後もいくだろう。

 そんな、世界から見ても「素敵な日本人」になれる、今は、いい機会なのである。世界中の人から愛される「日本」にいる幸せを感じながら、ね。

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 闌れた感じがなかなか良いでしょ。

Fujifilm X10 @大井町 (c)tsunoken

2011年12月13日 (火)

東日暮里界隈を歩く

 日付が前後してしまうが、12月12日の土曜日には東日暮里に行ってきた。

 これまで日暮里というと駅西口の夕焼けだんだんとか谷中銀座とかいうところに行くことが多かったのだが、久しぶりに日暮里駅東口の方を歩いた。

「ニポカジ(日暮里カジュアルですね)」発祥の町、東日暮里の繊維街とかは今はどうなっているのか……。

 日暮里駅東口は、今は日暮里・舎人ライナーという新交通システムができて大いに変わってしまった。特に変わったのは、駅前の3棟のタワーマンションだろう。これが出来て駅前の風景がまったく変わってしまった。

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  日暮里駅東口。左上に見えるのが日暮里・舎人ライナーの日暮里駅。この電車のおかげで、足立区西側の人たちの足の便はかなりよくなった。右上に少しだけ見えるのが3棟のタワーマンションのひとつ。

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 で、その3棟のタワーマンションのひとつ、ステーションガーデンタワーの場所に以前あったのが「駄菓子屋横丁」という、荒川、足立あたりの駄菓子屋さんへの卸をしていたお店だったのだが、やはりマンションの地権者だったのだろうか、上のほうはお洒落なマンションなのだが、地面にはしっかり駄菓子屋さんが残っているのだ。この村山商店は路面に面しているが、それ以外にもビルの中にはいくつかの駄菓子屋さんが残っている。この辺は、下町らしくていいですね。

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 で、駅前にはしっかり「ニポカジ」の発祥の店「カジュアル ショップ ポップ ガール」が健在である。

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 ただし、もともとの「ニポカジ」の大元にあったのは、この「にっぽり繊維街」なのである。日暮里駅東口を出て、最初の信号がある尾久橋通りから尾竹橋通りまでの短い商店街が、その「にっぽり繊維街」である。尾竹橋通りを左に曲がって少し行くとJR常磐線の三河島駅にぶつかる。従って、11日のブログ写真は本当は@三河島なのだが、まあ日暮里取材のついでなので@日暮里となったわけであります。

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 で、日暮里中央通り(にっぽり繊維街)で目立つのはこうした「ハギレ」屋さんなのである。勿論、普通の大きな繊維とか、それを使った洋服屋さんも多いのだが、やはり目立つのはハギレ屋さんである。

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 こういう、革材専門のハギレ屋さんもある。多分、こうした「ハギレ」が商売になるというのが下町なのだろうな。デザインの良いハギレであれば、それを使ってセンスのよい洋服の一部になるのであるし、デザイン的にも面白い服ができるかもしれない。

 ということで、デザイン学校に行っているような若い女性が多い東日暮里界隈なのである。

 本当に、若い子が多いですよ。

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 で、最近とみに増えているのが、韓国系の飯屋と中国系の飯屋。まあ、荒川区、足立区というのは昔から韓国人、朝鮮人の在住者が多いところだたので、焼肉屋さんが多かったのだが、最近はこの地区も中華飯屋さんが多くなった。

 韓国飯屋さんや朝鮮飯屋さんは昔から日本に住んでいる人たちが経営しているので、割と日本人の舌にもなじめるものを出すのだが、最近の中華飯屋さんはなんか中国人向けの味付けのままだったり、下手をすると中国人の素人料理なんじゃないかというものを出している。

 中国食を食べることはまったく問題はないのだが、しかし日本人は中国人と違って、味は淡白な方を好む。日本に来て中華屋さんを始める人たちにお願いしたいのは、できれば、横浜の中華街で一度食事をしてもらいたいのだ。長年、日本で生活をして日本人の味付けの好みをよく知っている横浜の中華街の人たちの作る中華料理は、もしかすると中国から最近来た人にとっては「これは中華料理じゃない!」というところなのかもしれないが、しかし、日本人の舌に実に合っている中華料理なのだ。

 ようは「ローカライズ」ということが大事だということを、もっと最近日本にきた中国人には知ってほしい。日本製品が世界を席巻したのだって、このローカライズの妙だし、韓流タレントが日本で受けているのも、彼らのローカライズの結果であるのだ。

 まあ、中華思想の人たちにこんなことを言っても無理かも知れないが、ローカライズが外国に行ったときの基本である。

「ローマに行ったら、ローマ人のとおりにせよ」とか「郷に入ったら、郷に従え」なんて言葉は中国にはないのかな。だとしたら、永遠に中国は世界に覇権を轟かせることは出来ないだろう。

Fujifilm X10 @日暮里 (c)tsunoken

2011年12月12日 (月)

アメフト入替戦って、下克上?

 関東学生アメリカンフットボール公式戦の最後になる各リーグの入替戦が10日、11日の両日行われた。

 10日には1部対2部の入替戦一日目が行われ、1部Aブロック7位の東海大学対2部Aブロック1位の上智大学の試合は、上智大学が38対31で上智大学の1部昇格を決め、1部Aブロック8位の国士舘大学対2部Aブロック1位の学習院大学は21対17で学習院大学が1部昇格を決めるという、下克上状態の中、11日の試合が行われた。

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 これは第一試合の、2部の防衛大学校と3部の千葉大学の試合。防衛大学校が勝った。

 11日は、1部Bブロック7位の拓殖大学対2部Bブロック東京都市大学戦、1部Bブロック8位の神奈川大学対2部Bブロック1位の明治学院大学戦が行われた。

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 拓殖大学ラトルスネイクスは関東1部リーグ・リーディングラッシャーで年間1000ヤード超えという記録を残したクォーターバック9番・柳沢拓弥君の自身のランと、ランニングバック10番・田原裕章君のコンビネーションプレーがうまくいって、ランプレーを主体に攻撃を組み立てる作戦。

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 一方、東京都市大学ヘリオスはクォータバック3番・草葉健司君の確実なパスで前へ進む作戦だ。

 が、結局24対23という僅差で東京都市大学がかろうじて勝利し、1部昇格を決めた。

 ポイントアフタータッチダウンという、普通は外すことのないキックを外してしまったのが拓殖大学の敗因であったようなゲームであった。なんでそんなの外すの? という感じ。結局、それでついてしまった差が、最後まで響いたのであった。

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 勝利の瞬間の東京都市大学イレブン。さすがに嬉しそうだ。

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 一方敗れた拓殖大学メンバーは立ち上がる元気もない。そりゃそうだろう、エリアリーグから3部、2部、1部と毎年昇格を続けてきたチームである。それが1部昇格から1年で再び降格というのもツラいよね。

 ということで、こりゃあ入替戦4試合全部「入替」かなと思ったのだけれども、最後の1部Bブロック8位の神奈川大学対2部Bブロック1位の明治学院大学は14対7でアップセットならず、かろうじて神奈川大学が勝って、1部チームの面目を守った。ということで、とりあえず、神奈川大学以外の、上智大学、学習院大学、東京都市大学は、来年秋は新たに初めての1部リーグとの試合に臨むわけだ。それぞれのチームの健闘を祈るのみである。

 一方、この試合で2部に降格したチームも来年は再び昇格するように頑張って欲しい。

 まあ、皆さん頑張ってください。中央大学もアメフトは一部Aクラス常連校だし、野球も東都でとりあえず1部残留できたし、ラクロスは3部から2部に昇格したということなので、これも頑張れよな。

 ということで、関東アメリカンフットボール連盟としては、年明けの「余興」カレッジボウルを残して2011年の公式戦全日程終了。あとは、12月18日の甲子園ボウル「日本大対関西学院大」戦と、年明けのライスボウルを残すだけとなった。

 とりあえず、4年生の諸君はご苦労さん。3年生以下の選手は、来年こそは君達の年にしよう。

Nikon D7000 AF-S Nikkor 70-300 @調布 (c)tsunoken

2011年12月11日 (日)

『絶頂美術館』って、結局はエロオヤジの満足を満たすものでしかないんだよな

「椿事」というのは大体春に起こりモノとばかり思っていてのだが、ここにきて「冬の椿事」が起こってしまった。

 というのも、一昨日のブログのページュー(PV)数が21時を過ぎて突然増えて、21時台462、22時台393、23時台155という具合で、結局一日のPVが1,439というこれまで前代未聞の数になってしまったのだ。それまでの最高PVだって500位だったのがね、突然。

 しかし、一昨日のエントリーは「『なんでコンテンツにカネを払うのさ?』って当然の疑問だと思うけれども、それ以上に「国家論」になってしまうのだな、この結論は」っていう岡田斗司夫さんに関わる文章だから何の関係もないはずだ。ネットでサーチしても分からないで、もう一度過去エントリーを見ると、12月4日に小説版「『インシデント 悪女たちのメス』の本当の悪女は……」という文章を書いていて、その『悪女たちのメス』のテレビ放送が12月9日21時から23時までというのがあったのだ。つまり、テレビ放送を見て、「へ~何これ」と思った人たちが、パソコンを叩いて「おっ、『インシデント 悪女たちのメス』について書いているバカなブロガーがいるぜ」ってなもんで、皆とりあえず読んでみた。しかし、そこに何のコメントもついていないところを見ると、皆ブログは読んだけど、あまりのクダラなさに、そのまま閉じちゃったんだろうな。

 ということなので、本日は別の内容のブログを書こうと思ったんだけれども、とりあえず、本に関する文章でいこうかな、というところで、昨日の分を取り返せるかな。まあ、無理でしょう。

『絶頂美術館―名画に隠されたエロス』(西岡文彦著/新潮文庫/2011年11月1日刊)

 である。要は「名画に隠された、描き手と注文主(パトロンともいう)のエロ(ス)志向」ということでしょ。

 そう、昔からギリシャ神話や聖書から「とってきた」と言う事を理由にヴィーナスとか、ギリシャの神々とか、クレオパトラ(これはちょっと違うが)を脱がせて彫刻にしたり絵画にしたりをやっていた西欧人。しかし、そんな西欧人の「暗い欲望」を白日のものとに西岡氏は晒すのである。つまり『生理的にも、エクスタシーのさなかにある女性の下半身の筋肉が極度に緊張しているのは当然のことで、そり返った足指は、その代名詞ということになる。』ということで、なんで神々がそんなエクスタシーの状況になるのかといえば、それは「神」ではないからだろう。

 つまり、エクスタシーとは普通の女たちが感じる状態であり、情感でもある。それを神々たちが感じてはいけないんだろう、というのが当時の普通の人の感覚ではあるけれども、実際の女たちはエクスタシーを感じるところでは感じるわけであるし、神様であっても「女」である以上、そんな瞬間があってもいいじゃないか、というのが「普通の男」の感覚でもある。

 で、よく見るとこれらのヴィーナスの足指の形は微妙だな。それが西岡氏の言う「エクスタシー」です。

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 で、足指の形でエクスタシーを表現した画家や彫刻家たちの行く末はどうなのか、といえば、それはいずれ神々や聖書に書かれたものじゃない「市井の女のヌード」というところに行き着くわけで、画家はそちらの方にいくようになるのは、しかし、19世紀まで待たなければいけないのだった。

 でも、基本的に絶対必見はこのクールベの『世界の起源』という作品になるのでしょう。

 いまや、こんな程度の写真は当たり前になってしまっていて、ネットにもいくらでもUPされているようなものなのだが、この作品が公開された当時(1883年)は「本当に公開されていれば」凄い反響になっただろう。

 実際には、クールベ自身のコレクションとして描かれたようで、それもクールベの家の隠れ部屋に置かれていたようだ。

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 まあ、そりゃそうだよな。実は世界中の誰もが知っている(童貞のひと以外は)こんな場所の絵を、実は皆見たいと思っているのだが、それを見たいといってはいけない女性の部分ではあるのだ。しかし、やはりそれを見たいと思っている男性はいっぱいいるわけで、そんなところがこの作品を、実は男が皆見たいと思っている感覚なのだ。

 すごいなクールベとだけは言っておこう。

 しかし、本当は人間(女性)というものは、顔がなければどうにもならない存在なのであるから、クールベのこの作品も、やはり顔まで描いて欲しかった、というのが私の結論なのであるけれども、どうだろうか。別に美しい女性でなくてもいい。「身体」には、やはり「顔」が欲しいのだということだけである。顔を見て、初めてその女を好きになれるかどうか、とい事を決めてはいけないのだろうか。女なんてものは、所詮子どもを生む機械なのだという考え方の人がいるそうだが、そう考えている私とは大いに違う考え方で、やはり女は「顔」」だと考えているところなのです。勿論、その場合の「顔」というのは、別に「美しい顔」とか言ってません。言ってみれば「顔の存在感」かな。美しくなくてもいい、「そこにいていい存在である」ということが大事なんでしょう。

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 結局、男って女には「エロ」しか求めないのかな。

Fujifilm X10 @日暮里 (c)tsunoken

 

2011年12月10日 (土)

FUJIFILM X10を買ったyo

 目の濃いブログ読者ならブログ下の写真のクレジットを見て、もう知っているかも知れないが、フジフィルムX10を買った。本木雅弘がCMを演っているヤツである。キムタクじゃないよ。

 コンデジ(コンパクトデジタルカメラ)である。コンデジを買ったのは何年ぶりだろう。

 なぜ、コンデジを買ったのか? それも普通のコンデジじゃない「高いコンデジ」なのか?

 実は半年前ほどから会社のあるホームページの担当になって、毎週本屋さんの店頭を撮影してUPするというお仕事が始まったのだ。勿論、「お仕事カメラ」であれば一眼レフが普通なのだし、我が家にはニコンの一眼デジタルがD50、D100、D7000と三台もあるし、実際D7000を使ったこともあるのだが、重たいし、たかだかホームページの写真なのである、そんなクォリティは必要ない。

 ということで、しばらくエプソンRD1sを使っていた。エプソンならレンジファインダーだし、分からない人から見ればコンデジみたいに見えるかな、と考えていたのだ。とは言うものの、「お仕事」で使うのであれば、レンジファインダーの手動焦点合わせよりはコンデジの自動合焦のほうがラクである。

 と言うところでテレビを見てたらフジフィルムX10のコマーシャルをやっているのを見た。光学ファインダーもあるし、なんかライカみたいだな、というかもうちょっと小型だからライツミノルタCL風か。

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 なんかライカ風(ライツミノルタCL風)でしょ! でも、7.1-28.4mm(35mmフィルム換算で28mm-112mm相当)で、基本的に広角側しか使わないのでOK、それでいてf値がF2.0~F2.8という大口径のレンズがついているとこがいい。本当は、撮影時にはもうちょっとレンズが前に出てくるので、このバランスは崩れます。

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 光学ファインダーの対物側がもうちょっとカメラの右端にくるともっとライカ風になるんだけどな。

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 でも、そうなると接眼側が今度は逆にカメラの真ん中側に写ってしまうんだろうな。要は、それはズーム対応光学ファインダーの宿命ですね。

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 上から見ると光学系がプリズムとレンズで屈折しているのが分かる。コンタックスTVSでもこうだった。しかし、このボデイ上蓋(軍艦部)と下蓋は金属製であるというのもいいね。でも、基本的にはプラスチック製なので軽いです。

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 これまで使っていたエプソンRD1sはデジカメではあるけれども、基本的に金属製カメラなのでライカ並みの重さがある。といっても一眼レフの重さとは全然違うけれどもね。

 しかし、これで元の「散歩カメラ」に戻れるエプソンRD1sなのでありました。フードのひん曲がり方がいいでしょ。いかにも使い込んだって感じのライカ・ズミクロン35mm/F2.0ですね。あ、ライカもM3とM6を持ってます(なんて自慢したりして)。

 これと、下のニコンD7000が現在の私のメイン機材です。もっとも、ニコンD7000は普通は望遠ズームをつけてアメフトのナイトゲーム用に殆どカミサンが使ってますけどね。

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 しかし、上の写真でも写っていますが、このフードの作りって、完全にライカ・コンプレックスの塊ですね。このフードにつけた切り欠きってね。

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 しかし、このライカ似のフジフィルムのフードは上のライカフードと違って金属製でないので、使っていて曲がっちゃうことはなく、割れてしまうのだろう。取り付け金具は金属製なのに残念だなあ。

 ちなみにこのフジフィルムX10は「MADE IN JAPAN」の刻印が押されている。まあ、いずれは「MADE IN THAILAND」になるのだろうけれども。水が引けばね。もしかすると「MADE IN JAPAN」物は高値で取引されたりして。

 で、なんで同じコンデジなのに、普通より高い、コンデジに見えないコンデジにしたのか、って? 

 そりゃあ見栄ですよ。

2011年12月 9日 (金)

『なんでコンテンツにカネを払うのさ?』って当然の疑問だと思うけれども、それ以上に「国家論」になってしまうのだな、この結論は

 そりゃ払いたくないものは払いたくないさ。ただし、払いたくなるようなコンテンツがあれば別だけどね。

『なんでコンテンツにカネを払うのさ?』(岡田斗司夫、福井健策著/阪急コミュニケーションズ/2011年12月7日刊)

 つまり、そういうことなのだ。結局、読者から信頼を集めれられるコンテンツだけが、読者からの信頼を集められる、という二重螺旋のような構造論がそこには成り立つわけなのだ。そこでは当然、読者から信頼される筆者に対してその「信頼の証」としての何らかの支払いが行われるわけだ。つまり、そこでは「著作権」とか言うよく分からない権利の問題としてでなく、その文章を読んで「なるほどな」と感じた人たちの、「気持ちよかった気分」でもって支払われたり、「うーん、これは勉強になった」といったという気分でもって支払われたりする「感謝の気持ち」が、今のとにかく払えよな(というか本を買ったときにいやでも皆払っている)という印税よりは、よっぽど読者の気分にそぐっているのではないかな、という気分である。 

 たとえば、このブログだってなんらのDRMもかけていない。つまり、コピーしたければしたい放題だし、引用したければしたい放題だ。しかし、残念ながらこのブログをコピーする人はいないし引用する人もいない、何故ならあまり読まれていないからなのだ。多くて500人くらいの読者しかいないブログである、「炎上」したこともないし、それくらい殆どの人からは無視されているブログなんだろう。

 それでも毎日300人から500人の人がこのブログを読んでいてくれるのかと思えば、何かそこには「義務感」みたいなものもあらわれ、何か毎日更新しないといけないんじゃないかという強迫観念もある。

 まあ、芸能人のブログは無視して、多分ブロガーの日常なんてものはそんなものでしょう。更新が頻繁なのはリタイヤした人たちのブログ。

 現役のサラリーマンのブログというのはあまり見かけない。 

 しかし、現役サラリーマンのブログに問いかけたい。

 今の政治、税制に対してどう考えているんだよ、ってこと。まあ、確かに私達の世代は「勝ち逃げ」の世代かも知れない。しかし、この世代が何か言わなければ日本は変わらないんじゃないか。円高方向は変わらないと思うし「1ドル=50円」時代も来るって話だけれども、けれども、それ以上に、日本が世界市場や世界政策でもって「モノ」を言わなければならない時代が来たのじゃないかと思うのであります。いまや「円」がアジアでは基軸通貨になっているし、 最早、アメリカの属国から脱した日本と言う国を見たいのであります。

 別に、国家主義者じゃないいけれども。

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Fujifilm X10 Fujinon 7.1-28.4 F2.0-2.8 @有楽町 (C)tsunoken

2011年12月 8日 (木)

『危機の大学論』なんて、そんなに危機なんですか?

 うーん、諸星氏の前著『大学破綻』を読んだときにも感じたのだけれども、とりあえず日本に780校もの大学が必要なのかということだし、そんな多くの大学の卒業生を受け入れる企業なんかない、ということなのだ。大学出の就職難民が出るのは当たり前だし、「ウチの大学を出たからって就職出来るとは限りません」ということを、大学が学生にアナウンスする必要があるんじゃないか。

『危機の大学論――日本の大学に未来はあるのか?』(尾木直樹・諸星裕著/角川ONEテーマ21/2011年11月10日刊)

 ところで、諸星氏はセンター試験の出来のいいやつを使って、大学入試を簡単にするということについて言及するのだが、なかなかそうはいかないだろう。

 なぜなら、例えば2011年入試で一番の受験生を集めた明治大学の場合、受験生総数は約11万4千人、一般入試が受験料35,000円でセンター入試受験料が18,000円、平均して30,000円とすると34億2千万が入試だけで入ってくるお金なのだ。対して、明治大学の年間予算は2005年で426億円というから、年間予算の8%は入試の収入なのである。これは辞められないよね。いつだか、私の母校、中央大学の職員と話をしたときに、「中央ならまだまだ学生は定員通り入ってくるんだから、まだまだ受験者数の低下なんて関係ないんじゃないの?」と言ったときの答えが、上記の「受験料収入も大学の重要な収入源なのだ」ということだった。中央大学あたりでもそんなことなわけなのだから、それこそ早稲田、明治なんて沢山の受験生を受け入れる大学にとっては、もっと重要なことになるのだろう。試験問題を作る大変さは分からないではないが、しかし、それをしも大学の収入源であればこそ、大事なことなのだ。

 諸星氏のいる桜美林大学あたりは、そんなに受験生が多くないだろうけれども、受験生が多い大学は、逆にそれなりの問題も抱えているのである。まあ、贅沢な問題かもしれないけれどもね。

 さらに、諸星氏は言う『大学はその機能によっておおむね三つのタイプに分けて捉えるのが妥当ではないかと考えています。

 まずひとつめのタイプは、世界レベルの研究を支える大学。二つめのタイプは、リベラルアーツを中心とした教育の中で豊かな教養と人間力を磨いたオールラウンダーを輩出する大学。そして三つめのタイプは、国民としてのきちんとした常識と勤労者としての健全な労働倫理を身につけた善良な社会人を育成する大学、ということになるでしょう。』

 しかし、それでも救えない連中が行く大学なんてもの必要なんじゃないか。例えば「シャブ中のおばさんでもはいれる大学」とか「1+1が出来なくても入れる大学」である。諸星氏がいう「三つめのタイプ」が「掛け算、割り算ができない連中を受け入れる大学」なら、いまやそれにもはいれない「箸にも棒にもひっかかれない」連中が行く大学も必要になるかも知れない。親としては「ヤンキーになって遊びまわっているよりはとりあえず大学生になって、普通の人生を送って欲しい」と考えるだろう。勿論、そんな大学は就職なんかは保証しません。勝手にやってください、ってなもんだ。

 そう、企業だって指定校制度があった方が採用事務量は減るし、学生だって無駄にエントリーシートを書いて、始めっから採用されるはずもない企業を志望してがっかりして就職浪人を増やすよりは良いのではないか。いまや、以前は高卒の人たちがやっていた仕事を大学卒がやっている時代なのだ。そうした大学の多様性を認めていながら、一方で就職難を企業の側だけのせいにするのもおかしな話なのであって、企業の側の採用の自由度ももっと増やすべきである。青田買い結構、早い段階で就職が決まってしまうと勉強をしなくなるというのは完全に杞憂にすぎない。勉強をしない学生は始めからしないし、勉強するヤツは就活の最中だってちゃんと勉強はしているのである。そんなものは企業と学生と大学だけの問題でしかない。日本の社会とは何の関係もない出来事でしかないものを、かってに大げさに問題にしているだけなのだ。

 そう、つまり『危機の大学論』とはいっても、それは大学を経営している側の問題であって、それじゃあ倒産する大学が出てしまうったって、そんな大学は倒産しても仕方がないのであるし、そんな倒産するような大学に就学する学生も学生なわけだから、そしたらやむなく別の大学に入学すればいいだけの話である。単純な企業論理でもって大学を作るんだから、それこそ単純な企業論理でもってツブれる大学が出てもいいのである。

 大体、企業だって別に大学になにも期待はしていないのであるからね。

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 立教大学のクリスマスページェントである。さすがに聖公会系の大学である、あまり派手な飾りではない。これが普通の飾り付けである。水平が狂っているのはいつもの通り。まあ、これも大学の姿勢のひとつなんだろうな。

 諸人こぞりて迎えまつれ、であります。

Fujifilm X10 7.1-28.4 @池袋 (c)tsunoken

2011年12月 7日 (水)

すごいイラストレーターを見つけた

 見つけた、といっても、実はあるアニメーション制作会社の社長から紹介されて、それならということで本を買いに行って、見て、ブッ飛んだのだった。

『SHOHEI-57577』(SHOHEI著/ERECT Lab./2011年10月19日)

 しかし、暗いぞ、実に。

 たしかにボールペンと黒マーカー(一部赤マーカー)で書いているイラストはどうしても暗いイメージになる。おまけに、題材が暗いし、描きかたも暗い、というわけでその暗さによる力強さといったものが効果を表して、どこか押しの強さを感じさせるイラスト群である。

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 絵のタイトルは「日本の亡霊:警察官」「日本の亡霊:暴走族」「極東少女」「バッター親分」「極東不良群像 其の二」「巨大鯉魚退治之圖」「グラサンゲイシャ」「男根一輪」「時空を超えた性衝動」「蛸と海女」「極東恋相撲」「憤!」「肉棒天誅殺」といったところ、これはまだまだ描いたもののほんの一部なのだろう。

 SHOHEI氏は2004年頃からアメリカやイタリアあたりでも展覧会を開いている画家なので、いまさら日本で紹介されてもというところなのだろうけれども、とりあえず画集が出版されたのは初めてのようなので、紹介をしておく。

 とにかく、一回本を手にしてください。その力強さにはちょっと負けますがな。

 まあ、彼が某大物漫画家の息子だというのは抜きにしてもね。というか、それを知ってしまうとあまり彼の絵を見る楽しみがなくなってしまう。つまり、ああ、子どものときからああいう絵を見て育つとこういう絵を描くようになるのか、なんてね。

 ということなので、とりあえず画集をみてください。

 ただし、上のAmazonでは今扱っていないようです。ただし、一部のジュンク堂やタワーレコードで買えます。帰る場所はコチラ→ http://www.erect-magazine.com/home/?page_id=49

 ちなみに私はタワーレコードの渋谷店で買った。

 早速、本を開いてブッ飛んだ。

 とにかく、一見をオススメする。

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高田馬場駅前にある芳林堂書店が入っているFIビルというところの地下に昔の高田馬場の写真が飾ってある。どうも、少しずつ変わっているようなので、たまに見にいった方がよいかも。

Fujifilm X10 Fujinon 7.1-28.4mm @高田馬場 (c)tsunoken

2011年12月 6日 (火)

甲州街道、高井戸宿へ行ってみたのだが

 先週の甲州街道内藤新宿に引き続き、今度は内藤新宿が出来るまでは甲州街道の一の宿場だった高井戸宿を訪ねた。

 甲州街道は江戸五街道のひとつとはいえ、この街道を利用した諸大名は信州高嶋藩、信州高遠藩、信州飯田藩の三藩しかなく、甲府には江戸幕府の甲州勤番がいたりして、あまり遠くの大名が参勤交代で使う街道ではなかった、ということもあり内藤新宿もそうだが、あまり大きな宿場はない。

 その辺が、奥州街道(日光街道)の千住宿や中山道の板橋宿、東海道の品川宿といった大きな宿場とは違った部分なのである。

 で、甲州街道高井戸宿は甲州街道(国道20号線)にそって、京王線の桜上水から蘆花公園駅あたりまでの部分であり、その殆どが、現在の国道20号線になってしまっているために、宿場があった当時を思いこさせるものは「まったく」ない。

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 桜上水の駅を出て国道20号線を渡った先にある「宗源寺」この左隣にあった「富よし」に下高井戸宿の本陣がおかれていたということだが、当然いま「富よし」を思い起こさせるものはない。

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 むしろ、甲州街道の裏側にある玉川上水を暗渠にして、現在は公園及び遊歩道になっている場所のほうが、なんとなく昔を思い起こさせるような感じがする。

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 東京都水道局テレメーター送信所というのが、いかにも「玉川上水」という感じがしますね。

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 で、甲州街道と環八の交差点のすぐ西が国道20号線新道(右側)と、甲州街道旧道(左側)の分かれ道があるのだ。このあたりが上高井戸宿で「武蔵屋」という本陣があったそうなのだが、その碑もないし、まったく当時を思い起こさせるものはない。

 いずれにせよ、甲州街道にはあまり大きな宿場はないようで、府中宿なんかは、もともと武蔵国の国府だった場所が宿場になったわけなので、はじめから宿場町としての規模の大きさではないし、八王子宿も絹糸産業との関係で大きな町だったところが、そのまま宿場になったわけなので、これまた高井戸とは出自が違う。

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 なんつったって、一里塚の後もこんな説明版が一枚あるだけで、一里塚後の記念物も何もないのである。歴史の非情さと言ってしまえばその通りだし、それについて何も言うつもりはないのだが、なんかさびしい。

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 東海道には、こうやって昔の一里塚をそのまま残してある場所もあるのだがなあ。(c)Wikipedia

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 いや、まあ「ろか・しか」って言う「語呂」が面白かっただけなので、意味はありません。しかし、ハレーション切りはしたつもりなのだが、この辺はレンジファインダーの限界かも知れない。ファインダーではハレ切り出来てたんだけどなあ。ということで、Summicron 35mmは八枚の絞りなのでした。って、だから何だよ。

EPSON RD1s Summicron 35mm/F2 @高井戸 (c)tsunoken

2011年12月 5日 (月)

「アメフト東日本代表決定戦」って言ってもなあ

 味の素スタジアムで学生アメリカンフットボール東日本代表決定戦、日本大学フェニックス対仙台大学シルバーファルコンズ戦が行われた。

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 とは言うものの、選手数124人という関東最大規模の日本大に対して、31名という少数精鋭で挑む仙台大だ。ラインの選手は殆どOL/DL兼用という感じで、どんどん選手を入れ替えてくる日本大には敵うわけもなく、最後は1年生のクォーターバックやランニングバックを投入してくる日本大が42対0で完勝する結果となった。

 東北学生リーグや北海道学生リーグのレベルは、関東リーグで言うと、3部リーグの下位あたりのチームと同じくらいのレベルなんだろうか。東北福祉大学やら九州の大学が意外と強かったりする、野球じゃ考えられないほどの地域差があるようで、まあ、基本的には選手層の薄さというものがあるのだろうが、それ以上に歴史の差なんだろうな。

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 1回目位はファーストダウンを取れるのだが、2回目のファーストダウンがとれずにパントに追い込まれてしまい、シリーズ終了。その後は完全に日本大ペースで試合が運ばれるという内容で、試合はほとんど仙台大の陣営で行われている感じだ。で、日本大がタッチダウン。その後、日本大のキックオフになるのだが、その後の仙台大の攻撃も2階目ぐらいの攻撃でパント。という繰り返しだ。

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 ということで、まあ仙台大の皆さんははるばる東京までやってきてご苦労さんというところだ。

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 で、試合場を出てきたら、来年のブロック編成のくじ引き結果が貼りだされていた。1部はAブロックが日本大、明治大、東京大、日体大、立教大、一橋大と後は入替戦次第。Bブロックは法政大、中央大、早稲田大、慶應大、専修大、関東学院大と入替戦次第。ということで、来年は中央大vs.東京大の試合はないので、安心して試合を見られるというものだ。

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 ということで家に帰ってきてみれば、西日本代表決定戦も関西学院大ファイターズが中京大レッドパンサーズをこれまた55対6という大量得点差で破って、甲子園ボウル出場を決めている。こちらも関西学生リーグと東海・北陸・中四国・九州との地域差なのだろう。

 まったくなあ。

EPSON RD1s Summicron 35mm/F2 @調布 (c)tsunoken

2011年12月 4日 (日)

『インシデント 悪女たちのメス』の本当の悪女は……

 悪女だから「メス」だろうというくだらない駄洒落はやめます。

『インシデント 悪女たちのメス』(秦建日子著/講談社文庫/2011年11月15日刊)

 脳外科医として絶対の自信を持ち、脳幹部海綿状血管腫手術を脳機能iPS細胞再生術を適用して世界でも始めての手術としておこないたい桧山冬実(仲間由紀恵)には、母を亡くしてからホステスをしながら冬実の学資を出してくれた、アルコール依存症の姉・夏帆がいる。さらに彼女には手術専門の看護師・正木恵がいる。

 手術を受ける伊東さやかには、地的な美人と評判の人気教育評論家であり、一昨年に出版した『学校に人生を預けるな』という自己啓発本が百万部を超える大ヒットになり、以来、テレビ番組の収録や取材が途切れたことのない母、りえ子がいる。

 病院や治療方法の選択に関する意思決定支援や、終末期の患者のためのケアなど、こrまでの医療機関がフォローしきれない部分のサポートをする職業である「医療コーディネーター」中原永遠子(瀬戸朝香)には、脳機能iPS細胞再生術を確立し我が国最高のエリート脳外科医としての地位を不動にしながら、医療過誤の訴訟を起こされ医師を辞めることになった鳴沢恭一や、桧山冬実がいる聖カタリナ総合病院の獲得を狙っている東都国際中央病院の院長・蓮井の姿が見え隠れしている。

 はてさて、この誰が「悪女」なんだろうか。冬実の手術を受けながら死ぬことになってしまったさやかにとっての悪女は誰々。桧山冬実にとっての悪女は誰々。正木恵にとっての悪女は誰々。伊東りえ子にとっての悪女は誰々。中原永遠子にとっての悪女は誰々。とまあ、それぞれの立場になってみれば、それぞれに悪女はいるわけで、じゃあ、だれが一番の悪女なんだよと言われてみれば、誰ともいえない。

 まあ、でもいるんだよな、物語上の最大の悪女が。それは、下の写真に写っているひとのどちらかです。原作を読めばフ~ンってなもんなのだが。

 そうか、そんな悪女の設定もあるのだなと言うところであります。ただし、それが「悪女」と言えるのかどうか、ということになってしまうと、決して徹底的な「悪」と言うわけではない以上、「悪」の設定に対してはかなり微妙な状況になる。

 つまり、今の世の中では「完全なる悪」もないし「完全なる善」もないわけで、結局その「善・悪」の基準なんてものは相対的なものでしかない、というところなのだろう。

 それは、結局今の世の中の反映でしかない、というところなのだろう。今の世の中に「絶対的な悪」や「絶対的な善」というものが存在し得ない以上、虚構の世界にもそれは存在し得ない。というか、そのようなものを物語り上に設定しても、それは見る者の想像を超えてしまうということなのだろう。

 その意味では「神様」とか「悪魔」をだせばすぐさま解決してしまう、中世とは訳が違うということはよく分かってはいるが、それでも明快な「解」を求めてしまう私達には、ますます混迷を深める現代と言うことになってしまう。しかし、そんな明快な「解」なんてものはない、というふうに私達の心を決めてしまえば、「そんなこともあるだろうな」という中途半端な答えでも十分答えにはなるのだ。

 ということで、早いとこ「だれが悪女か知りたい」と言う人は上の原作をクリック。テレビの情報を知りたいという人はコチラ↓ 

http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2011/111027-265.html

 放送は、12月9日21時からフジテレビです。

 ああ、ネタバレしないでよかった……。実は瀬……。

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仲間由紀恵さんと瀬戸朝香さんです。美しいですね。さて、この二人のどっちが悪女なんだろうか。

(c)The icon

2011年12月 3日 (土)

『社蓄のススメ』はなくて「お前も社蓄になれ」って言いたいんじゃないの?

「学問のススメ」は福沢諭吉による「慶応義塾のススメ」でしかなかったわけだが、じゃあ「社蓄のススメ」はなんのススメなのだろうか。って、藤本篤志による「USENのススメ」か? それなら納得。

『社蓄のススメ』(藤本篤志著/新潮新書/2011年11月20日刊)

 そりゃあたしかに、たかだか大学を出たばっかりの若手社員が「自分らしさ」とか「個性」とか言ったって始まらない。取り敢えず、その組織の一員になってみれば、っていうことなのだ。それならよく分かる。「自分らしさ」とか「個性」を発揮するのは、そんな若手時代を終わってからでも十分なのだ。

 例えば、出版社なんかに入ってしまえば、最初は徹夜要員みたいなもので、とりあえずは何でも屋でコキ使われる。だって、新入社員なんてフリー編集者や経験のあるアルバイト以下にしか使えないやつなんだからしょうがないじゃないか、というのがその考え方。そりゃそうだよね。それを「社蓄」と考えるのか、あるいは「経験を積むための徒弟時代」と考えるのかの違いだよね。

 大学を出たからといって、そんなポッと出の人間が企画を出せるわけでもないし人脈もない、まだまだ編集部の力になれる人材ではない。そんな人間は取り敢えず「徒弟」なのであり、そんな「徒弟時代」を経て一人前の編集者になれる(人もいるし、なれない人もいる)と言うわけなのであるから、そこまでの人間は「自分らしさ」とか「個性」なんてものはまったく考慮されないのが、大人の社会なのだ。

 しかし、そんな「徒弟時代」も普通は3年も経てば終わる。その後のジョブ・ローテーションで異動となり、次第に企画が通りようになり、まあ10年もすれば一人前の編集者になるのである(しつこいようだけど、なれない人もいる)。「自分のアタマで考えろ」って言われちゃうんですな。

 それを藤本氏は12年もやれというのである。つまり、大学を出て定年になるまでの37~8年を3で割って、最初の12年が「守」つまり自分のアタマで考えちゃいけない期間、次の12年が「破」でそれを壊す期間、最後の12年が「離」で勝手に自由に考えていい期間だっていう、世阿弥の「守破離」を勝手な解釈で言っているのであるが、そんな「守」の段階だけで12年も使われては、会社はたまったもんじゃない。もうそこで赤字ですね。もっともっと、速く速く「守」の段階を過ぎてもらうように、企業は努力しているのである。

 おまけに12年も「守」をやっていたら、その頃はもはや他の会社では使えない「企業人間」になってしまっていて、転職もできなくなってしまう。転職できなくなれば、そりゃあ確かに「社蓄」になるしかないよな。完璧な「社蓄」。

 それを承知で12年も「社蓄」でいろ、というのは殆ど「ブラック企業」の発想である。まあ、たしかに藤本氏が大学を出て最初に勤務した㈱USENは(藤本氏が入社した時期もまだ)ブラック企業のひとつだったのだ。

 ㈱USENがまだ大阪有線通信会社時代の電信柱無断使用事件は超有名だし、『1977年4月27日の衆議院逓信委員会でも久保等理事(社会党)が「ハエを追い払って一時そのあたりにハエがいなくなったと思ったら、またハエがたかってくるといった、ゲリラ的と申しますか何と申しますか、まことにどうも言語道断な現状にあります」と語るほどの状況であったという』という位のブラックぶりを発揮していたし、FM放送の無断再送信なんてのもあったな。その頃から、有線放送会社ってのは、結構とんでもないブラックな会社なんだなと考えていたのだが、『企業・キャリア情報サイト「キャリコネ」を運営するグローバルウェイが2010年9月21日に発表した「愛社されている企業、愛社されていない企業 主要133社ランキング」において、「愛社されていない企業」部門でワースト1位となった。その理由として、長時間労働を求められる職場環境(どの部署も帰りは終電、場合によっては休日出勤も強制、など)に対して、足切りされる残業手当(一定時間からの超過分は対象とならない)など、過酷な労働条件への不満が見られる』とWikipediaにも書かれている位の企業なのである。

 つまり今でも㈱USENはブラック企業のひとつと言うわけなのだ。まあ、こんな㈱USENで取締役までになった藤本氏だもん、そりゃ「社蓄のススメ」もしたくなるわな。その方が、経営者にとっては使いやすい社員だということなわけなんだし。

 決して、間違ったことばっかりを言っている藤本氏ではないのだが、㈱USENで取締役をやっていたという時点で、人に偉そうなことを言う資格を失っている。というか、元㈱USEN取締役という経歴を消したほうがいいんじゃないのか? 大阪ではOKでも東京では㈱USENって完全にブラック企業扱いですゼ。少なくとも東京の出版社から本を出すときは「元㈱USEN取締役」はやめたほうがいいね。

 ということを、老婆心ながら付け加えておきます。

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 別にこの女性がブラック企業にいる訳ではありません。

Nikon D7000 AF-S Nikkor 18-105 @有楽町 (c)tsunoken

2011年12月 2日 (金)

乙女の工場見学

 そうか、女の子でも「工場萌え」ってあるのかな、と思ったのだが、しかしここで訪ねている工場は、食料品とか人形とか風鈴とか、なんか男が工場萌えする場所とは違うんだよな。もっと、製鉄所とか自動車製造工場とかにいかないと……。

『乙女の工場見学』(かおり&ゆかり著/講談社/2011年11月25日刊)

 行った工場は以下の通り;

キユーピー五霞工場

パソナグループ本部アーバンファーム

石井食品八千代工場

鈴木人形人形工房

丸井伊藤商店信州みそ工場

キッコーマンもの知りしょうゆ館

味の素川崎工場

花王すみだ事業場

篠原風鈴本舗

 う~む、食料品とか人形とか……。

 もうちょっと、自動車とか製鉄所とか家電工場とか、なんかそういう輸出ものを“工場”という言葉からはイメージしてしまうのは、私が男だから? 内需が大事ということはよく分かっている。今の日本を支えているのはこうした内需産業なのである、ということもよく分かっている。 

 NEWSポストセブンによれば『総務省が発表した2009年のGDP(国内総生産)に占める各国の輸出依存度を見ると、韓国が43.4%、中国が24.5%、ドイツが33.6%であるのに対し、日本は11.4%に過ぎない。

日本は輸出の絶対額で見れば中国、アメリカ、ドイツに次いで4位であるが、実はGDPの9割近くを内需が占める内需大国なのだ。G20の国々の中で日本より輸出依存度の低い国は7.4%のアメリカと9.7%のブラジルだけだ。』

 そうなのだ、日本は一時期の「国民総中流化」のおかげで、とても内需の大きい国になっているのである。GDPで中国に抜かれた、韓国に迫られたといっても、結局、国民の生活が向上しているわけではない両国に比べて、日本は国民の生活自体が向上しているので、結果、庶民の生活が苦しくなっているように見えるけれども、中国や韓国の貧しい人たちと比べると、まだまだずっと生活程度は良いのである、平均レベルでは。

 中国なんかは、GDPが日本を抜いたといっても、まだまだ地方に行っちゃうと電気はない水道もないなんてインフラ整備もおぼつかない場所がいくらでもあるし、国民の貧富の度合いなんて日本と比べればとんでもなく広いのである。中国の今後の課題は、結局、北京、上海、福建省なんていうところだけじゃなくて、中国全土を“総中流化”することなのだろうけれども、まあそれは無理だろうな。その前に、革命が起きちゃうよ。

 ということで、かおり&ゆかり姉妹の“内需”発想は正しいのであった。

 おまけに、食料品工場なんかだと「試食」ができたり「お土産」なんかも実際に食べられるものだしね。自動車や製鉄工場ではそういうわけにはいかない。自動車工場に行っても試乗はさせてくれないだろし、勿論、自動車をお土産にはしてくれないだろう。

 うーむ、やっぱり女子は“実利”でいくわけですな。

 それはそれで正しいが、でもやっぱり「工場萌え」ならハードな工場に行って欲しいと思う、オヤジなのであった。

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これも女子力? ってちょっと違うか。みんな可愛いけれどもね。

Nikon D50 Tamron 200-500 @横浜 (c)tsunoken

2011年12月 1日 (木)

『写真の秘密』じゃなくて、写真家の秘密だな

 なんつったって、カバーのブラッサイの自写像がいいよね。三脚に乗せた6×6か6×9サイズの蛇腹式のカメラをくわえタバコで眠そうな目で覗いているのである。いまどき、こんなスタイルで写真をとる写真家なんていません。「お前、もっと真面目に仕事をしろよ」ってなもんですな。

 この写真の如く、素敵な写真を巡るエッセイ集なのだ。

『写真の秘密』(ロジェ・グルニエ著/宮下志朗訳/みすず書房/2011年10月28日刊)

 この素敵なエッセイ集からカメラの名前が題名についているものを取り出すと;

ベビー・ボックス/A・G・F・A/ライカのせいで/新しいアグファ/貧乏人のローライフレックス/「フォクトレンダー」の呪い/女性とライカについてもう一度/オリンパスの白鳥の歌

 ということになる。「フォクトレンダー」といったって日本立憲君主国長野県で作られている「フォクトレンダー」ではない、この「フォクトレンダー」は当然元祖「フォクトレンダー」たるドイツのカメラである。で、このドイツのカメラ群の中で唯一日本のカメラとして上げられているのが「オリンパス」なのである。

『新聞記者をしていたせいで、長年にわたって控えてきた写真の世界に戻ってから、ずっと手元にあったカメラのひとつが、かなり大きな「オリンパス」だった。』というから、オリンパスといっても、オリンパス・ペンやオリンパス35ではなく、6×6や6×4.5のスプリングカメラなのだろう。それにしても、ニコンやキャノンじゃなくてオリンパスというところに、ロジェ・グルニエの趣味のよさが窺える。

 カメラが好き、写真が好きといっても写真家のそれではない。子どものときから写真と付き合ってきたロジェ・グルニエだ。それはフランスの組合制度なのかも知れないが、新聞記者はカメラを持ってはいけないという決まりの中で、カメラマンと一緒に仕事をしながらも写真を撮っていなかったグルニエにとって、新聞記者をやめて作家になったときに、再び自ら撮影をし、文章を書くという作業を再開したときの喜びは想像に難くない。

 そんな時に、普通ならライカかローライフレックス、新しもの好きならニコンかキャノンというところなのだろうが、その時にオリンパスのスプリングカメラというのが可笑しい。というか、この選択に嬉しくなってしまうのは私だけだろうか。作家として当然の収入はあるはずなのに、当時の最高峰のライカやニコンじゃなくて、(多分)中古のオリンパスというところに、この作家の奥ゆかしさというものが感じられる。

 もひとつ、面白いのは19世紀の肖像写真家として知られたナダールの文章を引いた「ひとつの源泉」という章。

『ナダールの場合は、風刺画家としての仕事の助けとして写真技術を習得したことは知られているのだろうか? プロになった連中については、彼は痛烈な皮肉を書き連ねている。

「どいつもこいつも、落伍者や、見限られた連中が、写真家商売を始めたのだ。集金日に時間通りに戻ることを怠ってしまった書記見習い、正しい声が出なくなったカフェ・コンセールのテナー歌手、芸術への懐旧の情におそわれた管理人、こういった連中がみんな芸術家を称しているとは! 落ちこぼれの画家、失敗した彫刻家たちが殺到し、料理人が燦然と輝いているさまも見受けられる。」

 ナダールは、だれでもがそんなふうに「芸術家」になどなれるはずがないと、はっきりわかっていたのだ。

「写真の理論など、一時間で覚えられる。写真の基礎知識も、一日もあれば学ぶことができる。学ぶことができないのは、光の感覚であり、さまざまに組み合わされた光によって生み出される効果を、芸術的に判断することなのだ。またもっと習うのがむずかしいのは、対象を精神的に理解することであり、モデルと一体になるための機転や気働きなのである。そうしたものを学んではじめて、暗室の最低の奉仕者にも手が届くような、乱暴かつ行き当たりばったりに撮った、無頓着そのものの造形的な複製(ルプロデュクシオン)などではなく、もっとも親しみにあふれ、好意にもみちた、親密なる似姿(ルサンプランス)が得られるのである。」』

 そう、私なんかはまさに『乱暴かつ行き当たりばったりに撮った、無頓着そのものの造形的な複製(ルプロデュクシオン)』を撮っている。しかし、それが写真というものなのだ。別に、写真が芸術であるなんてことは考えてはいない。取り敢えず、そこに自分がいたという証明でしかない写真を、多分、私は撮り続けるだろう。

 写真は誰でも撮れる、しかし、芸術写真は誰も撮れない。何故なら、現実社会の一片を剥ぎ取ってくるだけの「写真」が芸術のわけはないだろう。単に、それは現実社会の一片の連鎖であるにすぎない。勿論、その量の多さが芸術に匹敵する人はいるのかも知れないが、多分、それはとてつもない写真の「量」による「重さ」が必要になるはずだ。

 つまり、写真家は沢山の写真を撮ることでしか芸術家たりえないということ。

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 取り敢えず、モノクロにして“芸術写真”っぽくしてみました。じゃあ、これが“芸術”かといえば、そうは言えないですね。単なる“写真”。

Nikon D7000 AF-S Nikkor 18-105 @新宿 (c)tsunoken

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