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2011年10月13日 (木)

『実存と構造』といったって、タイトル自体が構造主義じゃないもんね

 実存と構造と言ったって、それは実存主義と構造主義に関する本ではなかったのだった。

『実存と構造』(三田誠広著/集英社新書/2011年9月21日刊)

 三田誠広は文学者であるから、実存主義文学と構造主義文学を語るというのはよくわかるが、そうだったんだよな、そうではなくて「実存主義」そのものとか「構造主義」そのものというものは、語るということはあり得ないのだろうか。ロラン・バルトのロの字もでてこない「構造主義」に関する書物を初めて読んだ気分だ。

 そう、小説として表象した「実存主義文学」「構造主義文学」ではない、その根底にある「実存主義」「構造主義」について語らなければいけないのじゃないか。そうやって初めて『実存と構造』というタイトルの本ができるはずなのだ。

 たとえば、サルトルについて語るとき、必ず出てくる「アンガージュマン」という考え方である。つまり、それは社会参加をするような形をとらなければ実存に救いはないと考えたサルトルの考え方なのであるが、それがあたかも左翼活動にアンガージュマンすることという風に捉えられているのは実におかしいことであり、右翼にコミットメントする実存主義文学者がいてもおかしくないのである。たとえば小林よしのりなんかはまさに右翼に(本人は右翼左翼という言い方は好まないのであろうが)コミットメントする実存主義漫画家なのではないだろうか。

 一方、構造主義もそうした政治的な党派性からは離れた考え方であり、「構造主義者=左翼」でもなんでもないし、右翼的な構造主義者がいてもおかしくない。

 問題は、日本語においては「○○主義者」というと「共産主義者」「資本主義者」というように、それだけで政治党派性が問われてしまうというような、いびつな感覚があるということなのだ。多分それは戦前の「主義者=共産主義者・社会主義者」という名前の付け方からきているのだろうけれども、何故、そんな70~80年も前の考え方が未だに続いているのだろうか、不思議である。

 フランスではサルトルやボーボワールが(ボーボワールはあんまり活動していないが)左翼活動をしていたから、「実存主義=左翼」という捉え方をしている人が多いが、でもそのサルトルだってフランス共産党とのくびきを斬れずに、結局は1968年の学生闘争では批判を浴びたのだった。まあ、所詮、文学者の政治参加なんてそんなものよ。

 構造主義者なんて1968なんかは、完全無視、というか個人的には参加していたのかもしれないが、自分の研究対象にはまったくやっていないからね。それは単なる「エクリチュール/パロール」の闘いだったなんてね。

 そう、問題はこの「エクリチュール」なのだ。完成された言語体系としての「エクリチュール」に対して、それを壊して新たな「エクリチュール」を獲得すべき「パロール」「ディスクール」の体系はどうなってしまっているかといこといえば、実はどうにもなっていない。

 つまり、日本の(というか日本の状況しか知らないから)文学界では未だ新たなエクリチュールの出現はないのだ。昔から伝えられた方法論でしかない日本小説では、新たな読者は獲得できないだろう。これまでにない方法論で書かれた小説を読者は待っているのではないだろうか。あるいは、待っているだけじゃだめだ、自分で書けよと言ってもいい。

「ケータイ小説」はそんな意味では、かなり期待できるメディアである。であるが、現状のケータイ小説はダメである。何故か、といえば今の社会の秩序とか規範を壊そうとか、そういった社会的なメッセージが全然ないじゃいかよ、別に社会的なメッセージがなくてもいいんだけれども、でも、この小説を発表することで、どこか社会的な変化が起こればいいな、と考えるのが作家ではないのか?

 いいや。今は違うらしい。だったら、お前ら(作家たち)勝手にして、日本人類と世界人類の撲滅に邁進せよ、と負うしかない。

 いまや、日本文学なんてそんなものよ。

 だから、文学者がモノを言いたくなるのは分からないではないが、でも、やっぱり日本文学は衰退するでしょうね。それは、しかたのないこと。

 これからは、日本文学とかいっても「横書き」になるんではないの、もはや「縦書き」に固執する時代は終わっているのだ。そういう、形態からの変化がもしかすると日本文学を変えていく動力になるかもしれない。

 え~『実存と構造』というタイトルからは、随分離れた結論ですが、結局それは、ちゃんと『実存と構造』というところに帰って来る形になんている筈なんだけれどもな。

 それが「構造」というもの。

 

 

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