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2011年8月27日 (土)

アンヌ=マリ・ミエヴィルが気になる人は『ゴダールと女たち』をどうぞ

 結局、ゴダール好きな人達の中では、アンア・カリーナかアンヌ=マリ・ミエヴィルのどちらをとるかということなのだろうな。

『ゴダールと女たち』(四方田犬彦著/講談社現代新書/2011年8月20日刊)

 四方田犬彦氏は「結びに」に書く、『今日の日本(および韓国)では、ゴダールについては二通りの文章しか存在していない。つまり何といってもゴダール大好きという類の、映画オタクたちのだらだらした賛辞が片方にある。そこではゴダールは1960年代のノスタルジアの夕陽に照らし出される、黒眼鏡をかけた英雄である。この一派は「ゴダールはカッコイイ」という言葉に要約されるが、現在のゴダールが60年代とは比較にならないほどポリフォニックで自由闊達な世界に突入してしまったことが、なかなか理解できない。彼らにとってゴダールとは、『ブリキの太鼓』のオスカル君よろしく、子供の時分からいっこうに身長の伸びないアイドル意外の何物でもない。

 だがもう一方に、大真面目な学位請求者たちの書く論文が控えている。彼らはゴダールを現代哲学や主題批評のなかに引き擦り込み、彼が撮った荒唐無稽な作品の数々の間に、厳粛にして精密な一貫性を発見しては悦に入っている。この一派の口癖は、「ゴダールは聡明である」というものだ。オタクと学者というこの二つの派閥は、対立しているわけではない。なかよく棲み分けを行いながら、ゴダールの像を固定化し、昆虫標本ようにピンで刺しては悦に入っている。とはいうものの、カッコよさと聡明さの間の曖昧な中間項が、日本(および韓国)のゴダール論には欠落している』と言う風に。つまり四方田氏は「カッコよさと聡明さの間の曖昧な中間項」として『まったく好き勝手に思いつきで映画を撮っている、癇癪持ちで金にうるさい男』としてのゴダール論を書こうとしたのであり、それがゴダールと40年間もの長きにわたるパートナーシップを保っていて、いまだ続いているアンヌ=マリ・ミエヴィル論としてのジャン=リュック・ゴダール論を書いたのであろう。

『映画への初々しい情熱に溢れた初期から、革命的映画のあり方を問うジガ・ヴェルトフ時代。家族と子供にヴィデオカメラを向けることに夢中だった1970年代中期。そしてより複合的な視座のもとに西洋美術史や新約聖書、オペラにまで物語の素材を求めた1980年代。個人映画と世界映画史の境界を自在に越境するにいたった1990年代。さらにより自由闊達なスタイルのもとにヨーロッパ文明と映像の諸問題を論じる2000年代と、どの時代を取ってもその作品という作品はつねに瑞々しい活力に溢れ、尽きせぬ映画的魅力を湛えている。

 だが問題はここからである。ゴダールの芸術的生涯を区切るこうした複数の時代は、つねにある特定の女神(ミューズ)によって特徴づけられているのだ。彼が長編デビューをするにあたってその霊感の源泉となったのは、アメリカ人のジーン・セバーグである。60年代中期にその画面を飾ったのは、デンマーク人のアンナ・カリーナだった。ジガ・ヴェルトフ時代は亡命ロシア貴族の裔にあたるアンヌ・ヴィアゼムスキー。そして70年代以降のゴダールの遠心力を制御し、フェミニズムと家庭の政治へと収斂させていったのは、アンヌ=マリ・ミエヴィルというスイス人であった。ゴダールはこうして、いかなる時代にあっても正統的なフランス性から逸脱した血筋をもつ女性たち、いうならばフランス社会における(他者としての女)に導かれ、彼女たちから霊感を与えられることで新しい世界へと進展していったのである。一人の女性が去ると次の余生が現れ、これまで彼が知らなかった世界への入り口を指し示す。ゴダールはそうして導かれるままに自己変革を重ね、現在にいたっているのだ。』という、ある意味で幸せな人生。つまりそれは、大島渚によって『(自己変革が)とうてい不可能な女に、自己変革しろと迫るのがゴダールの趣味なのかもしれない。どうもゴダールにはそういう不可能へ寄せる情熱のようなものがある。そして美女たちは結局逃げ、ゴダール自身はそのことによって必然的に自己変革を迫られるという、ゴダール自身にとってはある意味でなかなか都合のいいシステムが出来上がっていて、だから私は、女房に逃げられるという一種の才能もこの世の中にはあると感嘆したのである』と書かれた、特別な才能なのだ。

 つまり、四方田氏はそうしたゴダールの特別な才能から、女を通してゴダールを見るという方法論を選ぶのだ。そうなると、やはりアンヌ=マリ・ミエヴィルを語るということになるのであるが、しかし、ゴダールが付き合ってきた女の中で一番語りにくいのが、実はアンヌ=マリ・ミエヴィルなのである。何故なら、唯一女優でないから、いつもゴダールの撮る映画の画面の中にはいないのだ。たまたまゴダール作品のスチールを担当したことから始まった関係であり、元々シネアストではない。しかし、そのシネアストではない「素人」が実は一番ゴダールとは続いているという事実が面白い。そして、今のゴダールを語るならやはりアンヌ=マリ・ミエヴィルを語らなければならないということである。

 ところで、私は最初の四方田氏の分類でいくと、どちらになるのだろうか。「ゴダール好きの映画オタク」かも知れないが、私が始めて観たゴダール作品が『男性・女性』というシャンタル・ゴヤ主演のアンナ・カリーナ時代末期の頃の作品であり、その後ゴダールは『中国女』の方向へいくのである。従って、私はその後の「変貌し続けるゴダール」が好きで、その変貌のありさまに追いつくためにヒイヒイいいながらついていっている、という状態である。勿論、ゴダール映画に「現代哲学」なんかは求めていない。

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(左から)「男性・女性」のシャンタル・ゴヤ、マルレーヌ・ジョベール、ジャン=ピエール・レオ。シャンタル・ゴヤはかわいかったな

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かわいかったシャンタル・ゴヤをもう一枚

 ゴダールだって基本的には「商業映画」の作り手であり、資本主義社会の中で映画を作っている以上は、作り続けるためには「商業映画」を作るしかないのだ。従って、映画の商業性を認めずに哲学論議をしている学者先生たちみたいにはならないだろう。

 とすると、私も四方田氏と同じような立場でゴダールを見ているのだろうか。というよりも、この3番目の立場でゴダールを見ている人も、結構いると思うんですけれどもね。

 で、アンナ・カリーナ時代のゴダールが一番という人はこちらをどうぞ。「ヌーベル・バーグ」の出所である『カイエ・デュ・シネマ』元同人の山田宏一氏の本です。表紙の和田誠氏のイラストはパリ5月革命のときに、ボリュー16ミリ・キャメラを持って街をうろつく「カッコイイ」ゴダールの姿です。

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