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2011年8月20日 (土)

『大学とは何か』というよりも「大学で何をするのか」ということなのだ

「それでも、大学が必要だ」という主張は分からないでもないが、しかし。

『大学とは何か』(吉見俊哉著/岩波新書/2011年7月20日刊)

 昨日の、J.S.ミル先生の演説文について、いろいろと引用させていただいた吉見氏の本なのである。

 基本的には、中世自治都市あるいは都市国家というものの成立と、ユニバーシティーの誕生がまず最初にある。この当時は、まだ活版印刷という文明が成立していなかった為に、人々はこれら各都市を行き来し、また教師や学生も各都市を行き来しながら、希望の教師に出会ってそこで教師からモノを学んできた。そこで使われる言語はすべてラテン語で統一されていたので、モノを学ぶのになんら問題はなく、それらが大学の中世モデルとして発展した。それが、次に領邦国家から国民国家への流れの中で中世モデルが衰退して、同時に起こったグーテンベルグの印刷革命に対して対応できなかった中世モデルに代わって、国民国家を基盤とした近代的モデル=フンボルト型大学のモデルと、「著者」という名前の知識人の出現があった。その後の、アメリカ型の「大学院を持った大学」のモデルと、印刷革命の大学内部への取り込みがあった。つまり、『近代以降の大学は、第一に、教師たちが出版界の主要な「著者」となることによって、第二に、学生たちが出版された本の主要な「読者」となることによって、第三に、大学が専門的な図書館を備え、大量の出版物の半永続的な収蔵庫となる役割を引き受けることによって、最後に、大学自身が出版社を設立することによって、出版文化との間に相補完的な関係を保ってきた』のである。

 つまり、中世の自治都市というものがひとつのメディアであり、そのメディアの自由の中で大学というものが発展してきたとするならば、グーテンベルグの印刷革命がもたらしたメディアの爆発的発展は、それまで「大学」というものの中に閉じ込められていた「知」というものを、広く大学外の世界にまで広げたといえるだろう。『今後数十年、それどころか数百年にわたり人類が取り組むべき重要課題は、すでにどれも国境をこえてしまっている。環境、エネルギー、貧困、差別、高齢化などから、知的所有権、文化複合、国際経済、国際法秩序まで、すでに学問的課題において国民国家という枠組はまったく前提ではなくなっている。立場の如何を問わず、好むと好まざるとにかあくぁらず、今後、ナショナル認識の地平を超えて、地球的視座からこれらの人類的課題に取り組む有効な専門的方法論を見つけ出すことや、それを実行できる専門的人材を社会に提供することが、ますます大学には求められていくであろう』という時代でありながら、『未来の完全なインターネット社会で、キャンパスと教室、学年制や多数の専任教員を備えた大学は生き残ることはできるのか』という問いはごく自然に出てくるものだろう。勿論、『この問いは、果たして出版社やその編集者が未来のメット社会で生き残ることができるのかという問いと同じ程度に真実味をもっている』。

 そんな自問に答えて吉見氏は『実際、ますます莫大な情報がネット空間で流通し、翻訳され、蓄積され、検索され、可視化されていくなかで、大学にはやがて新しい世代が登場し、彼らは地球上の様々な知識運動と連携しながら新たな知を編集し、革新的なプラットフォームを創出していくことだろう。中世以来の名門大学が近代に生き残ったのと同じように、現代の主要大学はポスト国民国家時代にも生き残るだろうが、その時代には、都市や国家を基盤にするのではない、まったく新しいタイプの大学もデジタル化した知識基盤の上に登場してくる』と自答する。

『大学とはメディアである。大学は、図書館や博物館、劇場、広場、そして都市がメディアであるのと同じようにメディアなのだ。メディアとしての大学は、人と人、人と知識との出会いを持続的に媒介する。その媒介の基本原理は「自由」にあり、だからこそ近代以降、同じく「自由」を志向するメディアたる出版と、厭が応でも大学は複雑な対抗的連携で結ばれてきた。中世には都市がメディアとしての大学の基盤であり、近世になると出版が大学の外で発達し、国民国家の時代に両者は統合された。そして今、出版の銀河系からネットの銀河系への移行が急激に進むなか、メディアとしての大学の位相も劇的に変化しつつある』というのだが、その答えは吉見氏自身にもまだ見えていない。

 しかし、デジタル化ネット化によって「事業としての出版社」は否が応にも変化を強いられるし、一部には事業化を放棄せざるを得ない事態も出現するだろうが、「メディアとしての出版」は、逆に今後ますます大きく発展することが望見されている。大学も同様、「事業としての大学」は変化するだろうし、それこそ「実態として存在する大学」というものが有り得なくなることも予想される一方、『情報技術の発展が「人々がキャンパスにかぎらず、家庭や職場でもどこでも生涯にわたって教育の機会に与することができるという、ユニバーサル・パーティシペイション」を可能にする』ということはおおいにあり得ることだと思うし、『ネットですべての知識が瞬時に検索可能となり、もう大学はいらなくなる』という考え方も、決して悲観論であるともいえないのではないか。

 それこそ『マイケル・サンデルのような「白熱」講義』のような、大学という場でしかできない講義が、これからの大学では必要になるのではないか。デジタル化ネット化によって「ライブ」が復活しつつある音楽の世界にように、そうした「ライブ授業」という、本来の大学の講義が再度見直されていくような気がしてならない。

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