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2011年8月

2011年8月31日 (水)

『「東北」再生』はページ数は少ないが、なかなか読ませる本だ

『かつて東北は、東京にコメと兵隊と女郎をさしだしてきました。そしていまは、東京に食料と部品と電力を貢物としてさしだし、迷惑施設を補助金とひきかえに引き受けている』つまり『なんだ、東北って植民地だったのか、まだ植民地だったんだ』ということである。

『「東北」再生』(赤坂憲雄・小熊英二・山内明美著/イースト・プレス/2011年7月15日刊)

 基本的には、赤坂憲雄氏が東日本大震災復興会議で4月30日に発言した「鎮魂と再生のために」というレジュメ(http://www.cas.go.jp/jp/fukkou/pdf/kousou3/akasaka.pdf)に沿った形での鼎談をもとに、山内明美の『最後の場所(ケガヅ)からの思想』と小熊英二の『近代日本を超える構想力』という論考からなっている本書は、白河以北を改めて辺境=みちのく(道の奥)として再発見されたとし、千数百年前のヤマト王権による「蝦夷征討」があり、近代の初めに於ける戊辰戦争によって薩長によって滅ぼされ、戦後も食料と部品と電力を、東京への貢物としてさしだしながら成り立っている、危うい構造の上の「東北の豊かさ」が、今回の地震とそれに伴う原発事故によって剥き出しにされたとしながら、「(一)風土に根ざした復興と再生をもとめて」と言う提案では「福島県自然エネルギー特区構想」を提案し、そのための方策として「A、放射能汚染を除去するための研究と実践」「B、放射能汚染が人体にもたらす影響の調査・研究と医療の実践」「C、自然エネルギーにかかわる研究と実践」を提案し、「(二)鎮魂と記憶の場の創出のために」では「鎮魂の森から再生の森へ」「東北災害アーカイブセンター」を提案する。

 ちなみに山内明美は、宮城県の被災地出身の現役一ツ橋大学の大学院生であり、どうもこの鼎談の企画者の一人のようだ。

 今回の大震災で、岩手・宮城は地震と津波の被害であるし、これについては三陸海岸に住む人たちはある種覚悟ができていて、復興プロジェクトもどんどん出てきているのに対し、福島県だけは極端に違い、原発の問題がかぶさることによって、まったく復興へと踏み出すことができなくなっている。福島第一原発から20km圏内(という風に円で区切ってしまうのもどうかとは思うが)の人たちが、以前住んでいた場所に戻ってこれるのかどうなのかも決まっていないし、当然、そんな汚染地には戻りたくないという理由から、その地から離れるという人たちへの賠償金や収入補償、土地買い上げ代金などもまだ何も決まっていない状態では、その後の「復興」なんてことは、未だ考える状態ではないと言うことだろう。

 問題は、いまや時代遅れの斜陽産業でしかない「原子力発電」をいまだに「推進」しようとしている電力会社であり、それを後押ししている政府(政治家・官僚)の存在なのだろう。

「日本は世界唯一の核被爆国」という言い方で、世界に類を見ない平和国家という美名の下に、戦後日本は核開発に邁進してきた。それが「核の平和利用」という名前の核兵器開発なのである。それも核兵器製造に必要なプルトニウムを作り出すMOX燃料を使った原発を、これは核融合なので資源的にも有効という理由で推し進めようというのであった。こうして、核開発を行ってきた日本はいまや世界有数の核輸出国なのである。つまり「核兵器」は持たないが、「原発」という「模擬核兵器」のプラント輸出大国なのである。非核三原則や核不拡散条約もものかは、『当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持する』というう1969年の外務省文書の通り、非核三原則は「(核兵器を)持たず・持たせず・持ち込まず」なのだが、それは「核エネルギーの平和利用促進」という美名の下に無視されて、日本は「原発という名の核兵器」の開発に邁進してきたのだった。

 しかし、そんな原子力発電所に関して、1960年代の実験段階から始まって、1970年代にその基本政策が作られたわけであるのだけれども、その当初から指摘されていた廃棄物処理や事故の際の問題などは40年たった現在でも、なお解決していない。つまり、40年かけて研究開発投資をしてもだめだった、もはや時代遅れの技術に基づく斜陽産業でしかないのだ。ところが、いまだにそれを推し進めようとする政府(政治家・官僚)とは何なのだろう。つまりそこにあるのは、経済的合理性ではなく単なる核ルサンチマンでしかないのだ。

 核ルサンチマンとは何か? それは、アメリカに一歩先んじて広島と長崎に落とされてしまった「原爆」のことである。つまり、当時日本でも原子力爆弾の研究は進められていて、多分それは同盟国ドイツの協力もあったのだろうが、日本においてもほとんど完成できる状況にはあったようなのだ。まあ、だから日本政府も広島に原爆が落とされたときも意外と冷静に対処できたのだけれどもね。「新型爆弾」なんていって国民の目を逸らせた状況なんて、まるで今の東京電力と政府経済産業省が作っている「想定外」とほとんど同じ構造である。

 で、アメリカ本土原子力爆弾攻撃のために太平洋横断米本土爆撃機「富嶽」、全長45m、全幅65mというB29のそれぞれ1.5倍という超特大飛行機の設計まではおこなわれていたようだ。まあ、確かにフィリピンあたりから日本に来ればよかったB29に対して、それらの基地を失った日本は、日本本土から発進しなければならず、それで太平洋横断して帰ってこなければならないとなると、それだけ馬鹿でかい飛行機が必要だったのかも知れないが。まあ、それはいいとして、つまりそんな原子爆弾研究者が日本にもいっぱいいたし、それを推進していた人たちもいっぱいいたわけだ。

 ところが、敗戦国日本はまず最初は軍隊を持つことを禁止され、ということは当然、核兵器開発なんかは禁止である。そのための「核開発者」への同情というのもあるだろうが、それ以上に正力松太郎と中曽根康弘という軍国主義者のルサンチマンがあったのだろう。その結果が、「原発という名の原子力兵器開発事業」である。何だよ、結局日本の政治・経済って戦前と何にも変わってないのかよ、というご不満をお持ちの方もあるでしょうが、実はその通りなのであります。

 戦争中の食料管理制度はそのままコメを中心の食管制度になったし、電力だってそれまでの「発電」「送電」勝手にやれば体制から、九電地域独占体制になったのだって戦争中に作られたわけですよ、それがそのまま残ってしまった理由は、多分政府官僚がそのほうが統制しやすいからでしょう。まあ、とりあえず官僚は「統制経済」へと向かう。財界も、ある時期は「統制経済」になった方が既存企業は安泰だからそちらに向かう。労働者なんてものは企業経営者のほとんど言いなりだから基本的には「統制経済」でもって、非正規雇用者から自らの立場を侵されないようにする。もう、皆の(非正規雇用者とかアルバイターとかフリーターとかは除く)雇用は「基本的に正規雇用しか見えません」てなもんだね。

 どうすんの日本、といってしまえばそれはそれで済むのだけれども、そうじゃなくて、そんな状況の中で、はたして我々がなすべきことは何かということなのである。

 いまさら、「反原発」デモに参加してもあまり意味はありません。最早、日本は「脱原発」の方向に国自体が動きだしています。勿論、参加している人たちには別に何も言うつもりもないし、まあ、「政治的に取り込まれないように」というしかないね。電力会社がどういう対応をとか分からないが、いずれ「発」「送」電別会社という、明治の頃の「レッセ・フェール」に戻るだろう。

 もっと、大きい問題は、これからいかにして「東北」を日本の復興の中心地にしていくのかという問題だろう。「自然エネルギー特区」もいい、「東北災害アーカイブ」もいい、それらをどのよに実現していくのかということが問題なんだ。

 もう、強制的に「東北」というのを決めるしかないね。これからの社会投資は「まず東北を決めて」それから別の地域を決めていくというよな、まず「東北にどういった投資を行うのか」ということをいわない限り、企業は地方進出を決められないのです。まあ、でも東北は特区なんだからいいでしょ、昨日の私のブログでは法人税0パーセントだもんね。ってなもんですが。

 はてさて、どうなるでしょうか。東北が今まで通りの東北として、日本の最果ての地区として「みちのく」としてしか残れないのか、もしくは「再生の地」としてこれからの日本の自然再生エネルギー産業地として再生するのか。

 そうしてほしいけれどもなあ。

2011年8月30日 (火)

『日本経済の底力―臥龍が目覚めるとき』といっても、そんなスゴイ論文じゃないんだよね

 学者が書いた本であるし、もうちょっと凄いことが書いてあるのかと思ったのだが、まあ、普通のことですね。

『日本経済の底力―臥龍が目覚めるとき』(戸堂康之著/中公新書/2011年8月25日刊)

 まあ、そう思ったんですよ。

 つまり、そろそろ東日本大震災に関する冷静な判断から書いた本が出版されてもいい頃だろうな、いわゆるジャーナリスティックな視点からワアワア騒ぎ立てるのではなく、ね。で、東大の教授が書いた本なので、それを期待したのだが・・・まあ、私のような素人が考えたのと余り大差がないというのはどういうことだろう。

 論は『第1章 復興と成長』『第2章 経済成長の鍵 その1―グローバル化』『第3章 グローバル化の方策―TPPを中心に』『第4章 経済成長の鍵 その2―産業集積』『第5章 震災前の産業集積の実態』と、実情に対する検証が続き、さすがに経済学者らしい分析ではあるなと思わせるのであるが。

 結局、『第6章 「つながり」と「技術」による集積』『終章 日本人の底力』というある種「文学的」な「つながり」というタームを使用することによって、それまでの経済学的な分析は一切亡きものとされてしまい、「なによ『つながり』って、そんな文学的表現で終わっちゃうの?」というところである。

 で、『終章 日本人の底力』になると、それまで朗々と述べていた経済学的論旨も総て無視して『一つは、企業のグローバル化である。日本が輸出大国というのは間違いで、日本は貿易や海外直接投資から見ても、先進国で最もグローバル化していない国の一つである。しかし、企業はグローバル化することによって生産性を上げ、競争力を伸ばしていくことができるため、日本企業のグローバル化が低調であることが、日本経済が他国に後れをとっている原因になっている。だから、TPPをはじめとするEPA(経済連携協定)を外国と結んで、同時に企業を海外市場とつなげる支援策をも実施することで、貿易や投資を活発化して大幅なグローバル化を進めることが必要だ。

 もう一つは、地方の産業集積の創出である。地域に産業が集積することで、経済活動が効率化して経済成長は促進される。しかし、日本は東京一極集中で、被災地東北を含む地方に十分に産業集積が育っていない。地方に元気がないのが、日本経済の成長の阻害要因になっている。だから、東北をはじめとする各地に特区を設置し、大胆な税制優遇、規制緩和をするとともに、企業、大学、自治体とのネットワークを強化する施策が必要である』って、ほとんどこの本全部を通していっていることをまとめただけじゃないか。つまり、本書にかんしては、この『終章』だけ読んでればよろしい、と言う事になってしまうのだ。

 うーん、基本的にはイイことが書いてあるのだがなあ。

 基本的に言いたいことは「東北地方特区」だろう。本書115ページの地図にもあるとおり、これは自動車関連企業の問題なのだけれども、それ以外の産業も、そのほとんどが高速道路周辺に位置しているのだ。勿論、それは物流のことを考えての措置なのであるけれども、「地震」というよりも、その二次的災害であるところの「津波」にやられた沿岸地区にはほとんど自動車関連企業はないのだ。多分、これは電器関連でも、IT関連企業でも、同じだろう。要は、いまや経済は「物流」で動いているのだ。「物流」と関連ない沿岸地方は、海産物やら観光やら、なんかやらだけで暮らしている、言ってみれば過疎の村みたいなものなのである。

 勿論「過疎の村」には、それはそれなりの面白さがあって、その面白さをちゃんと主張できる部分があれば、それは観光資源にもなるのだが……。

 つまり、こうした「高速道路周辺に集積する新型の企業(工場)」と、沿岸地域にある「旧来の産業・工場」を如何にすれば、その相互交流が生まれるかということなのだ。それを可能にするのは、あるいは可能ならしめるため、ひとつには「特区」構想としての法人税ゼロ構想ではないだろうか。そう、東北地方は法人税0パーセントにしてしまうのだ。法人税緩和というのは今までの特区構想でもあったけれども、0パーセントというのは、世界中どこを見てもないだろう。多分、時限立法にしかならないだろうが、これは企業にとってはかなり魅力があるのではないだろうか。

 だって、東北地方に本社を置けば税金を払わないでいいんですよ。まるで宗教法人だよね。もう、世界中から企業が本社を置きたがるんじゃないの。勿論、登記上の本社じゃだめですよ。ちゃんと本社機能があるオフィスがなければ駄目というところで。そう、日本会社「宗教」法人です。そんな法人税ゼロにしちゃったら、税収がなくて困ってしまうじゃないか……ということもなくて、結局その企業に勤めてる人たちは、やはりその企業の本社のある場所に異動するだろうから、そこでの所得税(これは国税だけど、そこから地方還付税があります)や住民税は取れるわけで、あと足りない部分は消費税あたりで賄えばいいんでないの。

 そうすると、東北地方にどんどん会社が来てしまう。それこそ仙台あたりが経済都市として、とてつもなく大きくなってしまうかも知れないのだ。で、適当な時期に、少しづつ法人税を上げるというのはどうかな。まあ、その辺は状況を見ながらでいいのでしょうが。

 で、すこし会社がいなくなって、人が減ってラクチンになった東京が政治都市として首都機能だけを持つってのもいいのかもよ。ようするに、経済都市としても政治都市としても、機能しなければならない(最近は最早その機能もだめになっているのでは、という気持ちもあるが)という、今の東京がいびつなんだって。

 ついでに、政治首都機能も仙台に持ったかれたらどうすんのよ、って? そんなの、もっと楽じゃん。それこそ、戦国時代に伊達政宗が政権を取ってればそういうふうになっていたわけで、全然問題はない。たまたま、徳川家康が勝っちゃったから、その後の300年の徳川時代が始まったわけで、伊達幕府が100年位続いて、その後、誰が政権取っても、多分世の中の進展にはあまり関係なかったような気がするのだ。いずれにせよ、19世紀には日本が鎖国を解くしかなかったんだよね、ということで。

 ということで、ちょっと横道にズレてしまったが、要は、日本(中小)企業のグローバル化、集積化、そして対外投資の積極化しか日本の生きる道はない、というのは賛成。ただし、それを言うためだけに中公新書一冊分を使わなくてもいいでしょ、というのもある。

 まあ、学者の論文なんてこんなものか、と言ってしまえばそんなもんだが、基本的な間違っていないことを言っている筈の戸堂氏、もうちょっと進めた論議を期待したい。

2011年8月29日 (月)

阿波踊りの朝に思ふこと

 8月27・28日は高円寺の阿波踊りである。

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 JR高円寺駅前は、ねじめ正一の小説で有名な「高円寺純情商店街」をはじめ、PAL、ルック、中通り商店街などの大きな商店街がいっぱいあり、なおかつどの商店街も人、人、人で溢れかえっている。なかでも純情商店街などは、お隣の西武新宿線野方駅まで繋がる大商店街を形成しているのだ。

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 そんな盛んな活動を行っている商店街が集まっているからこその、阿波踊り大会なのだろう。

 今年の高円寺阿波踊りは節電を意識して、通常は夕方からスタートするところ、午後3時スタートということで昼間の開催となった。とは言うものの、午前中はまだのんびりと祭りの準備なんかをやっている。

 祭りの最中もいいけれど、意外とこの祭りの後や祭りの間の時間というのも面白くて、倦怠感と期待感が入り混じった奇妙な時間が過ぎていくのである。

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「連」の準備をする人たちも、どこか倦怠感が漂う。

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 とは言うものの、この時間から場所取りで待ち構えている人たちって、すごいな。それともよっぽど暇なのか。あと何時間待てばよいのだろうか。

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2011年8月28日 (日)

tsunokenの昔の映画評に「寓話的ことば・沈黙・暴力論」をUPしました

tsunokenのブログの右にあるリンクからお入りください

結局、小田原酔っ払い道中記とあいなりまして

 ということで8月26日のエントリーに従い小田原へ行ってきた。

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 ただし、今回は小田原城へは登城せず。もう何回も行ってるしね。

 ただし、今小田原城では「小田原城跡本丸・二の丸植栽管理計画」というのがあって、要は、小田原城の様々な木々の根がいろいろ伸びてしまい、その結果、小田原城の遺構を(例えば、石垣の一部なんかを)壊してしまっているという問題があって、それを解決するために小田原城の木の一部を抜いてしまおうという計画なのだ。その計画の矢面に立っているのが小笠原清氏といって、実は故・小林正樹氏の映画『東京裁判』の監督補佐をやっていた人が、その当事者なのだ。まあ、私はその縁で知り合いなのだが、小笠原氏は小林正樹氏の他、大島渚氏の『新宿泥棒日記』『無理心中 日本の夏』なんかの助監督もやっている、助監督のプロみたいな人である。結構、コワいオッサンなのである。

 一方で、それを阻止しようとする人達がいて、伐採推進と反対の運動が起きている。当然、小田原市は伐採推進の立場なわけで「小田原城跡本丸・二の丸植栽管理計画」というものを作っているわけだが、その計画の代表者に何故か小笠原氏がなってしまっていると言うわけなのだ。反対する人たちは、自然に生えた木々を倒すのはいかがなものか、という立場なわけなのだが、もともと小田原城に「自然に生えた木々」なんてものもある筈もなく、人が植林した木々だけしかないのだが、何故か、反対運動をしている人たちにとっては、それをしも自然に育った木じゃないか、というわけだ。TBSの『噂のTOKYOマガジン』なんかにも取り上げられて、小笠原氏が何か悪者にされてしまっているのが面白い。

 まあ、そんな面倒なことは小笠原氏に任せておいて、私は小田原城のちょっと先にあるはずの「株式会社ういろう」を目指す。

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 で、小田原城をちょっと先へいったところ、国道1号線沿いに目指す小田原城天守閣、じゃなくて「株式会社ういろう」はあった。店の看板に「ういらう」と書いてあるのは当然のこと、何せ創業600年だそうなのだ。そのういろうの袋に書いてある言葉によれば『この「お菓子のういろう」は約600年前、吾が外郎家の先祖が京都在住の時代、自ら作って客の接待に供したものであります。これが名薬「透頂香ういろう」の苦い味と対照が良かった為か、忽ち、朝廷、幕府を始め、当時の貴紳の前に評判となり、依頼に応じては作って供したものでありますが、求める人が益々ふえるので後に販売する様になったものであります。

 ご祝宴に、お茶席に、お子様に、ご産婦には何よりのものです。栄養価が高く、而かも胃腸に障らぬお菓子です。素朴で気品のある淡雅な味をご賞味ください。』と書いてある通り、名古屋の青柳ういろうや大須ういろは本物じゃないということなのだろう。

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 で、食べてみれば、実に「ういろう」としか言いようのない、まあそういう味だ。

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 で、こちらが歌舞伎十八番に出てくる「外郎売」の「ういろう」。つまり、「透頂香」である。「懐中必携之霊剤」という文字も凄いが、なにしろ「外郎藤右衛門」という名前が凄い。要はこの藤右衛門さんが「透頂香」を作ったわけね。効能を見ると『腹痛、下痢、渋腹、胃痛、胃痙攣、慢性胃腸炎、食中毒、吐寫、吐気、酒の悪酔、便秘、食慾不振、消化不良、頭痛、眩暈、心悸亢進、息切、声の嗄れ、発声適度、咽喉痛、咳、淡のつかえ、心臓補強、気付、船車飛行機の酔、山の酔、日射病、夏負け、寒さまけ、疲労恢復、歯痛、口中の疫病、其他広く急病に用ひ、又強壮薬として常用す。』とある。つまり、ほとんどの普通の病気には全く大丈夫という万能薬なのだ。

 勿論、こんな万能薬が今の薬事法では適用にならないので、多分、健康剤としてしか通用しないのではないだろうか。ういろうでは、当然薬事法適用薬も売っており、お菓子のういろうの裏側には、しっかり薬剤ルームがある。

 つまり、薬屋さんとお菓子やさんが同居しているというのが株式会社ういろうであり、それは昔の外郎家の時代から変わらないのであろう。すごいなそれも600年ですよ

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 で、昼食は「松琴楼」という老舗風のうなぎやで食べた。老舗とはいっても、そんなにうるさそうな店でもなくて、皆さん割りかし普通に入ってきます。

 私は、蒲焼とお新香、骨焼き、塩辛に日本酒という組み合わせでいただいたのであるが、他の皆さんはだいたいビールである。まあ、それだけビールという飲み物が日本の飲み物になったということなんだろうけれども、普通は蒲焼ならお酒ですよね、普通は。

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 まあ、おまけの鈴廣の蒲鉾です。この板についているのが、お魚なの? と言えれば、あなたも立派に「かまとと」です。

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2011年8月27日 (土)

アンヌ=マリ・ミエヴィルが気になる人は『ゴダールと女たち』をどうぞ

 結局、ゴダール好きな人達の中では、アンア・カリーナかアンヌ=マリ・ミエヴィルのどちらをとるかということなのだろうな。

『ゴダールと女たち』(四方田犬彦著/講談社現代新書/2011年8月20日刊)

 四方田犬彦氏は「結びに」に書く、『今日の日本(および韓国)では、ゴダールについては二通りの文章しか存在していない。つまり何といってもゴダール大好きという類の、映画オタクたちのだらだらした賛辞が片方にある。そこではゴダールは1960年代のノスタルジアの夕陽に照らし出される、黒眼鏡をかけた英雄である。この一派は「ゴダールはカッコイイ」という言葉に要約されるが、現在のゴダールが60年代とは比較にならないほどポリフォニックで自由闊達な世界に突入してしまったことが、なかなか理解できない。彼らにとってゴダールとは、『ブリキの太鼓』のオスカル君よろしく、子供の時分からいっこうに身長の伸びないアイドル意外の何物でもない。

 だがもう一方に、大真面目な学位請求者たちの書く論文が控えている。彼らはゴダールを現代哲学や主題批評のなかに引き擦り込み、彼が撮った荒唐無稽な作品の数々の間に、厳粛にして精密な一貫性を発見しては悦に入っている。この一派の口癖は、「ゴダールは聡明である」というものだ。オタクと学者というこの二つの派閥は、対立しているわけではない。なかよく棲み分けを行いながら、ゴダールの像を固定化し、昆虫標本ようにピンで刺しては悦に入っている。とはいうものの、カッコよさと聡明さの間の曖昧な中間項が、日本(および韓国)のゴダール論には欠落している』と言う風に。つまり四方田氏は「カッコよさと聡明さの間の曖昧な中間項」として『まったく好き勝手に思いつきで映画を撮っている、癇癪持ちで金にうるさい男』としてのゴダール論を書こうとしたのであり、それがゴダールと40年間もの長きにわたるパートナーシップを保っていて、いまだ続いているアンヌ=マリ・ミエヴィル論としてのジャン=リュック・ゴダール論を書いたのであろう。

『映画への初々しい情熱に溢れた初期から、革命的映画のあり方を問うジガ・ヴェルトフ時代。家族と子供にヴィデオカメラを向けることに夢中だった1970年代中期。そしてより複合的な視座のもとに西洋美術史や新約聖書、オペラにまで物語の素材を求めた1980年代。個人映画と世界映画史の境界を自在に越境するにいたった1990年代。さらにより自由闊達なスタイルのもとにヨーロッパ文明と映像の諸問題を論じる2000年代と、どの時代を取ってもその作品という作品はつねに瑞々しい活力に溢れ、尽きせぬ映画的魅力を湛えている。

 だが問題はここからである。ゴダールの芸術的生涯を区切るこうした複数の時代は、つねにある特定の女神(ミューズ)によって特徴づけられているのだ。彼が長編デビューをするにあたってその霊感の源泉となったのは、アメリカ人のジーン・セバーグである。60年代中期にその画面を飾ったのは、デンマーク人のアンナ・カリーナだった。ジガ・ヴェルトフ時代は亡命ロシア貴族の裔にあたるアンヌ・ヴィアゼムスキー。そして70年代以降のゴダールの遠心力を制御し、フェミニズムと家庭の政治へと収斂させていったのは、アンヌ=マリ・ミエヴィルというスイス人であった。ゴダールはこうして、いかなる時代にあっても正統的なフランス性から逸脱した血筋をもつ女性たち、いうならばフランス社会における(他者としての女)に導かれ、彼女たちから霊感を与えられることで新しい世界へと進展していったのである。一人の女性が去ると次の余生が現れ、これまで彼が知らなかった世界への入り口を指し示す。ゴダールはそうして導かれるままに自己変革を重ね、現在にいたっているのだ。』という、ある意味で幸せな人生。つまりそれは、大島渚によって『(自己変革が)とうてい不可能な女に、自己変革しろと迫るのがゴダールの趣味なのかもしれない。どうもゴダールにはそういう不可能へ寄せる情熱のようなものがある。そして美女たちは結局逃げ、ゴダール自身はそのことによって必然的に自己変革を迫られるという、ゴダール自身にとってはある意味でなかなか都合のいいシステムが出来上がっていて、だから私は、女房に逃げられるという一種の才能もこの世の中にはあると感嘆したのである』と書かれた、特別な才能なのだ。

 つまり、四方田氏はそうしたゴダールの特別な才能から、女を通してゴダールを見るという方法論を選ぶのだ。そうなると、やはりアンヌ=マリ・ミエヴィルを語るということになるのであるが、しかし、ゴダールが付き合ってきた女の中で一番語りにくいのが、実はアンヌ=マリ・ミエヴィルなのである。何故なら、唯一女優でないから、いつもゴダールの撮る映画の画面の中にはいないのだ。たまたまゴダール作品のスチールを担当したことから始まった関係であり、元々シネアストではない。しかし、そのシネアストではない「素人」が実は一番ゴダールとは続いているという事実が面白い。そして、今のゴダールを語るならやはりアンヌ=マリ・ミエヴィルを語らなければならないということである。

 ところで、私は最初の四方田氏の分類でいくと、どちらになるのだろうか。「ゴダール好きの映画オタク」かも知れないが、私が始めて観たゴダール作品が『男性・女性』というシャンタル・ゴヤ主演のアンナ・カリーナ時代末期の頃の作品であり、その後ゴダールは『中国女』の方向へいくのである。従って、私はその後の「変貌し続けるゴダール」が好きで、その変貌のありさまに追いつくためにヒイヒイいいながらついていっている、という状態である。勿論、ゴダール映画に「現代哲学」なんかは求めていない。

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(左から)「男性・女性」のシャンタル・ゴヤ、マルレーヌ・ジョベール、ジャン=ピエール・レオ。シャンタル・ゴヤはかわいかったな

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かわいかったシャンタル・ゴヤをもう一枚

 ゴダールだって基本的には「商業映画」の作り手であり、資本主義社会の中で映画を作っている以上は、作り続けるためには「商業映画」を作るしかないのだ。従って、映画の商業性を認めずに哲学論議をしている学者先生たちみたいにはならないだろう。

 とすると、私も四方田氏と同じような立場でゴダールを見ているのだろうか。というよりも、この3番目の立場でゴダールを見ている人も、結構いると思うんですけれどもね。

 で、アンナ・カリーナ時代のゴダールが一番という人はこちらをどうぞ。「ヌーベル・バーグ」の出所である『カイエ・デュ・シネマ』元同人の山田宏一氏の本です。表紙の和田誠氏のイラストはパリ5月革命のときに、ボリュー16ミリ・キャメラを持って街をうろつく「カッコイイ」ゴダールの姿です。

2011年8月26日 (金)

『神奈川県謎解き散歩』はガイド本としては充分すぎる

 神奈川県お出かけ本なのだろうか。でも、温泉まで。丹沢なんかの山までは無理という話だ。

『神奈川県 謎解き散歩』(小市和雄編著/新人物文庫/2011年7月12日刊)

 もともと『神奈川県の不思議事典』と題されて出版されていたものを、改題し、新編集して出された文庫版である。さすがに新人物往来社だけあって、昨今の「簡単お出かけ本」にはない奥深さがある。

 そこで、この本を読んで分かったこと、その1:「外郎売」のういろうは名古屋じゃなくて小田原のことだった、ということ。なんとなく、ういろうと言えば名古屋の専売特許かなと思っていたのは、私が名古屋に数年暮らしていたからなのだろうか。青柳ういろうに大須ういろ、というそれこそ「ういろう」というネーミングを巡って裁判まで起こしたほどの、名古屋の代表的なお菓子である。ところが、考えてみれば歌舞伎十八番「外郎売」には「御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町を御過ぎなされて……」という台詞(外郎売の長広舌)があるとおり、小田原の名物なのであり、実際に小田原市には「株式会社ういろう」という会社まであるのだ。さらに、「ういろう」というネーミングは株式会社ういろうの前身である「外郎家」から来ていたのだった。

 ただし、歌舞伎のういろうはお菓子じゃなくて薬であった。ただし、お菓子のういろうを作っていた外郎家が作った「透頂香(とうちんこう)」という万能薬。で、その万能薬である透頂香を売り込む台詞が「外郎売」の長広舌であり、「透頂香つまり外郎」という台詞になってういろうの名が出てくるのであった。

 株式会社ういろうでは、今でもこの透頂香を作っているし、同時にお菓子のういろうも作っているのだ。

 もうひとつの、この本を読んで分かったこと、その2:板付き蒲鉾は小田原から広まったということ。なんとなく(これも「なんとなく」なのだ)、蒲鉾と言えば普通「板付き」でしょう。だって、「かまとと」なんて言葉もあるくらいだから、と考えていたのだけれども、確かに仙台に行けば笹蒲鉾だしなあ。板は付いていないしなあ。

 勿論、蒲鉾と竹輪は同根である。ただし、白身魚をすり身にして、板に乗せて蒸したものが「蒲鉾」、串に巻いて焼いたのが「竹輪」である、と考えていたのだが、古くは小田原の蒲鉾も串に巻いて蒸していた物だったようで、その形が蒲の花の穂に似ていたところから「かまぼこ」と呼ばれるようになったということだ。まあ、確かに「板付き」では「蒲の花の穂」とは似ても似つかない姿である。

 そんな蒲鉾が今のような板付きとなったのは明治の頃からと本書には書いてある。つまり「かまとと」という言葉も明治のどこかから言われ始めたのだろう。で、早速ネットで調べたら<幕末の花柳界で普及したことから女性を対象に使われたかまととは、後に「うぶを装うこと」や「うぶな人(この場合『かまとと女』ともいう)」という意味で使われるようになる>なんて書いてある。なーんだ、やっぱりネットはいい加減だなあ、なんて考えたのだが、そうか、それは板蒲鉾について発言じゃないのか、ということである。てっきり「あの板に乗っているのがお魚なの?」というのが「かまとと発言」かと持っていた私がバカなのね。

 とまあ、「小田原ネタ」だけでやってしまった私のお話しであるが、勿論、それだけじゃない。「神奈川県の県民性」から「中世の鎌倉編」「横浜と文明開化」「考古・歴史・人物編」「文学編」「宗教・地理・産業編」「自然編」と網羅的である。網羅的な分、ひとつひとつのテーマについては浅い知識しかつかないが、まあ、神奈川入門編ならこれで充分。

 とりあえず、この本もって週末は小田原あたりにでも行こうかな。小田原城もまた見てみたいし……でも、まだ暑そう。

 さすがに神奈川県最大の書店・有隣堂では文庫部門8位でありました。

2011年8月25日 (木)

『30分の朝読書で人生は変わる』ほどでもないと思うけれど

 30分の朝読書なんて、まるで小学生みたいだが、書かれていることは事実だ。

『30分の朝読書で人生は変わる』(松山真之助著/中経出版/2011年7月30日刊)

 それにしても片道2時間、往復4時間という通勤時間があれば本1冊を読むには充分な時間があるわけで、いっそのこと始発の電車に乗って、毎日1冊の本を読み、その感想を毎日メールで書いたという松山氏の行動は、実際腑に落ちる。で、若い頃の私がそれをやったかというと、さてどうだろう。

 今なら、私も毎日1冊の本を読み、その感想をブログに書くということをやっているわけで、この著者と同じことをやっているわけだが、ただし通勤時間は40分位なので、通勤時間で本を1冊読めるわけではない。以前は外回りの仕事をしていたので、その移動時間が結構読書時間として使えたが、今は内勤になってしまい、結構、読書時間を捻出するのに苦労をしている。それでも読書とブログをやめないのは何故だろうか。大体、毎日私のブログを読んでくれている人が約300人いるわけだが、その人たちに対する責任感? う~ん、ちょっと違うな。まあ、感じていないでもないが、基本的にその人たちからお金を取っているわけでもないし、毎日楽しみにしている(?)人たちに対する使命感のようなものは多少はあるが、別に責任は感じてはいない。

 むしろ私の場合は、ブログを書くために、そのネタとして本を読んでいるという部分があって、ブログのネタになるのであれば、本でも映画でも写真でも何でもいいのだ。ただし、テレビ・ネタだけは書かない。何故なら、それは無料で手に入る情報を元にしても何も意味がないと考えるからであり、とにかく「お金を払って得た」知識・情報を元にブログを書く、ということにしている。

 では、何故ブログを書くのか。

 それは、多分、最近リンクを貼って載せ始めた『tsunokenの昔の映画評』を書いていた学生時代と同じ理由によるものだろう。つまり、単にそれは情報発信者の立場になると楽しいということである。実は「本を読むこと=情報の収集」以上に、「読んだ本について書くこと=情報の発信」というものは、やってみると面白いのだ。別に、松山氏が書くように『「伝える」ことで考えるクセがつく』とか、『人生に必要な「発信力」を身につける』ということが目的ではない。もう、そんな歳でもないしね。ただし、『「伝える」ことは、やめられないほど楽しい』のは事実だし、インターネットのおかげで『情報の「出し手」と「受け手」の垣根が低くなった』のも事実だ。

『tsunokenの昔の映画評』は、基本的にtsunokenが各映画雑誌などに「投稿」という形で送っていた原稿を、その雑誌の編集部の担当者かあるいは編集長あたりが読んで、掲載するかどうかを決めている。つまり、それなりに編集担当者か編集長というハードルがあったわけで、それはそれで結構高いハードルだったりする。『tsunokenの昔の映画評』にもセルフ・コメントしているが、一時期、tsunokenを含めて数人の映画評ばっかり掲載されるものだから、その他の投稿者から批判をされていた時期があったりもした。しかし、選んだのは私ではなく、編集担当者か編集長なわけで、それはそれなりの価値観の中での判断であったわけだ。ところが、ブログであれば掲載を決めるのは自分だし、いい加減な文章であっても載せることは構わないわけだ。勿論、あまりにもいい加減なものは書かないつもり(実際には多少書いたりはしているが)であるけれども、基本的には「これなら他人に見せても大丈夫」という程度にはマトモな文章になっているものを載せるわけではあるけれども。

 つまり、それだけ情報をアウトプットするというのは、ある種、自己顕示欲も多少は満たされるし、結構楽しい。しかし、友人で映画好きな人や本好きな人もいるのだが、彼等にブログなどを薦めても、あまり前向きな返事は返ってこない。これは、昔映画評を書いたり、出版社にいるという私だけの特殊性なのだろうか。

 とにかく、ブログであれなんであれ、「情報をアウトプット」するというのは、やってみると楽しいよ。今、このブログを読んでいる皆さんもぜひ・・・。

 

 

2011年8月24日 (水)

『英語のできない人は仕事ができる』という命題にはちょっと問題はあるけれども、書いてあることはごく普通のことだ

 勿論、こんなタイトルは書籍を売るためのタイトル付けであり、極論であることは百も承知であるが、それはそれで面白い。なにしろタイトルを逆読みしてしまえば「英語ができる人は仕事ができない」ということなのだ。

『英語の出来ない人は仕事ができる』(小林一郎著/PHP研究所/2010年4月6日刊・電子版2011年5月16日刊)

 しかし、書いてあることはごくマトモなことだけであって、要は「英語ができるからといって、海外で仕事ができるわけではない。英語ができないからといって、海外で仕事ができないわけではない。問題は、仕事をするときのマインドであって、スキルではない」ということ。そんなことは当たり前であって、海外で仕事をするときの一番大きな問題は、いかにして赴任先の現地の人とよりよい関係を作りながら、一方、日本の本社とも良好な関係を作るのか、と言う事なのだろう。

 少なくとも、1990年の頃までの海外赴任・長期出張は、大体ヨーロッパやアメリカなどの「日本よりは経済的・政治的・財政的に優れていた(とされる)」国々へ行っていたわけだ。その場では、「日本は海外に学ぶ」という姿勢で行けばよかったわけで、その際の海外赴任・長期出張・短期出張のスタイルは、明治初期の海外出張と同じスタンスでよかった。つまり、如何に海外の出先国に合わせて、その国の方法論やら考え方、発想法などを身につけるかが大事なのであって、その国において自らのプレゼンスを示さなければならないというような、パフォーマンスは必要なかった。つまり、この時代はまさに「英語(あるいは現地語)のスキルの時代」であったわけだ。英語(や現地語)を如何にうまく喋って、相手の言うことを理解して、相手の言うことを如何にうまく日本にいる同胞に伝えるかと言う事なのである。

 ところが、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」となってしまった頃から、このスタンスは変わってくるわけである。つまり、「日本は海外に学ぶ」必要はなくなってきたかわりに、逆に海外に対して「教える立場」を持ちつつも、同時に日本とは文化の違う国々において仕事をしなければならないという立場で、「教えながら教わる」という状況に変わってきたのだ。個的には「海外で仕事をしながら、現地の人とうまく付き合っていく」と同時に、社会的には「海外での仕事の成果をいかに日本本社へ還流するのか」という二面性・二重性を帯びた仕事を、今の海外赴任者は背負い込んでいるのだ。となると「英語ができる(現地語ができる)」というのは、仕事上のなんらのメリットでもなくなって来てしまって、つまり「英語(現地語)のスキル」は、なんら仕事上での役割もなくなってしまったのである。つまり「英語(現地語)ができるからといっても、仕事ができるわけではない」という風に。

 むしろ、こうなると英語ができるというよりも、日本語が、というか日本文化についての深い知識のほうが重要になるのではないか。そんな、日本文化についてのより深い知識が、それをつたない英語であっても、なんとか相手に伝えることによって、日本と現地の文化理解に繋がって、日本とその現地とのよりよい関係が出来上がるのではないのだろうか。

 英語のスキルなんてものは、例えばアメリカに2~3週間もいればいやでも身についてしまうものだ。日本で中・高・大学と10年間も英語教育を受けた日本人は、最低限の英語教育は十分に受けた状態、少なくとも現在形・過去形・現在完了・過去完了の文法を知っているだけでもスゴイことなのだが、それこそ本当に2~3週間で十分英語は喋れるようになる。例えば、インド人なんで「I go to New York, Yesterday」なんて時制を完全に無視したトンでもない英語を喋って、それでもOKなんて考えている連中なのだ。それでもアメリカなら通じる、ということを知っているのですね。したがって、問題は、それから先、如何に日本人の考え方、日本文化というものを、例えば難しいと思うけれどもアメリカ人に伝えるかと言うことなのだ。

 まあ、あとはとにかく喋ることでしかないですよ。相手に通じようが通じまいが、とにかく喋ること、語学の上達の方法はそれしかない。で、問題は語学力が上だからといっても、それが自分の考えていることがうまく伝わるのかと言えば、そうではない。その辺が、語学の難しいところだけれども、まあ、そうやって昔の辞書なんてものがなかった頃の人達は、何とかそれでもコミュニケーションを図ってきたのだ。

 そう、つまりは人と人のコミュニケーションなんてものは、相互の「繋がりたい」という意思の反映なのだ。それさえあれば問題はない。

 前にもブログで書いたけれども、私の英語の学校は赤坂のバーだったという話。つまり基本は「酔っ払い英語」だったということ。「通じたか通じないか」なんてことは関係ない。とりあえず喋っちまえば勝ち、みたいな英語力。まあ、語学なんてそんなもんですよ。当たって砕けろ、砕けたって問題はない、というくらいの発想で行けばなんの問題もない。

 したがって『英語のできない人は仕事ができる』という命題のおき方は、まあ、問題はないわけではないけれども、そのくらいに考えていた方がよい、ということでしょうな。「英語ができるorできない」ということは、仕事をする上では何の関係もない。要は「仕事をする上でのマインド」の問題なのだ。

 Sony Readerで読んだのだけれども、どうもこうした、前に言ったり、元に戻ったりしながら読む本にはこうしたデバイスはあまり向いていないようだ。感覚的にこの辺に戻るというような読み方はデジタル・デバイスでは出来ないわけで、戻り方がちょっと面倒くさい。小説のように、一気に読んでしまうものならば問題はないのだが・・・。

2011年8月23日 (火)

『選挙』というドキュメンタリーには「何もない」よさがある

 7月22日のエントリーで書いた、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』の著者である想田和弘のドキュメンタリーを始めて見た。本当に始めて「観察映画」って奴を見たのだ。

『選挙 CAMPAIGN』(想田和弘作/ラボラトリーX製作/2007年)

 確かに、ひとつもコメントが入っていない「観察映画」というジャンルのドキュメンタリーは始めてである。なんのコメントも入っていないし、音楽も使われていないし、効果音も入れられていない、とりあえず「撮ってきた素材」だけを使ったドキュメンタリー。

 ただし、そこには編集が加えられている。当然である。撮影素材をそのまま見せられたのでは、何十時間あっても見ることは出来ない。では、その編集作業はどのような方向に向かって行われるのだろうか。やはりその「編集する」という作業の中に、製作者の思いがこもっているわけだ。

 では、その思いとは何なのか? つまり、それは日本特有の(?)いわゆる「どぶ板選挙」のありさまであろう。つまり、選挙で候補者が訴えなければならないのは、政策ではないし、政治公約でもない、要は「候補者の名前」だけなのだ。そんな「日本型選挙」のあり方をカメラはずっと追いかける。それが「おかしい」とか「あたりまえ」だとかは言わない。しかし、とにかく「候補者の名前だけ」を訴える選挙のやり方を見ていると、やっぱりこれはおかしいと(私なんかのオヤジは)考え始めるのだ。勿論、そうではなく、こうした「名前だけ訴える」選挙のやり方を見て「これがいいのだ」と考える人はいるだろう。映画を見て、見た人がどんな結論を持ったとしても、それは映画の責任ではないし、製作者の責任でもない。

 ただし、問題は「製作者が何を考えたのか」ということではないのか? 例えば、そうした「どぶ板選挙」を取材して、製作者がその結果、どんなことを考えたのかは、観客に提示すべきではないのだろうか。あるいは、そんな発想は「古っるーい」オヤジ的な発想なのだろうか。

 うーむ、この辺はどのように判断すればよいのだろうか。「観察」と言っても「観察」する主体はあるわけで、その観察主体がどのように客体を判断するのか、ということは重要ではないのだろうか。あるいは、それが重要ではないとしても、問題は「映画として何を訴えたいのか」と言う事ではないのだろうか。

 これはドキュメンタリーではないが『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』とか『パラノーマル・アクティビティ』なんかの基本は、実は「何もない」ということである。当然、超低予算で作られた「ホラー映画」(実はホラーでもなんでもなく、事前の宣伝で「ホラーですよ」といって話題を煽るだけ)が、「何かある」わけはないのだ。そんな予算はないのだからね。そういった作品と同じ要素のドキュメンタリーなのだろうか。

 つまり、『ブレア・ウィッチ』『やパラノーマル』と同じく「終わってみれば何もない」という作品である。勿論、そんな「何にもない作品」から、見た人が自分なりの結論を得て帰ればいいだけであって、そんな素材をポンと提供するのがドキュメンタリーだといわれてしまえば、ああそうですか、と言わざるを得ないと言うところなのである。

 要は、そういうスタイルのドキュメンタリーが、HDビデオの登場と共に出現したということであり、映画がテクノロジーの進展と関わりを持たざるを得ない表現形式である以上、そうしたテクノロジーの進展に合わせて、新しい表現形式が現れると言うことなのだろう。

 私も、そろそろフィルム・ドキュメンタリーの代わりとしてのスチール(デジタル&アナログ)カメラをやめて、もともと撮りたかったドキュメンタリー・フィルム(デジタル・ビデオだけどね)に移行しようかしら。このスタイルだったらカメラマン一人でもドキュメンタリー作れちゃうもんね。

 しかし、同時にいまだに16mmアリフレックスやボリューの中古カメラ(というか中古しかない)を店頭で見ると、心ときめいてしまう私なのです。100ftで3分半しか撮影できないし、下手をすると現像してくれる場所だってなくなってしまうかも知れないのにね。実は、それが潔いのだが。

 

 

 

2011年8月22日 (月)

既視感の葛飾・立石

 昨日の森山大道のドキュメンタリーで立石が出てきたからと言うこともあるのかもしれないが、何故か気になった葛飾・立石である。ということで早速、京成電車で立石まで出かけた。

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 京成立石の南口には仲見世通りがあって、昼間から居酒屋がオープン。午後3時には既に出来上がった人たちが町を流している。なるほど、森山大道が好きになりそうな町ではある。

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 で、北口へ出てみると、何故か駅前商店街に既視感がある。何故だろう、と思いながら歩いていると。

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 突然、「トランスフォーマー」のデコレーションが! で、思い出した。

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 実は今から27年前、テレビアニメの制作担当をやっていたことがあるのだが、そのときのスポンサーがトミー(現・タカラトミー)で、毎週火曜日朝9時頃から打ち合わせと称する「低視聴率ごめんなさい」会議がトミー本社で行われていて、毎週毎週、立石まで通っていたのだった。当時、名古屋支社から東京本社に移ったばかりでそんな低視聴率番組を担当させられて、胃が痛くなって穴が開いちゃ言う毎日だった。

 立石はそんな嫌な思い出のある町だったので、なるたけ記憶から消し去ろうとしていたために、忘れていたのだが、ひょんなことで思い出すことになった。そういえば、見事半年で放送打ち切りが決まったときには、途端に胃の痛みがなくなり、穴もふさがっちゃって、自分の体の現金さにびっくりした覚えがある。

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 奥がタカラ・トミー本社ビル。手前が社長の富山幹太郎氏の家です。かなり大きな家です。スゴイね。

EPSON RD1s Elmarit 28mm/F2.8 (c)tsunoken

2011年8月21日 (日)

tsunokenの昔の映画評 新たな記事UPです

『愛のために死す』『8 1/2』の映画評を新たにUPしました。

『犬の記憶』か人の記憶か

 犬の記憶は「光と影」だけなんだそうだが、それは人間だって同じ。基本的には、人の記憶も所詮「光と影」だけ、それ以外に何の記憶があると言うのだろうか。

『犬の記憶 森山大道 写真への旅』(NHKエンタープライズ/2010年8月13日刊)

 本の方の『犬の記憶』『続・犬の記憶』は既に読んでいるし持ってもいる。しかし、テレビでこれが放送されたのは知っていたが、見ていなかった。というか、見れなかった。そのまま、忘れてしまうのかと思っていたら、東京都写真美術館のショップで売っているの見つけ買ってきたのだった。

 映像は、基本的には森山大道が多くの写真をものしている新宿近辺の写真とその撮影風景がベースになって構成されている。そこを「偉大なる悪所」と言ったり、「都会のシミ」と言ったり、寺山修司との思い出の詰まった場所であり、そして森山が写真のことを言っている「光と時間の化石」でる場所であり、1969年10月21日の国際反戦デーにおける騒乱事件の新宿である。そう、1960年代の新宿とは、そんな、騒擾と、混乱と、放埓と、秩序と、表現とが混沌と入り混じっていた、おかしな街ではあったのだ。都心ではありながら、まだ新都心ではないし、都会と田舎の出会う町であり、東京と地方都市や東京以外の大都市が出会う町であったのだ。そんな新宿だからこそ、カオスの如く様々なものが入り混じって、それぞれに自らの存在を主張できた部分があったと言うべきなのだろう。それこそ、そこでは何も旅に出なくても「自分探し」の方法論がいくらでもあったし、何も「写真よさようなら」なんてことさら言上げする必要もなかったのではないだろうか。

 しかし、そんな新宿は消滅する。

 西口に都庁が出来て、東口の新宿区役所も改装をして、「住みやすい町、新宿」を目指す運動が始まってしまった。いやむしろ、新宿は「住みにくい町」だからこそ、その存在感があったわけなのだし、「新宿に行って何かをやって」その後は家に帰るという生活をおこなえたのである。その結果、写真作家が何をやったのかといえば、「自分探し」である。その「自分探し」で写真作家が何処へ向かったといえば、北の方、岩手県の遠野地方、青森県の三沢、五所川原っていうのは分かりすぎて面白くないくらいだ。

 しかし、写真作家・森山大道が本来「自分探し」で行くのならば、大阪とか山陰なのではないかと思うのだが如何。

 とはいうものの、森山大道は今でも普通に新宿を撮影し続けているわけだ。そこが安心できるところでもあるわけだけれども、同時に、結局この人は、世界中の町に「新宿」を求めて写真を撮り続けるだけなのだろう、とも思ってしまう。今日発売になった『アサヒカメラ』でもやはり東京の写真を掲載している森山は、もはや「新宿を撮る」のでなく「新宿で撮る」ことに執着していると書く。

 それが、サン・パウロでもブエノス・アイレスであろうが、パリであろうが、多分、森山大道に見えているものは「新宿」でしかないのだろうな。

 それが、路上写真家というものだ。

2011年8月20日 (土)

tsunokenの昔の映画評に新しい文章追加

tsunokenの昔の映画評に『「批評する立場」の深化のために』(『キネマ旬報』1972年3月下旬号掲載)を追加しました。

『大学とは何か』というよりも「大学で何をするのか」ということなのだ

「それでも、大学が必要だ」という主張は分からないでもないが、しかし。

『大学とは何か』(吉見俊哉著/岩波新書/2011年7月20日刊)

 昨日の、J.S.ミル先生の演説文について、いろいろと引用させていただいた吉見氏の本なのである。

 基本的には、中世自治都市あるいは都市国家というものの成立と、ユニバーシティーの誕生がまず最初にある。この当時は、まだ活版印刷という文明が成立していなかった為に、人々はこれら各都市を行き来し、また教師や学生も各都市を行き来しながら、希望の教師に出会ってそこで教師からモノを学んできた。そこで使われる言語はすべてラテン語で統一されていたので、モノを学ぶのになんら問題はなく、それらが大学の中世モデルとして発展した。それが、次に領邦国家から国民国家への流れの中で中世モデルが衰退して、同時に起こったグーテンベルグの印刷革命に対して対応できなかった中世モデルに代わって、国民国家を基盤とした近代的モデル=フンボルト型大学のモデルと、「著者」という名前の知識人の出現があった。その後の、アメリカ型の「大学院を持った大学」のモデルと、印刷革命の大学内部への取り込みがあった。つまり、『近代以降の大学は、第一に、教師たちが出版界の主要な「著者」となることによって、第二に、学生たちが出版された本の主要な「読者」となることによって、第三に、大学が専門的な図書館を備え、大量の出版物の半永続的な収蔵庫となる役割を引き受けることによって、最後に、大学自身が出版社を設立することによって、出版文化との間に相補完的な関係を保ってきた』のである。

 つまり、中世の自治都市というものがひとつのメディアであり、そのメディアの自由の中で大学というものが発展してきたとするならば、グーテンベルグの印刷革命がもたらしたメディアの爆発的発展は、それまで「大学」というものの中に閉じ込められていた「知」というものを、広く大学外の世界にまで広げたといえるだろう。『今後数十年、それどころか数百年にわたり人類が取り組むべき重要課題は、すでにどれも国境をこえてしまっている。環境、エネルギー、貧困、差別、高齢化などから、知的所有権、文化複合、国際経済、国際法秩序まで、すでに学問的課題において国民国家という枠組はまったく前提ではなくなっている。立場の如何を問わず、好むと好まざるとにかあくぁらず、今後、ナショナル認識の地平を超えて、地球的視座からこれらの人類的課題に取り組む有効な専門的方法論を見つけ出すことや、それを実行できる専門的人材を社会に提供することが、ますます大学には求められていくであろう』という時代でありながら、『未来の完全なインターネット社会で、キャンパスと教室、学年制や多数の専任教員を備えた大学は生き残ることはできるのか』という問いはごく自然に出てくるものだろう。勿論、『この問いは、果たして出版社やその編集者が未来のメット社会で生き残ることができるのかという問いと同じ程度に真実味をもっている』。

 そんな自問に答えて吉見氏は『実際、ますます莫大な情報がネット空間で流通し、翻訳され、蓄積され、検索され、可視化されていくなかで、大学にはやがて新しい世代が登場し、彼らは地球上の様々な知識運動と連携しながら新たな知を編集し、革新的なプラットフォームを創出していくことだろう。中世以来の名門大学が近代に生き残ったのと同じように、現代の主要大学はポスト国民国家時代にも生き残るだろうが、その時代には、都市や国家を基盤にするのではない、まったく新しいタイプの大学もデジタル化した知識基盤の上に登場してくる』と自答する。

『大学とはメディアである。大学は、図書館や博物館、劇場、広場、そして都市がメディアであるのと同じようにメディアなのだ。メディアとしての大学は、人と人、人と知識との出会いを持続的に媒介する。その媒介の基本原理は「自由」にあり、だからこそ近代以降、同じく「自由」を志向するメディアたる出版と、厭が応でも大学は複雑な対抗的連携で結ばれてきた。中世には都市がメディアとしての大学の基盤であり、近世になると出版が大学の外で発達し、国民国家の時代に両者は統合された。そして今、出版の銀河系からネットの銀河系への移行が急激に進むなか、メディアとしての大学の位相も劇的に変化しつつある』というのだが、その答えは吉見氏自身にもまだ見えていない。

 しかし、デジタル化ネット化によって「事業としての出版社」は否が応にも変化を強いられるし、一部には事業化を放棄せざるを得ない事態も出現するだろうが、「メディアとしての出版」は、逆に今後ますます大きく発展することが望見されている。大学も同様、「事業としての大学」は変化するだろうし、それこそ「実態として存在する大学」というものが有り得なくなることも予想される一方、『情報技術の発展が「人々がキャンパスにかぎらず、家庭や職場でもどこでも生涯にわたって教育の機会に与することができるという、ユニバーサル・パーティシペイション」を可能にする』ということはおおいにあり得ることだと思うし、『ネットですべての知識が瞬時に検索可能となり、もう大学はいらなくなる』という考え方も、決して悲観論であるともいえないのではないか。

 それこそ『マイケル・サンデルのような「白熱」講義』のような、大学という場でしかできない講義が、これからの大学では必要になるのではないか。デジタル化ネット化によって「ライブ」が復活しつつある音楽の世界にように、そうした「ライブ授業」という、本来の大学の講義が再度見直されていくような気がしてならない。

2011年8月19日 (金)

『tsunokenの昔の映画評』更新情報

『小さな巨人』『プラウダ 〔真実〕』『赤軍―PFLP 世界戦争宣言』の映画評をUPしました。

『大学教育について』というか大学の先生の話は長~いということについて

 本書は1867年2月1日、ジョン・ステュアート・ミルのゴルフ発祥の地としても名高いスコットランドはセント・アンドリュース大学名誉学長就任講演の全訳である。セント・アンドリュース大学はオックスフォード、ケンブリッジについて英語圏では3番目にできた由緒のある大学である。

『大学教育について』(J.S.ミル著/竹内一誠訳/岩波文庫/2011年7月15日刊)

 J.S.ミルといえば「功利主義者」として有名であり、東大総長大河内一男が卒業式辞でミルの書いたことを引用して「太った豚になるよりは痩せたソクラテスである方がよい」という演説をしたことで有名だが、最近はマイケル・サンデルあたりのコミュニタリンアンから批判をされている。

 まあ、サンデルあたりから批判されていても、所詮昔の学者なんだからどうでもよいことだけれども、とりあえずこの講演、岩波文庫で126ページ分、約2時間とも3時間ともいわれる長さなのだ。はたして、この長文にわたる演説を休みなしで行ったのかどうかはわからないが、いずれにせよいわゆる「学者の長広舌」の典型である。7月3日にブログに書いたようなものであるが、まさにその3時間ロングバージョンではありますな。聴いてた学生さん、ご苦労さん、というところでありましょうか。

 ただし、ミル先生は7月3日にご登場した先生方よりはまだ大分よくて、演説の内容はなかなかよいことを言っているのだ。

 まず、演説の冒頭「大学教育の任務」というところで、『大学は職業教育の場ではありません。大学は、生計を得るためのある特定の手段に人々を適応させるのに必要な知識を教えることを目的としてはいないのです。』と述べる。つまり、現代ではない、いまから約150年前の時代において既に社会は大学に「職業教育」や「生計を得るためのある特定の手段に人々を適応させるのに必要な知識を教えること」を要求していたのだな、ということがわかる。いまから150年前に大学に入った人々は、多分労働者階級や農民・商人階級の子弟ではないだろう。ほとんど貴族に属する階級か、イギリスなのだから多分「ジェントルマン」階級の子弟ばっかりなはずだ。でも、そんな時代状況の中でも社会は「職業教育」や「実務教育」を大学に求めていたことがよくわかる。でも、それには抵抗したいというのが学者の立場なのだろう。

 当時のスコットランドの大学教育はどういう時代だったのかを知るために他の本を読んでみた。読んだのは、吉見俊哉氏の『大学とは何か』(岩波新書/2011年7月20日刊)である。吉見氏によれば、イングランドにおけるオックスフォード大学とケンブリッジ大学などの特権的な地位にあった大学は、当時のドイツのような大学改革は行われずに旧態依然な聖職者養成大学のようなもので、そこから脱却して国民主義的研究体制のモデルとして世界各国の近代化政策が参照するモデルとなっていくドイツモデルからはかなりかけ離れた古い大学であったのに対して、スコットランドのセント・アドリュース大学などの『伝統大学は、その成立の時期も都市との関係もドイツの大学に似ていた。そして大陸の諸大学と同様、17、18世紀の危機を経て、19世紀には変化の時を迎える。オックスブリッジの場合、近代以前からの多大な財産を所有し、国の政策など気にせずに自活できたことが逆に変化を阻害した。スコットランドの大学は、そこまでの資力はなかったので、19世紀には大学の変化と非国教徒のアカデミーが担った役割とが結合し、この地域における自然科学、医学、工学の発展を後押ししていくこととなった。医学や工学の応用分野での知の発展が重視された点で、スコットランドはドイツや米国との共通点が多く、イングランドとは大いに異なる学問風土を形成してきた。』(『大学とは何か』より)ということである。

 こうしたことがバックボーンにあるからこそ『イングランドの古典教育を行っている中学校における授業時間の骨折り損の浪費は、どんな厳しい非難を受けても仕方のないものです。一体何のために、青少年期のもっとも貴重な歳月が下手なラテン語、ギリシャ語の韻文しか書けるようにならない学習のために取り返しのつかないほど浪費されなければならないのでしょうか。』という書き方で、イングランドの教育についてことよせるのだろう。

 とは言うものの、演説の後半では『イングランドの伝統ある二大学〔オックスフォードとケンブリッジ〕は、現在、全教科課程のなかの一般教養科目を教えることにかけては、われわれの知る限りどの時代よりも立派な業績を挙げています。』と持ち上げることも忘れてはいないのだが。

 要は、いずれにせよスコットランドが最早イングランドの「田舎」じゃないことをおおらかに歌い上げており、スコットランドがイングランドと並び称される立場にあることを言っているわけである。そうした愛国心というか愛郷心はわからないでもない。

 そして、その発露が3時間になんなんとする長大演説になったのかも知れない。「功利主義者」とは言っても演説は長いのね。

 こうした、近代の大学観をベースにして、現代の大学について語る吉見氏の『大学とは何か』については、また明日語ります。

Johnstuartmill Jhon Stuart Mill (Wikipediaより)

 それにしても、ミル先生の『大学教育について』だけではよくわからない近代の大学教育というものについて、同時期に『大学とは何か』でフォローしちゃう岩波って、さすがに懐が深いのである。

2011年8月18日 (木)

『tsunokenの昔の映画評』をリンク・ページに作りました

『tsunokenの昔の映画評』というリンク・ページを作りました。ブログの左にあるリンク・タグをクリックしてください。

 昔、学生の頃に『キネマ旬報』『映画評論』『シナリオ』などに書いていた映画評を載せたものです。とりあえず、今回は『小さな巨人』というアーサー・ペン監督、ダスティン・ホフマン主演の映画の映画評を載せました。

 今から40年前のtsunoken記念の一編です。

 今後も順次掲載は増えていく予定です。お楽しみに・・・でもないか。

確かに山岳画面は素晴らしいけどなあ

 1970年、パキスタンのナンガ・パルパットに初登頂した際に弟を遭難で失った、ラインホルト・メスナーの自伝的映画である。

『ヒマラヤ 運命の山』(監督・プロデューサー・撮影監督:ヨゼフ・フィルスマイヤー/原作:ライゴルト・メスナー『裸の山 ナンガ・パルバート』〔山と渓谷社〕/2009年/ドイツ映画)

315x210 (c)Nanga Parbat Filmproduktion BmbH & Co. KG 2009

 ラインホルト・メスナーという名前からドイツ人だとばっかり思っていた。だって、登山隊はドイツ隊だし、映画もヨゼフ・フィルスマイヤーが監督をするドイツ映画だし・・・。ところが、メスナーってイタリア人だったのですね。ただし南チロル地方のイタリア人なので、当然そこはもともとオーストリア領、ドイツ語圏に生まれたオーストリア系イタリア人なのであった。そんなの当たり前だろうって? そりゃあ山のことに詳しい人はその程度は「当たり前」なのかもしれないが、素人はね。

 で、そのメスナーが登山隊の隊長、カール・マリア・ヘルリコッファー博士の言うことをまったく聴かない勝手なやつなのだ。確かにすごい登山家なのだろうけれども、隊長の言うことを聴かずに勝手に行動する隊員は、隊長に言わせれば「いらない隊員」のはずだ。日本の登山隊だったら、下手をすれば隊からはずされてしまうだろう。

 そんなやつでも、しかしアタック隊員に選ばれるほどの、優秀な登山家だったのだろうか。それだけ、ドイツ隊は何度も挑戦して、しかし失敗を繰り返していたのだろう。つまり、多少勝手な行動をするやつでも、確実にアタックに成功する隊員がほしかった。その結果が、ライホルト・メスナーであったわけだ。

 山は生還して初めて登頂をした意味があるという言葉を、素人は聞く。しかし、それは綺麗事であって、実際には多少の犠牲を払っても登頂する意味がある、と登山家は考えているのかもしれない。その「多少の犠牲」が仮に唯一無二の弟であっても・・・かれらは登るのだろう。多分、それが登山家なのだろう。

 ヨゼフ・フィルスマイヤーが『スターリングラード』の監督と聞いていたので、あの『スターリングラード』かと思ったのだが、私が考えていたスナイパーが主人公の『スターリンングラード』は、ジャン=ジャック・アノーのほうだった。つまり、ヨゼフ・フィルスマイヤーは初見。脚本を誰が書いたのかが分からないが、構成はまあうまく言っているだろう。撮影もフィルスマイヤー撮影監督も兼ねており、なかなかの迫力ある画面ではある。

 問題は、ストーリーがあまり面白くないということである。何が面白くないのか? つまり、ラインホルト・メスナーが隊長の言うことを聞かずに、勝手にアタックに出てしまい、そのラインホルトに弟のギュンターがこれまた勝手についてきてしまい、その結果、帰還中に遭難死してしまったというだけの映画であり、別にそこに何らかのサスペンスがあるわけでもないし、結果としての裁判が描かれるわけでもないし、ただただ淡々と事実が描かれているだけである。え? そんなのどこが面白いの?

 まあ、山の好きな人なら、山が描かれているというだけで、あるいは登山隊の生活が描かれているというだけで、アタック隊の装備がみられれば、とかとかいろいろな映画の楽しみ方があってよいわけなので、別に私が見て面白くなかったからといって、映画を批判するつもりはないが。

 私が見て面白かったのは、やはりスチールカメラのライカⅢf(?)と16mmムービーのボレックスですかね。1970年という時代背景からすると、ボレックスは分からないではないが、ライカⅢfはちょっと微妙。もうすでにライカはM3が出ているし、ニコンFでもよいはずなのに、なんで旧型のⅢfなんだろう。まあ、別にカメラマンの話ではないから、カメラは旧型でもかまわないということなのだろうか。

 と、まあそれぞれの映画の楽しみをしていればいいのだ。

 

映画の公式HPはコチラ→http://www.himalaya-unmei.com/

↓原作はコチラ

 池袋で上記映画を見たところから・・・

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 コチラはまたまた本文とは関係のない、自由学園明日館です。まだ、日本の学校教育令なんて無視して経営していたころの自由学園です。いまは東久留米あたりで普通の学校になっているようですけれでも。

2011年8月17日 (水)

フレデリック・バック展・木を植えた男

 木場にある東京都現代美術館でフレデリック・バック展を開催中だ。

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 フレデリック・バックといえば『木を植えた男』というアニメで第60回アカデミー賞短編アニメーション賞をとった有名なアニメ作家だが、短編アニメ作家によくあるように、もともとは画家だった。カナダの国営放送局ラジオ・カナダにグラフィック・アーティストとして所属して、そこのテレビ部門でアニメーションの製作をはじめた。フィルモグラフィーを見ると、初期作品は1970年ころなので、30年ほどまえに私がラジオ・カナダに行ったときにはまだアニメ製作を始めてそんなに時間がたっていなかったようだ。

 もともと短編なので、セルの裏側から絵の具で色づけをするという伝統的な方法で作られたものは少なく、1978年の『トゥ・リアン』の頃からセルに色鉛筆やフェルトペンで描く方法を始めて、その方法論の集大成が1987年『木を植えた男』ということになる。『木を植えた男』以降は『大いなる河の流れ』という、モントリオールに流れるセント・ローレンス川の汚染問題を取り上げた作品くらいしか作っていないが、それもラジオ・カナダ所属だから食っていけるということなのだろうか。まあ、カナダのケベック州民は、モントリオールはパリに次ぐ第二のフランスの都市だというくらい、自分たちはフランス人だと考えている人たちなのだから、こうした芸術家に優しいという姿勢も同じなのかもしれない。

 会場では『木を植えた男』が9スクリーンに分けて全編上映されている他、『アブラカダブラ』『神様イノンと火の物語』『鳥の誕生』『イリュージョン』『タラタタ』『トゥ・リアン』『クラック!』(第54回アカデミー賞短編アニメーション賞受賞)『大いなる河の流れ』『アクティヴィスト』という短編作品の抜粋上映、およびバックが関係した番組内アニメおよびそれ以外のテレビ番組の抜粋上映が見られる。

『フレデリック・バック展 木を植えた男』は10月2日まで開催。

公式HPはコチラ→http://www.ntv.co.jp/fredericback/index.html

 

 それにしても下町は面白いなあ。撮影したくなるものがいっぱいある。

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2011年8月16日 (火)

『大鹿村騒動記』は安心して見られる原田芳雄映画なのであった。だって「ユル」いんだもの。

 俳優、原田芳雄の遺作である。そんなことからか土曜日の昼間の上映であったが、観客席はほぼ満席。やはり愛されていたのだなあ。

『大鹿村騒動記』(阪本順治・荒井晴彦脚本/阪本順治監督/セディック・インターナショナル製作/2011年7月16日公開)

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 世帯数541、人口は男573人、女608人、合わせて1181人というのが実在の大鹿村平成23年7月31日の実態だ。まあ、とにかく山の中。長野県の飯田市や静岡県の静岡市(平成の大合併で静岡市になった実際は静岡県のすごいド田舎)に挟まれた、南アルプスの麓の小さな村である。平成17年10月には、北海道美瑛町、北海道赤井川村、山形県大蔵村、岐阜県白川村、徳島県上勝村、熊本県南小国町と一緒に「日本で最も美しい村」連合を作ったくらいの、ド田舎。しかし、田舎に誇りを持っているド田舎だったりする。

 そんな、ド田舎でも誇りを持てるのが、300年も続いている大鹿歌舞伎の存在なのだろう。明和年間(1770年頃)頃から始まった大鹿歌舞伎であるが、寛政11年(1799年)の人寄禁止令、天保12年(1841年)の農民による歌舞伎禁止令、明治6年(1873年)の歌舞伎禁止の県令建、などという歌舞伎存亡の危機にもかかわらず、伝承させてきた歌舞伎の歴史があるのだ。その結果、昭和57年(1983年)には東京ヤクルトホールでの公演や、昭和59年(1984年)オーストリア公演、平成12年(2000年)には地芝居としては初めての国立劇場での公演を成し遂げるなど、その保存会の人たちの努力を了とするが、まあしかし、要は「芝居バカ」「歌舞伎バカ」がそれだけ沢山いるというわけだ。たかだか1000人しかいない村にね。それがすごい。

 で、そんな「芝居バカ」「歌舞伎バカ」の代表が原田芳雄であり、石橋蓮司であるということなのだろう。なにしろ、石橋蓮司演じる土木会社の社長はリニア新幹線に反対する小倉一郎をリニア新幹線をネタにして歌舞伎の舞台でも罵倒して、練習を台無しにするくらいのものだ。最早、歌舞伎と現実の世界とも一緒くたになってしまっている人なのだ。もう、でも、こんな人っているかもしれない。

 そんな原田芳雄の下に帰ってくる、昔、一緒に仕事をしていた岸部一徳と駆け落ちした元妻、大楠道枝が何故帰ってきたのかといえば、大楠が痴呆症になってしまったからだというのだ。これって結構自己中心主義? だって、普通なら駆け落ちしたなら、そこで一緒に駆け落ちした女とは一生添い遂げなければならないでしょう。仮に、彼女が痴呆症になってしまって、昔の夫のことばっかり言うようになってしまっても、それは駆け落ちした責任ってものがあるでしょう。でも、彼女が痴呆症になってしまって、じゃあ、元の夫のところに妻を返しに行くか? ってのが自己中心主義なのだけれども、むしろそこは田舎村の「ユルさ」なんだよな。だって、そんな帰ってきた連中を受け入れてしまうんだからなあ。「治ちゃん」なんて言ってさ。

 で、そんな痴呆症になった元妻が、元夫との出会いのきっかけになった歌舞伎の台詞が痴呆症回復のきっかけになってしまうのだから、これは何ともいえない哀しい場面である。ただし、アルツハイマー性痴呆症ではないかぎり、こうした昔の記憶にあることを一つ思い出して痴呆症がいったん直るようなことはあるようだ。そう、とりあえずリアリティはあるのだ。

 まあ、そういうことでベテランの俳優ばっかりの映画って、なんか安心できていいですね。展開は、役柄見てれば大体その後の展開も予想できてしまうし、ここでなんか言うだろうな、という部分でヤッパリ言うべきことを言ってくれるし・・・って、それって別の意味での予定調和?   でも、この場合はそれでもいいのだ。「寅さん」じゃないしね。原田芳雄はもう死んじゃっていないのだし、もういいよね。

 佐藤浩市と松たか子の恋愛話なんてまったくお約束じゃないかよ。

 ということで、この「ユルい」映画であっても私は支持します。

 まあ、この「ユルさ」って、最早荒井晴彦氏がそういう年齢に達してしまったということなのかも知れないが、一方、新藤兼人氏がいまだに『一枚のハガキ』なんてものを撮っていることを考えると、オールド左翼の方がやっぱり息長いのかなとも思えてしまうのだ。

 う~ん、この辺が新左翼の限界かな、なんて言っちゃって。やっぱり「新左翼」は「ユル」い? ってか。   

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 この写真は映画とは何の関係もありません。

2011年8月15日 (月)

大学ラクロスは早くも秋シーズン開幕

 まだまだ夏の甲子園野球大会が開催中だというのに、関東大学ラクロスリーグ戦は早くも秋シーズン開幕である。蝉時雨の駒沢第二球技場は既に秋が来ているということなのだ。しかし、実質40度の気温の中で行われると、まだまったく秋という感じはしない。

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ラクロス協会会長の挨拶。しかし、その前に座っている役員(でも、皆選手だそうだ)たちは全員ダークスーツで見ている方がかえって暑くなる。

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昨年優勝の男子・早稲田大学、女子・日本体育大学の主将による選手宣誓。

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全員集まって記念撮影。いかにも学生さんたちという感じですね。しかし、なんでみんな「V」なんだろう。「VICTORY」マークが第二次世界大戦の勝利マークというのは、もう知らないはずなんだけどな。結局、彼らにとっては単なる「チョキ」。

 開会式に引き続き、開幕第1戦として行われたのは早稲田大学対一橋大学戦。女子はチーム数も多いことから、既に開会式前日から試合は行われていて、開会式の前に日本女子大学対日本体育大学戦がとりあえずは開幕戦ということで行われた。

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Nikon D70 Nikkor 18-105mm/Tamron 200-500mm (c)tsunoken

 試合の結果は8対6で一橋大学の勝ち。どうも一橋大学の「積極的に攻めに出て行かずに、結果、ロースコアゲームで勝つ」という戦い方は見ていて全然ダイナミックでなく、実に面白くないけれども、それでも勝ちは勝ちということでまあしょうがない。

 これから10月にかけてリーグ戦が行われ、11月にはポスト・シーズン・マッチとして、ファイナル・フォーの試合とリーグ入れ替え戦が行われるわけだ。暑い中、学生さんご苦労さん。といっても、若い彼らにはこの程度の暑さなんて気にもかけない程度なんだろうが・・・。

 ということで、早くも秋がきました・・・でも、暑い!

2011年8月14日 (日)

Sony Readerで宮沢賢治を読む

 ひょんなことでタダで手に入ったSony Reader Touch Editonである。では、何を読むか? 実は、こういうデバイスで読むのに最も適したのは「青空文庫」なのである。

 それにしても、今から20年くらい前にマサチューセッツ工科大学のメディア・ラボに出張に言った際にE Inkというものがやっと実用化されそうだ、という話を聞いて「フーム、なるほどなあ。しかし、どういったもので実用化するのだろう?」という疑問を持った。まあ、新聞か何かかなあ、とうのが当時の認識だったのだが、こんな風に「電子書籍」となって我々の前に現れるという認識はなかった。まあ、多分、私の想像力の無さなのだろう。

 で、Sony Readerなのだが、i PadやKindle、ガラパゴスなんかは3GやWi Fiを使えて、本機のまま使えるのだが、Sony Readerだけは何故かパソコンを使ってダウンロードしなければならない。なんでそういう仕様にしたのかはわからない。ソニーは携帯電話を扱っていないからなのだろうか? でも、関連会社のソニー・エリクソンは携帯電話の会社だし、携帯電話の仕様なんてそんなに面倒なものではないのだから、Sony Readerだって直接ダウンロードできるようにしたほうが絶対に便利な使い方ができるはずなのだが、なぜ、こういうパソコンでダウンロードという面倒な仕様にわざわざしたのだろうか。その辺は、ソニーの開発者に聞かなければわからない事情があるんだろうな。

 で、その電子書籍で何を読めばいいのだろうか、という問題。

 今、街の本屋さんに行けば買える紙の本と同じものを電子書籍で買うのだろうか。何故、そんなことをしなければいけないのか。だって、紙の本で出ていれば、それで読んだほうがずっと楽に読めるはずなのだ。本というものは。

 で、結局、電子書籍で読む本となると、今、街の本屋さんに行っても絶対買えない本、つまり絶版本か著作権保護期間を過ぎた本、ということになる。勿論、夏目漱石だって、森鴎外だって既に著作権保護期間を過ぎたパブリック・ドメインになってしまっているのだが、今、パブリック・ドメインの本で沢山読めるのは、何故か宮沢賢治とか宮本百合子なんかの本が多い。まあ、いろいろと遺族の問題などもなるのだろうが、なんでかなあ。

 で、今回読んだのが、宮沢賢治の『鹿踊りのはじまり』と『イギリス海岸』という短編ふたつ。『進撃の巨人』もダウンロードしたのだが、まだ第1巻しかアップされていなくて、つい最近出版された第5巻どころか、第2巻~第4巻ですらアップされていないのだ。どうした講談社、紙と電子の同時発刊なんて大嘘ジャンか、というところである。

 というところで、しばらくは「青空文庫」のお世話になりそうな雰囲気である。もともと、文庫なんかはそうした古典を読むための媒体であり、今のように新刊やわりかし最近出された単行本の廉価版というような、「ペーパーバックの位置づけ」ではなかったのである。そんな意味では、もっとも「文庫本のコンセプト」に近いのが「青空文庫」なのである。

 まあ、しばらくは「青空文庫」で楽しもうかな。タダだしね。

 実は、i Padを発売早々かった時も、そうした「青空文庫」と雑誌の電子版を読むのがi Padの使い方だったことを思い出した。そんな意味では、i Padと同じように、Sony Readerでももっと雑誌を出してほしい。こうした、電子書籍の形態に一番合うのが雑誌という媒体なのだ。大体、雑誌というものは「読み捨て」が基本である。そんな意味では、電子書籍でも、購入から1週間位で消えてしまってもよいから、雑誌を充実させてほしいものだ。

 コミック誌ばかりじゃなくてね。

2011年8月13日 (土)

『完盗オンサイト』はミステリーではないぞ

 フリーターのフリークライマーってなんだか語呂が面白い。そんなフリーターのフリークライマーが主役の話である。

『完盗オンサイト』(玖村まゆみ著/講談社/2011年8月8日刊)

 当初『クライミング ハイ』というタイトルだった本作品。なんか『クライマーズ・ハイ』みたいな作品を予想させるのか、あるいは高い山に登る話でもないので、多分編集者がタイトル変更を言い出したのだろう。オンサイトというのは、フリークライミング用語で、目標とするルートに何の情報も持たずに一発で完登することだそうで、まさに完登オンサイトというのだそうだ。ところがこの話、あるものを盗み出す話なので『完盗オンサイト』なのである。

 そのあるものとは『徳川家光が愛でたという樹齢550年の名盆栽「三代将軍」』で、そのものがある場所が、皇居内宮にある大道盆栽仕立て場。皇居にはそんな盆栽仕立て場があって、約90種、600点の盆栽があるそうだ。皇居なので途中に濠があり、濠には高い石垣がある、ということでフリークライマーである水沢浹が選ばれたのである。

 依頼者は超デブで、自分では最早動けずに、モーター付きストレッチャーでせいぜい部屋の中を移動するだけの男、國生肇。弟である國生環が社長をやっている大手デベロッパーの会長である。だから、金はあるけれども使い道はない。で、報酬は1億円。悪い話じゃない。が、しかし盗みは違法行為である以上、悩む浹。

 と、ここまでが最初の話。

 その浹が迷い込んだのが浅草のお寺で、その住職が岩代辿紹。その寺に預かられていた子供、斑鳩。斑鳩を寺に預けて失踪してしまった母親の津川愛子と、斑鳩の父親でありながら完全に人格が崩壊している、というかストーリーがまったく成立していない男、瀬尾貴弘の話が二番目の話。

 さらに、浹の別れた恋人、伊藤葉月がフリークライミング大会でのドーピング疑惑で失格となり、同時にスポンサーから契約違反で損害賠償を求められている状況で帰国する。その葉月が、ある日、浹を訪ねて寺にやってきて、浹が受けている依頼の内容を知ることになる。その後の葉月のとった行動とは・・・。というのが第三の話。

 ということで、この三題話がどのような展開を見せるのかを書いてしまうとネタバレになってしまうので、これ以上書かないが。とりあえず、一個目と三個目の話は、ちょっとウラがありそうだが、まあ繋がっている。ただし、一個目と二個目はちょっと無理筋かなという感もあり、しかし、どうにか斑鳩の処理をこうするのか、というところで繋がっているのかな。まあ、この辺は玖村氏の筆力なのかな、とも思える部分ではある。本来は、まったく関係のない一個目と三個目なんだものなあ。

 で、『徳川家光が愛でたという樹齢550年の名盆栽「三代将軍」』って、この小説のためのネタかと思ったら、『皇居の盆栽』というHPがあり、そこに載っていたのですね「三代将軍」が。

 ほら、これが「三代将軍」;

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「皇居の盆栽」HPより

2011年8月12日 (金)

失敗学実践講義

『未曽有と想定外』で、東日本大震災についていろいろ述べた畑村洋太郎氏はNPO法人失敗学会会長にして東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会委員長である。まさしく、企業がおこすトラブル、失敗、事故についての畑村氏の検証作業がますます重要になってくる。ただし、それは実は簡単なことなのだけれどもね。その簡単なことを私たちは忘れてしまいがちだし、そんな「簡単なこと」から大きな事故が起きているのだ。

『失敗学実践講義 文庫増補版』(畑村洋太郎著/講談社文庫/2010年5月14日刊)

 この『失敗学実践講義』で取り上げられる事故は下記の通り。

第1講 六本木ヒルズの大型回転ドア事故

第2講 日本航空の連続トラブル

第3講 JR福知山線脱線事故

第4講 みずほ銀行のコンピュータ・システム・トラブル、東証「付け合わせシステム」トラブルとライブドア事件に伴う全株式取引強制停止。

第5講 三菱自動車のリコール隠し

第6講 頻発する大手企業の火災事故

第7講 JCO臨界事故

第8講 H2Aロケット6号機の打ち上げ失敗

第9講 JR羽越線脱線事故

補講  JAL破綻/トヨタのリコール

 基本的には、各社とも事故や失敗が起こらないような組織作りやマニュアル作りなどは手がけているのだが、その組織作りやマニュアル作りのちょっとした「抜け」が事故や失敗の原因なのだ。

 基本的なことを言ってしまえば、『技術が進化し、社会が成熟したことで、誰もが「安全であることが「当たり前」と思うようになりました。ところが、現実には、「当たり前」と思っている安全は「絶対」なものではないので(そもそも安全が絶対であるはずははないのですが)、こうした認識と実態のギャップが原因となって危険が想定されていない場所でいまなお多くの事故が起こっているのです』ということなのだ。

 つまり『マニュアルを参考にするのではなく、身のまわりにある具体的な危険に焦点をあてえ、そこから安全について考え直すのです』つまり「マニュアルを変える」ということなのだ。

「マニュアルに従っていれば問題は起きない(はず)」という考え方は、実はこの3月の福島第一原発事故に際しても確認されていたことなのだ。つまり、東電の社員やその下請け社員は決してマニュアルに反していることを行っていたわけではない。逆に、マニュアルを遵守していたがために、あのような惨事になってしまったのである。

「地震が起きたらこうすればよい」「津波がきたらこうしろ」というようなマニュアルは当然、地震が多い日本の、海に近いところのある原発なら盛っているはずである。で、多分地震が起きたときには、そのマニュアル通りの対応策を講じていたはずである。ところが、そのマニュアルの通りには現実はならなくて、それこそ「マニュアルで」想定した以上のことになってしまったわけである。これが「想定外の出来事」という理由なのである。

「マニュアル通りの動きをしろ」あるいは「マニュアルに捉われるな」というような指示を出すのは現場の責任者だろう。それは、現場の状況を一番知っているのがその立場の人だからである。しかし、現場の責任者がそのような自分で判断した決断を下せないことになってしまうというのは、どこかやはりその組織の中で動脈硬化を起こした部分があるということなのだろう。

 で、結局はそういう風な社内風土を作った経営トップの責任になってしまうわけだが、それは経営トップに話を持っていかなければ、最終的な解決にならないから、という話であって、本来的にはその下の段階でも解決できる話でもあるのだ。まあ、多分それも社内風土の問題なのかなあ、つまり、上が決めたこと、社内マニュアルなんか、などに対しておかしいと思った人が平気でそれを批判することができるかどうかということ。そうした批判を上の人間が「普通に」受け止めることができるかどうか、ということ。

 多分、昭和30年代ころの日本企業は、そんなおかしな規則と、それに対する批判が沢山あたわけで、それを下からの突き上げと上からの反省もあって、だんだんと改善されてきた。その結果が、昭和50年代以降の日本の企業風土なわけで、それから15年位はそのままでもうまくいったわけですね。それが、昭和から平成になったあたりで、世の中はマニュアル社会になってしまった。

 個人は、会社なり何なりが決めた「マニュアル」に則って仕事をしてるかどうかが大事なことになり、問題は仕事の「結果」ではなくてその経過において、ちゃんと規則を守ったかどうかが大事になってしまい、(大)企業は経済産業省あたりが作った「マニュアル」通りに(大)会社を運営しているかどうかが大事になり、その(大)会社独自の判断でどれだけの仕事を成し遂げたのかは、割かしどうでもよいことになってしまっている。

 サラリーマンにとっては、大事なのは仕事の経過ではなくて、あくまでも「結果」でしょ。それこそ売り上げを沢山出した奴が偉い、ってことにならなければいけないのだ。多少、脱法行為をしてもね、というのが裏側にある。企業も沢山売り上げを上げて税金を沢山納める会社が偉いのだ、多少、賄賂を使ってもね。というのが、いまやすべてクリーンでなければいけない社会になってしまった。クリーンであることはよい事なのだけれども、だからといってマニュアルで決めたやり方だけが正しいという言い方の社会はないだろう。

 つまり、「マニュアル社会」というのは、自分で判断することをやめてしまった社会ということだろう。で、そのときに頼るのは「国が作ったマニュアル」ですか? もはや、それこそファシズムじゃないですか。

 そんな、官僚ファシズムに陥らないためにも、畑村洋太郎氏の本を読んでおくのは有効だ。『失敗学のすすめ』がその基本にあり、この『失敗学実践講義』がその実践のなかでの応用だし、『未曾有と想定外』は、今回の東日本大震災に関する記述であります。

 まあ、この3冊を読んでれば畑村氏の、たとえばテレビなんかでの話もよくわかると思うのだが、まあ「人間は失敗をする」ということが前提にあれば、どんな事故も普通に対処できるのであろう。

2011年8月11日 (木)

『モネッタの本能三昧イタリア紀行』で不満なこと

 なんとなく7月30日つながりで「シモネッタ」話なのである。

『シモネッタの本能三昧イタリア紀行』(田丸公美子著/講談社文庫/2011年4月15日刊)

 なんか、ここのところ講談社つながりでうまくいかないな、とは思っているのだが、まあ、『シモネッタの姥桜』のあとに、たまたま近刊のこの本をよんでしまったのだから、しょうがない。

 要は、「シモネッタ」こと田丸公美子さんの1973年から現在に至る日本←→イタリアの行ったり来たり話の中のシモネタというか、要は「男は女とセックスすることしか考えていないイタリア男」と「女も男といいセックスをしたいと考えているが、それ以上に産んだ子供をどうやって育てなければいけないのかがある以上、どうやって男を選ぶかが大事なイタリア女」という、一大闘争を描いた大活劇なのだ、といってしまえば大袈裟な、まあ、とりあえずはイタリア版「男・女系図」ってなところでしょう。

 しかし、まだ20代前半くらいの田丸氏(多分そのころはまだ「田丸」氏じゃなかったことは、解説の玉村豊男氏が書いているが、それも当然)が、それから四〇年ちかくもイタリアと東京の間を行ったり来たりしているにもかかわらず、イタリア男とまったくセックスしていない(と自称)ということが問題なのだ。

 まあ、田丸氏はネット画像で見る限りでは、そんなに美人ではないけれども、しかし、酷女という程でもないし、私の妻に言わせると「うん、開成生のお母さんによくいるタイプよ」と一刀両断であるから、まあ、普通の女性なのだ。そんな、日本でいる普通の女性がイタリアに行ったらモテないわけはない。田丸さんも絶対にイタリアではイタリア男どもにモテた筈なのであるが、何故かそのの話はない。

 勿論、田丸さんにもイタリア男の求愛行動はあったようだけれども、結局は彼女のシミュレーション行動の中で全てが消え去ったようである。

 そのシミュレーションとは;

その1 イタリア人は熱しやすく冷めやすい。捨てられて帰国することになるとみじめだ。

その2 タフなイタリア人のこと、毎夜、迫られると疲れ寿るし、拒否すると浮気されそうだ。

その3 社交的で美食家の彼らは、友人を招き家で夕食を共にすることが多い。私は料理が不得意。恥ずかしいし面倒だ。

その4 日本の両親に何かあっても、すぐには帰郷できない。

その5 たたみ、ふとん、もみがら枕が必需品。

その6 公共機関が不備で運行もいい加減。車がないといけない場所が多く、自由に動けない(私は車の運転ができない)。

その7 和食が好きで、なかでも寿司は週に一度は食べないと落ち着かない。

その8 家でくつろいでいるときまで外国語を使いたくない。

その9 何事も言葉で確認したがるイタリア人に「以心伝心」は通用しない。愛してると毎日言うのも言われるのもうざったい。

その10 自分の子が日本語の読み書きができないで育つと哀しい。

 というのが、田丸氏がイタリア男とのセックスを拒んだ理由なのだそうだが、それはないよね。

 だって、そんなこと、イタリアに行ってそんなにイタリアが好きになってしまったのであれば、全て受け入れOKじゃないですか。まあ、気になるのは「その4 日本の両親に何かあっても、すぐには帰郷できない。」位かなあ。それでも、家族を大切にするイタリア人だもの、日本の両親に何かあれば帰郷することに異議を唱える人はいないだろう。「その1」「その2」なんてイタリア男と付き合うときの基本だし、「その6」「その8」「その9」はもうどうしようもないでしょ。「その7」なんてのは、多分最早イタリアでもOKなんじゃないの。

「その10」について言えば、まあお子さんが日本語で開成で東大で司法試験で良かったですねとしか言いようはない。

 田丸氏が旧日本国の女子のように、ひたすら「貞操を守る」人たちであり、それでいながら、最も危険なヨーロッパのラテン地域の通訳として赴く姿は、まさしく帝国の女子挺身隊の如く見えるのであるが、それはいかがなものであるか。

 まあ、ここで他人の女性の性生活をあげつらってもまったく意味のないことであるから、田丸氏の性生活につい語ることはやめるが、ただし、自身の経験を話さなかったということだけでも、このエッセイ集が基本的な「集客力」を失っていることは確かだろう。やはり、自分の「ヰタ・セクアリス」を語ることが、とりあえず文学の基本なのではないだろうか。

 やっぱり『シモネッタのドラゴン姥桜』で、ここまで息子のヰタ・セクスアリスを書いてしまった以上は、田丸氏は自らのヰタ・セクスアリスを語ることが、どうしたって前提なのではないだろうか。

 このままじゃあ、息子が怒るわけだよな。

2011年8月10日 (水)

日吉界隈を歩く

 東急東横線日吉駅と言えば慶應大学日吉キャンパスなのであるが、駅を挟んで反対側にも慶應中学(慶應義塾普通部)や研究施設なんかもいっぱいあり、要は「慶應タウン」なのである。

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 駅からみた慶應大学日吉キャンパス。ここに行くと面白いものが見られる。ったって早慶戦のポスターなんだけど、「早慶戦」じゃなくて「慶早戦」なのだ。当たり前だけどね。

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 何で行ったのかと言えば、この日吉駅の駅ビル、日吉東急avenueにある本屋さんに用事があって行ったのです。

 しかし、夏休みのせいで普段なら慶應生(大学生・高校生・中学生)で一杯の日吉駅も何となく閑散としている。降りるのは運動部の学生(まだ合宿始まらないのかな)やテニス・サークル(って実態は「飲みサー」? の学生)位なもので、つまり「お勉強する慶應生」は、まずいないのだった。

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 でこれが慶應城下町の象徴「普通部通り」。大学キャンパスとは駅を挟んで反対側にあり、この道をまっすぐに行って商店街を行きすぎたところに慶應義塾普通部(慶應中学)があります。結構、駅からは遠い。

 で、実はもうひとつ、日吉駅が下車駅の高校・中学があるのを知ってますか? 大学は確かに駅前だけれども、中学は駅から大分歩く慶應と同じく、駅から10数分歩いたところにあるのが、日本大学高校・中学なのです。ただし、こちらは山の上にある慶應とは違って、山の麓の方にある。

 東海道新幹線に乗って東京から新横浜に向かい、新横浜に着くちょっと前のトンネルを抜けると、右手に、山の上にある「慶應」があって、その山の下に「日大高校・中学」って見えてくると、なんか象徴的だなあ。同じ日吉駅で降りて、山の上の方に行く慶應生を横目で見ながら、山を降りる日大生ってわけである。

 う~ん、なるほど。だからこそ日大フェニックスは慶大ユニコーンズには絶対負けられないのだ。って、なんで急にアメフトの話になるのだろう。

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 で、普通部側の駅のそばにある古書店「ダダ書房」。名前はなあ、スゴくいいのだが、じゃあダダやシュール・レアリスム関係の本が多いのかなと思って入ってみたら、エロ本とコミックばっかりで、ウィンドウに入っている美術関係の全集だけが、この店の主人の意地かなという感じの店でありました。結局、買うべきものはなし。

 まあ、エロ本をダダイズムと考えることは出来ないことではないのだが・・・。

2011年8月 9日 (火)

「光学通り」ってなかなかチャーミングな名前でしょ

 JR京浜東北線(東急多摩川線、湾岸線)の大井町駅と、横須賀線の西大井駅を斜めにつなぐような感じの通りに「光学通り」と言うのがある。なかなか不思議な名前の道でしょう。何だか分かりますか?

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 って、もうカメラ好きの方なら分かりますよね。こここそ、日本のウェッツラー、でも本場のウェッツラーのようなド田舎の町ではない。大井町と言えば典型的な大東京のど真ん中、下町で町工場がたくさんある場所。で、大井町の光学工場と言えば旧・日本光学の本社、現在のニコン大井製作所なのです。すごいな日本のウェッツラー。

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 光学通りの入り口。もう完全にニコンのための道って感じです。

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 で、ここがニコン大井製作所。

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 大井製作所オフィスと道を挟んで反対側にあるのが工場。こちらの工場でニコンFからF6までのフラッグシップ機の開発、製造が行われていた。ベトナム戦争で岡村昭彦や沢田教一、石川文洋などみんなが使ったニコンFのすべてがこの工場で作られたわけである。そんなことを考えると、どこかこの工場が神々しく見えてくるから不思議だ。

 で、光学通りなのだけれども、もともと日本光学という会社は、三菱資本の元に精密機械会社、ガラス製造会社、レンズ製造会社の三つが合同して作られた会社で、海軍系の光学兵器を作る会社であった。光学兵器と言ったって、光を寄せ集めて人を焼き殺すなんてものではなくて、要は海軍用の測距儀(レンジファインダー)とか双眼鏡、狙撃眼鏡(スコープ)なんかを作っていたわけだ。それが戦後になって民生品を作らなければいけなくなって、ニコンカメラが出来たわけだ。最初は、それこそお得意のレンジファインダー機を作っておりニコンSに始まって、最終的にはニコンSPまでいって、それはライカM3に並ぶ名機とも言われたのだが、結局ライカというブランドには勝てずにレンジファインダー機からは撤退し一眼レフ機の方向に向かうところを定めたおかげで、ニコンは大成功。1959年にはニコンFを発表し、それこそベトナム戦争取材の望遠系スタンダード(標準・広角系はやはりライカM3がスタンダード)カメラとなるに至るのである。

 50mmはライカM3標準装備にライカメーター、35mmはライカM3にメガネを付けて、望遠はニコンFに135mmか200mmというのが基本のベトナム戦争取材スタイルである。う~ん、みんなカッコ良かったなあ。

 と言う位、大井町の人たちにも日本光学という会社は親しまれていた、というか当時の一大工場だったわけであり、日本光学によって食っていた人たちも周辺にいっぱいいたということなのだろう。まあ、それだけ当時の日本を代表する輸出残業ということで町の人の誇りなんかも集めたのだろう。

 光学通り自体はなんのこともない、普通の道であり、普通の商店街でしかない。光学通りという名前が面白いというだけ。しかし、下丸子に行ったって、キャノン通りとか精機通りなんてものはないのだから、それだけこの光学通りという名前がチャーミングに思えてきてしまうのだ。

 しかし、こんな町は当然アメリカに捕捉されているだろうから、第二次世界大戦で空襲に遭わなかったのだろうな、ってあってるに決まっているから、その後の復旧でしょうね。すごい、日本光学。

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2011年8月 8日 (月)

松竹蒲田も既にない、って最早大船もないんだから当たり前の話

 昨年12月5日のブログ「大船ったって、松竹はもうないんだよ」で松竹大船撮影所の事を書いたのに、同じ松竹の蒲田撮影所について書かないのはマズいんじゃないか、ということで今日は松竹蒲田撮影所後に行った。

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 ここが松竹蒲田撮影所跡。今は大田区民ホールアプリコという施設になっていて、区営の劇場や商業施設が入っている。とは言うものの、さすがにお役人仕事で日曜日だって言うのに休んじゃう商業施設なのだ。撮影所はないので、この美しい人も別に女優でもなんでもないのです。残念!

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 このアプリコの中に、撮影所の入り口にあったらしい松竹橋や撮影所のジオラマなんかもあるらしいのだが、閉館中じゃね。

 松竹蒲田撮影所は1920年に開設され以降16年にわたって1,200作以上の映画が撮影された。当初はサイレント映画の撮影所であったわけだけれども、1931年『マダムと女房』を国産初の本格的トーキーとして撮影・公開した。しかし、トーキー化に伴い、町中の騒音の多い場所に撮影所を置くことには撮影に支障を起こすことになり、もっと静かな大船に撮影所を移すことになったわけだ。ようは、当時はそれだけ外の騒音を防げるような撮影ステージを作れなかったということなのだろう。今は、日活も東映も東宝も角川大映も、ちゃんと街中でスタジオを作っているもんな。

 で、いまや蒲田駅の出発ジングルが『蒲田行進曲』というだけの蒲田撮影所になってしまった、というわけ。

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 で、蒲田の町ではお祭りの真っ最中。とはいっても、どこかの神社の祭礼ではなくて、商店街主催の祭りで、当然テキヤ排除の「健康的な」祭りではある。

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 唯一、この「大女優」というバーが撮影所跡らしい?

EPSON RD1s Elmarit 28mm F2.8 (c)tsunoken

2011年8月 7日 (日)

『バブルの肖像』は実はバブルの象徴なのであった

 もう見たくもない「バブルの肖像」たちがいいのは、そのほとんどが今や残っていないか、未だ収監中だったりして、現在は見られることがないということなのだが、しかし、収監されていた人たちもそろそろ出てくるわけで、そろそろ第二のバブルかな。最早、円高・ドル安は限界まで来ているし、同時にアメリカ経済の破綻は見えているわけで、こうなったら日本で再びバブルを起こして世界中のお金を日本に集中させるしかないでしょう。

『バブルの肖像』(都築響一著/アスペクト/2006年8月23日刊)

 取り敢えず本書に収まれれている「バブルの肖像」は、<ゴールドタワー/料亭「恵川」/オートポリス/ジュリアナ東京/ピンドンコン(ドンペリ・ピンク+コニャックの意<筆者注>)/金塊/ボジェレ・ヌーボー/チバリーヒルズ/タクシー待ち/ティファニーのオープンハート/クリスマスイヴのシティホテル/クリスマス・ディナー/ゴルフ会員権/メイテック(というよりも関口房朗氏でしょ<筆者注>)/高橋治則氏(イ・アイ・イー・インターナショナル社長)/F1スポンサー(フットワークの大橋渡、ミドルブリッジの中内康児、エスポ・ラルースの伊東和夫、レイトンハウスの赤城明<筆者注>)/バニング/NTT株/YOSHIOWARA/空間プロデューサー/くまもとアートポリス/タイユバン・ロブション/京都・北山通り/ホテル川久/携帯電話/宮崎シーガイヤ/絵画投資/千昌夫/E電/10万円金貨/ギーガーバー/財界二世学院/アズディン・アライヤ/ザウス/ハウステンボス/柏崎トルコ文化村/ホンダNSX/名古屋デザイン博/郵便貯金/斎藤澪奈子/横井英樹と中原キイ子>

 とまあ、それこそバブルの肖像なのだろうけれども、むしろ私にとってはバブルの象徴のような人たちに焦点は定まる。つまり、F1にかかわった人たちだ。つまり、F1、国際自動車連盟フォーミュラワン格式のレースの内実は火の車であっわけで、それまでナショナルカラーにこだわっていた国際自動車連盟も、1968年にロータスが「ゴールドリーフチームロータス」という名前でエントリーした時点でクルマをナショナルカラーからチームカラーに変えることを認めてしまったのだ。それが世界のバブルの始まり。

 つまり、それまではクルマ好きなエンスージアストだけの世界であった「貧しい」フォーミュラワンの世界が、これは興行的にいけるぞ、となった途端、世界中の金持ちがフォーミュラワンの世界に注目し始めたのだ。そんな興行イベントになったフォーミュラワンは当然、より金をだすスポンサーを求めるようになる。その中にパコンと嵌ったのがバブル期の日本のスポンサーたちなのだ。

 彼らは日本におけるレース活動も行ってなかったし、それこそ多分自動車レースなんてものにも興味は無かったのだろう。とろこがそんなスポンサーたちになにが起こったんであろうか。「フォーミュラワンのスポンサーになれば、ドライバーみたいのモテるかな」ってなものなのだろうか。あるいは自分がレーサーになれなかった思いを、そんなスポンサーになることで果たせると思ったのか。いずれにせよ、そんな気持ちが彼らをエフワン・スポンサーへと誘ったわけであるが、エフワン側からしてみれば、それはその時々の「お金持ちリスト」に過ぎない。そんな「お金持ちリスト」が、タバコ・アングロサクソンからバブル・ジャパンに移って、オイル・アラブ、新興アジアと言う具合に移ってきてるだけなのだ。

 それこそ、まさに「バブル」ですね。

 まあそんな「エフワン」の話とは別に、みんなバブルに乗っかって、一時期はいい思いをした人たちなのだ。その「いい思い」と同時に、結果、奈落に落ちた時の「最低の思い」と、両方持って生き返った人たちが面白い。関口房朗氏なんて言ってみればいまだに「バブル」をやっているわけだし、そろそろバブル期に収監された人たちが出てきてまたまたバブルを起こしてくれそうな気がする。

 もはやアメリカ経済には頼れない世界経済である。だとしたら、どこを中心にして考えればいいのか。ヨーロッパのユーロなのか、日本の円なのか、中国の元なのか、あるは金か? というところで考えれば一番可能性のあるのはユーロか円。しかし、ユーロもアイルランド、ギリシア、スペインとデフォルト寸前の国を抱えていてそれをドイツがどう支えるのかということが大きな問題となっていて、イマイチ心配。となると、今後の基軸通貨は円になるのか? ということである。で、基軸通貨が円になってしまえば再び円バブル? ってこともあるかも知れない。ただし、その代わりに円はずっと高いままになりますけれどもね。

 円バブル=円高進行を受け入れられるかどうかじゃないでしょうか。

2011年8月 6日 (土)

『天災と国防』が大正~昭和初期に書かれた本とは思えない

「天災は忘れた頃にやってくる」という格言は寺田寅彦の言葉であるということは有名なことであるが、実は寺田の書いたものにはどこにもみあたらないそうである。実際、この本にも書かれてはいない。

『天災と国防』(寺田寅彦著/講談社学術文庫/2011年6月9日刊)

 寺田寅彦という人は、最初、私は随筆家だと思っていたわけで、彼が物理学者でもある、というかそちらが本職でるということは、後から知ったことなのだった。

 しかし、この大正から昭和初期に書かれた文章が、これほどまでに今の状況に当てはまるということは、人間の進化あるいは進歩なんてこの程度のものかよ、と思い知らされるのであった。

『文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである、災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである。』

『それで、文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできないていなのはそういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顚覆をわすれたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。』

 という、結局人間が力で災害を抑え込もうと思っても、災害はそれ以上の力で人間を襲うものなのだ。今回の北日本大震災だって、三陸地域の港町は、昔の津波の経験から当然津波に対する備えは行ってきたわけである。しかし、その備え自体が「津波を抑え込む」方向だったのか、「津波をいなす」方向だったのかで、結果はかなり違ったようだ。つまり、津波を抑え込む方向の新防潮堤は簡単に津波で壊されたのに比べて、津波をいなす方向の旧防潮堤は、とりあえず被災者を高台に逃げる時間を与えて、勿論低い旧防潮堤であるからそれを超えた津波には町はやられてしまったわけではあるけれども、少なくとも市民は守ったということである。防潮堤が壊れてしまえば、「引き波」で流される人もいるわけで、そういう意味ではやはり「いなす」方向で作られた旧防潮堤の方が優れていたということになってしまう。

『静岡地震被害見学記』『震災日記より』について言えば、それぞれ詳細な地震直後の観察記があって素晴らしいと思うのだが、実はそれだけ「地震」そのものによる被害は大きくないということなのだろう。『静岡地震被害見学記』は7月10日に地震が起きて、7月14日の東京発の東海道線で静岡まで見に行っているわけなのだ。つまり静岡地震ではさほど大きな津波な無かったっていうことね。

『震災日記』は東京にいた寺田寅彦地震が被災者となった関東大震災についての記述なのだが、その日、上野にいて地震を体験した寺田は、物理学者だからなのかは知らないが、かなり冷静に地震には対処して、駒込の自宅まで歩いて帰る。すると、駒込の自宅はさほど壊れていなくて、自宅や隣の家の塀が壊れた程度。まあ、そんなものかと考えていたら、翌日、浅草方面に住んでいた親戚一同が避難してきたという話である。

 つまり、『関東震災に踵を次いで起こった大正十二(一九二三)年九月一日から三日にわたる大火災は明暦の大火に肩を比べるものであった。あの一九二三年の地震によって発生した直後の損害は副産物として生じた火災の損害に比べればむしろ軽少なものであったと言われている。』と言うがごとく、地震というのは「地震そのものによる被害」以上に、「津波」や「火災」などの二次被害が大きいのだろうという事が、ここでもわかる。つまり、それは日頃、災害が起こった時に備えているかどうか、という「人災」なのだということ。結局、地震による災害の大半は「人災」尚だという事を知っている方がよい。

 一次災害たる地震は、これは地球の自律的律動なのだから防ぎようがない、ミクロでは「逃げる」という対処方法もあるかもしれないが、マクロでは対処方法はありえない。ではその二次災害たる「津波」や「火災」を如何に抑えるか、少なくするか、が多分人間に与えられた叡智なのであろう。

『しかし、多くの場合に、責任者に対するとがめ立て、それに対する責任者の一応の弁解、ないしは引責というだけでその問題が完全に落着したような気がして、いちばんたいせつな物的調査による後難の軽減という眼目が忘れられるのが通例のようである。』

 と言う事になってしまって意味のないことなのだけれども、今回の東電福島第一原発事故についても、マスコミはそんな「犯人探し」に終始しているようだ。そんなことでは、原発事故の原因追究は出来ないわけだし、それこそ寺田寅彦のいうようなY教授の出現をお願いしたいところである。

 まあ、結局はこういうことでしょ;

『虐待は繁栄のホルモン、災難は生命の酵母であるとすれば、地震も結構、台風も歓迎、戦争も悪疫も礼賛に値するものかもしれない。<中略>その上に、冬のモンスーンは火事をあおり、春の不連続線は山火事をたきつけ、夏の山水美はまさしく雷雨の醸成に適し、秋の野分は稲の花時刈り入れ時をねらって来るようである。日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられてきたこの災難教育であったかもしれない。』

 基本的にはまったくそのとおり、としか言いようのない結論ではあります。

 問題は、その日本人がキチンと災害や、国防について考えているのかよ、ということなのですよ。

 大丈夫かな。

 講談社学術文庫以外にも寺田寅彦の天災本がいろいろ復刻されている。

2011年8月 5日 (金)

『真贋』は吉本隆明の真贋を問う本でもある

 最近の吉本隆明氏の本は読みやすいのは何故だろう。

『真贋』(吉本隆明著/講談社文庫/2011年7月15日刊)

 昨年10月20日のエントリー「『15歳の寺子屋 ひとり』は吉本隆明がいいおじいちゃんということなのだろうか」で「吉本隆明老いたり」なんて失礼なことを書いてしまい、15歳にもなったら書いてある内容が分からなくてもいから『共同幻想論』くらい読め、なんて毒づいていたわけだが、この本を読んでみると、別に失礼ではなかったと考えるようになった。つまり、「老いたり」ということは別に失礼なのではなくて、「良い年老い方をしましたね」ということなのだ。

 本書は聞き書きで、実際には編集者が書いているようだ。その辺にも分かり易い書き方になっているのであろうが、いずれにせよ『共同幻想論』や『言語にとって美とは何か』といった、吉本氏が若い頃書いていた本とは異なり「難解な表現」というものはない。

取り敢えず、目次から拾ってみると;

1 善悪二元論の限界

2 批評眼について

3 本物と贋物

4 生き方は顔に出る

5 才能とコンプレックス

6 今の見方、未来の見方

という構成。

 つまり、若いころは難解な表現をしないと言えないことがあると考えてしまうものだ。確かにそれは事実ではあるけれども、年をとるとだんだんそんなことが面倒くさくなる。そうすると難しい言葉を使わずに表現をしていくようになる。難しい表現をしなくなるとと、当然難しい内容のことは言わなくなる。で、割かし当たり前のことを言うようになる。となると、15歳の子どもでも理解できるような話ができるようになる。ということなのだ。

 本書も、そんな延長線上にある本である。特に難しい内容の本ではない。割と「当たり前」のことを言っているにすぎない。まあ、三島由紀夫の育ち方から母親が名付けた「暗い一生」という捉え方をあげて、三島の生き方を「強烈な意志で自分を変えようとした人」として捉え、『ああいうタイプの人は、持って生まれた観察力が優れているというよりも、人工的につくり上げた能力で世の中を見ている部分が多いと思います。だから、三島さんの小説は非常にいいのですが、どこか人工的なにおいがします。そもそも小説は人工的に違いないのですが、そういう意味でなくて、なんとなく空疎な乾いた感情の印象を感じるときがあるのです』と切って捨てる部分はあるのだがね。

 まあ、人間最後は宗教に行くのかなとも思うが、吉本氏はやはり親鸞に行くのだった。

『ある意味で仏教にとどめを刺した人です。はたして、その考えがいいか悪いか。天台宗や空海が興した真言宗など、宗派はろいろありますから、ほかの宗派の人は親鸞の考え方を決していいとは言いません。しかし、近代以降の日本の知的な人たちに言わせれば、ほかのは宗教だが、親鸞の考えだけは宗教にとどめを刺した宗教だととれるわけです。そこは僕にとってはものすごい魅力です』

という具合に。

『マルクスは哲学的ではありますが、政治的ではありません。多少政治に関係して、第一インターナショナル(社会主義運動の国際組織)のオーストリア書記になって活動した時期もありますが、彼の哲学自体は政治的でなくて、自然哲学です。

 世界的に言えばマルクス、日本の生理学者で言えば三木成夫、文学者で言えば柳田国男、折口信夫といった人は、歴史問題についても、起源をおさえています。人間の精神活動の起源は宗教ですから、どういう宗教を持っていて、それはどういう特徴があるかということを的確にとらえて書いているのです』

と、彼の宗教観を書いている。もうマルクスも宗教家に入れてしまうような勢いだ。

 なるほど、そういう方向に吉本隆明は行っているのだったのか。

 となれば、もうよしもとばななのお父さんというスタンスでもまったく問題はないということね。

 でもなあ、文庫本の棚は著者別50音順なので、当然「吉本隆明」の次が「よしもとばなな」の訳であるのだが、なんか抵抗があるんだよね。

 って、そんなことに抵抗があるのは私だけ? (「うんうん」「そうそう」という声)そうか、最早年寄りは引っ込めってことね・・・。

 

2011年8月 4日 (木)

『パワードスーツ』は面白いが「団塊の世代」の反逆小説じゃないのね

 ええ、ネタバレありますので、それが嫌いな方は読まないでください。特に「色覚特性者」とか、本小説の「第四章」とか。

 物語の舞台になっているのは2029年の日本。つまり、生産年齢人口は7,000万人を割り込み、一方老年人口は3,500万人、ということで、働き手二人で老人一人を扶養するという社会。高齢化率は29パーセント以上、つまり3.3人に一人が65歳以上という超高齢化社会がくるのだ。ただし、この時期はまだ「団塊の世代」がまだ80歳位で生きているのだ。

『パワードスーツ』(遠藤武文著/講談社/2011年8月4日刊)

 そこで、テレビニュースでは;

『政府・与党は、後期高齢者が異なる疾病で年間三回以上通院した場合、医療費、介護費、年金等の支給を停止する、いわゆるスリーノックダウン制導入について厚生労働省案に大筋で合意しました。国民年金法、健康保険法等の一部を改正し、来年度から実施したい考えです。』

 なんていう報道が行われていることが当たり前になってしまっている社会である。つまり、「団塊の世代」がその対象だと。

 そういう社会で、「老人介護に最適」とか言って「パワードスーツ」を売り込むサバニクス・ラボラトリー社の営業マン・大和健斗が主人公。大和は岩戸市というもはや老人ばかりとなってしまった街の私立病院の事務長・樫村にパワードスーツを売り込もうと一生懸命だ。しかし、大和の上司の高槻本部長は会社に極秘でパワードスーツを上回る性能の「アーマードスーツを勝手に開発している。

 もともと、ガンダムで知られる超巨大パワードスーツは、実際には『エイリアン2』なんかで見られるような人間の大きさに近い物として開発されていて、アメリカ陸軍あたりではすでにそのプロトタイプが作られているという話もある。つまり、パワードスーツは元々アーマードスーツとして開発されたものなのだ。実は、本のカバーに描かれているほど大きなものではなくて、多分、人間の大きさとたいして違わない大きさのものなのだ。だって、いまから18年後のテクノロジーなのだからね。

 そのパワードスーツを使ったような犯罪。小児科医師として介護専門員の由香里、つまり彼女の老人に対するいたわりが事件のきっかけになったということ。そして、それをみて老人殺害という犯行を続ける輿水徹哉。そしてそんな輿水がアーマードスーツの犯人だったとは。

 ということで、パワードスーツを使ってスリーノックダウン制に怒った老人たちが蜂起する、というような荒唐無稽派展開があるのかな、と期待した私はしっかり裏切られた。だって、タイトルは『パワードスーツ』なんだもん。当然それは期待しますよね。老人社会になってしまったが、2029年ころの老人はまだ80歳位のいわゆる「団塊の世代」だ。彼らは『ガンダム』も知っているし、『エイリアン2』も知っている。おまけに全共闘だ。そんなジイサンたちが「いまどきの若いもんに対して反撃を加える」なんて状況はありそうでしょ。絶対に、自然にいなくなるような「団塊の世代」ではないのだ。でも、そういう話ではない。残念。

 でも、これらの事件のおかげで「パワードスーツ」「アーマードスーツ」の双方のデモンストレーションが出来てしまったサバニクス・ラボラトリー社としては、今後どうするんでしょうか。ねえ、松田部長。今や、売り込む先がいっぱいありすぎて困ってしまうんじゃないでしょうかねえ。

 ええ、取り敢えず「色覚特性者」とか、本小説の「第四章」は気にしないで読みましょう、って完全にネタバレしてるじゃん。

2011年8月 3日 (水)

『公務員の壁』というよりは民間企業の壁だと思う

 そんな風に公務員出身の学者が言って、いまや盤石の公務員組織がそう簡単に変わるのだろうか。

『公務員の「壁」 官民合流で役所はここまで変わる!』(中野雅至著/洋泉社Y新書/2011年7月21日刊)

 中野氏としては一生懸命である。安部内閣・福田内閣で公務員制度改革に取り組んできた中野氏であるから、それは懸命にならざるをえないだろう。

 しかし、それは思い通りにはならないのだ。中野氏のイメージは「官民統一シングルトラック労働市場」なのであるが、それはなかなか実現しないだろう。だって、問題は民間企業のほうにあるのだ。だって『一部の大企業の中高年正社員が給料や雇用保険の面で恵まれているのは事実です。公務員は身分が保障されていると批判されていますが、大企業の中には労働法の遵守を社是のようにするところもあり、何が何でも雇用を守ろうとする企業もあるからです。しかも、給料もそれほど大幅に低下していない場合には、高給で身分保障があるということになり、公務員を超えるスーパー既得権者になります』ということ。つまり、民間企業にいる方が、ずっといい状態でサラリーマン生活を終えることができるということなのだ。

 この辺、最大企業といわれてもたかだか従業員1,000人弱、資本金3億円というような、言ってみれば中小企業でしかない、出版産業で仕事をしていると、中途採用なんていっぱいあるし、従業員数万人というような超大企業の有様は想像できないのだけれども、多分それだけの企業になってしまうと公務員の世界もかくやという位の官僚制が敷かれてしまうのだろうな。確かに、国家公務員50万人以上、地方公務員約300万人という超巨大産業なんてものはないのだけれども、でも、その公務員の世界だって、いまや国家がデフォルトに陥ってしまえば「国家倒産」という危機もあるし、地方公務員だって夕張市のような財政破綻を起こしてしまえば、状況は同じである。

 つまり、公務員の世界も、大企業の世界も同じように「官僚制」と「新人しか採用しない閉ざされた人事政策」を行っているわけだ。

 これじゃあ、中野氏が考えるような官民が一緒になった労働市場なんて出来ないよなあ。

 中野氏は次のような「官→民」移行パターンを考えるのだが;

1)官→大学教員

2)官→経営コンサルタント

3)官→シンクタンンク研究者

4)官→政治家

5)官→自営業(コンサルタント業など)

6)官→民間企業

7)官→法曹分野への転進

8)官→起業家を目指す

9)官→天下り

と考えてみると、9番目が一番何もしなくてもいいし、なおかつ収入も良いといことなのだろうな。次は7番目あたりかな。まあ、、受かればOK。その次は1番目というのもある。収入は減るが言わば名誉職的な部分もあって、本を書いたり(まあ、印税は少ないが)、その結果としてテレビ出演なんかもすればそこそこ稼げる。まあ、あとは野となれ山となれである。その行った先、景気の状況、会社の業界におけるスタンスによって変わってしまう。政治家なんて選挙落ちちまえばただの人ですからね。

 逆に言ってしまえば、それが民間企業の無計画性なのだと言ってしまえば言えるところである。そう、民間企業って基本的には無計画なのである。取り敢えず会社としては当期の利益計画とか出版社なら出版計画とか、建設会社なら建設計画とか、商社なら事業計画とか出すのだが、実はそんなモンは「絵に描いた餅」であって、結局は企業の事業なんてものは行き当たりばったりでしかない。で、「結果オーライならいいんじゃない」というのが、すくなくとも我が国の企業の決算なのだ。

 そんな「いーかげんな」発想に官僚出身者が対応できるのか、というのが基本なのであるが、中野氏がいうような「官民統一シングルトラック労働市場」になってしまっても、ものごとをキチンと進めなければいけないことを長年やってきた公務員に、そんなイイカゲンな民間企業の仕事のやり方が大丈夫なのだろうか、と思うのだ。

 まあ、そんなイイカゲンな仕事のやり方をずっとやってきた民間企業だから、景気の変動にも耐えることができるわけだし、為替の変動にもまあしょうがないな、関税の変動にもそれはしかたがないな・・・てなもんで、いまや円高問題にも打ち克ってしまっているのだ。

 う~ん、そんなイイカゲンなことが公務員でもできれば、それこそシングルトラックになるんだろうが、しかし、その逆の「民→官」は無理だろうな。だって、そんなイイカゲンなことは許されないのが公務員の世界なのだ。

 う~む、官民シングルトラック労働市場は、かなり難しいのではないだろうか・・・中野氏の言うようにうまくいけばいいのだろうが・・・・・・。

 多分、一部には多少緩和された状況も来るだろうが、まあ、大半はダメだろう。で、日本はどんどん沈んでいくのだ。

 それもしようがない。

 

2011年8月 2日 (火)

“瑞穂、羽村、福生”と言えば横田基地でしょ

 瑞穂町、羽村町、福生市と言えば米軍横田基地のある場所である。日本の公的資料では「横田飛行場」なのだけれども、実際には“U.S. AIR FORCE YOKOTA AIR BASE”と書かれている以上、やはり「横田基地」なのである。

2011_07_31_003_2 横田基地第2ゲート。本来の正門である第5ゲートは現在工事中なので、この第2ゲートが正門代わりになっている。

2011_07_31_015_2 横田基地の滑走路。っといっても雨で良く見えない。

2011_07_31_009_2 町は完全に「日本の町」になっているけれども、こんな英語の看板があるところが横田だ。これが豊島区あたりだとハングルと中国語の看板があるところだろうな。

2011_07_31_012_2 “MILITARY DISCOUT 5% OFF!!”という看板がいかにも基地の町、という感じだ。

2011_07_31_020_2 国道16号線の至ることろに掲出されている“REDUCE SPEED AHEAD”という看板が、いかにも横田らしい。まあ、要はここはアメリカだっていうことね。

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 しかし、今は東アジアで戦争が行われているわけではなく、兵站基地としてのヨコタ・エアベースは一見のんびりしている。たまには艦載機の発着訓練なんかも行われているようだが、普段は輸送機や旅客機の発着が多く、それも週末では一層少なく、なんとものんびりした雰囲気だ。しかし、今でも在日米軍司令部及び第5空軍司令部が置かれており、いまだ「休戦」状態にある朝鮮戦争に関しては、国連軍の後方司令部も置かれているという、極東における主要基地であることには変わりはない。

 第二次大戦敗戦までは陸軍立川飛行場の付属として、陸軍の航空機試験場として使われていたというのが横田基地の前身であるようだ。敗戦後、米軍に接収されて横田基地となり、その後の朝鮮戦争ではB29の出撃基地として機能し、ベトナム戦争では補給拠点として積極的に活用されていた。朝鮮戦争時にことはよく知らないが、ベトナム戦争の際にはいまよりずっと多くの輸送機などが毎日飛んでいたことは覚えている。

 そんなベトナム戦争への厭戦気分が、一時期日本へ帰ってきた米兵とのドラッグやセックスにふける毎日に繋がっていたのが、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』という小説であった。佐世保出身で、多摩美大を卒業した村上にとっては、こうした米軍ハウスでの生活がかなり実感を伴った生活であったのであろう。その米軍ハウスというのも、いまや殆どない。

 横田基地の脇を走る国道16号線というのも、横田から神奈川県の大和市や厚木に繋がる「米軍道路」として、その他の日本の道路とは全く雰囲気の異なる道路だった。つまり、国道16号線は、日本における唯一のアメリカ道路だった。道路周辺の雰囲気は完全にアメリカの国道。英語の看板が並び、米軍兵士相手の商売だけが横行し、それこそドルが通用していた道路ではなかったのだろうか。

 しかし、それから30年経って、いまや完全に日本の道路になって、横田基地だけが「日本の中におけるアメリカ」という状況になってしまった。勿論、今でも町には英語の看板がいっぱいあるし、米兵を相手にした商店はあるが、それとても米兵だけを相手にしては商売は成り立たず、基本的には日本人にアメリカ的な雰囲気を味わってもらおうという店が殆どになってしまった。

 まあ、それが健全なのだろうけれども、本当に健全なのは、こんな「日本の中のアメリカ」なんてものがないのが健全なのだ。沖縄なんて、こんな「日本の中のアメリカ」が常態化している社会なのだ。

 どう考えたって、おかしいでしょ。こんなのは・・・。

2011年8月 1日 (月)

品川歴史館で品川宿を体験する

 大森貝塚へ行った関係で、近所にある品川歴史館へ行った。

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 品川といえばやはり東海道は品川宿でしょう、ということで早速品川宿の展示を見る。通路の両側に右と左の街並みが配置されていて、まるで品川宿を歩いてるような気分にさせてくれる。朝、昼、夜に分けられた照明も面白く、なかなか面白い展示である。そうそう、こんな感じで右の方に曲がっているんだよな、というものである。

 佐倉の歴史民族博物館ほどじゃないけれども、それは予算のかけ方が違うんだから比較にはならないが、なかなか良い気分にさせてくれる展示ではある。

 宿場というのは旅人にとっては「宿」だけど、町に住まう人にとっては、要は「岡場所」という言い方は今や分からないのかな、つまり「売春窟」である。落語ではここ品川宿を舞台にした「品川心中」で有名だ。で、そんな売春の場である宿場というところもちゃんと押さえている品川歴史館はエラい。この下の写真の上には、岡場所で浮かれる男と芸者の遊びの状態が、ちゃんと旅籠の二階に作られていて、それが展示されている。う~む、なかなか品川歴史館やるな、というところである。岡場所にもやさしい品川歴史館である。

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090418_038_2こちらは現在の品川宿。今は岡場所はありません。でも、右に曲がっているでしょ。

 でも、こうした地域の歴史館とか民俗資料館に行くと、私の足はこうした現代に近い時代の資料展示に向かってしまう。つまり、だいたいそういうところにはこうした映画関係の資料展示があるのだ。

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EPSON RD1s Summicron 35mm F2 (c)tsunoken

 8mmカメラは大井町という地域柄当然ニコンかなと思ったらキャノンだった。まあ、草加市の16mmベル&ハウエル・フィルモDR70よりは違和感がないのかな。だいたい、草加じゃカメラ作ってないもんね。

品川歴史館のHPはコチラ→http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/jigyo/06/historyhp/hsindex.html

って、もしかするとこれって大森貝塚遺跡庭園と同じURL? ・・・・・・ああ、違うか。

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