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2011年7月11日 (月)

『落語評論はなぜ役に立たないのか』っていうか、そんなものがあったんだということに気づかされた

 そんな、落語評論とか落語評論家なんてものがあったのか、と今更ながら気がついた一冊である。

『落語評論はなぜ役に立たないのか』(広瀬和生著/光文社新書/2011年3月17日刊)

 とこれは、安藤鶴夫をそのエピゴーネンたちの事を言っているのであろう。つまり、安藤が生前、古典落語ばかりを評価し新作落語おいび新作落語ばかりを演じて人気のあった噺家を否定し、でも古典落語と演じていた立川談志を、「談志は天狗になっている」「調子にのりすぎている」と激烈に批判し続け、談志も多くの自著や原稿で安藤を痛烈に批判した、ということから安藤派の評論家は皆落語立川流を無視し続け、おまけに立川流が寄席の席亭からその存在を否定されてしまったことにことよせて「寄席にでない噺家は無視する」という方法論で、立川流の存在そのものも無きものとしてしまっている状況の裏側で、実は立川談志だけではなくその弟子たちが力をつけてきてしまい、いまや日本の落語界は立川流の存在を無視しては語れない状態になっているにも関わらず、いまだにそのような実情を理解しない落語評論家がいることに対する苛立ちがこの本を書かせたのであろう。

 しかし、映画評論家の松田政男氏が看破したごとく「批評は党派性である」という言い方の通り、落語であろうが映画であろうが、演劇であろうが小説であろうが、「批評」「評論」というものはすべからく「党派性」なのである。つまり広瀬氏自身が『評論家を名乗ることは誰でも出来る。そして、エンターテインメントにおける評論とは、つまるところ「好きか嫌いかを表明する」に過ぎない』と書くように、その「好きか嫌いか」というのがまさに「党派性」なのである。

 つまり、広瀬氏は安藤鶴夫以降の「古典落語」しか評価せずに、新作落語や古典をあたかも新作のように演じる噺家、特に立川流の噺家を認めない評論家を批判したいだけなのでしょう。それだけなのである。『もちろんいまでも、「落語(演芸)評論家」を堂々と自称する人たちは存在する。彼らは、落語の歴史や文化的背景などの蘊蓄は豊富だ。昔の名人についてなら饒舌に語る。しかし、「今の落語」については甚だ心もとない。普通の落語ファンのほうが、よっぽど「今の落語」に詳しかったりする』ということで、全然問題ないじゃないか。そんな「落語評論家」は無視すればいいだけである。

 それとも、そんな広瀬氏が批判するような落語評論家が落語評論家としてマスコミに登場することが許せないのであろうか。でも、マスコミはマスコミで「○○評論家」というものが、その「○○問題」について適当な解説をしてくれる人がないと、自社内の記者や編集者が書くわけにもいかない場合には困ってしまうのだ。つまり「評論家」という職業はマスコミが必要としているからこそ存在するものなのであって、マスコミがなかった江戸時代にはなかった職業なのである。まあ、もうすぐ日本でもマスコミがなくなってしまう時代がくれば、やはりなくなってしまう職業でもある。

 そんな儚い命の職業につっかかっても面白くない。表現の自由は評論の自由を担保する。そう何を言っても、何を書いてもいいのである。その代わり、書いた者は自分の書いたものについての責任は自分でとる。昔、柳家権太楼を痛罵した安藤鶴夫は、怒った権太楼から本気で殺し合いの決闘を申し込まれて、大慌てで詫びを入れたという話もある。そんなことで詫びを入れるなら、始めから批判なんかするなよといったところだが、まあ、そんなもんである。映画評論の世界でも昔から評論家同士の批判し合い、なじり合いなんて当たり前にあった。文芸評論の世界も同じである。落語評論の世界だけがそんなものもなく、一方的な言い方だけになってしまう、というのであれば、広瀬氏がそこに論争を持ち込めばいいじゃないか。つまり、本書のように批判対象となている評論家の名前を明かさずに書くのではなく、しっかり人名を出して『お前のここがおかしい』『ここが間違っている』という風に言うべきなのだ。

 そうした「論争」を通じて「批評」「評論」の世界も進歩するのだ。人名を明かさない中途半端な批判では、結局サロン的な「おしゃべり」でしかない「評論」は無くならないのだ。もっともっと「論争」を・・・。

 最後に、広瀬さん、「落語家」じゃなくて「噺家」と呼んではどうでしょうか? その方が、噺家が本当の「噺」をする人のように聞こえるのですが。

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コメント

久々にどうも。でも立場的には「時代は音もなく対流して」の
「対流する側」に身を置く者として観ると、この本もまた
新潮新書で出た吉川潮「戦後落語史」(新潮新書343,2009)に
連なる「残念ながら今もトキオに残っていてあまつさえ落語
なんか聴いている「ねー、しんたろー」一派とつるんだ政治的
宗教一派を信奉する人達ならではの残念本」なのかと。

 とりあえず濫読していた前歴もあって、安藤鶴夫も立川談志も
三遊亭円丈のコラムも雷門獅篭(元立川流)の「風とマンダラ」も
読んでたところからすると、やっぱり一番腐臭が漂うのは、
「足利尊氏のようなもの」の後援会「日本の新しい世代の会」を
バックに付け参院選全国区で当選した議員を出した一門の腐臭と
その後の行動にあるわけで、その腐臭を真っ先に突きつけられている
状況を観れば、
>いまだにそのような実情を理解しない落語評論家がいることに
>対する苛立ち
なんかはそれこそやはり「前時代的」でしかなく、むしろ桂三木助
(三代目)と共に落語のある一時期の基礎部分を練り上げた
安藤鶴夫の研鑽能力に対する評価は改めて見直されるべきかもな、
と思うところもあるわけで(あちらの方がまだちゃんと真っ当な
「砂上の楼閣」を作り上げようとした点では西の桂枝雀と小佐田貞雄
になぞらえてもいいくらいの事績はあったわけで)。このあたりは
かえって隔世遺伝的に伝えて貰えた方がありがたい、とも感じられる
もので。

 いずれにしても罪状の重い人達による「閻魔帳」を自ら晒しに
来ているようなものですから、このあたりの「マチズモ」の崩壊が
力の喪失と共にいかに哀れになっていくかを生暖かく見守るかが
ありありとわかるような類の本なので、とてもストレートには
描かれない政治的色彩を持った「踏み絵本」なのは確か。
ま、「綺麗に捨ててある黄色いゴミ捨て場」で拾うには格好の
本なのかもしれません。

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