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2011年7月22日 (金)

なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか

 これが、劇映画だと「作る」というのだが、ドキュメンタリーだと「撮る」というのは何故だろう、でも、何となくそういう言い方が相応しいところが面白い。

『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(想田和弘著/講談社現代新書/2011年7月20日刊)

 想田氏は自らのドキュメンタリー映画を「観察映画」という呼び方をしている。確かに、今はドキュメンタリーはビデオ撮影が普通になっている。例えば16mmフィルムだと普通は100フィート巻きのネガを使うのだから大体3分半位、400フィート巻きネガで10分位で撮影ロールが1ロール終わってしまう。それがビデオだと60分位のテープが普通であるから、あらかじめショットの長さを決められないドキュメンタリーにとっては、それは画期的なテクノロジー上の変化である。想田氏は資金的なことをその要素として上げるが、そうした資金的な問題だけでなく、もっと技術的な問題、撮影テクニックに関わる問題などもクリアしてくれたのだ。おまけにハイビジョン・カメラ(30i、60i、30p、24pなどを選べる)の廉価化ということもあって、低廉な資金で高画質のフィルムを作れることが可能になったという、テクノロジーの進展がいまやドキュメンタリーはビデオで撮るのが当たり前という時代になった。マイケル・ムーアの作品も、あの反捕鯨ドキュメンタリー『ザ・コーブ』もそうだし、劇映画の世界も『ブレアウィッチ・プロジェクト』のような低廉作品だけでなく、『スターウォーズ』なんかの大作も、いまやビデオ撮影なのだ。

 とはいうものの、やはり想田氏の言うところの「観察映画」は、そうしたテクノロジーの結果であることは言をまたないだろう。

 では、その「観察映画」の方法論とは何なのだろう;

(1)被写体や題材に関するリサーチは行わない。

(2)被写体との撮影内容に関する打ち合わせは、(待ち合わせの時間と場所など以外は)原則行わない。

(3)台本は書かない。作品のテーマや落とし所も、撮影前やその最中に設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない。

(4)機動性を高め臨機応変に状況に即応するため、カメラは原則、僕がひとりで回し、録音も自分で行う。

(5)「必要ないかも?」と思っても。カメラはなるべく長時間、あらゆる場面で回す。

(6)撮影は、「広く浅く」ではなく、「狭く深く」を心がける。「多角的な取材をしている」という幻想を演出するだけのアリバイ的な取材は慎む。

(7)編集作業でも、あらかじめテーマを設定しない。とにかく撮れた映像素材を何度も観察しながら、自分にとって興味深い場面をピックアップし、場面ごとにシーンとして構築してみる。シーンがだいたい出揃ったら、それらをパズルのごとく順番を並べ替えたり、足したり引いたりして、徐々に一本の作品としての血を通わせていく。その過程で、一見無関係なシーンとシーンの間に有機的な関係を見出したりして、徐々に自分の視点やテーマを発見していく。発見したら、それが鮮明になるように、更に編集の精度を上げて行く。同時に、映画として見応えがあるように、編集のリズムやドラマティックな構成を整えていく。

(8)ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。それらの装置は、(使い方にももちろんよるが)観客による能動的な観察の邪魔をしかねない。また、映像に対する解釈の幅を狭め、一義的で平坦にしてしまう傾向がある。

(9)観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、余白を残す。その場に居合わせたかのような臨場感や、時間の流れを大切にする。

(10)制作費は基本的に自社(僕と妻だけの小さな制作会社「ラボラトリーX」)で出す。カネを出したら口も出したくなるのが人情だから、ヒモ付きの投資は一切受けない。作品の内容に干渉を受けない助成金を受けるのはあり。

 ということだ。

 つまり、これは私が学生の時に「現象学的ドキュメンタリーの試み」として作りかけた16mmフィルムとほぼ同じような考え方に基づく作品の方法論なのだけれども、こちらはオール・ラシュを作ったところで資金的にショートしてしまい、未だに完成していない。この辺、生まれた年代の違いというか、ともあれ彼我の差を思い知らされる。私も20年後に生まれていればなあ、と考えても実際にはそうなっていないのだから仕方がない。まあ、想田氏の活躍を横目で見ながら、私の「現象学的ドキュメンタリー」をシコシコと完成させようかしら、定年後の仕事として。

 で、結局この本でも問題になるのは「ドキュメンタリーは客観的真実を描くのか」という問題と「ドキュメンタリーとフィクション」という二大問題なのだが、それは軽々とクリアしてしまう。まず「ドキュメンタリーと客観的真実」という問題には;

『観察映画の「観察」は、必ず「参与観察」とい意味になる。参与観察とは、文化人類学や宗教学などで使われる用語で「観察者も参加している世界を、観察者の存在も含めて観察する」ということである。要するに、観察映画では必ず、作り手である僕自身も含めた観察になるわけである。』

 ということ、つまり、ドキュメンタリーが描く「真実」とは「客観的真実」ではないし、そんなものはあり得ないということなのである。そこにカメラと撮影者というものが介在する限りは、被写体である人たちはカメラや撮影者を意識するわけで、そんなのころで100パーセントの客観的真実はあり得ないということ。つまり、それは「カメラに写された真実」にすぎないということなのだ。同時に、それは撮影者自身を写すカギでもある。写している筈の撮影者は、同時に被写体から見られることでもって、その映像には撮影者自身が写っているのである。同時に、撮影者は観客からも見られている訳で、そんな二重の形でカメラを挟んで「被写体」と「観客」の双方から見られている存在、それが撮影者でありドキュメンタリーの製作者なのである。

 もう一つの「ドキュメンタリーとフィクション」はもっと単純だ。だって、実写映画の役者Aは役柄A'を演じているわけなのであるが、役者Aとしてはフィクションとして役柄A'を演じていると考えているのであるが、実は役柄A'を演じている役者Aの姿を観客は見ているという、まさにドキュメンタリーなのである。

 つまり、全ての映画はドキュメンタリーであり、その方法論にはいろいろあるが、結局は「映像的真実」が、どういったものが真実かは別として、あるということなのだろう。

 まあ、ドキュメンタリーに集約されない劇映画としてはアニメーション位なのだろうか。

 う~ん、アニメも押井守に言わせるとね・・・・・・。

 

 

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