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2011年7月

2011年7月31日 (日)

二つの大森貝塚

 弥生時代の登呂遺跡、縄文時代の大森貝塚として、小学生でも知っている大森貝塚なのだが、実はそれが二つあるって知ってました? えっ、知ってるって? そうですか、知らなかったのは私だけなのね、じゃあさよなら・・・・・・。

 という訳にはいかないのだ。先日、蒲田まで仕事で行く途中みかけた「大森貝墟」という碑がなんか昔見た「大森貝塚」の碑と違うな、と思ったのがきっかけであった。ということで、大森まで出かけたと思いねえ。そしたらそこにあったのは二つの「大森貝塚(墟)」の碑であった。

2011_07_30_048_2 これが「大森貝塚」の碑。品川区大井6-21-6の大森貝塚遺跡庭園の中にある。

2011_07_30_017_2 これが先日、電車の中から見た「大森貝墟」の碑。大田区山王1-3にある。今はNTTデータ大森山王ビルの敷地にある。勿論、立入可能。

 実は、大森貝塚を発見したエドワード・モース博士が、その大森貝塚発掘の報告書である“Shell Mounds of Omori”に貝塚の住所や地図を載せていなかったことから、品川区と大田区の双方が自らの貝塚跡地に「大森貝塚(墟)碑」を作ってしまったというのが、その原因らしい。しかし、結局モース博士の発掘から100年後の1977年になって、大森貝塚発掘時の「発掘補償金」、つまり個人の持ち物だったのだろう当時の貝塚のあった場所を、貝塚発掘のために公のものにするために接収したのだろうその補償金の支払い記録が東京都公文書館で出てきて、それに記されていた発掘場所の住所が「大井鹿島谷2960番地」となっていたことから、現在、「大森貝塚遺跡庭園」となっている場所が「モースの大森貝塚」ということになったということだ。鹿島谷というのは、すぐ近所に鹿嶋神社があるから付けられた住所なのだろう。

 では、「大森貝墟」には貝塚がなかったのかといえば、そんなことはなく、ここにも貝塚はあったようで、現在の「大森貝塚」の一連の流れの中の貝塚の一部のようであったようだ。まあ、品川区・大田区といってもすごそばだし、当然、縄文時代には品川区・大田区なんてものはなかったわけだしね。

2011_07_30_025_2 大森貝塚遺跡庭園入り口。

2011_07_30_030_2 遺跡庭園の中の解説看板。縄文の時代は現在の京浜東北線(東海道線)の辺りまでが海岸線で、すこし高台になっている線路の西側が陸地だったようだ。そこで、この地に貝塚があるというわけ。しかし、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝塚を発見したというのは、如何に当時の汽車がゆっくり走っていたのか、あるいはモース博士の眼が良かったのか。

2011_07_30_061_2 貝塚のあった場所。

2011_07_30_041_2 で、これが復元貝塚。実際の地層にこんな感じで埋まっていたのだろう。それを汽車の窓から見つけたというのも・・・。

2011_07_30_056_2 モース博士が縄文土器を手にしている銅像。

2011_07_30_069_2 実際には品川市民の憩いの場なのだろう。子供たちも沢山遊んでいる。後ろに見えている白いドームの下に復元貝塚が入っている。子供たちは社会科見学かなんかで貝塚を見に来るんだろうな。

 大森貝塚のHPはコチラ→http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/jigyo/06/historyhp/midokoro/kaizuka/kaizuka.html

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2011年7月30日 (土)

『シモネッタのドラゴン姥桜』は下ネタばかりの自慢話

 シモネッタこと田丸公美子さんのエッセイはだいたいイタリア男に関する下ネタ話なのだが。ついに自分の息子まで下ネタの材料にしてしまったわけだ。

『シモネッタのドラゴン姥桜』(田丸公美子著/文春文庫/2011年7月10日刊)

『「お前達、開成に入ったのは自分の頭がいいからだなんてうぬぼれるなよ。いいか、お前達がここにいるのは、五パーセントがおまえらの実力、十パーセントが父親の財力、残り八五パーセントは半狂乱の母親の力だ」。中学入学後、ある先生のこの発言を聞いてきた息子がいいました。

「うちのお父さんは財力ないし、お母さんは放任だったから、僕の場合一〇〇パーセント実力ということになるのかなー」』とゴーマンかました息子の前で安閑としている母親。

 まあ、基本的には自分が何もしないのにも関わらず、息子が開成に入学して、東大法学部に現役入学し、おまけに在学中に司法試験に合格してしまった自慢話なのであるが、その自慢の仕方がすごい。なにしろ『「実はうちの息子が田丸君に巨乳ヌード写真を見せてもらったと申しましてね・・・・・・」。私は彼女の言葉を途中で遮って言った。「うちの息子に限って、そんな!! 彼は大きすぎるおっぱいは嫌いだ。小ぶりな手の平サイズがいいって、いつも言ってるんですのよ」。言ったあと「まずい、初対面でこんなこと言うべきではなかった」と後悔のほぞをかんでいると、E夫人、高らかに笑っておっしゃった。「まあ、坊ちゃんだけじゃなくって、お母様もユニークですこと!」アー、良かった。ジョークのわかる人だった。ほっと胸をなでおろす、しかし、もう一つの心配がわいてきた。私は、中学入学式の翌日、イタリア出張に出かけたのだが、その際、彼の部屋に無断でポスターを貼って行ったのだ。それは、アメリカ版「プレイボーイ」大判折込ヌード。巨乳の美しい裸体はピンアップガールのものなのだが、顔の部分には私の顔写真を貼り付け、そばにサインペンで「これを見てママを思い出してね」と書いておいたのだ。帰国したときには、壁にポスターは残っていなかった。「まさか、友達にあれを見せたのではないだろうか」。親の心配は尽きない。そして遅まきながら気付く。私こそ、半狂乱をはるかに超えた「日常性・全狂乱の母」なのだと。』といった話しのオンパレードなのだ。自分のヌードじゃなかったから良かったものの、こんなことをする母親はまずいないえだろう。おまけに息子のガールフレンドはみんなネタにしてしまうし・・・。

 だからこそ、司法修習生として研修が開始されると息子『俺の仕事には厳しい守秘義務がある。ものを書くあんたには、もう一切なにも言わない』と宣言されてしまうのだ。

 しかし、開成という学校もすごい。なにしろ現役・浪人あわせて毎年200人位の東大合格者がいるわけで、殆ど東大生の5~6パーセントが開成出身者。ということは東大の中でも試験の際などには当然開成出身者は有利なわけで成績は悪くはないはずだ。でも、そんな開成は実際には毎年5月の第二日曜日(母の日)に行われる運動会を軸にまわっている学校なのである。高校2年のときの運動会が終了すると、そのままクラス替えのない高校3年の運動会までの1年間は完全に運動会の準備に費やされるのだ。そして高校3年の運動会が終了すると大学入試への受験勉強が始まる。で、一学年の半分くらいは東大を受験する、というとんでもない学校であり。おまけにセンター試験の会場は自分の学校で受けるという、これまたとんでもなく有利な条件で受験をするのだ。ただし、学校での受験指導は一切なし、受験勉強も一切なし、それでいて5パーセントも東大生がいるというのは、地アタマが良いということ? というか、まあ人間というものは如何に環境に左右されやすい存在であるか、ということなのだろう。

 まあ、そういうこと。

2011年7月29日 (金)

「なでしこフィーバー」にセルジオ越後が吼えている

 所詮私も「にわか」の一人なんで偉そうなことは言えないが、セルジオ越後氏が『週刊SPA』で「ニワカ・ナデシコJAPANフィーバー」に吼えている。

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 まずは法政大学サッカー部との合コンで熊谷沙希選手の言動がツイッターで流出し、日本サッカー協会がそれに注意し、佐々木監督が謝った件について『合コンのどこいけないの? 騒ぎにはなったけど、そもそも選手のサポートさえきちんとできないサッカー協会に注意する資格などないよ。合コンがいけないなら、男子サッカーや野球をはじめ、すべてのスポーツがいけないということになってしまう。』とまずサッカー協会を切り、『サッカーと全然関係ない取り上げ方をするワイドショーの善悪はさておき、商売だから仕方ない。それを望む視聴者がいるから、結婚や恋愛について聞くわけでしょ』と、メディアまで切りまくる。まあ、確かに「結婚したいですか?」とか「彼氏はいますか?」「将来、子どもは欲しいですか?」なんてサッカーとは何の関係もないことを質問したり、「女性だけのチームをまとめるのって、大変でしょう?」「オヤジギャグは、女性の心をつかむため?」「全国の女性部下を持つ上司たちが、監督のノウハウを知りたがるでしょ」なんてことしか聞けないマスコミのレベルの低さは、テレビを見ていてもイラつくばかりだ(まあ、だからあまりテレビはみないのだけれどもね)。

 さらに『一過性のブームを作った張本人のメディアが(一過性のブームにしてはいけないと)、何を言ってるんでしょうね(苦笑)。今は不景気だし、メディアはなでしこの人気があるうちに骨までしゃぶりつくす気です。数字が取れれば何でもアリで、しかも売れる素材にもかかわらずロイヤリティはタダだから、こんなおいしい話しはない。タダ乗りですよ! 確かに、元東電の2選手(鮫島、丸山)についての報道はちらほら見かけるけが、では、移籍先に窮した元東電のほかの選手の報道をしたメディアはありますか?』とメディアに対して手厳しい。

『例えば、澤がリーダーとなって、今、せっかくブームなんだから、番組やCMにバンバン出て、稼いだお金をプールして代表選手で山分けする。追いかけ回すようなルールを守らないメディアは取材拒否してやればいい。今、メディアはなでしこを散々食い物にしてるが、逆に利用してやるんです。大事なのは、代表全員がお金を得ること。』という、至極真っ当な提案をするのだが、しかし、それが出来てれば問題はない。問題はそんな仕切りをする人がいないということなのだろう。電通や博報堂あたりがやりそうなものなのだが、ドイツに行く前のなでしこに興味を持った代理店はなかたっただろうし、丸山選手と契約したホリプロにしても、結局は優勝してなでしこフィーバーとなって初めて契約に漕ぎ着けたのである。つまりはそれこそ「想定外の出来事」だったのである。

 とはいえ、ワールドカップの優勝で男の子に混じって活動するしかなかった、全国のサッカー少女の夢は膨らむ。しかし、そんなサッカー少女の夢に対しても『そんなサッカー少女の夢の受け皿となる場がない・・・・・・。底辺拡大の努力をしない文部科学省やサッカー協会は、もっ批判されるべきです』とあくまでも、基本的に文部科学省とサッカー協会には手厳しいセルジオ越後氏であった。

 納得。

2011年7月28日 (木)

『パンプキン!』は大人でも必読書だ

 不勉強にもこんな爆弾があったことは知らなかった。題して「パンプキン爆弾」。長崎に落とされた原爆「ファットマン」の模擬爆弾である。

『パンプキン! 模擬原爆の夏』(令丈ヒロ子著/講談社/2011年7月26日刊)

 本書は、そのパンプキン爆弾を落とされて死者10人を出し、負傷者85人を出した大阪市東住吉区田辺の話である。その田辺に住む主人公の少女・ヒロカは、東京から来たいとこのたくみによって自分の家の近所にある慰霊碑のことを知らされる。その慰霊碑は大阪に落とされた模擬原爆の碑であった。興味を持ったヒロカはたくみやお祖父さんに教わりながら、その模擬原爆のことを夏休みの自由研究の課題として選ぶのであった。

 しかし、このパンプキン爆弾、長崎に落とされる前に日本の北海道以外の各都市35か所位に落とされて、当然500人近くの人の命を奪っている。多分、どの都市に落とせば有効なのかということを調べるという事もあったのだろうし、一方、この種の形の爆弾の投下した際の降下曲線も知りたかったのだろう。つまり、多分、こうした形の爆弾はそれまでになかった形なので、どういう落ち方をするのかを知らなければ、正確に目標を射とめられない。失敗の許されない攻撃なのだ。

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長崎に落とされたファットマン

 それに比較すれば、広島に落とされたリトルボーイは一般の爆弾と同じような形をしているので降下曲線は大体わかっているので、それほどの予行演習は必要はなかったのかもしれない。

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広島に落とされたリトルボーイ

 広島に落とされたリトルボーイはウラン原爆、長崎のファットマンはプルトニウム原爆という違いがある。

 多分その形の違いは原爆の内部構造の違いなのだろう。プルトニウム原爆は真ん中にプルトニウムを置いてその外側に通常爆弾を入れて爆発させて臨界に持っていくという方法論だし、ウラン原爆は筒の一方にウランを置いて逆側にぶつけるという発想。だから、こうした爆弾の形の違いになるのだ。その結果としての予行演習なのだろう。

 ただ一つ間違えて伝えられているのは、原爆のひとつが皇居に落とされたがそれは不発弾だったという話。実は、それはこのパンプキン爆弾であり、残念ながら呉服橋に落ちたようなのだ。まあ、もっともそこに落としたパイロットは更迭されて広島に爆撃した時は原爆搭載機への機乗は許されず、同行機への機乗となってしまった。

 普段は青い鳥文庫『若おかみは小学生!』シリーズで有名な令状ヒロ子氏であるが、こんな硬派なテーマで書くとは思わなかった。

 これは大人でも必読書であろう。

2011年7月27日 (水)

『通貨戦国時代』というより円高賛成!

 要はアメリカの経済状況が悪くなった、弱くなった、地盤沈下したということなのだろうな。

 米ドルの相対的な地盤沈下と人民元をはじめとする新興国の通貨の上昇がバックにあって、その中での日本円の円高なのだが、つまりそれは「円高なのではなくドル安ポンド安」なのである。

 そんな日本の円高対策として8っつの方法を提案する;

1)コストカット

2)外貨の支払いを増やす

3)為替ポジションのネッティング(相殺)

4)現地生産

5)通貨の分散化

6)円建て輸出を増やす

7)海外資産の圧縮

8)金融商品を使った圧縮

 実はこの8っつの方法は既に日本企業が取り入れている方法にすぎない。既に企業側はこうした方法で円高をやり過ごしており、つまり、新聞・テレビといった「遅れてきたマスコミ」が円高を問題視しているだけであり、実は企業としては大した問題ではないと考えているのだ。

 最早ドル安トレンドはもうどうしようもないところまで来ている。以前のような円高ドル安基調は単なる円高だったが、いまやドル安ポンド安基調は、円高、人民元高、ユーロ高(といってもドイツだけだけどね)という、アングロサクソンの世界覇権がゆるゆると敗れてきているという事なのだ。

 したがって、むしろ今の円高ドル安ポンド安は好感をもって迎えるだけであり、なにも恐れることはない。むしろこれからは欧米中心の経済からアジア中心、南米中心の経済になっていくという経済覇権の移動ということなのだろう。

 なにしろ、デフォルト(債務不履行)に陥ってしまいかねないアメリカ経済なのだ。最早、世界経済はアメリカ離れが起きて、更にはヨーロッパだってドイツ以外は経済的にはギリシャ、ポルトガル、アイルランド、スペインなんてところは最早青息吐息だし、結局は各国とも円買いに走らざるを得ない状況になっている。つまり、どうやっても円高に振られる方向に世界は移っているのだ。円が基軸通貨になるなんてすごいじゃないか! 円が世界の決済通貨になりかねないのだ! となると、今の民主党政権じゃ対応できないかもね。

 まあ、個人的には海外旅行や海外からのモノの購入なんかは実にラクになるわけだしね。おまけにデフレで国内商品も値段が下がってくれれば、もう結構毛だらけじゃないか。

 ということで、円高賛成!

 

2011年7月26日 (火)

『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』って結局日本人はひとつということかよ

 まあ、世界の人類の元である、というかいまでもそのままである「ホモ・サピエンス」が生まれたのはアフリカであるという事は分かっている。問題は、同じ「ホモ・サピエンス」でありながら「縄文人」と「弥生人」が別なのは何故かとか、縄文人は結局弥生人に駆逐されてしまったのか、ということなのだ、興味の行くつく先は。

『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』(溝口優司著/ソフトバンク新書/2011年5月25日刊)

 要は縄文人の元は「スンダランド」という氷期に海水面が下がった、マレー半島とスマトラ、ジャワ、ボルネオなどの島が繋がった場所から来た、オーストラリア原住民(アボリジニ)などの祖先と同じくする人たちだそうだ。まあ、それはいい、そんなもんだろうな。

 問題は、元々いた縄文人の場所を次第に侵略してきた弥生人って何だろう。縄文人よりは背が高く顔が長いのが弥生人だそうだ。しかし、いまの「平たい顔の人種」といわれる日本人の顔は基本的に弥生人の顔なのである。じゃあ、その平たい顔をした弥生人はどこから来たのだろうか。

 本書によれば、一番多かったのは縄文人と弥生人の混血なのだそうだ。確かに、縄文人の祖先が大陸から日本列島に来た時とは違い、今回は途中に海がある。その海を越えてくる弥生人の大半は男だろう。で、その男たちが縄文の女たちとヤッちゃうんだよな(同じ、ホモ・サピエンスだから問題はない。そんなことで弥生人と縄文人との混血がどんどん進んで、結局、縄文人と弥生人の見分けがいつの間にかつかなくなって、まあ、みんな普通の日本人になっていったのだろうな。

 こういうときに、東北縄文文化説を言う赤坂憲男氏あたりはどういうのだろうか。

 この本の著者であるみ溝口氏は、どちらかと言えば「形態」から人類を分類しようという立場の人だ。つまり、文化的な領域から「東北=縄文」と「西国・東国×東北」という連関を考える赤坂憲男氏なんかとは立場が違うのだ。

 まあ、そんなことで、文化人類学者の立場から東北の時代を見るのか、あるいは歴史学者の立場かた言うのか、それここの本の著者である溝口風、人類学でもって答えるのか・・・。特に東北という事だけじゃなくて、日本という島国の中で考えなくちゃいないってことですね。

 まあ、それで決定。

 所詮は「ホモ・サピエンス」なんだもんなあ。

 

 

2011年7月25日 (月)

『泥まみれの死』ばかりじゃない

『泥まみれの死 沢田教一ベトナム写真集』(沢田サタ著/講談社文庫/1999年11月15日刊)

 1965年、第9回ハーグ世界報道写真展グランプリ、第23回USカメラ賞、1966年、ピューリッツァー賞、アメリカ海外記者クラブ賞、第24回USカメラ賞、第10回ハーグ世界報道写真展第1位、第2位、1967年、アメリカ海外記者クラブ賞、1968年、第26回USカメラ賞、1971年、ローバート・キャパ賞、講談社文化賞、アサヒカメラ賞。以上が、沢田教一が受賞した数々の写真による賞である。

『泥まみれの死』というのが本のタイトルだが、表紙に使われている写真は「泥まみれの死」ではなく、ピューリッツァー賞に輝いた「安全への逃避」という砲弾飛び交う中、川を渡って避難してくる2家族の有名な写真である。勿論、「泥まみれの死」という第10回ハーグ世界報道写真展ニュース写真部門第1位になった、解放戦線兵士の死体を、その足に縄を引っ掛けて兵員輸送車で引っぱっている写真も掲載されているし、同じくニュース部門第2位になった「敵をつれて」という写真も掲載されているし、ロバート・キャパ賞を受賞した、年老いたカンボジア難民が戦火を逃れるために助けられながら堤防を下る写真も掲載されている。ただし、ロバート・キャパ賞は沢田氏の死後受賞したために沢田氏本人は受賞を知らない。

 35mmと50mmレンズを付けたライカM3、50mmレンズ付きの方にはライカ・メーターが付いており、35mmレンズ付きの方には外付けファインダー、そして多分135mmか200mmの望遠レンズ付きのニコンFというベトナム戦争取材の標準装備。そして黒く塗られたジュラルミン製のカメラバッグ。カッコイイ。当時は35mmが広角レンズの一番広いレンズであり、ズームレンズは使い物にはならないレンズだった。つまり、今の戦争取材では24-50mmか16-35mm位の標準・広角ズームと70-200mm位の望遠ズームを備えたデジタルカメラで全ての被写体にむかって準備するわけであるけれども、そんな優柔不断な撮影方法ではなく固定焦点レンズでフィルム撮影という割り切り方(というかそれしか方法がなかった)をして取材にあたるのである。フィルムにしてもモノクロはトライXはあったが、カラーはまだかなりISO(当時はASA)感度も低いフィルムしかなかった。

 つまりそんないさぎの良さが当時の戦争フォトグラファーなのである。そんな戦争フォトグラファーたちはカメラを持っていると、どんなところにも行けてしまうという蛮勇が売り物だった。つまり、兵士たちがM16ライフルを所持しヘルメットを被っていればどんなところにも行けたように、戦闘が激しくてもカメラさえ持っていれば大丈夫。ということで、どんどん危険な場所に行ってしまう。しかし、それは自らの命を弄ぶことになるのだが・・・。

 石川文洋氏の写真では、勿論、米軍兵士に弄ばれた解放戦線兵士の死体などのような壮絶な写真もあるが、一方でつかの間の平和な時間にペーパーバックスを読む兵士のような、静かな時間を写し取った写真が有名だが、沢田氏の写真はどうも危険な戦闘場面が多いような気がする。つかの間の平和な写真も結局は次の戦闘に備えて眠る兵士のような、あまり「平和な」写真ではない。自ら望んでそんな風になったわけではないだろうが、そんな危険な場所を求めていくような沢田氏の姿勢が、1970年10月28日のカンボジアでの殉職につながったのではないだろうか。沢田氏と親しい友だちの記者が「そんな危険を冒すのはやめたほうがいい。望遠レンズを使え。吹き飛んだ兵士のクローズアップを撮るのはよせ――とな。だが彼にはいっても無駄だった」というように、あるいは当時のUPIバンコク支局長だったレオン・ダニエルが言うように「沢田は勇気の人だった。つまり、われわれ大半のものよりも恐怖を押隠すのが巧みであった。しかしそうだからといって、彼がまったく計り難い人間だったのではない。私はある一夜を思い起こす。その夜、われわれが迫撃砲の猛撃の間、浅い窪みに伏せていると、そんの1秒前に海兵隊の若い中尉がいたと思しきあたりから、その肉片をもろに浴びせられたのだ。あの夜、われわれは震えていた。震えない人間こそ計り難いのだ。」とは言いながら、かれが計り難い人間になっていったのだった。

 その結果の死。それはある意味ではやむを得ない死なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。だれも死の真相なんて知るものはいないのだ。ただ、そこには死があるのみであり。石川氏のように同じような体験をしながら、生還する人間と、死ぬ人間がるだけなのだ。

 つまり、それが戦場だということで・・・。

 

2011年7月24日 (日)

『江成常夫写真展 昭和史のかたち』

 あまりにもしつこいのでもう辞めようと思うが、石原慎太郎都政における唯一の善政である東京都写真美術館で『江成常夫写真展 昭和史のかたち」を見てきた。

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 考えてみれば「昭和」という時代はまさに戦争だけの時代だった。1918年に第一次世界大戦が終結したというものの、1927年(昭和2年)には既に山東出兵があって中国への侵略が始まり、1928年には張作霖爆殺事件があり、1931年の満州事変を経て1932年には満州国という植民地が建国されるという、その後の日中戦争、太平洋戦争に至る重要な時期ではあった。その後、1945年に太平洋戦争に負けていわゆる「戦後」となったわけではあるけれども、その後も朝鮮戦争、ベトナム戦争とその後の南アジアの戦争。アフガン戦争、中東戦争と戦乱が収まるときはなかった。

 今でも、世界中を見回せば必ずどこかで戦争・戦乱が行われているわけだが、とりあえず日本という場所からだけ見ていれば、戦争はない。ただし、日本国内では戦争以上の混乱が起きているけれどもね。

 とまあ、その前の明治、大正から今の平成になるにいたるまで、日本が世界の国々と関わる以上、そこには「戦争」というものが必ず控えているのである。

 江成氏はそんな昭和と戦争のかかわりについて、写真家として問い詰めるのである。写真展は『鬼哭の島』としてハワイ、ガダルカナル、ラバウル、マダン、ビアク、ペリリュー、レイテ、サイパン、テニアン、硫黄島を訪れた後、最後に沖縄へ行く。沖縄では軍人だけではない軍属や一般人も含め大量の死者を出したのだが、その大半は米軍に殺されたのではなく、むしろ日本軍の「死して虜囚の辱めを受けることなかれ」という指示のもと、自死や無謀な米軍に対する突撃でもって殺された人たちなのである。

 また、その他の島での戦死者にしても本当に米軍や豪軍と戦って死んだ兵士よりは、餓死や病死が多かったという事実は、まさしく日本軍が「兵站=ロジスティック」という発想がまったくなく、「食料は現地調達」というそれこそ400年も前の戦国時代の兵糧作戦と同じ発想によって戦争をしていたという証拠に他ならない。実はそんなロジスティック無視という発想は、さすがに今の自衛隊ではないのであるが、多くの企業の海外進出に関しては今でも同じなのである。勿論、食料代を出さずに現地調達せよという企業はないが、食料代は出すから基本的に現地調達が基本である。海外に自社の出先を作るからといって、そこに食堂要員まで派遣する会社はない。でも、海外派遣された社員が「日本食を食べる権利」なんてことを言い出したらどうするんだろう。まあ、今のところそんなことを言い出す社員は一人もいなかったということですね。でも、これからは「海外(アジアや南米、アフリカ)に行けば贅沢暮らしができる」という保証はなくなってしまうのだから、これからの日本企業はそんなことも考えながら海外進出を考えなければいけない時代になっていくのだろうな。

 で、次は『偽満州国』『シャオハイの満州』であるが、「シャオハイ」とは中国語で「子ども」のことだそうだ。つまり、小さな子供の頃に満州に捨て置かれたしまった、いわゆる「残留孤児」のこと。つまり日本政府による「棄民政策」によって捨て去られた人たちなのだ。数千人いるとされるこうした人たちに対するケアもまだなされていない。

 そして『ヒロシマ』『ナガサキ』である。もう言をまたない。非戦闘員である彼らが何故被爆・被曝しなければならなかったのか。戦争が壮大な実験場であることは認めよう。しかし、広島・長崎合わせて数十万の非戦闘員を実験材料にしていいのだろうか? その結果、アメリカは原子力開発において圧倒的な有利な立場に立った。だからこその、チェルノブイリにおけるソ連政府の迷走ぶりと、スリーマイル島におけるアメリカ政府の冷静な判断との差がでたのであろう。しかし、その理由としてヒロシマ、ナガサキの実例をアメリカは持っているからというのでは、あまりにも日本をバカにしている発想ではないだろうか。それでは、その教訓は今回のフクシマで生かされているのであろうか? それにしても、「溶けた茶碗の塊」という写真の中の、その茶碗にある「楽」という文字は何なのだろう。何か、妙な皮肉にも思えてしまう。

 とまあ、いろいろ考えさせられた写真展ではあった。

『江成常夫写真展 昭和史のかたち』は9月25日まで開催中。

 で、外に出てみれば「ハワイアン&タヒチアン・フェスティバル」とかで、タヒチアン・ダンスを踊っているお嬢さんがいた(ただし、皆日本人)。やっぱり、現今の日本は「平和」なのかな。しかし、そのタヒチにしても、今やフランス政府がゴリ押ししている原発(ムルロア環礁における原爆実験)政策に反撥したポリネシア人たちがフランスからの独立を目指して頑張っていることも事実である。

 21世紀は、最早他国の人間が他国の民族を支配する時代ではないのかもしれない。・・・それを言ってしまえば、ハワイもそうか。そうだよな。

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2011年7月23日 (土)

『グランプリ』にはグランプリをあげられないなあ

 7月6日のエントリー『サヴァイヴ』(近藤史恵)の隣に並んで平積みされていたのがこの本である。しかし、ツール・ド・フランスの時期に近藤史恵氏のロードレース小説が出るのは、まあ、お約束のようなもんだけれども、なんでその同時期に出版されるのが「競輪小説」なんだ? それもSF作家が書いた競輪小説である!

『グランプリ』(高千穂遥著/早川書房/2011年6月20日刊)

 高千穂遥と言えば『クラッシャージョー』であり『ダーティーペア』である。SFといっても、いわゆるアメリカ式の本格SFではなくて日本式のSF。つまり、アニメーションと組み合わさった形でのSFということで、日本SFコンベンションなんかとは親和性の高い作家であるが、アメリカで大体開催されているワールドSFコンベンション(2007年は横浜で開催)とはちょっと違う作家という認識だ。

 そんな、高千穂遥は最近は「自転車作家」らしく、『自転車で痩せた人』なんて本を出したりしている。ということで、自転車作家らしく競輪小説を書いたのが本書である。

 第一章 日本選手権競輪では広島の瀬戸石松。第二章 高松宮記念杯競輪では名古屋の室町隆。第三章 寛人親王牌・世界選手権記念トーナメントでは福島の帆苅由多加。第四章 讀賣新聞杯全日本選抜競輪では東京の綾部光博。第五章 オールスター競輪では京都の都賀公平。第六章 朝日新聞杯競輪祭では北海道の池松竜。この6人に、この六話全部に絡んでくる八十嶋誠、賞金額で出場が決まった舘久仁夫、才丸信二郎の9人が第七章 KEIRINグランプリに出場するという話だ。あともうひとつ、月刊競輪専門誌である『けいりんキング』の新人記者、松丘蘭子の成長譚もある。まあ、普通のスポーツ小説。

 つまり、これは普通のスポーツ物の盛り上げ方である。いわゆるSF型の驚天動地型ストーリー進行ではない。しかし、本来の娯楽物のストーリー展開の基本である。まあ、つまり自分の領域の作品でない場合は、普通のストーリー展開で取り敢えず作っておこうかなというところなのだろうか。問題は、何故、高千穂がこうしたスタイルの小説を書こうとしたのだろうかということなんだけれども、なんででしょうね? 自分のよく知らない世界を描くことになってしまうと、作家というものはそういう風になってしまうのだろうか。あるいは・・・作家の才能の・・・なさ?

 ただし、私にとってはこれは面白い作品ではあった。自分が自転車によく乗っているということがあって、ヒルクライムとスプリントなどの違いはよく知っているということがあって、そのことからの自転車小説としての楽しみがある。競輪は賭けたことはないが、比較的見ているほうだ。つまり、捲りとか差しなんてのは知っている。一方、高千穂遥がSF作家であることは知っていたが、実は高千穂作品をまったく読んでいなかったからというところもある。つまり、高千穂遥というのはこうした結構凡庸な作品を書く作家なのだなという認識を持ったというものなのである。

 まあ、『グランプリ』という小説は、まあ、普通に雑誌か何かに連載でもしていれば読むかもしれないが、単行本で読むほどの話じゃないかな・・・という気がした。

 ちょっと残念、期待していた作品、つまり競輪記者が書いた以上のドラマチックな展開を読める作品になると思ったんだけれどもなあ。

 

2011年7月22日 (金)

なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか

 これが、劇映画だと「作る」というのだが、ドキュメンタリーだと「撮る」というのは何故だろう、でも、何となくそういう言い方が相応しいところが面白い。

『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(想田和弘著/講談社現代新書/2011年7月20日刊)

 想田氏は自らのドキュメンタリー映画を「観察映画」という呼び方をしている。確かに、今はドキュメンタリーはビデオ撮影が普通になっている。例えば16mmフィルムだと普通は100フィート巻きのネガを使うのだから大体3分半位、400フィート巻きネガで10分位で撮影ロールが1ロール終わってしまう。それがビデオだと60分位のテープが普通であるから、あらかじめショットの長さを決められないドキュメンタリーにとっては、それは画期的なテクノロジー上の変化である。想田氏は資金的なことをその要素として上げるが、そうした資金的な問題だけでなく、もっと技術的な問題、撮影テクニックに関わる問題などもクリアしてくれたのだ。おまけにハイビジョン・カメラ(30i、60i、30p、24pなどを選べる)の廉価化ということもあって、低廉な資金で高画質のフィルムを作れることが可能になったという、テクノロジーの進展がいまやドキュメンタリーはビデオで撮るのが当たり前という時代になった。マイケル・ムーアの作品も、あの反捕鯨ドキュメンタリー『ザ・コーブ』もそうだし、劇映画の世界も『ブレアウィッチ・プロジェクト』のような低廉作品だけでなく、『スターウォーズ』なんかの大作も、いまやビデオ撮影なのだ。

 とはいうものの、やはり想田氏の言うところの「観察映画」は、そうしたテクノロジーの結果であることは言をまたないだろう。

 では、その「観察映画」の方法論とは何なのだろう;

(1)被写体や題材に関するリサーチは行わない。

(2)被写体との撮影内容に関する打ち合わせは、(待ち合わせの時間と場所など以外は)原則行わない。

(3)台本は書かない。作品のテーマや落とし所も、撮影前やその最中に設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない。

(4)機動性を高め臨機応変に状況に即応するため、カメラは原則、僕がひとりで回し、録音も自分で行う。

(5)「必要ないかも?」と思っても。カメラはなるべく長時間、あらゆる場面で回す。

(6)撮影は、「広く浅く」ではなく、「狭く深く」を心がける。「多角的な取材をしている」という幻想を演出するだけのアリバイ的な取材は慎む。

(7)編集作業でも、あらかじめテーマを設定しない。とにかく撮れた映像素材を何度も観察しながら、自分にとって興味深い場面をピックアップし、場面ごとにシーンとして構築してみる。シーンがだいたい出揃ったら、それらをパズルのごとく順番を並べ替えたり、足したり引いたりして、徐々に一本の作品としての血を通わせていく。その過程で、一見無関係なシーンとシーンの間に有機的な関係を見出したりして、徐々に自分の視点やテーマを発見していく。発見したら、それが鮮明になるように、更に編集の精度を上げて行く。同時に、映画として見応えがあるように、編集のリズムやドラマティックな構成を整えていく。

(8)ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。それらの装置は、(使い方にももちろんよるが)観客による能動的な観察の邪魔をしかねない。また、映像に対する解釈の幅を狭め、一義的で平坦にしてしまう傾向がある。

(9)観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、余白を残す。その場に居合わせたかのような臨場感や、時間の流れを大切にする。

(10)制作費は基本的に自社(僕と妻だけの小さな制作会社「ラボラトリーX」)で出す。カネを出したら口も出したくなるのが人情だから、ヒモ付きの投資は一切受けない。作品の内容に干渉を受けない助成金を受けるのはあり。

 ということだ。

 つまり、これは私が学生の時に「現象学的ドキュメンタリーの試み」として作りかけた16mmフィルムとほぼ同じような考え方に基づく作品の方法論なのだけれども、こちらはオール・ラシュを作ったところで資金的にショートしてしまい、未だに完成していない。この辺、生まれた年代の違いというか、ともあれ彼我の差を思い知らされる。私も20年後に生まれていればなあ、と考えても実際にはそうなっていないのだから仕方がない。まあ、想田氏の活躍を横目で見ながら、私の「現象学的ドキュメンタリー」をシコシコと完成させようかしら、定年後の仕事として。

 で、結局この本でも問題になるのは「ドキュメンタリーは客観的真実を描くのか」という問題と「ドキュメンタリーとフィクション」という二大問題なのだが、それは軽々とクリアしてしまう。まず「ドキュメンタリーと客観的真実」という問題には;

『観察映画の「観察」は、必ず「参与観察」とい意味になる。参与観察とは、文化人類学や宗教学などで使われる用語で「観察者も参加している世界を、観察者の存在も含めて観察する」ということである。要するに、観察映画では必ず、作り手である僕自身も含めた観察になるわけである。』

 ということ、つまり、ドキュメンタリーが描く「真実」とは「客観的真実」ではないし、そんなものはあり得ないということなのである。そこにカメラと撮影者というものが介在する限りは、被写体である人たちはカメラや撮影者を意識するわけで、そんなのころで100パーセントの客観的真実はあり得ないということ。つまり、それは「カメラに写された真実」にすぎないということなのだ。同時に、それは撮影者自身を写すカギでもある。写している筈の撮影者は、同時に被写体から見られることでもって、その映像には撮影者自身が写っているのである。同時に、撮影者は観客からも見られている訳で、そんな二重の形でカメラを挟んで「被写体」と「観客」の双方から見られている存在、それが撮影者でありドキュメンタリーの製作者なのである。

 もう一つの「ドキュメンタリーとフィクション」はもっと単純だ。だって、実写映画の役者Aは役柄A'を演じているわけなのであるが、役者Aとしてはフィクションとして役柄A'を演じていると考えているのであるが、実は役柄A'を演じている役者Aの姿を観客は見ているという、まさにドキュメンタリーなのである。

 つまり、全ての映画はドキュメンタリーであり、その方法論にはいろいろあるが、結局は「映像的真実」が、どういったものが真実かは別として、あるということなのだろう。

 まあ、ドキュメンタリーに集約されない劇映画としてはアニメーション位なのだろうか。

 う~ん、アニメも押井守に言わせるとね・・・・・・。

 

 

2011年7月21日 (木)

『セックス嫌いな若者たち』は日本民族の向かうべき目標なのだ

 16歳から19歳の男性の36.1%、20歳から24歳の男性の21.5%が「セックスに関心がないか、嫌悪している」というのだ。16歳から19歳の女性の58.5%、20歳から24歳の女性の35.0%が同じく「セックスに関心がないか嫌悪している」というのは分からないでもないが、男性の側の消極性についてはちょっとなあ、という気分にさせられる…今は。

『セックス嫌いな若者たち』(北村邦夫著/メディアファクトリー新書/2011年6月30日刊)

 女のことはよく分からないが、少なくとも16歳から19歳、20歳から24歳の男といえば、私なんかの世代では、頭の中は殆どセックスのことばかりだ。考えていることの半分くらいは女性とセックスをしたいということばかりの筈である。それが5分の1から4分の1くらいが「セックスに関心がないか、嫌悪している」という調査結果には、実際「何なんだ」ということである。

 まあ、いわゆる「草食系男子」が増えたとか、いまだに純愛ブームに縛られている「純愛信奉者」が増えたとか、「生身の女性より自慰が好きな人」「忙しかったり社会的立場が不安定だったりして、セックスに集中できない人」「セックスより夢中になれる趣味のある人」などなどが増えたという事もあるのだろが、よく分からないのが、本当にそんなにセックスのことを考えない人たちが増えたのだろうか、ということである。そのくらいの年齢、つまり16歳から24歳と言えば、精巣では精子がどんどん作られており、それを排出しなければならないという、生理的な欲求があるはずである。まあ、「生身の女性よりオナニーの方が」という人はせっせとオナニーに励むのだろうが、それでも「実は生身の女性とセックスしたい」と考えてはいないのだろうか。

「セックス→妊娠→社会的責任=結婚」という発想の中で、セックスを躊躇するというのは分からないでもない。当然、結婚という社会的なおこないの前には経済的な裏付けが必要になるわけで、そうした経済的な裏付けのない、現代社会では「結婚できない=社会的責任を果たせない→妊娠させちゃいけない→セックスしちゃいけない」というネガティブな発想もあるだろう。しかし、まあ、出来ちまえば出来ちまったように何とかなるものだし、若い人たちにはどんどんセックスをしてほしい。だって、50歳過ぎてしまえば例えばセックスしたくなっても、妻には拒否されたり、若い女の子たちには単なるお食事を御馳走してくれるだけの対象で、セックスの対象とは思ってくれなくなってしまうのだ。おじさんだって、たまには(本当にたまには)セックスしたくなるのだ、若い時のようにはしっかり勃起はしないけれどもね。

 おじさんだってそんな邪念を持っているのに、なんで若い人たちがまったくセックスに対する欲求を失ってしまうのだろうか。

『取材やカウンセリングで人々に会うとき、私は決まって、ある質問をします。「あなたにとって、セックスとはなんですか?」。悩んだ後、様々な答えが返ってきますが、最も多いのが「人と人との究極のコミュニケーション」というような答え。私も同感です。』

 と言っているが、しかし、実はセックスとは単なる男と女の欲情、劣情、欲求の、つまり単なる肉体的な欲のぶつかり合いでしかない。「究極のコミュニケーション」なんてカッコのよいものじゃない。所詮、人間とはいってもセックスに関しては単なる哺乳動物でしかないわけで、性欲の高まったオスとメスがまぐわうという交情にすぎない。そうした動物として当然の行いが少なくなってしまっている、ということは、多分、この民族の終わりがいよいよ近づいてきたということなのかもしれない。

 あと、200年位したらそれこそ「日本民族はここで終わり」というような事態がおこるのであろうか。まあ、そうなればそうなったで東アジアにいろいろな災厄をもたらした民族の終焉として語られるかもしれない。

 今後、縮小再生産しかしない日本民族に「乾杯!」………するしかないか。

2011年7月20日 (水)

今夜もひとり居酒屋

「居酒屋」とは言っても、今はやりの「2時間飲み放題○○○○円!」というようなチェーンの居酒屋のことではない。だいたい、親父ひとりか、その妻、あるいはせいぜい親戚の女の子が手伝っているような、あまり流行っていない、でもしみじみと懐かしさのある「居酒屋」のことである。

『今夜もひとり居酒屋』(池内紀著/中公新書/2011年6月25日刊)

 池内紀氏はドイツ文学者である。あのギュンター・グラス『ブリキの太鼓』や、ゲーテ『ファウスト』の翻訳者である。でも、そんな池内氏が超日本的な「居酒屋」について書くのだ。まあ、勿論池内氏も日本人であるから、日本式の居酒屋にも行くことはあるだろう。「独文と居酒屋の関係論」という深遠なるテーマにも一度挑んで欲しいものだ。結果は期待していませんがね。

 池内氏の「はじめに」が一番良い文章だ。本文はそれを検証するための資料みたいなもんで、この「はじめに」だけを読んでも、本書全体を読んだ気になれるというものだ。で、ちょっと長いけど、部分引用;

『居酒屋に人一倍したしむようになったのは、「二合半のおじさん」のせいである。三十代初めに出くわして三十年ちかくつき合ったそしていろんなことをおそわった。

 <中略> 

「へー、どうぞ」

 おやじが口をきいて扇子を差し出した。ひらくと品書きになっていて、湯豆腐三百五〇文、おでん三〇〇文、シラスおろし一七〇文などと並んでいる。店の作りと同じように値段も江戸にもどしてあった。

 酒は山形の初孫。「二合半」は「こなから」と読む。辞書にあるとおり一升の半分のそのまた半分の二合五勺、酒量にからめてほどよく飲むべしの教訓がこめてある。だからといって二合半で打ち切りというのではない。主人が手ずから役者のように形よくついでくれる。初孫からサントリーに移ってもいい。おやじによると、ウィスキーは角がよろしい。グラスにそそぐ手つきが、年季の入ったバーテンさんのようにあざやかだった。

 こちらが黙っていると、相手も黙っている。おかみさんはとりわけ無口なようで、おやじが話している間も、小さくうなずくだけ。そのうち木戸がきしんで顔がのぞいた。

「あいすみません、本日は早じまいといたしますので――」

 やっと二人目の客だというのに、すげなくおことわり。すでによそで酒が入っている人は立ち入らせない。

 へんくつだが、心をひらいたものには、こよなくやさしい。三十年もつき合うと、どんな人生を送ってきた人だか、しだいにわかってくるだろうに、いつまでも謎だった。若いころ北海道にいたらしいこと、おかみさんが姉さん女房であること、歴史小説が好きだということ、それはわかった。』

 ね、いいでしょ。あとは目次を辿れば;

Ⅰ 居酒屋への道

Ⅱ 食べる愉しみ

Ⅲ 呑む歓び

Ⅳ 千客万来

Ⅴ そろそろ看板

 ということで、居酒屋における飲み方やら、食べ方、騒ぎ方から静まり方、等々について書いてあるわけなのだけれども、それは一方で居酒屋側からの飲ませ方や食べさせ方、騒がせ方から静ませ方などに書いてあるわけで、しかし、それは実は人それぞれによって違うものなのだ。

 所詮、居酒屋に(日本料理屋やらフランス高級料理屋のような)ルールがあるわけではなくて、皆勝手に好きなものを食べて、好きな酒を飲んでればいいのだ。問題は、他のお客さんに迷惑をかけなければいいのである。もうひとつは、店の出す食べ物には文句を言わずに食べろということかな。店に文句をつけたって、店の味が変わることはないのであり、それに文句をつけるなら、もう行かなければいいだけの話しなのだ。

 ということで、まあ、居酒屋文化なんていうほどのものはないのだけれども、でも、そんなことを「もしかすると、あるかもしれない」と思わせるところが昔式の「居酒屋」なんだよな。「居酒屋文化」なんて言ったりしちゃってね。

 う~ん、とりあえず下記の小説、DVDを見ると良いだろう。高倉健が、この年になってもカッコいいのだ。

2011年7月19日 (火)

(私の)甲子園だけが高校野球じゃない、終了!

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EPSON RD1s Summicron 90mm (c)tsunoken

 ということで、私の応援しているチームも三回戦までは勝ち進んだのだけれども、結局、昨日の試合で敗退し、私の『甲子園だけが高校野球じゃない』は終了したのであった。また、来年お楽しみください、ってなもんである。

 ところで、愛知県188、大阪府187、神奈川県186、千葉県172、兵庫県161、埼玉県159、東東京150、福岡県135、南北海道128、西東京119、鳥取県25、福井県29、徳島県32、高知県33、山梨県38、島根県39、和歌山県40、香川県40、佐賀県41、奈良県42、って何の数字か分かりますか? って簡単ですよね。そう、今年の第93回高校野球選手権大会全出場校4,013校の県予選の出場校が多い順に10県、少ない順に10県を並べたものだ。

 一番多い愛知県と一番少ない鳥取県を比較するとなんと7.52倍。上記20県の比較でも4.41倍である。つまりこれが衆議院地方区の選挙だったら完全に違憲訴訟を起こされる状態である。であるにも関わらず、それを「不公平だっ!」という声は、少なくとも選手の間からは出てこない。まあ、その地域に生まれた運命だという事で受け入れているのであろうか。あるいはそんなことを言ってしまってはいけない、というか高校生が高野連に文句を言っちゃいけないという文化があるのか、無知なのか。抵抗策として、以前よくあった鳥取や島根に大阪あたりから野球留学するというのは、いまだに続いているのだろうか。

 いずれにせよ、所詮、国家の政策として太平洋岸地域に産業を集中して、国を繁栄させようとしたことから来たこの太平洋岸ベルト地帯への人口集中であるから、その結果そうした地域に人口が集中し、更にその結果、高校が沢山作られたということなのだから、やむを得ないことなのであるけれども、その意味では第8位の福岡県の健闘が目立つ。東京圏(東京、千葉、神奈川、埼玉、静岡《118校》)、大阪圏(大阪、兵庫)、東海圏(愛知)といったところは、所詮対アメリカ輸出において伸びてきた地域だというところだろう。アメリカがくしゃみをすれば風邪をひく地域である。それに引き換え福岡県がベスト10に入っているのは、この地域が日本で唯一アジアに顔を向けて仕事をしている地域であるということを知ってはいたものの、ここまで健闘しているとは思わなかった。基本的には韓国、中国、台湾相手の商売なのだろうけれども、しかし、これから我が国の経済にとって重要な地域になる、今ちょうど経済の高度成長を果たしている東アジアを相手に仕事をしている福岡県には期待するところ大である。

 これから多少の経済縮小を起こすであろうアメリカ経済を相手にしなければならない太平洋岸ベルト地帯ではあるけれども、今後もしばらくは日本経済の中心にはならならざるを得ないだろう。しかし、一方で東アジア経済を見据えた場合、福岡を中心とした北九州エリア経済も重要になってくる。太平洋岸ベルト地帯のような製造業中心の経済ではないだろう、というよりもその時代では製造業の拠点はアジア地域に移っているだろうから、むしろ福岡と北九州エリアは、金融・情報産業的なソフトな経済が中心の経済拠点になってほしい。それがうまく機能し始めた時に、日本の経済再生は行われるのだろう。雇用再生は無理だろうけれどもね。そちらは最早東アジアにおける問題なのだ。

第93回高校野球選手権大会出場チーム(朝日新聞より)

鳥取 25
福井 29
徳島 32
高知 33
山梨 38
島根 39
和歌山 40
香川 40
佐賀 41
奈良 42
大分 48
富山 49
秋田 50
石川 50
宮崎 50
山形 54
滋賀 54
岡山 57
長崎 58
愛媛 59
山口 60
栃木 63
沖縄 63
三重 65
熊本 66
岐阜 67
群馬 68
青森 73
岩手 73
宮城 77
京都 78
鹿児島 84
福島 86
新潟 92
長野 94
広島 95
茨城 102
北北海道 116
静岡 118
西東京 119
南北海道 128
福岡 135
東東京 150
埼玉 159
兵庫 161
千葉 172
神奈川 186
大阪 187
愛知 188
合計

4013

 という具合。まあ、こうして高校野球からも日本経済を語れるってことだな。

 というか、高校野球自体が日本経済の写し絵なのだった。

2011年7月18日 (月)

王子の狐、異聞

 狐が人間に騙されてしまうという落語の滑稽噺のネタになったのが王子稲荷神社である。稲荷神社であるから神社を守っているのは狛犬の代わりに狐がたくさんいる。今でも昼なお暗い木々に覆われた武蔵野台地東端の山中に作られた神社である。多分、昔は狐が沢山住んでいたのだろう、神社の裏には狐穴という小さな洞窟があり、いかにもそこが狐が住んでいたような洞穴なので、そこから『王子の狐』のネタが生まれたのだろう。

 ただし、現在は神社の境内の一番低いところは「いなり幼稚園」となっているので、ウィークデイは正門からは入れない。

2011_07_17_038_2 正門、ただし門をはいるとそこはいなり幼稚園の園庭になってしまうので、ウィークデイはこの門は使えない。

2011_07_17_036_2 一の鳥居から拝殿を拝む

2011_07_17_011_2 こちらが本殿、拝殿よりちょっと奥に行く

2011_07_17_017_2 で神社の一番奥、というか一番高いところにあるのが狐の穴。王子の狐の母子狐が住んでいた洞窟である・・・かどうかは知らない。明るく写っているが、実際にはかなり真っ暗であり、ほとんどピントを合わせることができない。

2011_07_17_007_2 こちらがウィークデイの入り口。幼稚園の脇にあるかなり急な坂道(勾配20%)を上がったところにある。奥の方に見えるのが拝殿。

EPSON RD1s Elmarit 28mm (c)tsunoken

 神社そのものは社伝に「康平年中、源頼義、奥州追討のみぎり、深く当社を信仰し、関東稲荷総社とあがむ」とあるので、当時の関東とは陸奥国までを含んでいたということなので、要は東国三十三国の稲荷の頭領という由緒のある神社なのだ。源頼義が奥州追討を行ったのは康平5年(1062年)のことであるから、その頃から既に大きな神社だったのだろう。

 元々はこの地が荒川の河畔にあったことから荒川の岸にあった神社ということで、岸神社と称していたのだが、元亨2年(1322年)、当地の領主・豊島氏が紀州熊野神社を勧請し、王子神社を祀ったことからここの場所が王子となったというように、王子の地名の由来もこの王子稲荷神社にちなんでいる。

 毎年大晦日の夜には関東一円の狐が集まって、この神社のそばの榎の下で装束を改めたという言い伝えがあり、その時の狐火を安藤広重が浮世絵にも描いている。今はその榎はなくなってしまっているが、その代わり、近所に装束稲荷というものができていて、毎年大晦日の除夜とともに、地元の人々によって、その装束稲荷から王子駅前を通って王子稲荷神社へ向かう「大晦日狐の行列」という行事が行われている。

 まあ、王子の地元に人たちにとっては狐というのは特別な存在なのだろうな。人間に騙されちゃう、可愛い狐なのだ。

 

2011年7月17日 (日)

まあ、やっぱり出版社はなくなってしまうんじゃないか、ということについて

 出版の業界紙『新文化』7月14日号に大沢在昌氏の講演の様子が掲載されていたので、それについて一言。

 大沢氏の講演自体は分かっていたのだが、都合でそれにいけなくて、結果として業界紙で読んでるという訳だ。

 で、大沢氏の話のキモは、これまで大沢氏自身も言ってきた「電子出版」の話なのである。多分、自分で電子出版社を起こした村上龍氏もそうだが、それ以上に「電子出版」について大きな興味を持って気を注いでいるのが大沢氏なのである。まあ、それには大沢氏以外にも宮部みゆき氏、京極夏彦氏という売れっ子作家を抱えた大沢オフィスならではの、今後の戦略も考えた方法論だ。基本的には大沢氏も「作家の稼ぎの中心は(今のところ)紙の書籍」ということは分かっているのである。問題は、それに至る道程をどのようにつけるのかということ。

 大沢氏はシリーズ10作目となる『絆回廊 新宿鮫X』を昨年から今年4月まで「ほぼ日刊イトイ新聞」で連載し、ということは紙の書籍出版の前に無料サイトで配信していたわけであるけれども、それは大沢氏が自身で言うように『話題になることは分かっていましたから、宣伝なんです』という言い方をしていたようだ。サイト「ほぼ日刊イトイ新聞』の読者は30代~40代の女性だというこから、多分その読者はそれまでの大沢作品や『新宿鮫』シリーズなんて知らないだろうから、その意味では新規読者の獲得にはつながっているわけなのでる。

 つまり、基本的に身を寄せているのは「紙の書籍」の方であり、ということは〈筆者〉→〈出版社〉→〈取次〉→〈書店〉→〈読者〉という、基本的な書籍流通の流れの中にいることとは承知してるのである。だからこそ、書店についてはちょっと厳しい言い方になってしまい、『何を選んでいいのか分からない読者に、本の知識があり、アドバイスができる店員もいない』とし、そうした『本の知識をもったカリスマ書店員は電子書籍のプラットフォームをつくる大手企業に吸収されてしまう』と予想する。

 半年くらい前の大沢氏はもうちょっと過激なことを言っていて、それこそもはや紙の書籍なんてものはなくなって、全部が電子書籍になってしまう。出版社なんてものもいらなくなってしまうかもしれない、なんて(電子書籍の推進者が言っていたそのままの言葉のような)ことを言っていたのだが、どうも最近は少し状況が変わってきたらしくて、『作家が読者に直接売ろうとしても、結局はクォリティが落ちる。優れた編集者と遣って行きたい』と、編集者がプロデュースする、校閲、装丁、宣伝、促進など出版社が持つ機能を意識し、『作家は下請けで、出版社からいつ切られるか分からない』としながらも『良い作品は作家一人の力では生まれない』という具合に、今の状況に再び戻るようなことを言っている。

 しかし、今確実に起こっている状況は、むしろ大沢氏が前に行っていた状況であり、つまり、優秀な編集者をアマゾンあたりが求めていたり、多分その先には優秀な書店員をそれこそアマゾンはアップルが求めるようになるだろう。そなれば、あのアマゾンのどうにも使えない「recommend」なんてものはなくるであろう。ほんとうに腹が立つんだよなあのAmazonのrecommendって。要は、それまでのAmazonの購入記録やクリック記録からしか読んでないものだから、本当に私が読みたいな、面白そうだなと感じた本が推薦されていることはまずなく、「もうそんな本はとっくに読んでるよ」「タイトルだけは見たけれども内容は面白そうじゃなかった」なんてことばっかりなのだ。まあ、Amazonではコンピュータによる属性検索とか嗜好検索でやっているのだろうけれども、それ自身が、もはや遅れているのである。

 まあ、形としては大沢氏が言うように、『出版社は販売元ではなく編プロになる』というのが一番未来図としては正しいんじゃないか。結局、プラットフォームをもった会社が今でいう出版社になってしまい、そこに雇われた編集者とか、その下請けをする(今の)出版社とかね。

 う~ん、それも世の中の流れなのかもしれない。

 

2011年7月16日 (土)

『「生き場」を探す日本人』はもしかすると新しい日本人のあり方かもしれない

 タイというとつい最近まで反タクシン派とタクシン派の衝突が話題になっていたわけなのであるが、それでも「ユルい」国なのだろうか。

『「生き場」を探す日本人』(下川祐治著/平凡社新書/2011年6月15日刊)

 下川氏と言えば『12万円で世界を歩く』や『5万4千円でアジア大横断』などで有名になったライターなので、旅行ライターなのかと思ったら、「外こもり」の若者たちに焦点を当てた『日本を降りる若者たち』などを書いて、要は自分自身が「日本を降りた」状態にある永遠のモラトリアム・ライターなのであった。でも、その下川氏がアジアの旅の結果行きついたのがオキナワであり『新書沖縄読本』を書いたのはちょっとびっくり。しかし、日本からアジアを見るという視点を、ちょっと逆にすればアジア放浪の果てにオキナワに辿りついてもおかしくはない、ということなのだろう。

 つまり、そんな下川氏が多分アジアで一番居やすい国が「タイ」ということなのだろうな。しかし、タイといえばつい最近までタクシン派(反独裁民主戦線)と反タクシン派(民主主義市民連合)の対立が武力衝突まで発展して、「えっ? そんなにユルくないじゃん」という気がしていたのだが、それでもユルい国なのだろうか、というのがこの本を選んだ理由だ。

 まあ、タクシン派と反タクシン派の対立軸がよく見えない。タクシン派が反独裁民主戦線を名乗っているのは、2006年の軍事クーデターによって首相の座を追われたタクシン氏が巻き返しのために「軍事クーデター」は「独裁政治」だといっているにすぎない。じゃあ、反タクシン派の民主主義市民連合ってなんなのさ、といってもその主張するところがどこにあるのかはよく分からない。実は、2006年のクーデター自体が、実はタクシン氏のインサイダー取引疑惑やら個人蓄財疑惑なんかの結果として勃発したものなのだった。

 大まかにタクシン派と反タクシン派の対立軸を言ってしまうと、北部の貧しい家庭に対するタクシン氏の政策が南部の都市化住民の不満の元になっているということのようだ。まあ、こういう対立は日本でもあることだし、ただし、日本では政治的対立にはなっても、即それが武力対立にまではならないということなのだ。

 で、今年の選挙の結果、タクシン派が勝利し、タクシン氏の妹であるインラック・シナワット氏が総理大臣になる見通しだという。まあ、所詮日本と同じ立憲君主国なのであるから、結局国民の王室(皇室)に対する尊敬の気持ちがある間は、政体がどう変わっても関係ない、ということなのだろう。これは日本も同じである。

 そうか、日本と同じ立憲君主国であるということが、実は重要なことなのであったのだ。それが「ユルさ」の原因なのかも知れない。日本もタイも「王様(天皇)」を冠としていただく国家である。なーるほどね、だって「君主」は統治しないでしょ、だからいいのです。で、その結果タイではユルくなるのです。

 で、そんなタイに「いる」人たちの話。

 最近は中高年の人たちが多いということなのだ。

 下川氏が以前書いたことでいえば、日本で(フリーターか何かの仕事で)稼いでタイに行く、という感じだったし、それそれで共感できる部分が多かったし、そのままタイで仕事を見つけてズッとタイに居続けるというライフスタイルもありかな、とは思っていたのだが、そのまま居続け年齢を経てしまった人もいる。そういう人たちにも二種類あって、元々タイに行きたかったのだから行ってしまって、そのまま居座ってしまった人、もうひとつは会社の命令でタイに行って、実はそこでタイを気にいってしまって、そのまま居続けるとか、タイを愛するあまり会社を辞めてしまいタイで起業をした人たちだ。

 で、そういう人が多いんだ。特に、定年前、定年後にタイに行ってロングステイをしているのだが、ロングステイなんだから仕事をしちゃあいけないのです。にもかかわらず、仕事をする人がいるらしい。ということで、最近は中高年のタイ在住者が増えているらしいのだ。

 私には信じられませんね。61際過ぎてまでも仕事をするなんて。もう、いいじゃん、タイに行くことも結構だとは思うけれども「そこで何をするかが大事だ」なんてことは言わない。何にもしないことが大事なのである。

 本書でも触れている「ふくちゃん」という人の話;

『ふくちゃんが日本語学校に採用されたとき、その経営者の面接があたという。経営者はタイ人と日本人のハーフだった。日本の学校を卒業し、その後、タイで学校をつくった。

「どうして日本に帰らないんです?」

 と経営者が訊いたとき、

「日本では辛いことばかりだった。日本を恨んでます」

 と答えた。そのとき経営者はこういったという。

「私と同じだ。私も恨んでいる」』

 つまり、日本では「余り人間」としてしか扱われなかった人が、タイでは「そこにいてもいなくても同じ人間じゃないの」として扱われるという気楽さがあるというのだ。

 もう、「なにをかいわんや」ですね。そんなん勝手にみんながすればいいじゃない。中高年になってアジアのどこかの国に行っても、それがタイでもマレーシアでもシンガポールでもベトナムでも中国でもいいじゃないか。金を持っている(中高年の<アジアからみれば>富裕層)はやはりアジアに金を落とすべきだろうし、そうじゃなくなくてもアジアの国々で闘ってきた日本チームだって、基本的に言えば「現地主義とはいいながら、結局は東京の本社には逆われない」わけで、その償いはどこかでしなければいけない。それが資本主義の「もう一方の」現実なのである。

 まあ、日本人がいつまでも日本にる必要はないんだし、特に定年で会社に引きずれられる必要がなくなった人たちが、いつまでも会社の周辺にいる必要はない。私も来年の9月以降は「隠居」するつもりだ。いやあ、本当に「隠居」ってどうなんでしょうね? 楽しそうだな。

 って、結局、下川祐治氏の本の書評にはまったくならなくなってしまった本日のtsunekenのブログだが、たまにはこういうこともあるさ。

 まあ、私も一回タイにでも行って、下川氏と同じような経験を持つ必要があるのかもしれないなあ。

 

 

2011年7月15日 (金)

『化合』とは段々ひとつになること・・・かな

 事件が起きたのは1990年6月14日。つまり、まだ携帯電話はそんなに普及していない時期であり、どちらかというとポケットベルの時代なのだな。『年に一度、の二人』じゃないけど、やはり今の携帯当然時代では描けない話もあるわけだ。しかし、そんなことは気にしない小説ってものが書けないものか。

『化合』(今野敏著/講談社/2011年7月7日刊)

 最初の被疑者にこだわり、彼を起訴しようとして、現場の刑事のあげる被疑者に対する、もしかしたら彼は違うんじゃないかという危険性や、別の被疑者がいる可能性を一切捨て去って突っ走ろうとする、事件捜査の指揮者である検事と、そうした検事の姿勢が冤罪を生むことになるのではないかという疑義から、別の可能性を徹底して調べようという刑事の対立はだいたい現場の勝利という、まあいつもの刑事物のスタイルなのではあるけれども、そのきっかけになっているのがいろいろあったバブル経済の後の日本社会である。

 何故、検事はそんなに起訴を急ぐのか? かれの先輩検事でその後弁護士に移った人がガンでもう僅かな命しかないという。その人の死の前に自らの存在を示しておきたかったというだけの理由である。おまけに日本では刑事事件で起訴された場合、その99パーセント以上の確率で有罪になってしまうという、検事と判事(裁判所)の癒着と言ってしまってはいけないのかもしれないが、まあ、近親関係があるのですね。つまり、かの検事が最初の被疑者にこだわり、なおかつ、どういう手を使ったかは分からないがその最初の被疑者が「おちた=自供した」とあっては、もはや検事としては最大限の喜びである。

 まあ、つまり司法試験という法律関係者をいっしょくたに採用する試験があり、研修期間があり、その後、検察官、判事、弁護士になるという、本来は別の立場で「法律」を見なければいけない三者が、実は同じ試験で選ばれた人間であり、そこには微妙な「先輩・後輩」関係やら、「同期」関係が出てきてしまう、という問題があるのだ。

 検察官がそのように動き、判断するというのは、先の厚生労働省の村木事件でも良くわかるように、証拠を捏造してもよいからとにかく被疑者に認めさせろ、というのが検察の基本的な動きなのだ。そして、「自白」があって起訴してしまえば99パーセントは有罪という、あきれ果てた裁判所事情があるのである。

 ということで、警察の上部と現場刑事の対立という構造の話はいくらでもあるが、検察と刑事との対決は、もしかしたら少ないかもしれない。しかし、こうした小説がもっともっと出てきて、検察対警察の関係論が変わってくるようになれば面白い。

 まあ、小説くらいではかわりようもないか。

 ただしかし、検察の「起訴主義」には疑問をもっている私だ。確かに日本の起訴率(事件が起こってそれの犯人が起訴される率)が64パーセント位であるので、検察の公平性はそこで保たれているという発想もある。つまり、警察から送られてきた被疑者の34パーセントは、事件の犯人ではないということで却下されているという事実。しかし、起訴からの有罪率99パーセントってどう考えても異常でしょう。おまけにその最大の証拠が「本人の自白」なのである。有力な物的証拠があれば別ではあるけれども、そんなもの何にもなくても「自白」さえあればOKなんである。

 つまり検事が検察庁のなかでどういった質問を被疑者に投げかけているか、どういった状況で尋問が行われたのかは問題にされずに、結果として「自白」があればいい、というのは基本的におかしい。それこそ「拷問」による「「自白」だってあるかもしれないのだ。勿論、江戸時代のような露骨な拷問は行われていないのだろうが、その分、ちょっとソフトにみえる、言葉による暴力はいっぱいあるはずだ。

 まあ、それが実態だろうな。その実態と、そのあまりにも勝手な進み方に対する刑事の抵抗というのが本書のテーマだ。

 一気に読ませる本ではあるけれども、その時代錯誤のあり方には、ちょっと残念といっておこう。筆者としては「バブル直後の日本人」のあり方と、その中でも生きていかなければいけない女、そしてそんな女を巡る「今だバブルの男たち」を描きたかったのかもしれないが。

 しかし、いまこの作品を読む読者のなかで、どれだけ1990年の日本および東京を知っている人たちがいるんだろう。

 それが、不思議だ。

2011年7月14日 (木)

『「たられば」の日本戦争史』っていうよりは今の政治家の姿を見るようである

「歴史にIFはない」というのが基本的な立場だろう。つまり歴史というのは、積み重ねられた事実の集積なのだから、そこに「もしそうでなかったら」という問いかけは無意味だということなのだ。しかし、特に第二次世界大戦(太平洋戦争)については、「もし、あの時そうした判断をしなかったら」「もし、あの時そうした行動をとらなかったら」というような「IF話」が多く、書店の戦記物の棚を見るとそんな本がいっぱい並んでいる。まあ、日本が負けたからね。

『「たられば」の日本戦争史 もし真珠湾攻撃がなかったら』(黒野耐著/講談社文庫/2011年7月15日刊)

 ということで、戦史の研究家である黒野氏があげた「たられば」は以下の通りだ;

第一章 日清戦争―北京を攻略していたら

第二章 日清戦争後―三国干渉を拒否していたら

第三章 日露戦争―ハルビンまで攻撃していたら

第四章 日露戦争後―日米共同の満鉄経営が実現していれば

第五章 第一次世界大戦―日本軍欧州派遣のラブコール

第六章 第一次世界大戦―欧州戦場に本格参戦していれば

第七章 満州事変―塘沽停戦協定を厳守していれば

第八章 日中戦争―「たられば」もない構図

第九章 太平洋戦争前―三国同盟を破棄していたら

第十章 太平洋戦争前―初期の日米交渉で妥協していたら

第十一章 太平洋戦争―真珠湾を攻撃していなかったら

という11の「たられば」があるのだが、残念ながら基本的な「たられば」が使えるのは第三章の日露戦争までなのだそうだ。つまり「たられば」の結果;

『1905年8月10日から開催されたアメリカのポーツマスにおける講和会議で、韓国における日本の優先権を認めさせ、旅順・大連の租借権と南満州鉄道の権利・財産を日本に譲渡させるだけで、賠償金もとらず、樺太の南半分だけを領有するという条件で講和を成立させた小村外相の判断も適切であった。

 こうした現実を冷静かつ客観的に判断して講和を成立させた当時の政軍の首脳の判断は、政戦略を一致させて戦争を指導した典型的な成功例となったのである。』

 と、評価するのだが、その後、第五章、第一次世界大戦あたりから雰囲気が変わってくる。

『開戦して間もない1914年9月2日、イギリスは日本海軍艦艇の地中海派遣を要請してきた。そして11月4日になると、イギリスは露仏両国と相談したうえで、日本陸軍約15個師団の派兵も要請してきた。

 <中略>

 これらの要請にたいして、日本陸海軍はともに拒否した。海軍は、外敵から日本を防衛するために建設したものであり、遠い欧州まで派遣することは困難であるから、東アジアの海域においてイギリス軍を支援し、同盟国の利益の保護に当たるというのである。

 陸軍は、国防の目的に合わない派兵はできないし、決定的効果をあげるためには40個師団以上の兵力が必要であるが、これは陸軍全力を派兵することに等しく、日本の国防が空白となるし、輸送には200万トンの船舶が必要であるから派兵は不可能だというのである。』

 まあ、それはよい。しかし、そうやって英仏の要請を拒否しながら東アジア太平洋での自国権益の拡大に日本は奔走していたのである。当然、日本が拒否した欧州への派兵要請を唯々諾々と受けたアメリカのヨーロッパにおける発言権は強まるわけで、それがその後の国際連盟における日本の窮地につながり、第二次世界大戦における日本の窮地につながるのである。

 という対外的な場における「島国根性」みたいな日本人らしさの(妙な)発露はあるにしても、もう一方では国内において「統帥権の独立」と「幕僚統制」があったようだ。つまり『統帥権の独立は、成立して間もない明治政府が反政府勢力と軍隊がむすびついて政権を奪取することを防止するために、軍の統帥を政治から切り離して天皇に直結するという国家の根底を流れる基本的な制度であった』ということだが、『この統帥権の独立と幕僚統制という制度と組織の弊害は、明治期には伊藤博文、山県有朋、大山巌、桂太郎、児玉源次郎といった優れた政軍の指導者の能力によってカバーされていたが、彼らが亡くなっていく大正、昭和と時を経るにしたがって、制度・組織の欠陥を覆うことができなくなったのである』という具合に、その時その時の状況に合わせた制度・組織を作り上げるべきところ、それを結局昭和20年までまったくやってこなかったのが、今の状況を作り上げた一番の理由なようだ。

 で、結局日本は破局へ向って突き進むわけなのであるけれども、結局、それはそんな旧制度を残したままにきた日本政府が、軍の下剋上を許してしまったからなのだ。しかし、軍は「作戦」は立てられるかもしれないが、その後の国家の設計までは考えていない。その国家の設計というものが「戦略」であるのだが、どうも日本の旧軍には「戦略的思考」というものはなかったたようだ。

 戦争を始める以上、その戦争をどうやって終わらせるのか、勝ち戦の場合はどうやって相手国を生かそうかと考え、負け戦の場合はどうやって自分の国を生かそうかと考えるのが政治家の役割なのだが、政治家が頼りにならないから軍人が頑張るのだ、というのであれば軍人が考えればいい筈であるけれども、そんなことを考えている軍人はひとりもいない。まあ、ひとり位はいるかもしれないが。

 ところが、この本を読んでみると、そんな「戦争の終わらせ方」を考えていた軍人も、政治家も第二次世界大戦時にはだれもいなかったようだ。要は「作戦思考」しかない軍人に政治家は単純にのってしまった、というわけなのだ。問題は「戦争の終らせ方(つまり終らない戦争はない、ということ)」であり、「戦後処理(勝利しても敗北であっても)」であり、それらは本来は政治家が考えなければならないことなのだ。

 しかし、戦略的にモノを考えないテクノクラートの発想にのって勝手なことを言っているだけの政治家って、それこそ現代の日本政治家の姿ではないか。今の政治家が劣化しているのだと思っていたのだが、そうじゃなくて、最早、明治末期から大正・昭和にかけて既に日本の政治家は劣化していたのだ。その劣化が最大限になったのが今の状態、と考えてみると、なんとなく戦前からつながっている日本の歴史が見えてくる。

 そう、歴史は「繰り返す」のではなくて、分断されることなくつながっているのだった。

2011年7月13日 (水)

甲子園だけが高校野球じゃない、開幕

 6月25日に書いた『甲子園だけが高校野球じゃない』の通り、第93回全国高等学校野球選手権大会の県予選大会が始まっている。といって、東東京大会も7月9日から既に始まっているのであるが、昨日、今年初めて大田スタジアムに試合を見に行った。

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 両方のチームともそれほど強いチームでないが、選手は一生懸命だ。まあ、見てると投手はストライクが入らないし、内野手は簡単にエラーをするし、お前らその程度の実力で大会に出てきたの? と言いたくなるが、それでも「高校生なら」出られますというのが高野連の発想なんだから、何をかいわんやである。

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 まあ、試合は15対2、5回コールドという結果ではあったけれども、負けた方のチームは登録選手も10人しかいない。よく頑張った、ということだろう。

2011_07_12_024_2 ベンチ入りできない下級生が応援にまわる。

2011_07_12_102_2 1年生の代打が見事二塁打を放って、打点1。見事!

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 それにしてもこの東東京大会だけでも参加校は150。つまり149校がみな涙を飲む夏の終わり方をするわけで、東西両東京大会で合わせて267校が涙を飲むわけである。残酷と言ってしまえば残酷ではあるが、だからといって鳥取や島根などの高校が少ない県に行けば優勝できるかといっても、結局は同じなのだ。つまり、甲子園に行っても、結局は勝つのは1校だけ。その残りのチームは結局敗退して終わりなのだ。つまり、全国で約4,000校と言われる夏の高校野球出場校のそれこそ3,999校は皆敗退して、彼らの一度だけの夏を終えるのである。

 まあ、こんな夢みたいなことはさすがに高校生の時だけしかできないな。ということで、大学スポーツは大半がリーグ戦形式である。リーグ戦の方が、今日負けても次節で勝てば・・・という気分にもなるし、ストレスはたまらない。

 といっても、4,000校でリーグ戦を戦う訳にはいかないしねえ。

 そんな高校生選手が可哀相といってしまえばそのとおりなんだけれども、まあ、それも人生の一通過点なのだろう。そう県予選の一回戦で負けてしまうのも、甲子園の決勝戦で敗退するのも、結局はひとつの通過点として受入れるしかないのが高校生である。実はその負けの価値に違いはないのだ。要は、たった一校の優勝校を出すための負けでしかない、ということ。

 これも哲学ですね。

2011年7月12日 (火)

『年に一度、の二人』って牽牛と織女みたいなロマンチシズムですね

 毎年10月の第3水曜日だけ会おうという約束の二人、なんていうと七夕の牽牛と織女みたいだ。いまどきそんな恋の設定をするなんて、なんて大胆なのだろう。

『年に一度、の二人』(永井するみ著/講談社文庫/2010年6月15日刊)

 作品は短編3作によって構成されているが、その三つの話は最初は絡み合っていない話が、第3作目で解き明かされる。タイトルの『シャドウ』『コンスタレーション』『グリーンダイヤモンド』は皆、馬の名前であり、最初の『シャドウ』は第1話の主人公・沙和子の息子、宗太郎が通うグリーンヒル乗馬クラブにいた宗太郎のお気に入りの馬の名前。『コンスタレーション』と『グリーンダイヤモンド』は、この作品の舞台、香港のハッピーバレー競馬場の出走馬の名前だ。

 毎年10月の第3水曜日。年にたった1回の逢瀬を、第1話目の主人公・沙和子は門倉と7年間も続けている。第2話目の主人公・夏凛はせっかく掴みかけた飯島との愛のかけらを投げ捨てて朗に会いに香港まで来てしまった。香港人のサムとリリーの行方、しかしこれが恋の行方なのか、単なる二人の行方なのかはまだまったく見えていない。

 こうして、香港ハッピーバレー競馬場をめぐる、三つのカップル、ひとつはいわゆる「不倫」のカップル、もうひとつは「恋人」なのか「恋人未満」なのかお互い良くわからないカップル、最後はまだまだ実際には「恋人未満」だし、下手をすれば「結婚詐欺」まがいの関係になってしまいそうなカップルであるが、その三つのカップルの話が展開する。当然その周囲では「不倫」にまつわる、夫と看護士の間の「不倫」と息子との関係があり、もしかしたら「恋人」かそれこそ「許婚者」になったかもしれない人との関係があり、最後は本当に東京まで辿り付けるかどうかも怪しい男の話がある。

 しかし、こんな小説を読んでしまうと、女というものがどういうものかは私はますます分からなくなってしまう。そんな年に1回、10月の第3水曜日だけ会いましょうなんて提案に、いまどき、携帯電話もメールもある時代に、そんな事を信じてしまうなんてことがあるのだろうか。あるいは逆に、そんな携帯電話やメールでいつでも連絡が取れてしまう時代だからこそ、そんななんの連絡方法もなく、とりあえず10月の第3水曜日だけは、香港のハッピーバレー競馬場に行けば会える、という確実な(?)約束を信じるという事のロマンチシズムに酔いたいのだろうか。

 そう、これは今の時代にはありえないロマンチシズムの作品なのだ。

 いまどきの恋は、携帯電話やメールで簡単に知りあえて、別れる事も出来る時代だし、相手のことも良くわからなければ、インターネット検索でもって、かなりの部分まで知ることができて、それこそ連絡先までわかってしまう。そんなプラグマチックな恋愛が可能な時代に、なんでまたこんな回りくどい恋愛をしなければならないのか。夏凛は、せっかく知りあえた飯島という理想的な恋人であり許婚者になりかけた人物との湯河原への一泊旅行を、高速道路の入り口500メートル手前でやめて、香港へと向かってしまう。沙和子は、自分が香港へ旅行に行ってしまえば倉田という夫の不倫相手の看護士が家に入り込むことは承知で、逆に倉田へ夫の世話を頼んでしまい、息子の宗太郎と香港へ向かう。

 女にとって、そんな1年に1回1日だけ会えるという、かなり限定された恋の方法論が、却って恋心を揺さぶられるものなのだろうか。もしかしたらそうなのかもしれない。「限定された恋」とか「限定された恋の方法論」なんてところが、女心を揺さぶるのだろうな。

 唯一、この小説でいい気分で終われそうなのは、沙和子の息子・宗太郎が医者になって父親の仕事を継ぐという事はせずに、多分ケンタッキー州立大学に留学して馬の面倒をみる獣医になりそうだ、というところである。これは爽快。

 そんな話が最後の方にあることで、男の読者である私にとっては爽快な気分で読み終えることができたのだった。

 

 

2011年7月11日 (月)

『落語評論はなぜ役に立たないのか』っていうか、そんなものがあったんだということに気づかされた

 そんな、落語評論とか落語評論家なんてものがあったのか、と今更ながら気がついた一冊である。

『落語評論はなぜ役に立たないのか』(広瀬和生著/光文社新書/2011年3月17日刊)

 とこれは、安藤鶴夫をそのエピゴーネンたちの事を言っているのであろう。つまり、安藤が生前、古典落語ばかりを評価し新作落語おいび新作落語ばかりを演じて人気のあった噺家を否定し、でも古典落語と演じていた立川談志を、「談志は天狗になっている」「調子にのりすぎている」と激烈に批判し続け、談志も多くの自著や原稿で安藤を痛烈に批判した、ということから安藤派の評論家は皆落語立川流を無視し続け、おまけに立川流が寄席の席亭からその存在を否定されてしまったことにことよせて「寄席にでない噺家は無視する」という方法論で、立川流の存在そのものも無きものとしてしまっている状況の裏側で、実は立川談志だけではなくその弟子たちが力をつけてきてしまい、いまや日本の落語界は立川流の存在を無視しては語れない状態になっているにも関わらず、いまだにそのような実情を理解しない落語評論家がいることに対する苛立ちがこの本を書かせたのであろう。

 しかし、映画評論家の松田政男氏が看破したごとく「批評は党派性である」という言い方の通り、落語であろうが映画であろうが、演劇であろうが小説であろうが、「批評」「評論」というものはすべからく「党派性」なのである。つまり広瀬氏自身が『評論家を名乗ることは誰でも出来る。そして、エンターテインメントにおける評論とは、つまるところ「好きか嫌いかを表明する」に過ぎない』と書くように、その「好きか嫌いか」というのがまさに「党派性」なのである。

 つまり、広瀬氏は安藤鶴夫以降の「古典落語」しか評価せずに、新作落語や古典をあたかも新作のように演じる噺家、特に立川流の噺家を認めない評論家を批判したいだけなのでしょう。それだけなのである。『もちろんいまでも、「落語(演芸)評論家」を堂々と自称する人たちは存在する。彼らは、落語の歴史や文化的背景などの蘊蓄は豊富だ。昔の名人についてなら饒舌に語る。しかし、「今の落語」については甚だ心もとない。普通の落語ファンのほうが、よっぽど「今の落語」に詳しかったりする』ということで、全然問題ないじゃないか。そんな「落語評論家」は無視すればいいだけである。

 それとも、そんな広瀬氏が批判するような落語評論家が落語評論家としてマスコミに登場することが許せないのであろうか。でも、マスコミはマスコミで「○○評論家」というものが、その「○○問題」について適当な解説をしてくれる人がないと、自社内の記者や編集者が書くわけにもいかない場合には困ってしまうのだ。つまり「評論家」という職業はマスコミが必要としているからこそ存在するものなのであって、マスコミがなかった江戸時代にはなかった職業なのである。まあ、もうすぐ日本でもマスコミがなくなってしまう時代がくれば、やはりなくなってしまう職業でもある。

 そんな儚い命の職業につっかかっても面白くない。表現の自由は評論の自由を担保する。そう何を言っても、何を書いてもいいのである。その代わり、書いた者は自分の書いたものについての責任は自分でとる。昔、柳家権太楼を痛罵した安藤鶴夫は、怒った権太楼から本気で殺し合いの決闘を申し込まれて、大慌てで詫びを入れたという話もある。そんなことで詫びを入れるなら、始めから批判なんかするなよといったところだが、まあ、そんなもんである。映画評論の世界でも昔から評論家同士の批判し合い、なじり合いなんて当たり前にあった。文芸評論の世界も同じである。落語評論の世界だけがそんなものもなく、一方的な言い方だけになってしまう、というのであれば、広瀬氏がそこに論争を持ち込めばいいじゃないか。つまり、本書のように批判対象となている評論家の名前を明かさずに書くのではなく、しっかり人名を出して『お前のここがおかしい』『ここが間違っている』という風に言うべきなのだ。

 そうした「論争」を通じて「批評」「評論」の世界も進歩するのだ。人名を明かさない中途半端な批判では、結局サロン的な「おしゃべり」でしかない「評論」は無くならないのだ。もっともっと「論争」を・・・。

 最後に、広瀬さん、「落語家」じゃなくて「噺家」と呼んではどうでしょうか? その方が、噺家が本当の「噺」をする人のように聞こえるのですが。

2011年7月10日 (日)

いま改めて書店について考える

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 一昨日に引き続き、またまた東京国際ブックフェアネタである。

 ただし、今日は展示ではなく、特別講義『いま改めて書店について考える ― 本屋の機能を問い直す』というモノを聴いてきたので、その報告。

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 登壇したのは、フリーライターの永江朗氏をコーディネーターに、翻訳家の青山南氏、国立情報学研究所教授の高野明彦氏、京都にある大垣書店社長の大垣守弘氏の三人のパネリストが、今の書店、そして書店の未来像について語るというもの。

 青山南氏はその翻訳家という仕事柄からニューヨークはグリニッチ・ヴィレッジにあるセントマークス・ブックショップが地元在住の作家から自分の「知恵の倉庫」だと呼ばれていること。カリフォルニア、バークレイにあったコーディズブックが多分世界で最初のカフェを併設した書店ではないかということ。更には、ご自分の出身大学である早稲田の学生に対して、本を読まなくても良いから書店の書棚の前に立って本の背を眺めているだけでも、良い刺激を受けることを知ってほしいということなどが語られた。

 高野明彦氏は、神田神保町の古書店との関係が深いが、本の世界を読み取るため、自分と相性の良い書棚を求めて神保町の街を彷徨っているという話があり、そうした漠然と彷徨うような愉しみはWebの世界にはないということ。情報量は圧倒的にデータベースの方が上だが、書店の書棚の前にいるときの方が、頭は活性化するという話。書店員の知識が足りないと言われているが、それは書店員の責任でなく、出版界全体責任ではないか、要は本が多すぎるのではないか。などが語られた。

 大垣守弘氏は、大学2回生までは本屋を継ぐつもりはなかったが、店を手伝っているうちに結局継ぐことになってしまった。元々は大垣書店はそれほど店舗を持っていたわけではなかったが、全国展開する大型書店の出展に対する危機感のあまり自ら出店しているうちに25店舗になってしまった。大垣書店グループは鳥取・島根で展開する今井書店グループ(田江氏)、広島の廣文館グループ(丸岡氏)と三社で大田丸という協業会社を最近設立したが、それも三者の持つこのままでは地方の書店が無くなってしまうのではないかという危機感からのものであり、そうした地方書店の応援団になるようなことができないか、例えば後継者のいない地方書店に経営者を派遣できないか、というようなことをいろいろ考えている。京都は呉服屋さんが多いが、この呉服業界も一時期は2兆円産業と呼ばれ出版業界と同じくらいの規模があったのが、いまやその規模は1/10になってしまっている。しかし、そんな状況になってもしっかり生き残って頑張っている店はあるわけで、アマゾンや電子出版などでリアル書店の規模が小さくなってしまっても、自分のところもそんな呉服屋さんのようになりたい。というような話があった。

 で、三氏の中でそれとなく共通してきたテーマとしては、結局、書店の規模をどんどん大きくしていっても、店舗を持たないアマゾンには対抗できないこと。だとしたら、青山氏はセレクト・ショップという言い方をしていたが、規模は小さくとも、書店の側が「自分はこれを売りたい」という明確な姿勢がはっきりした書店があったほうが良いのではないか、という方向に話が向いてきた。

 大垣氏に言わせると、大きな店にしてもお客さんからは怒られる。駅前には大型店、周辺地区には地域密着店が向いているのではないか。自分の趣味だけで店ができるとそれはそれで良いが、それでは書店の社会的な使命を果たしたとは言えないので、それなりの規模にはなってしまう、ということだ。

 勿論、大垣氏もセレクト・ショップ的なものには興味があるようだが、それだけでは書店の使命は果たせないというのも事実であり、その辺は実際の書店経営者としてのつらい立場なのだろうな。

2011_07_09_009_2 大垣氏

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2011年7月 9日 (土)

『女子の古本屋』という自己実現

 山女子とか○○女子、○○ガールなんてものがやたら目だって見える今日この頃ですが、ちょっと陰気なオヤジが店の奥でデンと控えているイメージの古本屋の世界にも、こんなに女性経営者がいたとは思わなかった。

『女子の古本屋』(岡崎岳志著/ちくま文庫/2011年6月10日刊)

 で、紹介されている13人の女性店主の大半は1960年代から70年代の生まれで、1990年代から2000年初期にかけて開店をしている。そしてその基本姿勢は「ユル」さである。

 普通、勤めを辞めて独立起業なんてことになると「まなじり決して」というイメージがあるのだが、この本で紹介されている人たちはまったくそんなことはなく、なんとなく普通に始めてしまっており、大稼ぎもしていないようだが、それでも気にしないで皆マイペースで楽しんでいるようだ。勿論、開店にあたっては店の場所確保やら初期の在庫確保やらで大変だったことはあるようだが、それもあまり無理せずに、マイペース。営業姿勢も客に合わせて商品確保というよりは、自分の趣味や好みに合わせてマイペース。まあ、そんなマイペースぶりが却ってお客さんから親しまれる理由になっているのだろうけれども、そんなスタイルで仕事が出来るというのも女性ならではであるのかもしれない。

 唯一異なるのが、石田書房の石田由美子さんぐらいか。映画好きの由美子さんは学生の頃から映画の世界に入り込み、中堅どころの出版社に務めて、そこでご主人の禎郎氏と知り合う。出版社を辞め、映画の宣伝プロデュースやイベントの仕事をしながら編集者の禎郎氏と幸せな日々を送っていた由美子さんだが、その最愛の夫をガンで亡くす。後追い自殺でもするんじゃないかと周囲から思われるほど、精神を病み、睡眠薬がないと眠れない日々が続いた。

『もし、病気がよくなったら、二人で古本屋をやろう』

 と生前語っていた夫の言葉に、由美子さんは古本屋開店を決意する。開業資金をかけずにリスクを少なくするためには、ネット販売という方法もあったのだが、由美子さんは店売りを選んだ。

『古本屋をやって儲けようとか、成功させようという気はなかったんです。ただ、パソコンに向かって一人部屋にじっとしているのでは、今までの生活からは抜けだせない。店の棚に本を並べたり、お客さん相手に言葉を交わしたり、本を売り買いすることで、精神的なリハビリを図ろうと思ったんですね』

 というこことで。で、店の名前も

『いろいろ考えたんですよ。カタカナの洒落た名前も。でも、変わった名前だと、主人が気づかないかもしれないでしょう。『石田書房』としておけば、きっと気づいて、ああやってるな、と思ってくれるかもしれない』

 ということなのである。

 この石田由美子さんのケースだけは、ちょっと重い起業理由である。

『アクセサリーや雑貨を売る、無農薬素材と酵母菌を使ったパンを焼くことで自己実現を図る。そんなお店を開くことが、女性にとっての新しい表現活動になっている。それなら、自分が好きで集めてきた本を中心に、同じテイストを持った客を招き寄せる古本屋をやりたい、と考える女性がいてもおかしくない。

 従来は、古本屋を開くにあたって、老舗と言われる店での五年以上の修業が必要と言われてきたが、本書にご登場願った女性古書店主で、「呂古書房」さん以外に、そんな体験を経た人はいない(「海月書林」さんがアルバイトを含め数年)。本が好きで古本屋を巡った経験を持つ人なら、とりあえず明日からでも始められる。ハードルはずいぶん低くなっている』のだ。

 とりあえず、13人の自己実現という読み方をしても面白い。1960年代後半位の生まれの女性たちから、やたら自分探しが多くなってきた。そんな自分探しの果ての古本屋と言うことなんだろう。したがって、先のことなんかも考えてないんだろうな。ま、言ってみればお気楽起業、お気楽開業である。

 組織に頼らず生きていく。そんな生き方の一つなのだろう。

 

 

2011年7月 8日 (金)

東京国際ブックフェア開催中

 第18回東京国際ブックフェアが昨日から開催されている。昨日今日は業界関係者のみで、7月9、10日が一般の入場者が入れる、っていっても昨日も普通の人も入っていたようだし、あまり厳密には分けていないようだ。って、所詮出版関係者なんていっても、まあ、要は普通の人の集まりだしな。

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 もともとフランクフルト・メッセやボローニアのような「国際書籍版権市場」を目指して出発した「東京国際ブックフェア」なのであるけれども、当初はなかなか「版権市場」とはならずに、結局は読者向けのプレゼンテーションが中心の「フェア」であった。つまり「東京国際ブックマーケット」ではなかったわけなのだ。つまり「マーケット」としては、あまり注目されていなかったので「フェア」という言い方をしていた、というわけなのだ。

 何故、ヨーロッパではこうした書籍市場(フランクフルト・ブック・メッセやボローニア)とか映像市場(映画ではカンヌ映画祭マーケットとかベネチアとかがあり、テレビやビデオではMIP-TVとかモンテカルロTVマーケットとか)が盛んに行われているのかと言えば、それは単純に、多国籍・少国民というヨーロッパならではの国事情があるわけだ。つまり、いろいろお金をかけた本や映像が自分の国の市場だけではペイしないので、それを同じヨーロッパの他の国へライセンスすることで、マイナス分を賄おうという発想なのである。そう、ヨーロッパでは「インターナショナル・マーケット」といっても、それは基本的には「ヨーロッパ内部」でのことであり、それ以外の地域はまあ取り敢えずそこでも稼げたらいいね、というレベルのテーマであったのが、前世紀までの考え方。

 だって、ヨーロッパ人にとっては、ヨーロッパ以外の土地は「未開の土地」であり、そんなところでヨーロッパ人がつくった高尚な文化的創造物が理解されるわけはないのだ。そしてそれでいいのだ、というのがヨーロッパ人の基本的な発想なのだ。ということを、私はフランクフルト・ブック・メッセには行ったことはないが、MIP-TVとかMIPCOM、モンテカルロTVマーケットに何度か出張した経験から判ったことだ。

 まあ、ヨーロッパ人からしてみれば、アメリカ大陸だって、アジア大陸だって、要は「自分たちの知らない場所」だし、場所によっては言葉も通じないし、文化はおおいに異なる。そんなところに自分たちの「文化」たる「本」や「映像」が売れるわけないじゃん、というのが昔の映像市場での日本の立ち位置ではなかったのかな。でも、ヨーロッパ的生活は日本でも受け入れたんだよね。

 その日本がいまやクールなアニメションやコミックやコスプレをヨーロッパに輸出するような状況になっているのだ。そう、世の中は替わるのである。

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 ということで、次第に海外からの出展も増えてはきている。多いのは、やはり日本に近い韓国や中国、台湾、中東なのであるが、それ以外の地域からもいろいろきていて、たまたま写真に撮ったのはスペインとエジプトだったというだけ。

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 あとは、基本的には今年も併催されている「電子出版EXPO」ですが、昨年はiPadが発売された直後ということもあり、電子出版ってなんなのさ、電子書籍ってなんなのさ、ってことが中心の展示でしたが、今年はデバイスの展示は当然ながら、「電子書店をわが社のサイトに」という呼び込み展開が多かったのかな。

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ボイジャー社は相変わらず、の展示です。

多分、この会社が日本における電子書籍のソリューションを提供してくるんだろうな。

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2011年7月 7日 (木)

残念な駅名

 仕事で東急東横線の学芸大学駅によく行く、まあ、その駅前に定期的に打ち合わせを行っている書店があるからなんだけれども。

 その時、いつも考えるのだが「学芸大学駅にはもはや学芸大学はない」ということなのだ。

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 残念ながら、東京学芸大学は1964年世田谷区下馬から小金井市に移転してしまって、もはや「学芸大学駅」には「学芸大学」はないのだが、いまだに東急電鉄は「学芸大学」という駅名を使っているのは何故だろうか。まあ、学芸大学に残ってほしかったんだろうな、という気持ちは分からんでもないが・・・。

 で、もっと残念なのが、学芸大学駅の隣の「都立大学駅」なのだ。こちらは1991年に八雲キャンパスが八王子市南大沢に移ってからはもはや「都立大学」は無くなってしまい、2005年には「都立大学」自体が「首都大学東京」になってしまって、「都立大学」自体がこの世から無くなってしまった。さらに、2010年には八雲キャンパスに唯一残っていた「都立大学(首都大学東京)付属高校」も廃校になってしまい、いまや「都立大学」にかかわるものはすべてなくなてしまったのである。それでも「都立大学」にこだわる東急電鉄。

 まあ、電鉄会社にしてみれば「○○大学」「○○学園」なんて名前がつけば、周辺の土地がいかにも文化都市風になって地価も上がるし、住宅は売りやすくなるという訳である。

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 東大前や明大前はまだ大丈夫だけどね。

 まあ、しかしそんな意味では一番「残念」なのは西武池袋線の「大泉学園駅」だろう。もともと武蔵野鉄道(西武鉄道の前身)の東大泉駅という、土地名をそのままつけた駅だったんだけれども、1933年(昭和8年)に「大泉学園」という名前の駅に代えたのだった。つまり当時の東京高等師範学校(その後の東京教育大学→現・筑波大学)とか、東京第一師範学校(現・東京学芸大学)や、東京商科大学(現・一橋大学)を誘致しようとして、堤康二郎が考えだした案なのだ。当然、堤康二郎としては政治家としての実力からしても絶対自分のところには来る、と考えて作った駅名だとは思うのだが、結局、大泉学園は大学を取り囲むという意味での学園都市にはならなかったのである。堤康二郎の政治力をもってしても駄目だったということなのだろう。まあ、相手は世間知らず、にして周りの空気を読まないこと第一級の大学の先生だからね。

 まあ、大泉学園高校があるのがせめてもの慰みかな。当然、それは大泉学園駅ができてからずっと後のことではあるのだけれども。

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 西武鉄道としては、多摩湖線に「一橋学園」という駅があるので、まあ、一橋大学に対するリベンジは多少果たせたのかなというところであるのだけれども、大泉学園はどうするのよ大泉学園は。

 まだまだ、土地がいっぱいある練馬区である。大学位誘致しても平気な位の土地はあるはずだ。八王子に行ってしまって大失敗をした中央大学あたりを呼べば来るかもしれないよ。練馬なら私の家からも近いし。

 でも、我々「駿河台にあったころの中央大学OB」は、多分「できれば駿河台」じゃなければ、せいぜい「山手線の中」位に戻ってきてほしいんじゃないかな。

 わたしは、別にそこまで拘らないが、中大の卒業者でマスコミ関係に行く人が少なくなって困っているという中大就職部(今は「キャリアセンター」って言うの?)の人の発言を聞いていると、東京のど真ん中でミーチャンハーチャンをやっていた昔の中大生と、八王子の山奥で隠遁生活を送っていた今の中大生が、同じわけはないでしょう、という反応をしてしまうのだ。

 まあ、それはそれでしょうがないのだが、例えば中央大が大泉学園あたりに戻ってくれば、日大の江古田芸術学部あたりといいコラボレーションができるかもしれない、という誇大妄想癖も出てくる。

 いまは堤さんじゃないのだと思うけれども、どうでしょう大泉学園への中央大学誘致構想ってのは?

 ダメかな?

2011年7月 6日 (水)

サヴァイヴ

 今年も7月になると自転車関連の読みものが出てくる。当然、それは先週末から始まっているツール・ド・フランスが始まって多少は国民の目も自転車の方に行くだろう、という思惑の賜物なのだけれども、残念、今年は去年までのブイグテレコム、今年からはヨーロッパカーとなってしまったチームに所属する新城幸也も、レディオシャックの別所史之も出場しないツールになってしまった。

『サヴァイヴ』(近藤史恵著/新潮社/2011年6月30日刊)

 例えば、高千穂遥氏のように自ら自転車乗りになってしまい、まさに「坂バカ」になってしまう人もおり、その体験を元に小説やエッセイを書く作家もいるのだが、近藤氏は自らは自転車乗りであることは公言していないし、たしかにツールなどのレースは見に行っているようだけれども、国内レースをどれだけ知っているのかは知らない。

 まあ、野球経験者だけが野球小説を書けるわけではないし、野球を見ることが異様に好きな人が書くのが普通の野球小説であることを考えれば、別に自転車乗りじゃなくても自転車レース小説は書けるわけである。けれども、その場合、やはりそれは野球小説でも同じなのだけれども、自転車選手のフィジカルな部分についての記述よりは、どちらかというとチームのタクティカルな部分の記述が多くなる。当然、自転車レースというものはチームの「エース」を勝たせるために、すべての「アシスト」が働くという極めてタクティカルなゲームであるから、それはそれでいいのである。しかし、自転車レースといっても、基本的にはフィジカルなゲームであるのだから、「エース」にも、そして「アシスト」にも同様な「フィジカル」な問題が常に生じているわけなのであって、そこの部分にも触れた小説があってもいいなとは思うのだ。

 が、しかし近藤氏の作品は基本的には「タクティカル」な部分の記述が多い小説になっている。

 第1話『老ビブネンの腹の中』では、スペインのプロ・コンチネンタルチームにいてそこそこの成績を出し、今は北フランスにあるパート・ピカルディというチームに移籍し、北フランスという場所にいるチームとして当然「パリ・ルーベ」というワンデイ・レースに出る白石誓という選手が主人公というわけで、これは『サクリファイス』『エデン』につながる話である。

 第2話『スピードの果て』は、日本の自転車フレームメーカーがスポンサーになっているチーム・オッジに所属する新進の選手、伊庭和美という人が主人公の話であり、その伊庭が世界選手権に出ることになり、まだスペインのプロ・コンチネンタルチーム、サントス・カンタンにいた白石と一緒にフランス、ニースで行われた世界選手権で走る話。

 第3話『プロトンの中の孤独』は、それより数年前の話に戻り、スペインに3年半いてアマチュア・チームに所属していたのだが、結局そこでは芽が出ずに日本に帰りチーム・オッジに拾われ、そこで新人、石尾豪の面倒を見ることになった、結局はアシストで終わった選手、赤城直輝が、石尾から『赤城さん、俺のアシストしませんか?』と言われる話。その話の切っ掛けになったのは赤城が言った『なあ、石尾。俺をツール・ド・フランスに連れてけ』という言葉だったのだ。

 第4話『レミング』は、第3話の続編で、チーム・オッジのエースとなった石尾に対して、「沖縄ツァー(ツール・ド・おきなわ?)」でどうしても勝ちたい安西とエース石尾の話。

 第5話『ゴールよりももっと遠く』は石尾と赤城の昔の約束『俺をツール・ド・フランスへ連れてけ』という約束(?)を再確認する話。

 第6話『トゥラーダ』は再び白石誓の話に戻って、スペインからフランスのチームに言ったものの、結局今度はポルトガルのチーム、サボネト・カクトに移っている。そこでの同僚選手のドーピング話。

 ということで、ヨーロッパでの自転車スポーツの話と、日本における超マイナースポーツとしての自転車スポーツが概括できるようにはなっている。

 しかし、なぜヨーロパの自転車レースはパリ・ルーベもそうだし、ツール・ド・フランス、ジロ・デ・イタリア、ブエルタ・エスパーニャなどの実名で書いているのに、日本のレースは「ツァー・オブ・ジャパン」が「ツール・ド・ジャポン」で、「ツール・ド・北海道」が「北海道ステージレース」で、「ツール・ド・おきなわ」が「沖縄ツァー」で、「ジャパン・カップ」が「日本杯」って、そこまで変えなくてもいいんじゃないか。そういうことをやっているから、日本の自転車ロードレースの世界がマイナーなままなのではないだろうか。

 もっと、堂々と。日本にも世界に誇れる自転車ロードレースがあることを声高に伝えましょう。勿論、日本の自転車ロードレースにおけるヨーロッパのレベルとの違いは分かっている。新城や別所がグラン・ツールで勝てることはないだろう。しかし、少しずつ近づいていかなければならないのだ。

 そんな意味でも、小説であっても、すこしずつヨーロッパのレベルに近づきましょうよ。その為には「日本にもこんなにちゃんとしたヨーロッパにも主張できるレースがあるんだ」ということで、ちゃんと実名でレースを描きましょう。

 ねえ、近藤さん。

 

2011年7月 5日 (火)

『小林彰太郎の日本自動車社会史』は日本のモータリゼーションの黎明期から現代までを貫く

 今では『CG』と言えばCOMPUTER GRAPHICSのことであり、最近はコンピュータ・グラフィックスなんて言葉も使われなくなってしまった。DIGITAL GANERATED IMEGEとかDIGITAL GENERATED ANIMATIONなんて言葉を使って、最早COMPUTERなんてものは当たり前なので、却って使われなくなってしまったのである。しかし、以前は『CG』と言えば『CAR GRAPHIC』だったんだよな。つい、35年くらい前までは。

『小林彰太郎の日本自動車社会史』(小林彰太郎著/講談社ビーシー/2011年6月28日刊)

 そんな『CG』の生みの親である小林彰太郎氏の半ば自叙伝、半ば日本の自動車史、それもあくまでもユーザー視点から見た自動車史でありメーカー視点では一切ないところが、いかにも『CG』である。メーカー視点ではいくらでも自動車メーカーが会社史を出しているだろうから、そんなものはいらない。やはりユーザー視点から見た自動車史なんかは、小林氏ならではの視点であろう。多分、その後の自動車評論家というのも、レース評論、経営評論などに細分化されてしまい、それらを総合して評論するという立場も、多分、小林氏以外には難しいのではないだろうか。

 そんな、小林氏が『CG』で目指したものは『暮らしの手帖』自動車版だったそうだ。『毎号、日常生活に不可欠な道具や品物を選び、いくつか現物を市場で買い求める。そして同社内で使用試験を繰り返し実施し、性能、使い勝手、耐久性、デザインなどを総合して、消費者にとってのベスト・チョイスを決定、同誌上に公表するものだった。『暮らしの手帖』のもっとも大きな特徴は、広告ページが一切ないことだった』というのが『暮らしの手帖』のまさに最大の特徴なのだが、その自動車版を目指すといっても、毎号毎号新しいクルマを購入するわけにはいかず、『CG』では広報車を借りてテストを行っているが、せめて『CG』らしさと言えば、『CG』お得意の長期テストであろう。さすがにこれは広報車を使う訳にはいかないので、ディーラーより購入して、編集者、営業マン、広告マン、取材スタッフなどが日常の足として使いながら、使用レポートも同時に書いていくというスタイルだ。まあ、こうした長期テストは今では他の自動車雑誌でも多少はやってはいるが、『CG』みたいに一度に14台というのは、他ではちょっとないだろう。

 こうした自動車雑誌であるが、何故それが二玄社という東洋美術や書道関係の高価な書籍しか出版していない会社から刊行されているのか、という訳もわかるし、実はそれが重要な要素でもあるということも。

 もともと『モータマガジン』という自動車雑誌で書いていた小林氏が、友達づきあいをしていた『モーターマガジン』の編集者が副編と喧嘩をして辞めることになった時に、その編集者と行を共にした小林氏が最初に出したのが自動車の豪華写真集なのであった。まあ、それは豪華本ということで、そうした豪華本に慣れている二玄社では言ってみれば「お得意」のジャンルの本であり、それが大成功したところから、じゃあ、もともと小林氏が出したかった『暮らしの手帖』的な自動車雑誌をだすということになったようだ。

 そういう意味では、二玄社というもともと書籍出版社から出せたという事は僥倖かもしれない。雑誌出版社だったら、新雑誌企画が出たらば、まず最初に考えるのは「広告」である。その広告がどれだけ取れそうかという事で、新雑誌を出すかどうか決める、というのが雑誌出版社の基本的なスタンスである。しかし、そういうスタンスだと多分『CG』は生まれなかっただろう。だって、基本的には自動車メーカー、付帯するパーツメーカー、付け替え重要を狙うタイヤメーカーやオイルメーカー、石油メーカーなどの広告出稿が自動車雑誌の根幹であり、それを否定したいなんてことを編集者が言ってしまえば、その時点で、広告マンから「この雑誌は×」と言われて、残念ながら当該雑誌は発刊されませんでした、ということになってしまうのだ。

 そんな「雑誌出版社」じゃない、というかそうしたところと最も遠いところにいる二玄社という出版社との出会いが、『CAR GRAPHIC』を成立させることになり、結果として数少ない「クォリティ・マガジン」が自動車雑誌の世界で成立したのであった。

 1929年生まれという、まだまだ日本にモータリゼーションなんて言う言葉が生まれる前の時代からの自動車マニアであった小林氏である。まさに「筋金入り」というのはこういう人のことなのだろうな。

2011年7月 4日 (月)

2100年、人口3分の1の日本

 過去の人口動態を調べるのが本来の仕事である「歴史人口学」の学者が90年先の人口を予測し、そのための考え方を示したのが本書である。

『2100年、人口3分の1の日本』(鬼頭宏著/メディアファクトリー新書/2011年4月30日刊)

 そもそも日本において「人口問題」が大きな話題となったのは、1972年にローマクラブの委託によって調査・発表された『成長の限界』がベストセラーとなり、翌1973年にはローマクラブ東京大会が開かれたことがきっかけである。その前年に中央大学経済学部の岡田ゼミというものに入った私たち(私やY川氏他のこと)は、突然次の年の岡田ゼミの入ゼミ試験を受けにくる人たちの多さに吃驚し、「おお、こんなにいっぱいの入ゼミ希望者がいて、その中から選抜されてきた人たちがゼミ員になるなんて、こりゃあ、我々の次の世代からは、頭が良すぎて話ができないね」なんてことを話しながら、入ゼミ試験の監督をしていた覚えがある。で、その中央大学経済学部岡田實ゼミのテーマがまさに「人口論」なのであった。私は、マルクスとマルサスって一字違いでしかないし、ちょっとユルそうだな、というのが入ゼミの理由だったのだが(実はもう一つあってそれは「外書購読」という講座が・・・というのはいずれまた)、まあ、その頃から「人口論」というものは注目されたのであった。

 ただし、その頃の注目のされ方というのは、今とは違って、まだ日本人口も増える一方で、マルサスの言う『人口は幾何級数(等比数的)的、つまりペースを数倍していく勢いで増大し続け、食糧生産は等差級数(等差数列)的に斬増する』ということで、いずれ増大する日本人口も含めて世界人口が膨らんで、それが食糧や資源(石油などの化石資源)が枯渇する時代が近々やってくるぞ、という脅かしによって進められたのだった。

 ところが、いまや日本人口も減少の時代に入ってしまった(世界的には未だに増えているが)。食料も農業改良なども含めて増産はしている。化石資源に関しては、当時、今後30~35年位しか残っていないとされた石油(原油)も、その後の調査や採掘技術の進歩などによって2011年には45年(つまり2056年頃)以上になっている。その他、石炭242年(2253年)、天然ガス62年(2073年)、ウランは何年かは知らないが、プルサーマルなどの核融合を使えばかなりの年数は大丈夫だろう。まあ、今のところ原発の安全問題はあるだろうけれども、それは今後の技術でもって実現するということでもって。

 その後はどうなるかは知らないが、多分その後(数百年後)も人間が存在していれば、地球外の惑星やら、他の天体系の惑星までいって資源を持ちかえることになるのだろう。その時に、その惑星の住民(というのがいればの話だが)との闘争になるだろうということは良くわかるのだが、つまりそれはハリウッド製SF映画のように「地球が外界から攻められる」というタイプではなくて、逆に「地球人が外界の世界を攻める」という話になるのだ。そんな時に、「それでいいのか地球人!」なんてことが言えるのであろうか。地球人存亡の危機である。でも、それを許してしまうと外界人の存亡の危機なんだよね。

 まさに「骨肉の争い」ですね。そんな時代に生まれなくてよかった。せいぜい地球内の問題だけなんで。

 と、ちょっと回り道してしまったけれども、要は日本の国民の数の問題なのである。

 一人の女性が一生の間に産む子どもの平均数を表すのが「合計特殊出生率」というが、それが1970年には2.13だったものが、2005年には1.26まで、35年の間に4割も減少している。つまりそれこそ「少子化」の問題でもあるのだけれども、もはやそれはしょうがない。子どもをつくということことは女だけの問題じゃないしね。男性の収入が減り、その収入減を女性に頼りという事になれば、そこで子どもを作れということにもならないだろう。

 で、あとは日本国内の問題。ひとつは「限界集落」からの脱出という問題だろう。『集落単位での住民の移住を進め、集落を集約化すべきである。鹿児島県と秋田県のいくつかの地区では、将来的に高齢者だけで生活困難な状況になることが予想される集落について、総世帯の移転を実行している』ということなんだけれども。

『過去に日本列島で人口が増加していった時代――それは例外なく、外部の文明を取り込み、国の姿が大きく変わった時代だった。言い換えれば、海外との人的交流が活発だった時代だ。弥生時代には稲作伝来をもたらす大陸・半島からの人口移動があった。7世紀までに存在した倭人は東シナ海や黄海を共通の生活基盤とする民族交流を図り、7~9世紀には遣隋使・遣唐使に代表されるような国家間の交通が行われた。室町から江戸時代初期にかけては日明貿易を行い、東南アジアへも進出した。人口を2倍以上に増加させた4度目の人口変動の背景にあったのは、幕末に始まる欧米諸国との技術交流や交易である』というように、日本でも、過去、人口の増加期と減退期があったようで。

 まあ、そんな増加期と減退期の状況を踏まえて、日本自体の生き延びる施策を考えるのが現在の政府の仕事でしょ。当然、そういうことは考えているに決まっているのだが、まだ決定ではないですよ、ということで我々が問い合わせても答えてくれないのが政府である。官僚、ひとりひとりは良い人だし、すごい頭も優秀な人たちなんだけれども、やはり仕事というのは、仕事が人を以て語らしむるのであろう。で、結局、福島第一原発事故に際しても、まあ、自分を守るための発言しかしていない。

 ええっと、問題は本書に書かれた「2100年(いまから90年後)に日本は確実に4,000万人位の規模になっているし、その時の「都市」VS.「農村」の形はかわざるを得ないし、「都市自身」がどうなっているか分からんし、とうことなのであります。

 今でも、群馬県の大泉町とか伊勢崎市、浜松市とか、大半は日本から海外に移住した人たちとその人たちの子どもが多いのだが、そんな人たちが多い町だ。例えば人口4,000万人の日本人口になってしまったら、その時に例えば本書のように日本人4,000万人、外国人5,000万人が同じ国で仕事をしている、というそれこそ大泉町のような状況になってしまうのだろうな。といっても、それはみんな日系人なので一見外国人という風には見えないんだけれども。

 まあ、そんな外国人の移民も受け入れつつ、同時に国内の<中小・零細>企業をどうやって<守っていくか>大きい問題だと思いますが、私が結論を出す問題じゃないだろう。

 それは・・・。

 

2011年7月 3日 (日)

岡田先生を偲ぶ会無事?終了

 ということで、ってなにが「ということで」なのかは皆さんは知らないはずであるが、まあ、ということで、私の恩師でありまあ仲人でもある中央大学経済学部の岡田實名誉教授を偲ぶ会というものが、とりあえず今日終わったのである。

 まあ、こういうものはやるもんじゃありませんね。というか、まあ呼ばれた人として出る分には全然問題はないのだけれども、主催者なおかつ司会者なんてものになると、もうメチャクチャです。

 ドタキャンはあるは、時間を気にしないでいくらでも喋り続ける人はあるわで、もうこのブログにもかけないことがいっぱいありました。

 まあ、でも参加した人たちにはなんとなく納得できた会にはなったかなと自己満足はしております。

 とりあえず、こうした会には「大学教授・名誉教授は出しちゃいかん」ということだけは良くわかりました。はい。

 なんで、あの人たちは「会の全体の時間」というものを考えずに、あれだけいっぱい喋るんだろうね。要は社会性がないってことなの?

 全体で2時間しかないことは、あらかじめ承知しているにも関わらず、30分も喋るってのは何なんでしょう。自分のためだけに今日の時間があったわけではないことは、前提条件として知っている筈である。それなのにねー、というところでグチはやめます。

 まあ、そんな社会性のない人たちが、実は大学教授をやっているのだ、ということだけを知っていただければいい。

 そんなもんですよ。

2011年7月 2日 (土)

『PAPA & CAPA』から読みとれること

 ヘミングウェイ没後50周年記念出版ということだそうだし、ライカ銀座での写真展も企画されているそうだし、ふたたびみたびロバート・キャパの写真を見る機会は増えそうだ。

「PAPA & CAPA ヘミングウェイとキャパの17年』(山口淳著〈写真:ロバート・キャパ〉/阪急コミュニケーションズ/2011年5月10日刊)

 で、ここでなんだけど、ロバート・キャパって「うまい」写真家だったの? という疑問である。一般に「戦争写真家」という人たちは、基本的な「写真のうまさ」よりは「シャッターチャンス」にかける人たちである。究極のドキュメンタリー写真である戦争写真は、とにかく動物的な感覚でもってどんどん撮って行かないとダメなんである。とにかく、戦争写真の世界では「写真のうまさ」ではなく「何を撮ったのか」」だけに意味を持つのであり、その為には多少の「写真的なヘタさ加減・ウマさ加減」は、撮影した対象物でもって写真の価値が決まってしまうという世界なのである。

 例えば、ロバート・キャパと言えば一番有名なのはレフ・トロツキーを捉えた写真とか、スペイン戦争の「崩れ落ちる兵士」とか、著書『ちょっとピンぼけ』の表紙写真で有名なDデイのノルマンディ地方のオマハビーチ(多分これはアメリカ式の呼び方であり、フランスではそう呼ばないのだと思うのだけれども)の写真などであるけれども、そのどれもが写真としてはそんなに洗練された写真ではない。特に『ちょっとピンぼけ』の写真は、さすがに「ピンぼけ」はしていないが完全に手ブレ写真の典型である。

 つまり、戦争写真は写真のうまさ、写真家としてのプロフェッショナル的な問題ではなくて、むしろジャーナリストとかトップ屋的な「ここぞ」という感覚の方が大事だということなのだろう。

 で、結局ロバート・キャパもアーネスト・ヘミングウェイ他の作家や芸術家、女優などのポートレイト写真の方に行ってしまうのだが、こうした写真の場合、キャパは被写体である人物と数日を一緒に過ごし、被写体である人たちがフォトグラファーを意識しない状態になるまで待ったそうだ。まあ、確かにそれが「普通の状態」を撮影できる一番の方法だからね。

 しかし、そんな撮影方法は今のカメラマンには要求されないだろう。「取り敢えず、行って、撮ってこい」なんてデスクに言われて撮影に行くのが現代の「カメラマン対雑誌編集部」の力関係だ。「被写体と数日間を過ごしてもいいですよ」なんて、よっぽどの大御所の写真家しか許されない、破格の待遇である。

 だとしたら、時代はロバート・キャパの時代よりはずっと厳しい時代になっているわけで、そんな時代の写真家がキャパの自伝なんか読んでもあまり意味はないのかもしれない。

 で、ロバート・キャパが「うまい」写真家だったのかという最初のテーマに対する答え。

「ヘタ」が正解。

 つまり、所詮キャパは戦争写真家なのである。写真家としては決してうまくはない。だって、ヘミングウェイだって、ジョン・スタインベックだって、トルーマン・カポーティだって、パブロ・ピカソだって、アンリ・マティスだって、そしてイングリット・バーグマンだって、皆じっくり付き合った結果の写真なのである。今日、ピカソのところに行って来い、と言われて撮った写真ではないのである。そんな風に、何日も被写体の人たちと時間を過ごせれば、まあ、そんな写真は撮れますよね。

 ということで、キャパは写真がヘタということになったわけだけれども、別にそれでキャパの写真家の立場を貶めるつもりはない。まあ、やっぱり写真が力を持った時代、『ライフ』が一番輝いていた時代の象徴的な人物だし、それなりに「スゴイ」のは事実。

 ただし、ポイントはそこまで。別にそれ以上に神格化しなくてもいいんじゃないの、というのが私の考え方なんだけれども。

 

2011年7月 1日 (金)

『マルクスの逆襲』というだけじゃない、もっと大きいのはマルクス世代の勝ち逃げじゃないかよ

 三田誠広は文学者である。でも、早稲田闘争のさなかに大学に行った学生らしく、マルクスの「経済学」について語る。「哲学」についても少しだけ語るが、大半は「経済学」について語るのだ。何故、「哲学」じゃなくて「経済学」なの? それが重要。

『マルクスの逆襲』(三田誠広著/集英社新書/2009年刊)

 ということであるが、まあそれはいい。要は『戦後日本の経済成長は、まさに社会主義と同様の統制経済によって成立していたことが見えてくるだろう。実は、日本はマルクス主義国家だったのだ。だから、マルクスの予言のように、欧米の資本主義国家を追い越すような高度経済成長が実現した。マルクスがまちがっていなかったことのまぎれもない証拠が、日本の経済成長だということもできる』というように、結局、日本の戦前の官僚主導による統制経済が、戦後になって財閥解体とともにいっそう厳しくなり、それこそ「護送船団方式」と言われるような、一般の銀行も政府の顔色を伺いながら日々の業務をおこなうような政府の(つまり官僚の)統制による経済がずっと行われてきたのである。ただし、それが奏功したのは1960年代までであり、それ以降はもはやマルクス経済学では国家の経済を行えなくなってしまっている。

 で、結局『わたしはここまで、日本の高度経済成長のプロセスを語ってきた。その青春時代に、日本の政治経済を根底から否定する、マルクス主義というものに洗脳された若者たちが、過激な闘争に踏み込んでいく姿を見てきたが、実は奇跡的な経済成長を果たした日本は、マルクス主義の国家だったのだ。官僚主導の計画経済は社会主義そのものだし、日本の企業は「村」として機能するコミュニティーだった。つまりコミュニズム(共産主義)の一つの実例が出現していたと見るべきなのだ』と言うが、実はそんな「マルクス経済学」を実施していた官僚自身が「マルクス経済学」について、まったく知識を持っていなかったということなのだ。まあ、幸せな時代ですよね。

 基本的に、官僚はだいたい法学部出身である。一部、経済学部出身もいるかもしれないが、多分その殆どはケインズ経済学を学んだ人だろう。最近はまずマルクス経済学なんて学んでいるひとはいなくて、殆どケインズ経済学である。勿論、ケインズ経済学はその学説の一部にはマルクス経済学を取り込んでいるのだけれども、基本的には資本主義経済をいかに長びかせようかという思想の経済学である。したがって、戦後の高度経済成長を支えた基本的な思想はマルクス主義も一つはあるのかもしれないが、もう一つはケインズ経済学だろう。ケインズ経済学も基本的には「統制型経済」の方の考え方であり、アダム・スミス流の「自由経済」ではない。

 で、問題は現代のマルクス経済学ではまったくない「自由主義・勝手主義・勝ちゃあいいだろう主義」的な「グローバリズム経済主義=勝ち組経済主義」というとんでもない経済主義がはびこっている世界では、ケインス流の修正主本主義的な主張はすでに顧みられることもなくなってしまい、もはや世界の「自由資本主義」の流れを誰も止まられないという問題なのだ。

 当然、こんな経済を送っていればどこかでそれに対するバックラッシュが起きるわけで、それを三田氏は『マルクスの逆襲が、これから始まるのだ』と、本書では結論づけるのだが、この言葉が『万国の労働者、団結せよ!』といった『共産党宣言』のように、力を持つ言葉になるのかどうかはわからない。

 しかし、最後に三田氏のこの言葉だけはちゃんと身にしみて感じてほしい;

『かつて全共闘世代と呼ばれた人々は、そろそろ定年を迎えようとしている。最初から大企業に入るのを拒んで一生フリーターで生きた人や、途中でリストラされた人もいるだろうが、企業の戦士として定年まで勤め上げれば、退職金を手にすることになる。その預貯金がファンドに投入されると、それが穀物の高騰につながり、自分で自分の首を絞めることになる。

 グローバリゼーションという、一見進歩的な感じの言葉に踊らされて、日本は構造改革、規制緩和を推し進めてきた。それは自由競争の場を全世界に拡げられることになるのだが、すでに指摘したように、「自由」というのは、資本家が最も安価な労働力を利用できる自由を意味している。それでも、イギリスのジェントリーのような良識ある資本家がいればいいのだが、「無国籍資本」は顔の見えない資本であり、いささかの良識もないモンスターである。』

 ということで、「団塊の世代」といわれている人たちに最後っ屁。とにかく、あなたたちは哲学思想(結構、いい加減だけれどもね)に関しても、経済思想(そんなの知ってたの? レベルだけどさ)についても、殆ど知識はないでしょ。

 ひとつには、あなたがた団塊の世代が自分勝手にやってきたマルクス主義運動が、実はこの社会に対して何の効力もなかったということ。つまり、それは「名目はマルクス主義」だっかもしれないが、実態としては「所詮は単なる学生の不満運動」にすぎなかったということ。

 もうひとつは、あなたがた団塊の世代にとって「マルクス主義」とか「実存主義」なんてものは、単なる「知識」に過ぎないものでしかなく、体に身についた思想でも何でもなくて、だから簡単に捨ててしまい、平気で資本主義の最前線で仕事をすることができたんですよね。

 最後は、マルクス主義なんてものは、団塊の世代にとって、初めから自ら信じていたものでもなんでもなくて、多分、その時期は「俺はマルクス主義」っていうのがカッコいいから、言ってみただけよ、てなもんでしょう。

 そんな、底の浅いマルクス主義者がやたら多かった1960年代ではあります。

 そんな連中が、ここ最近、皆定年退職するわけです。

 それが、こわいね。だって、こいつら絶対に「社会貢献」なんてことは、三田先生の思惑とは別に、絶対しない連中なのだ。要は、結局それで日本が潰れればいいという発想なのだ。

 ええっ、自分たちだけ「勝ち逃げ」ってことですか?

 そうなんです。

 

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PEN PEN チョートクカメラ日記

自転車フォトグラファー 砂田弓弦

シュクレはお留守番

アローカメラ&我楽多屋

まだ東京で消耗してるの?