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« 『フーコー』を読んでもフーコーの哲学はわかりません | トップページ | 『文は一行目から書かなくていい』というのは、いかにもネット世代に受けようというタイトルだけれどもね »

2011年6月 8日 (水)

池波正太郎氏の『一升枡の度量』には今でも通じる示唆が一杯ある

 腰巻に書かれている惹句は『埋もれていたエッセイを再発掘! よみがえる江戸の男の粋』というものであるが、本書の中で池波氏自身が『私どもでも「江戸っ子」と言ってよいのは祖父母のあたりまでで、私の代になってしまうと、そのようによばれることが面映ゆくてなたぬ。~しかし~「東京人」~とよばれることは、少しも嫌ではない。そのとおりだからだ。』と書くように、そこには「江戸の男の粋」ではなくて、「大正・昭和の男の粋」が書かれているのだ。

『一升枡の度量』(池波正太郎著/幻戯書房/2011年5月3日刊)

 大正12年1月25日に生まれ、平成2年5月3日に亡くなった池波氏は大正12年に起きた関東大震災は小さすぎて記憶にないだろうし、平成23年の東日本大震災は当然経験していない。

 その池波氏がどういうことを書いているかと言えば、『明治以来、日本人の〔収支〕における感覚は鈍くなる一方だ。~この〔日本〕という小さな島国を一升マスにたとえてみようか。~それは実に、一升しか入らぬ小さな国土なのである。~戦後、その小さなマスへ、一斗も二斗もある宏大な国に生まれた機械文明を取り入れてしまい、国土も国民の生活も、これに捲き込まれて、どうしようもなくなってしまったのだ。~戦後の西洋文明というものは、ヨーロッパのものが主体で、アメリカもこれにならっていた。フランス・イギリス・ドイツなど、小さな国土に生まれた伝統ある文明ゆえ、同じ小さな日本にも、うまく似合っていたのである。~ところが、戦後のアメリカには、戦争による科学と機械の発達が、そのまま平和時代の文明として大きくひろがり、日本のみか、ヨーロッパも、「便利・・・・・・」の一点を買い、その新奇なメカニズムに酔い痴れてしまった。~それが、よい悪いという段階は、もはや通りすぎてしまったといってもよい。』という言い方。

 つまり、これこそは今の状況を概観しているといえるのではないか。要は、ドイツやイギリス、フランスなどのヨーロッパの(国土の)小さな国のやり方だけを見ていればよかったものが、アメリカという大国の方法論を受け容れたがための破綻が、いまきているということなのだろう。規制緩和であり原発政策であるわけなのだろうけれども、もうひとつ言ってしまえばアメリカの基地政策もある。たかだか一升しかはいらないマスにこれだけいっぱいのものを入れてしまえば、いずれかそれが破綻するのは目に見えているわけで、それが東日本大震災をきっかけにいろいろ見えてきた、ということなのだろう。

 もうひとつ、面白いことを池波氏は言っている。『大衆は盲動はしないものである。盲動するのは、いつも権力者なのだ。時勢の必然的な流れというものがあり、国民全体が愚かでない限り、多少の政変があろうと本質的には変革はあり得ない。』という。これは1960年安保について語ったことであるのだが、実はつい最近の大震災のことも忘れて「政局」に走った政治家連中のことを語っているようだ。

 まあ、ことほど左様に日本の政治家連中というものは、世の中の「最大関心事」とは別の「政局」ばかり気にして動くという、江戸末期~明治革命の頃からまったく変わっていないビヘイビュアなのである。

 そんな繰り返しばっかりでも、未だにツブれていない我が国は誰が支えているのかといえば、結局それは「庶民」でしょ、ということになるし、意外と庶民のもつ健全な判断というのもバカにしてはならない、ということになるのだ。じゃあ、政治家の役割ってなんなのか、といえば、そんな庶民の持つ平衡感覚に満ちた判断事を後付けでもよいから実際の政治に生かす、ということなのかもしれない。要は、政治家が領導する政治じゃなくて、庶民の知恵を後付けして実際の政治に反映させる政治、というのが日本の政体なのかもしれない。

 う~ん、だとすると、そのとおりにすれば日本は本当の意味での「民主国家」になれるかもしれない。アメリカなんて、所詮は産軍学共同体によって政治家(大統領)が動かされていて、見た目は大統領の独占政治である。見た目は民主主義ではあるけれども、実際は大統領の独裁政治であるし、その大統領を動かすのは産軍学共同体なわけです。「9.11」後のブッシュ大統領のアルカイダ殲滅宣言なんてまさにファッショ宣言でしょ。

 ドイツのナチスだって党の名前は「国家社会主義ドイツ労働者党」であり、そのナチスがソビエト連邦と敵対したのだって、思想的なものではなくて、単なる領土拡張主義同士でぶつかっただけなのである。そういう意味では、本当に独裁主義を標榜した最近の例はイタリアのファシスト党かリビアの現政権くらいなものだろう。それ以外は建前上はすべて「民主的」な政治を目指しているのだ。でも、実はアメリカの例にもあるように、そんなことはまったくないんだけれどもね。

 ということで、以外と「庶民」の力が強い我が国である。その辺で、これからの政治を立て直そうという考え方もあっていいのではないか。

 まあ、それはそれとして、そんな時代の変遷は予想していなかっただろうけれども、そんな時代についても予言的に発言してしまうエッセイストとしての池波氏って、スゴいよね。

 さすがに「作家の感性」ってやつ?

 

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