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« 『風に吹かれて』という昔聞いたようなネーミングの本と写真展について | トップページ | 暗殺国家ロシア »

2011年5月 2日 (月)

ホンマタカシ写真展『ニュー・ドキュメンタリー』を観る

 昨日のOGU MAGから比較すると何とも豪華な写真展がホンマタカシの『ニュー・ドキュメンタリー』である。なにしろ東京オペラシティのアートギャラリーで6月26日まで開催中である。っていうか、東京オペラシティにこんなアートギャラリーがあったなんて知らなかった。

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2011_04_30_006_2

EPSON TD1s Summicron 35mm (c)tsunoken

 写真展の構成は「Tokyo and My Daughter」「Widows」「re-construction」「M」「Together: Wildlife Corridors in Los Angeles」「Traials」「Short Hope (ポートレイトとして)」という7部構成。

 まず「Tokyo and My Daughter」というホンマが自分の娘の成長を記したもの・・・と思ってたら、まてよこの写真(下の写真の下右)をどこかで見たことあるぞ、と思って家に帰って探してみれば、ホンマが以前書いた『たのしい写真』という本の106ページに掲載されている。そしてそのキャプションには『「My Daughter」と題され、写真家本人とおぼしき人物が女の子と一緒に写っていれば読者は当然「まあ、可愛い娘さん?」と思うでしょう、何の疑いもなしに。でも、もしその女の子はその写真家の子どもでなかったら? 読者はガッカリするでしょうか。急にその写真がつまらなくなるでしょうか。ウソだとしても変わらず魅力的な写真というのはありえないのでしょうか』と書かれている。

2011_04_30_012_2 ←この写真 (c)Honnma Taksashi

 つまり「Tokyo and My Daughter」というタイトルからして、観る者にそうした「勘違い」を引き起こすことを目的としている。更にその写真群にはいわゆるファンド・フォト(found photo)、つまりホンマが撮影した写真じゃなくて、その少女の家族が撮った写真の複写も混じっているのだという。つまり、「写真」の「真実」はどんどん削がれていって、観る者の先入観や期待はほとんど裏切られる。しかし、そうした写真があることは事実だ。つまり、それが「ニュー・ドキュメンタリー」ということなのだろうか。

 それは「Widows」ではもっと徹底され、そこにあるのはホンマ自身が撮影した写真はひとつもなく、すべてはイタリアのジェノバ近郊の町に暮らす11人の未亡人たちのアルバムからとられた古いスナップ写真の複写なのだ。ということは、しかし、その被写体の女性たちが未亡人であるのかどうなのかすらわかりはしない。つまり、それはホンマが「Widows」というタイトルを付けたから未亡人であると、観る者が勝手に考えているだけなのである。

 そうすると「Together: Wildlife Corridore in Los Angeles」に写し出されている、ロサンゼルス郊外のフリーウェイの道路下に開けられてる、野生動物たちの通り道たるトンネルや、その写真に付けられたキャプションを書いたマイク・ミルズなる人物の存在すらもあやふやになってくる。「Trails」で撮影された知床の原生林の雪の上に残る鹿の血液も、はたしてそれが本物の鹿の血なのか、絵具か何かなのか、何故か添えられているドローイング(油絵による「鹿の血」)によって、却って観る者に混乱をもたらすような仕掛けが沢山なされている。「M」というマクドナルドの写真のシルクスクリーンも、同じ素材が何度も使われており、これもまた混乱の元である。

 最後の「Short Hope」(写真家・中平卓馬は常々「みじかい希望(Short Hope)が自分の生き方だと、煙草はShort Hopeしか吸わずに、おまけにそのShort Hopeの箱にいろいろメモを残している)は、中平卓馬がShort Hopeに火をつけるだけの、ごく短い(20秒位?)映像を、真っ暗な部屋でひたすら繰り返し上映する。この中平卓馬は本物か・・・って、映っている中平卓馬は本物だろうが、しかし、この短い映像の繰り返し、繰り返しによって、一度ごとの映像の意味性は薄まってくる。先ほどの「M」に於ける同じ映像の繰り返しと同じ、繰り返し再生による一回ごとの意味性の薄まりかたであり、次第にそれは嫌悪感になってくる・・・か? まあ、問題は観る者はそこまで何回も見ないということなのだろう。

 ということで、次第に薄まって行く「ドキュメンタリー=真実」意識。しかし、それが今の時代のドキュメンタリーということなのだろう。つまり「ドキュメンタリー≒真実」という意識は、当然我々の中にもある。もはや何が真実であり真実ではないのかということは、我々自身が自分で各々が確かめなければならないということなのだ。それこそ今や当たり前となってしまった「事実≒真実」という考え方。そして、そのことだけが「自分にとっての真実」であり、しかし「世の中における真実であるかどうか」は分からないということ。「自分にとっての真実」が「他人にとっては虚」であるということもあるのだ。そんな時代に我々は生きている。したがって、写真家は取り敢えず「自分にとっての真実あるいは事実」だけを写し出すだけの作業をしなければならない。

 それが「写真家にとっての<ニュー・ドキュメンタリー>なのだ」ということで。その中には「嘘」も含まれているかもしれない世界を「ドキュメント」しなければならないという、つらい作業も含まれているのが、今の写真家がおかれた世界なのだろう。

 まあ、ドキュメンタリー作家(写真家)以外には関係ないかもしれないけれどもね。

 で東京オペラシティのサイトはこちら

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