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2011年5月18日 (水)

『闘牛』というより「牛の角突き」について語りたくなってしまうのだ

『闘牛』(小林照幸著/毎日新聞/2011年3月20日刊)というまさしくそのまんまのタイトルがついた本である。

 まさにそのタイトルが全てを表している、つまり徳之島における闘牛の歴史を「実熊牛」というひとり(?)の牛に託して、その「[闘牛」としての一生を描いた本なのだ。

 徳之島では、当然なのであるが「勝ち」と「負け」をしっかり決める勝負を闘牛で決める。気になるのはその時に「勝ち」「負け」が決まった牛は、その後、戦うことが、というか戦えることができるかどうかということが気にかかるのだ。動物というものは、基本的には一回自分が負けた相手には絶対喧嘩をしかけないものだ。リベンジできるのは人間だけ。ところがこの本では「実熊牛」はちゃんとリベンジしているのだ。そうか、ちゃんと分かっている牛にしてみれば、負けた理由が自分なりに分かっていれば、ちゃんと次回は復讐できることはわかっているのかな。そうういう意味でも「実熊牛」はすごかったんだな、頭も良かったんだなということだけはよくわかる。

 新潟、長岡山古志の「牛の角突き」ではそういった観点からなのか、あるいは別の観点からなのか、牛同士の最終的な勝負には至らないように、その一瞬前で勝負は終わってしまう。要は、山古志や小千谷の闘牛は、「神事」だという理由で牛が血を流したり、牛同士がどちらが勝ちか負けかということもなしで、終わる。まあ、見ていると大体どっちが勝ったのかはわかるし、血も流れますがね。

 というところから見れば、勝ち負けにこだわる徳之島の闘牛に比べてれば迫力はないのかもしれない。でも牛の迫力といったものはそんなにかわらないとおもうのだがなあ。

 ともあれ、実熊氏が自らの牛「坊」に対して注いだ愛情やら、勢子の福富久氏とともにすごした時間は測りきれないであろう。

 ともかく、徳之島に「実熊牛がいた」ということがわかるだけでもいいのだ。いやはや、すごい「横綱であったことだけは間違いはない。

 こうなると、一回は徳之島に行かなければならないなあ。やはり、徳之島の「闘牛」を見なければ山古志に「牛の角突き」も語れないなあ。

 徳之島に行かなければ・・・。

Tougiyu11 実熊牛のモニュメント。実熊家の庭にあるそうだ。なんか、優しい雰囲気の牛である。

 という気分にさせる本ではあったのです。

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