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2011年5月21日 (土)

『原発労働記』は原発だけじゃなくて、日本経済の根本問題なのだ

 もはや今更という感じがないでもないが、しかし、重要なことなので一度読み返してみるのも悪くはないだろう。そこにあるのは、単に原発の問題だけではなく、日本の経済構造「元請けからその下請け、孫請け、ひ孫請け」という順番に仕事が降りてきて、その降りてきた順番に劣悪な作業環境になってきて、なおかつ収入は確実に少なくなっていき、そしてその最底辺の日雇い労働が、結局は一番底辺で日本経済を支えてきているという実情だ。

『原発労働記』(堀江邦夫著/講談社文庫/2011年5月13日刊)

 堀江氏は美浜原発(関西電力)、福島第一原発(東京電力)、敦賀原発(日本原電→中部電力、北陸電力、関西電力に配電)という3か所、3電力会社の原発で仕事をしてきたわけだけれども、おかしいのはその3か所ですべて「被曝量」の測定方法やら、判断基準やら、「被曝労働」につての会社の考え方が違うということなのだ。つまり、そこには国としての厳格な基準があるわけではなく、単に各発電会社が自社基準で持っている方法を国が追認するだけなのだろう。

 ということで考えてみれば、今回の福島第一原発事件の際の東京電力と国(原子力委員会・保安院、政府)の発言も良くわかる。つまり、福島第一原発の事件に際してとにかく国は東京電力の発表を後付けするだけで、国としての独自の判断は全く出てこなかった。東電が「まだ大丈夫だ」と言えば国も「まだ大丈夫だ」といい、東電が「メルトダウンしていない」と言えば国も「メルトダウンしていない」といい、東電が「実は2か月前にメルトダウンしていた」と言えば国も「実は2か月前にメルトダウンしていた」という。「こだまでしょうか」というACのコマーシャルのまんまじゃないか。

 しかして、電力会社が「原発は安全です」と言えば国も「原発は安全です」と言い続ける構造が出来上がってくるのだな。国として独自の安全基準を待たず(持てず?)、単に産業界の言いなりになって安全基準を追認するだけの国なんて、まさに国としての体をなしていないとしか言いようがないだろう。「原発の危険性」というものを世界で一番気にしていなければならない国の行政がこんなもんである。こんな世界最低の国に何故我々は住んでいなければならないのか。たしかに生まれた町に対する愛着はあるし、故郷を思う気持ちは十分にある、しかし、そこを本来守らなければいけない「行政=官僚」は、そんなことは全く考えていないのだ。彼らにとって一番大事なのは、自分の体面だけであろう。つまり、「この国を動かしているのは我々だ」という思い上がりだけなのだ。ところがそんな思い上がりも、いまや国がなくなってしまう危機にある時に何の役に立つのだろう。もう、こんな危険な国からはみんな出て行きたがっている。問題はいろいろの仕事やら、人間関係やら、経済状況の中で出ていけない人たちがいるだけなのだ。そこで勿論、そんな原発で仕事をしなければいけない「臨時労働者」たちは、そんな国から出ていける経済状態でもないし、そとに出て行ってもそこでどうやって仕事を探せばいいのかもわからないから、いやいや原発の被曝労働を受けざるをいねいのだ、という堂々巡り。その堂々巡りの中に、われわれすべての日本在住者がいるという問題。

 堀江氏が書く通り『原発を設計する際、単に稼働中のことだけを考慮し、定検(定期検査:引用者注)などは二の次、三の次、労働者を使えばなんとかなるだろう――と設計者が考えていたとしか、私には思えない。定検を義務づけているのは法律、つまり国だ。その国がこんなズサンな設計の原発を許可していること自体、なんとも理解に苦しむ』という言い方、更に『制御棒を上下させるための装置「CRD(制御棒駆動機構=長さ4.4メートル・直径10センチ・重量200キロ)」は、定検時になると引き抜かれ、分解・除染が行われている。従来、その引き抜き作業は労働者の手によって実施されていたのだが、敦賀原発では、私が同原発で働く前年の78年5月、「CRD遠隔交換装置」を設置することで作業の自動・遠隔化をはじめた。「被ばく低減」がその目的であった。

 が、その効果のほどについては、いささか疑問がのこる。それというのも敦賀原発では、定検がはじまるたびにそれ専用の電源を引き入れているのと同様にして、この交換装置にしてもやはり定検ごとに設置・解体を繰り返している――実際、私のペデスタルでの作業もその設置のためのものであった――のであって、その際に労働者たちは否応なく大量被ばくをしているからである』という、つまり敦賀原発では、もともと定検用には電源が用意されてはおらず、ということは「CRD遠隔交換装置」があっても定期検査の際には、そのたびごとに「CRD遠隔交換装置」を動かすための電源を装設しなければならないということ、つまりそのためには原子炉下部に入り込大量に被曝しながら作業をしなければならないということなのである。つまり、CRDを労働者の手によって引き抜き分解・除染を行っていた時と同じような被曝作業だということなのである。

 つまり、それは所詮日雇いは日雇いにすぎず、どこで野垂れ死にしようが関係ないという、「会社の事情」なのであろう。ということになってしまうと、結局そうした原子炉の近いところで大量に被曝しながら作業を続ける人たちは、地元の青年とかじゃなくて、まさしく堀江氏のような「原発ジプシー」になってしまうのだろうということ。

 地元の青年は確かに原発で働くことによる現金収入も魅力かもしれないが、それ以上に被曝が怖い。そんなに被曝した青年とは結婚したくないと思う女性は多いだろう。そんな被曝した男の精子は受けたくないはずだし、多少見てくれがいいとしても、結局自分たちの新婚生活に放射線はいらないはずだ。

 ということで、結局原発労働をするのは「原発ジプシー」たる「放浪する若い者(でも30代くらい?)」と地元の農漁民でもう子ども作りは終わった50代・60代の男ばっかりになるのだ。で、そんな人たちの労働力に頼っている原発であっては、まあ、まともには動かないだろう。で、中心労働はせいぜい下請け・孫請け位の会社の従業員が動くのである。でも、その人たちは放射線の怖さを良くわかっているから、あまり中心部分にはいかない。

 これは単なる原発労働者の問題ではなく、日本の経済構造に基づく問題であり、しかし、これがそう簡単には解決しない問題でもあるのだ。

 巻末で松岡信夫氏が書くように『私たちの世代がせいぜい何十年かにわたって電力を消費し、近代的な生活をたのしむために、その汚い危険な廃物をそれほど長い間(何万年、何十万年と言われている:引用者注)、後世の子孫たちに残すことが、はたして道徳的に許されるだろうか』という言葉は重いのだが、考えてみればそれは原発問題だけじゃなくて、例えば年金問題だってそうじゃないかよ。

 要は、われわれ世代が後世に残しておくものとして、ひとつは「年金問題」という負の遺産があったわけなのだけれども、そこにもうひとつ「原発問題」が加わったということである。でも、こちらは我が子ども世代どころかその何十世代もあとに禍根を残すわけで、いやはや申し訳ないなんて言って許される問題ではないだろう。

 まあ、少なくともバブルからここ数年の「贅沢ジャブジャブ使いたい放題」を経験した世代はみな懺悔ですな。

 でも、懺悔したからって何も始まらないのだけれども・・・。

 

 

 

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