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2011年5月29日 (日)

『大津波と原発』って安易なタイトルだなあ。でもその安易さがいいんですけどね。

 4月5日にUstreamで行われた鼎談をそのまま本にしたのがこの本なのだが、こうした安易な出版姿勢と言うのはブログを基に本を出す内田氏らしくて大変良い。まあ、こうした本は早いところ出すことに意味があるのであるから、どんどん出して、日本の出版文化を壊してほしいものだ。

『大津波と原発』(内田樹・中沢新一・平川克美著/朝日新聞出版/2011年5月30日刊)

 しかし、内田樹氏と平川克美氏は幼馴染で一緒に『東京ファイティングキッズ』なんて共著もある位なので、組合せとしては分かるのだが、何故中沢新一氏なのだろう。と思っていたら『中沢 そうなんです。原子力は一神教的技術なんです』ときた。『第一次革命:火の獲得と利用。~第二次革命:農業と牧畜が発達して、いわゆる新石器の時代がはじまる。~第三次革命:家の「炉」から冶金の「炉」が発達して、金属がつくられるようになる。~第四次革命:火薬が発明される。~第五次革命:石炭を利用して蒸気機関を動かす技術が確立される。~第六次革命:電気と石油。~第七次革命:原子力とコンピューターの開発。いずれも第二次大戦の刺激によって発達した技術である。コンピューターは電子の量子力学的ふるまいを情報処理に利用した技術だが、この技術がなければ原子力エネルギーのコントロールはほとんど不可能に近い。』(A.ヴァラニャック『エネルギーの征服』蔵持不三也訳、新泉社より要約・・・本書より孫引き)という第七次革命について中沢氏は『第七次エネルギー革命というのは、決定的に今までのものとは構造が異なっていて、生態圏の完全に外にあるエネルギー源を取りだそうとした。原子核の中に操作を加えるということですね。それまで使われてきた化学エネルギーは、外側の電子の部分だけが問題だったんですが、原子核の内部に操作を加えちゃうというのが第七次エネルギー革命の発端になっているわけです。~その第七次エネルギー革命が起こると同時に火力や水力による発電も発展してきますけれども、それをとおして大量消費時代がはじまったわけです。~ぼくはですからね、数十年先に日本史を書く人がですね、「2011年に起こった出来事が、日本においては第七次エネルギー革命にひとつの挫折を生じさせて、そこから別のエネルギーの形態がはじまった」というふうに記述するようにしたいんです。~第七次エネルギー革命のいちばんの問題点は、これが大量生産と大量消費による経済成長をもとめる産業界と結びついて、ひとつの盲目的なイデオロギーを形成してきたというkとなんですね。~それは単一化をすすめるイデオロギーを形成しますが、それはモノティズム(一神教)の思考法の変形版で、単一原理を蔓延させていこうとしています。日本はもともとはモノティズム的な発想は苦手で、いろんなものを寄せ集めてね、神様も仏様も習合しちゃえっていう、この考え方でずっとやってきた民族です。そういう人たちは、ブリコラージュは得意ですけれども、モノティズムは今までにノウハウを蓄積してこなかった。~しかし産業イデオロギーの巨大な渦の中に日本人は巻き込まれ、原発の開発をやみくもに推進してきました。原発の意味も自由競争の意味も棚上げにして、走ってきた。そして、福島の事故にまでたどりついてしまいました。』とする。

 これに対して内田氏は『そうそう、日本人って、これが大好きなんだよ。利害関係を複雑怪奇にするのが。あるプロジェクトの利害関係者が増えれば増えるほど、そのシステムは安定するというのは日本人のある種の経験知何だと思う。それが日本人の「神的なもの」の対処法の基本のかたちをなしているんじゃないかな。「荒ぶる神」の遭遇すると、とりあえずそれを既知のなにかとくっつけて、「神的なもの」と、「ちょっとだけ神的なもの」のアマルガム(合金)をつくるんだよね。神仏習合がそうだけど、外来の強大な神様を受け容れるときに、とりあえずその辺の土着神と混淆させちゃうの。「なんだかわからない、すさまじく恐ろしいもの」と「わりとわけのわかった、それほど恐ろしくないもの」とを混ぜちゃう。~一神教の文明の中には、恐るべきものをどうやって制御するかということについては伝統的なノウハウがしっかり血肉化していると思うんだよ。「鬼神を敬して之を遠ざく」だから。鬼神の扱い方って、それぞれの社会の霊的な文化的特徴と同期するでしょう。日本人は日本人独特のしかたで荒ぶる神を制御しようとするんだけれど、「恐ろしいもの」を「あまり恐ろしくないもの」と見境がつかないように「ぐちゃぐちゃにする」というのが日本的なソリューションだから。』と応える。

 そして最後には「フランスの原発のデザインってやっぱり神殿だよね」「インドの原発はシバの男根の形をしている」それが日本の原発は普通の工場みたいで、神聖さのかけらもない、ということになる。で、結局『まったく別種の一神教の神様を自分の内部に持ち込んでいるにもかかわらず、それをしっかり包囲し、コントロールするシステムを持たないで、神仏習合の考え方でごくナチュラルに、「安全です」「クリーンです」と言って、ナチュラルに包容しちゃったというところが、問題です』ということになるのだ。

 つまり一神教たる原子力エネルギーを、キチンと一神教的な方法でコントロールせずに、なんとなく多神教的なアマルガムのなかで制御しようとしてきたことに問題がある、ということなのだろう。ということは、結局、日本人の思想では原発は制御できない。日本はもともと原発を持っちゃいけないということなのだろうか。この辺は、昨日書いた理系で元々は原発の設計をやっていた大前研一氏との大いなる違いである、文系の発想。

 更に東北復興のイメージを宮沢賢治のイーハトーブの思想に求め、東京はもう終わったという。まあ、確かに東京の果たしてきた日本の牽引車としての役割はもう既に終わったとは言えるだろう。ただし、政治都市と経済都市の分離というようなアメリカ式の国家計画は日本では取り敢えずは難しいだろう。なぜならば日本の場合あまりにも政治が経済に立ち入る隙が多すぎるからだ。もうちょっと国家の経済に対する規制をなくし、経済が勝手に動いていくことを国が奨励すべきなのであるが、ではそういう政体の場合なにが問題かと言えば、要は官僚の数を減らさなければならないということなのだ。官僚の数が多すぎる日本では、結局そんな官僚たちがよせばいいのに自分たちの仕事を作るために、結局は政治による経済の規制を増やさなければならなくなるということなのだ。日本の官僚がもう少し仕事をしたくない連中が多ければいいのだが、残念ながら日本の官僚は結構仕事が好きだし、仕事もできる連中が多いということなのだ。問題はそこなのだよな。

 ということで、日本の復興のためにはまず衆議院、参議員の数を減らし、その後、官僚の数を減らし、その後、政治からの経済に対する規制をやめて、そして東京からの遷都を考えればいいのだ。いずれにせよ、すでに明治元年になって日本の首都に形式上なってから140年あまり、徳川家康が江戸幕府を開いて実質上の日本の首都になってからではすでに400年以上にわたって、東京は日本の政治的な首都であり、経済的な首都であり続けたのである。パリやロンドン、アテネなどもっと長い間首都であり続けた都市はいくらでもあるが、まあ、東京がその役割を終えても文句を言う人はいないだろう。文句を言うのは(もうすぐ死んじゃう)石原慎太郎くらいなもんだ。

 遷都先はどこがいいのかはその時考えればいいのだろう。東北でもいい、仙台案、山形案なんてのもあってもいいし、札幌でもいいじゃないか。博多案なんてのもいいし、それこそ那覇に持っていくなんてドラスティックな発想があってもいい。もはや首都を捨てた東京人が言うべきことではない。一方、天皇は再び京都に戻っていただいて、日本は「天皇のおわしますべき所」「政治的な首都」「経済的な首都(これは相変わらず東京なのだろうな)」という三都体制に持って行ってリスク分散をするのだ。

 いずれにせよ、1000万人も住人がいる街なんてのがおかしいのだ。東京もその結果300万人位の都市になればいい。そうすれば東京ももうちょっとは住みやすい街にになるのだがなあ。

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